第58話 十二時過ぎの二万円
六月二十六日の夜。
美月と別れた後、昌志は駅前の道を一人で歩いていた。
日はまだ完全には沈んでいない。
けれど、空の色は少しずつ暗くなり始めている。
人通りは多い。
学校帰りの生徒。
買い物帰りの人。
駅へ向かう会社員。
その中を歩きながら、昌志はさっきの会話を思い返していた。
美月は、兄について気にしていた。圭佑が最近、少し楽しそうにしていること。スマホを見て、嬉しそうにしていること。
瑞美と連絡を取っているらしいこと。そして、その瑞美がどんな人なのか分からないこと。
美月にとっては、それが不安だったということ。
兄が変なことをしていると思ったわけではない。ただ、知らない相手と兄が関わっている。
しかも、兄はあまり話してくれない。
それが少し気になっていたのだろう。
昌志は、瑞美はいい人だと言った。真面目で、几帳面で、軽い気持ちで誰かと関わるような人ではないと話した。
それは嘘ではない。
昌志が知っている瑞美は、そういう人間に見えた。
美月は安心した。
少なくとも、そう見えた。
黒い本に書かれていた通りだ。
会えば、美月は少し安心する。
その文章の意味は、たぶんこれだった。
けれど、昌志の中には別のものも残っている。
圭佑。
瑞美。
電話番号。
親友は、望んでいたものに少し近づいた。
黒い本の文章が、また頭の中で浮かぶ。
圭佑が近づいたものは、やっぱり瑞美との連絡先だったのかもしれない。昌志が席を外していた間に、瑞美は圭佑に電話番号を渡した。
その後、圭佑は瑞美と連絡を取っている。
美月から見れば、圭佑は少し浮かれている。
そこまでは、つながる。
ただ、それ以上は分からない。
瑞美がどういうつもりで圭佑に電話番号を渡したのか。圭佑が瑞美をどう思っているのか。
本当に付き合っているのか。
それとも、まだそうではないのか。
そこまでは分からない。
分からないし、聞くつもりもなかった。
知らないふりをすると決めた。
圭佑が何を手に入れたのか。
その欠片は拾えた。
美月も少し安心した。
なら、それで十分だ。
そう思うことにした。
* *
家に帰ると、母が台所から顔を出した。
「おかえり。少し遅かったね」
「うん。ちょっと寄り道」
「ご飯、もう少しでできるから」
「分かった」
昌志はそれだけ答えて、二階へ上がり、そのまま自分の部屋に入った。
鞄を机の横に置く。制服のまま椅子に座り、しばらく机の上を見ていた。
黒い本を出すのが、少し怖かった。
でも、見ないわけにはいかない。
美月に会った。
美月は安心した。
圭佑のことも少し分かった。
その結果が、黒い本にどう書かれるのか。
確かめなければならない。
昌志は鞄を開けた。
奥に入れていた黒い本を取り出す。
表紙は、いつも通り黒い。
何も変わっていない。
それなのに、触れるだけで、指先に重さが移るような気がした。
昌志はゆっくりページを開いた。
六月二十六日の文章。
夕方の文章が、変わっていた。
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――六月二十六日、夕方。
駅前のファミレスで、
美月と会った。
美月は、
昌志に会いたいと思っていた。
美月は、
兄について、
少し気になっていることがあった。
兄は最近、
少し楽しそうだった。
誰かと連絡を取っているようだった。
美月は、
その相手がどんな人なのかを、
少し気にしていた。
昌志は、
瑞美のことを話した。
瑞美は、
真面目で、
几帳面な人間だと話した。
軽い気持ちで、
誰かと関わるような人ではないと話した。
聞いたことで、
美月は少し安心した。
昌志は、
親友が近づいたものの正体を、
少しだけ知った。
それでも、
親友には何も聞かなかった。
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昌志は、文章を最後まで読んだ。
間違ってはいない。
美月は、兄について少し気にしていた。
昌志は、瑞美のことを話した。
美月は少し安心した。
そして、昌志は親友が近づいたものの正体を少しだけ知った。
少しだけ。
黒い本は、そう書いている。
完全に知ったとは書いていない。
その言葉が、妙に引っかかった。
やっぱり、まだ何か足りないのかもしれない。
圭佑が瑞美の連絡先を手に入れた。
そこまでは分かった。
でも、なぜ瑞美が渡したのか。
何のために連絡を取っているのか。
そこまでは分からない。
黒い本も、そこまでは書いていない。
昌志は、黒い本の文章をもう一度見た。
それでも、親友には何も聞かなかった。
その一文が、少しだけ重く見えた。
聞かなかった。
聞けなかった。
聞けば、知らないふりができなくなる。
圭佑にも、瑞美にも、美月にも、自分が何かを知っていると悟られるかもしれない。
だから聞かない。
それでいい。
そう思おうとした。
けれど、本当にそれでいいのかは分からなかった。
昌志は黒い本を閉じた。
まだ、次の日の文章は出ていない。
日付が変わるまでは、何も分からない。
それも、もう何度も確かめていることだった。
* * *
夕食の間、昌志はいつも通りに振る舞った。母が今日の学校のことを聞き、司が横からどうでもいいことを挟む。
昌志は短く返事をした。
笑うところでは、少しだけ笑った。
けれど、意識はずっと黒い本の方に残っていた。
六月二十六日は、もう終わりに近づいている。
美月に会った。
美月は安心した。
圭佑のことも少し分かった。
けれど、それで終わるわけではない。十二時を過ぎれば、また次の文章が出る。
次の日の選択肢。
次の日の出来事。
それを見なければならない。
風呂に入っても、気分は落ち着かなかった。部屋に戻ってからも、昌志はすぐには黒い本を開かなかった。
机の上に置いたまま、時計を見る。
午後十一時四十二分。
まだ少し早い。
ベッドに横になっても眠れる気がしない。
スマホを見ても、内容が頭に入ってこない。黒い本の文章が、頭の中で何度も混ざる。
知らないふりをする。
関わらないようにする。
それなのに、黒い本は人の名前を出し、人の気持ちを書き、人と人の間にあるものまで文章にする。
美月は安心した。
それはよかった。
でも、そのために昌志は、また誰かの気持ちを黒い本越しに知った。知りたくなかったものまで、知ってしまう。
時計の針が進む。
午後十一時五十九分。
昌志は椅子に座り直した。
黒い本に手を置く。
日付が変わるまで、あと少し。
部屋の中は静かだった。
家族はもう寝ている。
遠くで車の音がした。
スマホの画面が、午前零時を表示する。
昌志は、それでもすぐには開かなかった。
少しだけ待った。
何度もそうしてきたように。
黒い本の文章は、日付が変わってから浮かぶ。
昌志は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
午前零時を少し過ぎたころ。
黒い本を開いた。
六月二十七日。
新しい文章が、そこに浮かんでいた。
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――六月二十七日、昼。
駅前の売り場で、
スクラッチくじを一枚買う。
削れば、
二万円が当たる。
買わなければ、
そのくじは別の誰かの手に渡る。
――六月二十七日、夕方。
帰り道で、
落とし物の財布を見つける。
届ければ、
持ち主に疑われる。
届けなければ、
財布は戻らない。
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二万円。
昌志は、その数字を見つめた。
前にも、スクラッチくじで一万円が当たったことがある。あの時も、黒い本に書かれていた。
買えば当たる。
そういう文章だった。
今回は二万円。
一万円より多い。
けれど、人生が変わるほどの金額ではない。だからこそ、妙に現実的だった。
大きすぎる幸運ではない。
でも、確かに嬉しい幸運。
そういう金額だった。
もう一つの文章に目を移す。
財布。
落とし物。
届ければ疑われる。
届けなければ財布は戻らない。
昌志は顔をしかめた。
嫌な文章だった。
届ける方が正しい。
けれど、届ければ疑われる。
届けなければ、誰かが困る。
どちらを選んでも、気分の悪さが残る。
黒い本は、こういう書き方をする。
助けること。
届けること。
正しいこと。
その中に、嫌なものを混ぜてくる。
昌志はページを見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
選ぶなら、スクラッチだ。
そう思った。
財布の方は、関われば面倒になる。持ち主に疑われると分かっていて、わざわざ拾いに行く気にはなれない。
ただ、届けなければ財布は戻らない。
その一文が、少しだけ胸に残る。
買わなければ、そのくじは別の誰かの手に渡る。そちらも、同じだった。
昌志が買えば、二万円は昌志のものになる。買わなければ、別の誰かが買う。
もしかしたら、その誰かが二万円を当てるのかもしれない。そう考えると、少し嫌な感じがした。
けれど、そこまで考え始めたら、何も選べなくなる。黒い本に書かれている以上、何かを選べば、何かが動く。
何も選ばなくても、何かが残る。
昌志は黒い本を閉じた。
二万円。
財布。
明日は、どちらかを選ぶことになる。
いや。
もう、ほとんど決めている。
スクラッチを買う。
財布には関わらない。
そう考えてから、昌志は少しだけ自分が嫌になった。困っている誰かより、自分に入る二万円を選ぶ自分が。
ただ、それでも持ち主に疑われると分かっている財布を拾う気にはなれなかった。
火事の中に入ったばかりなのに。
赤ん坊を助けたばかりなのに。
たった一つの財布で、足が止まる。
昌志は椅子にもたれ、天井を見上げた。
黒い本は、今日も変わらない。
助けた後でも。
誰かを安心させた後でも。
次のページには、また選択肢が出る。
良さそうなものと、嫌なもの。
選びやすいものと、選びたくないもの。
その二つが並ぶ。
昌志は目を閉じた。
明日は、スクラッチを買う。
それだけで終わればいい。
そう思った。
けれど、黒い本の中には、財布の文章も残っている。選ばなかったものが、本当に何も起こらないのか。
それとも、どこかで別の形になるのか。
昌志にはまだ分からなかった。




