幕間5 誤解の使い方
美月が帰ってきたのは、夕食の少し前だった。
玄関の音がして、圭佑はリビングから顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
美月は少し嬉しそうだった。
顔を見れば分かる。
さっきまで緊張していたのか、帰ってきた今は少しだけ肩の力が抜けている。圭佑は、その表情を見て、とりあえず安心した。
昌志に泣かされてはいない。
困らされた様子もない。
むしろ、機嫌がいい。
「どうだった?」
圭佑が聞くと、美月は靴をそろえながら顔を上げた。
「楽しかったよ」
「楽しかったのか」
「うん。昌志先輩、思ったよりいろいろ話してくれた」
「へえ」
それは少し意外だった。
最近の昌志は、何かを隠している。
何を聞いても、肝心なところは避ける。
だから、美月と二人で話すと言い出した時も、圭佑は正直かなり気になっていた。
それでも、美月が嬉しそうなら、ひとまず悪い時間ではなかったのだろう。
「何話したんだよ?」
何気なく聞いた。
そのつもりだった。
美月は少し考えてから、指を折るようにして答えた。
「本の話とか、音楽の話とか、好きな食べ物とか」
「お前、面接でもしたのか?」
圭佑は笑いながら話を聞く。
「してないよ。知りたかっただけ」
「昌志、困ってただろ」
「ちょっと困ってたかも」
美月は小さく笑った。
圭佑もつられてまた笑いかけた。
だが、次の言葉で、その笑いは止まった。
「あと、お兄ちゃんの話もした」
「……俺?」
「うん」
圭佑は、嫌な予感がした。
昌志が美月と二人で会いたがった理由。
それは、たぶん美月に何かを聞くためだ。
圭佑もそこまでは予想していた。ただ、何を聞かれたのかまでは分からない。
「何を話したんだ?」
「最近、お兄ちゃんが楽しそうだって話」
「……それで?」
「スマホ見て嬉しそうにしてるし、電話もしてたから、彼女できたのかなって」
圭佑は固まった。
「美月」
「ん?」
「それ、昌志に言ったのか」
「うん」
美月は悪びれずに頷いた。
圭佑は額に手を当てた。
やってしまった。
完全にやってしまった。
「……俺が、電話してたことも?」
「うん」
「誰とって話も?」
「瑞美さんって言ってたって言った」
「……」
圭佑は無言で天井を見た。
まずい。
これはまずい。
昌志は、あの時のことをどこまで知っているのか分からない。
だが、少なくとも、ファミレスで昌志が席を外した後、圭佑と瑞美が話したことは推測できる。
美月がそこに、瑞美の名前を出した。
さらに、圭佑が瑞美と連絡を取っていることまで話した。
そして、彼女ができたのかもしれない、と言った。
昌志がどう受け取ったのか。
考えるだけで、圭佑は頭が痛くなった。
「何でそんなこと言うんだよ?」
少し強い声になった。
美月の表情が変わる。
「だめだった?」
その顔を見て、圭佑はすぐに口を閉じた。
美月は悪くない。
美月は、昌志に聞かれたことを話しただけだ。圭佑が口止めしていなかった。
圭佑が、美月に何も説明していなかった。
それなのに、責めるのは違う。
「……いや。ごめん」
圭佑は息を吐いた。
「俺が強く言ってなかった。俺が悪い」
「お兄ちゃん?」
「いや、いい。美月は悪くない」
「でも、何かまずかった?」
「まずいっていうか……」
圭佑は言葉を探した。
昌志のことを、美月にどこまで話していいのか分からない。瑞美と連絡を取っている本当の理由も言えない。
美月に嘘をつくのは嫌だった。
けれど、全部話すこともできない。
「昌志、何て言ってた?」
「瑞美さんは真面目で、几帳面な人だって」
圭佑の動きが止まった。
「……昌志が?」
「うん。軽い気持ちで誰かと関わるような人じゃないって」
「それで?」
「だから、お兄ちゃんも大丈夫だと思うって。瑞美さんはいい人だって」
圭佑は、もう一度額に手を当てた。
完全に誤解している。
昌志は、圭佑と瑞美の連絡を、そういう方向で受け取った。
美月が心配していたのは、兄の相手がどんな人なのかということ。
昌志はそれに対して、瑞美は真面目で几帳面だから大丈夫だと答えた。
それは、昌志なりに美月を安心させるためだったのだろう。
だが、その時点で昌志の中では、圭佑と瑞美の連絡は恋愛寄りのものとして処理されている。
「お兄ちゃん?」
美月が不安そうに見る。
圭佑は無理に笑った。
「いや。昌志、そんなこと言ってたのか」
「うん。だから、ちょっと安心した」
「そっか」
「瑞美さん、いい人なんだよね?」
「……いい人だと思うよ」
「じゃあ、いいじゃん」
美月は少しだけ首を傾げた。
「お兄ちゃん、何でそんな困った顔してるの?」
「いや」
圭佑は答えられなかった。
いいじゃん。
美月からすれば、そうなのだ。
兄が少し楽しそうにしている。
相手は昌志も知っている真面目な人。
なら、心配しなくていい。
それだけの話だ。
だが圭佑からすれば、そこに昌志の警戒心が絡んでくる。
もし昌志が、圭佑と瑞美が自分のことを話していると気づいたら。
あいつは、きっともっと黙る。
もっと遠ざかる。
知らないふりをしながら、こちらを避ける。
そうなるのだけは避けたい。
「美月」
「何?」
「この話、昌志が俺に言ってたとか、俺が聞いたとか、誰にも言うなよ」
「お兄ちゃんにも?」
「俺はもう聞いてるだろ」
「あ、そっか」
「とにかく、広げるな」
「分かった」
美月は素直に頷いた。
圭佑はもう一度ため息をついた。
口止めが遅い。
遅すぎる。
だが、もう起きたことは戻せない。
なら、どう使うか考えるしかない。
*
夕食後。
圭佑は自分の部屋に戻ると、すぐスマホを手に取った。
画面を開く。
連絡先の中から、瑞美遥の名前を探す。
少し迷った。
こんな時間に電話していいのか。
メッセージにするべきか。
しかし、文章に残すには内容が面倒すぎる。
圭佑は通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音の後、瑞美が出た。
『はい。瑞美です』
「夜にすみません。相沢です」
『相沢さん。どうしましたか』
いつも通り落ち着いた声だった。
それが余計に、圭佑を落ち着かなくさせた。
「まずいことになりました」
『岐阜さんのことですか』
「はい」
瑞美の声が、少しだけ硬くなった。
『何がありましたか』
「美月が、昌志と会いました」
『妹さんが?』
「はい。昌志の方から呼んだみたいで」
『岐阜さんが、妹さんを』
「たぶん、俺のことを聞きたかったんだと思います」
電話の向こうで、瑞美が黙った。
圭佑は続けた。
「それで、美月が話したんです。俺が最近スマホ見て嬉しそうにしてるとか、電話してたとか」
『……電話』
「瑞美さんの名前も出したみたいです」
『私の名前を、ですか』
「はい」
『それは、岐阜さんに』
「はい」
瑞美はしばらく黙っていた。
圭佑はスマホを握り直す。
「しかも、美月は、俺に彼女ができたのかもって感じで話したみたいです」
『……』
「昌志は、瑞美さんは真面目で几帳面だから大丈夫だって、美月を安心させたらしくて」
『岐阜さんが、そう言ったんですか』
「はい」
『……そうですか』
瑞美の声に、少し複雑なものが混ざった。
圭佑は顔をしかめる。
「これ、たぶん誤解されてますよね」
『されていると思います』
「ですよね」
『ただ、その誤解は、悪い方向ではないかもしれません』
圭佑は息を止めた。
「瑞美さんも、そう思いますか」
『岐阜さんが、私たちが岐阜さんのことで連絡を取っていると気づくよりは、ましです』
「ですよね」
圭佑は椅子にもたれた。
自分でも同じことを考えていた。
だが、瑞美の口から聞くと、少しだけ現実味が増す。
「だから、その誤解を利用した方がいいと思います」
圭佑は言った。
言ってから、自分で少し嫌になった。
利用する。
嫌な言葉だ。
でも、それ以外に言い方がなかった。
『……恋愛のふりをする、ということですか』
瑞美の声は冷静だった。
けれど、少しだけ温度が下がった気がした。
「付き合ってるふり、まではしなくていいです」
『同じことです。岐阜さんにそう思わせるなら、嘘です』
「分かってます」
『相沢さん』
「分かってます。でも、このままだと疑われます」
圭佑は言葉を止めなかった。
ここで引けば、たぶん全部崩れる。
「昌志は、俺が瑞美さんと連絡してることを知りました。しかも、瑞美さんが俺に電話番号を渡したことも、たぶん分かってます」
『はい』
「その上で、俺たちが昌志のことで連絡してるって気づいたら、あいつは絶対に閉じます」
『……そうでしょうね』
「だから、別の理由が必要なんです」
『それが、恋愛ですか』
「そうです」
圭佑は、はっきり言った。
「俺と瑞美さんが、そういう感じに見えてるなら、そのままにした方がいい」
『不誠実です』
「はい」
『岐阜さんにも、美月さんにも』
「はい」
『私にも、相沢さんにも』
「はい」
圭佑は全部認めた。
否定できなかった。
瑞美は几帳面で、真面目だ。
こういう曖昧な嘘を嫌がるのは分かっている。
それでも、頼むしかない。
「でも、昌志を守るためには、それが一番ましだと思います」
電話の向こうで、瑞美が小さく息を吐いた。
『……相沢さんは、私でいいんですか』
「え?」
『私は、最初に会った時、相沢さんに少し引いていたと思います』
「そこ、自分で言いますか」
『事実です』
「いや、まあ、はい。加藤さんにも言われましたね」
『加藤さんも言っていました。相沢さんは少し勢いが強いと』
「そこまで言ってました?」
『言っていました』
「ひどいな」
圭佑は苦笑した。
少しだけ空気が緩んだ。
しかし、瑞美の声はまだ真面目だった。
『その私と相沢さんが、急にそういう関係に見えるのは、不自然ではありませんか』
「不自然かもしれません」
『それに、私が積極的に見えるのも困ります』
「分かってます」
『付き合っているとは言いません』
「はい」
『好きだとも言いません』
「はい」
『必要以上に親しげにもなりません』
「はい」
『それでも、岐阜さんがそう受け取っているなら、今は否定しない方がいい。そういうことですね』
「そうです」
圭佑は、少しだけ身を起こした。
「俺が勝手に浮かれてる、くらいでいいです。瑞美さんは、迷惑ではないけど、まだ慎重に見てる。そんな感じで」
『ずいぶん都合がいいですね』
「すみません」
『いえ。都合がいい方が、誤解としては自然です』
「瑞美さん、たまに怖いですね」
『相沢さんほどではありません』
「俺、怖いですか」
『勢いがあります』
「それ、褒めてないですよね」
『はい』
圭佑は小さく笑った。
瑞美も、ほんの少しだけ息を緩めたようだった。
だが、次の声はまた真面目だった。
『ただし、条件があります』
「何でも聞きます」
『私は、岐阜さんに嘘をつきません』
「はい」
『聞かれたら、相沢さんと連絡を取っていることは事実だと答えます』
「はい」
『でも、付き合っているとは言いません。好意があるとも言いません』
「分かりました」
『相沢さんがどう見えるかは、相沢さんの責任です』
「俺が浮かれてることにします」
『実際、少し浮かれているのではありませんか』
「え」
『違うんですか』
「……今それ言います?」
『確認です』
圭佑は返事に詰まった。
瑞美と連絡を取れるようになって、少し嬉しかったのは事実だ。
それが昌志のことを心配するための連絡だったとしても。
瑞美が真面目に返してくれることが、少し嬉しかった。
そこを否定すると、たぶん嘘になる。
「少しは、そうかもしれません」
『そうですか』
「でも、昌志のことが先です」
『分かっています』
瑞美の声は、静かだった。
『岐阜さんを警戒させないためなら、今はその誤解を利用します』
「ありがとうございます」
『ただし、長くは続けられません』
「はい」
『どこかで、ちゃんと話す必要があります』
「分かってます」
圭佑は頷いた。
スマホ越しだから、瑞美には見えない。
それでも頷いた。
「でも、今はまだ無理です」
『はい。今は、岐阜さんが閉じないことを優先します』
「はい」
少し沈黙が落ちた。
圭佑は、スマホを握ったまま息を吐いた。
「美月のことは、すみませんでした。俺が口止めしてなかったのが悪いです」
『妹さんは悪くありません』
「はい」
『岐阜さんも、美月さんを安心させようとしただけだと思います』
「そうですね」
『だからこそ、崩さない方がいいです』
「はい」
『相沢さん』
「はい」
『今後は、電話の時間と内容に気をつけてください。妹さんに聞かれる場所で、必要以上に名前を出さないでください』
「はい」
『あと、私に電話する時は、先にメッセージをください』
「すみません」
『今後はお願いします』
「分かりました」
圭佑は苦笑した。
やっぱり几帳面だ。
そして、真面目だ。
昌志が美月にそう言ったのも、分かる気がした。
「瑞美さん」
『はい』
「昌志が、瑞美さんは真面目で几帳面だから大丈夫だって言ったの、俺もちょっと分かります」
『……それは、褒めていますか』
「褒めてます」
『そうですか』
瑞美の声が、少しだけ柔らかくなった。
『では、その評価を壊さないようにします』
「はい」
『相沢さんも、あまり余計なことをしないでください』
「努力します」
『努力ではなく、実行してください』
「はい」
圭佑は素直に返事をした。
電話を切った後、しばらくスマホを見つめる。
恋愛のふり。
誤解の利用。
不誠実なことをしている。
それは分かっている。
けれど、昌志に疑われるよりはいい。
今の昌志は、何かを抱えている。
それを無理にこじ開ければ、きっと逃げる。
だから、今は遠回りするしかない。
圭佑はベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
「……何やってんだろうな、俺」
呟いても、答えはなかった。
ただ一つだけ、分かっていることがある。
昌志には、まだ知られてはいけない。
圭佑と瑞美が、昌志のことを心配してつながっていることを。
そのために、しばらくは誤解を使う。
それが正しいのかどうかは、分からない。
けれど、今はそれしかなかった。




