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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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幕間5 誤解の使い方

 美月が帰ってきたのは、夕食の少し前だった。


 玄関の音がして、圭佑はリビングから顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


 美月は少し嬉しそうだった。


 顔を見れば分かる。


 さっきまで緊張していたのか、帰ってきた今は少しだけ肩の力が抜けている。圭佑は、その表情を見て、とりあえず安心した。


 昌志に泣かされてはいない。


 困らされた様子もない。


 むしろ、機嫌がいい。


「どうだった?」


 圭佑が聞くと、美月は靴をそろえながら顔を上げた。


「楽しかったよ」


「楽しかったのか」


「うん。昌志先輩、思ったよりいろいろ話してくれた」


「へえ」


 それは少し意外だった。


 最近の昌志は、何かを隠している。


 何を聞いても、肝心なところは避ける。


 だから、美月と二人で話すと言い出した時も、圭佑は正直かなり気になっていた。


 それでも、美月が嬉しそうなら、ひとまず悪い時間ではなかったのだろう。


「何話したんだよ?」


 何気なく聞いた。


 そのつもりだった。


 美月は少し考えてから、指を折るようにして答えた。


「本の話とか、音楽の話とか、好きな食べ物とか」


「お前、面接でもしたのか?」


 圭佑は笑いながら話を聞く。


「してないよ。知りたかっただけ」


「昌志、困ってただろ」


「ちょっと困ってたかも」


 美月は小さく笑った。


 圭佑もつられてまた笑いかけた。


 だが、次の言葉で、その笑いは止まった。


「あと、お兄ちゃんの話もした」


「……俺?」


「うん」


 圭佑は、嫌な予感がした。


 昌志が美月と二人で会いたがった理由。


 それは、たぶん美月に何かを聞くためだ。


 圭佑もそこまでは予想していた。ただ、何を聞かれたのかまでは分からない。


「何を話したんだ?」


「最近、お兄ちゃんが楽しそうだって話」


「……それで?」


「スマホ見て嬉しそうにしてるし、電話もしてたから、彼女できたのかなって」


 圭佑は固まった。


「美月」


「ん?」


「それ、昌志に言ったのか」


「うん」


 美月は悪びれずに頷いた。


 圭佑は額に手を当てた。


 やってしまった。


 完全にやってしまった。


「……俺が、電話してたことも?」


「うん」


「誰とって話も?」


「瑞美さんって言ってたって言った」


「……」


 圭佑は無言で天井を見た。


 まずい。


 これはまずい。


 昌志は、あの時のことをどこまで知っているのか分からない。


 だが、少なくとも、ファミレスで昌志が席を外した後、圭佑と瑞美が話したことは推測できる。


 美月がそこに、瑞美の名前を出した。


 さらに、圭佑が瑞美と連絡を取っていることまで話した。


 そして、彼女ができたのかもしれない、と言った。


 昌志がどう受け取ったのか。

 考えるだけで、圭佑は頭が痛くなった。


「何でそんなこと言うんだよ?」


 少し強い声になった。


 美月の表情が変わる。


「だめだった?」


 その顔を見て、圭佑はすぐに口を閉じた。


 美月は悪くない。


 美月は、昌志に聞かれたことを話しただけだ。圭佑が口止めしていなかった。


 圭佑が、美月に何も説明していなかった。


 それなのに、責めるのは違う。


「……いや。ごめん」


 圭佑は息を吐いた。


「俺が強く言ってなかった。俺が悪い」


「お兄ちゃん?」


「いや、いい。美月は悪くない」


「でも、何かまずかった?」


「まずいっていうか……」


 圭佑は言葉を探した。


 昌志のことを、美月にどこまで話していいのか分からない。瑞美と連絡を取っている本当の理由も言えない。


 美月に嘘をつくのは嫌だった。


 けれど、全部話すこともできない。


「昌志、何て言ってた?」


「瑞美さんは真面目で、几帳面な人だって」


 圭佑の動きが止まった。


「……昌志が?」


「うん。軽い気持ちで誰かと関わるような人じゃないって」


「それで?」


「だから、お兄ちゃんも大丈夫だと思うって。瑞美さんはいい人だって」


 圭佑は、もう一度額に手を当てた。


 完全に誤解している。


 昌志は、圭佑と瑞美の連絡を、そういう方向で受け取った。


 美月が心配していたのは、兄の相手がどんな人なのかということ。


 昌志はそれに対して、瑞美は真面目で几帳面だから大丈夫だと答えた。


 それは、昌志なりに美月を安心させるためだったのだろう。


 だが、その時点で昌志の中では、圭佑と瑞美の連絡は恋愛寄りのものとして処理されている。


「お兄ちゃん?」


 美月が不安そうに見る。


 圭佑は無理に笑った。


「いや。昌志、そんなこと言ってたのか」


「うん。だから、ちょっと安心した」


「そっか」


「瑞美さん、いい人なんだよね?」


「……いい人だと思うよ」


「じゃあ、いいじゃん」


 美月は少しだけ首を傾げた。


「お兄ちゃん、何でそんな困った顔してるの?」


「いや」


 圭佑は答えられなかった。


 いいじゃん。


 美月からすれば、そうなのだ。


 兄が少し楽しそうにしている。


 相手は昌志も知っている真面目な人。


 なら、心配しなくていい。


 それだけの話だ。


 だが圭佑からすれば、そこに昌志の警戒心が絡んでくる。


 もし昌志が、圭佑と瑞美が自分のことを話していると気づいたら。


 あいつは、きっともっと黙る。


 もっと遠ざかる。


 知らないふりをしながら、こちらを避ける。


 そうなるのだけは避けたい。


「美月」


「何?」


「この話、昌志が俺に言ってたとか、俺が聞いたとか、誰にも言うなよ」


「お兄ちゃんにも?」


「俺はもう聞いてるだろ」


「あ、そっか」


「とにかく、広げるな」


「分かった」


 美月は素直に頷いた。


 圭佑はもう一度ため息をついた。


 口止めが遅い。


 遅すぎる。


 だが、もう起きたことは戻せない。


 なら、どう使うか考えるしかない。


 *


 夕食後。


 圭佑は自分の部屋に戻ると、すぐスマホを手に取った。


 画面を開く。


 連絡先の中から、瑞美遥の名前を探す。


 少し迷った。


 こんな時間に電話していいのか。


 メッセージにするべきか。


 しかし、文章に残すには内容が面倒すぎる。


 圭佑は通話ボタンを押した。


 数回の呼び出し音の後、瑞美が出た。


『はい。瑞美です』


「夜にすみません。相沢です」


『相沢さん。どうしましたか』


 いつも通り落ち着いた声だった。


 それが余計に、圭佑を落ち着かなくさせた。


「まずいことになりました」


『岐阜さんのことですか』


「はい」


 瑞美の声が、少しだけ硬くなった。


『何がありましたか』


「美月が、昌志と会いました」


『妹さんが?』


「はい。昌志の方から呼んだみたいで」


『岐阜さんが、妹さんを』


「たぶん、俺のことを聞きたかったんだと思います」


 電話の向こうで、瑞美が黙った。


 圭佑は続けた。


「それで、美月が話したんです。俺が最近スマホ見て嬉しそうにしてるとか、電話してたとか」


『……電話』


「瑞美さんの名前も出したみたいです」


『私の名前を、ですか』


「はい」


『それは、岐阜さんに』


「はい」


 瑞美はしばらく黙っていた。


 圭佑はスマホを握り直す。


「しかも、美月は、俺に彼女ができたのかもって感じで話したみたいです」


『……』


「昌志は、瑞美さんは真面目で几帳面だから大丈夫だって、美月を安心させたらしくて」


『岐阜さんが、そう言ったんですか』


「はい」


『……そうですか』


 瑞美の声に、少し複雑なものが混ざった。


 圭佑は顔をしかめる。


「これ、たぶん誤解されてますよね」


『されていると思います』


「ですよね」


『ただ、その誤解は、悪い方向ではないかもしれません』


 圭佑は息を止めた。


「瑞美さんも、そう思いますか」


『岐阜さんが、私たちが岐阜さんのことで連絡を取っていると気づくよりは、ましです』


「ですよね」


 圭佑は椅子にもたれた。


 自分でも同じことを考えていた。


 だが、瑞美の口から聞くと、少しだけ現実味が増す。


「だから、その誤解を利用した方がいいと思います」


 圭佑は言った。


 言ってから、自分で少し嫌になった。


 利用する。


 嫌な言葉だ。


 でも、それ以外に言い方がなかった。


『……恋愛のふりをする、ということですか』


 瑞美の声は冷静だった。


 けれど、少しだけ温度が下がった気がした。


「付き合ってるふり、まではしなくていいです」


『同じことです。岐阜さんにそう思わせるなら、嘘です』


「分かってます」


『相沢さん』


「分かってます。でも、このままだと疑われます」


 圭佑は言葉を止めなかった。


 ここで引けば、たぶん全部崩れる。


「昌志は、俺が瑞美さんと連絡してることを知りました。しかも、瑞美さんが俺に電話番号を渡したことも、たぶん分かってます」


『はい』


「その上で、俺たちが昌志のことで連絡してるって気づいたら、あいつは絶対に閉じます」


『……そうでしょうね』


「だから、別の理由が必要なんです」


『それが、恋愛ですか』


「そうです」


 圭佑は、はっきり言った。


「俺と瑞美さんが、そういう感じに見えてるなら、そのままにした方がいい」


『不誠実です』


「はい」


『岐阜さんにも、美月さんにも』


「はい」


『私にも、相沢さんにも』


「はい」


 圭佑は全部認めた。


 否定できなかった。


 瑞美は几帳面で、真面目だ。


 こういう曖昧な嘘を嫌がるのは分かっている。


 それでも、頼むしかない。


「でも、昌志を守るためには、それが一番ましだと思います」


 電話の向こうで、瑞美が小さく息を吐いた。


『……相沢さんは、私でいいんですか』


「え?」


『私は、最初に会った時、相沢さんに少し引いていたと思います』


「そこ、自分で言いますか」


『事実です』


「いや、まあ、はい。加藤さんにも言われましたね」


『加藤さんも言っていました。相沢さんは少し勢いが強いと』


「そこまで言ってました?」


『言っていました』


「ひどいな」


 圭佑は苦笑した。


 少しだけ空気が緩んだ。


 しかし、瑞美の声はまだ真面目だった。


『その私と相沢さんが、急にそういう関係に見えるのは、不自然ではありませんか』


「不自然かもしれません」


『それに、私が積極的に見えるのも困ります』


「分かってます」


『付き合っているとは言いません』


「はい」


『好きだとも言いません』


「はい」


『必要以上に親しげにもなりません』


「はい」


『それでも、岐阜さんがそう受け取っているなら、今は否定しない方がいい。そういうことですね』


「そうです」


 圭佑は、少しだけ身を起こした。


「俺が勝手に浮かれてる、くらいでいいです。瑞美さんは、迷惑ではないけど、まだ慎重に見てる。そんな感じで」


『ずいぶん都合がいいですね』


「すみません」


『いえ。都合がいい方が、誤解としては自然です』


「瑞美さん、たまに怖いですね」


『相沢さんほどではありません』


「俺、怖いですか」


『勢いがあります』


「それ、褒めてないですよね」


『はい』


 圭佑は小さく笑った。


 瑞美も、ほんの少しだけ息を緩めたようだった。


 だが、次の声はまた真面目だった。


『ただし、条件があります』


「何でも聞きます」


『私は、岐阜さんに嘘をつきません』


「はい」


『聞かれたら、相沢さんと連絡を取っていることは事実だと答えます』


「はい」


『でも、付き合っているとは言いません。好意があるとも言いません』


「分かりました」


『相沢さんがどう見えるかは、相沢さんの責任です』


「俺が浮かれてることにします」


『実際、少し浮かれているのではありませんか』


「え」


『違うんですか』


「……今それ言います?」


『確認です』


 圭佑は返事に詰まった。


 瑞美と連絡を取れるようになって、少し嬉しかったのは事実だ。


 それが昌志のことを心配するための連絡だったとしても。


 瑞美が真面目に返してくれることが、少し嬉しかった。


 そこを否定すると、たぶん嘘になる。


「少しは、そうかもしれません」


『そうですか』


「でも、昌志のことが先です」


『分かっています』


 瑞美の声は、静かだった。


『岐阜さんを警戒させないためなら、今はその誤解を利用します』


「ありがとうございます」


『ただし、長くは続けられません』


「はい」


『どこかで、ちゃんと話す必要があります』


「分かってます」


 圭佑は頷いた。


 スマホ越しだから、瑞美には見えない。


 それでも頷いた。


「でも、今はまだ無理です」


『はい。今は、岐阜さんが閉じないことを優先します』


「はい」


 少し沈黙が落ちた。


 圭佑は、スマホを握ったまま息を吐いた。


「美月のことは、すみませんでした。俺が口止めしてなかったのが悪いです」


『妹さんは悪くありません』


「はい」


『岐阜さんも、美月さんを安心させようとしただけだと思います』


「そうですね」


『だからこそ、崩さない方がいいです』


「はい」


『相沢さん』


「はい」


『今後は、電話の時間と内容に気をつけてください。妹さんに聞かれる場所で、必要以上に名前を出さないでください』


「はい」


『あと、私に電話する時は、先にメッセージをください』


「すみません」


『今後はお願いします』


「分かりました」


 圭佑は苦笑した。


 やっぱり几帳面だ。


 そして、真面目だ。


 昌志が美月にそう言ったのも、分かる気がした。


「瑞美さん」


『はい』


「昌志が、瑞美さんは真面目で几帳面だから大丈夫だって言ったの、俺もちょっと分かります」


『……それは、褒めていますか』


「褒めてます」


『そうですか』


 瑞美の声が、少しだけ柔らかくなった。


『では、その評価を壊さないようにします』


「はい」


『相沢さんも、あまり余計なことをしないでください』


「努力します」


『努力ではなく、実行してください』


「はい」


 圭佑は素直に返事をした。


 電話を切った後、しばらくスマホを見つめる。


 恋愛のふり。


 誤解の利用。


 不誠実なことをしている。


 それは分かっている。


 けれど、昌志に疑われるよりはいい。


 今の昌志は、何かを抱えている。


 それを無理にこじ開ければ、きっと逃げる。


 だから、今は遠回りするしかない。


 圭佑はベッドに倒れ込んだ。


 天井を見上げる。


「……何やってんだろうな、俺」


 呟いても、答えはなかった。


 ただ一つだけ、分かっていることがある。


 昌志には、まだ知られてはいけない。


 圭佑と瑞美が、昌志のことを心配してつながっていることを。


 そのために、しばらくは誤解を使う。


 それが正しいのかどうかは、分からない。


 けれど、今はそれしかなかった。

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