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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第57話 兄について

 六月二十六日の放課後。


 昌志は、いつもより少し早く教室を出た。


 圭佑には何も言わなかった。


 言えば、また何か聞かれる。


 ついてくるなとは言ってある。


 けれど、あまり長く話せば、圭佑はきっと余計なことを考える。だから、何も言わずに出た。


 廊下を歩きながら、昌志は黒い本の文章を思い返す。


 美月は、昌志に会いたいと思っている。


 美月は、兄について、少し気になっていることがある。


 会えば、美月は少し安心する。


 会わなければ、その気持ちは残る。


 兄。


 つまり、圭佑のことだ。


 昌志が知りたいのも、そこだった。


 圭佑が何に近づいたのか。


 圭佑が何を手に入れたのか。


 黒い本は、親友が望んでいたものに少し近づいたと書いた。


 けれど、昌志はまだその意味を知らない。


 いや、完全に分からないわけではない。


 黒い本の文章と、ノートに書き出したことを思い返せば、圭佑が手に入れたものは、たぶん連絡先だ。


 二人のどちらか、瑞美か加藤あいが、圭佑に電話番号を渡した。


 あの時、昌志が席を外していた間に。


 そこまでは、昌志にも分かっている。


 ただ、それがどういう意味を持つのかまでは分からない。


 圭佑が何を望んでいたのか。


 二人のどちらかが、どういうつもりで渡したのか。


 その後、どうなっているのか。


 美月なら何か知っているかもしれない。


 圭佑の妹だから。


 同じ家にいるから。


 圭佑の小さな変化に、昌志より先に気づいているかもしれない。


 駅前のファミレスの前に着くと、美月はもう待っていた。制服姿のまま、店の前で少し落ち着かなさそうに立っている。


 昌志に気づくと、美月の表情がぱっと明るくなった。


「昌志先輩」


「ごめん。待たせた?」


「いえ。私も今来たところですから」


 そう言いながらも、美月は少し前から待っていたように見えた。


 緊張している。

 でも、嫌そうではない。


 むしろ、嬉しそうだった。


 黒い本の文章は、やっぱり間違っていないのかもしれない。美月は、昌志に会いたいと思っていた。


 昌志はそう考えながら、店の中へ入った。


 *    *


 二人は、奥の方の席に案内された。


 前に圭佑や瑞美たちと来た時とは違う席だった。向かい合って座ると、思ったより距離が近く感じる。


 美月はメニューを開いているが、あまり見ていないようだった。


 昌志も同じだった。


 注文を済ませてから、少しだけ沈黙が落ちる。先に口を開いたのは、美月だった。


「あの、今日は呼んでくれて、ありがとうございます」


「いや、急にごめん」


「全然です。嬉しかったです」


 美月は素直に言った。


 昌志は少し困った。


 嬉しい。そう言われると、どう返せばいいのか分からない。


 昌志は黒い本のことを見て来た。美月のことを探るために来た。圭佑のことを知るために来た。


 それなのに、美月は本当に嬉しそうにしている。


「最近、どう?」


 昌志は、まず無難なところから入った。


「どう、ですか?」


「学校とか。家とか」


「普通です」


「そっか」


「でも、最近は少し本を読むようになりました」


「本?」


「はい」


 美月は少し恥ずかしそうに笑った。


「前は、あんまり読まなかったんですけど。お兄ちゃんがたまに読んでる本とか、家にある本とか、少し見てみるようになって」


「圭佑、最近本なんか読んでたっけ?」


「たまにですけど。あと、私が勝手に見てるだけです」


「どんな本?」


「小説とか、ちょっとした雑学の本とか。難しいのはまだ読めないです」


「十分だと思うけど」


「昌志先輩は、何が好きですか?」


 急に聞き返されて、昌志は少し詰まった。


「俺?」


「はい。本とか、映画とか、好きなもの」


「急だな」


「だって、昌志先輩のこと、あまり知らないので」


 美月は真面目な顔で言った。その言葉に、昌志は少しだけ目を逸らした。


 自分は美月から圭佑のことを探るつもりで来た。でも、美月にとっては、昌志と話せる機会なのだろう。


 だから、昌志のことを知ろうとしている。


「本は……たまに読むくらいかな」


「どんな本ですか?」


「小説とか。あと、昔の事件とか不思議な話をまとめた本とか」


「怖い話ですか?」


「怖いっていうより、変な話」


「変な話」


「本当にあったかどうか分からないようなやつ」


「昌志先輩、そういうの好きなんですね」


「好きっていうか、気になるだけ」


 黒い本を持っている人間が言うには、変な言い方だった。


 でも、美月はそこまで深く考えなかったようだった。


「音楽は何か聴きますか?」


「普通に」


「普通って何ですか」


「流行ってるやつとか」


「好きな食べ物は?」


「急に食べ物?」


「知りたいんです」


 美月は少しだけ前のめりになっていた。昌志は、探るつもりで来たのに、逆に色々聞かれていることに気づいた。


 好きな本。


 好きな音楽。


 好きな食べ物。


 休日に何をしているか。


 勉強はどの科目が得意か。


 圭佑とはいつから仲がいいのか。


 どうしてそんなに自然に一緒にいるのか。


 美月は一つ聞くと、そこからまた別のことを聞いてきた。


 質問攻めというほど強くはない。


 でも、止まらない。


 昌志は答えながら、少しずつ本来の目的から離れている気がした。それでも、美月が楽しそうなので、止めにくかった。


「お兄ちゃんって、学校でもあんな感じですか?」


「どんな感じ?」


「明るくて、ちょっと適当で、でも変なところで気を遣う感じ」


「だいたい合ってる」


「やっぱり」


「家でもそうなの?」


「家でもそうです。でも、家だともう少しうるさいです」


「想像できる」


 美月は笑った。


 その笑顔を見て、昌志はようやく圭佑の話に入れそうだと思った。


 自然に。


 あくまで自然に。


 ここで急に探るような聞き方をすれば、美月にも怪しまれる。昌志は水を一口飲んだ。


「そういえば、圭佑、最近何か変わったことない?」


 美月は少し首を傾げた。


「お兄ちゃんですか?」


「うん。家で、いつもと違うこととか」


「違うこと……」


 美月は考え込む。


 昌志は、できるだけ何でもない顔をした。


「何でもいいんだけど。ちょっと明るくなったとか、逆に変に静かだとか」


「明るくなった感じはあります」


 昌志の中で、何かが引っかかった。


「明るく?」


「はい。最近、なんか毎日ちょっと楽しそうなんです」


「毎日?」


「はい。前より機嫌がいいっていうか。何か、うまくいってることがあるみたいな感じです」


「何がうまくいってるか、言ってた?」


「そこまでは言ってないです」


 美月は少し迷ってから、声を落とした。


「でも、もしかしたら、彼女ができたのかなって」


「彼女?」


「はい。たまにスマホ見て、ちょっと嬉しそうにしてる時があるので」


 昌志は、グラスに伸ばしかけた手を止めた。


「誰かと連絡してるってこと?」


「たぶん、ですけど。メッセージはしてると思います」


「メッセージ?」


「はい。あと、一度だけ電話してるのも聞いたことがあります」


「電話」


 昌志の声が、少しだけ低くなった。


 美月は少し考えるように視線を落とした。


「短かったですけど。瑞美さん、って呼んでました」


「瑞美?」


「はい。お兄ちゃんが電話でそう呼んでた人ですよね」


 瑞美。


 その名前が出た瞬間、昌志の中で、黒い本の文章がつながった気がした。


 親友は、望んでいたものに少し近づいた。


 圭佑が望んでいたもの。


 連絡先。


 瑞美が圭佑に電話番号を渡したことは、昌志の中で確定した。あの時、昌志が席を外していた間に、二人の間で何かがあった。


 そして今、圭佑は瑞美と連絡を取っている。


「何を話してたか、聞こえた?」


「少しだけですけど……普通の話だったと思います」


「普通の話?」


「学校のこととか、本のこととか。あと、昌志先輩の名前も少し聞こえた気がします」


「俺の?」


「はい。でも、変な話じゃないと思います」


 美月は慌てたように手を振った。


「お兄ちゃん、昌志先輩の話、家でもたまにするので。仲いいんだなって分かる感じの話です。瑞美さんにも、そういう話をしてるのかなって」


「……そう」


「はい。お兄ちゃん、楽しそうでした」


 美月は少しだけ頬を緩めた。


「だから、余計に思ったんです。瑞美さんって、お兄ちゃんがそういう話をするくらいの人なんだなって」


「そういう話?」


「自分の友達の話とか、学校の話とか。そういうのって、誰にでも話すわけじゃないじゃないですか」


「まあ……そうかもな」


「だから、もしかして瑞美さんと付き合ってるのかなって」


「圭佑が?」


「はい。お兄ちゃん、そういうの全然話してくれないですけど。スマホを見てる時、少し嬉しそうなんです」


「……そうなんだ」


「でも、ちょっと心配で」


「心配?」


 昌志が聞き返すと、美月は少し困ったように笑った。


「変な意味じゃないんです。ただ、瑞美さんのこと、私はよく知らないので」


「瑞美を?」


「はい。名前を聞いたことがあるだけですし。どんな人なのか、私は全然知らないので」


 美月は、グラスの水を見つめた。


「それで、どんな人なのかなって。お兄ちゃんが変な人に引っかかってたら嫌だなとか、そういうのじゃないんですけど」


「それ、言ってることほとんど同じじゃない?」


「ち、違います。心配してるだけです」


 美月は慌てて否定した。


 昌志は少しだけ笑った。


 美月は兄のことを気にしている。


 黒い本の文章は、たぶんこのことだった。


 美月は、兄について、少し気になっていることがある。それは、圭佑が何か危ないことをしているという不安ではない。


 兄が誰かと連絡を取っている。


 その相手が瑞美かもしれない。


 でも、美月は瑞美のことをよく知らない。


 だから、少し気になっている。


 少しだけ不安になっている。


「瑞美は、変な人じゃないよ」


 昌志は言った。


 美月が顔を上げる。


「本当ですか?」


「うん」


「昌志先輩、瑞美さんのこと知ってるんですか?」


「最近、少し話すことがあったから」


「どんな人ですか?」


「真面目な人。あと、几帳面」


「几帳面」


「うん。かなり」


 昌志は、瑞美の顔を思い出した。


 初めて会った時の落ち着いた話し方。


 手帳のこと。


 割り勘にこだわったこと。


 何かを適当に流さず、一つ一つ確認するような態度。軽い気持ちで誰かに近づくような人には見えない。


「適当に人と付き合うタイプじゃないと思う」


「そうなんですか」


「たぶん。ちゃんと考えて動く人だと思う」


「じゃあ、お兄ちゃん、大丈夫ですか?」


「大丈夫だと思う」


 昌志は、できるだけ自然に答えた。


「圭佑も、変な相手に引っかかるほど馬鹿じゃないし」


「それは、そうですけど」


「瑞美はいい人だよ」


 その言葉を聞いて、美月の表情が少し緩んだ。


「昌志先輩がそう言うなら、少し安心しました」


「そんなに心配だったの?」


「少しだけです。お兄ちゃん、私には何も話してくれないので」


「まあ、妹には言いにくいんじゃない?」


「そういうものですか?」


「たぶん」


「お兄ちゃん、照れ屋なんですかね」


「圭佑が?」


「はい」


「どうだろう」


 昌志は、圭佑の顔を思い浮かべた。


 照れ屋というより、都合の悪いことを笑ってごまかす顔が浮かんだ。それはそれで、圭佑らしい。


「少なくとも、嬉しそうなら悪いことじゃないと思う」


「そうですね」


 美月は小さく頷いた。


「瑞美さん、いい人なんですね」


「うん」


「じゃあ、よかったです」


 美月はそう言って、ようやく少し肩の力を抜いたように見えた。


 黒い本の文章が、頭の奥で浮かぶ。


 会えば、美月は少し安心する。


 会わなければ、その気持ちは残る。


 美月は今、少し安心した。


 たぶん、これで黒い本の文章には沿ったことになる。けれど、昌志にとっても収穫はあった。


 圭佑は最近、瑞美と連絡を取っている。


 美月から見れば、圭佑は楽しそうにしている。そして、美月はそれを恋愛の始まりのように見ている。


 黒い本の文章が、頭の奥でまた浮かぶ。


 親友は、望んでいたものに少し近づいた。


 あの時、圭佑は何かを手に入れた。


 それは、やはり瑞美との連絡先だったのだろう。瑞美が圭佑に電話番号を渡した。


 圭佑は、それを使って瑞美と連絡を取っている。


 それなら、つながる。

 昌志が知らないところで起きたこと。


 圭佑が手に入れたもの。


 美月が気にしていたこと。


 全部が、同じ線の上にあるように見えた。


 それ以上は、踏み込まない。


 圭佑が瑞美とどうなっているのか。


 本当に付き合っているのか。


 瑞美がどういうつもりなのか。


 それは、圭佑のことだ。


 本人に聞くつもりはない。


 知らないふりをすると決めた。


 圭佑が何を手に入れたのか。


 その欠片が少し分かった。

 美月も少し安心した。


 なら、今日ここへ来た意味はあった。


「お兄ちゃんには、言わないでくださいね」


 美月が小さな声で言った。


「私が勝手に心配してたって知られたら、たぶんからかわれるので」


「言わないよ」


「本当ですか?」


「うん」


「ありがとうございます」


 美月は、ほっとしたように笑った。


 その笑顔を見て、昌志は少しだけ胸が痛くなった。自分は、美月を安心させるためだけに来たわけではない。


 圭佑のことを探るために来た。


 黒い本の文章を確かめるために来た。


 それでも、美月が安心したのなら。


 少なくとも、それだけは悪いことではない。


 昌志はそう思うことにした。

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