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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第55話 知らないふり

 六月二十六日の朝。


 美月は、電話を切ったあと、しばらくスマホを見つめていた。画面には、司との通話履歴が残っている。


 ほんの数分前まで聞いていた司の声が、まだ耳の奥に残っていた。


 『お兄ちゃんが火事の家に入った。』


 『赤ちゃんを助けた。』


 『何も言わずに帰ってきた。』


 司はそう言っていた。


 震えた声だった。


 作り話をしている声ではなかった。


 それに、美月は朝のニュースを見ていた。


 隣町で火事があったこと。


 赤ん坊が助かったこと。


 高校生くらいの人物が助けたあと、名乗らずに立ち去ったこと。そのニュースを見た時は、ただすごい人がいるのだと思った。


 でも、司の話を聞いたあとでは、違って聞こえる。


 高校生くらいの人物。


 名乗らずに立ち去った人。


 それが、昌志先輩かもしれない。


 いや、司が見たと言った以上、たぶんそうなのだ。


 美月はスマホを握ったまま、部屋を出た。


 階段を下りると、圭佑はリビングにいた。


 テレビはついていない。


 圭佑はテーブルの上にスマホを置いて、何かを考えているようだった。


「お兄ちゃん」


「ん?」


 圭佑が顔を上げる。


 美月は少し迷ってから、口を開いた。


「今朝のニュース、見た?」


「ニュース?」


「隣町の火事の」


「ああ」


 圭佑の表情が少し変わった。


「赤ちゃんが助かったってやつだろ?」


「うん」


 美月は頷いた。


「高校生くらいの人が助けたけど、名乗らずにいなくなったって」


「……それがどうした?」


 圭佑の声が、少しだけ低くなった。


 美月はスマホを握りしめた。


「さっき、司ちゃんから電話があった」


「司ちゃん?」


「昌志先輩の妹さん」


「知ってる」


 圭佑は身を起こした。


「何て?」


 美月は、ゆっくり話した。


 司が昨夜、昌志の後をつけたこと。


 昌志が隣町まで歩いていったこと。


 火事の現場に着いたこと。


 燃えている家の中へ入ったこと。


 赤ん坊を抱えて出てきたこと。


 赤ん坊を渡すと、何も言わずにそのまま帰ったこと。そして今朝、昌志がそのニュースを、母親と一緒に普通に朝ご飯を食べながら見ていたこと。


 美月が話し終えるまで、圭佑は一度も口を挟まなかった。けれど、顔からはどんどん余裕が消えていった。


「……本当に、司ちゃんが見たのか」


「うん」


「見間違いじゃなくて?」


「見間違いじゃないと思う」


 美月は小さく言った。


「司ちゃん、すごく怖がってた。でも、嘘をついてる感じじゃなかった」


「そりゃ、そうだろうな」


 圭佑は低い声で言った。


「そんな嘘、つく意味がない」


「お兄ちゃん」


「美月」


 圭佑は美月を見た。


「この話、昌志にはしたか?」


「してない」


「母さんにも?」


「してない。司ちゃんも、家の人には言ってないと思う」


「よし」


 圭佑は、すぐに立ち上がった。


「お兄ちゃん?」


「ちょっと電話してくる」


「誰に?」


 圭佑は一瞬だけ迷った。


 それから、短く答えた。


「この前言った人」


「この前言った人って……」


「瑞美さん」


 美月は少し目を丸くした。


 圭佑はスマホを手に取る。


「悪い。今はここで話すより、先に確認したいことがある」


「確認?」


「多分、昌志は何か隠してる」


 圭佑ははっきり言った。


「美月の時もそうだった。今回もそうだ。偶然にしては、変すぎる」


「……うん」


「でも、今ここで俺が慌てて昌志に聞いても、たぶんあいつは何も言わない」


 圭佑は、自分に言い聞かせるみたいに続けた。


「だから、先に瑞美さんに話す」


「瑞美さんって、昌志先輩の……」


「友達、だと思う」


 圭佑はそう言ったあと、少しだけ表情を曇らせた。


「少なくとも、あいつが俺に話してないことを、少しは知ってるかもしれない人だ」


 美月は何も言えなかった。


 圭佑はスマホを持って、自分の部屋へ向かった。


 ドアを閉める。部屋の中に入ってから、圭佑は深く息を吐いた。瑞美からもらった番号は、スマホに登録してあった。


 まだ一度もかけていない。


 使うとしても、もっと先だと思っていた。


 けれど、今は迷っている場合ではなかった。


 圭佑は番号を選び、通話ボタンを押した。


 呼び出し音が鳴る。


 一回。


 二回。


 三回。


『はい』


 瑞美の声だった。


 少しだけ緊張したような声に聞こえた。


「急にすみません。相沢です」


『相沢さん』


「今、大丈夫ですか?」


『はい。大丈夫です』


 瑞美はすぐに答えた。


 けれど、声の奥には警戒があった。


 圭佑は無理もないと思った。


 電話番号をもらったばかりの相手から、いきなり電話が来たのだ。


「本当にすみません。必要のない連絡はしないって言ったばかりなのに」


『いえ』


 瑞美は少し間を置いてから言った。


『必要な連絡なんですね』


「たぶん」


 圭佑は短く答えた。


「今朝のニュース、見ましたか?」


『ニュース?』


「隣町の火事です。赤ん坊が助かったっていう」


 電話の向こうが、わずかに静かになった。


『見ました』


 瑞美の声が低くなる。


『高校生くらいの人が助けたというニュースですよね』


「はい」


 圭佑はスマホを握る手に力を入れた。


「驚かないで下さい。実は、その高校生、昌志かもしれません」


 瑞美は、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、圭佑は少し分かってしまった。まったく想像もしていなかった沈黙ではない。


 やはり驚いている。

 けれど、あり得ないとは思っていない。


 そんな沈黙だった。


『……どうして、そう思うんですか?』


「昌志の妹の司ちゃんが見たそうです」


『岐阜さんの妹さんが?』


「はい」


 圭佑は、もう一度説明した。


 司が昌志を追ったこと。


 火事の現場で、昌志が燃えている家に入ったところを見たこと。


 赤ん坊を助けたこと。


 何も言わずに帰ったこと。


 今朝のニュースを、本人が普通に聞いていたこと。


 話しながら、圭佑自身も胸の奥が冷たくなっていった。


 美月から聞いた時よりも、自分の口で説明する方が、ずっと現実味があった。


『……そうですか』


 瑞美の声は、小さかった。


「瑞美さん」


『はい』


「俺は、昌志を責めたいわけじゃありません」


 圭佑はまず、それを言った。


「美月の時もそうです。今回も、もし本当に昌志なら、あいつは人を助けたんです。悪いことをしたわけじゃない、それどころか、褒められるべきことをしたんです」


『はい』


「でも、おかしいんです」


 声が少し強くなった。


「人助けをするにしても、あまりにもおかしい。普通、火事の家に飛び込みません。赤ん坊のいる場所を知ってるみたいに動くのも変です。助けたあと、名乗らずに逃げるように帰るのも変です」


 圭佑は息を吸った。


「それに、美月の時もそうだった。あいつは、どうしてあの場所にいたのか、ちゃんと言わなかった。たまたまだって言った。でも、今回もたまたまなら、さすがにおかしすぎる」


『……私も』


 瑞美が言った。


『岐阜さんは、何かを隠していると思います』


 圭佑は目を閉じた。


 やっぱり。


 そう思った。


『でも、まだ話してくれません』


「瑞美さんにも?」


『はい』


「前に、そのうち話すって言ったんですよね」


『言いました』


 瑞美の声が少しだけ揺れた。


『岐阜さんは、いつか話すと言いました。だから、私は待つつもりでした』


「待つ……」


『はい』


 圭佑は、壁にもたれた。


 昌志なら、そう言うかもしれない。


 そのうち話す。


 今は話せない。


 大丈夫。


 そんな言葉で、全部を先延ばしにする。


「でも、待ってる間に、あいつが死んだら意味ないんです」


 圭佑の声は、自分でも思ったより硬かった。


 電話の向こうで、瑞美が息をのむ気配がした。


「すみません。言い方が悪かったです」


『いえ』


「でも、本当にそう思ってます」


 圭佑は続けた。


「美月を助けた時も命がけでした。今回も、完全に命がけです。あいつは悪いことをしてない。だから責められない。でも、このまま放っておいたら、いつか取り返しがつかないことになる気がする」


『……私も、そう思います』


 瑞美の声は、静かだった。


 でも、はっきりしていた。


「だから、お願いします」


 圭佑はスマホを握った。


「何か分かったら、俺にも教えてください。俺も、分かったことがあれば連絡します」


『はい』


「ただ、昌志本人には言わない方がいいと思います」


『私も、そう思います』


 瑞美はすぐに答えた。


『今、問い詰めても、岐阜さんはたぶん話してくれません。むしろ、もっと一人で抱え込むと思います』


「ですよね」


『はい』


「だから、今は知らないふりをします」


 圭佑は言った。


「美月と司ちゃんには、今は騒がないように言います。昌志にいきなり聞かないように」


『お願いします』


「瑞美さんも、無理に聞き出そうとしないでください」


『分かっています』


 瑞美は少しだけ間を置いた。


『でも、私は、岐阜さんが話すと言ったことを信じたいです』


「……はい」


『それまでに、何が起きているのかを、少しでも知っておきたいです』


 圭佑は、その言葉に少しだけ救われた気がした。


 自分だけが焦っているわけではない。


 瑞美も同じ方向を見ている。


 昌志を責めたいわけではない。


 助けたい。

 その一点だけは、同じだった。


「伝えてくれてありがとうございます」


 瑞美が言った。


「いえ。こっちこそ、急にすみませんでした」


『いいえ。これは、必要な連絡だったと思います』


 その言い方が瑞美らしくて、圭佑は少しだけ息を吐いた。


「また何かあったら連絡します」


『私も、何か分かったら連絡します』


「お願いします」


『はい』


 電話が切れた。


 圭佑はしばらく、スマホを握ったまま動かなかった。思ったより、手に汗をかいていた。


 ベッドに腰を下ろす。


 天井を見上げる。


 昌志。


 お前は何をやってる。


 何を隠してる。


 何に追い詰められてる。


 圭佑は歯を食いしばった。


 美月を助けてくれた。


 赤ん坊も助けた。


 それは間違いなく、人助けだ。


 だからこそ、余計に分からない。


 どうして、そんなことを一人でやっているのか。


 どうして、誰にも言わずに火の中へ入れるのか。


 どうして、助けたあとに逃げるのか。


 部屋のドアがノックされた。


「お兄ちゃん」


 美月の声だった。


「入っていい?」


「ああ」


 ドアが開き、美月が顔を出した。


 少し不安そうな顔をしている。


「誰に電話してたの?」


 圭佑は一瞬だけ迷った。


 けれど、隠しすぎても美月は納得しないだろうと思った。


「瑞美さん」


「昌志先輩の知り合いの?」


「ああ」


 美月は不安そうに眉を寄せた。


「その人は、昌志先輩のことよく知ってるの?」


「少しな」


「じゃあ、これからもたまに連絡するの?」


「必要があれば」


 圭佑は短く答えた。


 それ以上を話すつもりはなかった。


「美月」


「うん」


「司ちゃんにも、今は騒がないように言っておいてくれ。昌志にいきなり聞かないようにって」


「うん」


「分かってる」


 美月は小さく頷いた。


 それでも、すぐには部屋を出なかった。


「昌志先輩、大丈夫かな」


 圭佑は、少しだけ黙った。


 大丈夫だとは言えなかった。


 けれど、ここで不安をそのまま返すわけにもいかなかった。


「大丈夫にする」


 短く、そう答えた。


 美月は圭佑を見た。


 それから、小さく頷いた。


「……うん」


 そう言って、美月は部屋を出ていった。


 ドアが閉まる。


 圭佑は一人になった部屋で、スマホを見た。


 瑞美の番号が残っている。


 司の話。


 美月の不安。


 瑞美の沈黙。


 その全部が、昌志の隠している何かへ向かっている気がした。


 まだ答えは見えない。


 でも、何も知らない頃には戻れない。


 圭佑はスマホを机に置いた。


 そして、小さく呟いた。


「知らないふりはしてやる」


 それは、昌志を逃がすためではない。


 追い詰めないためだった。


「でも、見てないふりまではしねえからな」


 圭佑は、閉じたドアの向こうを見た。


 その向こうに昌志がいるわけではない。それでも、親友に向けて言うように、低く続けた。


「待ってろよ、昌志」


 誰にも聞こえない声だった。


 けれど、その声には、はっきりと決意がこもっていた。

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