表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/120

幕間4 ニュースの中の兄

 次の朝、司はいつもより早く目が覚めた。


 ほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたびに、昨夜の光景が戻ってきた。


 燃えている家。


 黒い煙。


 人の叫び声。


 赤ん坊の泣き声。


 そして、火の中から赤ん坊を抱えて出てきた兄の姿。


 何度思い返しても、夢ではない。


 司は、自分の目で見た。


 昌志が夜、家を出た。


 司はそれを追いかけた。


 隣町の古い住宅街で火事が起きていた。


 昌志は、迷わず燃えている家の中へ入った。


 赤ん坊を抱えて出てきた。


 泣いていた女の人の近くに赤ん坊を渡した。


 それから、名前も言わず、礼も聞かず、そのまま走って帰った。


 全部、見た。見たはずなのに、朝になると、やっぱり現実感が薄くなっていた。


 司は布団の中で、スマホを握った。


 美月さんに電話しようか、何度も迷った。


 でも、こんな話をどう説明すればいいのか分からない。


 お兄ちゃんが火事の家に入った。


 赤ちゃんを助けた。


 何も言わずに帰ってきた。


 そんなことを言って、信じてもらえるだろうか。


 司自身だって、まだ信じきれていない。


 部屋の外から、母の声が聞こえた。


「司、起きてる?」


「起きてるー」


 司は反射的に返事をした。


 声が少しだけ裏返った。


 慌てて起き上がり、着替える。


 鏡を見ると、少し目が赤かった。


 泣いたわけではない。


 ただ、眠れなかっただけだ。


 司は顔を洗い、いつも通りの顔を作ってから、一階へ下りた。


 リビングには、母がいた。


 朝食の準備をしている。


 テレビがついていた。


 いつもの朝の情報番組だった。


 昌志は、もう席についていた。


 何事もなかったように、朝ご飯を食べている。


 昨日、燃えている家に入った人とは思えないくらい普通だった。


 髪もいつも通り。


 顔も洗っている。


 咳き込んでもいない。


 服に煤がついているわけでもない。


 ただの、いつもの兄だった。


 その普通さが、司には怖かった。


「司、ぼーっとしてるわよ」


 母に言われ、司は慌てて椅子に座った。


「うん。ちょっと眠いだけ」


「夜更かししたの?」


「してない」


「本当?」


「本当」


 嘘だった。

 でも、今はそれどころではなかった。


 母が味噌汁を置く。


 昌志はそれを受け取って、普通に箸を動かしていた。


 何も変わらない朝。


 いつも通りの朝。


 そのはずなのに、司の目には、全部が変に見えた。テレビの画面が切り替わった。


 司は何気ないふりをしながら、画面を見る。


 アナウンサーが、少し硬い声で原稿を読んでいた。


『昨夜、隣町三丁目の住宅街で火事がありました』


 司の手が止まった。


 箸を持つ指に、力が入る。


 画面には、昨夜見た住宅街が映っていた。


 昼の映像になっている。


 燃えた家は黒く焼け、周囲には規制線が張られていた。


 消防車の映像。


 焦げた窓枠。


 見覚えのある道。


 全部が、昨夜の続きだった。


『この火事による死傷者はいませんでした』


 司は、少しだけ息を吐いた。


 赤ちゃんは助かった。


 ちゃんと助かった。


 それは分かっていたはずなのに、ニュースで聞くと、少しだけ胸の奥が緩んだ。


『消防によりますと、出火当時、家の中には乳児が取り残されていましたが、現場にいた高校生くらいの人物が救助したということです』


 高校生くらいの人物。


 その言葉が、テレビから流れた。


 母が驚いたように言った。


「ええ、すごいわね」


 昌志はテレビを見ていた。


 でも、顔はほとんど変わらなかった。


 ただ、朝のニュースを見ている。


 それだけだった。


『救助した人物は、赤ちゃんを近くにいた人へ引き渡したあと、名乗らずにその場を立ち去ったということです』


 司は、昌志を見た。


 昌志は、そのニュースを聞いていた。


 昨日、自分が火の中へ入ったのに。


 赤ちゃんを抱えて出てきたのに。


 名乗らずに立ち去ったのに。


 そのニュースを、まるで自分とは関係ない話みたいに聞いている。


『警察と消防は、放火の疑いもあるとみて、出火原因を調べています』


「放火って……怖いわね」


 母が眉を寄せた。


「でも、赤ちゃん助かってよかったわね」


「……そうだね」


 昌志が言った。


 普通の声だった。


 本当に、ただ普通の声だった。


 それから、味噌汁を飲んだ。


 司は、その動きを見て、背中が冷たくなった。


 そうだね。


 それだけ。


 昨日、自分がしたことなのに。


 死んでいてもおかしくなかったことなのに。母に知られたら、絶対にただでは済まないことなのに。


 昌志は、ただ「そうだね」と言って、普通に朝ご飯を食べている。


 司には、それが信じられなかった。


「司?」


 母に呼ばれて、司ははっとした。


「どうしたの? 顔色悪いわよ」


「え、ううん。大丈夫」


「本当に?」


「眠いだけ」


 また同じ嘘をついた。


 昌志が、ちらりと司を見た。


 司は思わず目をそらした。


 今、目が合ったら何か分かってしまう気がした。


 見ていたことがばれる気がした。


 でも、昌志は何も言わなかった。


 いつも通り、朝食を続ける。


 母はテレビのニュースを見ながら、まだ少し眉を寄せていた。


「その高校生も危ないわよね。助かったからよかったけど、下手したらその子も巻き込まれてたかもしれないのに」


「そうだね」


 昌志はまた、同じように言った。


 司は、テーブルの下で手を握った。


 言いたかった。


 それ、兄ちゃんだよ。


 昨日、兄ちゃんが行ったんだよ。


 兄ちゃんが助けたんだよ。


 でも、言えなかった。


 母に言っても、信じてもらえないと思った。それどころか、司が夜に家を抜け出したことまで知られる。


 何より、昌志がどう反応するのか分からなかった。兄は、知られたくないから名乗らなかったのだ。


 それなのに、司がここで言ってしまっていいのか。司には判断できなかった。


 朝食が終わっても、司は落ち着かなかった。


 昌志はいつも通り学校へ行く準備をしている。


 母もいつも通り片付けをしている。


 テレビのニュースも、次の話題へ移っている。


 世界が普通に戻っていく。


 でも、司の中だけが戻らない。


 あのニュースの中の高校生は、兄だ。


 母も知らない。


 アナウンサーも知らない。


 近所の人たちも知らない。


 でも、司だけは知っている。


 昌志が家を出る少し前、司は階段の影からその背中を見ていた。


 燃える家に入る瞬間を見た。


 赤ん坊を抱えて出てくるところを見た。


 名乗らずに走っていくところを見た。


 全部、見ていた。


 司は学校へ行く準備をしながら、スマホを見た。


 美月の連絡先がある。


 通話ボタンの上で、指が止まる。


 昨日は、言っても信じてもらえないと思った。


 でも、ニュースになった。


 ニュースが、司の見たことを証明している。


 高校生くらいの人物。


 名乗らず立ち去った。


 赤ん坊を助けた。


 全部、同じだ。


 なら、美月は信じてくれるかもしれない。


 美月は、昌志に助けられたことがある。昌志が普通ならしないようなことをするのを、少しだけ知っている。


 司は少し迷ってから、メッセージを打った。


『今日、少し話せますか』


 送信する。


 すぐに既読はつかなかった。


 司はスマホを握ったまま、深く息を吸った。


 その日の放課後、司は美月に電話をかけた。


 学校が終わってから、家に帰る前だった。


 人通りの少ない道の端で、スマホを耳に当てる。


『もしもし、司ちゃん?』


 美月の声が聞こえた。


 いつもの優しい声だった。


 その声を聞いた瞬間、司は少し泣きそうになった。


「美月さん」


『どうしたの? 朝、話したいって来てたけど』


「変な話しても、怒らないですか」


『怒らないよ』


「信じられない話かもしれないです」


『うん』


 美月は、すぐに笑わなかった。


 茶化さなかった。


 それだけで、司は少しだけ話しやすくなった。


「昨日の夜、隣町で火事があったの、知ってますか?」


『知ってる。朝のニュースで見たよ』


 美月の声が少し真面目になる。


『赤ちゃんが助かったってやつだよね。高校生くらいの人が助けたけど、名乗らずにいなくなったって』


「はい」


 司は唾を飲み込んだ。


「それ、お兄ちゃんなんです」


 電話の向こうが、一瞬静かになった。


 司は慌てて続ける。


「見たんです。昨日、お兄ちゃんが夜に家を出て、それを追いかけて……火事の家に入って、赤ちゃんを抱えて出てきて、そのまま走って帰るところを、見たんです」


『……昌志先輩が?』


「はい」


『火事の家に入ったの?』


「はい」


『赤ちゃんを助けたの?』


「はい」


 司の声が震えた。


「でも、何も言わなかったんです。お礼も聞かずに帰って、朝のニュースも、まるで自分のことじゃないみたいに普通に見てて……」


 言葉が止まらなくなる。


「お母さんに言っても、たぶん信じてもらえないし、私が夜に出てたこともばれるし、お兄ちゃんが何を考えてるのか分からないし……美月さんなら、信じてくれるかなって」


 美月は、すぐには答えなかった。


 その沈黙が怖くて、司はスマホを握る手に力を入れた。やっぱり信じてもらえないのかもしれない。


 そう思った時、美月が静かに言った。


『信じるよ』


「え」


『司ちゃんのこと、信じる』


 司は目を見開いた。


『それに、昌志先輩なら……あり得ないって、言い切れない』


「美月さん」


『私も、助けてもらったから』


 美月の声は、小さかった。


『あの時も、昌志先輩は変だった。たまたまだって言ってたけど、たまたまだけじゃない気がした。どうしてあの場所にいたのかも、どうしてあんなタイミングで助けてくれたのかも、ちゃんと分からないままだった』


「じゃあ、やっぱりお兄ちゃん……」


『何か隠してると思う』


 美月ははっきり言った。


『でも、悪いことをしてるんじゃないと思う。司ちゃんの話が本当なら、赤ちゃんを助けたんだよね』


「はい」


『だったら、悪いことじゃない。でも……変だよね』


「変です」


 司はすぐに言った。


「変なんです。兄ちゃん、命が惜しくないみたいで」


『うん』


「火事の中に、普通に入っていったんです。迷わなかったんです。赤ちゃんがいる場所を、知ってるみたいだったんです」


『知ってるみたいだった……』


 美月がその言葉を繰り返した。


 電話の向こうで、少し息をのむ音がした。


『その高校生くらいの人、探してるらしいよ』


「え?」


『赤ちゃんの家の人が、お礼を言いたいって。詳しくは分からないけど、そんな話を聞いた』


「兄ちゃん、絶対に名乗らないと思います」


『うん。たぶん、そうだよね』


 美月は少し黙った。


 それから、静かに言った。


『司ちゃん、その話、お兄ちゃんにしてもいい?』


「美月さんのお兄さんに?」


『うん。私のお兄ちゃん。昌志先輩の親友だから』


 司は少し迷った。


 昌志に知られたくない。


 でも、一人では抱えられない。


 美月が信じてくれたことで、少しだけ安心した。


 けれど、安心した分だけ、怖さもはっきりしてきた。


「……お兄ちゃんには、言わないでください」


『うん。昌志先輩には言わない』


「お母さんにも、まだ言えないです」


『分かった』


「美月さんのお兄さんが、お兄ちゃんに言わないなら」


『言わないように頼む』


 司は深く息を吐いた。


「じゃあ……お願いします」


『うん。ありがとう、司ちゃん。話してくれて』


「……美月さんが信じてくれて、よかったです」


 司は本当にそう思った。


 電話を切ったあと、しばらくその場に立っていた。


 空はまだ明るい。


 昨日の夜の炎が嘘みたいに、普通の夕方だった。


 でも、もう司は前と同じようには昌志を見られない。


 兄は、ニュースの中の高校生だった。


 誰も名前を知らない。


 誰も正体を知らない。


 母も知らない。


 たぶん、学校の人たちも知らない。


 でも、司は知っている。


 美月も、今は知っている。


 そしてこれから、美月のお兄さんも知ることになる。


 それがいいことなのか、悪いことなのかは分からなかった。


 ただ、司はもう、一人で抱えなくてよくなった。


 そのことだけは、少しだけ救いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ