第54話 名前のある文章
六月二十五日の夜。
昌志は机に向かい、鞄の奥から黒い本を取り出した。
指が少し震えていた。
火事の熱が、まだ手のひらに残っている気がする。
煙の匂いも、鼻の奥に残っている。
赤ん坊を抱いた感触も、腕に残っていた。
軽かった。
でも、確かに重さがあった。
生きている重さだった。
昌志は深く息を吐いてから、黒い本を開いた。
六月二十五日の文章。
さっきまで未来として書かれていたはずの文章は、もう変わっていた。
昌志は、そこに浮かんだ文字を読んだ。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月二十五日、夜。
隣町で、
火が上がった。
午後九時十七分。
隣町三丁目の古い住宅街で、
一軒の家が燃えた。
火は、
古い家の奥へ広がっていった。
家の中には、
赤ん坊が取り残されていた。
昌志は、
玄関から入った。
煙の向こうを、
小さなライトで照らしながら、
まっすぐ奥へ進んだ。
突き当たりの部屋で、
泣いている赤ん坊を見つけた。
昌志は、
赤ん坊を抱えて、
来た道を戻った。
赤ん坊は、
外の空気の中で、
近所の人の腕に渡された。
泣き声は、
母親の声に重なった。
その命は、
火の中に残されなかった。
━━━━━━━━━━━━━━
昌志は、そこで一度目を止めた。
何度も読み返す。
赤ん坊は、外の空気の中で、近所の人の腕に渡された。
泣き声は、母親の声に重なった。
その命は、火の中に残されなかった。
黒い本の文章は、いつも通り淡々としていた。
でも、前より少しだけ柔らかい気がした。
赤ん坊は助かった。
そのことが、はっきり書かれている。
昌志は椅子にもたれた。
体から力が抜けていく。
本当に助けられた。
黒い本にも、そう書かれている。
結果は出た。
今回も、出来事が終わったあとに文章が変わった。
昨日の紙もそうだった。
老人の道案内もそうだった。
そして、今日の火事もそうだった。
出来事が終わると、文章は結果になる。
これはもう、かなり確かだと思った。
しかも、今回はいい結果だった。
赤ん坊は助かった。
昌志も、大きな怪我はしていない。
火傷をするかもしれないと思っていた。
煙で倒れるかもしれないと思っていた。
足を滑らせるかもしれないと思っていた。
どこかで誰かに捕まるかもしれないと思っていた。けれど、実際には何もなかった。
少し煙を吸った。
少し熱かった。
服に匂いはついた。
それくらいだ。
それだけで、赤ん坊を助けられた。
それだけで、黒い本の結果も良いものに変わった。
昌志は、机の上に置いた手を見た。
手袋をしていたから、手にも目立つ傷はない。
何もない。
ほとんど何も失っていない。
それなのに、一つの命を助けた。
不謹慎だとは思った。
赤ん坊の命がかかっていた。
家も燃えた。
母親は泣いていた。
近所の人たちも騒いでいた。
それを、自分にとって都合のいい出来事のように考えるのはおかしい。
おかしいと分かっている。
でも、それでも思ってしまった。
これは、自分にとっては特別な選択だった。悪い流れを戻すための、大きな機会だった。
言い方は悪い。
でも、ボーナスみたいなものだったのかもしれない。
美月の時と同じだ。
あの時も、助けた後にいいことが続いた。
今回も、たぶん同じだ。
助ければ、悪いことばかりではなくなる。
助ければ、黒い本は良い方へ向く。
そう考えると、胸の奥に小さな高揚が生まれた。
人助けをすること自体は、別に苦ではない。
助けられるなら助ければいい。
それで誰かが助かって、自分にもいいことが起こるなら、問題はない。
むしろ、そういうものなら分かりやすい。
誰かを助ける。
黒い本の流れが良くなる。
自分にもいいことが起こる。
それなら、怖いだけの本ではない。
使い方さえ間違えなければ、まだ何とかなる。
昌志は、そう思いかけた。
その考えに少しだけ引っかかるものはあった。
でも、今はそれを深く見なかった。
赤ん坊は助かった。
それは事実だ。
黒い本も、そう書いている。
昌志はページを閉じた。
けれど、すぐには眠れなかった。
パーカーを袋に入れ、手を洗い、顔を洗う。何度洗っても、煙の匂いが残っている気がした。
気のせいかもしれない。
それでも気になって、窓を少し開けた。
部屋に夜の空気が入ってくる。
時計を見る。
まだ十一時を少し過ぎたところだった。
眠れる気がしない。
体は疲れている。
でも、頭が妙に冴えていた。
黒い本の結果を確認したことで、安心したはずだった。
なのに、今度は次が気になる。
これで、本当に流れは変わったのか。
明日の文章はどうなっているのか。
美月の時のように、いいことが続くのか。
それを確かめたくなった。
昌志はベッドに横になった。
目を閉じる。
でも、すぐに黒い本のことを考えてしまう。
文字が浮かんでいるかもしれない。
新しい文章が出ているかもしれない。
もし出ているなら、今確認した方がいい。
朝まで待つ必要はない。
昨日の紙も、老人も、終わった後にすぐ変わった。
今日の火事も、終わった後に変わった。
なら、新しい文章も、日付が変わる頃に出るかもしれない。
昌志は何度か寝返りを打った。
結局、眠れなかった。
時計が十二時に近づいた頃、昌志は起き上がった。
机に向かう。
黒い本を開く。
新しいページに、文字が浮かんでいた。
昌志は息をのんだ。
明日の文章だった。
三つある。
普段なら、選択肢は二つ並んでいることが多い。
けれど、良さそうに見えるものは、いつも一つくらいだった。
もう一つは嫌なものだったり、選んでも苦い結果が見えていたりした。
それなのに、今回は違った。
三つある。
そのうち二つが、良さそうなものに見えた。
昌志は、ゆっくり読み進めた。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月二十六日、昼休み。
廊下で、
誰かの悪口を聞く。
止めれば、
余計なことに首を突っ込んだと言われる。
止めなければ、
その言葉は本人の耳に届く。
――六月二十六日、夕方。
美月は、
昌志に会いたいと思っている。
美月は、
兄について、
少し気になっていることがある。
会えば、
美月は少し安心する。
会わなければ、
その気持ちは残る。
――六月二十六日、夜。
昨夜、
赤ん坊を助けられた夫婦は、
名乗らずに去った高校生を探している。
礼の品と、
礼の言葉を、
助けてくれた人に渡したいと思っている。
受け取れば、
夫婦は少し救われる。
受け取らなければ、
夫婦は探し続ける。
━━━━━━━━━━━━━━
昌志は、しばらく動けなかった。
三つ。
明日の文章が三つある。
一つ目は、嫌なものだった。
廊下で誰かの悪口を聞く。
止めれば、余計なことに首を突っ込んだと言われる。止めなければ、その言葉は本人の耳に届く。
いつものように、どちらを選んでも少し苦い。
黒い本らしい文章だと思った。
けれど、二つ目と三つ目は違った。
美月に会う。
助けてもらった礼を言われる。
一つだけ聞きたいことがある。
それは少し面倒そうではある。
けれど、悪いことには見えない。
少なくとも、誰かが傷つくような文章ではない。
三つ目も同じだった。
赤ん坊を助けられた夫婦が、名乗らず去った高校生を探している。
礼の品と、礼の言葉を渡したいと思っている。これも、普通に考えればいいことだ。
礼を言われる。
品をもらう。
感謝される。
悪いことではない。
二つもある。
良さそうな文章が、二つも出ている。
普段は、良さそうなものが一つくらいしかなかった。
なのに、今回は二つある。
昌志の胸が、少しずつ熱くなった。
やっぱりだ。
やっぱり、思った通りだ。
火事の選択は、特別だった。
美月を助けた時と同じように、助けた後にいいことが来た。
しかも、今回は二つもある。
良さそうなものが、二つに増えている。
それなら、黒い本の流れは確かに変わったのではないか。
昨日までの嫌な文章ばかりの流れが、少し戻ったのではないか。
昌志は、思わず小さく笑いそうになった。
不謹慎だ。
そう思う。
火事だった。
赤ん坊がいた。
誰かの家が燃えた。
それを、自分にとってのボーナスみたいに考えるのは、おかしい。
けれど、それでも。
結果だけを見れば、そうだった。
昌志は助けた。
赤ん坊は助かった。
昌志には大きな怪我もなかった。
そして、明日の黒い本には良さそうな文章が二つ出た。
これを偶然だとは思いにくい。
助ければ、いいことが続く。
その考えが、昌志の中でまた少し強くなった。
簡単だったとは言えない。
火は熱かった。
煙も苦しかった。
でも、思っていたほどではなかった。
火傷もしなかった。
大きな怪我もしなかった。
必要なものを準備して、道を確認して、その通りに動いた。
それで赤ん坊は助かった。
そのあと、黒い本には良さそうなものが増えた。
それなら、人助けをすること自体は、そこまで悪いことではない。
誰かが助かって、自分にもいいことが返ってくる。
そういう形なら、むしろ正しい使い方なのかもしれない。
昌志はそう考えた。
ただし、三つ目を受けるつもりはなかった。
夫婦のお礼。
礼の品。
礼の言葉。
それ自体はいいものだ。
でも、受け取れば関わることになる。
名乗ることになる。
あの火事の現場にいた高校生が自分だと認めることになる。
そうなれば、必ず聞かれる。
どうしてあの家にいたのか。
どうして赤ん坊が中にいると分かったのか。
どうして迷わず入れたのか。
どうしてすぐに逃げたのか。
答えられない。
美月の時も面倒だった。
助けたこと自体はよかった。
でも、そのあとに説明できないことが増えた。
圭佑に聞かれた。
美月にも見られた。
瑞美にも何度も変なタイミングを見られている。感謝されることは嫌ではない。
でも、感謝されればされるほど、理由を聞かれる。その理由が言えない。
だから、夫婦のお礼は受け取れない。
受け取るつもりはない。
昌志はそう決めた。
それでも、自分にとっていいことが起きているのは間違いないと思った。
会わなければ、夫婦は探し続ける。
その文章は少し引っかかった。
探し続ける。
それは困る。
でも、名乗る方がもっと困る。
どちらがいいのかは分からない。
ただ、今は受け取れない。
昌志は次に、二つ目の文章をもう一度見た。
美月は、昌志に会いたいと思っている。
その最初の二文字で、昌志はまた止まった。
美月。
黒い本には、そう書かれている。
彼女、ではない。
今までなら、ずっと彼女だった。
それだけでも気になる。
けれど、もう一つ引っかかる言葉があった。
兄について。
兄。
つまり、圭佑のことだ。
昌志は、数日前の文章を思い出した。
親友は、望んでいたものに少し近づいた。
あの時、黒い本はそう書いていた。
親友は圭佑のことだった。
でも、圭佑が何に近づいたのか、昌志はまだ知らない。
美月なら、何か知っているかもしれない。
圭佑が最近少し変わったとか、誰かと連絡を取っているとか、何かを隠しているとか。
そういうことを、何気なく聞けるかもしれない。美月に会うこと自体は、悪いことではなさそうだった。
会えば、美月は少し安心する。
会わなければ、その気持ちは残る。
それなら、会ってもいい。
むしろ、圭佑のことを探れるなら、会う意味はある。
昌志はそう考えた。




