表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
58/120

第54話 名前のある文章

 六月二十五日の夜。


 昌志は机に向かい、鞄の奥から黒い本を取り出した。


 指が少し震えていた。


 火事の熱が、まだ手のひらに残っている気がする。


 煙の匂いも、鼻の奥に残っている。


 赤ん坊を抱いた感触も、腕に残っていた。


 軽かった。


 でも、確かに重さがあった。


 生きている重さだった。


 昌志は深く息を吐いてから、黒い本を開いた。


 六月二十五日の文章。


 さっきまで未来として書かれていたはずの文章は、もう変わっていた。


 昌志は、そこに浮かんだ文字を読んだ。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十五日、夜。


 隣町で、

 火が上がった。


 午後九時十七分。


 隣町三丁目の古い住宅街で、

 一軒の家が燃えた。


 火は、

 古い家の奥へ広がっていった。


 家の中には、

 赤ん坊が取り残されていた。


 昌志は、

 玄関から入った。


 煙の向こうを、

 小さなライトで照らしながら、

 まっすぐ奥へ進んだ。


 突き当たりの部屋で、

 泣いている赤ん坊を見つけた。


 昌志は、

 赤ん坊を抱えて、

 来た道を戻った。


 赤ん坊は、

 外の空気の中で、

 近所の人の腕に渡された。


 泣き声は、

 母親の声に重なった。


 その命は、

 火の中に残されなかった。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、そこで一度目を止めた。


 何度も読み返す。


 赤ん坊は、外の空気の中で、近所の人の腕に渡された。


 泣き声は、母親の声に重なった。


 その命は、火の中に残されなかった。


 黒い本の文章は、いつも通り淡々としていた。


 でも、前より少しだけ柔らかい気がした。


 赤ん坊は助かった。


 そのことが、はっきり書かれている。


 昌志は椅子にもたれた。


 体から力が抜けていく。


 本当に助けられた。


 黒い本にも、そう書かれている。


 結果は出た。


 今回も、出来事が終わったあとに文章が変わった。


 昨日の紙もそうだった。


 老人の道案内もそうだった。


 そして、今日の火事もそうだった。


 出来事が終わると、文章は結果になる。


 これはもう、かなり確かだと思った。


 しかも、今回はいい結果だった。


 赤ん坊は助かった。


 昌志も、大きな怪我はしていない。


 火傷をするかもしれないと思っていた。


 煙で倒れるかもしれないと思っていた。


 足を滑らせるかもしれないと思っていた。


 どこかで誰かに捕まるかもしれないと思っていた。けれど、実際には何もなかった。


 少し煙を吸った。


 少し熱かった。


 服に匂いはついた。


 それくらいだ。


 それだけで、赤ん坊を助けられた。


 それだけで、黒い本の結果も良いものに変わった。


 昌志は、机の上に置いた手を見た。


 手袋をしていたから、手にも目立つ傷はない。


 何もない。

 ほとんど何も失っていない。


 それなのに、一つの命を助けた。


 不謹慎だとは思った。


 赤ん坊の命がかかっていた。


 家も燃えた。


 母親は泣いていた。


 近所の人たちも騒いでいた。


 それを、自分にとって都合のいい出来事のように考えるのはおかしい。


 おかしいと分かっている。

 でも、それでも思ってしまった。


 これは、自分にとっては特別な選択だった。悪い流れを戻すための、大きな機会だった。


 言い方は悪い。


 でも、ボーナスみたいなものだったのかもしれない。


 美月の時と同じだ。


 あの時も、助けた後にいいことが続いた。


 今回も、たぶん同じだ。


 助ければ、悪いことばかりではなくなる。


 助ければ、黒い本は良い方へ向く。


 そう考えると、胸の奥に小さな高揚が生まれた。


 人助けをすること自体は、別に苦ではない。


 助けられるなら助ければいい。


 それで誰かが助かって、自分にもいいことが起こるなら、問題はない。


 むしろ、そういうものなら分かりやすい。


 誰かを助ける。


 黒い本の流れが良くなる。


 自分にもいいことが起こる。


 それなら、怖いだけの本ではない。


 使い方さえ間違えなければ、まだ何とかなる。


 昌志は、そう思いかけた。


 その考えに少しだけ引っかかるものはあった。


 でも、今はそれを深く見なかった。


 赤ん坊は助かった。


 それは事実だ。


 黒い本も、そう書いている。


 昌志はページを閉じた。


 けれど、すぐには眠れなかった。


 パーカーを袋に入れ、手を洗い、顔を洗う。何度洗っても、煙の匂いが残っている気がした。


 気のせいかもしれない。


 それでも気になって、窓を少し開けた。


 部屋に夜の空気が入ってくる。


 時計を見る。


 まだ十一時を少し過ぎたところだった。


 眠れる気がしない。


 体は疲れている。


 でも、頭が妙に冴えていた。


 黒い本の結果を確認したことで、安心したはずだった。


 なのに、今度は次が気になる。


 これで、本当に流れは変わったのか。


 明日の文章はどうなっているのか。


 美月の時のように、いいことが続くのか。


 それを確かめたくなった。


 昌志はベッドに横になった。


 目を閉じる。


 でも、すぐに黒い本のことを考えてしまう。


 文字が浮かんでいるかもしれない。


 新しい文章が出ているかもしれない。


 もし出ているなら、今確認した方がいい。


 朝まで待つ必要はない。


 昨日の紙も、老人も、終わった後にすぐ変わった。


 今日の火事も、終わった後に変わった。


 なら、新しい文章も、日付が変わる頃に出るかもしれない。


 昌志は何度か寝返りを打った。


 結局、眠れなかった。


 時計が十二時に近づいた頃、昌志は起き上がった。


 机に向かう。


 黒い本を開く。


 新しいページに、文字が浮かんでいた。


 昌志は息をのんだ。


 明日の文章だった。


 三つある。


 普段なら、選択肢は二つ並んでいることが多い。


 けれど、良さそうに見えるものは、いつも一つくらいだった。


 もう一つは嫌なものだったり、選んでも苦い結果が見えていたりした。


 それなのに、今回は違った。


 三つある。


 そのうち二つが、良さそうなものに見えた。


 昌志は、ゆっくり読み進めた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十六日、昼休み。


 廊下で、

 誰かの悪口を聞く。


 止めれば、

 余計なことに首を突っ込んだと言われる。


 止めなければ、

 その言葉は本人の耳に届く。


 ――六月二十六日、夕方。



 美月は、

 昌志に会いたいと思っている。


 美月は、

 兄について、

 少し気になっていることがある。


 会えば、

 美月は少し安心する。


 会わなければ、

 その気持ちは残る。


 ――六月二十六日、夜。


 昨夜、

 赤ん坊を助けられた夫婦は、

 名乗らずに去った高校生を探している。


 礼の品と、

 礼の言葉を、

 助けてくれた人に渡したいと思っている。


 受け取れば、

 夫婦は少し救われる。


 受け取らなければ、

 夫婦は探し続ける。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、しばらく動けなかった。


 三つ。


 明日の文章が三つある。


 一つ目は、嫌なものだった。


 廊下で誰かの悪口を聞く。


 止めれば、余計なことに首を突っ込んだと言われる。止めなければ、その言葉は本人の耳に届く。


 いつものように、どちらを選んでも少し苦い。


 黒い本らしい文章だと思った。


 けれど、二つ目と三つ目は違った。


 美月に会う。


 助けてもらった礼を言われる。


 一つだけ聞きたいことがある。


 それは少し面倒そうではある。


 けれど、悪いことには見えない。


 少なくとも、誰かが傷つくような文章ではない。


 三つ目も同じだった。


 赤ん坊を助けられた夫婦が、名乗らず去った高校生を探している。


 礼の品と、礼の言葉を渡したいと思っている。これも、普通に考えればいいことだ。


 礼を言われる。


 品をもらう。


 感謝される。


 悪いことではない。


 二つもある。


 良さそうな文章が、二つも出ている。


 普段は、良さそうなものが一つくらいしかなかった。


 なのに、今回は二つある。


 昌志の胸が、少しずつ熱くなった。


 やっぱりだ。


 やっぱり、思った通りだ。


 火事の選択は、特別だった。


 美月を助けた時と同じように、助けた後にいいことが来た。


 しかも、今回は二つもある。


 良さそうなものが、二つに増えている。


 それなら、黒い本の流れは確かに変わったのではないか。


 昨日までの嫌な文章ばかりの流れが、少し戻ったのではないか。


 昌志は、思わず小さく笑いそうになった。


 不謹慎だ。


 そう思う。


 火事だった。


 赤ん坊がいた。


 誰かの家が燃えた。


 それを、自分にとってのボーナスみたいに考えるのは、おかしい。


 けれど、それでも。


 結果だけを見れば、そうだった。


 昌志は助けた。


 赤ん坊は助かった。


 昌志には大きな怪我もなかった。


 そして、明日の黒い本には良さそうな文章が二つ出た。


 これを偶然だとは思いにくい。


 助ければ、いいことが続く。


 その考えが、昌志の中でまた少し強くなった。


 簡単だったとは言えない。


 火は熱かった。


 煙も苦しかった。


 でも、思っていたほどではなかった。


 火傷もしなかった。


 大きな怪我もしなかった。


 必要なものを準備して、道を確認して、その通りに動いた。


 それで赤ん坊は助かった。


 そのあと、黒い本には良さそうなものが増えた。


 それなら、人助けをすること自体は、そこまで悪いことではない。


 誰かが助かって、自分にもいいことが返ってくる。


 そういう形なら、むしろ正しい使い方なのかもしれない。


 昌志はそう考えた。


 ただし、三つ目を受けるつもりはなかった。


 夫婦のお礼。


 礼の品。


 礼の言葉。


 それ自体はいいものだ。


 でも、受け取れば関わることになる。


 名乗ることになる。


 あの火事の現場にいた高校生が自分だと認めることになる。


 そうなれば、必ず聞かれる。


 どうしてあの家にいたのか。


 どうして赤ん坊が中にいると分かったのか。


 どうして迷わず入れたのか。


 どうしてすぐに逃げたのか。


 答えられない。


 美月の時も面倒だった。


 助けたこと自体はよかった。


 でも、そのあとに説明できないことが増えた。


 圭佑に聞かれた。


 美月にも見られた。


 瑞美にも何度も変なタイミングを見られている。感謝されることは嫌ではない。


 でも、感謝されればされるほど、理由を聞かれる。その理由が言えない。


 だから、夫婦のお礼は受け取れない。

 受け取るつもりはない。


 昌志はそう決めた。


 それでも、自分にとっていいことが起きているのは間違いないと思った。


 会わなければ、夫婦は探し続ける。


 その文章は少し引っかかった。


 探し続ける。


 それは困る。


 でも、名乗る方がもっと困る。


 どちらがいいのかは分からない。


 ただ、今は受け取れない。


 昌志は次に、二つ目の文章をもう一度見た。


 美月は、昌志に会いたいと思っている。


 その最初の二文字で、昌志はまた止まった。


 美月。


 黒い本には、そう書かれている。


 彼女、ではない。


 今までなら、ずっと彼女だった。


 それだけでも気になる。


 けれど、もう一つ引っかかる言葉があった。


 兄について。


 兄。


 つまり、圭佑のことだ。


 昌志は、数日前の文章を思い出した。


 親友は、望んでいたものに少し近づいた。


 あの時、黒い本はそう書いていた。


 親友は圭佑のことだった。


 でも、圭佑が何に近づいたのか、昌志はまだ知らない。


 美月なら、何か知っているかもしれない。


 圭佑が最近少し変わったとか、誰かと連絡を取っているとか、何かを隠しているとか。


 そういうことを、何気なく聞けるかもしれない。美月に会うこと自体は、悪いことではなさそうだった。


 会えば、美月は少し安心する。


 会わなければ、その気持ちは残る。


 それなら、会ってもいい。


 むしろ、圭佑のことを探れるなら、会う意味はある。


 昌志はそう考えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ