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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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幕間3 妹だけが見ていた

その夜、司は自分の部屋にいた。


 机の上には、開いたままのノートがある。


 けれど、そこに書かれている文字は、ほとんど頭に入っていなかった。


 最近の兄はおかしい。


 そう思い始めてから、もう何日も経っている。


 前は、ただの気のせいかもしれないと思っていた。


 受験生だから疲れているだけ。


 学校で何かあっただけ。


 美月を助けたことで、少し気持ちが落ち着かないだけ。そう考えようとした。


 でも、やっぱり違う。


 兄は何かを隠している。


 それも、家族に言えないような何かを。


 司はシャーペンを指で回しながら、ちらりとドアの方を見た。


 廊下の向こうから、階段を下りる音がした。母の足音ではない。


 司には分かった。


 兄の足音だ。


 こんな時間に、どこへ行くのだろう。


 時計を見る。


 午後八時を少し過ぎていた。


 夜に出かけるには、少し遅い。


 コンビニに行くくらいなら、母に一言くらい言うはずだ。


 司は椅子から立ち上がった。


 ドアを少しだけ開ける。


 廊下の向こうで、玄関の方へ向かう昌志の背中が見えた。


 制服ではない。


 普段着だった。


 けれど、ただ近所へ出るような緩さではなかった。


 どこか急いでいる。


 それなのに、足音は抑えていた。


 見つからないようにしている。


 そう見えた。


「お兄ちゃん……?」


 呼びかけそうになって、司は口を閉じた。


 今、呼べば兄は止まるかもしれない。


 でも、止まったら、何も分からない。


 最近の兄が何を隠しているのか。


 どうしてあんなに苦しそうな顔をするのか。


 どうして美月を助けたことも、大したことじゃないみたいに扱うのか。


 それが分からないままになる。


 美月からも言われていた。


 何か分かったら教えてほしい、と。


 司自身も言った。


 探偵になる、と。


 言った以上、ここで見逃すわけにはいかない。


 玄関のドアが、静かに閉まった。


 司は数秒待ってから、自分の部屋に戻った。財布とスマホをポケットに入れる。


 上着を羽織る。


 自転車の鍵を手に取りかけて、すぐにやめた。自転車だと音がする。


 距離も詰まりすぎる。


 兄に気づかれるかもしれない。


 それに、こんな時間に自転車で外へ出ているところを見つかったら、母に何を言われるか分からない。


 歩いて追うしかない。


 司はそっと階段を下りた。


 玄関で靴を履き、できるだけ音を立てずに外へ出る。夜の空気は、昼間より少し湿っていた。


 家の前の道の先に、昌志の背中が見えた。


 思ったより歩くのが速い。


 司は慌てて追いかけた。


 けれど、近づきすぎないようにした。


 兄が振り向いたら、すぐに隠れられる距離。


 電柱の影。


 塀の角。


 駐車場の車の向こう側。


 司はそれらを使いながら、少しずつ後をつけた。こんなことをしている自分が、少しだけ馬鹿みたいにも思えた。


 でも、胸の奥がざわざわしていた。


 兄は、ただ散歩しているわけではない。


 迷っている様子もなかった。


 スマホで道を調べることもない。


 まっすぐ、どこかへ向かっている。


 やがて、知っている町内を抜けた。


 司は足を止めかけた。


 ここから先は隣町だ。


 夜に一人で歩いて行くには、少し遠い。


 それでも昌志は止まらない。


 司は小さく息を吸って、また歩き出した。


 どれくらい歩いただろう。


 公園が見えた。


 昌志は公園の脇で、一度足を止めた。


 周囲を確認するように、少しだけ顔を動かしている。司は慌てて電柱の影に隠れた。


 何をしているのだろう。


 コンビニでもない。


 散歩でもない。


 兄は、まるで前もって決めていた場所に来たみたいだった。昌志は公園の脇から、古い住宅街の方へ入っていった。


 司も少し遅れて、その後を追う。


 道は細かった。


 古い塀が続いている。


 低い屋根。


 錆びた門。


 似たような家がいくつも並んでいる。


 司は、何度か兄の姿を見失いそうになった。それでも、昌志は迷っているようには見えなかった。


 古い電柱。


 小さな空き地。


 その先に、少し奥まった木造の家があった。


 昌志は、その家の近くで足を止めた。


 真正面には立たない。


 少し離れた場所から、周囲を見ている。


 まるで、何かを探しているみたいだった。


「何で……」


 声が出そうになって、司は口を押さえた。


 兄は、偶然ここに来たわけではない。


 たまたま通りかかったわけでもない。


 最初から、ここへ来ようとしていた。


 そうとしか見えなかった。


 その時だった。


 女性の悲鳴が聞こえた。


 司はびくりと肩を震わせた。


 住宅街の奥が、赤く揺れている。


 火だった。


 古い家の窓の奥で、炎が揺れていた。


 黒い煙が夜空へ上がっていく。


 近所の人たちが、次々と外へ出てくる。


「火事だ!」


「消防車!」


「誰か、消防に電話して!」


 声が重なる。


 誰かが泣いている。


 誰かが叫んでいる。


 消防車は、まだ来ていない。


 それなのに、昌志は逃げなかった。


 むしろ、火の方へ向かっていった。


 司は目を見開いた。


 兄は、その火事の方へ向かっている。


 危ない。


 止めなければ。


 そう思った。


 でも、声が出なかった。


 昌志は人だかりの方へ進んだ。


 司は少し離れた場所で立ち止まった。


 人の影に隠れながら、兄の姿を追う。


 古い家が燃えていた。


 黒い煙が夜空へ上がっている。


 炎の色が、窓の向こうで揺れていた。


 近所の人たちが道の端に集まっていた。


 泣いている女の人が、近所の人に支えられていた。


「赤ちゃんが、わたしの赤ちゃんがまだ――」


 その声が聞こえた瞬間、司の背筋が冷たくなった。


 赤ちゃん。


 中に赤ちゃんがいる。


 だから兄はここへ来たのか。


 でも、どうして分かったのか。


 兄は、どうしてそれを知っていたのか。


 司の疑問に答えが出る前に、昌志が動いた。


 昌志は周囲を見回した。


 そして、燃えている家の玄関へ向かいかけた。


 司の頭が、一瞬真っ白になった。


 何をしているのか分からなかった。


 消防士でもない。


 大人でもない。


 ただの高校生の兄が、燃えている家に近づいている。


 けれど、昌志は玄関の前で一度足を止めた。


 火と煙が、玄関の周りに広がっていた。


 扉の辺りが赤く揺れている。


 あそこからは入れない。


 司にも、それくらいは分かった。


 すると昌志は、少し横へ回った。


 低い窓の前に立つ。


 鞄から何かを取り出した。


 司は目を見開いた。


 ゴム手袋だった。


 それから、細長い金属のようなもの。


 バール。


 どうして。どうしてお兄ちゃんが、そんなものを持っているの。


 昌志はゴム手袋をした手でバールを握った。窓ガラスへ叩きつける。


 大きな音がした。


 ガラスが割れた。


 司は思わず身をすくめた。


 破片が飛び散る。


 昌志は一度、反射的に身を引いた。

 それから、残ったガラスをバールで払う。


 火の赤さが、割れた窓の向こうで揺れた。


 熱い空気が押し出されたように見えた。


「お兄ちゃん……!」


 今度は声が漏れた。けれど、周りの騒ぎに紛れて、誰にも届かなかった。


 昌志は窓枠に手をかけた。そして、燃えている家の中へ入っていった。


 火事の家に。


 自分から。


 赤ん坊を助けるために。


 司はその場から動けなかった。


 足が震えている。


 胸が痛いくらいに鳴っている。


 火の中に入った。


 兄が。


 自分の兄が。


 燃えている家の中へ入った。


 何秒経ったのか分からない。


 十秒かもしれない。


 一分かもしれない。


 時間の感覚がなくなっていた。


 煙が割れた窓から流れてくる。


 誰かが「中にまだいるのか?」と叫んでいる。


 泣いている女の人は、近所の人に支えられたまま崩れそうになっていた。


 司の頭の中で、さっき聞いた声だけが何度も響く。


 赤ちゃん。


 中に赤ちゃんがいる。


 だから兄は入った。


 でも、どうして分かったのか。


 どうして、バールまで持っていたのか。


 どうして、迷わず動けたのか。


 司がその疑問に追いつく前に、割れた窓の向こうに人影が見えた。


 昌志だった。


 腕の中に、小さな毛布のようなものを抱えている。


 違う。


 毛布ではない。


 赤ん坊だった。


 泣き声が聞こえた。


 細くて、必死な泣き声。


 昌志は咳き込みながら、赤ん坊を抱えて割れた窓から外へ出た。


 服の袖が汚れている。


 顔にも煤がついている。


 それでも、腕の中の赤ん坊をしっかり抱いていた。


「わたしの赤ちゃん!」


 泣いていた女の人が叫んだ。


 母親なのかもしれない。


 昌志は何も言わず、その人の方へ赤ん坊を差し出した。


 近くにいた大人が慌てて受け取る。


 女の人が泣きながら赤ん坊に手を伸ばす。


 周囲から、安堵の声が上がった。


「助かったぞ!」


「誰だ、あの子!」


「高校生か?」


 遠くから、サイレンの音が近づいてくる。


 それでも昌志は、その声を聞いていなかったみたいだった。赤ん坊が渡されたのを確認すると、すぐに身を引いた。


 名前も言わない。


 礼も聞かない。


 誰かに肩をつかまれる前に、人だかりの隙間を抜けた。


 走り出す。


 司は、ようやく我に返った。


 兄が行ってしまう。


 追わなければ。


 けれど足が動かない。


 今見たものが、頭の中で何度も繰り返される。


 燃えている家。


 煙。


 割れる窓ガラス。


 バールを握る兄。


 赤ん坊の泣き声。


 赤ん坊を抱えて出てくる兄。


 何も言わずに立ち去る兄。


 おかしい。


 おかしいのに、すごい。


 すごいのに、怖い。


 命が惜しくないのだろうか。


 うちの兄は、死ぬかもしれない場所に、どうしてあんなに迷わず入れるのだろう。


 本当は、すごい人なのだろうか。


 それとも、何かがおかしくなっているのだろうか。


「……追わなきゃ」


 司は小さく呟き、走り出した。


 昌志は来た道を戻っていた。


 火事の現場から離れるほど、周囲は静かになっていく。


 サイレンの音だけが背中から追いかけてくる。


 司は息を切らしながら、兄の後を追った。


 昌志は振り返らなかった。


 咳き込むこともあった。


 足取りも、来る時より少し乱れていた。


 それでも止まらない。


 まるで、早く何事もなかったことにしたいみたいだった。


 家に近づく頃には、司の足も限界だった。


 昌志は家の前で一度だけ立ち止まった。


 あたりを見回す。


 司は慌てて塀の影に隠れた。


 心臓が跳ねる。


 見つかったかと思った。


 けれど、昌志はそのまま玄関へ入っていった。


 司はしばらく動けなかった。


 玄関のドアが閉まる音がしてから、ようやく息を吐いた。


「……何なの」


 声が震えていた。


 兄が燃えている家の窓を割った。


 バールでガラスを割って、中へ入った。


 赤ん坊を助けた。


 礼も言わせずに逃げた。


 そして、今、普通に家へ戻った。


 そんなことが本当にあるのか。


 美月に電話したら、信じてくれるだろうか。


 いや、無理かもしれない。


 火事の家に入って赤ん坊を助けたなんて、普通は信じない。


 しかも、何も言わずに帰ってきたなんて。


 司はスマホを取り出しかけて、やめた。


 今は何を言っても、うまく説明できる気がしなかった。


 少し時間を置いてから、司も家に入った。


 玄関は静かだった。


 昌志の靴は、何事もなかったように置かれている。


 廊下の奥から、母の声はしない。


 家の中はいつも通りだった。


 いつも通りすぎて、さっき見た光景の方が夢だったように思えてくる。


 司はそっと階段を上がった。


 兄の部屋の前を通る時、足が止まった。


 中から物音はしない。


 もう寝たふりをしているのか。


 本当に寝ているのか。


 それとも、また何かを見ているのか。


 司には分からなかった。


 ただ、ドアを開ける勇気はなかった。


 自分の部屋へ戻る。


 ドアを閉める。


 その瞬間、膝から力が抜けた。


 司は床に座り込んだ。


 スマホを握ったまま、しばらく動けなかった。


 兄が分からない。


 何を隠しているのか分からない。


 でも、一つだけ分かった。


 昌志は、ただ様子がおかしいだけではない。何か、とんでもないものを抱えている。


 それを、家族にも、親友にも、誰にも言わずに、一人で持っている。


 司はスマホの画面をつけた。


 美月の連絡先を開く。


 指が、通話ボタンの上で止まる。


 今、電話しても、きっと何も言えない。


 自分でも信じられないものを、どうやって人に信じてもらえばいいのか分からない。


「……明日」


 司は小さく呟いた。


 明日、ニュースになるかもしれない。


 火事があったこと。


 赤ん坊が助かったこと。


 誰かが助けたこと。


 それが分かれば、少なくとも見間違いではなくなる。


 司はスマホを胸に抱えた。


 目を閉じても、まだ見える。


 炎の中から出てくる兄の姿。


 赤ん坊を渡して、何も言わずに走り去る背中。


 命が惜しくないのかな。


 うちのお兄ちゃんは。


 司はその夜、なかなか眠れなかった。

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