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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第53話 午後九時十七分

六月二十五日の夜。


 下見を終えたあと、昌志は夕食までの時間をできるだけ普通に過ごした。


 部屋で机に向かう。


 ノートを開く。


 ペンを持つ。


 勉強しているように見える姿勢を作る。


 けれど、頭の中にあるのは、教科書の内容ではなかった。


 歩いていく道。


 公園の脇。


 そこから住宅街へ入る道。


 古い電柱。


 小さな空き地。


 奥まった木造の家。


 裏道。


 段差。


 逃げ道。


 下見で確認したものを、何度も思い返す。


 地図だけでは分からなかった。


 実際に見に行ったから分かった。


 あの道は、夜になればもっと暗くなる。


 あの段差は、走ればつまずく。


 あの家の近くで自転車を使えば目立つ。


 だから、歩く。


 足音を殺して、近づく。


 それが一番いい。


 夕食の時間になっても、昌志は普通に箸を持った。


 母の話に相槌を打つ。


 司の視線を受け流す。


 食事の味は、あまり分からなかった。


 ただ、食べなければならないと思った。


 夜に走るかもしれない。


 火事の家に入るかもしれない。


 赤ん坊を抱えて出てくるかもしれない。


 その時に、空腹で動けないでは済まない。


「兄ちゃん、今日ほんと静かだね」


 司が言った。


「そうか?」


「そうだよ。いつもより静か」


「眠いだけ」


「また眠い」


「受験生だから」


「それ、万能すぎる」


 司は不満そうに言った。


 母が笑う。


「司も受験生になったら分かるわよ」


「分かりたくない」


 いつも通りの会話だった。


 その中で、昌志だけが午後九時十七分を数えていた。


 夕食を終えると、昌志は早めに部屋へ戻った。


「少し寝る」


 そう言っておいた。


 母は「無理しないでね」と言った。


 司はまだ疑っている顔だった。


 それでも、ついてくることはなかった。


 部屋に入る。


 ドアを閉める。


 鍵はかけない。


 鍵をかければ、逆に不自然だ。


 昌志は服を確認した。


 下見の時と同じ服。


 濃い色のパーカー。


 動きやすいズボン。


 スニーカー。


 鞄の中には、黒い本、ノート、スマホ、財布、ペットボトル。


 使い古したタオル。


 小さなライト。


 ゴム手袋。


 マスク。


 それから、バール。


 バールは重かった。


 鞄に入れると、それだけで肩に重さがかかる。


 普通の高校生が夜に持ち歩くものではない。


 分かっている。


 けれど、火事の家に入るなら、扉が開くとは限らない。


 窓を割らなければならないかもしれない。


 素手で割れば、怪我をする。


 熱くなったものに触れば、火傷するかもしれない。


 ゴム手袋だけでどこまで防げるかは分からない。


 それでも、素手よりはましだ。


 マスクは最初からつけていくつもりだった。


 夜の外で顔を隠す意味もある。


 火事の煙を少しでも避ける意味もある。


 どれほど役に立つかは分からない。


 でも、何もないよりはいい。


 昌志はベッドに横になった。


 少しでも体を休めるためだった。


 眠れるとは思っていなかった。


 それでも、目を閉じる。


 呼吸を整える。


 歩いていく。


 公園の脇。


 住宅街。


 古い電柱。


 小さな空き地。


 奥まった家。


 玄関から、まっすぐ奥。


 突き当たりの部屋。


 赤ん坊。


 抱える。


 戻る。


 外へ出る。


 その順番を、何度も頭の中で繰り返す。


 黒い本には、玄関から入ると書かれていた。


 けれど、本当に玄関が使えるとは限らない。


 火事になれば、扉が開かないかもしれない。


 煙が玄関を塞ぐかもしれない。


 その時は窓だ。


 窓を割る。


 中に入る。


 奥へ進む。


 赤ん坊を抱えて出る。


 それも、頭の中で繰り返した。


 時計を見る。


 八時前。


 昌志は起き上がった。


 家の中の音を聞く。


 階下から、テレビの音がする。


 母の声。


 司の声。


 二人ともリビングにいる。


 今なら出られる。


 昌志は鞄を持った。


 部屋のドアを開ける。


 廊下へ出る。


 足音を殺して階段を下りる。


 途中で、リビングの方を見る。


 明かりが漏れている。


 会話も聞こえる。


 気づかれていない。


 洗面所へ行き、タオルを水で濡らした。


 きつく絞る。


 ビニール袋に入れる。


 鞄の奥へ押し込む。


 玄関へ向かう。


 靴を履く。


 ドアノブに手をかける。


 音を立てないように、ゆっくり開けた。


 夜の湿った空気が入ってくる。


 昌志は外へ出た。


 ドアを静かに閉める。


 少しの間、玄関の前で動かずにいた。


 何も聞こえない。


 誰も出てこない。


 うまくいった。


 そう思った。


 昌志は家の前から少し離れるまで、いつも通りの歩き方をした。


 角を曲がってから、少しだけ歩く速度を上げる。


 あとは、さっきと同じ道を行けばいい。


 下見の時と同じ。


 同じ道。


 同じ目印。


 同じ場所。


 難しくない。


 昌志は、そう自分に言い聞かせて歩いた。


 *    *


 夜の道は、下見の時よりさらに暗かった。


 それでも、昌志は迷わなかった。


 コンビニの角。


 古い薬局。


 細い橋。


 公園。


 全部、さっき確認した通りだった。


 見に来ておいてよかった。


 もし、これが初めてだったら、たぶん焦っていた。


 夜の道は、昼とも夕方とも違う。


 けれど、一度歩いた道なら分かる。


 公園の脇で、昌志は一度足を止めた。


 時計を見る。


 八時半頃。


 火が上がると書かれた時間までは、まだ余裕がある。


 予定通りだった。


 現場を確認する時間はある。


 もしかしたら、放火犯を見つけられるかもしれない。そう思うと、足に力が入った。


 火事が起きてから赤ん坊を助けるより、火事を起こさせない方がいい。


 それができるなら、それが一番いい。


 昌志は公園の脇から住宅街へ入った。


 足音をできるだけ抑える。


 下見で覚えた通り、音の出にくい場所を選んで歩く。


 古い電柱。


 小さな空き地。


 奥まった木造の家。


 そこまで行く。


 黒い本の文章に合っていると思った家。


 今は、まだ静かだった。


 火もない。


 煙もない。


 家の中に明かりはある。


 普通の夜の家に見える。


 昌志は真正面には立たなかった。


 少し離れた道の影から、周囲を見る。


 誰か不審な人間はいないか。


 家の周りをうろつく人はいないか。


 火をつけようとしている人はいないか。


 しかし、何も見つからなかった。


 ただ、静かな住宅街があるだけだった。


 昌志は場所を変えた。


 家の正面だけではなく、周辺の道も見る。


 細い裏道。


 隣の家との隙間。


 塀の近く。


 公園へ続く道。


 少し広い範囲を歩く。


 もし放火犯がいるなら、現場の近くにいるはずだ。けれど、どこにもそれらしい人影はない。


 時間だけが過ぎていく。


 昌志は何度も時計を見た。


 まだ早い。


 まだ時間はある。


 そう思っていた。


 だから、最初に聞こえた声が何なのか、すぐには分からなかった。


 女性の悲鳴だった。


 昌志は振り返った。


 さっき見ていた家の方。


 その向こうが、赤く揺れていた。


 一瞬、理解できなかった。


 次の瞬間、火の手が見えた。


 もう、火は上がっていた。


 思っていたより早い。


 いや、早いのではない。


 火がついてから、燃え広がるまでがあまりにも早かった。


 さっきまで普通の家に見えた木造の家が、あっという間に火に包まれていく。


 窓の奥が赤く光る。


 煙が上がる。


 近所の人たちが、次々と外へ出てくる。


「火事だ!」


「消防車!」


「誰か、消防に電話して!」


「救急車も!」


 声が重なる。


 女性が泣き叫んでいた。


「中に、赤ちゃんが……!」


 その声で、昌志の中の迷いが消えた。


 やっぱり、あの家だった。


 下見で見た家。


 黒い本の文章に合っていると思った家。


 そこが燃えている。


 母親らしい女性が、家へ向かって走ろうとしていた。


 近所の女性たちが必死に止めている。


「駄目よ!」


「危ないって!」


「消防が来るから!」


「待って、入っちゃ駄目!」


「でも、赤ちゃんが……!」


 母親の声は、もう声になっていなかった。


 周りの人たちは消防車を呼べと叫んでいる。


 救急車を呼べと叫んでいる。


 誰も、昌志を見ていない。


 全員の視線が、火と母親に向いている。


 今なら、動ける。


 そう思った。


 その考えが正しいのかどうか、考える時間はなかった。昌志は鞄からゴム手袋を取り出してつけた。


 濡らしたタオルを出し、マスクの上から口元に押し当てる。


 ライトを手に持つ。


 それから、バールを握った。


 玄関へ向かおうとして、足が止まる。


 玄関の方は、すでに煙が濃かった。


 扉の周りが赤く揺れている。


 熱で歪んでいるのか、暗がりの中で形までおかしく見えた。


 あそこから入るのは無理だ。


 そう判断した瞬間、下見で見た窓を思い出した。


 道路側から少し外れた、低い位置の窓。


 そこなら入れるかもしれない。


 昌志は窓の方へ回った。


「ちょっと、君!」


 誰かが声を上げた気がした。


 でも、止まらなかった。


 窓の前に立つ。


 中は煙でよく見えない。


 それでも、そこから入るしかない。


 昌志はバールを握り直した。


 一度、息を止める。


 そして、窓ガラスへ叩きつけた。


 大きな音がした。


 ガラスが砕ける。


 破片が内側と外側に飛び散った。


 昌志は反射的に身を引いた。


 細かい破片が地面に落ちる音がした。


 熱い空気が、窓の隙間から押し出されてくる。


 怖い。


 足が止まりそうになる。


 でも、中には赤ん坊がいる。


 昌志はバールでもう一度、残ったガラスを払った。


 窓枠に手をかける。


 ゴム手袋越しでも熱が伝わってきた。


 長く触っていられない。


 昌志はライトを先に向け、体を窓の中へ滑り込ませた。


 土足で入ることに、ほんの一瞬だけ気が引けた。けれど、靴を脱いでいる場合ではなかった。


 煙の匂いが強い。


 熱がある。


 思っていたよりずっと熱い。


 昌志はタオルを口元に押しつけたまま、ライトをつけた。


 持ってきてよかった。


 本当にそう思った。


 家の中は、煙と赤い光で分かりにくい。


 それでも、ライトがあれば床と壁の位置が見える。


 黒い本の文章を思い出す。


 玄関から入って、まっすぐ進んだ突き当たりの部屋。


 玄関からではない。


 でも、家の向きは分かっている。


 下見の時に、外から玄関の位置を確認した。


 窓から入った分だけ、頭の中で位置を直す。


 奥へ。


 突き当たりの部屋へ。


 何も考えない。


 考えたら足が止まる。


 まっすぐ。


 まっすぐ。


 突き当たり。


 部屋の戸は少し開いていた。


 その奥から、泣き声が聞こえた。


 赤ん坊の声。


 昌志は部屋に入った。


 すぐに見つかった。


 小さな布団の上。


 泣いている赤ん坊。


 煙にむせるような小さな声。


 昌志は赤ん坊を抱き上げた。


 軽い。


 でも、腕の中ではっきりと動いている。


 生きている。


 昌志は赤ん坊を自分の胸に抱え込み、できるだけ顔を覆う。


 来た道を戻る。


 機械的だった。


 本当に、ただ決めた通りに動いただけだった。


 窓を割る。


 中へ入る。


 奥へ進む。


 赤ん坊を抱える。


 戻る。


 外へ出る。


 頭の中で何度も繰り返した通りに、体が動いた。


 熱い。


 煙い。


 息が苦しい。


 でも、止まらない。


 割った窓の光が見えた。


 外の声が聞こえる。


 昌志は窓から外へ出た。


 誰かが叫んだ。


「赤ちゃん!」


 母親がこちらへ向かってこようとした。


 けれど、近所の人たちに支えられていて、すぐには動けない。昌志は近くにいた年配の女性に、赤ん坊を差し出した。


「中にいた赤ちゃんです。この子をお願いします」


「え、君、ちょっと――」


「お願いします」


 それだけ言って、昌志は赤ん坊を渡した。


 女性が赤ん坊を抱きしめる。


 周囲がさらに騒がしくなる。


 母親の泣き声が聞こえた。


 ありがとう、という声も聞こえた気がする。


 でも、昌志は振り返らなかった。


 そのまま足早に離れる。


 走る。


 公園の方へ。


 下見で通った道へ。


 誰かが呼び止めたかもしれない。


 でも、聞こえないふりをした。


 今ここに残れば、名前を聞かれる。


 理由を聞かれる。


 どうして中に赤ん坊がいると分かったのか。


 どうして迷わず入れたのか。


 どうしてバールまで持っていたのか。


 答えられない。


 答えられるはずがない。


 昌志は公園の脇まで戻った。


 足が震えていた。


 息も苦しい。


 鞄が重い。


 バールの重さが、今さら肩に食い込む。


 でも、赤ん坊は助かった。


 それだけは確かだった。


 昌志は来た道を歩き出した。


 最初は早足で。


 人通りが少なくなってから、少しだけ走った。


 それでも、全力では走れなかった。


 火事の熱と煙で、体の奥が重かった。


 *     *


 帰り道、昌志は何度も同じことを考えた。


 うまくいった。


 思っていた以上に、うまくいった。


 下見をしていたから迷わなかった。


 歩く道も決めていた。


 家も見つけていた。


 ライトも役に立った。


 ゴム手袋も、タオルも、マスクも無駄ではなかった。バールも必要だった。


 赤ん坊も助けられた。


 名前も名乗らずに離れられた。


 誰にも捕まらなかった。


 計画は、うまくいった。


 そう思うと、胸の奥に少しだけ熱が戻った。


 怖かった。


 息も苦しかった。


 熱かった。


 今も服に煙の匂いがついている気がする。


 それでも、うまくいった。


 準備が良かった。


 下見をしたのが良かった。


 自分の判断は間違っていなかった。


 昌志は、少しだけ満足していた。


 そんな場合ではないと分かっている。


 火事だった。


 赤ん坊の命がかかっていた。


 自分も死んでいたかもしれない。


 それでも、うまくいったと思ってしまう。


 そのことに、少しだけ気持ち悪さもあった。


 けれど、それ以上に、今は結果が大きかった。


 助けられた。


 黒い本の文章通り、命に届いた。


 家の近くまで戻ると、昌志は歩く速度を落とした。


 息を整える。


 玄関の前で、音を立てないようにする。


 ドアを開ける。


 家の中は静かだった。


 昌志は靴を脱ぎ、そっと上がる。


 リビングの明かりは消えている。


 母はもう寝たのかもしれない。


 階段を上がる。


 途中で、司の部屋の前を通った。


 部屋の中は真っ暗だった。


「あいつ、もう寝たのか」


 昌志は小さく呟いた。


 時計を見る。


 十時を少し回っている。


 司なら、このくらいに寝ていてもおかしくはない。


 そう思った。


 昌志は自分の部屋へ戻った。


 ドアを閉める。


 鞄を下ろす。


 パーカーを脱いだ。


 やはり、少し煙の匂いがする気がした。


 まずい。


 そう思い、脱いだ服をすぐに袋へ入れた。


 ゴム手袋も、タオルも、同じ袋へ押し込む。


 バールは机の下に置いた。


 煤がついているように見えて、昌志はすぐに目を逸らした。


 あとでどうにかしなければならない。


 でも、今は先に確認したかった。


 黒い本。


 昌志は机に向かい、鞄の奥から黒い本を取り出した。

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