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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第52話 下見

 六月二十五日の夕方。


 家に帰った昌志は、まず普通に靴を脱いだ。


 いつも通りに。


 何も変わったことはないように。


 玄関に鞄を置き、リビングへ顔を出す。


「ただいま」


「おかえり。今日は早かったわね」


 母が台所から顔を出した。


「うん。今日は早く帰るって言ったし」


「珍しい」


「受験生だから」


 昨日から何度も使っている言葉だった。


 便利すぎる言い訳だと思う。


 けれど、母はそれ以上深く聞かなかった。


「司は?」


「まだ帰ってないわよ」


「そっか」


 昌志は少しだけ安心した。


 司がいないうちに、できることを済ませておきたい。


 今夜、火事が起きる。


 午後九時十七分。


 隣町三丁目の古い住宅街。


 赤ん坊が取り残される。


 黒い本には、そこまで書かれていた。


 けれど、場所が完全に分かっているわけではない。


 隣町には何度も行ったことがある。


 でも、三丁目の古い住宅街と言われても、細かい場所までは分からない。


 夜になれば、見慣れた道でも風景が変わる。


 街灯の位置。


 店の明かり。


 細い路地。


 似たような家の並び。


 昼間なら迷わない場所でも、夜なら間違えるかもしれない。


 今回、迷うことだけはできない。


 迷っている時間はない。


 人の命がかかっている。


 赤ん坊が、火の中に取り残される。


 それなら、本番の前に一度、実際に行くしかない。


 歩いて行く。


 どの道を通るか。


 どの角を曲がるか。


 どの家なのか。


 歩くとどれくらい時間がかかるのか。


 それを全部確認して、いったん戻ってくる。


 本番と同じ行動を、先に一度やっておく。


 そうしないと、怖かった。


 自転車は使わない。


 住宅街の中で、自転車の音は思ったより響く。


 ブレーキ。


 チェーン。


 タイヤが小石を踏む音。


 夜なら、余計に目立つ。


 火事の前に、高校生が自転車でうろついていれば不自然だ。


 歩く方がいい。


 少なくとも、足音なら抑えられる。


 昌志は鞄を持って、自分の部屋へ上がった。部屋に入ると、すぐにドアを閉める。


 鞄から黒い本を取り出し、机の上に置いた。


 まだ開かない。


 開いても、文章は変わっていないはずだ。


 まだ火事は起きていない。


 まだ赤ん坊は助けていない。


 まだ何も終わっていない。


 それでも、黒い本を机の上に置いておかないと落ち着かなかった。


 昌志は制服を脱ぎ、クローゼットを開けた。


 夜に着ていく服を選ぶ。


 目立たないもの。


 歩きやすいもの。


 走りやすいもの。


 汚れてもいいもの。


 今から下見に行くなら、あとで本番でも同じ服を着た方がいい。


 服装が違えば、感覚も変わる。


 靴も同じ方がいい。


 鞄の重さも、できるだけ同じ。


 今夜の本番で迷わないためには、できるだけ同じ状態で動いておきたかった。


 昌志は濃い色のパーカーと、動きやすいズボンを引っ張り出した。


 靴は、普段履きのスニーカー。


 学校指定のものより歩きやすい。


 スマホ。


 財布。


 黒い本。


 ノート。


 ペットボトル。


 ゴム手袋


 バール


 必要なものを一つずつ確認する。


 火傷防止の手袋や、侵入する為、バールも一応用意する。火事の中に入るためのタオルは、まだ濡らさない。


 下見の時点で濡らしたタオルを持っていれば、不自然だ。


 本番の直前に濡らせばいい。


 今必要なのは、場所を確認すること。


 道を覚えること。


 歩く時間を確かめること。


 それだけだった。


 昌志はスマホの地図を開いた。


 隣町三丁目。


 古い住宅街。


 表示された地図を何度も拡大する。


 公園。


 細い路地。


 古い商店。


 住宅の密集した場所。


 候補はいくつかある。


 でも、地図だけでは分からない。


 黒い本には、具体的な住所までは書かれていない。


 だから、実際に見に行く必要がある。


 昌志は時計を見た。


 今から行って戻ってくれば、夕食には間に合う。


 少し遅くなっても、外で飲み物を買ってきたと言えばごまかせる。


 ただ、あまり時間はかけられない。


 下見は下見だ。


 本番は夜。


 体力も残しておかなければならない。


 昌志は服を着替えた。


 鞄を持つ。


 黒い本を鞄の奥に入れる。


 それから、もう一度だけ部屋を見回した。


 忘れ物はない。


 今からやるのは、夜にやる行動の予行練習だ。


 同じように家を出る。


 同じように歩いて行く。


 同じ道を通る。


 家を確認する。


 そして戻ってくる。


 それができれば、本番で迷う可能性は減る。


 昌志は部屋を出た。


 階段を下りる。


 リビングの方へ顔を出す。


「ちょっと出てくる」


「え、また?」


 母が言った。


「すぐ戻る」


「どこ行くの?」


「コンビニ。飲み物買ってくる」


「家に麦茶あるわよ」


「ちょっと違うの飲みたい」


 自分でも雑な言い訳だと思った。


 でも、母は忙しかったのか、それ以上聞かなかった。


「暗くなる前に帰ってきなさいよ」


「うん」


 昌志は短く答えた。


 玄関で靴を履く。


 ドアを開ける。


 外へ出る。


 まだ完全な夜ではない。


 夕方の名残が少しだけ残っていた。


 それでも、空はだいぶ暗くなり始めている。


 昌志は家の前から少し離れるまで、いつも通りの歩き方をした。


 そこから少しだけ、歩く速度を上げた。


 今から、本番と同じ道を歩く。


 *             *


 隣町へ向かう道を、昌志は歩いて進んだ。


 できるだけ、夜に使うつもりの道を選ぶ。


 大通り。


 信号。


 コンビニの角。


 古い薬局。


 細い橋。


 その先の公園。


 地図で見た目印を、一つずつ実物として確認していく。


 昼と夜の間の時間帯だった。


 街灯はつき始めている。


 店の明かりも増えている。


 完全な夜ではないが、昼間とはもう違う。


 この時間に見ておけば、夜の見え方も少し想像できる。


 昌志は歩きながら、頭の中で道をなぞった。


 自宅からここまで、思ったより時間がかかる。


 走れば早い。


 でも、本番前に走って体力を使いすぎるわけにはいかない。


 火事の時間に合わせるなら、余裕を持って出る必要がある。


 午後九時十七分。


 少なくとも三十分以上前には近くまで着いておきたい。


 なら、八時頃には家を出た方がいい。


 今と同じ道を使う。


 同じ目印を通る。


 同じ角を曲がる。


 同じ住宅街へ入る。


 公園の近くまで来て、昌志は足を止めた。


 ここは目印に使える。


 住宅街へ入る前に、一度呼吸を整える場所にもなる。


 公園の脇なら、人がいてもそこまで不自然ではない。


 ただし、長く立っていれば目立つ。


 本番では、ここで止まるとしても短くする。


 昌志はそう決めた。


 鞄を肩にかけ直し、住宅街の方へ歩き出す。


 道は思ったより細かった。


 古い塀が続いている。


 低い屋根。


 錆びた門。


 狭い路地。


 似たような家がいくつも並んでいる。


 地図ではただの線だった道が、実際にはかなり入り組んでいた。


 見に来てよかった。


 昌志はすぐにそう思った。


 夜に初めてここへ来ていたら、たぶん迷う。


 似たような角が多い。


 どこを曲がったのか分からなくなりそうだった。


 それに、足音も思ったより響く。


 舗装の古い道。


 側溝の蓋。


 砂利の混じった端。


 歩く場所を間違えると、小さな音が鳴る。


 本番では、できるだけ音の出ない場所を歩いた方がいい。


 昌志は、足元を見ながら進んだ。


 黒い本の文章を思い出す。


 隣町三丁目の古い住宅街。


 古い住宅街。


 確かに、ここはそうだった。


 でも、古い住宅街はここだけではない。


 昌志はスマホの地図を開き、周囲と見比べた。


 候補にしていた一角へ向かう。


 公園から一本目の道。


 右へ曲がる。


 古い電柱。


 小さな空き地。


 その先に、少し奥まった家がある。


 昌志は足を止めた。


 木造の古い家だった。


 道路に面した玄関。


 玄関の奥に、廊下がまっすぐ続いていそうな造り。


 もちろん、外から見ただけでは分からない。


 けれど、黒い本の文章が頭に浮かんだ。


 玄関から入って、まっすぐ進んだ突き当たりの部屋。


 この家なら、その文章に合う気がした。


 昌志は家の前で長く立ち止まらないようにした。


 不審に見える。


 一度通り過ぎる。


 少し先の角まで行き、振り返る。


 家の位置を覚える。


 公園から歩いて何分か。


 曲がる場所はどこか。


 周囲に目印はあるか。


 逃げるなら、どちらへ出られるか。


 救急車や消防車が来るなら、どの道から来るか。


 全部を覚えようとする。


 全部は無理だ。


 でも、少しでも覚えなければならない。


 今回、迷うことだけはできない。


 昌志はもう一度、別の道から家の近くへ回った。


 裏側へ抜けられる細い道がある。


 そこからも住宅街の外へ出られる。


 火事になった時、人が集まるなら正面の道だろう。


 裏へ回れば、目立たず近づけるかもしれない。


 ただし、暗い。


 夜にこの細い道を通るのは危ない。


 足元も見えにくい。


 昌志は、足元の段差を確認した。


 小さな段差。


 側溝の蓋。


 少し割れたアスファルト。


 砂利の浮いた場所。


 火事の時に走れば、つまずくかもしれない。


 それも覚える。


 ここで転んだら終わりだ。


 赤ん坊を抱えていたら、なおさらだ。


 昌志は息を吐いた。


 下見に来てよかった。


 地図だけでは、こんなことは分からない。


 実際に見ないと分からないことばかりだった。


 家の場所。


 道の狭さ。


 足音の響き方。


 曲がる角。


 足元の段差。


 夜に近づいた時の空気。


 全部、見ておかなければ危なかった。


 昌志はスマホで時間を確認した。


 あまり長居はできない。


 夕食前には戻らなければならない。


 今はまだ下見だ。


 本番ではない。


 火事は午後九時十七分。

 今、ここにいても何も起きない。


 起きるのは夜だ。


 昌志はもう一度、家を見た。


 ここだ。

 たぶん、この家だ。


 完全な確信はない。


 でも、今見た中では一番文章に合っている。


 もし違っていたとしても、この住宅街の中で火が上がれば、すぐに分かるはずだ。


 少なくとも、ここまで来る道は覚えた。


 それだけでも大きい。


 昌志は来た道を戻った。

 公園の脇まで戻り、もう一度周囲を見る。


 ここを通る。

 本番でも、ここを目印にする。


 ここで息を整える。


 そこから歩く。


 この道を進む。


 あの角を曲がる。


 古い電柱。


 小さな空き地。


 奥まった家。


 昌志は頭の中で、何度も道順を繰り返した。


 よし。

 これで戻る。


 戻って、夕食を食べる。


 普通に過ごす。


 少し休む。

 そして、夜八時頃にもう一度出る。


 同じ道を歩く。


 同じ目印を通る。


 同じ家へ向かう。


 今度は、本番だ。


 昌志は来た道を戻った。


 帰り道でも、目印を一つずつ確認した。


 細い橋。


 古い薬局。


 コンビニの角。


 大きな交差点。


 自宅へ戻る道。


 どこで間違えそうか。


 どこなら夜でも分かるか。


 それを確認しながら進む。


 途中、言い訳のためにコンビニへ寄った。


 飲み物を一本買う。


 それを持っていれば、少なくとも何も買わずに戻るよりは自然に見える。


 家の近くまで来た時、昌志は少しだけ歩く速度を落とした。


 息を整える。


 普通に帰ってきた顔をしなければならない。


 コンビニへ行ってきただけ。


 少し外へ出ただけ。


 そういう顔をする。


 昌志は玄関のドアを開けた。


「ただいま」


 声は、思ったより普通に出た。


「おかえり。早かったわね」


 母の声がした。


「うん。近くだったから」


 嘘だった。


 近くではない。


 隣町まで歩いて行ってきた。


 火事が起きるはずの家を見てきた。


 歩く道も、曲がる角も確認してきた。


 でも、そんなことは言えない。


 昌志は靴を脱いだ。


 鞄を持って、また二階へ上がる。


 部屋に入って、ドアを閉める。


 ようやく息を吐いた。


 下見は終わった。

 場所は分かった。


 道も覚えた。


 歩く時間もだいたい分かった。


 これで、本番で迷う可能性は減った。


 昌志は机の上に黒い本を置いた。


 ページを開く。


 文章は、まだ変わっていない。


 当然だ。


 まだ火事は起きていない。


 まだ何も終わっていない。


 けれど、昌志の中では、一つ終わった気がした。


 準備の一つが。


 本番へ向かうための下見が。


 昌志はノートを開き、道順を書いた。


 徒歩。


 公園の脇。


 古い電柱。


 小さな空き地。


 奥まった木造の家。


 裏道あり。


 段差注意。


 足音注意。


 逃げ道確認。


 書きながら、少しだけ手が震えた。


 これを書いている自分が、普通ではないと分かっていた。


 夜の火事に備えて、逃げ道と段差を書いている。


 足音まで気にしている。


 普通の高校生がすることではない。


 でも、やらなければならない。


 助けるためには。


 迷わないためには。


 昌志はノートを閉じた。


 夕食まで、少し時間がある。


 本番まで、まだ時間がある。


 その間に、体を休める。


 もう一度、普通の顔に戻る。


 そして夜になったら、また出る。


 同じ道を通って。


 同じ場所まで。


 今度は、本当に火が上がるかもしれない場所へ。


 昌志はベッドに腰を下ろした。


 胸の奥は、まだざわついている。


 それでも、下見をする前よりは少しだけ落ち着いていた。


 迷わない。


 それだけは、たぶんできる。


 そう思えたからだ。


 けれど、昌志は気づいていなかった。


 自分が家を出て、思ったより長い時間戻らなかったことを。


 家の二階の窓から、じっと見ていた目があったことに。


 そしてその目が、夜になったらもう一度確かめようと決めていたことに。


 昌志は、まだ気づいていなかった。

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