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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第51話 六月二十五日の選択

 六月二十五日の朝。


 昌志は、目を覚ましてすぐに昨日のことを思い出した。


 教室で拾った一枚の紙。


 知らない老人への道案内。


 そして、黒い本の文章が変わったこと。


 出来事が終わると、文章はすぐに過去の形になる。


 たぶん、自分がその出来事をやり遂げた時。


 あるいは、もう実行できない時間になった時。


 その出来事が終わったと黒い本が判断した時。


 未来の文章は、結果として書き直される。


 昨日は、それが二回続いた。


 紙の時も。


 老人の時も。


 どちらも、終わったあとすぐに文章が変わった。


 だから、昌志は少しだけルールを掴んだ気になっていた。


 けれど、今朝は新しい文章が浮かんでいなかった。


 黒い本を開いても、昨日の続きに別の文字は出ていない。


 当然なのかもしれない。


 今日はもう、書かれている。


 今日、起きることを、昌志はすでに知っている。


 六月二十五日、夜。


 隣町で、火が上がる。


 午後九時十七分。


 隣町三丁目の古い住宅街。


 放火によって、一軒の家が燃える。


 家の中には、赤ん坊が取り残されている。


 玄関から入って、まっすぐ進んだ突き当たりの部屋。


 赤ん坊は、その部屋で一人、泣いている。


 助けに入れば、命に届く。


 入らなければ、泣き声は火の中で消える。


 昌志は、布団の上でしばらく動けなかった。


 文章は、何度も読み返した。


 もう覚えてしまったくらいだ。


 場所も、時間も、かなり具体的に書かれている。


 助けるべき相手も分かっている。


 赤ん坊。


 突き当たりの部屋。


 そこまで分かっていて、行かないという選択ができるのか。


 昌志には、できない気がした。


 最初から、助けに行くつもりだった。


 そう思っている自分に気づく。


 怖くないわけではない。


 火事だ。


 燃えている家だ。


 中に入れば、自分も危ない。


 そんなことは分かっている。


 けれど、美月の時もそうだった。


 あの時も、場所と時間が書かれていた。


 昌志はその場所へ行った。


 そして、美月は助かった。


 あれは当たっていた。


 だから、今回もたぶん間違いない。


 黒い本が嘘を書いていないなら、今夜、本当に火事が起きる。


 本当に赤ん坊が取り残される。


 そして、昌志が行けば助けられる。


 そう書かれている。


 なら、行くしかない。


 それに、美月を助けた後は、いいことが続いた。黒い本の流れも、少し良くなったように見えた。


 あの時は、嫌な文章ばかりではなくなった。たぶん、今回もそうだ。


 これは悪い予告ではなく、特別な出来事なのかもしれない。


 取れば、流れが変わる。

 取れば、またいいことが続く。


 この前みたいに。


 昌志は、そう思おうとした。


 思わないと、火事のことを正面から考えられなかった。


 赤ん坊の命を、黒い本の流れを戻すためのものみたいに考えている。


 そのことに少し嫌な気分になる。


 けれど、助けること自体は間違っていない。


 助けられるなら、助けるべきだ。

 それだけは、たぶん間違っていない。


 問題は、どう助けるかだった。


 火事は夜だ。


 午後九時十七分。


 家を出るには遅い時間になる。


 母や司に気づかれないように出なければならない。自転車で近くまで行って、そこから歩く。


 現場の近くで自転車を見られると、後で面倒になるかもしれない。


 火事の家の近くまで乗りつけるのは危ない。


 少し離れた場所に置いて、歩いて向かう方がいい。


 それに、少し早めに行かなければならない。


 午後九時十七分に火が上がるなら、その前に現場へ着いておく必要がある。


 火が上がってから向かっていては遅い。


 もし、本当に放火なら。


 少し早く着けば、放火犯を見つけられるかもしれない。火がつく前に止められるかもしれない。


 少なくとも、何かを目撃できるかもしれない。そうすれば、火事そのものを防げる可能性もある。


 ただし、それができるのかは分からない。


 黒い本は、火が上がると書いた。


 放火によって、一軒の家が燃えると書いた。


 それを事前に止めたら、文章はどうなるのか。


 火事が起きなければ、赤ん坊は取り残されない。


 それなら、それが一番いい。


 でも、黒い本の文章を変えられるのか。


 昌志には分からなかった。


 分からないことばかりだ。


 それでも、動くしかない。


 朝食の席で、司がこちらを見ていた。


「兄ちゃん、今日も変な顔」


「変な顔って何だよ」


「なんか、寝てない人みたいな顔」


「寝たよ」


「本当に?」


「本当」


 司は疑うように目を細めた。


 最近の司は、妙にこちらを見てくる。


 気づかれているのかもしれない。


 何かがおかしいことくらいは。


 昌志は味噌汁を飲みながら、できるだけ普通の顔を作った。


 今日の夜、家を出る。


 それを司にも母にも気づかれてはいけない。


 そう考えると、朝から少し息が詰まった。


「昌志、今日は帰り遅くなるの?」


 母が聞いた。


「いや、今日は早く帰る」


「そうなの?」


「ちょっと、家でやることがあるから」


「勉強?」


「まあ、そんな感じ」


「珍しいね、兄ちゃんが自分から早く帰るって」


 司が言った。


「受験生だからな」


「便利だね、受験生って言葉」


 司はぼそっと言った。


 昌志は聞こえないふりをした。


 今日は、本当に急いで帰るつもりだった。


 学校が終わったら寄り道はしない。


 現場を確認しに行きたい気持ちはある。


 隣町には何度も行ったことがあるが、三丁目の古い住宅街と言われても、細かい道までは分からない。


 知らない場所かもしれない。


 夜に迷ったら終わりだ。


 火事の時間に間に合わなければ意味がない。


 けれど、放課後に隣町まで行って、家に戻って、また夜に出る。


 それは時間も体力も使う。


 何より、帰りが遅くなれば母や司に怪しまれる。


 今日は、夜が本番だ。


 できるだけ早く帰る。


 家で準備をする。


 少しでも体を休める。


 それから、見つからないように出る。


 その方がいい。


 昌志はそう決めていた。


 鞄を持つ。


 黒い本も、ノートも入っている。


 最近はもう、黒い本を持たずに外へ出ることができなくなっていた。


 今日のような日は、なおさらだった。


 何かが起きたらすぐ確認したい。


 文章が変わったらすぐ見たい。


 それができないと思うだけで、不安になる。


 黒い本を携帯していることが、当たり前になっている。


 その事実が怖い。


 でも、置いていく方がもっと怖かった。


 *   *


 学校へ向かう道でも、昌志はずっと今夜のことを考えていた。


 必要なものは何か。


 タオル。


 濡らせるもの。


 ハンカチだけでは足りないかもしれない。


 火事の中に入るなら、煙が危ない。


 口を覆うものがいる。


 でも、濡らしたタオルを持って家を出れば怪しまれる。


 夜に出る直前、洗面所で濡らして持っていくか。


 袋に入れれば、鞄の中に隠せるかもしれない。


 服はどうする。


 制服で行くわけにはいかない。


 夜に出るなら、普段着に着替える。


 走りやすい靴。


 自転車。


 スマホ。


 財布。


 水。


 考えれば考えるほど、準備が足りない気がした。


 消防士でもない。


 訓練を受けたわけでもない。


 ただの高校生だ。


 そんな自分が火事の家に入ること自体がおかしい。


 けれど、黒い本は書いた。


 助けに入れば、命に届く。


 それは、昌志が入れば助けられるという意味ではないのか。


 そうであってほしい。

 そうでなければ、あまりにもひどい。


 学校に着いてからも、昌志の頭はほとんど働かなかった。


 授業は進んでいる。


 先生の声も聞こえている。


 黒板の文字も見えている。


 けれど、内容が入ってこない。


 ノートを取っているつもりなのに、気づくと同じところに線を引いている。


 午後九時十七分。


 隣町三丁目。


 古い住宅街。


 玄関からまっすぐ。


 突き当たりの部屋。


 その文字ばかりが頭の中で繰り返される。


「昌志」


 休み時間、圭佑に声をかけられた。


「何」


「お前、今日ぼーっとしすぎじゃね?」


「そうか?」


「そうだよ。先生に当てられて、三秒くらい固まってたぞ」


「考え事してた」


「何の」


「受験」


「嘘くせえ」


 圭佑は即答した。


 昌志は少しだけ目をそらした。


「嘘じゃない」


「嘘じゃないにしても、それだけじゃないだろ」


「何でもない」


「またそれか」


 圭佑はため息をついた。


「昨日はちょっと機嫌よかったのに、今日はまた戻ったな」


「戻ったって何だよ」


「暗い方に」


「失礼だな」


「失礼でも事実だろ」


 圭佑はそう言ったあと、少しだけ真面目な顔をした。


「本当に大丈夫か?」


「大丈夫」


 昌志はすぐに答えた。


 圭佑の目が細くなる。


「お前の大丈夫、信用できねえんだよな」


「信用しろよ」


「信用させろよ」


 返す言葉がなかった。


 圭佑は、まだ何か言いたそうだった。


 でもチャイムが鳴り、会話はそこで終わった。


 昌志は席に座る。


 正直、圭佑に何を言われたのか、半分くらい覚えていなかった。


 それくらい、頭の中は今夜のことで埋まっていた。


 昼休みも、弁当の味がほとんど分からなかった。


 圭佑が何か話していた。


 たぶん美月のことか、昨日買った文房具のことだったと思う。


 昌志は相槌を打った。


 けれど、内容はほとんど残っていない。


「お前、今の聞いてたか?」


「聞いてた」


「じゃあ、俺は何て言った?」


「美月ちゃんの話」


「それは最初の五秒だ」


「悪い」


 圭佑は呆れた顔をした。


「本当にどうしたんだよ」


「ちょっと眠いだけ」


「朝からずっと眠いって言ってないか?」


「梅雨だから」


「梅雨のせいにするな」


 圭佑はそう言ったが、最後はそれ以上追及しなかった。


 昌志は少しだけ安心した。


 今、深く聞かれたら困る。


 何を言っても嘘になる。


 けれど、本当のことは言えない。


 午後の授業が終わる頃には、昌志の中で予定がほとんど決まっていた。


 今日は、急いで帰る。家に着いたら、まず夜に出るための準備をする。


 走りやすい服を用意する。

 タオルを用意する。


 自転車の鍵をすぐ取れる場所に置く。


 スマホの充電を確認する。


 隣町三丁目の場所も、スマホで調べておく。できれば、地図を頭に入れる。


 どの道で行くか。

 どこに自転車を置くか。


 そこからどう歩くか。


 午後九時十七分より前に現場へ着くには、何時に家を出ればいいか。


 全部、決めておく。


 その後、夕食を普通に食べる。


 母や司に怪しまれないようにする。


 少し早めに部屋へ行き、寝る準備をしたふりをする。


 できれば、少し眠る。


 眠れなくても、目を閉じて体を休める。


 そして、夜八時半過ぎには家を出る。


 自転車で近くまで行く。


 そこから歩く。


 午後九時十七分より前に、現場へ着く。


 可能なら、火が上がる前に何かを見つける。


 放火犯。


 不審な人物。


 火元。


 家の人の様子。


 何でもいい。


 止められるなら止める。


 止められなければ、赤ん坊を助ける。


 そこまで考えて、昌志は自分の手が少し震えていることに気づいた。


 怖い。


 当然だ。


 怖くないわけがない。


 それでも、予定を立てていると、少しだけ落ち着いた。


 分からないものを、少しずつ形にする。


 黒い本のルールを整理した時と同じだ。


 何をするのか決めてしまえば、考えることが少し減る。


 放課後になった。


 教室がざわつく。


 圭佑が鞄を持って、昌志の方へ来た。


「帰るか?」


「今日は急いで帰る」


「珍しいな」


「家でやることあるから」


「勉強?」


「まあ、そんな感じ」


「受験生だな」


「受験生だからな」


 昌志は無理に笑った。


 圭佑は納得していない顔だった。


「じゃあ、駅前寄らないのか?」


「寄らない」


「本屋も?」


「今日はいい」


「昨日までなら寄ってただろ」


「今日は本当に急いでる」


 圭佑は、昌志の顔をじっと見た。


「何か、あるのか?」


「何もない」


「何もないやつの顔じゃねえよ」


「圭佑」


「何だよ」


「今日は、本当に帰る」


 昌志がそう言うと、圭佑は少しだけ黙った。


 それから、小さく息を吐く。


「分かった」


「悪い」


「謝ることじゃねえけど」


 圭佑は鞄を肩にかけ直した。


「また明日な」


「ああ」


「変なことすんなよ」


 昌志は一瞬だけ返事に詰まった。


 それから、できるだけ普通に答えた。


「しないよ」


 嘘だった。


 今夜、昌志は変なことをする。


 誰にも言えないことをする。


 それでも、そう言うしかなかった。


 *       *


 昌志は教室を出た。


 昇降口で靴を履き替え、校門を出る。


 今日は寄り道しない。


 隣町にも行かない。


 現場の下見も、できればしたかった。


 けれど、今日は早く帰る。


 夜のために、時間と体力を残す。


 家族に怪しまれないようにする。


 それが一番大事だった。


 帰り道を歩きながら、昌志は鞄の奥の黒い本を意識していた。


 今は開かない。


 まだ文章は変わらない。


 出来事は終わっていない。


 終わったら、すぐ確認する。


 助けた後に、文章がどう変わるのか。


 この特別な選択が、何をもたらすのか。


 それを必ず見る。


 そのためにも、黒い本は持っていく。


 夜も。


 火事の場所にも。


 本当は、そんなものを火事の近くへ持っていくべきではないのかもしれない。


 落としたら終わりだ。


 誰かに見られたらまずい。


 燃えたらどうなるのかも分からない。


 それでも、置いていくことは考えられなかった。


 黒い本がなければ、終わったあとに確認できない。


 文章が変わる瞬間を見逃すかもしれない。


 それが嫌だった。


 昌志は歩く速度を少し上げた。


 早く帰る。


 準備をする。


 少し休む。


 そして、夜になったら出る。


 今日の夜、隣町で火が上がる。


 まだ何も起きていない。


 けれど、昌志の中では、もう始まっていた。


 家の近くまで来た時、足が少し重くなった。


 玄関を開ければ、母がいるかもしれない。


 司がいるかもしれない。


 いつも通りの家に戻る。


 そして、いつも通りの顔で過ごさなければならない。


 今夜、自分が火事の家へ向かうつもりだと、誰にも気づかれないように。


 昌志は玄関の前で一度だけ息を整えた。


 それから、鍵を開けた。


「ただいま」


 声は、思ったより普通に出た。


 それが少しだけ怖かった。

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