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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第50話 もう一つの文章

 午後の授業が終わる頃になっても、昌志の気分はまだ軽かった。


 朝、紙を拾った。


 小さな疑いは受けた。


 けれど、紙は持ち主に戻った。


 困っていた誰かは、困らずに済んだ。


 そして何より、黒い本の文章が変わるところを確認できた。


 出来事が終われば、文章は過去の形になる。


 その場で変わる。


 一日が終わるまで待つ必要はない。


 それが分かった。


 もちろん、まだ仮定ではある。


 たまたま今日だけそうだったのかもしれない。


 朝の紙だけが特別だったのかもしれない。


 でも、昌志にはかなり確かなことに思えた。


 分からないことだらけの黒い本に、ようやく一つだけ手がかかった気がした。


 それだけで、授業中の黒板の文字まで、少し見やすくなった。


 六時間目が終わり、教室の空気が緩む。


 部活へ行く生徒。


 友達と帰る生徒。


 机の中を片づける生徒。


 圭佑が鞄を肩にかけながら、昌志の顔を見た。


「今日、やっぱり機嫌いいな」


「まだ言うのか」


「言うだろ。朝と全然違うし」


「普通だって」


「普通って顔じゃねえよ」


 圭佑はそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「何かいいことあったのか?」


「まあ、少し」


「何だよ」


「大したことじゃない」


「またそれか」


 圭佑は呆れたように言った。


 昌志は鞄を持ち上げる。


 鞄の奥には、黒い本がある。


 朝、すぐに確認した黒い本。


 今もそこにある。


 最近は、本がないと落ち着かない。


 それが普通になりかけている。


 そのことを考えると、少しだけ胸の奥が重くなった。


 でも、今はまだ、重さよりも安心の方が強い。


「圭佑、今日は部活?」


「いや、今日は帰る。美月にまた買い物頼まれてる」


「また?」


「また。昨日のシール、片方外した」


「二つ買って片方外したなら、まあ当たりだろ」


「本人もそう言ってた」


「ならいいじゃん」


「よくねえよ。もう一種類欲しいって言われた」


 圭佑はため息をついた。


「お前は?」


「帰る」


 昌志はそう答えた。


 けれど、その答えは半分だけだった。


 帰る、ただし、帰り道で知らない老人に道を聞かれる。


 教えれば、遅れて帰る。


 教えなければ、老人は迷う。


 黒い本にそう書かれている。


「一緒に駅前まで行くか?」


 圭佑が聞いた。


 昌志は少し迷った。


 圭佑と一緒に帰れば、老人に会う場所や時間が変わるのか。


 それとも、黒い本に書かれた通り、どこかで必ず道を聞かれるのか。


 分からない。


 ただ、今は一人で確認したい気持ちもあった。


 朝の紙の時のように、終わったあとですぐ黒い本を見たい。


 圭佑が隣にいると、それができない。


「今日はいい」


「何だよ、冷たいな」


「買い物あるんだろ」


「まあな」


「じゃあ、また明日」


「ああ」


 圭佑は少しだけ昌志を見た。


 何か言いたそうだった。


 でも、結局何も言わずに手を振った。


「じゃあな。変なことすんなよ」


「何で圭佑までそれ言うんだよ」


「司ちゃんにも言われたのか?」


「今朝、言われた」


「やっぱりな」


「何がやっぱりなんだよ」


「いや、別に」


 圭佑は笑って教室を出ていった。


 昌志も少し遅れて教室を出た。


 昇降口へ向かいながら、頭の中で放課後の文章を繰り返す。


 帰り道で、知らない老人に道を聞かれる。


 教えれば、遅れて帰る。


 教えなければ、老人は迷う。


 老人がどこで現れるのかは分からない。


 学校の近くなのか。


 駅前なのか。


 家の近くなのか。


 それとも、まったく別の道なのか。


 ただ、朝の紙と同じなら、文章に書かれた出来事はちゃんと起きる。


 そのはずだ。


 昌志は靴を履き替え、校門を出た。


 空は少し曇っていた。


 雨が降るほどではない。


 けれど、梅雨らしい湿った風が吹いている。


 通学路を歩きながら、昌志は周囲を見た。


 帰宅する生徒たち。


 自転車で通り過ぎる中学生。


 犬を連れて歩く人。


 店の前に立つ人。


 どこにでもいる普通の人たちの中に、黒い本に書かれた老人がいるのかもしれない。


 そう思うと、何でもない道まで少し違って見えた。


 しばらく歩いても、何も起きなかった。


 駅へ向かう道と住宅街へ向かう道の分かれ目まで来る。


 昌志の家へ帰るなら、住宅街の方へ進む。


 いつも通りの道だ。


 そこで、声をかけられた。


「あの、すみません」


 振り向くと、そこに老人が立っていた。


 白い帽子をかぶった、細身の男性だった。


 手には古い紙の地図を持っている。


 スマホではない。


 地図を広げたまま、少し困った顔をしていた。


「この辺りに、南町の福祉会館というところはありますか」


 昌志は一瞬、息を止めた。


 来た。


 知らない老人。

 道を聞かれる。


 黒い本の文章通りだった。


「福祉会館ですか?」


「ええ。人に聞いてここまで来たんですが、途中で道が分からなくなってしまって」


 老人は申し訳なさそうに笑った。


 地図を見ると、確かにこの辺りまでは来ている。


 でも、福祉会館はここから少し奥に入った場所にあった。


 口で説明することもできる。


 ただ、曲がる場所が少し分かりにくい。


 途中に似たような細い道が何本かある。


 教えれば、遅れて帰る。


 教えなければ、老人は迷う。


 昌志は道の先を見た。


 ここで詳しく説明しても、老人はまた迷うかもしれない。


 一緒に行けば確実だ。


 でも、そうすれば遅れる。


 家に帰るのが遅くなる。


 母に何か言われるかもしれない。


 司にもまた変な目で見られるかもしれない。


 けれど、老人は今、困っている。


 それを知ってしまった。


 しかも黒い本は、教えなければ老人は迷うと書いていた。


 なら、放っておけない。


「そこ、少し分かりにくいので、近くまで案内します」


「いいんですか?」


「はい。帰り道から少し外れるだけなので」


 嘘だった。


 少しではない。


 でも、そう言わないと、老人が遠慮すると思った。


「すみません。助かります」


 老人は何度も頭を下げた。


 昌志は「こっちです」と言って歩き出した。


 老人の歩く速度は遅かった。


 昌志は自然と歩幅を合わせる。


 急げば十分で済む道も、老人に合わせると倍近くかかる。


 教えれば、遅れて帰る。


 黒い本の文章が頭に浮かぶ。


 その通りだ。


 遅れている。


 でも、それだけだった。


 朝の紙と同じだ。

 自分には少し面倒が来る。


 でも、誰かは困らずに済む。


 老人は歩きながら、何度も地図を見た。


「最近は、こういう地図も見づらくてね」


「スマホは使わないんですか」


「持ってはいるんですが、どうも苦手で」


 老人は少し恥ずかしそうに笑った。


「孫には、いつも練習しろと言われるんですが」


「慣れないと難しいですよね」


「ええ。本当に」


 普通の会話だった。


 黒い本の文章に出てくる人も、実際に会えば普通の人だ。


 困っていて、申し訳なさそうにしていて、孫の話をする。


 ただの老人だった。


 そう思うと、余計に見捨てることはできなかった。


 細い道を曲がり、坂を少し上る。


 福祉会館の建物が見えた。


 老人は看板を見つけると、ほっとしたように息を吐いた。


「ああ、ここです。ありがとうございました」


「いえ」


「本当に助かりました。時間を取らせてしまって」


「大丈夫です」


 また、その言葉を使った。


 大丈夫。


 遅れただけだ。

 道を案内しただけだ。


 大したことではない。


 老人は深く頭を下げた。

 昌志は軽く会釈して、来た道を戻った。


 時計を見る。


 思ったより時間が過ぎていた。


 いつもよりかなり遅い。


 けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。


 朝と同じだ。

 黒い本の文章通りに動いた。


 誰かは困らずに済んだ。


 昌志には少しだけ不都合が来た。


 でも、それは小さいものだった。


 小さいなら、受けてもいい。


 また、その考えが頭に浮かぶ。


 昌志は首を振った。


 受けてもいい、ではない。


 そう考えるのは危ない。


 分かっている。


 分かっているのに、もうそういう考え方が染みつき始めている。


 帰り道の途中、人通りの少ない小さな公園があった。


 昌志はそこで足を止めた。


 ベンチが一つ空いている。


 周りに人はいない。


 今なら確認できる。


 昌志はベンチに座り、鞄を膝の上に置いた。


 黒い本を取り出す。


 学校の踊り場で開いた時ほどの緊張はなかった。


 むしろ、早く見たいという気持ちの方が強かった。


 黒い本を開く。


 六月二十四日のページ。


 朝の紙の文章の下。


 放課後の文章が、変わっていた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十四日、放課後。


 帰り道で、

 知らない老人に道を聞かれた。


 教えたことで、

 帰りは少し遅れた。


 それでも、

 老人は迷わずに済んだ。


 目的の場所へ、

 無事にたどり着いた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、静かに息を吐いた。


 やっぱりだ。


 文章は変わっていた。


 朝と同じ。


 出来事が終わると、その部分だけが過去の文章になる。


 しかも、結果まで書かれる。


 帰りは少し遅れた。


 老人は迷わずに済んだ。


 目的の場所へ、無事にたどり着いた。


 黒い本は、そのあとまで書いている。


 昌志が見届けていない結果まで。


 老人が本当に目的の場所へ着いたことを、黒い本は書いている。


 昌志は本を閉じずに、じっとページを見た。


 一つの仮定が、かなり強くなった。


 文章に書かれた出来事は、終了するとすぐに文書化される。


 自分が選択を実行した時。


 あるいは、もう実行できない時間になった時。


 その出来事が終わったと黒い本が判断した時。


 未来の文章は、過去の結果になる。


 朝の紙。


 放課後の老人。


 二つ続いた。


 偶然ではない。


 たぶん、ルールだ。


 昌志の胸が、少し高鳴った。


 怖い本だ。


 嫌な本だ。


 分かっている。


 でも、分からなかったものが分かることは、嬉しかった。


 ルールが一つ分かれば、次に使える。


 次の文章がいつ終わったのか。


 結果がどうなったのか。


 それを確認できる。


 見えないものを、少しだけ見える形にできる。


「……これなら」


 昌志は小さく呟いた。


 これなら、もっと整理できるかもしれない。


 黒い本の動き方。


 文章の変わるタイミング。


 選択の結果。


 それを記録すれば、次に備えられる。


 明日の文章も、きっと同じだ。


 明日の特別な選択。


 場所も時間も、かなり具体的に書かれている。


 それを終えれば、また文章は変わる。


 もし助けることができれば。


 もし良い結果になれば。


 この前の美月の時と同じように、また黒い本の流れが良くなるかもしれない。


 昌志は、その考えを否定しなかった。


 むしろ、そうであってほしいと思った。


 最近は悪い文章ばかりだった。


 疑われる。

 遅れる。


 困る。

 迷う。


 そういう小さな嫌なことばかりだった。


 でも、明日の選択は違う。


 誰かをはっきり助けられる。


 助けるべき対象がいる。


 しかも、場所も時間も分かっている。

 なら、助けるべきだ。


 助ければ、良くなるかもしれない。


 良くなるはずだ。


 そう思うと、胸の中に小さな熱が生まれた。


 昌志は黒い本を閉じた。


 公園のベンチから立ち上がる。


 空は少し暗くなり始めていた。


 家に帰れば、遅かったことを聞かれるかもしれない。


 でも、それも大したことではない。


 今日は、紙を届けた。


 老人を案内した。


 そして、黒い本のルールを一つ掴んだ。


 それだけで、昨日までより少し前に進めた気がした。


 *      *


 家に帰ると、司が玄関の近くにいた。


 靴を脱いでいる昌志を見て、少しだけ眉を寄せる。


「兄ちゃん、遅くない?」


「少し寄り道」


「どこ?」


「ちょっと道を聞かれて」


「道?」


「老人に。案内してた」


 司はじっと昌志を見た。


「本当?」


「本当」


「それだけ?」


「それだけ」


 司はまだ疑っている顔をしていた。


 最近の司は、妙に勘が鋭い。


 昌志は少し困ったが、嘘は言っていない。


 老人に道を聞かれて、案内した。


 それだけなら本当だ。


「兄ちゃん、最近よく人助けするね」


「そうか?」


「そうだよ」


 司は少し不満そうに言った。


「美月さんのこともあるし」


「あれは、たまたま」


「また、たまたま?」


「またって何だよ」


「何でもない」


 司はそう言って、リビングの方へ行った。


 昌志はその背中を見て、少しだけ息を吐いた。


 司にも何かを疑われている。


 でも、まだ大丈夫だ。


 たぶん。


 自分でも、その「たぶん」が頼りないことは分かっていた。


 夜、昌志は机に向かった。


 ノートを開く。


 今日の出来事を書き出す。


 六月二十四日。


 朝、紙。


 拾う。


 届ける。


 小さな疑い。


 紙は持ち主へ戻る。


 困っていた誰かは困らずに済む。


 放課後、老人。


 道案内。


 帰りが遅れる。


 老人は迷わずに済む。


 目的地へ到着。


 その下に、少し大きめの字で書いた。


 出来事が終わると、文章が変わる?


 結果が確定すると、過去形になる?


 自分が見ていない結果も書かれる?


 昌志はペンを止めた。


 最後の一文が気になった。


 自分が見ていない結果も書かれる。


 老人が目的地へ着いたところは見た。


 でも、その後のことまでは知らない。


 それでも黒い本は、老人が迷わずに済んだと書いた。


 朝の紙も同じだ。


 紙が持ち主に戻ったことは見た。


 でも、その紙によって三浦が本当に困らずに済んだのか、その全部を見たわけではない。


 黒い本は、昌志の見ていない部分まで知っている。


 そこは、やっぱり気味が悪い。


 でも、役にも立つ。


 結果が分かる。


 自分が選んだことが、どうなったのか分かる。


 それは怖い。


 怖いけれど、知りたい。


 昌志はノートを閉じた。


 黒い本をもう一度開く。


 六月二十五日の文章を見る。


 まだ変わっていない。


 当然だ。


 まだ明日のことだから。


 けれど、明日になれば、これも変わる。


 何を選ぶかによって、文章は結果になる。


 昌志は指先でページの端に触れた。


 助ければ、きっと変わる。


 良い方へ。


 そう思いたかった。


 この前、美月を助けたあと、いいことが続いた。


 今回もそうなるかもしれない。

 いや、そうなってくれないと困る。


 黒い本に書かれる嫌な出来事を、全部ただ受けるだけなら、昌志はいつかもたない。


 でも、特別な選択で良い方へ戻せるなら。


 助けることで流れを変えられるなら。


 まだ何とかなるかもしれない。


 昌志は黒い本を閉じた。


 明日。


 明日の選択で、きっと分かる。


 黒い本は、悪いことだけを書く本ではない。


 まだ、誰かを助けるために使える。


 そう信じようとした。


 その信じ方が、黒い本にすがっていることとほとんど同じだとは、昌志は考えないようにした。


 机の上の黒い本は、静かにそこにあった。


 何も言わない。


 命令もしない。


 ただ、明日の文章を、もう書いている。


 昌志はしばらくそれを見つめていた。


 そして、ノートの最後に小さく書いた。


 明日は、必ず確認する。


 助けたあとの文章を。


 その一文を書いた時、昌志は自分が明日の選択をもうほとんど決めていることに気づいた。


 気づいても、消さなかった。

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