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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第49話 変わる文章

 教室に入る前から、昌志は足元ばかり見ていた。


 昇降口。


 廊下。


 階段。


 教室の入口。


 一枚の紙。


 黒い本には、そう書かれていた。


 教室で、一枚の紙を拾う。


 届ければ、小さな疑いを受ける。


 届けなければ、誰かが困る。


 紙というだけなら、学校にはいくらでも落ちている。


 プリント。


 メモ。


 ノートの切れ端。


 誰かの落書き。


 拾ったところで、普通なら大したことにはならない。


 でも、黒い本に書かれている以上、普通の紙ではないのだろう。


 昌志は、教室の前で一度だけ息を整えた。


 まだ何も起きていない。


 ただ教室に入るだけだ。


 そう思おうとしても、鞄の奥に入っている黒い本の存在が、やけに重く感じられた。


 最近は、黒い本を持っていないと落ち着かない。


 前は、持っていること自体が嫌だった。


 捨てたいと思ったこともある。


 けれど今は違う。


 持っていないと、不安になる。


 何か起きた時に、文章を確認できない。


 新しい文字が出ていた時に、すぐ読めない。それが怖い。


 黒い本がないことの方が怖くなっている。


 そのことに気づくたび、昌志は少しだけ気分が悪くなる。


 それでも、今日も持ってきた。


 鞄の奥に、ノートと一緒に入れてある。


 昌志は教室のドアを開けた。


「おはよう」


「あ、おはよう」


 何人かが挨拶を返す。


 教室はいつも通りだった。


 朝のざわめき。


 机を動かす音。


 友達同士で話す声。


 眠そうに突っ伏している生徒。


 その全部が、いつも通りに見える。


 でも、昌志には少し違って見えた。


 この中に、黒い本に書かれていた紙がある。


 そう思うだけで、教室全体が罠みたいに感じられた。


 昌志は自分の席へ向かった。


 机の横に鞄を置く。


 椅子を引く。


 その時だった。


 足元に、白いものが見えた。


 机の下。


 椅子の脚の近く。


 半分だけ折れた紙が落ちていた。


 昌志の手が止まる。


 ただのプリントかもしれない。


 誰かのメモかもしれない。


 でも、今このタイミングで、教室で紙を見つけた。


 黒い本の文章と同じだった。


 昌志は周りを見た。


 誰もこちらを見ていない。


 横内はまだ来ていない。


 圭佑も、今日は少し遅いらしい。


 拾わずに座ることもできた。


 見なかったことにすることもできた。


 届けなければ、誰かが困る。


 その文章が頭に浮かぶ。


 昌志は、ゆっくりと身をかがめた。


 紙を拾う。


 折られていた紙が、指に触れた。


 薄い。


 けれど、ただの白紙ではない。


 内側に、何か文字が透けて見える。


 開くべきではない。


 そう思った。


 でも、届けるなら、誰のものか確認しなければならない。


 いや、確認しない方がいいのかもしれない。


 名前が書いてあればいい。


 名前がなければ、どうするのか。


 昌志は紙を持ったまま、少し固まった。


「何してんの?」


 後ろから声がした。


 振り向くと、女子生徒が立っていた。


 同じクラスの青柳だった。


 昌志は紙を見せる。


「これ、落ちてた」


「紙?」


「机の下に」


「ふーん」


 青柳は少しだけ紙を見る。


「誰の?」


「分からない」


「開けば?」


 簡単に言われた。


 昌志は手元の紙を見た。


 開けば、中身を見ることになる。


 届けるためなら仕方ないのかもしれない。


 でも、黒い本には「疑いを受ける」とあった。


 ここで開くのは、たぶんよくない。


「先生に渡す」


「え、わざわざ?」


「落とし物かもしれないし」


「まあ、そうだけど」


 青柳はあまり興味なさそうに頷いた。


 その時、教室の前の方から声が上がった。


「あれ、ない」


 女子の声だった。


 昌志はそちらを見た。


 声を出したのは、前の方の席の三浦だった。


 鞄の中を探している。


 机の中も見ている。


 顔が少し青くなっていた。


「どうしたの?」


 隣の生徒が聞く。


「紙。昨日書いたやつ。先生に出すやつがない」


「プリント?」


「違う。進路の面談希望の……」


 そこで、三浦は言葉を切った。


 あまり大きな声で言いたくないものなのだろう。


 昌志は手元の紙を見た。


 折られた紙。


 内側に透けている文字。


 先生に出すもの。


 誰かが困る。


 たぶん、これだ。


 昌志は立ち上がった。


「三浦」


「え?」


「これ?」


 紙を差し出す。


 三浦は目を見開いた。


「あ、それ……どこにあったの?」


「俺の机の下」


「え、何で?」


「知らない。落ちてた」


 三浦は紙を受け取ろうとして、少しだけ手を止めた。


 その視線が、昌志の顔と紙の間を行き来する。


 ほんの少し。


 本当に小さな間だった。


 でも、昌志には分かった。


 疑われた。


 中を見たのではないか。


 どうして昌志の机の下にあったのか。


 そう思われた。


 黒い本の文章通りだった。


「見てないよ」


 言わなくてもいいことを、昌志は言ってしまった。


 三浦は慌てて首を横に振る。


「あ、うん。ごめん。そういう意味じゃなくて」


「机の下に落ちてただけだから」


「うん。ありがとう」


 三浦は紙を受け取った。


 礼は言われた。


 でも、その声は少し硬かった。


 隣にいた女子が小さく言う。


「何で岐阜の机の下にあったんだろ」


「たぶん、昨日掃除の時に飛んだんじゃない?」


「でも進路の紙でしょ?」


「まあ、見られたらちょっと嫌だよね」


 聞こえるくらいの小声だった。


 昌志は何も言わなかった。


 小さな疑い。


 その通りだった。


 大きな騒ぎではない。


 責められたわけでもない。


 でも、少しだけ空気が変わった。


 昌志が紙を見たのではないか。


 そんな視線が、ほんの少しだけ残る。


 三浦はすぐに先生へ出しに行った。


 昌志は席に座る。


 思ったより、胸は重くなかった。


 昨日の昼休みの方が、ずっと嫌だった。


 今日の疑いは小さい。


 黒い本に書かれていた通り、小さい。


 それでも、誰かが困ることは避けられた。


 なら、これでよかったのかもしれない。


 そう思った瞬間、昌志は鞄の奥を意識した。


 黒い本。


 今、変わっているのか。


 文章は、終わったあとに変わるのか。


 それとも夜まで変わらないのか。


 気になり始めると、もう止まらなかった。


 まだ朝のホームルームまで少し時間がある。


 昌志は席を立った。


「どこ行くんだ?」


 いつの間にか来ていた圭佑が、鞄を置きながら聞いた。


「ちょっと」


「トイレ?」


「まあ」


「朝から顔暗いぞ」


「普通だろ」


「普通じゃねえよ」


 圭佑はそう言ったが、それ以上は追ってこなかった。


 昌志は廊下に出た。


 人の少ない階段の踊り場まで行く。


 そこなら、少しだけ隠れていられる。


 周りを確認してから、鞄を開けた。


 黒い本を取り出す。


 学校で黒い本を開くことに、以前ほど抵抗がなくなっている。


 それにも気づいた。


 気づいたが、今は止められなかった。


 昌志は黒い本を開いた。


 六月二十四日のページ。


 朝の文章があった場所。


 そこが、変わっていた。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 ――六月二十四日、朝。


 教室で、

 一枚の紙を拾った。


 届けたことで、

 小さな疑いを受けた。


 それでも、

 紙は持ち主に戻った。


 困っていた誰かは、

 困らずに済んだ。


 ━━━━━━━━━━━━━━


 昌志は、息を止めた。


 変わっている。


 さっきまで未来のように書かれていた文章が、終わったこととして書かれている。


 教室で、一枚の紙を拾った。


 届けたことで、小さな疑いを受けた。


 それでも、紙は持ち主に戻った。


 困っていた誰かは、困らずに済んだ。


 昌志は何度も読み返した。


 文章は、すぐに変わった。


 夜まで待たなくていい。


 一日が終わらなくてもいい。


 一つの出来事が終われば、その部分だけが文書化される。


 そういうことなのかもしれない。


 昌志はノートを取り出そうとして、やめた。


 今は時間がない。


 でも、頭の中ではすでに整理が始まっていた。


 黒い本の文章は、出来事が終わると変わる。


 たぶん。


 自分がその選択をやり遂げた時。


 あるいは、時間が過ぎて、もう実行できなくなった時。


 条件が揃わなくなった時。


 その時に、未来の文章が過去の文章になる。


 確信とまでは言えない。


 でも、かなり近い。


 少なくとも、今の一件ではそうだった。


「……一つ、分かった」


 昌志は小さく呟いた。


 胸の奥が、少しだけ軽くなった。


 嫌なことは起きた。


 小さな疑いを受けた。


 でも、それ以上に、ルールが一つ分かった気がした。


 黒い本は、ただ一方的に未来を書くものではない。


 結果も書く。


 しかも、すぐに変わる。


 これが分かれば、次から少しは対処できるかもしれない。


 選択が終わったかどうか。


 残っている文章が、まだ実行可能なのかどうか。


 それを見れば判断できる。


 昌志は、黒い本を閉じた。


 踊り場の窓から、朝の光が入っている。


 さっきまで重かった空気が、少しだけ違って見えた。


 もちろん、まだ放課後の文章は残っている。


 知らない老人に道を聞かれる。


 教えれば、遅れて帰る。


 教えなければ、老人は迷う。


 それに、明日の特別な選択もある。


 まだ何も終わっていない。


 けれど、一つ分かった。


 それだけで、昌志は少しだけ前に進んだような気がした。


 教室に戻ると、圭佑がすぐに顔を上げた。


「遅かったな」


「そうか?」


「そうだろ。何してたんだよ」


「ちょっと考え事」


「トイレで?」


「廊下で」


「何だそれ」


 圭佑は呆れた顔をした。


 でも、昌志の顔を見て、少しだけ眉を上げた。


「何か、さっきより機嫌よくないか?」


「そうか?」


「そう見える」


「気のせいだろ」


 昌志は席に座った。


 けれど、自分でも分かっていた。


 さっきより、確かに気分が軽い。


 紙を届けて疑われたのに。


 普通なら、落ち込んでもおかしくないのに。


 それよりも、黒い本のルールが一つ分かったことの方が大きかった。


 そのことが、少しだけ怖かった。


 でも、嬉しいのも事実だった。


 朝のホームルームが始まった。


 先生の話を聞きながら、昌志は鞄の奥の黒い本を意識した。


 もう一つの文章は、まだ残っている。


 放課後の老人。


 それが終われば、また文章は変わるのかもしれない。


 変わるなら、確認できる。


 確認できれば、また何か分かる。


 昌志は、そのことを考えていた。


 授業中も、休み時間も、妙に頭が冴えていた。


 黒板の文字も、いつもより入りやすい。


 先生の説明も、少しだけ理解しやすい。


 圭佑に「今日は珍しく顔が明るいな」と言われた時も、昌志は軽く流せた。


「昨日まで暗かったみたいに言うな」


「暗かっただろ」


「そうか?」


「そうだよ。今の方がまだマシ」


「じゃあ、よかったな」


「何で俺がよかったみたいになるんだよ」


 圭佑はそう言って笑った。


 昌志も少しだけ笑った。


 午前中の間、昌志はずっと少し機嫌がよかった。


 理由は誰にも言えない。


 紙を届けたからではない。


 疑いが小さかったからでもない。


 黒い本のルールが、一つ分かった気がしたからだ。


 それは、普通なら喜ぶようなことではないのかもしれない。


 でも、昌志にとっては違った。


 分からないものが、一つだけ分かる。


 それだけで、息がしやすくなる。


 昼休みになっても、その気分は少し残っていた。


 弁当を食べながら、圭佑が言った。


「今日は本当に機嫌いいな」


「普通だって」


「いや、普通じゃない。昨日と別人」


「そんなに?」


「そんなに」


 圭佑は少しだけ目を細めた。


「何かあったのか?」


「別に」


「また別にか」


「別にだよ」


 昌志はそう言って、弁当に箸を伸ばした。


 圭佑はまだ何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。


 昌志はそれに少しだけ安心した。


 まだ話せない。


 まだ、誰にも言えない。


 でも、今は少しだけ大丈夫な気がした。


 黒い本の文章は変わる。


 出来事が終われば、結果として書かれる。


 そのルールを、一つ掴んだ。


 それだけで、今日の昌志は少しだけ前を向けた。


 放課後に、もう一つの文章が待っていることを忘れたわけではない。


 けれど、朝よりは怖くなかった。


 分からないものを、少しずつ分かるようにしていけばいい。


 そう思えたからだ。


 その考え自体が、黒い本に近づいていることだとは、昌志はまだ深く考えないようにした。


 ただ、机の横に置いた鞄の中で、黒い本が静かに重くなっているような気がした。

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