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僕はまだ、この本を書いていない  作者: 岐阜昌志
第2章 選ばなかったもの

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第48話 紙を拾う前

 六月二十四日の朝。


 昌志は、いつもより少し早く目を覚ました。


 目が覚めたというより、眠りが浅かった。


 枕元のスマホを見ると、まだ起きるには少し早い時間だった。


 部屋の中は薄暗い。


 カーテンの隙間から、朝の光が細く入っている。


 昌志はしばらく天井を見ていた。


 頭の中には、昨日の夜に見た黒い本の文章が残っていた。


 六月二十四日、朝。


 教室で、一枚の紙を拾う。


 届ければ、小さな疑いを受ける。


 届けなければ、誰かが困る。


 六月二十四日、放課後。


 帰り道で、知らない老人に道を聞かれる。


 教えれば、遅れて帰る。


 教えなければ、老人は迷う。


 そして、その下にあった。


 六月二十五日、夜。


 隣町で火が上がる。


 火事。


 赤ん坊。


 具体的な場所。


 具体的な時間。


 玄関から入って、まっすぐ進んだ突き当たりの部屋。そこに、赤ん坊がいる。


 昨日の夜から、その文章が頭から離れなかった。


 紙を拾う。

 老人に道を聞かれる。


 その二つは今日のことなのに、どうしても二十五日の火事の方へ意識が引っ張られる。


 昌志は布団の中で、目を閉じた。


 火事のことは、まだ明日だ。


 今日ではない。


 でも、分かっている。


 明日になれば、絶対に迷う。


 行くべきか。


 行かないべきか。


 助けるべきか。


 助けないべきか。


 そんな言い方をしている時点で、もう答えはほとんど決まっている気がした。


 助けるべき対象がどこにいるか分かっている。


 時間も分かっている。


 場所も分かっている。


 そこに赤ん坊がいると分かっている。


 それなら、助けに行くしかない。


 見なかったことにはできない。


 知らなかったことにもできない。


 黒い本が嘘を書いている可能性も、完全には消えない。


 けれど、これまでを考えると、たぶん当たる。


 美月の時もそうだった。


 あの時も、場所と時間が書かれていた。


 そして、その通りになった。


 昌志が行かなければ、美月は危なかった。


 結果として助かった。


 それだけではない。


 美月を助けた次の日から、しばらくいいことが続いた。黒い本の文章も、嫌なものばかりではなくなった。


 あの時は、まるで何かが戻ったみたいだった。だから、今回もそうなのかもしれない。


 火事の文章は怖い。でも、逆に言えば、これは大きな選択なのかもしれない。


 助ければ、いい方へ進む。


 この前みたいに。


 悪いことばかり続いている今の流れを、変えられるかもしれない。


 昌志はゆっくり息を吐いた。


「……ボーナス、みたいなものなのか」


 声に出してから、自分で少し嫌になった。


 赤ん坊の命がかかっているかもしれないのに、ボーナスという言い方はおかしい。


 おかしいと分かっている。でも、そう考えないと怖かった。ただの恐ろしい予告ではなく、良い方へ戻るための特別な機会。


 そう思わないと、明日の夜のことを考えられなかった。


 助ければ、いいことが続くかもしれない。


 助ければ、黒い本の流れが変わるかもしれない。


 助ければ、誰かが死なずに済む。


 それなら。


 それなら、取らないわけにはいかない。


 昌志は布団から起き上がった。


 机の上には、昨日使ったノートが置いてある。


 黒い本の文章を書き写したページ。


 自分なりの仮定。


 まだ何も分かっていないのに、分かったような気になろうとしている文字。


 昌志はノートを開いた。


 六月二十四日。


 朝、一枚の紙。


 届けると疑い。


 届けないと誰かが困る。


 紙とは何か。


 誰の紙なのか。


 何が書かれているのか。


 それが分からない。


 小さな疑いを受けるということは、たぶん良いものではない。


 テストの答案。


 誰かのメモ。


 お金に関係するもの。


 誰かに見られたくない紙。


 いくらでも悪い想像ができた。


 届ければ疑われる。


 なら、届けない方が自分にとっては楽なのかもしれない。


 でも、届けなければ、誰かが困る。


 そこが引っかかる。


 誰かが困る。


 黒い本は、そう書いた。


 なら、完全に無視していいものではないのかもしれない。


 以前なら、こういうものは見なかったことにしようとしたかもしれない。


 走って通り過ぎる。


 関わらない。


 何も拾わない。


 何も言わない。


 そうすれば、自分だけは面倒を避けられる。


 けれど、今の昌志には、それが本当にいいことなのか分からなかった。


 誰かが困っていると分かっていて、通り過ぎる。それをやったら、何かが悪い方へ進むのではないか。


 黒い本にそう思わされているだけかもしれない。


 でも、そう考えてしまう。


 昌志はノートに書いた。


 紙=不明。


 疑い=小さい。


 困る相手=不明。


 届けるべきか?


 届けないべきか?


 その下に、少し間を空けて書く。


 誰かが困るなら、放っておけない?


 疑いは小さい?


 小さいなら、受けてもいい?


 書いた瞬間、昌志は手を止めた。


 受けてもいい。


 自分で書いたその言葉が、妙に嫌だった。


 最近、そんな考え方ばかりしている。


 この程度なら自分が受ければいい。


 疑われるくらいなら、まだいい。

 遅れるくらいなら、まだいい。


 嫌な思いをするくらいなら、まだいい。

 誰かが困るよりはいい。


 そうやって、自分の方へ悪いものを寄せている気がした。


 でも、寄せなければ、誰かが困る。


 どうすればいいのか分からない。


 昌志はペンを置いた。


 朝から、考えすぎている。


 まだ学校にも行っていない。


 まだ紙も拾っていない。


 まだ老人にも会っていない。


 まだ火事も起きていない。


 何も起きていないのに、もう疲れている。


「昌志ー、起きてる?」


 階下から母の声がした。


「起きてる」


 昌志は返事をして、ノートを閉じた。


 黒い本を鞄の奥に入れる。


 ノートも一緒に入れた。


 入れながら、少しだけ手が止まる。


 今日は、教室で紙を拾う。


 なら、黒い本を持っていく必要があるのか。


 置いていけばいいのではないか。


 一瞬そう思った。


 けれど、すぐに無理だと分かった。


 持っていかなければ不安になる。


 黒い本がなければ、確認できない。


 何か起きた時に、文章を読み返せない。


 昌志はもう、黒い本を家に置いたまま学校へ行くことができなくなっていた。


 それに気づいて、少しだけ息が詰まった。


 朝食の席で、司がこちらを見た。


「兄ちゃん、今日も眠そう」


「そうか?」


「うん。なんか、朝から考え事してる顔」


「受験生だからな」


「便利だね、受験生って言葉」


 司は少し疑うような目で言った。


 昌志は味噌汁を飲みながら、何でもない顔を作った。


「司もそのうち分かる」


「分かりたくない」


「その方がいいかもな」


「何それ」


 司が眉を寄せる。


 昌志はそれ以上言わなかった。


 母が台所から言った。


「昌志、今日は帰り遅くなるの?」


 放課後の文章が頭をよぎる。


 帰り道で、知らない老人に道を聞かれる。


 教えれば、遅れて帰る。


 教えなければ、老人は迷う。


「……分からない」


「分からないって?」


「ちょっと、寄るかもしれない」


「塾?」


「いや。まだ分からない」


「そう。遅くなるなら連絡してね」


「うん」


 短く答えた。


 普通の会話なのに、普通に答えられない。


 遅れる理由を、まだ自分でも知らない。


 けれど、遅れる可能性だけは知っている。


 そんな変な状態だった。


 家を出る時、司が後ろから声をかけた。


「兄ちゃん」


「何?」


「今日、変なことしないでよ」


 昌志は少しだけ振り返った。


「変なことって何だよ」


「分かんないけど。なんか、最近変だから」


 司は真面目な顔をしていた。


 からかっているわけではない。


 それが分かったから、昌志は少し困った。


「しないよ」


「本当?」


「本当」


 嘘だった。


 変なことをするかどうかは、もう昌志が決められることではない気がした。


 でも、そう言うしかなかった。


 玄関を出る。


 朝の空気は、昨日より少し重かった。


 梅雨の湿気が、制服の袖にまとわりつく。


 通学路を歩きながら、昌志は何度も今日の文章を思い出した。


 教室で、一枚の紙を拾う。


 届ければ、小さな疑いを受ける。


 届けなければ、誰かが困る。


 紙。


 教室。


 拾う。


 どのタイミングなのか。


 朝、教室に入ってすぐなのか。


 授業前なのか。


 休み時間なのか。


 足元に落ちているのか。


 机の下なのか。


 誰かの鞄から落ちるのか。


 分からない。


 分からないまま、学校に向かうしかない。


 でも、もし見つけたら。


 もし、その紙が本当に誰かにとって必要なものなら。


 見なかったふりは、できない気がした。


 自分が疑われるとしても。


 小さな疑いなら。


 小さな疑いで済むなら。


 昌志はまた、その考えに気づいて、歩く速度を少し落とした。


 小さな疑いなら受けてもいい。


 遅れるくらいなら受けてもいい。


 自分が困るくらいなら受けてもいい。


 そんなふうに考えること自体が、もう黒い本に慣れてしまっている証拠なのかもしれない。


 けれど、誰かが困ると書かれているなら。


 それを見過ごす方が、もっと怖かった。



 *   *


 学校の校門が見えてくる。


 いつもと同じ朝のざわめき。


 友達同士で話す声。


 自転車のブレーキ音。


 昇降口へ向かう生徒たち。


 その中に、今日の紙がある。


 昌志はそう思った。


 まだ何も起きていない。


 けれど、もう何かが始まっている。


 昌志は鞄の奥の黒い本を意識しながら、校門をくぐった。

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