第47話 彼が手に入れたもの
ファミレスを出る頃には、空の色が少しだけ変わっていた。
夕方と呼ぶにはまだ明るい。
けれど、昼間の光とは違う。
駅前の商店街を歩く人の数も、さっきより少し増えていた。
瑞美と加藤さんは、駅の方へ向かった。
加藤さんは最後まで軽い調子で手を振り、瑞美はいつも通り、少し丁寧に頭を下げた。
「では、また」
「はい。また」
「じゃあね、岐阜さん。相沢さんも」
「はい」
圭佑が返事をする。
昌志も軽く手を上げた。
二人の背中が人の流れに紛れていく。
その横で、圭佑は妙に機嫌がよさそうだった。
表情はいつも通りに戻している。
でも、どこか満足そうに見えた。
「圭佑」
「何だよ」
「何か、うまくいったみたいな顔してる」
「してねえよ」
「してる」
「お前に顔のこと言われたくねえな。今日は一日中、梅干しみたいな顔してたくせに」
「まだ言うか」
「言う」
圭佑は笑って、文房具屋の方へ歩き出した。
「行くぞ。美月に頼まれたやつ、まだ買ってない」
「まだ行くのか」
「ここまで来たんだから行くだろ」
昌志は小さくため息をついて、圭佑の後を追った。
文房具屋での買い物は、思ったより時間がかかった。
圭佑はペンと付箋まではすぐ選べたが、最後の「変なシール」で完全に迷った。
美月の言う「かわいい」が分からないらしい。
「これか?」
「知らない」
「これ、かわいいか?」
「俺に聞くな」
「お前、妹いないっけ」
「司の好みと美月ちゃんの好みが同じとは限らないだろ」
「それもそうか」
結局、圭佑は無難そうなものを二種類買った。
「外したらどうするんだ?」
「二つ買えばどっちか当たるだろ」
「そういうものか?」
「たぶん」
圭佑らしい雑な判断だった。
それでも、妹のために迷っているのは分かる。
美月のことになると、圭佑は少しだけ兄の顔になる。
店を出て、二人は帰り道を歩き出した。
駅前の人混みから少し離れると、商店街の賑やかさも背中の方へ遠ざかっていく。
圭佑は買ったものが入った袋を軽く振りながら、ふと思い出したように言った。
「そういや、加藤さんとはたまに会うのか?」
「加藤さん?」
「瑞美さんと一緒にいた子」
「ああ」
昌志は少し考えた。
「会うっていうほどじゃない。見かけたことはあるけど、ちゃんと話したのは今日くらいだと思う」
「そうなのか」
「瑞美と一緒にいるところは、何度か見たけど」
「ふーん」
圭佑は、何気ない顔で頷いた。
けれど、昌志にはそれが少し不自然に見えた。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「いや、別に。今日、普通に話してたからさ」
「普通に挨拶しただけだろ」
「まあな」
圭佑は軽く流した。
それから、今度は少しだけ声を落とす。
「瑞美さんとは、よく会ってるんだな」
「よくってほどじゃない」
「でも、電話番号は知ってるんだろ」
「……まあ」
「手帳のことも、美月のことも話してたし」
「たまたまだ」
「お前のたまたま、多くないか?」
どこかで聞いたようなことを言われ、昌志は黙った。
ファミレスでも、同じようなことを言われた気がする。
たまたま。
大したことじゃない。
その言葉ばかり使っている。
そうしないと、説明できないからだ。
圭佑は少しだけ横目で昌志を見た。
「お前、瑞美さんとは最近会ったばっかりなんだろ」
「そうだけど」
「それで、電話番号知ってて、何回も助けてて、あっちもお前のこと心配してるって、結構すごいな」
「別に、そういうのじゃない」
「そういうのって何だよ」
「知らない」
「自分で言ったんだろ」
圭佑は笑った。
昌志は少しだけ顔をそらした。
瑞美との距離が近いのかどうか、昌志にはよく分からない。
ただ、何度も会った。
何度も黒い本の文章に関わった。
財布。
図書カード。
手帳。
そのたびに瑞美は、昌志の前に現れた。
偶然と言えば偶然だ。
でも、黒い本がある以上、ただの偶然とは言い切れない。
「加藤さんの電話番号は知らないのか?」
圭佑が、何でもないことのように聞いた。
「知らない」
「そっか」
「何で?」
「いや、別に」
圭佑はまた、同じ返事をした。
昌志は少しだけ眉を寄せた。
「圭佑、今日ちょっと変だぞ」
「お前ほどじゃない」
「俺の話じゃない」
「俺も変じゃない」
「そうか?」
「そうだよ」
圭佑は笑ってごまかした。
昌志はそれ以上聞かなかった。
本当は、圭佑の様子も気になる。
けれど、それ以上に早く一人になりたかった。
黒い本を開きたかった。
今日の文章が、どう変わっているのか確かめたかった。
昼休みの文章は、その通りだった。
疑いは残っていた。
聞いても、気分は晴れなかった。
放課後の文章は、まだよく分からない。
親友は寄り道に誘った。
駅前の商店街へ行った。
ついていった。
けれど、探していたものに少し近づいたのかどうか、昌志には分からない。
文房具屋で見た日記帳や予定帳のことなのか。自分史ノートのことなのか。
瑞美と加藤さんに会ったことなのか。
ファミレスで話したことなのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
分からないことが多すぎた。
昨日は、黒い本に何も出ていなかった。
それなのに、数学の結果でトラブルになった。
今日は、文章が出ていた。
その通りに動いた。
でも、何がどうなったのか分からない。
早く確認したい。
早く、少しでもルールを知りたい。
そう思っている自分に気づいて、昌志は少しだけ嫌な気分になった。
黒い本のことを知りたい。
それは、黒い本に近づきたいということでもある。
なのに、今の昌志には、それ以外にできることがなかった。
「じゃあ、俺こっちだから」
分かれ道で、圭佑が足を止めた。
「ああ」
「今日は、少しは気晴らしになったか?」
「まあ」
「まあ、か」
「何もないよりは」
「素直じゃねえな」
圭佑は笑った。
けれど、すぐに少しだけ真面目な顔になる。
「昌志」
「何」
「何かあったら、言えよ」
また、その言葉だった。
何かあったら。
言えよ。
昌志は、すぐに返事ができなかった。
言えるなら、もう言っている。
言えないから、ここまで来ている。
けれど、圭佑は本気で言っている。
それも分かっていた。
「……分かってる」
「本当か?」
「たぶん」
「そこは、はいって言えよ」
「はい」
「雑だな」
圭佑は呆れたように笑った。
「じゃあな」
「ああ。また明日」
二人はそこで別れた。
圭佑の背中が見えなくなってから、昌志は少しだけ足を速めた。
早く家に帰りたい。
早く黒い本を開きたい。
そう思っている自分が、もう完全におかしいことも分かっていた。
それでも、止められなかった。
家に着くと、司の靴はまだなかった。
母も台所にはいない。
家の中は静かだった。
昌志は「ただいま」と小さく言って、自分の部屋へ向かった。
鞄を机の横に置く。
椅子に座る。
少しだけ息を整えてから、鞄の奥へ手を入れた。
黒い本を取り出す。
表紙は、いつも通り黒かった。
何度見ても、ただの古い本にしか見えない。
けれど、昌志にはもう、これをただの本だと思うことはできなかった。
手が少し汗ばんでいる。
昌志はゆっくりと黒い本を開いた。
六月二十三日のページ。
昼休みと放課後の文章があった場所。
その下に、新しい文字が浮かんでいた。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月二十三日。
昼休み、
校舎裏で、
昨日の疑いが、
まだ消えていないことを知った。
聞いたことで、
小さな誤解は、
形を変えた。
それでも、
気分は晴れなかった。
放課後、
駅前の商店街で、
親友は寄り道に誘った。
ついていったことで、
親友は、
望んでいたものに少し近づいた。
昌志は、
それが何だったのかを、
まだ知らない。
━━━━━━━━━━━━━━
「……は?」
昌志は、思わず声を漏らした。
何度も読み返す。
放課後、
駅前の商店街で、
親友は寄り道に誘った。
そこまでは分かる。
親友は圭佑だ。
今日、昌志を誘ったのは圭佑だった。
でも、その次がおかしい。
ついていったことで、
親友は、
望んでいたものに少し近づいた。
「圭佑が……?」
昌志は眉を寄せた。
黒い本は、昌志が探していたものに近づくとは書いていなかった。
元の文章では、ただ「探していたものに少し近づく」とだけ書かれていた。
昌志は、それを自分のことだと思っていた。
黒い本の正体。
ルール。
読み方。
そういうものに近づくのだと思っていた。
けれど、結果として浮かんだ文章は違う。
親友は、望んでいたものに少し近づいた。
圭佑が、何かを望んでいた。
そして今日、それに近づいた。
でも、昌志には分からない。
何を手に入れたのか。
何を望んでいたのか。
ファミレスで何かあったのか。
瑞美や加藤さんと話したことなのか。
美月の文房具なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
昌志は唇を噛んだ。
黒い本は、嘘を書いていない。
たぶん。
でも、全部を教えてくれるわけではない。
昌志が見ていなかったことまで、結果として書く。
しかも、名前をはっきり出さない。
親友。
それだけで、昌志に誰のことか分からせる。
でも、肝心な中身は分からない。
「こういう文章も、あるのか……」
昌志は小さく呟いた。
自分だけのことではない。
自分が選んだことで、周りの誰かが何かを手に入れる。
それが黒い本に書かれる。
昌志が知らないところで起きたことも、文章になる。
その事実が、ひどく気味悪かった。
同時に、少しだけ焦りもあった。
今日、圭佑は何を得たのか。
それは、いいことなのか。
悪いことなのか。
昌志には判断できない。
圭佑は、帰り道で加藤さんのことを聞いていた。
瑞美のことも聞いていた。
けれど、それだけで「望んでいたものに近づいた」と言うほどなのか。
分からない。
分からないことが、また増えた。
昌志はノートを開こうとして、手を止めた。
その前に、ページの下の方が黒く滲んだ。
新しい文字が浮かび始めていた。
昌志は息を止める。
日付を見た。
六月二十四日。
明日の文章だった。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月二十四日、朝。
教室で、
一枚の紙を拾う。
届ければ、
小さな疑いを受ける。
届けなければ、
誰かが困る。
――六月二十四日、放課後。
帰り道で、
知らない老人に道を聞かれる。
教えれば、
遅れて帰る。
教えなければ、
老人は迷う。
━━━━━━━━━━━━━━
昌志は、しばらく黙ってその文章を見ていた。
二つ。
明日の選択肢が、二つ出ている。
どちらも、大きなことではない。
紙を拾う。
老人に道を聞かれる。
けれど、どちらも選ばされる形になっている。
届ければ、疑いを受ける。
届けなければ、誰かが困る。
教えれば、遅れて帰る。
教えなければ、老人は迷う。
「……またか」
昌志は吐き出すように言った。
また、こういうものだ。
悪いことを避けるには、誰かを困らせるしかない。
誰かを困らせないためには、自分が嫌なものを受けるしかない。
ただし、それすら本当にそうなのかは分からない。
届けたら、どんな疑いを受けるのか。
教えたら、どれくらい遅れるのか。
届けなければ、誰が困るのか。
教えなければ、老人はどこで迷うのか。
何も分からない。
分からないのに、選ばなければならない。
昌志はノートを開き、震える字で書き始めた。
六月二十四日。
朝、一枚の紙。
届ける/疑われる。
届けない/誰かが困る。
放課後、老人。
教える/遅れる。
教えない/迷う。
書いても、整理できた気はしなかった。
むしろ、余計に気分が重くなる。
その時だった。
黒い本のページが、また黒く滲んだ。
「……え?」
昌志は目を見開いた。
まだ、続きがあった。
明日の文章の下。
さらにその下に、別の日付が浮かび上がる。
六月二十五日。
明日ではない。
二日後だった。
昌志の喉が、ひゅっと鳴った。
━━━━━━━━━━━━━━
――六月二十五日、夜。
隣町で、
火が上がる。
午後九時十七分。
場所は、
隣町三丁目の古い住宅街。
放火によって、
一軒の家が燃える。
家の中には、
赤ん坊が取り残されている。
玄関から入って、
まっすぐ進んだ突き当たりの部屋。
赤ん坊は、
その部屋で一人、
泣いている。
助けに入れば、
命に届く。
入らなければ、
泣き声は火の中で消える。
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昌志は、動けなかった。
文章の意味が、すぐには頭に入ってこない。
火。
隣町。
午後九時十七分。
放火。
赤ん坊。
家の中。
玄関からまっすぐ進んだ突き当たりの部屋。
泣いている。
助けに入れば、命に届く。
入らなければ、泣き声は火の中で消える。
今までとは、違った。
場所も、時間も、相手も、あまりにも具体的だった。
しかも、明日のことではない。
二日後だ。
明日の文章が出ているのに、その次の日の夜の文章まで出ている。
こんなことは初めてだった。
昌志は、震える指でページに触れた。
文字は消えない。
何度読んでも、同じだった。
「何だよ、これ……」
声がかすれた。
明日の朝には、紙を拾う。
放課後には、老人に道を聞かれる。
そして、その次の日の夜には、隣町で火事が起きる。
赤ん坊が取り残される。
助けに入れば、命に届く。
入らなければ、泣き声は火の中で消える。
どれも、ただの文章では済まない。
特に、最後のものは違う。
これは、迷っている時間があるものではない。
火事の現場に行くかどうか。
燃えている家に入るかどうか。
赤ん坊を助けるかどうか。
その選択だった。
昌志はノートを見た。
さっき書いた明日の二つの選択肢が、急に小さく見えた。
小さな疑い。
少し遅れる帰り道。
その下に、火の中の赤ん坊がある。
昌志の胸の奥が、冷たくなった。
「このパターンは……初めてだ」
明日の文章。
その次の日の文章。
しかも、二日後の方が、明らかに重い。
黒い本は、何をさせようとしているのか。
どうして今、二日後の火事まで書いたのか。
場所と時間まで書いてあるのはなぜなのか。
玄関から入って、まっすぐ進んだ突き当たりの部屋。
赤ん坊がそこにいる。
ここまで書くなら、助けろと言っているようなものだ。
でも、黒い本は命令していない。
ただ、起きることを書いている。
助けに入れば、命に届く。
入らなければ、泣き声は火の中で消える。
選ぶのは、昌志だった。
昌志は、ページを閉じることができなかった。
目をそらしても、文章は頭に残る。
赤ん坊の泣き声が、まだ聞こえるはずもないのに、耳の奥にこびりついたような気がした。
黒い本の前で、昌志はしばらく動けなかった。
六月二十四日。
六月二十五日。
二つの日付が、同じページの中で重なっている。
その意味を、昌志はまだ知らない。
ただ一つだけ分かることがあった。
黒い本は、また新しい形で、昌志の前に選択肢を置いた。
そして今度の選択肢は、これまでのどれよりも、熱くて、赤かった。




