第八十六話 記録の外側
新川町での実戦から三日後、相馬一尉は中央防衛局の会議棟へ呼び出された。
通知に記されていた用件は、《複数中隊運用における情報共有手順の再検証》である。参加者の欄には作戦本部の担当者と内閣情報局の八神特別運用評価官、それから軍側の実務協力者として相馬の名が並んでいた。
第三中隊へ転属する話ではなく、今後、複数の中隊を同時に動かす事態が起きた時に備え、異なる指揮系統をつなぐ手順を作るための一時派遣だった。
理由として添付されていたのは、東部第七防衛区で行われた最初の大隊運用記録である。
相馬は端末を閉じると、廊下の窓から中庭を見下ろした。昼を過ぎた日差しが芝生を白く照らし、散水機の水が風に流されている。戦場の記録を扱う建物とは思えないほど、外は静かだった。
「俺が橘に助けを求めたから、か」
独り言に答える者はいない。
あの時、相馬中隊は地下鉄車両基地で損傷機を抱え、三つの出入口から現れる敵性個体に動きを止められていた。各中隊はそれぞれの正面へ対応していたが、誰も戦場全体を見られていない。その状況で相馬が蒼真へ救援を求めたことが、結果としてリポルと中央戦術支援統合網による情報の集約につながった。
判断そのものは間違っていなかったと思う。
だが、それを理由に情報共有の実務担当へ選ばれるとは考えていなかった。
相馬は小さく息を吐き、会議室の認証盤へ身分証を触れさせた。
扉の向こうには、長机が二つと、壁一面を覆う表示画面があった。作戦本部の担当者はまだ来ておらず、室内にいるのは一人だけである。
八神評価官は窓側の席に座り、すでに複数の資料を開いていた。机の上に置かれた端末には、部隊配置図と通信記録が時刻順に並んでいる。相馬が入室しても慌てて画面を閉じることはなく、視線だけを上げた。
「相馬一尉ですね」
「はい。八神評価官」
「予定より七分早い到着です」
「遅れるよりはいいでしょう」
「同意します。早く始められます」
挨拶らしい挨拶は、それで終わった。
相馬が向かいの席へ腰を下ろすと、八神は中央画面へ大隊戦の地図を表示した。第一中隊、第三中隊、相馬の所属中隊が、それぞれ別の色で示されている。その後方には三機の支援機が並び、さらに外側を補給車両と救護車両が囲んでいた。
画面の隅で時刻が進むにつれ、三色の配置が少しずつ崩れていく。第一中隊が大型へ引かれ、第三中隊が生活道路へ押され、相馬たちの中隊は地下鉄車両基地へ分断されていた。
「最初に橘二尉へ個別通信を行ったのは、相馬一尉です」
八神は通信記録の一行を指で選んだ。雑音の混じった相馬の声が短く再生される。
『橘。こっちで一機、動けなくなった。救援を頼めるか』
記録の中の自分は、今よりも明らかに余裕がなかった。相馬は椅子の背へ身体を預けかけたが、八神の視線がこちらへ向いたため、途中で姿勢を戻した。
「この時点で、第一中隊、第三中隊、後方支援班のいずれにも救援余力はありませんでした。橘二尉も中央後方の維持を担当しています。なぜ彼へ要請したのですか」
「誰なら助けに来られるかで考えたわけじゃありません」
「では、何を基準にしましたか」
「誰なら、助けに来られない理由まで見るかです」
八神の指が端末の上で止まった。
表情は変わらない。ただ、返答を記録する前に、相馬の顔を見ている時間が僅かに長くなった。
「説明してください」
「普通は救援を求められたら、自分が行けるか、部下を出せるかを考えます。無理なら断って終わりです。橘は違う。自分が動けないなら、誰が動けるのか。それもいなければ、何をずらせば空きを作れるのかまで考える」
相馬は画面上の紫色の印を見た。
当時のリポルは中央後方から動かず、三中隊分の報告を受けている。だが、報告の形式も時刻も揃っておらず、支援員同士の連絡もなかった。蒼真が状況を把握できていたわけではない。
「あいつは敵を倒したくて戦場にいるわけじゃありません。だから、敵だけを見ない。誰が止まっていて、どの道なら帰れて、どこを空けたら次の人間が動けるかを見る。撤退する時なら、橘に聞くのが一番早いと思いました」
「橘二尉が戦闘を望んでいないことを、判断材料にしたのですか」
「しました」
「一般的には、戦闘への忌避感は前線運用上の不利として評価されます」
「戦わせるなら不利でしょうね。帰る方法を探させるなら、そうでもない」
八神は反論せず、相馬の言葉をそのまま記録欄へ加えた。
感情で蒼真を擁護しているのではなく、戦場で使える特性として整理しているらしい。相馬が身構えていた質問は来なかった。代わりに、八神は三つの中隊から送られた通信を時刻順へ並べ替え、どの情報が不足していたかを一つずつ確認し始めた。
現場から届く報告が多すぎれば、必要な情報が埋もれる。減らしすぎれば、別の中隊が同じ敵を追い続ける。敵性個体の位置だけを共有しても、それがどこから現れ、どの部隊と接触した個体なのかが分からなければ、行動の連続性は見えない。
八神が問題点を挙げ、相馬が現場で使える形へ直す。
「全機の映像を常時共有する案は採用できません。操縦者が処理できる情報量を超えます」
「映像はいりません。敵を見失った位置と時刻だけ流してください」
「地下道や建物へ入った場合ですか」
「それと、別の中隊が同じ特徴の個体を見つけた時です。傷でも大きさでもいい。繋がるなら、同じ敵に振り回されていると分かる」
「照合はAIへ行わせます」
「確定扱いにはしないでください。似ているだけで同じ敵だと決められたら、現場がそっちへ引っ張られます」
「推定として表示し、最終判断は各中隊へ残します」
「それなら使えます」
八神は指摘を受けても、説明を重ねて元の案を守ろうとはしなかった。使えない理由が示されれば削り、代案があればその場で組み込む。冷たいというより、判断へ余計なものを混ぜない人なのだと、相馬は次第に理解した。
作業を始めて一時間ほど経った頃、作戦本部の担当者から遅延の連絡が入った。別の会議が長引き、到着は午後になるという。
八神は通知を一度読んだだけで閉じた。
「続けます」
「休憩は?」
「必要ですか」
「俺ではなく、評価官がです」
八神は机の端に置かれた紙コップへ目を向けた。いつ用意したのか分からないコーヒーは、ほとんど減っていない。
「十一分後に区切りがつきます」
「なら、その後で」
「承知しました」
きっちり十一分後、八神は画面を保存して席を立った。
会議棟の休憩室には、自動販売機と小さな丸机が三つ並んでいる。昼休みを過ぎているため人影はなく、窓の外では散水機が止まり、濡れた芝生だけが陽を反していた。
相馬は温かい缶コーヒーを二本買い、一本を八神へ差し出した。
「砂糖入りです」
「なぜ分かったのですか」
「机の紙コップから甘い匂いがしたので」
八神は缶と相馬の顔を順に見た。
「観察力を連絡調整へ使うよう求められた理由が理解できました」
「そこまで大げさなものじゃありません」
「褒めてはいません。確認しただけです」
「そうですか」
相馬が笑うと、八神は何が可笑しいのか分からないように僅かに首を傾けた。それでも缶は返さず、細い指で蓋を開けた。
休憩を終えて会議室へ戻ると、八神は大隊戦の記録ではなく、相馬の人事資料を開いた。
「もう一件、確認があります」
「俺のですか」
「相馬一尉が想定外の状況や異なる指揮系統へ対応できる根拠を確認しました。過去の搭乗記録に、現在の評価と一致しないものがあります」
画面へ表示された施設名を見た瞬間、相馬の手が缶の途中で止まった。
蒼真と再会した、あの展示会場だった。
一般公開されていたフレイムワーカーの展示区画へ敵性個体が侵入し、観客が取り残された。当時の相馬は、展示機を実際に動かして見せる実演ショーの搭乗者として会場へ派遣されており、襲撃が始まった時にはすでに操縦席にいた。
機体は本物のフレイムワーカーだったが、観客の前で歩行や姿勢制御を見せるために用意されたものであり、武装は搭載されていない。相馬は敵の侵入を確認すると、予定されていた実演を中断し、そのまま展示区画から避難口へ機体を向けた。
公式記録に残っている評価は、《敵性個体排除失敗》《展示機喪失》である。
「間違ってはいません」
相馬は缶を机へ置いた。
「倒せなかった。機体も動かなくなりました」
「結果だけを抜き出せば、そうなります」
八神は会場の監視映像を再生した。
高い天井から吊られた照明の下に、複数の展示機と説明用の足場が並んでいる。中央の実演区域では相馬の機体がゆっくりと旋回し、観客席へ機体の正面と側面を見せていた。安全柵の外では、来場者が端末を掲げ、係員の説明へ耳を傾けている。
警報が鳴った直後、映像の中の相馬機は動きを止めた。
観客がまだ状況を理解できずに周囲を見回す中、相馬は機体を非常口側へ向ける。右腕に武器はなく、左腕には盾さえない。それでも、敵性個体が展示区画へ姿を現した時には、すでに観客と敵の間へ移動を始めていた。
ほどなく出口へ向かって動き始めた中型個体の前へ、相馬は機体を入れた。
敵が右へ回れば右へ寄り、左の通路へ向きを変えれば、展示台を踏み越えて先に塞ぐ。攻撃を受けるたびに装甲が剥がれ、片腕が動かなくなっても、相馬は避難する人々がいる方向へ敵を通さなかった。
倒すための動きではなかった。
敵の顔を、自分だけへ向け続けている。
「相馬一尉が進路を塞いでいた間に、避難口へ向かう人の列は、安全柵周辺の滞留箇所を通過しています」
映像の中で、中型個体が姿勢を低くした。
相馬機は両腕を前へ出し、突進を正面から受け止めようとする。だが、踏み込んだ前脚が床を砕き、頭部が胸部装甲の下へ入った瞬間、無武装の展示機は足を浮かせた。
巨体が横へ飛び、説明用の足場を巻き込みながら展示台へ叩きつけられる。背部が鋼材へ衝突し、操縦席の映像が激しく揺れた。警告表示が一斉に赤へ変わった直後、搭乗者の生体反応から意識消失が記録されている。
相馬には、その衝撃から数秒間の記憶がなかった。
次に覚えているのは、蒼真に身体を掴まれ、動かなくなった展示機の外へ放り投げられた感覚と、床へ落ちた時に肺から空気が抜けた痛みだった。
相馬は霞む視界の中で身を起こし、別の展示機へ向かう蒼真の背中を見た。その先では、相馬機を倒した中型個体が、避難しきれずに残っていた美咲たちの方へ進んでいる。
高校を卒業してから、まともに話したこともなかった同級生が、迷わず展示機へ乗り込んだ。
家族へ迫る中型個体の前へ立ち、殺した。
記録映像でしか知らない出来事ではない。相馬は床に倒れたまま、蒼真が初めて敵を殺した瞬間を、自分の目で見ていた。
「相馬一尉が機能を停止するまでに避難した人数と、避難口周辺の滞留解消時刻を確認しました。相馬一尉が進路を塞がなければ、橘二尉が搭乗する以前に、中型個体がより多くの民間人へ到達していた可能性があります」
「たまたま間に合っただけです」
「偶然であれば、敵性個体の進路を三分四十一秒継続して制限できません」
八神は映像を一度止め、展示機の仕様書と当日の整備記録を開いた。
「武装なし。防盾なし。任務目的は公開実演であり、敵性個体との交戦は運用計画に含まれていません。相馬一尉が搭乗していなければ、襲撃発生後に別の搭乗者を配置し、機体を起動するまでの時間も必要でした」
「俺は正規の搭乗者です」
「だから可能だったと評価しています。同時に、正規搭乗者であっても、排除を成功条件に設定するのは不適切です」
相馬は画面の中で倒れている展示機を見た。
当時の相馬は、蒼真が管理局で働いていたことさえ知らなかった。なぜ展示機を動かせたのかも、なぜ家族の前へ立った時だけ別人のように戦えたのかも分からない。ただ、自分が止められなかった敵を、昔の同級生が殺すところを見ていた。
蒼真がフレイムワーカーへ乗りたくなかったことを知ったのは、その後である。
乗りたくない。それでも、家族を守るためには乗った。
事情を知ってから振り返るほど、あの時の蒼真が何を押し殺して機体を動かしていたのか分からなくなった。相馬自身の記録も含め、展示会場の出来事には、考えたくないことの方が多かった。
自分が乗った機体は壊れた。
敵も倒せなかった。
報告書に書かれた二つの結果を否定する理由はないと思っていた。
「本記録は、敵性個体の排除評価ではなく、緊急時の避難支援および無武装機による拘束行動として再評価を求めます」
八神は修正申請の画面を開き、迷わず承認欄へ自分の識別情報を入力した。
「今さら直して、何か変わるんですか」
「変わります」
八神は端末を見たまま答えた。
「少なくとも、相馬一尉が何もできずに機体を失ったことにはならなくなります」
相馬は返事をしなかった。
画面の中では、吹き飛ばされた相馬機の向こうを、避難する人々が走っている。さらに奥には、相馬を機外へ出したあと、別の展示機へ向かう蒼真の姿が小さく映っていた。
誰も見直さなかった記録だった。相馬自身も、見直す必要はないと思っていた。
八神は慰めるような言葉を使わず、よくやったとも言わない。ただ、映像と機体仕様と避難完了時刻を並べ、記録が事実と一致していないと判断した。
そのことが、かえって相馬の胸へ残った。
「ありがとうございます」
「礼を受ける内容ではありません。誤った評価を修正するのは業務です」
「それでも、見つけたのは八神評価官でしょう」
「資料を確認すれば分かります」
「今まで、誰も確認しなかった」
八神の指が止まった。
少しの間を置いてから、彼女は相馬へ顔を向けた。相変わらず表情はほとんど動いていなかったが、先ほどまでより視線が柔らかくなったように見えたのは、相馬の思い込みかもしれない。
「では、受け取ります」
「はい」
話が終わったように思えたが、八神は映像を閉じなかった。
再生位置を実演ショーの最中まで戻し、会場全体を映す監視カメラへ切り替える。相馬機は中央の実演区域におり、観客は安全柵の外側からその動きを見ている。
会場の奥で最初の衝撃音が鳴ると、観客の何人かが入口側を振り返った。係員はまだ避難口を開いておらず、誘導も始まっていない。
中型個体は展示区画の中央にいる。
その頭部が、まだ開いていない非常口の方角へ動いた。
「ここを見てください」
八神が映像を止める。
「何ですか」
「敵性個体が進路を変更した時点で、この避難口は使用されていません」
相馬は画面へ身を寄せた。
係員が防火扉の解放操作を始めたのは、その十二秒後である。扉の向こうに通路があることは、会場へ来た人間なら案内図で分かる。だが、敵性個体が案内表示を理解したとは考えにくい。
「音に反応したんじゃないですか」
「この時点では、正面入口側の方が大きな音を記録しています。人数も多い」
八神は音響記録と人流表示を重ねた。
赤く示された中型個体の軌跡は、人が集まっていた場所へ向かっていない。まだ人が少なく、これから避難路として使われる通路へ先回りするように動いていた。
「偶然では?」
「可能性はあります」
八神は即座に否定しなかった。
「ただし、東部第七防衛区で確認された敵性個体群も、部隊の現在位置ではなく、撤退時に使用する経路を先に塞いでいます。新川町では、住民が集中している中央県道へ正面から侵入せず、西側住宅地の避難用バスと消防車両へ複数個体が向かいました」
三つの地図が画面へ並ぶ。
展示会場。
占領された市街地。
新川町。
規模も場所も違う。指揮する大型個体が確認されたのは市街地だけであり、同じ理由で動いたと断定できる材料はない。
それでも、赤い軌跡はどれも、人間が今いる場所より、人間がこれから通る場所へ伸びていた。
「モンスターが、避難経路を読んでいたと?」
「現段階では判断できません」
八神は三つの資料を閉じず、関連記録として結びつけた。
「判断できないため、残します」
「いつから調べるんですか」
「すでに調べています」
淡々とした返答だった。
相馬は一瞬だけ言葉を失ったあと、喉の奥で笑った。
「八神評価官は、昔からそうなんですか」
「何がですか」
「一度気づいたら、止まらないところです」
「確認が終わっていません」
「終わるまで止まらないってことでしょう」
八神は否定しなかった。
午後になって作戦本部の担当者が到着すると、大隊運用の検証は再開された。午前中に整理した案を基に、敵を見失った位置と時刻、損傷機、退路、支援余力を中隊間で共有する暫定手順が作られていく。
会議が終わった頃には、窓の外が薄い橙色へ変わっていた。
相馬は端末と資料を鞄へ入れ、席を立った。八神はまだ座ったまま、展示会場の記録に追加された照会先を確認している。
「八神評価官」
「はい」
「今度、食事でも奢ります」
八神が画面から目を上げた。
「記録の修正は業務です。対価は必要ありません」
「対価じゃありません。今日の缶コーヒーだけだと、俺の方が安すぎるので」
「金額の問題ではありません」
「では、仕事と関係なく」
相馬は軽い調子で言ったつもりだった。断られれば、それで終わる話である。
八神はすぐに返事をせず、手元の予定表を開いた。検討しているのが誘いの意味ではなく、純粋に空いている日時なのだと分かる動きだった。
「業務と無関係な食事であれば、拒否する理由はありません」
「では、都合のいい日を教えてください」
八神は予定表を確認し、窓の外へ一度だけ目を向けた。夕方の光はすでに会議棟の上層階から離れ、中庭の木々へ細長い影を落としている。
「本日の十九時以降であれば空いています」
「今日ですか」
「今度、という指定に、本日を除外する条件はありませんでした」
「ありませんでしたね」
相馬が笑うと、八神は何も間違っていないという顔で端末へ視線を戻した。
「照会を一件登録します。十五分待ってください」
「分かりました。下で待っています」
相馬が会議室を出たあと、八神は展示会場襲撃記録へ戻った。
相馬一尉の行動評価については、修正申請を提出した。
避難支援として再評価されれば、記録と事実の食い違いは解消される。
しかし、敵性個体が使用前の避難口へ向かった理由は、評価欄を書き換えても消えない。
八神は新しい照会項目を作成した。
《敵性個体による避難経路および撤退行動の予測可能性》
対象記録には、展示会場、東部第七防衛区、新川町の三件を指定する。
閲覧範囲を内閣情報局政策評価部の継続確認案件へ変更し、関連する過去記録が追加された場合には通知されるよう設定した。
回答期限は設けなかった。
現時点では、仮説と呼べるだけの材料もない。
ただ、説明できないものを偶然として閉じれば、その先にある事実も記録から消える。
八神は申請を確定した。
回答期限を設けなかった照会項目が、継続案件の一覧へ加わる。
画面の端では、相馬との食事予定が十九時に登録されていた。
*
中央防衛局から歩いて十分ほどの場所に、遅い時間まで開いている小さな洋食店があった。
大通りから一本入った角地にあり、曇りガラスの扉を開けると、焼いた肉とバターの匂いが外まで流れてくる。店内には四人掛けの席が六つと、厨房に面した短いカウンターがあり、仕事帰りの客が低い声で話していた。
相馬と八神は、窓際の二人席へ向かい合って座った。
「こういう店でよかったですか」
「問題ありません」
八神は上着を椅子の背へ掛け、卓上の献立を開いた。会議室にいた時と同じ表情で頁を追っていたが、仕事の資料と違い、指が一度だけ甘味の欄で止まる。
相馬は気づいたものの、何も言わずに煮込みハンバーグを選んだ。八神は魚料理の定食を注文し、そのあとに季節の苺パフェを加えた。
「見るなら、言ってください」
店員が離れたあと、八神が相馬へ顔を向けた。
「いや。甘いものが好きなのかと思って」
「嫌いではありません」
「缶コーヒーも砂糖入りでしたね」
「糖分は作業効率の維持に有効です」
「苺パフェも?」
八神は僅かに黙り、閉じた献立を机の端へ揃えた。
「苺は好きです」
仕事の根拠を並べる時よりも、短い答えだった。
相馬は笑いそうになる口元を水の入ったグラスで隠した。八神はその動きを見ていたが、訂正も追加説明もしなかった。
料理が届くと、二人はしばらく仕事の話をしなかった。
相馬は所属中隊の食事が量を優先するため、煮込み料理でも肉が硬いこと。八神は会議が続く日は昼食の時間がずれ、机の引き出しに保存食を置いていること。どちらも相手へ話すほどのことではないと思っていた内容だったが、途切れたところから別の話が自然に続いた。
「八神評価官は、俺の記録まで確認する必要があったんですか」
皿の半分ほどを食べたところで相馬が尋ねると、八神はナイフを置き、口元を紙ナプキンで押さえた。
「相馬一尉を連絡調整要員として評価するために必要でした」
「それなら、展示会場の評価を直す必要まではなかったでしょう」
「誤りを見つけました。修正しない理由がありません」
「八神評価官にとっては、それだけですか」
八神はすぐに答えなかった。
厨房から食器の重なる音が聞こえ、窓の外を走った車の灯りが、彼女の横顔を一瞬だけ照らす。
「相馬一尉は、橘二尉が望んでいない形で前線へ置かれないよう、記録に残そうとしていました」
「そうですね」
「本人が口にしない事実でも、残す者がいなければ、存在しなかったものとして扱われます」
八神は水を一口飲んでから、相馬を見た。
「あなたが橘二尉にしたことと、同じです」
相馬は返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。
八神はそれ以上説明せず、食事を再開した。感謝させるつもりも、自分が正しいと認めさせるつもりもないらしい。ただ、相馬の記録を直した理由を、彼に伝わる事実へ置き換えただけだった。
食後に運ばれてきた苺パフェは、八神が仕事中に使う端末よりも高さがあった。
透明な器の中へ苺と白いクリームが重なり、上には半分に切られた実が並んでいる。八神は一度だけ全体を見上げたが、注文を間違えたとは言わず、長い匙を取った。
「多くないですか」
「注文時の写真より大きいことは認めます」
「手伝いましょうか」
「必要ありません」
即答だった。
相馬はコーヒーを飲みながら、八神がパフェを崩していく様子を眺めた。苺を先に食べるのではなく、クリームと一緒に少しずつ減らしている。仕事の時と同じように一定の速度だったが、最後に残した一粒だけは、他よりゆっくり口へ運んだ。
「次は、もう少し小さい店を選びます」
相馬が言うと、八神の匙が空の器の上で止まった。
「次も相馬一尉が選ぶのですか」
「嫌なら、八神評価官が選んでください」
「嫌だとは言っていません」
「では、次もありますね」
八神は答える代わりに端末を開き、予定表を表示した。
「次回の大隊運用検証は四日後です。終了予定は十八時です」
「仕事のあとに?」
「本日の食事も、仕事とは無関係だったはずです」
「そうでした」
相馬は笑い、四日後の予定を自分の端末へ登録した。
二人の画面へ、同じ時刻が表示される。
八神の予定表では、その下に回答期限のない照会案件が残っていた。
相馬一尉との食事。
敵性個体による避難経路の予測可能性。
この時点では、どちらも、どこへつながるのか分かっていなかった。
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