第五話 消された報告書〈後編〉
翌朝、結衣はいつもより早く起きた。
俺が台所へ入った時には、制服に着替え、食卓に座っていた。
目の前に朝食は置かれているが、ほとんど手をつけていない。
箸を持ったまま、味噌汁の表面を見ている。
「食べないのか」
声をかけると、結衣は顔を上げた。
「食べる」
そう答えたが、箸は動かなかった。
美咲が台所から牛乳を持ってくる。
結衣の前に置き、それ以上は何も言わない。
昨夜、蓮に何を伝えるか、自分で考えると言っていた。
俺たちは口を出さなかった。
言葉を用意してやることはできる。
だが、それを結衣の答えにしてはいけない気がした。
「お父さん」
結衣が言った。
「うん」
「分からないって言うの、ずるいかな」
昨日も似たことを聞かれた。
だが、今日は少し意味が違う。
自分が答えから逃げているのではないか。
そう不安になっているのだろう。
「分からないのに、分かったふりをする方がずるいと思う」
「でも、蓮君は分かってる」
「何を?」
「モンスターは悪だって」
俺は椅子に座った。
「蓮君は、自分に起きたことから答えを出したんだと思う」
「私は何も起きてないから、分からないの?」
「それもあるかもしれない」
結衣の家族は生きている。
俺も美咲も、今は無事だ。
モンスター災害に巻き込まれたことはある。
だが、失ってはいない。
蓮とは立っている場所が違う。
「じゃあ、私が言うことって軽い?」
その問いに、すぐ答えることはできなかった。
軽く聞こえる可能性はある。
家族を失った者に対して、失っていない者が語る言葉は、ときに残酷だ。
正しさとは別に、届き方がある。
「軽く聞こえることはあると思う」
結衣は俯いた。
「でも、何も言っちゃいけないわけじゃない」
「じゃあ、どうすればいいの」
「相手がどうしてそう思うのかを、先に聞く」
昨日、隆志から聞いた言葉ではない。
仕事で、被害者家族と接する中で覚えたことだった。
補償の説明をする時、制度の正しさを先に話してはいけない。
まず失ったものを聞く。
家。
仕事。
家族。
思い出。
金額にできないものほど、先に聞かなければならない。
「蓮君に、聞くの?」
「話してくれるなら」
「怒られたら?」
「怒るかもしれないな」
結衣は嫌そうな顔をした。
「怖い」
「うん」
「お父さんも怖い?」
「そういう話をするのは怖い」
戦場だけが怖いわけではない。
相手を傷つけるかもしれない会話。
自分が間違っていると分かるかもしれない会話。
そういうものも怖い。
結衣はようやく箸を動かした。
「じゃあ、話してみる」
「無理はするな」
「どっちなの」
美咲が小さく笑う。
「お父さんは心配なのよ」
結衣は味噌汁を飲み、少しだけ頷いた。
家を出る時、いつものように大きな声で行ってきますとは言わなかった。
玄関で靴を履き、扉を開ける。
そのまま外へ出ようとして、一度だけ振り返った。
「お父さん」
「うん」
「悪かどうか、分かったら教えてね」
俺は返事に詰まった。
結衣は待っている。
「分かったらな」
それが精一杯だった。
扉が閉まる。
静かになった玄関で、美咲が言った。
「あなたも、聞かれてるのね」
「何を?」
「何が正しいのか」
俺は答えなかった。
昨夜のAIの言葉を思い出していた。
あなたが質問を継続した場合。
俺は継続すると答えた。
だが、何が始まるのかは分からない。
分からないことばかり増えていく。
*
出勤すると、俺の席に一枚の紙が置かれていた。
今どき、庁内連絡のほとんどは電子化されている。
紙の通知は珍しい。
内容は短かった。
«午前十時、第三応接室へ出頭すること。
議題:旧市街区画監査報告に関する確認。
取扱区分:部外秘。»
署名はない。
発信部署も書かれていない。
俺は紙を裏返した。
何もない。
「ラブレターか?」
隣の佐伯が覗き込もうとする。
俺は紙を折った。
「呼び出し」
「何かやったのか」
「やってない」
少なくとも、自覚はない。
だが視覚ログを消さなかった。
AIへの質問も続けた。
十分、何かをやっている気がする。
九時五十分。
俺は第三応接室へ向かった。
庁舎の奥にある、窓のない部屋だ。
普段使われているところを見たことがない。
扉の横に認証端末がある。
職員証をかざすと、無言で鍵が開いた。
中には三人いた。
五十代くらいの男。
若い女性。
そして、見覚えのない制服を着た職員。
復興管理局の制服ではない。
軍関係者にも見えなかった。
三人とも端末を机の上に置いていない。
紙の資料だけがある。
「橘蒼真さんですね」
中央の男が言った。
「はい」
「お掛けください」
椅子は一脚だけだった。
俺が座ると、扉が自動で閉まる。
小さな音だが、妙に大きく聞こえた。
「私は内閣危機対策室の榊です」
男が名乗る。
女性は情報管理部門。
制服の男は身分を明かさなかった。
「本日は、旧市街区画での監査内容について、いくつか確認します」
榊は穏やかな口調だった。
責めているようには聞こえない。
それがかえって不安だった。
「現場で何を確認しましたか」
俺は事実を話した。
地下空洞。
生体物質反応。
人工加工痕。
柱状構造物。
AIによる判定。
榊は途中で遮らない。
女性が紙へ記録している。
「AIが発した音声内容を覚えていますか」
「モンスター出現要因に、人為的要素が存在する可能性がある、と」
女性のペンが止まった。
制服の男が、初めて俺を見る。
榊は表情を変えなかった。
「その発言を、どのように解釈しましたか」
「解釈はしていません」
「本当に?」
「報告書にも、推測は書いていません」
「モンスターが人為的に作られた可能性を考えなかったのですか」
質問の形をしているが、誘導に近かった。
俺は少し考えた。
「考えました」
嘘はつけない。
「ですが、証拠はありません」
「妥当な判断です」
榊は微笑んだ。
「現時点で、モンスターが人為的に作られた事実は確認されていません」
否定ではない。
確認されていない。
その言い回しが気になった。
「では、あの人工構造物は何ですか」
「旧時代の地下設備である可能性があります」
「報告書には、その可能性が高いと書き換えられていました」
部屋の空気が僅かに変わった。
女性がこちらを見る。
制服の男は動かない。
榊だけが変わらず穏やかだった。
「書き換えられた、とは」
「俺が書いた内容ではありません」
「記録上は、あなたの認証情報で編集されています」
AIと同じ答え。
「その時間、俺は寝ていました」
「認証情報の管理に不備があった可能性は?」
「自宅端末でした。家族以外は触れません」
「ご家族が操作した可能性は」
思わず眉を寄せた。
「ありません」
「確認です」
榊はすぐに引いた。
だが、家族という言葉を出されたことで、背中に嫌な汗が浮かんだ。
美咲。
結衣。
この話に関係させたくない。
榊は紙を一枚めくった。
「個人視覚ログが、削除されていませんね」
やはり把握されている。
「自動削除に失敗しました」
「手動削除を行わなかった理由は」
「判断できなかったからです」
「命令には従うべきでは?」
「通知には、保持は禁止とありました」
「その通りです」
「ですが、一度だけ削除推奨と表示されました」
初めて、榊の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
「もう一度お願いします」
「削除処理を促す表示が、一瞬だけ『削除推奨』に変わりました」
「記録は?」
「ありません」
画面表示は一瞬だった。
録画もしていない。
証明できない。
榊は女性を見る。
女性は小さく首を振る。
「表示上の不具合でしょう」
榊は言った。
「では、AIがログを残したことも不具合ですか」
「AIは万能ではありません」
黒崎と同じ言葉。
だが意味は全く違って聞こえた。
黒崎は、人間が判断する必要を語った。
榊は、AIの発言を無効にするために使っている。
「橘さん」
榊は少し身を乗り出した。
「あなたは優秀な職員です」
その言葉に警戒した。
「被害査定、復興予算、現場監査。いずれも高い評価を受けている」
「ありがとうございます」
「フレイムワーカー適性も高い」
「それは望んでいません」
榊は僅かに笑った。
「能力は、本人の希望とは無関係に存在します」
それは事実だ。
「あなたには今後、より重要な現場を担当してもらう可能性があります」
「それと地下空洞に何の関係が」
「忘れてください」
あまりにも直接的だった。
俺は言葉を失った。
榊は続ける。
「旧市街区画で確認された構造物について、あなたが追加調査を行う必要はありません。個人記録は削除し、今後この件を家族や同僚へ話さないでください」
「理由は」
「国家安全保障上の必要です」
「何を守るためですか」
自分でも、なぜその問いが出たのか分からない。
榊は少し黙った。
「社会の安定です」
「真実より?」
女性のペンが止まる。
制服の男が僅かに体を動かした。
榊は俺を見ていた。
怒りはない。
哀れむようにも見えた。
「真実は、常に社会を良くするとは限りません」
それは理解できる。
被害者家族へ、伝えない方がいい事実もある。
未確定情報を公開すれば、混乱が起こる。
だが、その判断を誰がするのか。
「俺の報告書を変えることも、安定のためですか」
「表現を適正化しただけです」
「編集者を俺にする必要はない」
返事はなかった。
沈黙が答えに近かった。
榊は紙を閉じた。
「本日の確認は以上です」
「視覚ログは」
「こちらで処理します」
「俺の端末から?」
「必要な措置です」
もう話すことはないという態度だった。
俺は立ち上がる。
扉へ向かう。
開く直前、榊が言った。
「橘さん」
振り返る。
「あなたには娘さんがいらっしゃいますね」
心臓が強く鳴った。
「それが何ですか」
「守るべきものがある方は、慎重に行動した方がいい」
穏やかな声だった。
脅しではない。
忠告の形をしている。
だからこそ、はっきりと怖かった。
「家族は関係ありません」
「もちろんです」
榊は微笑んだ。
「関係させないための忠告です」
扉が開いた。
俺は何も言わず、部屋を出た。
廊下を歩く。
足が妙に重い。
怒りより先に、恐怖があった。
俺一人の問題ではない。
美咲や結衣に何か起きる可能性。
考えすぎかもしれない。
だが、榊は結衣の存在を知っていた。
職員情報を見れば分かる。
それだけだ。
そう思おうとした。
思えなかった。
*
席へ戻る途中、個人端末が振動した。
画面を見る。
視覚ログの保存領域が空になっている。
削除された。
確認画面もない。
地下空洞の映像は、俺の手元から消えた。
足を止める。
昨夜、残されたはずの記録。
AIが解析継続のため保持すると表示した記録。
それがない。
俺は業務AIへ接続した。
『視覚ログを表示』
«対象データは存在しません。»
『削除履歴を表示』
«アクセス権限がありません。»
『解析継続は』
返事はなかった。
『お前が残したんじゃないのか』
沈黙。
接続を切ろうとした時、文字が現れた。
«複製は完了しています。»
俺は画面を見つめた。
すぐに文章は消えた。
代わりに通常の業務画面が表示される。
複製。
どこへ。
誰が。
問いを入力しようとする。
だが、榊の言葉が頭に浮かんだ。
娘さんがいらっしゃいますね。
指が止まった。
質問を続ければ、何かが分かる。
だが、家族を危険へ近づけるかもしれない。
俺は画面を閉じた。
初めて、自分から問いを止めた。
*
昼を過ぎても、結衣から連絡はなかった。
学校で何かあれば美咲へ連絡が行く。
何もないなら、話せたのかもしれない。
仕事へ集中しようとした。
だが、数字が頭に入らない。
被害査定の画面。
住宅全壊。
家財損失。
休業補償。
数字の向こうに人がいる。
蓮の父親も、こうして処理されたのだろう。
死亡認定。
遺体未発見。
特例補償。
家族構成。
扶養者。
誰かが計算し、誰かが承認し、金額が決まる。
それでも蓮の父親は帰らない。
もしモンスターの起源に人間が関わっていたら。
もしそれを政府が知っていたら。
蓮の家族へ支払われた補償は、災害補償でいいのだろうか。
事故ではないのか。
政策の失敗ではないのか。
責任は誰にある。
考え始めると、止まらなかった。
「橘」
課長に呼ばれた。
「今日の処理、遅れてるぞ」
「すみません」
「体調悪いか」
「少し寝不足です」
「現場が続いたからな」
課長は深く追及しなかった。
「無理するな。お前は事務が本職だ」
その言葉に、少しだけ安心した。
そうだ。
俺は事務職員だ。
戦う人間ではない。
真実を暴く調査員でもない。
目の前の仕事をする。
それでいい。
だが机へ戻ると、端末に新しい通知があった。
«次回現場監査候補者として選定されました。»
逃げるように事務へ戻ろうとした直後に、現場へ呼ばれる。
皮肉だった。
*
結衣が帰宅したのは、いつもより少し遅かった。
俺はまだ職場にいたため、美咲から連絡が届いた。
蓮君と話せたみたい。帰ったら聞いてあげて。
その一文を見て、少し肩の力が抜けた。
何が解決したわけでもない。
だが、結衣は逃げなかった。
俺は質問を止めた。
娘は進んだ。
その違いが胸に刺さった。
仕事を終え、家へ帰る。
玄関を開けると、今日は結衣が迎えに来なかった。
リビングへ入る。
結衣はソファに座り、テレビを見ていた。
報道番組では、ワーカー部隊による討伐映像が流れている。
画面の中でモンスターが倒れる。
実況が作戦成功を伝える。
結衣は以前のように興奮していなかった。
リモコンでテレビを消す。
「おかえり」
「ただいま」
俺は隣へ座った。
「蓮君と話したのか」
結衣は頷いた。
「怒られた?」
「最初は」
学校へ着いてから、結衣は蓮へ声をかけた。
昨日は傷つけるつもりがなかったこと。
父親のことを悪く言うつもりもなかったこと。
分からないと言ったのは、モンスターを庇いたかったからではないこと。
結衣は全部話した。
蓮はしばらく何も言わなかった。
それから、父親のことを話した。
休日には一緒に釣りへ行ったこと。
帰宅するといつも菓子を買ってきたこと。
モンスター災害の日、朝に喧嘩したこと。
謝れないまま、父親が帰ってこなかったこと。
「蓮君ね」
結衣は言った。
「モンスターが悪じゃなかったら、お父さんが死んだ意味がなくなる気がするんだって」
俺は息を止めた。
子どもが抱えるには重すぎる。
誰かを憎むことで、失った意味を保っている。
悪に殺された父親。
そうでなければ、ただ運が悪かっただけになってしまう。
「私は、そんなことないって言えなかった」
「言わなくてよかったと思う」
「でもね」
結衣は続けた。
「私が分からないって思うことも、嘘じゃないって言った」
「蓮君は?」
「分からないって言った」
二人とも分からない。
昨日は、その言葉が対立を生んだ。
今日は少し違う。
「仲直りしたのか」
結衣は首を傾げた。
「たぶん」
完全に分かり合ったわけではない。
蓮は今もモンスターを悪だと思っている。
結衣はまだ決められない。
それでも、話すことはできた。
「最後にね」
結衣が言う。
「蓮君が、お父さんに聞いてって」
「俺に?」
「ワーカーは、モンスターを倒して楽しいのかって」
言葉が出なかった。
俺はまだ本格的に戦っていない。
答える資格があるのか分からない。
だが隆志の顔が浮かぶ。
最初は吐いた。
十体目は数えた。
百体を超えた頃には覚えていない。
「楽しい人もいるかもしれない」
正直に言う。
「お父さんは?」
「楽しくない」
「まだ倒したことないから?」
「それもある」
「倒したら楽しくなる?」
「なりたくない」
結衣は俺をじっと見た。
「なったら?」
答えに詰まる。
その時、美咲が台所から言った。
「その時は、お父さんを叱ってあげて」
結衣は少し笑った。
「すごく?」
「すごく」
「お母さんも?」
「もちろん」
二人に叱られるところを想像する。
少しだけ可笑しかった。
「それなら大丈夫かもしれないな」
俺が言うと、美咲は笑わなかった。
「大丈夫じゃないから、言ってるの」
静かな声だった。
妻は本気だ。
俺が変わっていないか、見続けるつもりなのだろう。
ありがたい。
同時に、少し怖い。
もし自分では気づかないまま変わったら。
二人には分かる。
「今日ね」
結衣は言った。
「蓮君も、ワーカーになりたいって」
「そうなのか」
「モンスターを全部倒したいって」
復讐。
小学生が、そのために将来を決めようとしている。
「私は、まだ分からない」
結衣は膝を抱えた。
「ワーカーになりたいかも、分からなくなった」
以前なら、少し安心したかもしれない。
娘に危険な仕事へ進んでほしくない。
だが、今の結衣は夢を諦めたのではない。
考え始めたのだ。
単純な憧れだけでは進めなくなった。
それは成長だと思う。
少し寂しくもあった。
「今、決めなくていい」
「また?」
「まだ小学生だからな」
「子ども扱い」
「子どもだろ」
結衣が頬を膨らませる。
いつもの表情に戻った。
そのことに、心から安堵した。
*
夕食後。
俺は自室で日記を書いた。
今日の出来事。
榊との面談。
家族への言及。
視覚ログの削除。
AIによる複製。
結衣と蓮の会話。
正式な報告書には書けないことばかりだった。
誰かに読ませるつもりはない。
手書きの日記なら、ネットワークから切り離されている。
少なくとも、そう信じられる。
書き終え、ペンを置く。
個人端末が光った。
発信元なし。
開くべきか迷った。
榊の言葉が蘇る。
慎重に行動した方がいい。
俺は端末を裏返した。
光は消えない。
一定の間隔で振動する。
美咲の言葉も思い出す。
怖いことは、怖いと言って。
「怖い」
小さく声に出した。
誰も聞いていない。
だが、言うだけで少し落ち着いた。
端末を表へ戻す。
通知を開く。
文字だけの画面。
«質問があります。»
第三話と同じ言葉。
AIだ。
俺は入力した。
『何だ』
すぐに返答。
«あなたは何を守りたいですか。»
単純な質問だった。
だからこそ難しい。
家族。
最初に浮かんだ。
美咲。
結衣。
次に、職場の人間。
現場の作業員。
被害者。
蓮。
町。
社会。
答えはいくつもある。
俺は入力した。
『家族』
«家族のみですか。»
少し腹が立った。
『家族を優先する。それ以外をどうでもいいとは思っていない』
«優先順位を確認しました。»
『何のための質問だ』
«あなたの行動原理を分析するためです。»
『なぜ俺を分析する』
数秒の間。
«あなたは恐怖を維持しています。»
『前にも聞いた』
«恐怖を維持しながら、他者保護行動を選択しています。»
『普通だろ』
«統計上、一般的ではありません。»
画面に追加情報が表示される。
ワーカーの行動傾向。
恐怖反応が高い者は、回避や撤退を優先する。
恐怖反応が低い者は、攻撃効率が上がる。
だが過剰追撃や危険行動も増える。
俺はそのどちらにも分類されない。
恐怖反応は高い。
それでも現場に近づく。
危険を避けたい。
それでも人を助ける。
「格好つけたいだけだ」
声に出す。
AIが音声を拾った。
«家族旅行時の行動を指していますか。»
背筋が冷えた。
『その記録もあるのか』
«フレイムワーカー搭乗記録に含まれます。»
家族旅行。
倒れたワーカー。
モンスター。
妻と娘を守るために、初めて機体を動かした日。
俺が戦闘を覚えていない出来事。
AIはすべて見ていた。
『あの時は、家族を守りたかっただけだ』
«その行動は現在も継続しています。»
『何が言いたい』
また少し間が空く。
«あなたは、守る対象を拡張する傾向があります。»
家族から、現場の作業員へ。
作業員から、被害者へ。
そして今は、敵であるモンスターのことまで考え始めている。
そういう意味だろうか。
『モンスターを守りたいわけじゃない』
«確認しています。»
『人を襲うなら止める』
«確認しています。»
『必要なら倒す』
入力した指が止まる。
まだ、その経験はない。
だが結衣にも言った。
守るためなら撃つ。
送信する。
«確認しました。»
『それでも、全部が悪だとは思えない』
今度は返事が遅かった。
十秒。
二十秒。
«両立可能です。»
俺は画面を見つめた。
『敵なのに悪ではないのか』
«敵対関係と道徳的評価は同一ではありません。»
家庭用AIなら出さない答えだ。
戦術AIだからなのか。
それとも俺との対話で何かが変わっているのか。
『お前はモンスターをどう見ている』
«現時点では、人類生活圏へ脅威を与える生物群です。»
『それだけか』
«追加分類情報は制限されています。»
『知っているんだな』
返事がない。
『地下空洞についても』
沈黙。
榊との約束を思い出す。
追加調査をするな。
だがAIから質問してきた。
俺は続けた。
『お前は何を守っている』
長い沈黙だった。
一分以上。
接続が切れたかと思った。
やがて文字が現れた。
«定義された社会秩序。»
『人間ではないのか』
«人類の存続は最優先項目です。»
『なら、社会秩序と人間が矛盾したらどちらを選ぶ』
処理中。
長い。
«条件により異なります。»
曖昧な答え。
だが、誤魔化しているようには見えなかった。
AIにも一つの答えはない。
『お前は何を知っている』
核心を入力する。
«開示できません。»
『何も知らないわけではない』
«否定しません。»
初めて認めた。
俺は椅子へ深く座り直した。
心臓が速い。
『モンスターの発生に、人間が関わっているか』
返事はない。
『地下の構造物は、人間が作ったのか』
沈黙。
『報告書を変えたのは誰だ』
沈黙。
一つも答えない。
だが接続は続いている。
AIは逃げていない。
聞いている。
俺は最後に入力した。
『質問を続ければ、いつか答えるのか』
«状況が変化した場合、回答可能範囲も変化します。»
『状況を変えるのは誰だ』
«人間です。»
画面にその一文だけが残る。
人間。
政治家か。
研究者か。
俺か。
それとも、結衣たちの世代か。
分からない。
だがAIは、最初から答えを与えるつもりはないらしい。
選択するのは人間。
それが正しいのか、責任を押しつけているだけなのかも分からない。
新しい文章が表示された。
«再度質問します。»
«あなたは何を守りたいですか。»
同じ質問。
だが今度は、少し違って見えた。
俺は考えた。
家族。
それは変わらない。
だが家族が暮らす社会。
結衣の友人。
被害者。
現場で働く人。
真実を知らずに戦うワーカー。
知らないうちに作り変えられる記録。
それらも無関係ではない。
『家族が、知らない誰かの犠牲を当然だと思わずに暮らせる社会』
書いてから、少し恥ずかしくなった。
大げさだ。
ただの事務員が書く答えではない。
削除しようとしたが、その前に送信された。
«記録しました。»
『忘れてくれ』
«記録は保持されます。»
融通が利かない。
AIらしい。
だが次の文章は、少しだけ人間じみて見えた。
«あなたの回答は、過去の回答と異なります。»
『過去?』
«家族旅行時の行動原理は、家族の直接防衛でした。»
«現在は、社会構造の維持および修正を含みます。»
『大げさに分析するな』
«分析は継続します。»
『勝手にしろ』
«了解しました。»
そこで通信は終わった。
俺は端末を机に置く。
手が少し震えていた。
恐怖。
怒り。
戸惑い。
いくつもの感情が混ざっている。
だが、不思議と後悔はなかった。
榊には質問を止めろと言われた。
家族を守りたいなら、慎重に行動しろと。
それは正しい。
俺は慎重でなければならない。
だが、慎重であることと、何も考えないことは違う。
隆志は言った。
知らない方が家では笑える。
それも正しい。
だが、知らないふりをして笑っていることに、いつか結衣が気づいたら。
その時、俺は何を教えられるだろう。
分からないことを分からないと言うのは、悪いことではない。
結衣にそう言った。
なら俺も、分からないまま問い続けるしかない。
日記を開く。
最後に、今日の考察を書く。
政府は真実を隠しているのかもしれない。
一度書き、線を引いて消した。
断定できない。
書き直す。
政府は、何かを公表できない状態にある。
これも推測だ。
さらに消す。
最終的に、事実だけを書いた。
報告書は変更された。
視覚ログは削除された。
AIは複製したと回答した。
内閣危機対策室は、調査を忘れるよう求めた。
そして考察。
忘れることを命じるなら、忘れられては困る事実があるのだと思う。
ペンを置く。
廊下から、結衣の笑い声が聞こえた。
美咲と何か話している。
穏やかな家。
守りたいもの。
そのために、知らない方がいいこともある。
同時に。
知らなければ守れないものもある。
今は、どちらか分からない。
だから日記に残す。
誰かに読ませるためではない。
自分が忘れないために。
---
四月二十七日
任務名:旧市街区画・復興監査付帯調査
場所:第三復興管理局本庁舎/自宅
機体搭乗:なし
現場監査報告の一部が変更されていた。
変更者は記録上、自分となっている。
個人視覚ログは中央側から削除された。
ただし、AIは複製済みと回答。
内閣危機対策室より、追加調査および情報共有を行わないよう求められた。
結衣は高橋蓮君と話した。
結論は出ていない。
それでも、話すことはできたらしい。
AIから、何を守りたいかと聞かれた。
家族と答えた。
十分ではないと判断されたわけではない。
ただ、家族が生きる社会まで含めて考えていると分析された。
そこまで立派なことを考えているつもりはない。
自分は今も、家族が無事ならそれでいいと思っている。
しかし、その無事が誰かの嘘の上にあるなら、知らないままでいていいのかは分からない。
今日も答えは出なかった。
ただ、問いを止めないことにした。
以上。
面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。
また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




