第五話 消された報告書〈中編〉
「モンスターって、悪なの?」
結衣は泣いたあとの赤い目で、俺を見ていた。
机の上には、開かれた理科のノートがある。
ページの中央に、大きな字で題名が書かれていた。
モンスターとは何か。
その下には、結衣の字でいくつかの文章が並んでいる。
«モンスターは人をおそう。
町をこわす。
でも生き物でもある。
何を考えているかは、まだ分からない。»
最後の一文には、何度も消して書き直した跡があった。
「学校で何かあったのか」
俺が聞くと、結衣はすぐには答えなかった。
唇を結び、両手を膝の上で握っている。
美咲が背中をゆっくり撫でた。
「理科の授業でね」
代わりに説明しようとする。
だが結衣が首を振った。
「自分で言う」
美咲はそれ以上何も言わなかった。
結衣は鼻をすすり、一度俯いた。
そして、途切れ途切れに話し始めた。
今日の授業では、生き物と環境について調べた内容を発表することになっていたらしい。
森林に棲む動物。
海洋生物。
害獣。
絶滅危惧種。
題材は自由だった。
結衣が選んだのはモンスターだった。
俺が現場へ出るようになってから、結衣は以前よりモンスターについて調べるようになっていた。
最初はワーカーの方に興味を持っていた。
どんな武器を使うのか。
どの機体が強いのか。
誰が一番高いスコアなのか。
テレビで放送される戦果ランキングを見て、目を輝かせていた。
だが最近は違う。
どこから来たのか。
なぜ人を襲うのか。
何を食べているのか。
群れを作るのか。
そんなことを聞くようになった。
俺が答えられない質問ばかりだった。
結衣は学校の図書室と家庭用AIで調べた。
だが、どの資料にも同じようなことしか書かれていなかったらしい。
モンスターは、人類の生活を脅かす危険生物である。
それは間違っていない。
だが、それだけだった。
「それでね」
結衣は言った。
「私、分からないって発表したの」
黒板の前で。
みんなに向かって。
モンスターは人を襲う。
人を殺す。
町を壊す。
だから危険だ。
でも、生き物でもある。
仲間と一緒に動く種類もいる。
子どもらしき個体も確認されている。
どうして人を襲うのかは分からない。
だから、自分にはモンスターが何なのか、まだ分からない。
そう発表した。
教室は静かだったという。
先生も、すぐには何も言わなかった。
その沈黙の中で、一人の生徒が立ち上がった。
高橋蓮。
結衣と同じクラスの男の子。
「分からないわけないだろ」
そう言った。
蓮の父親は、二年前のモンスター災害で亡くなっている。
仕事帰りに避難区域へ巻き込まれた。
遺体は見つからなかった。
現場に残っていた持ち物だけが、家族へ返された。
その事故の補償記録を、俺は見たことがあるかもしれない。
被害報告は数が多い。
名前まで覚えてはいない。
だが、俺の机を通った書類の中に、蓮の父親の人生が数字として記録されていた可能性はある。
「悪に決まってる」
蓮は言った。
「人を殺すんだから」
結衣は言い返せなかった。
自分でも、人を殺すのは悪いことだと思っている。
それでも、分からないという気持ちは消えなかった。
「でも、生き物だよ」
ようやくそう言った。
蓮は机を叩いた。
「生き物だったら何してもいいのかよ」
誰も止められなかった。
先生が間に入ろうとしたが、蓮は続けた。
「お前のお父さん、ワーカーなんだろ」
結衣は首を振った。
「まだ監督だよ」
正確にはそうだ。
だがフレイムワーカーに乗っている時点で、子どもたちにその違いが分かるはずもない。
「じゃあ、モンスターを守るのかよ」
「そんなこと言ってない」
「悪じゃないって言った」
「言ってない!」
結衣も声を上げた。
自分は分からないと言っただけだ。
だが蓮には、悪ではないと言われたように聞こえた。
父親を殺した存在を庇われたように感じたのかもしれない。
最後に蓮は言った。
「お前の家族が殺されても、同じこと言えるのかよ」
そこで結衣は泣いた。
授業は中止になり、別室で先生に話を聞かれた。
蓮も叱られたらしい。
だが結衣は、自分が正しいとは思えなかった。
蓮が間違っているとも思えなかった。
そのまま帰宅し、美咲に話した。
そして俺を待っていた。
「お父さん」
結衣はもう一度聞いた。
「モンスターは悪なの?」
俺は鞄を床へ置いたまま、立っていた。
答えなければならない。
父親として。
結衣が頼っている。
それなのに、言葉が出なかった。
モンスターは人を殺している。
それは事実だ。
町を壊している。
生活圏を奪っている。
だから俺たちは防衛している。
それも事実だ。
だが、昨日見た地下空洞。
生体物質の痕跡。
人工的な構造物。
消された報告書。
モンスターが、ただの自然災害ではない可能性。
それらを知った今、単純に悪だと言っていいのだろうか。
「結衣」
俺はようやく口を開いた。
「人を殺したことは、悪いことだ」
結衣は黙って聞いている。
「町を壊したことも、蓮君のお父さんが帰ってこなかったことも、なかったことにはできない」
結衣の目から、また涙が落ちた。
「じゃあ、やっぱり悪なの?」
「分からない」
言った瞬間、結衣の顔が歪んだ。
「またそれ?」
責める声だった。
当然だと思う。
俺は何度も分からないと言っている。
モンスターはどこから来たのか。
なぜ襲うのか。
何を考えているのか。
何一つ答えてやれていない。
「お父さん、毎日見てるんでしょ」
「毎日じゃない」
「でも私より知ってる」
それはそうだ。
だからこそ、簡単に言えない。
俺は結衣の向かいへ座った。
視線を同じ高さにする。
「蓮君にとって、モンスターは悪だ」
結衣は涙を拭かずに聞いている。
「それは間違ってない」
「でも、お父さんは違うの?」
「俺も、憎いと思う時はある」
被害報告を読む時。
行方不明者の家族から連絡が来る時。
補償額では何も戻らないと分かっていながら、数字を出す時。
モンスターがいなければと思う。
すべていなくなれば、こんな仕事は必要ないと思う。
「でもな」
俺は続けた。
「悪だと決めたら、何をしてもいいことになる気がする」
結衣が眉を寄せる。
「どういうこと?」
「悪いものだから、全部殺していい。何をしてもいい。そう考えるのは簡単だ」
俺は隆志の話を思い出した。
幼体を庇ったように見えた個体。
それを待ち伏せ行動と書き換えた報告。
考えない方が楽だったという言葉。
「でも、本当に全部同じなのかは分からない」
「人を殺してないモンスターもいるってこと?」
「それも分からない」
また分からない。
自分でも情けなくなる。
だが、分からないことを知っているふりはできない。
「俺が分かっているのは、人が襲われたら守らなきゃいけないってことだけだ」
「倒すってこと?」
「必要なら」
その言葉を口にしたとき、胸の奥が重くなった。
俺はまだ戦っていない。
本格的な討伐任務にも出ていない。
それでも、いつか撃つ可能性はある。
そのための適性を持っている。
AIは俺を観察している。
「殺すの?」
結衣の声が小さくなる。
美咲が僅かに身じろぎした。
俺は嘘をつけなかった。
「そうなるかもしれない」
結衣は俯いた。
テーブルの上に涙が落ちる。
「じゃあ、お父さんも悪いことするの?」
その問いは予想していなかった。
俺は何も言えなくなった。
美咲が結衣の肩へ手を置く。
「結衣」
「だって、人を殺すのが悪いなら、生き物を殺すのも悪いんでしょ?」
「同じとは限らないわ」
「なんで?」
美咲も答えに詰まった。
命は同じだと教える。
だが、害獣は駆除する。
食べるために動物を殺す。
人を襲う生き物は排除する。
学校でもそう教えている。
それらがすべて矛盾なく説明できるほど、世界は簡単ではない。
「今日ね」
結衣は言った。
「蓮君に、そんなこと言ったらお父さんが死ぬって言われた」
胸が痛んだ。
「モンスターが悪じゃないって思ってたら、撃てないって」
子どもの言葉だ。
だが、間違っているとは言い切れない。
敵を敵だと認識できなければ、戦えない。
戦えなければ、守れない。
その一方で、敵を悪と決めなければ撃てない人間は、どこまで撃つのだろう。
俺にはまだ答えがない。
「お父さんは撃てる?」
結衣が聞く。
俺は地下空洞を思い出した。
姿の見えない生体反応だけで、心拍数が上がった。
もし実物が目の前に現れたら。
襲ってきたら。
結衣や美咲の背後に現れたら。
その時は。
「お前とお母さんを守るためなら、撃つ」
言葉は迷わず出た。
結衣が顔を上げる。
美咲も俺を見ていた。
「怖くても?」
「ああ」
「悪か分からなくても?」
その問いには少し時間がかかった。
「それでも」
結衣は黙った。
納得したようには見えない。
だが、拒絶もしなかった。
「じゃあ」
しばらくして、結衣が言った。
「蓮君も守る?」
「守る」
「蓮君のお母さんも?」
「守る」
「モンスターも?」
答えに詰まった。
結衣は俺の顔を見ていた。
意地悪で聞いているわけではない。
本当に分からないのだ。
「人を襲わないなら」
ようやく答える。
「戦う必要はないと思う」
「でも、人を襲うかもしれないよ」
「そうだな」
「じゃあ、ずっと見張るの?」
「たぶん」
俺たちがしていることは、そういうことなのかもしれない。
共存しているわけではない。
理解しているわけでもない。
ただ境界線を作り、越えれば撃つ。
今の社会はその方法しか知らない。
結衣はノートを自分の方へ引き寄せた。
消しゴムを持つ。
「消すのか?」
「ううん」
結衣は首を振った。
最後の文章の下に、新しい一文を書いた。
«人を守るためには、戦わないといけない時がある。»
少し考え、さらに続ける。
«でも、戦うことが正しいとは、まだ思えない。»
小学生の文章としては難しすぎる気がした。
だが、今の結衣の本音だった。
「これでいいかな」
「いいと思う」
俺は言った。
「先生に怒られない?」
「怒られたら、俺も一緒に話す」
結衣は少しだけ笑った。
今日初めて見た笑顔だった。
美咲が立ち上がる。
「ご飯、温め直すね」
そこでようやく、まだ夕食を食べていないことを思い出した。
食卓には三人分の食事が用意されている。
俺の分だけ、ラップがかかっていた。
美咲が電子加熱器へ皿を入れる。
結衣はノートを閉じた。
「蓮君に謝った方がいいかな」
俺は考えた。
「傷つけるつもりがなかったことは、伝えてもいい」
「でも、分からないって言ったことは?」
「謝らなくていい」
結衣は驚いた顔をする。
「いいの?」
「分からないものを分からないと言うのは、悪いことじゃない」
その言葉を口にして、俺自身にも言い聞かせていることに気づいた。
俺は地下空洞のことが分からない。
人工構造物の意味も。
政府が何を隠しているのかも。
AIがどこまで知っているのかも。
分からない。
だが、それを疑問に思うことまで間違いだとは思いたくなかった。
「でもな」
俺は付け加えた。
「蓮君が怒る理由は、忘れちゃ駄目だ」
結衣は頷いた。
「うん」
「分からないって言葉は、傷ついてる人には冷たく聞こえることもある」
結衣は少し考えた。
「じゃあ、どう言えばよかったの?」
「それも、自分で考えるしかないな」
答えになっていない。
だが、誰かが用意した正解を教えるべき問いでもない気がした。
「ずるい」
結衣が言った。
「お父さん、何でも自分で考えろって言う」
「俺も分からないからな」
「大人なのに?」
「大人でも分からないことはある」
「多すぎない?」
返す言葉がなかった。
美咲が小さく笑った。
家の空気が、少しだけ元に戻った。
*
夕食後、結衣は自分の部屋へ戻った。
明日、蓮に話す内容を考えるらしい。
美咲は洗い物をしている。
俺は食卓に残り、個人端末を見ていた。
時刻は二十二時四十七分。
視覚ログの削除期限まで、あと一時間余り。
画面にはまだ通知が残っている。
«現場で取得した個人記録を削除してください。»
美咲が水を止めた。
「何かあったの?」
俺は顔を上げる。
「どうして」
「帰ってきてから、何度も端末を見てる」
誤魔化せない。
美咲は昔から、人の変化に敏感だ。
特に家族のことなら。
「仕事のことだ」
「言えないこと?」
その聞き方に、責める色はない。
だから余計に辛かった。
地下空洞の内容は機密指定された。
話してはいけない。
だが、報告書が書き換えられたことまで機密なのかは分からない。
俺は悩み、言える範囲だけを話した。
現場報告が修正された。
自分が書いた覚えのない内容に変わっている。
理由を聞いても、AIが答えない。
美咲は黙って聞いていた。
「危ないことなの?」
「分からない」
今日、何度目の言葉だろう。
美咲は向かいの椅子へ座った。
「蒼真」
「うん」
「あなた、そういう顔をするんだね」
「どういう顔」
「怖いのに、確かめたい顔」
自分では分からなかった。
怖い。
確かに怖い。
だが、見なかったことにはしたくない。
「昔からそうだった?」
美咲が聞く。
「どうだろう」
「旅行の時もそうだった」
家族旅行でモンスター被害に巻き込まれた日。
倒れたフレイムワーカーへ近づいた。
意識を失ったワーカーを助け出した。
そして、妻と娘の背後に現れたモンスターを倒した。
俺は戦闘をほとんど覚えていない。
ただ、人を助けなければと思った。
家族を守らなければと思った。
「怖いのに行くのね」
美咲が言った。
「格好つけたかっただけだ」
「知ってる」
即答された。
「格好良くなかった?」
「すごく心配した」
やはり、格好良いとは思われていなかったらしい。
少し残念だった。
美咲は端末の画面を見る。
「消せって言われてるの?」
「うん」
「消すの?」
俺は答えなかった。
美咲はしばらく待った。
そして、静かに言った。
「私は、あなたにワーカーになってほしくない」
突然の言葉だった。
「知ってる」
「フレイムワーカーは人を変えると思ってる」
「それも知ってる」
「でも」
美咲は俺を真っ直ぐ見た。
「変わらないことが、いつも正しいとも思わない」
俺は少し驚いた。
「どういう意味?」
「知らないふりをして、穏やかでいるのも違うと思う」
親戚の兄が変わっていった時、美咲は何もできなかった。
ワーカーを辞めてほしいと言っても、聞いてもらえなかった。
本人は自分が正常だと思っていた。
周囲も高いスコアを称賛した。
美咲は、フレイムワーカーが人を奪っていくのを見ているしかなかった。
「だから、消すかどうかはあなたが決めて」
美咲は言った。
「ただ、怖いことは怖いって言って」
「美咲に?」
「私にも。自分にも」
俺は頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「できるだけ」
完全な約束はできなかった。
それでも美咲は少し笑った。
そして立ち上がり、洗い物へ戻った。
*
二十三時五十八分。
削除期限まで二分。
俺は自室の机に座っていた。
手元には、紙の日記帳がある。
フレイムワーカーの適性検査を受けてから書き始めたものだ。
誰かに見せるつもりはない。
だから、仕事の正式な報告書とは違うことも書ける。
怖かったこと。
分からなかったこと。
娘に答えられなかったこと。
俺は今日の出来事を、事実だけ並べて書いた。
報告書の変更。
AIの沈黙。
隆志の過去。
結衣の質問。
そして最後に、一行。
分からないまま消すことは、判断ではないと思う。
端末を見る。
残り一分。
俺は視覚ログを開いた。
地下空洞の映像。
滑らかな壁。
規則的な線。
柱状構造物。
AI判定、八十七パーセント。
映像は確かに存在している。
削除ボタンを押せば、終わる。
公務員としては、それが正しい。
家族を危険へ巻き込まないためにも、消した方がいい。
隆志も、持つなら覚悟しろと言った。
俺は削除ボタンの上へ指を置いた。
時刻が二十三時五十九分になる。
その瞬間。
画面の通知が切り替わった。
«削除期限を超過しました。»
続いて。
«自動削除処理を開始します。»
俺は息を止めた。
進行表示が現れる。
一パーセント。
三パーセント。
七パーセント。
止める項目はない。
俺が決められない間に、システムが判断した。
十パーセント。
その時、画面が一瞬暗くなった。
進行表示が消える。
代わりに、文字が表示された。
«自動削除処理に失敗しました。»
そして、もう一文。
«対象データは解析継続のため保持されます。»
俺は画面を見つめた。
解析継続。
誰が。
何のために。
数秒後、その文章も消えた。
視覚ログは残っている。
削除命令の通知だけがなくなっていた。
俺は入力欄を開いた。
『お前が残したのか』
返事はない。
『なぜ』
沈黙。
だが、接続が切れたわけではない。
入力欄の端で、小さな光が点滅している。
AIは聞いている。
答えないだけだ。
俺は最後に入力した。
『俺は何を見た』
長い時間が経った。
一分。
二分。
やがて、画面に文章が現れた。
«現時点では回答できません。»
以前の、権限がないという定型文ではない。
回答できない。
それは、答えがあるという意味にも読めた。
俺はもう一度入力した。
『いつなら答えられる』
処理中の表示。
そして。
«あなたが質問を継続した場合。»
心臓が強く鳴った。
AIが俺に、選択を返した。
知らないままでいるか。
質問を続けるか。
俺はすぐには返事をしなかった。
机の上の日記を見る。
結衣の泣いた顔を思い出す。
モンスターは悪なのか。
俺は答えられなかった。
答えられないまま戦うことになるかもしれない。
だが、知らないふりをして戦うことだけはしたくない。
入力する。
『継続する』
送信。
数秒後。
«観察ログを更新します。»
それだけだった。
だが、俺には分かった。
今日から何かが変わる。
俺はAIに観察されている。
そして俺も、AIを観察し始めた。
面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。
また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




