第六話 土の匂い〈前編〉
目覚ましが鳴る少し前に、目が覚めた。
暗い天井を見ながら、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
狭い応接室。
三人の男。
紙の資料。
娘さんがいらっしゃいますね。
昨日、内閣危機対策室の榊に言われた言葉が、夢の中までついてきたらしい。
横を見る。
美咲が眠っている。
規則正しい寝息が聞こえる。
薄いカーテンの向こうは、まだ夜の色を残していた。
俺は息を吐き、布団から出た。
午前五時四十二分。
目覚ましが鳴るまで、あと十八分ある。
二度寝をする気にはならなかった。
廊下へ出る。
結衣の部屋の前を通ると、扉の隙間から小さな明かりが漏れていた。
こんな時間に起きているはずがない。
そっと扉を開ける。
机の上のライトが点いたままになっている。
結衣はベッドで眠っていた。
布団から片足を出し、枕元には昨日の理科のノートが開いたまま置かれている。
ページの端に、鉛筆で書かれた文章が見えた。
«モンスターが悪かは、まだ分からない。
でも人を守らないといけない。»
小学生が抱えるには重い言葉だ。
俺が抱えさせたのかもしれない。
学校で問いを持ったのは結衣だ。
だが、答えられない父親を見て、考え続けるようになった。
ノートを閉じ、ライトを消す。
結衣が寝返りを打った。
「お父さん……」
寝言だった。
俺はしばらく動けなかった。
守るべきものがある人間は、慎重に行動した方がいい。
榊の忠告が、再び頭をよぎる。
間違ってはいない。
俺が余計なことをしなければ、家族は今まで通り暮らせる。
地下空洞のことも。
消された報告書も。
AIが複製した視覚記録も。
忘れるべきなのかもしれない。
それでも。
忘れろと言われたから忘れるというのは、自分で判断したことになるのだろうか。
答えは出ない。
俺は結衣の布団をかけ直し、静かに部屋を出た。
台所へ行き、湯を沸かす。
朝食を作るつもりはなかった。
美咲より早く起きた時は、コーヒーくらい自分で淹れることにしている。
粉を入れすぎ、苦くなるところまでがいつもの流れだ。
今朝も例外ではなかった。
一口飲む。
苦い。
砂糖を二杯入れた。
それでも苦かった。
「早いね」
背後から声がした。
振り返ると、美咲が立っていた。
寝起きの顔で、髪を片側に寄せている。
「起こしたか」
「ううん。目が覚めた」
美咲は隣に立ち、俺のカップを覗いた。
「また粉、多く入れたでしょ」
「普通だ」
「その色は普通じゃない」
冷蔵庫から牛乳を取り出し、少し注いでくれる。
色が薄くなる。
「昨日、眠れなかった?」
「寝た」
「何時間?」
「五時間くらい」
「それは寝たうちに入らないの」
最近、同じ会話を何度もしている気がする。
俺は返事をせず、コーヒーを飲んだ。
少しましになった。
美咲は味噌汁の準備を始めた。
鍋へ水を入れ、出汁を取る。
この家では家庭用AIが調理を補助してくれる。
献立を提案し、火加減を調整し、食材の鮮度まで管理する。
だが、美咲は味噌汁だけは自分で作る。
理由を聞いたことがある。
「味噌を入れる量まで機械に決められたくないから」
らしい。
その時は随分小さな抵抗だと思った。
今は、少し分かる気がする。
AIが正しい量を示しても、今日どんな味を食べたいかは人間が決める。
「今日は現場?」
美咲が聞く。
「まだ分からない」
「事務所?」
「その予定」
俺の所属は変わっていない。
被害査定と復興予算を扱う事務方だ。
フレイムワーカーに乗り始めたからといって、朝から晩まで現場へ出るわけではない。
むしろ大半の日は机へ座る。
現場監査へ行けば、その分だけ事務仕事が遅れる。
戻った翌日は、机の上に報告書が積まれている。
最近では、現場へ出る日の方が楽なのではないかと思うこともある。
身体は疲れる。
緊張もする。
だが、瓦礫は目に見える。
持ち上げれば減る。
書類の中にある被害は、処理しても消えない。
「また急に呼ばれそうな顔をしてる」
美咲が言った。
「どんな顔だ」
「諦めてる顔」
「呼ばれてない」
「まだ、でしょ」
否定できない。
適性が高いと分かってから、俺の予定は業務開始後に変更されることが増えた。
本来の担当案件を開いた直後、現場監督の通知が来る。
誰かへ引き継ぎを頼み、資料をまとめ、整備棟へ走る。
その繰り返しだ。
「フレイムワーカーに乗るの、嫌?」
美咲が鍋を見たまま聞いた。
「嫌だ」
即答した。
「仕事そのものが?」
少し考える。
「機体に乗るのが嫌なんだと思う」
「復興の監督は?」
「嫌いじゃない」
自分で言って、少し驚いた。
現場監督を始めたばかりの頃は、行きたくないとしか思っていなかった。
危険区域。
慣れない機体。
責任。
AIと現場の板挟み。
今も楽しいとは思わない。
だが、現場で働く人間を知った。
瓦礫の向こうに生活があることも知った。
予定より遅れている一日が、単なる数字ではないことも。
「少し変わったね」
美咲が言った。
胸が強く反応した。
美咲も気づいたらしい。
俺は無意識にカップを強く握った。
「悪い意味じゃないよ」
美咲は振り返った。
「前は現場の話をする時、ずっと嫌そうだった」
「今も嫌だ」
「うん。でも、今は人の話をする」
人。
黒崎。
佐藤。
作業員。
整備士。
現場にいる誰かの判断。
誰かの失敗。
誰かの意地。
確かに、以前は工程と予算しか見ていなかった。
現場が三日遅れている。
追加人員が必要。
予算超過。
書類にはそれしかない。
だが、三日止めたことで作業員が生きて帰れるなら、その遅れは失敗なのだろうか。
「変わることが怖い?」
美咲が聞いた。
俺は答えなかった。
妻の親戚である隆志は、ワーカーになって変わった。
優しい人が、命を数で見るようになった。
美咲はそれを見ている。
だから俺も、変わることを恐れている。
「全部が悪い変化じゃないと思う」
美咲は言った。
「でも、自分で気づけなくなったら怖い」
「その時は言ってくれ」
「言う」
「遠慮なく?」
「かなり遠慮なく」
少し笑った。
美咲も笑う。
鍋から出汁の匂いが立ち始めた。
その匂いを嗅いで、なぜか安心した。
目に見えない。
数値にもならない。
だが、家に帰ってきたと分かる匂い。
それを考えた時、俺はまだ、その日の現場で同じような話を聞くことになるとは思っていなかった。
*
午前七時五十二分。
復興管理局の庁舎へ入る。
職員証を認証端末へかざす。
通常なら、担当案件と未処理件数が表示される。
今日はその前に、赤い通知が出た。
«臨時現場監査への従事を命じます。»
美咲の予想が当たった。
俺は画面へ向かって、小さくため息をついた。
行き先は第四復興区画。
旧東浜工業地帯。
任務内容は、倉庫群の解体と幹線道路復旧の工程監査。
危険度は低い。
モンスター活動履歴なし。
地下構造上の異常なし。
天候も良好。
復興現場としては、かなり安全な部類に入る。
端末へ追加情報が表示される。
«AI予定進捗率:四十八パーセント
現在進捗率:三十二パーセント
遅延率:十六ポイント
推定原因:現場判断による作業停止の頻発»
最後の一文が気になった。
現場判断。
つまり、業者が勝手に作業を止めている可能性がある。
今回の監査は、AIの工程が正しいかを見るというより、現場責任者が慎重になりすぎていないかを確認するものらしい。
自席に着くと、課長が書類の束を抱えてやってきた。
「通知、見たな」
「はい」
「引き継ぎは佐伯に回せ」
隣の佐伯が嫌そうな顔をした。
「またですか」
「橘に言え」
佐伯がこちらを見る。
「現場で出世して、俺を楽にしてくれ」
「出世したら現場へ出なくなるだろ」
「じゃあ早く偉くなれ」
冗談を返しながら、未処理案件を分ける。
住宅全壊二件。
工場設備損壊一件。
休業補償申請六件。
一つずつ説明する。
佐伯は面倒そうに聞きながらも、要点を正確にメモしている。
「今日中に戻れそうですか」
「現場次第」
「泊まりはやめてくださいよ。これ以上増えたら机が埋まる」
「机だけならいい」
「俺が埋まります」
少し笑う。
こういう普通の会話をしている間は、地下空洞のことを忘れられた。
消された報告書。
内閣危機対策室。
AIの複製。
それらが遠い出来事のように感じる。
課長から紙の資料を受け取る。
「現場責任者は佐藤源一。古い人だ」
「問題があるんですか」
「能力はある」
その言い方には続きがある。
「ただ、AIの工程を止めすぎる」
「理由は」
「本人は安全確認と言ってる」
資料を見る。
過去一か月で、作業停止は十一回。
そのうち、明確な異常が確認されたのは二回。
残り九回は、結果的に問題なし。
停止による損失額も算出されている。
人員待機費。
重機稼働費。
工期延長。
かなりの額だ。
「交代の話も出てる」
課長が言った。
「俺が決めるんですか」
「報告書次第だ」
重い。
俺は工程が遅れている理由を確認するだけだと思っていた。
だが、監査結果によっては、一人の現場責任者が職を失う。
「先入観を持つなよ」
課長は言った。
「AIが正しいと決めて行くな。佐藤が正しいと決めても行くな」
黒崎が以前に言った言葉を思い出す。
AIを気にするな。
だが無視もするな。
「分かりました」
「分からない時は、分からないと書け」
少し驚いた。
「報告書として成立しますか」
「成立させるのが事務屋の仕事だ」
課長はそれだけ言い、自席へ戻った。
分からないと書く。
最近、そればかりだ。
それでも、分かったふりをするよりはいい。
*
整備棟には、既に作業用フレイムワーカーが準備されていた。
薄い灰色の機体。
肩や脚部に戦闘用の厚い装甲はない。
代わりに、前腕へ多目的作業機構が取り付けられている。
切断。
把持。
溶接。
掘削。
装備を交換すれば、ほとんどの重機作業を一機で行える。
武装は緊急用の電磁杭だけ。
武器というより、接近した小型モンスターを押し退けるための道具だ。
俺にとっては、そのくらいがありがたい。
「おはようございます、橘さん」
機体の足元から声がした。
整備士の牧野駿が、端末を片手にこちらへ歩いてくる。
三十四歳。
口は悪いが、機体のことに関しては誰より細かい。
俺が初めて機体を動かした時から、担当することが増えた。
「今日は作業機ですね」
「あんたに戦闘機渡すと、こっちの胃が痛む」
「俺は戦いたくないので、同感です」
「適性高い奴ほど、そう言うんだよな」
牧野は機体の膝部を軽く叩いた。
「調整、少し変えてる」
「何を?」
「手指の感度。前回、あんたが壁に触った時の圧力制御が細かすぎた」
「悪かったですか」
「逆だ。良すぎる」
褒められても嬉しくない。
俺が黙ると、牧野は笑った。
「相変わらず嫌そうな顔するな」
「必要のない才能です」
「必要かどうかは機械が決めることじゃない」
「誰が決めるんですか」
牧野は少し考える。
「使う本人じゃないか」
だったら俺は、使わないと決めたい。
だが業務命令がある。
本人の意思だけでは決められない。
コクピットへ上がる。
座席へ身体を固定する。
神経補助端子が首筋と手首へ接続される。
接続そのものに痛みはない。
僅かに冷たいだけだ。
起動。
モニターが順番に点く。
周囲の映像が、まるで自分の視界のように広がる。
«搭乗者を確認しました。
橘蒼真。
生体状態、基準内。»
AIの音声。
地下空洞で俺へ問いかけたものと同じ声だ。
感情はない。
男性とも女性とも言い切れない。
「睡眠不足は基準内なのか」
思わず聞く。
«推奨睡眠時間を一時間四十八分下回っています。»
「なら基準外だろ」
«任務遂行可能範囲内です。»
「便利な言葉だな」
«意味を特定できません。»
本当に特定できないのか。
それとも、冗談だと理解しないようにしているのか。
最近は分からなくなってきた。
「今日の現場について」
«第四復興区画。危険度二・一。
モンスター遭遇確率〇・〇二パーセント。
地盤崩落確率〇・八パーセント。
化学物質漏出確率〇・三パーセント。»
低い。
すべて許容範囲内。
「現場判断による停止回数が多いらしいな」
«過去三十日間で十一回。
うち九回は、作業停止を正当化する事象が確認されていません。»
「無駄だったということか」
«結果のみを基準とする場合、非効率です。»
「結果以外では?」
一秒ほど間があった。
«判断時点の情報を考慮する必要があります。»
意外な答えだった。
「佐藤責任者の判断は正しいのか」
«評価には現場確認が必要です。»
「俺に見ろってことか」
«あなたの任務です。»
少し腹が立つほど正しい。
「質問がある」
«受け付けます。»
「お前は、現場の匂いを判断できるか」
思いつきで聞いた。
今朝の味噌汁の匂いを考えていたせいかもしれない。
AIはすぐに答えた。
«機体搭載センサーにより、空気中成分を分析可能です。»
「人間が感じる匂いと同じか」
«同一ではありません。
人間の嗅覚は、物質検知と記憶・感情反応を同時に処理します。»
「なら、匂いから危険を感じることもある?」
«可能です。
ただし、主観的誤認も多く含まれます。»
「役に立つのか、立たないのか」
«条件により異なります。»
最近、この答えが増えた。
だが、以前の俺なら、AIが曖昧なことを言うとは思わなかっただろう。
機体を立ち上げる。
巨大な身体が、整備用架台からゆっくり離れる。
床に足を下ろす。
震動が座席を通して伝わる。
自分の身体が大きくなったような感覚。
未だに慣れない。
それでも最初の頃よりは、恐怖が薄くなっている。
その事実が少し怖かった。
*
旧東浜工業地帯までは、専用輸送車で一時間ほどだった。
機体は大型搬送台へ固定され、俺たち搭乗者は車内の座席へ移る。
今回は俺のほかに、作業補助ワーカーが一人。
大山剛。
四十八歳。
元重機オペレーターで、フレイムワーカーを「でかいショベル」と呼ぶ男だ。
車内へ入るなり、弁当箱ほどの大きさの握り飯を食べ始めた。
「朝飯ですか」
「二回目だ」
「健康診断で怒られません?」
「動けば減る」
腹を軽く叩く。
説得力はなかった。
大山は俺が持つ資料を覗いた。
「佐藤さんとこか」
「知ってるんですか」
「何回か一緒になった」
「作業を止めることが多いと聞きました」
大山は握り飯を食べながら頷く。
「多いな」
「慎重すぎますか」
「さあな」
俺が期待した答えではなかった。
「大山さんはどう思ってるんです」
「佐藤さんが止めろって言ったら止める」
即答だった。
「AIが作業可能でも?」
「止める」
「理由は」
「死にたくないから」
単純明快。
「過去十一回のうち、九回は何も起きていません」
「良かったじゃねぇか」
「損失が出ています」
「金は後で稼げる」
大山は二個目の握り飯を取り出す。
「死んだ奴は戻らん」
それはその通りだ。
だが、毎回その判断をすれば工事は進まない。
復興予算にも限りがある。
遅れれば、仮設住宅で暮らす人の生活も長引く。
安全だけを優先すればいいわけではない。
「監査って大変だな」
大山が言った。
「顔に出てましたか」
「数字と喧嘩してる顔してる」
最近、自分の顔は随分分かりやすいらしい。
「佐藤さんはAI嫌いですか」
「逆だ」
大山は言った。
「よく使う」
「止めるのに?」
「使うから、何が見えてないか考えるんだよ」
意味がすぐには分からなかった。
「便利な道具ほど、任せきりにしたら駄目だって言ってたな」
「経験論ですか」
「知らん。難しい話は本人に聞け」
大山は三個目の握り飯に手を伸ばした。
俺は窓の外を見る。
市街地が途切れ、工場跡が増えていく。
モンスター災害で放棄された区域。
崩れた建物の間に、新しい道路が通っている。
古い街の上へ、新しい生活が少しずつ重なっている。
それを作るのはAIの工程表だ。
だが、実際に土を掘り、瓦礫を運ぶのは人間だ。
どちらか一方だけでは、復興は進まない。
頭では分かっている。
問題は、両者が違う答えを出した時だった。
*
現場へ着いた時、作業は始まっていなかった。
予定開始時刻を十五分過ぎている。
それだけで、今回の監査対象としては印象が悪い。
大型クレーン二台。
通常重機六台。
作業員四十二名。
フレイムワーカー二機。
全て待機状態。
作業員たちは集まって話している。
緊張しているというより、不満そうだった。
輸送車を降りると、一人の若い作業員がこちらへ駆けてきた。
「監査の方ですか」
「橘です」
「小林翔太です。現場案内を担当します」
二十一歳。
明るい表情だが、声に焦りがある。
「始まっていませんね」
「佐藤さんが止めてます」
「理由は」
小林は言いにくそうに視線を逸らした。
「匂いだそうです」
「匂い?」
聞き返す。
今朝、AIへ同じ話題を振ったばかりだった。
偶然にしては妙だった。
「何の匂いですか」
「それが分からなくて」
小林は困ったように笑う。
「俺には普通の工事現場の匂いです」
海から来る潮風。
錆びた鉄。
油。
コンクリートの粉。
確かにいくつもの匂いが混ざっている。
特別なものは感じなかった。
「佐藤さんは?」
「あそこです」
小林が指差す。
倉庫跡の脇に、一人の男が立っている。
五十代半ば。
日に焼けた顔。
古いヘルメット。
腕を組み、地面を見ていた。
資料に載っていた顔写真より老けて見える。
だが、姿勢は真っ直ぐだった。
近づくと、男は俺を見る。
「復興管理局の橘です」
「佐藤源一です」
短く名乗る。
握手をする。
手は硬く、厚かった。
「作業開始時刻を過ぎています」
俺は最初に事実を告げた。
佐藤は頷く。
「分かっています」
「AIの危険度判定は低い」
「それも見ました」
「では、停止理由を聞かせてください」
佐藤は俺の顔を少し見た。
試すような目だった。
「匂いです」
やはり。
「何の匂いですか」
「崩れる前の土です」
周囲にいた作業員の何人かが、小さく息を吐いた。
またその話か。
そんな空気だった。
「土は崩れる前に匂いが変わるんですか」
「変わる時があります」
「必ず?」
「いいえ」
「科学的な根拠は」
「知りません」
正直だった。
「地下構造解析は異常なしです」
「見ました」
「地盤水分量も基準内」
「そうですね」
「空気成分にも異常なし」
「今のところは」
佐藤はAIを否定しない。
それが意外だった。
「では、何を根拠に止めているんですか」
「ここです」
佐藤は歩き出した。
俺たちは後を追う。
予定では、第一倉庫の基礎撤去から始める。
鉄骨部分は既に解体され、地面には厚いコンクリート基礎だけが残っている。
そこをフレイムワーカーで砕き、通常重機で搬出する工程だ。
佐藤は基礎の南側で止まった。
「昨日の夕方から、ここだけ匂いが違います」
俺は鼻で息を吸った。
分からない。
潮の匂い。
油。
湿った金属。
「何も感じません」
「そうでしょうね」
馬鹿にした言い方ではない。
ただ、事実として受け入れている。
佐藤はしゃがみ、地面へ手を置いた。
「触ってください」
俺もしゃがむ。
手袋越しに土へ触れる。
表面は乾いている。
「掘って」
佐藤が小型スコップを渡す。
監査員に土を掘らせる現場責任者は初めてだった。
それでも断る理由はない。
十センチほど掘る。
土の色が少し暗くなる。
手袋で触る。
僅かに湿っていた。
「地下水ですか」
「多分」
「AIの記録では、水位上昇なしです」
「水位じゃないかもしれません」
「では何です」
「分からない」
今度は佐藤がそう言った。
俺は少し苛立った。
分からないから止める。
それを十一回繰り返し、九回は何もなかった。
現場の経験が大切なのは理解している。
だが、言葉にできない感覚だけで数十人を待機させることが正しいのか。
「佐藤さん」
俺は立ち上がった。
「この現場が一日止まることで、どれだけ費用が発生するか分かっていますか」
「分かっています」
「道路復旧も遅れます」
「はい」
「この道路が開通しない間、仮設物流路を使うことになる。周辺企業の再開も遅れる」
「承知しています」
「過去の停止のうち、九回は異常がありませんでした」
「その通りです」
「今回も何も起きない可能性が高い」
「高いでしょうね」
全て認める。
それでも態度は変わらない。
「なら、なぜ」
佐藤は俺を見た。
「橘監督」
初めて、監督と呼ばれた。
「あなたは、何パーセントなら人を下に入れますか」
「何の話ですか」
「地盤崩落確率〇・八パーセント」
資料にも、AIにも表示されていた数字。
「十分に低い数値です」
「四十二人います」
「単純計算する数字ではないでしょう」
「分かっています」
佐藤は地面を見る。
「でも、崩れたら四十二人のうち誰が下にいるかは、AIにも分からない」
「だから安全基準があります」
「安全基準を満たした上で、俺は止めています」
平行線だった。
現場の空気が重くなる。
若い作業員たちは、佐藤の判断に納得していない。
止められている間も賃金は出る。
だが工程が遅れれば、別現場への配置や休日にも影響する。
何より、根拠の分からない命令へ従い続けるのは不満が溜まる。
「俺たち、いつまで待つんですか」
一人が声を上げた。
三十代くらいの作業員。
「朝からセンサーも回して、問題ないんですよね」
別の作業員も続く。
「昨日も止めたじゃないですか」
「昨日は二時間だけだ」
佐藤が答える。
「その二時間で何か出ました?」
何も出なかった。
笑い声はない。
だが、佐藤を責める視線が集まっている。
俺が判断しなければならない。
AIは作業可能。
現場責任者は停止を要求。
監査の役割は、どちらかの言葉をそのまま採用することではない。
自分で確認し、理由を報告することだ。
「一度、現場全体を見せてください」
俺は言った。
佐藤が頷く。
「そのつもりでした」
「作業員は待機を継続」
何人かが不満そうに息を吐く。
「三十分で判断します」
期限を切る。
佐藤は何も言わなかった。
俺はコクピットへ戻る前に、もう一度土の匂いを嗅いだ。
やはり分からない。
だが、気のせいか。
海から吹く風の中に、少しだけ冷たい匂いが混じっているような気がした。
*
フレイムワーカーへ再搭乗し、地盤走査を開始する。
«解析を開始します。»
AIの声。
地下三十メートルまでの空洞。
水分。
金属構造。
熱源。
ガス。
すべて確認する。
機体の足裏から微細な振動を送り、反射波を読む。
結果は数分で出た。
«明確な異常は確認されません。»
「崩落確率は」
«〇・八パーセント。変化なし。»
「佐藤責任者は、土の匂いが違うと言っている」
«記録します。»
「分析は?」
«空気中成分に有意な変化はありません。»
「なら、思い込みか」
«判断できません。»
「センサーに出ない匂いがあるのか」
«人間の嗅覚が検知可能で、現行センサーが分類対象としていない複合刺激は存在します。»
「それが崩落の前兆になる可能性は」
«十分な統計資料がありません。»
十分な資料がない。
つまり否定もできない。
「過去の佐藤責任者の停止判断を分析」
«十一回中二回で、停止後に危険事象を確認。»
「残り九回は無駄だった?」
«危険事象が発生しなかった事実のみ確認できます。»
「止めたから起きなかった可能性は」
«一部事象では否定できません。»
また条件付き。
以前なら、もっとはっきり答えてほしいと思っただろう。
今は、分からないと答えるAIを少し信用できる気がした。
「機体を歩かせます」
周囲へ連絡する。
作業員を十分に離す。
フレイムワーカーで基礎周辺をゆっくり歩く。
一歩。
振動データ正常。
二歩。
正常。
三歩。
僅かな違和感。
機体ではない。
自分の身体でもない。
足を下ろした時、地面が返してくる感触が少し柔らかい。
数値を見る。
許容範囲内。
もう一歩進む。
今度は分からない。
「気のせいか」
«質問対象が不明です。»
「独り言だ」
基礎南側へ回る。
佐藤が止めていた場所。
足を下ろす。
重い機体を支えるため、AIが自動で姿勢を補正する。
補正値が一瞬だけ高くなった。
「今の補正は」
«右脚接地時、〇・七度の傾斜を補正。»
「原因は」
«表層地盤の微小変位。»
「異常では」
«許容範囲内です。»
「過去データと比較」
一秒。
«同地点の昨日の記録より、沈下量が一・八ミリ増加。»
小さい。
誤差と呼べる範囲だ。
だが変化している。
「監視項目へ追加」
«追加しました。»
さらに歩く。
今度は機体のセンサーだけではなく、自分の感覚へ注意を向ける。
佐藤が言っていた。
匂い。
音。
土の湿り。
数値にできないもの。
コクピットは外気から遮断されている。
通常なら匂いは分からない。
だが空気成分を取り込む作業モードでは、環境確認のため僅かに外気情報が伝わる。
「外気循環を上げられるか」
«安全基準内で可能です。»
「上げてくれ」
ファンの音が僅かに変わる。
数秒後。
潮風。
機械油。
錆。
湿った土。
それらが薄くコクピットへ入ってくる。
最初は何も分からない。
佐藤が立っていた場所へ機体を移動する。
再び息を吸う。
冷たい。
ただの温度ではない。
古い地下室へ入った時のような匂い。
水。
鉄。
閉じ込められた空気。
それが地面の下から出ているように感じた。
根拠はない。
自信もない。
だが、現場へ着いた時より強くなっている。
「空気成分、再解析」
«有意な変化はありません。»
「地下空間からの漏出は」
«空洞は確認されていません。»
俺は機体を止めた。
AIは異常なし。
だが、佐藤は異常を感じている。
そして今、自分も何かを感じている。
その時、作業員から通信が入った。
「橘監督、三十分経ちます」
約束した時間。
決めなければならない。
作業開始。
あるいは停止。
俺が止めれば、また損失が出る。
監査報告には、佐藤の判断を追認したと書くことになる。
交代理由を否定するだけの根拠もない。
逆に作業を始めて何も起きなければ、工程は進む。
佐藤が慎重すぎたと判断できる。
もし何か起きれば。
四十二人。
大山の言葉が浮かぶ。
金は後で稼げる。
死んだ奴は戻らない。
だが、それだけで止め続ければ復興は終わらない。
俺はAIへ聞いた。
「お前なら開始するか」
«現在の情報では、作業開始を推奨します。»
「安全を保証できるか」
«保証はできません。»
「危険が起きた場合の被害予測」
«最悪条件では、死者八名から二十三名。負傷者最大三十七名。»
数字が表示される。
確率は低い。
被害は大きい。
「停止した場合の損失」
«一日当たり推定二千八百万円。道路供用開始が最大二日遅延。»
人命と金額。
比べるべきではない。
だが行政は比べなければ動けない。
俺は迷った。
怖い。
責任を負いたくない。
始めても。
止めても。
結果が悪ければ、自分の判断になる。
以前の俺なら、AIの推奨に従ったと思う。
そうすれば責任を分けられる。
AIが開始可能と判断した。
規定上は問題ない。
俺は命令に従った。
そう言える。
だが、それは自分で判断したことになるのだろうか。
視界の端に、佐藤が映る。
機体を見上げている。
急かさない。
頼みもしない。
判断を預けている。
俺は通信を開いた。
「全作業員へ」
現場が静かになる。
「本日の作業を、一時停止します」
すぐに複数の声が上がった。
「監督!」
「理由は何ですか!」
「AIは問題なしですよね!」
俺は息を吸った。
「現時点で、停止を正当化する明確な異常は確認できていません」
自分で言いながら、胃が痛む。
「ただし、昨日からの地盤沈下量に微小な変化があります。地下水または未確認空間の影響を排除できません」
AIが示した一・八ミリ。
単独では異常ではない。
だが、説明に使う。
「追加調査を行います。少なくとも午前中は作業を開始しません」
不満の声。
佐藤が無線へ入る。
「責任は俺が持つ」
「違います」
俺は言った。
「停止を決めたのは俺です」
佐藤が黙る。
監査員として来た。
判断したのも俺だ。
結果が何もなければ、報告書に書く。
佐藤の感覚に影響されたことも。
自分が微小変化を重く見たことも。
「大山さん」
「おう」
「機体で周辺封鎖を。小林さん、作業員を安全区画へ移動。地盤調査班を呼んでください」
指示を出す。
声が震えていないか気になった。
だが、通信越しには普通に聞こえたらしい。
人が動き始める。
重機は止まったまま。
作業員が資材置き場側へ移動する。
現場は予定とは違う方向へ進み出した。
AIが言う。
«作業停止を記録しました。»
「評価は」
«工程効率は低下します。»
「安全性は」
«現時点では評価不能です。»
「俺の判断は間違っているか」
«結果発生前の正誤判定はできません。»
正しい。
結果が出なければ、正しかったかは分からない。
それでも人間は、結果が分からない時に選ばなければならない。
「橘監督」
佐藤から個別通信。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いです」
「そうですね」
佐藤の声には安堵が混じっていた。
「佐藤さん」
「はい」
「土の匂いが違うと言いましたね」
「言いました」
「具体的には何の匂いですか」
佐藤は少し考えた。
「昔、山の現場で崩落に遭いました」
突然、過去の話を始める。
「雨の翌日でした。数値は全部基準内。先輩が一人、土が眠ってないって言った」
「眠ってない?」
「俺にも意味は分かりませんでした」
その日の午後、斜面が崩れた。
先輩は作業を止めようとした。
だが工程が遅れていた。
現場は続行。
三人が土に埋まり、一人が亡くなった。
「崩れた後の土は、鉄臭いんです」
佐藤は言った。
「水と、石と、古い空気が混ざる。今日の匂いは、あの日と少し似てる」
「それを十一回感じた?」
「いいえ」
佐藤は否定した。
「十一回止めた理由は全部違います」
音。
振動。
鳥が急にいなくなった。
古い配管の鳴り方。
地面にできた小さな泡。
説明できる時もあれば、できない時もある。
「九回は何も起きなかった」
俺は言う。
「はい」
「後悔は」
「してます」
意外だった。
「止めなくてよかったかもしれない。みんなに迷惑をかけた。そう思います」
「では、なぜまた止めるんです」
「一回でも、止めなかった日の顔を忘れられないからです」
亡くなった作業員。
家族。
葬儀。
佐藤はその全てを覚えている。
AIのデータには、崩落事故一件と記録される。
死亡者一名。
負傷者二名。
工程遅延。
補償額。
だが佐藤の中には、人の顔として残っている。
「勘は、便利な言葉です」
佐藤は言った。
「説明できない時に使える。でも、外れることも多い」
「それでも信じる?」
「信じません」
また意外な答え。
「疑うんです」
「何を」
「AIが見落としてないか。自分が怯えてるだけじゃないか。両方です」
AIだけを疑うのではない。
自分の経験も疑う。
その上で止める。
「監督は俺を信じたんですか」
「分かりません」
正直に答えた。
「自分も少し変だと思った。それだけです」
「それで十分です」
「十分ではないですよ」
一日二千八百万円。
道路開通の遅れ。
待機する四十二人。
十分であるはずがない。
その時だった。
コクピット内に警告音が鳴った。
赤ではない。
黄色。
«地盤振動を検知。»
「場所は」
画面に地図が表示される。
第一倉庫基礎。
先ほど機体で歩いた南側。
振動は小さい。
通常重機の稼働でも発生する程度。
だが今、重機は全て止まっている。
「原因を解析」
«不明。»
地面を拡大表示する。
何も見えない。
作業員は安全区画へ移動済み。
大山の機体が、封鎖線の外に立っている。
「佐藤さん、地面から離れてください」
「了解」
佐藤が走る。
次の瞬間。
地面が音を立てた。
大きな爆発音ではない。
低く。
何かが内部で割れるような音。
コンクリート基礎の南端に、細い亀裂が走る。
一本。
二本。
それが蜘蛛の巣のように広がる。
「全員、さらに退避!」
俺は叫んだ。
大山が機体を動かし、近くに残っていた資材車を押し退ける。
小林が作業員を誘導する。
亀裂は止まらない。
地面が僅かに沈む。
一秒。
二秒。
そして。
第一倉庫の基礎全体が、音を立てて落ちた。
土煙が上がる。
巨大な穴。
直径およそ二十メートル。
深さは見えない。
さっきまで、作業開始を待っていた場所。
予定通りなら。
四十二人のうち、十数人が周囲にいた。
通常重機も二台。
俺のフレイムワーカーも、基礎の上で解体作業に入っていた可能性がある。
通信が途切れたように静かになった。
誰も何も言わない。
土煙の向こうで、地面がまだ小さく崩れている。
AIが解析を続ける。
«地下空洞を確認。
既存地図との不一致。
地下水流入により支持層が浸食された可能性。»
「さっきは空洞なしと言った」
«既存走査では検出できませんでした。»
「なぜ」
«空洞上部に金属廃材と高密度基礎材が重なり、反射波が遮蔽された可能性。»
可能性。
崩れた後なら分かる。
起きる前には分からなかった。
「崩落確率を更新」
«七十四パーセント。»
もう崩れた後だ。
数字が急に上がる。
正しい。
だが遅い。
俺はコクピットの中で、手が震えていることに気づいた。
もし開始していたら。
人が死んだ。
自分の判断が救った。
そう思いかける。
違う。
佐藤が止めた。
俺は追認しただけだ。
それでも、開始を命じなかったのは自分だ。
安堵。
恐怖。
吐き気。
いくつもの感情が同時に来る。
「負傷者確認!」
声を出す。
待機区域から返事が次々と返る。
全員無事。
人数確認。
四十二名。
全員いる。
大山が通信へ入る。
「だから言ったろ」
「何をです」
「佐藤さんが止めろって言ったら止める」
いつもの軽い声だった。
だが、その声にも緊張が残っている。
佐藤は穴の手前で立ち尽くしていた。
自分の勘が当たったことを喜んではいない。
顔色は悪い。
過去の崩落を思い出しているのかもしれない。
俺は機体をゆっくり近づける。
安全距離を保って止まる。
穴の底をライトで照らす。
崩れた土。
錆びた配管。
古い基礎材。
地下水。
モンスターの痕跡はない。
人工的な謎もない。
ただ、人間が作った古い設備と、年月で変わった地盤。
復興現場では、これだけでも十分に命を奪う。
AIが静かに告げる。
«作業工程を再計算します。»
俺はその言葉を聞きながら、朝の美咲との会話を思い出した。
味噌汁の量を、機械に決められたくない。
味。
匂い。
経験。
数字にならないもの。
佐藤が感じたものは、魔法ではない。
超能力でもない。
何十年も現場で得た情報が、本人にも説明できない形で残っていた。
AIが持っていない記憶。
人が死んだ日の匂い。
それが今日、四十二人を現場から遠ざけた。
俺はAIへ聞いた。
「今回の停止判断を評価」
少し間が空いた。
«結果として、人的被害を回避しました。»
「結果としてではなく、判断時点では」
さらに間。
«判断時点の客観的根拠は限定的でした。»
「なら間違いか」
«いいえ。»
初めて、AIが短く否定した。
「理由は」
«人間の経験に基づく感覚情報が、未観測の危険を示した可能性があります。»
「可能性だけ?」
«現時点では。»
「記録するのか」
«記録します。»
「何として」
AIは数秒沈黙した。
«非構造化経験情報による危険予測。»
難しい言葉だった。
だが意味は分かる。
勘。
匂い。
音。
違和感。
AIが扱いやすい名前へ変えただけだ。
「佐藤さんの停止履歴も再評価してくれ」
«過去記録の再分析を開始します。»
今まで「無駄」とされた九回。
本当に何もなかったのか。
停止したことで、危険を回避していた可能性。
証明できない。
だが、切り捨てることもできない。
俺は穴を見下ろした。
戦っていない。
モンスターもいない。
それでも今日は、人を守った。
少なくとも。
守る仕事をした人の判断を、止めずに済んだ。
それが嬉しかった。
同時に。
もし自分がAIの数字だけを信じていたらと思うと、膝が震えた。
フレイムワーカーの巨大な脚ではない。
コクピットの中にある、自分の小さな脚が。
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