第六話 土の匂い〈中編〉
地盤が崩れたあと、現場は急に忙しくなった。
作業が止まっていた時には、不満そうにしていた者たちも、今は誰一人として無駄口を叩かない。
点呼。
負傷確認。
二次崩落の警戒。
ガス、地下水、電気設備の確認。
人が無事だったからといって、現場が安全になったわけではない。
崩落は、そこに危険があったことを証明しただけだ。
「全員、規定線より内側へ入らないでください!」
小林の声が現場に響く。
若いが、よく動く。
先ほどまで佐藤の判断に納得していない様子だった。
それでも事故が起きれば、自分の感情を脇へ置いて動ける。
作業員たちは二班に分かれた。
一班は人数と装備の確認。
もう一班は、周辺道路の封鎖と資材の移動。
俺と大山はフレイムワーカーに搭乗したまま、崩落地点を挟むように立った。
巨大な機体の重量が、さらなる崩落を起こさないよう注意しなければならない。
地面へ加える荷重。
足を置く位置。
姿勢補正。
一つ間違えれば、救助する側が危険を増やす。
「橘さん、左足を二十センチ後ろへ」
牧野から通信が入る。
遠隔整備班から機体の荷重を監視している。
「その位置だと、支持層が薄い」
「了解」
ゆっくりと脚を動かす。
ほんの二十センチ。
だがフレイムワーカーでは、その小さな移動が数トンの重さを動かすことになる。
足を下ろす前に、AIが接地点を表示する。
«推奨接地点を表示します。»
「そこは大丈夫なのか」
«現時点では安定しています。»
現時点では。
今日、その言葉を何度聞いただろう。
それでも、今はAIの判断を使うしかない。
一度見落としたからといって、すべてが役に立たなくなるわけではない。
現場の勘だけでも動けない。
どちらか一方を捨てればいい話ではない。
俺は推奨位置へ足を下ろした。
荷重値は安定。
傾きなし。
ようやく息を吐く。
崩落地点からは、水の流れる音が聞こえていた。
地面の下を通っていた古い排水路か。
それとも地下水が新たな道を作ったのか。
穴の縁から、土が少しずつ落ちている。
小さな音だ。
だが、そのたびに胸が強くなる。
「橘」
大山から個別通信。
「聞こえてます」
「顔、青いぞ」
「見えるんですか」
「搭乗者情報に出てる」
余計な機能だと思う。
「気分悪いなら降りろ」
「大丈夫です」
「大丈夫って言う奴ほど危ねぇ」
「大山さんに言われたくないです」
「俺は二回目の朝飯が食える程度には元気だ」
その基準は当てにならない。
だが、いつもの調子で話しかけてくれることはありがたかった。
自分が出した停止命令。
もし開始していたら。
その想像が、何度も頭に浮かぶ。
作業員が基礎の周囲へ入る。
通常重機が上へ乗る。
コンクリートを砕いている最中に崩れる。
何人が落ちた。
誰が戻れなかった。
最悪条件では、死者八名から二十三名。
AIが出した数字。
今は、その数字一つ一つに顔がついて見える。
小林。
佐藤。
大山。
さっき不満を口にした作業員たち。
知らないままなら、被害者数として処理できたかもしれない。
今はできない。
「監督」
佐藤が通信へ入る。
「現場点呼、完了しました。全員無事です」
「分かりました」
「車両は資材運搬車一台が損傷。無人です」
「機材の損失は後で確認します」
言いながら、事務職員らしい順番だと思った。
人。
次に機材。
最後に工程。
今まで書類で何度も見てきた並び。
現場で聞くと、意味が違う。
「佐藤さん」
「はい」
「近くにいた作業員へ、体調確認を。怪我がなくても医療班に見せてください」
「手配します」
土煙。
衝撃音。
恐怖。
身体に傷がなくても、後から症状が出ることはある。
俺の部署には、そういう申請も届く。
事故当日は問題なし。
数日後、不眠。
動悸。
作業へ戻れない。
AIは診断を補助できる。
だが、本人が大丈夫だと言えば見逃されることもある。
「監督」
小林から通信。
「医療班、到着しました」
「全員、順番に確認を」
「俺もですか」
「近くにいただろ」
「怪我ないですよ」
「確認だけ」
「……了解です」
少し不満そうだった。
だが命令には従った。
俺自身も、後で受ける必要がある。
手が震えている。
気分が悪い。
それを大丈夫と言って済ませるわけにはいかない。
*
崩落から四十分後、地盤調査班が到着した。
人間の技師が三名。
小型走査ドローン六機。
地中レーダー車両一台。
現場へ降りてきた主任技師は、五十代くらいの女性だった。
名は早川奈緒。
挨拶をするより先に、穴を見た。
「作業開始前ですか」
「はい」
俺が答える。
「良かった」
短い言葉だった。
それ以上の感想はない。
早川は端末へ指示を出す。
ドローンが穴の上へ移動し、ワイヤーで測定機器を下ろす。
「既存走査では空洞なしと出ていました」
俺が言う。
「でしょうね」
早川は画面を見たまま答えた。
「どうして分かるんですか」
「見えにくい条件が揃っています」
高密度基礎。
金属廃材。
地下水。
複数の古い配管。
反射波が重なり、地中レーダーでは一つの塊として処理された可能性が高い。
「AIの解析ミスですか」
「解析は間違っていません」
早川は言った。
「与えられた反射データから、最も可能性の高い構造を出しただけです」
「でも、空洞はあった」
「はい」
「それを見つけられなかった」
「はい」
早川は俺を見る。
「見つけられないことと、間違えることは同じではありません」
少し分かりにくい。
俺が黙ると、早川は説明を続けた。
「AIは『空洞が絶対にない』と言ったわけではないでしょう」
確かに。
明確な異常は確認されない。
空洞は確認されない。
そう言っていた。
存在しないとは断定していない。
「現場では同じ意味に聞こえます」
「だから、人が解釈する必要があります」
早川は再び画面へ目を戻す。
「安全基準内。異常なし。作業可能。そう並べば、人は安全だと思う」
「違うんですか」
「安全だと保証した数字ではありません。観測できた範囲では、基準を超える危険が見つからなかったというだけです」
知っていたはずのことだ。
それでも俺は、表示された数字を安全の証明として受け取っていた。
〇・八パーセント。
低い。
だから大丈夫。
だが、その数字の外側にあるものは見ていなかった。
「佐藤さんの匂いは、解析できますか」
早川は少し眉を上げた。
「匂い?」
「崩れる前の土の匂いだそうです」
佐藤を呼ぶ。
彼は早川へ、昨日から感じていた違和感を説明した。
冷たい土。
鉄。
水。
古い空気。
早川は笑わなかった。
「硫化物ではないですね」
「違うと思います」
「有機ガスも基準内」
「はい」
「土の水分だけでは」
「説明できないと思います」
早川は端末へいくつか入力する。
「採取しましょう」
「役に立ちますか」
佐藤が聞く。
「分かりません」
早川も簡単にそう答えた。
「ただ、次に同じ匂いがした時、比較できる」
土壌。
空気。
地下水。
腐食した金属。
すべて採取する。
匂いそのものは保存できない。
だが、成分は残せる。
佐藤の感覚を、次のデータへ変える。
人間の経験をAIへ渡すための作業。
「佐藤さん」
早川が言う。
「今まで同じ匂いを感じた現場の記録、残っていますか」
「全部は」
「覚えている範囲でいいです」
「事故にならなかった現場も?」
「そっちの方が大事です」
佐藤は少し驚いた。
危険事象が起きた例だけを集めれば、匂いと崩落の関係は強く見える。
だが、同じ匂いがして何も起きなかった例も必要だ。
勘を証明するためではない。
外れる条件も含めて調べる。
「止めた九回もですか」
俺が聞く。
「はい」
早川は答えた。
「何も起きなかった九回が、本当に異常なしだったのか。止めた結果、異常へ進まなかったのか。別の理由だったのか。全部見ます」
「分かるんですか」
「分からないかもしれません」
また分からない。
だが、この人たちは分からないことから逃げない。
それが専門家なのだと思った。
*
正午を過ぎた頃、本部から通信が入った。
発信者は課長ではない。
復興工程統括室。
現場の予算と日程を管理する部署だ。
相手は画面を使わず、音声だけだった。
「橘監査員」
「はい」
「現場停止の経緯を確認します」
声は若い。
おそらく三十代。
名乗りはなかった。
「午前九時十二分、あなたの判断で作業停止」
「はい」
「停止時点で、AI危険度は二・一。地盤崩落確率〇・八パーセント」
「その通りです」
「明確な異常は未確認」
「微小沈下と現場責任者の違和感がありました」
「微小沈下は許容範囲です」
「承知しています」
「現場責任者の主観的判断を優先した理由は」
言葉が冷たい。
だが相手も仕事をしている。
一日二千八百万円。
道路供用の遅れ。
停止判断を説明しなければならない。
「俺自身も、接地感覚と外気に違和感を覚えました」
「機体センサーには異常なし」
「それも承知しています」
「つまり、客観的根拠のない停止ですか」
違うと言いたい。
だが、停止時点では強い根拠はなかった。
「客観的根拠は限定的でした」
俺は答えた。
「現場責任者の過去経験、昨日からの微小沈下、土壌状態、未説明の外気変化を総合しました」
「結果的に崩落したから正しかったと?」
「結果だけで正しいとは考えていません」
通信の向こうが少し黙る。
「では、何を根拠に正当化しますか」
難しい。
結果を使えば簡単だ。
崩れた。
人が助かった。
だから停止は正しかった。
だが、もし崩れなかったら。
同じ判断は間違いだったことになるのか。
佐藤が止めた過去九回は、無駄だったとされている。
今回だけ結果が出たから英雄にする。
それも違う。
「停止判断には再現性が不足しています」
自分で言う。
佐藤が少し離れたところで聞いている。
「同様の条件で、必ず停止すべきとは現時点で言えません」
「なら、判断基準として採用できない」
「そのままでは」
「では、監査上は現場責任者の偶発的成功ですか」
その言い方に、胸がざらついた。
偶発的。
運が良かっただけ。
違う。
佐藤には理由があった。
説明できなかっただけだ。
「偶然ではありません」
「再現性がないのに?」
「経験に基づく判断です」
「経験は数値化されていません」
「数値化されていないことと、存在しないことは同じではありません」
言ったあと、早川の顔が浮かんだ。
見つけられないことと、間違えることは同じではない。
似た言葉だ。
通信の向こうが沈黙する。
「橘監査員」
声が少し硬くなった。
「行政判断には説明責任があります」
「分かっています」
「土の匂いが違ったでは、二千八百万円の停止費用を説明できません」
「だから調査します」
「いつまで」
「現時点では分かりません」
「道路復旧は待てません」
その通りだ。
この道路が開かなければ、物流は遠回りを続ける。
燃料費が増える。
周辺企業の再稼働が遅れる。
復興住宅へ運ぶ資材も遅れる。
人命を守った。
それで全てが終わるわけではない。
「午後三時までに代替工程案を提出してください」
「地盤調査結果が出る前に?」
「安全区域の作業を進める案です」
「分かりました」
通信が切れる。
俺は息を吐く。
佐藤が近づいてきた。
「すみません」
「何がですか」
「俺が止めたせいで」
「停止を決めたのは俺です」
「でも」
「佐藤さんが謝ると、俺が判断していないことになります」
少し強い言い方になった。
佐藤は黙る。
「責任を取りたいわけではありません」
俺は続けた。
「ただ、俺が決めたことを、他人のせいにしたくない」
本音だった。
怖い。
本部へ責められるのも。
費用を問われるのも。
判断ミスと評価されるのも。
だが、AIに従っただけと言って逃げることを嫌った自分が、今度は佐藤の勘に従っただけと言って逃げるのは違う。
「監督は、変わった人ですね」
佐藤が言った。
「よく言われます」
「褒めてません」
「知ってます」
少しだけ、互いに笑った。
*
午後は、通常の復興作業とは別の忙しさになった。
崩落地点を避けて進められる工程を洗い出す。
第二倉庫の鉄骨搬出。
道路北側の排水溝整備。
資材置き場の再配置。
仮設電源の移設。
本来の順番を変えれば、後で余計な作業が増える。
だが、全てを止めるよりはいい。
AIへ工程再計算を依頼する。
«崩落区域を除外し、代替工程を作成します。»
数秒後、三案が出た。
第一案。
費用優先。
第二案。
日程優先。
第三案。
安全余裕優先。
「佐藤さん」
現場責任者を呼ぶ。
「どれを使いますか」
「監督が決めるんじゃないんですか」
「現場で実行するのは佐藤さんです」
三案を見せる。
費用優先は、作業員の移動が多く、現場が複雑になる。
日程優先は、重機の同時稼働が増え、接触リスクが上がる。
安全優先は、道路開通が三日遅れる。
「俺なら二案を混ぜます」
佐藤は言った。
「第二倉庫の搬出は先にやる。排水溝は午後から。資材置き場の移動は明日」
AI案にはない組み合わせ。
「理由は」
「海風が強くなる前に鉄骨を運びたい。午後は大型クレーンを止める」
天候予測を見る。
午後三時以降、風速上昇。
規定上は作業可能。
だが吊り荷が揺れる可能性は増える。
「排水溝を午後にするのは」
「低い場所だから、風の影響が少ない」
合理的だ。
俺はAIへ入力する。
«提案工程を評価します。»
少し待つ。
«実行可能です。
総費用は第一案より七パーセント増加。
工期は第二案より〇・六日延長。
作業接触リスクは二十二パーセント低下。»
「これで行きましょう」
佐藤が頷く。
現場へ指示を出す。
午前中ずっと止まっていた機械が、別の場所で動き始める。
完全停止ではない。
危険区域から離れ、できる仕事を進める。
現場判断。
AIの計算。
人間が組み合わせる。
その光景を見ながら、少しだけ胸が軽くなった。
俺の仕事は、作業を止めることではない。
AIと現場のどちらが正しいか決めることでもない。
状況が変われば、計画を繋ぎ直す。
人が安全に働き、復興も前へ進める形を探す。
それは事務仕事に似ていた。
限られた予算。
複数の申請。
一つを選べば、別の何かが遅れる。
完全な答えはない。
その中で、少しでも悪くない形を作る。
俺はフレイムワーカーに乗っている。
だが、やっていることは今までと同じなのかもしれない。
数字と人の間に立つ。
*
午後二時。
早川から一次調査結果が届いた。
崩落原因は、旧工場の地下に存在した冷却水循環設備。
廃止時の記録では、配管と空洞は充填されたことになっていた。
だが実際には、一部しか埋められていなかった。
その後、配管が腐食。
海側から地下水が流入。
周辺土壌を長期間かけて削った。
表面の高密度基礎が蓋の役割をし、空洞の存在を隠していた。
「記録が間違っていた?」
俺が聞く。
「工事記録上は完了です」
早川が答える。
「実際に手抜きだったのか、災害で充填材が流れたのかは不明」
「AIは記録を基準に解析した」
「はい」
存在しないことになっている空洞。
AIは旧図面を参考にする。
センサーでも見えにくい。
そのため、危険度が低く出た。
「匂いの原因は」
「地下水と腐食金属。それに、古い断熱材の成分」
早川は簡易分析結果を見せる。
それぞれ単独では微量。
危険基準を超えない。
だが混ざると、独特の匂いになる。
「崩落の前兆ですか」
「直接の前兆とは断定できません」
「佐藤さんが感じたのは」
「地下の空気が亀裂から漏れ始めた可能性があります」
つまり、空洞が地表へ近づいた。
小さな亀裂ができた。
そこから閉じ込められていた空気が漏れた。
匂いが変わった。
佐藤は、それを過去の経験と結びつけた。
「科学的に説明できますか」
「今回については、ある程度」
「次も使えますか」
「同じ匂いなら、同じ原因とは限りません」
簡単な答えにはならない。
「でも、記録する価値はある」
早川は言った。
「現場作業員の感覚報告を、環境サンプルと結びつける仕組みが必要ですね」
「今までは?」
「自由記述欄があります」
「使われていない?」
「『臭い』『音が変』『嫌な感じ』では、解析対象から外されやすい」
AIが理解できる形式ではない。
分類不能。
信頼度が低い。
そのまま埋もれる。
「人間の側が、AIへ伝える方法を持っていなかった」
俺が言う。
「AIの側も、何を拾えばいいか分からなかった」
早川が続ける。
どちらかの欠陥ではない。
接続の問題。
「今回のデータは学習に使えますか」
「申請します」
「申請?」
「現場AIの学習モデルは勝手に変更できません」
当然だ。
一つの現場の経験だけで全国の判断基準を変えれば、誤警報が増える。
「時間がかかります」
「どのくらい」
「早くて半年」
道路は今、壊れている。
現場は今日も動く。
制度が変わるまで待てない。
だからその間は、人が覚えているしかない。
佐藤の経験を。
今日の匂いを。
崩落の条件を。
「報告書に書きます」
俺は言った。
「自由記述ではなく、監査所見として」
早川が少し笑った。
「消されないといいですね」
心臓が一瞬止まった気がした。
早川は地下空洞の報告書について知っているのか。
俺の顔に出たらしい。
「復興現場の報告は、都合の悪い部分が短くなることがあります」
早川は淡々と言った。
「機密の話ではなく、予算の話です」
「予算?」
「原因が古い設備の管理不備となれば、責任部署が変わる。追加費用をどこが持つかで揉める」
なるほど。
隠蔽は国家機密だけではない。
責任。
予算。
評価。
小さな都合でも、文章は変わる。
「でも今回は、人が死にかけた」
「死んでいません」
早川は言った。
「だから軽く扱われる可能性があります」
事故が起きなかった。
人的被害なし。
成功事例。
そう処理されれば、危険だった事実が薄くなる。
「死ななかったから、記録が必要なんです」
俺は言った。
口にしてから、自分の考えがはっきりした。
事故報告は、死者が出た後に詳しくなる。
だが本当に必要なのは、死者が出なかった判断の記録ではないか。
何を見た。
なぜ止めた。
どこで迷った。
その情報があれば、次はもっと早く止められる。
「監査員らしいことを言いますね」
早川が言う。
「一応、本職なので」
フレイムワーカーへの適性より、そちらを評価される方が嬉しかった。
*
午後三時前。
統括室へ代替工程案を送信した。
停止費用。
工期への影響。
安全区域で進める作業。
地盤調査の暫定結果。
そして、監査所見。
入力欄へ文章を書く。
«現場責任者による作業停止判断は、判断時点において客観的根拠が限定的であった。»
ここまでは事実。
続ける。
«一方、長期的な現場経験に基づく複合的な感覚情報が、既存センサーおよび地図情報で検出できなかった地下空洞の兆候を捉えた可能性が高い。»
「可能性が高い」は言いすぎか。
早川の解析では、匂いの発生源は説明できた。
崩落前に漏れ始めた可能性もある。
だが確定ではない。
「高い」を消す。
«可能性がある。»
弱い。
この表現では、参考程度に処理される。
俺は悩む。
報告書は事実を書くものだ。
主張を通すために強く書いてはいけない。
だが、慎重すぎる文章は、重要性を消してしまう。
以前の俺なら、AIの文案を使っただろう。
整った表現。
曖昧さのない分類。
今は、自分で書きたい。
佐藤が人を止めた。
AIが見つけられなかった。
俺が迷った。
崩落した。
その流れを残したい。
文章を変える。
«現場責任者が申告した「土の匂いの変化」は、崩落後の分析により、地下水、腐食金属および旧設備由来成分の混合した地下空気と整合することが確認された。
当該感覚情報が崩落の直接的前兆であったかは未確定であるが、少なくとも既存走査では把握できなかった地中環境の変化を示していた。»
これなら事実に近い。
さらに書く。
«よって、過去の作業停止九件を単純な過剰判断として処理せず、現場作業員による非定型感覚報告と環境データを再検証することを提案する。»
非定型感覚報告。
AIが使った非構造化経験情報より、少し分かりやすい。
最後。
«本件停止に伴う費用は発生したが、作業開始時に想定された人的被害規模を考慮すると、停止判断は妥当であったと評価する。»
そこまで書いて、手を止めた。
妥当。
結果が出たから。
この言葉でいいのだろうか。
AIへ聞く。
「妥当の定義は」
«条件および目的に照らし、適切であること。»
「判断時点では根拠が少なかった」
«はい。»
「結果を知った後に妥当と書くのは、後付けでは」
«事後評価には結果を含めます。»
「次も同じ条件なら止めるべきか」
«現時点では一律に推奨できません。»
「なら、この判断は妥当なのか」
少し間。
«今回の個別判断としては妥当です。»
「一般化できない?」
«はい。»
それでいいのかもしれない。
全ての現場へ同じルールを作る必要はない。
今回、この場所、この時間、この人たちの判断。
それを評価する。
俺は文章に一文加えた。
«ただし、本評価は同様の主観申告による無条件停止を推奨するものではない。現場確認、微小変化の記録および代替工程の検討を含めた総合判断が必要である。»
佐藤の勘を絶対にしない。
AIの数字も絶対にしない。
面倒な文章になった。
だが、現実も面倒だ。
送信ボタンを押す。
数秒後。
«報告書を受理しました。»
書き換えられないか。
一瞬、地下空洞の報告を思い出す。
今回は通常業務。
機密ではない。
それでも念のため、紙の日誌に要点を残そうと思った。
記憶のため。
自分の判断を、後で都合よく変えないため。
*
午後四時。
統括室から返信が来た。
«代替工程案を承認します。
監査所見については追加検討とします。»
承認。
一安心する。
だが次の行。
«現場責任者・佐藤源一の適性再評価は予定通り実施します。»
交代の話は消えていない。
今回の停止が正しかったからといって、過去の判断が全て正当化されるわけではない。
それも分かる。
だが、今まで「十一回中九回の無駄」としか見ていなかった評価は、見直すべきだ。
俺は課長へ連絡する。
「佐藤責任者の評価について、過去停止記録の再調査を求めたいです」
課長は少し黙った。
「今日の結果に引っ張られてないか」
「引っ張られています」
正直に答えた。
「だからこそ、以前の評価も結果だけに引っ張られていないか確認したいです」
課長はさらに黙った。
「報告書、読んだ」
もう届いているらしい。
「長い」
「すみません」
「だが、削れとは言わん」
その言葉に少し安心した。
「過去資料は俺から請求する」
「ありがとうございます」
「礼は結果が出てからにしろ」
黒崎も似たことを言う。
この組織には、先に礼を言うなという決まりでもあるのだろうか。
「橘」
「はい」
「今日、怖かったか」
突然聞かれた。
「怖かったです」
「なら、そのことも日報に入れろ」
「俺の恐怖を?」
「判断へ影響した可能性がある」
確かに。
怖かったから止めた。
責任を負いたくないという恐怖もあった。
人が死ぬかもしれない恐怖も。
それが判断を慎重にした。
「感情を業務報告へ書くんですか」
「心理影響欄があるだろ」
普段は「特記事項なし」で済ませている欄。
「AIに分析させろ。お前、観察対象なんだろ」
課長まで知っている。
「どこまで共有されてるんですか」
「必要な範囲だ」
便利な言葉だった。
通信が切れる。
俺は日報を開く。
心理影響。
«作業停止判断時、人的被害の可能性に対する強い不安あり。»
これだけでは足りない。
«AI推奨に従わないことへの責任回避欲求、および現場責任者の過去経験へ判断を委ねたい心理を自覚。»
書いていて嫌になる。
責任を負いたくなかった。
佐藤が止めたのだから、と逃げたかった。
だが最後は自分で決めた。
その過程も残す。
«最終的には、微小沈下、外気の違和感、現場責任者の申告を総合し、自身の判断として停止を決定。»
送信。
数秒後、AIから補足が表示された。
«恐怖反応は判断遅延を発生させました。
一方、危険情報の再確認回数を増加させています。»
「悪かったのか、良かったのか」
«両方です。»
思わず笑った。
初めて、AIの答えを面白いと思った。
「そうか」
«観察ログを更新します。»
また観察。
だが今日は、それほど嫌ではなかった。
*
夕方。
現場の作業は予定を変更しながら続いていた。
第二倉庫の鉄骨搬出は完了。
排水溝整備は予定の六割。
資材置き場の再配置は明日へ持ち越し。
当初工程より遅れている。
それでも、朝より前へ進んだ。
佐藤が作業終了の指示を出す。
作業員たちが片付けを始める。
午前中、不満を口にしていた男が佐藤へ近づいた。
何を言うのかと思った。
男はヘルメットを脱ぎ、頭を下げた。
「すみませんでした」
佐藤は少し困った顔をした。
「謝るな」
「でも」
「次も俺が正しいとは限らん」
男は顔を上げる。
「それでも、今日は助かりました」
「今日はな」
佐藤は言った。
「次はお前が気づくかもしれん。その時は言え」
「匂いですか」
「何でもいい。変だと思ったら」
「笑われません?」
「俺も笑われてる」
周囲から小さな笑いが起きた。
午前中とは違う。
佐藤を馬鹿にする笑いではない。
張り詰めていた空気が少しほどけた。
小林が俺のところへ来る。
医療班の確認を終えたらしい。
「異常なしでした」
「よかった」
「監督も受けました?」
「これから」
「逃げないでくださいよ」
朝は俺に案内される側だった青年に、今は注意されている。
「分かってる」
「それと」
小林は少し言いにくそうにする。
「止めてくれて、ありがとうございました」
「佐藤さんに言ってください」
「言いました」
「なら、俺にはいい」
「監督が開始って言ったら、始めてました」
その言葉は重い。
現場責任者が止めても、監査員がAIの指示を優先すれば、作業は開始された可能性がある。
「結果が良かっただけです」
俺は言った。
「でも、生きてる側は結果でしか礼を言えません」
小林はそう言い、頭を下げた。
俺は返事ができなかった。
生きている側。
もし違う結果なら。
礼を言う人はいない。
代わりに、俺の部署へ補償申請が届く。
数字。
金額。
遺族。
それを想像し、また気分が悪くなる。
だが、目を逸らしたくなかった。
今日ここにいる人たちは、数字にならなかった。
それが今日の成果だ。
面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。
また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




