第六話 土の匂い〈後編〉
医療班の仮設テントは、資材置き場の端に設けられていた。
白い幕で囲われた簡易設備の中に、折り畳み式の診察台と検査機器が並んでいる。
作業員たちは一人ずつ呼ばれ、外傷、呼吸状態、心拍、聴力などを確認されていた。
崩落地点から十分に離れていたため、大きな怪我をした者はいない。
それでも、衝撃音で耳鳴りがすると訴えた者が二人。
軽い過呼吸が一人。
血圧が高くなった者が三人いた。
事故として記録するほどではない。
だが、何もなかったとは言えない。
俺の番が来たのは、作業員全員の検査が終わったあとだった。
「橘監督」
医療担当者に呼ばれ、テントへ入る。
椅子へ座るよう指示される。
手首へ測定器を巻かれ、こめかみに小さな端子を貼られた。
「気分はどうですか」
「少し疲れています」
「吐き気は」
「さっきまで少し」
「今は?」
「大丈夫です」
答えると、担当者が端末から顔を上げた。
三十代くらいの男性。
名札には河野と書かれている。
「皆さん、そう言います」
「本当に大丈夫です」
「それも皆さん言います」
反論できなかった。
河野は検査結果を見る。
「心拍が少し高いですね」
「崩落がありましたから」
「発生から五時間以上経っています」
「元々、緊張しやすいんです」
「フレイムワーカー搭乗者ですよね」
「監督業務だけです」
「適性評価は高いと聞きました」
どこから聞いたのだろう。
最近は、自分の情報がどこまで共有されているのか分からない。
「適性が高くても、怖いものは怖いです」
河野は少し意外そうな顔をした。
「怖かったんですか」
「かなり」
「作業停止を命じた時も?」
「はい」
「崩落した時は?」
「もっと」
答えるたび、端末へ記録される。
嘘をつく理由はない。
だが、なぜか試されているような気分になる。
「眠れなくなる可能性があります」
河野が言った。
「映像が繰り返し浮かぶ。自分の判断が違っていた場合を想像する。音に過敏になる。そうしたことがあれば、すぐ報告してください」
「現場へ戻れなくなりますか」
自分でも意外な質問だった。
戻りたいとは思っていないはずなのに。
河野は首を振る。
「報告しただけで外されることはありません」
「本当ですか」
「隠して悪化した場合は、外れる可能性が高いです」
なるほど。
「心理的な不調は、適性評価へ影響しますか」
「します」
やはり。
「怖いと報告すると、評価が下がる?」
「場合によります」
今日、何度も聞いた答え。
「恐怖で判断不能になるなら問題です。恐怖が危険確認につながるなら、必ずしも問題ではありません」
AIの分析と似ている。
恐怖は判断を遅らせた。
同時に、確認回数を増やした。
良いか悪いかではない。
どう働いたか。
「橘監督の場合」
河野は画面を操作する。
「恐怖反応は強いですが、行動停止は確認されていません」
「逃げたかったですけど」
「逃げませんでした」
「逃げられなかっただけです」
責任があった。
作業員が待っていた。
それだけだ。
「理由は何でもいいんです」
河野は言った。
「行動できたという記録が残ります」
理由は何でもいい。
その言葉に少し引っかかった。
行動だけが評価され、理由は切り捨てられる。
それはスコア制度と似ている。
結果。
成功。
効率。
その裏で何を感じていたかは、数字に反映されにくい。
だが最近、AIは俺の感情まで記録し始めている。
それが良いことなのかは、まだ分からない。
「一つ聞いてもいいですか」
俺は言った。
「どうぞ」
「恐怖を感じなくなったら、問題ですか」
河野の手が止まった。
「なぜそう思うんです」
「知人に元ワーカーがいます」
隆志の名前は出さない。
「最初は怖かった。でも、慣れたと言っていました」
「慣れは必要です」
「何も感じなくなることも?」
河野は少し考えた。
医療担当者として、簡単には答えられないのだろう。
「何も感じないように見えることと、本当に何も感じていないことは違います」
「本人にも分からない?」
「あります」
「どうやって確認するんですか」
「定期検査。行動ログ。家族や同僚からの報告」
家族。
美咲が俺を見ている理由。
変わったら言う。
遠慮なく。
約束した。
「一番難しいのは」
河野が続けた。
「本人が、変化を強さだと思っている場合です」
恐怖がない。
迷わない。
撃てる。
スコアが上がる。
社会も称賛する。
本人は強くなったと思う。
周囲は壊れたと思う。
妻が恐れているのは、それなのだろう。
「俺は大丈夫でしょうか」
聞いてから、随分曖昧な質問だと思った。
河野は笑わなかった。
「今のところは」
「今のところ」
「これからも怖いと感じたら、言葉にしてください」
美咲と同じことを言う。
「言葉にすれば大丈夫なんですか」
「大丈夫とは限りません」
また条件付き。
「でも、自分で気づくための手掛かりになります」
検査終了。
就業制限なし。
ただし、今夜は十分な睡眠を取ること。
アルコールは禁止。
二日以内に症状が出た場合は再受診。
端末に注意事項が送られる。
俺は礼を言い、テントを出た。
外では、作業員たちが撤収準備を進めている。
日が傾いていた。
工場跡の影が、長く地面へ伸びている。
崩落地点には規制灯が並び、赤い光を点滅させていた。
朝までは何もない地面に見えた。
今は巨大な穴が開いている。
危険は、見えていない時から存在していた。
見えた時には、既に起きた後だった。
*
佐藤は崩落地点から少し離れた場所に立っていた。
作業員の撤収を見届けている。
俺が近づくと、ヘルメットを少し上げた。
「検査は」
「問題なしです」
「そうですか」
佐藤は再び現場を見る。
「佐藤さんは受けましたか」
「受けました」
「問題は?」
「年相応に血圧が高いそうです」
「それは今日のせいでは」
「医者にも同じことを言いました」
表情はあまり変わらないが、冗談のつもりらしい。
二人で穴を見た。
夕方の風が、土と海の匂いを運んでくる。
朝に感じた冷たい匂いは、もう分からない。
崩れたことで、地下の空気が全部外へ出たのかもしれない。
「匂い、変わりましたか」
俺が聞く。
佐藤は鼻から息を吸った。
「変わりました」
「今は?」
「崩れた後の匂いです」
鉄。
水。
土。
古い空気。
説明を聞いたからなのか、俺にも少し分かる気がした。
だが、それは後付けかもしれない。
「今日は佐藤さんが正しかった」
俺は言った。
佐藤はすぐ首を振った。
「今日は、です」
「同じことを大山さんにも言っていましたね」
「次も正しいと思われたら困ります」
「なぜですか」
「勘を信じすぎる人間が出る」
意外な言葉だった。
佐藤は、現場の経験を認めてほしいのだと思っていた。
「俺が匂いで止めて、結果的に崩れた」
佐藤は続ける。
「それだけ聞けば、次から誰かが『嫌な感じがする』と言うたび止めろって話になる」
「安全にはなります」
「現場は動かなくなる」
朝、俺が佐藤へ言ったことと同じだ。
「じゃあ、どうすればいいんです」
「分からない」
佐藤は簡単に答えた。
「だから、記録するしかない」
何を感じた。
どこで。
天候。
土の状態。
前日の作業。
設備。
音。
匂い。
振動。
そして結果。
当たった時だけではなく、外れた時も。
「勘は、過去の記憶が勝手に答えを出してるだけかもしれません」
「勝手に?」
「本人が説明できないだけで、何かは見てる。聞いてる。嗅いでる」
AIが使った言葉。
非構造化経験情報。
佐藤の方が分かりやすい。
「でも、記憶は間違えます」
佐藤が言う。
「怖かった事故に似たものを、全部危険だと思うこともある」
「今日も、過去の事故を思い出した?」
「はい」
「それがあったから止めた」
「そうです」
「間違っていた可能性も?」
「ありました」
佐藤は自分の判断を神聖化しない。
当たったからといって、自分には特別な力があるとは思わない。
むしろ、当たった後だからこそ警戒している。
「怖くないんですか」
俺は聞いた。
「何がです」
「次に止めた時、何も起きなかったら」
作業員はまた不満を持つ。
本部も費用を問題にする。
今日の成功があった分、次の判断には期待も乗る。
「怖いですよ」
佐藤は言った。
「今までも怖かった」
「そう見えませんでした」
「監督が震えてるところを見せたら、みんな不安になる」
「俺はコクピットで震えてました」
「知ってます」
「見えてたんですか」
「声で」
俺は少し恥ずかしくなった。
普通に話せているつもりだった。
「でも、命令は聞きやすかった」
佐藤が言う。
「なぜです」
「怖い人の命令だったからです」
意味が分からない。
「怖いのに、止めると言った。責任も自分で持つと言った」
「責任を持てるかは分かりません」
「それでも、逃げようとはしなかった」
河野にも似たことを言われた。
逃げたかった。
だが逃げなかった。
自分では、それを強さだとは思えない。
逃げられるなら、今でも逃げたい。
「橘監督」
佐藤が俺を見る。
「あなたは、現場へ向いてないと思います」
突然だった。
「今日の話をして、その結論ですか」
「責任を全部自分で背負おうとする」
「監督の仕事では?」
「一人で背負う仕事じゃない」
AI。
現場責任者。
技師。
作業員。
整備士。
本部。
それぞれが情報を出し、判断を分ける。
最終命令を出した人間だけが、全てを背負うわけではない。
「でも、最終的に決めたのは俺です」
「はい」
「なら責任は」
「あります」
佐藤は否定しなかった。
「でも、全部じゃない」
その違いが、まだよく分からない。
「責任を持つことと、全部自分のせいにすることは違います」
今日、人が助かった。
それを自分の手柄だと思うのも違う。
もし人が死んでいたら、全て自分のせいだと思うのも違う。
同じ情報を見た人間がいる。
提案した者がいる。
作業した者がいる。
判断は一人で生まれたわけではない。
「今日、止めたのは監督です」
佐藤が言う。
「でも、匂いを感じたのは俺です。微小沈下を見つけたのは機体とAIです。撤収させたのは小林。資材車を動かしたのは大山。全員がいたから、死者が出なかった」
俺は崩落地点を見る。
確かに。
自分一人なら、何もできなかった。
「事務仕事と同じかもしれません」
俺は呟いた。
「何がです」
「一枚の補償書類にも、現場、病院、保険、自治体、家族。いろんな人間が関わる」
最後に承認する人間だけが、補償を作るわけではない。
俺は書類をまとめている。
だが、数字の元になるものは誰かが集めている。
「俺は、事務屋です」
「知ってます」
「現場監督より、そっちの方が向いてると思います」
佐藤が少し笑った。
「今日の監督は、事務屋だったから良かったんじゃないですか」
「どういう意味です」
「一つの答えだけで決めなかった」
AIの数字。
俺の感覚。
佐藤の経験。
費用。
人命。
工期。
全部を並べて悩んだ。
現場一筋の人間なら、経験を優先したかもしれない。
AIを信頼する技術者なら、数字を優先したかもしれない。
俺はどちらにもなり切れなかった。
だから迷った。
「迷うのは、良いことですか」
「時間があるなら」
佐藤は答えた。
「時間がなければ?」
「決めるしかない」
戦場なら、考える時間はもっと短い。
それでも、いつか決めなければならない場面が来るのだろうか。
そう考えた途端、身体が重くなった。
佐藤は俺の表情を見た。
「戦闘へ出るんですか」
「まだ聞いていません」
「行きたくない?」
「行きたくないです」
「なら、行かない方がいい」
簡単に言われた。
「業務命令なら?」
「断れる立場になればいい」
「どうやって」
「偉くなる」
冗談なのか、本気なのか分からない。
「俺は出世したくないです」
「なら、向いてない現場で生き残るしかない」
さらに嫌な選択肢だった。
佐藤はヘルメットを被り直す。
「明日からの工程、よろしくお願いします」
「まだ俺が担当ですか」
「交代しないんですか」
「分かりません」
「なら、分かるまで監督です」
今日一日で、分からないという言葉を随分便利に使うようになった気がする。
だが、それも悪くないと思い始めていた。
*
復興管理局へ戻った時には、午後八時を過ぎていた。
庁舎にはまだ明かりが多い。
災害関係の部署に、定時という言葉はあってないようなものだ。
自席へ戻ると、佐伯が書類の山の向こうから顔を出した。
「生きてましたか」
「なんとか」
「現場、崩れたって聞きました」
情報が早い。
「怪我人なし」
「橘さん、運いいですね」
その言葉に胸が少し痛んだ。
運。
確かに運もあった。
崩落が作業開始前だった。
停止判断が間に合った。
全員が指示へ従った。
偶然が一つ違えば、結果は変わった。
「そうかもしれない」
俺が答えると、佐伯は少し戸惑った顔をした。
いつもの俺なら、曖昧に笑って終わらせたかもしれない。
「引き継いだ案件、半分終わってます」
佐伯が言う。
「半分?」
「俺にも通常業務があります」
「十分だ。ありがとう」
「礼より残業代を」
「課長に言ってくれ」
「橘さんが出世して何とかしてください」
今日二度目だ。
皆、俺を偉くしたがる。
自分が楽をするために。
机へ座る。
未処理案件を確認。
今から全ては無理だ。
優先度の高い三件だけ処理する。
住宅補修費。
休業補償。
工場再開支援。
現場で四十二人を守ったかもしれない日の夜に、別の誰かの生活を数字へ変える。
不思議と、以前ほど空しいとは感じなかった。
この数字があるから、人は生活へ戻れる。
十分ではない。
失ったものは戻らない。
それでも、必要だ。
AIの算定案を確認する。
休業期間二十八日。
申請者の仕事は、小規模工場の機械整備。
右腕骨折。
AIは平均回復日数から算出している。
添付された医師所見を読む。
握力回復に時間がかかる可能性。
元の作業へ戻るには、追加訓練が必要。
俺は補償期間を四十二日へ修正する。
AIから警告。
«標準算定を十四日超過しています。»
「理由を記録」
音声入力。
「職務上、細かな手作業および工具保持が必要。骨癒合のみで職務復帰可能とは判断できない」
«医療所見を追加確認します。»
数秒後。
«修正案は許容範囲です。»
承認。
一件終了。
AIは標準を示す。
人間が個別を見る。
今日の現場と同じだ。
数字が間違っているわけではない。
だが、それだけでは足りない。
「橘」
課長が背後に立っていた。
「戻ったか」
「はい」
「報告は読んだ」
「書き換えは」
「されてない」
冗談ではなかった。
課長は地下空洞の件をどこまで知っているのだろう。
「佐藤の適性再評価は保留になった」
俺は顔を上げた。
「保留?」
「過去停止記録を洗うまでな」
「ありがとうございます」
「俺に礼を言うな。お前の報告書が通った」
自分の文章。
長いと言われた報告書。
それが一人の評価を一旦止めた。
「ただし」
課長が続ける。
「今日の件で、佐藤を英雄扱いするな」
「本人も同じことを言っていました」
「なら分かってるな」
勘が当たった。
だから今後も全て正しい。
そう扱えば、新しい事故が起こる。
AIの絶対化と同じだ。
今度は人間の勘を絶対にしてしまう。
「現場の感覚報告を正式項目にできませんか」
俺は聞いた。
「自由記述欄ではなく」
「提案書を出せ」
「俺が?」
「思いついた奴が書け」
また仕事が増えた。
「いつまでですか」
「来週」
短い。
だが、今日の記憶が新しいうちに書いた方がいい。
「分かりました」
課長は俺の机の書類を見る。
「それ終わったら帰れ」
「まだ三件」
「一件にしろ」
「期限が」
「明日、佐伯に回す」
書類の山から佐伯が顔を出す。
「聞いてませんけど」
「今言った」
「横暴だ」
文句を言いながらも、断らない。
俺は残り一件を処理した。
端末を閉じる。
時刻は午後九時二十二分。
身体が重い。
だが、帰れる。
帰る場所がある。
*
玄関を開けると、結衣が走ってきた。
「おかえり!」
今日はいつもの声だった。
それだけで、少し肩の力が抜ける。
「ただいま」
「遅い!」
「仕事だ」
「今日フレイムワーカー?」
「乗った」
結衣の目が輝きかける。
だが、すぐ少し表情を変えた。
以前なら「モンスター倒した?」と聞いていた。
今日は聞かない。
代わりに。
「何したの?」
と言った。
「工事現場の監督」
「壊す方?」
「壊す予定だった」
「予定?」
靴を脱ぎながら答える。
「地面が先に壊れた」
結衣が目を丸くする。
「落ちたの?」
「落ちた」
「お父さんも?」
「落ちてない」
「誰か怪我した?」
「誰も」
結衣は大きく息を吐いた。
子どもでも、人が無事だったことへ安心する。
「じゃあ、よかった」
「うん」
短い答え。
本当に、それでいい。
美咲がリビングから出てくる。
「おかえり」
「ただいま」
俺の顔を見て、眉を寄せた。
「何かあった?」
やはり分かるらしい。
「地盤崩落」
美咲の表情が固まる。
「怪我はない」
先に伝える。
「作業を止めてたから、全員無事」
「あなたが止めたの?」
「現場責任者が違和感を言った。俺が停止を決めた」
結衣が会話へ入ってくる。
「どうして分かったの?」
「土の匂い」
結衣は首を傾げる。
「土って、いつも匂うよ」
「その匂いが違ったらしい」
「お父さんも分かった?」
少し迷う。
「言われてから、何となく」
「じゃあ、その人がすごいんだ」
「そうだな」
佐藤が気づいた。
それは間違いない。
「でも、その人は次も分かるとは限らないって言ってた」
「なんで?」
「勘違いすることもあるから」
結衣は考える。
「AIは分からなかったの?」
「分からなかった」
「AIより、その人の方が頭いい?」
単純な比較。
だが今日の話は、それではない。
「違うものを見てたんだと思う」
俺は言った。
「AIは数字や地面の中を見てた。その人は匂いとか、昔のことを覚えてた」
「どっちが正しいの?」
「今日は、その人だった」
「明日は?」
「分からない」
結衣が呆れた顔をする。
「また分からない」
「本当に分からないんだ」
「大人って、分からないこと多いね」
「多いな」
以前より、それを認めることが恥ずかしくなくなっていた。
美咲が食卓へ夕食を並べる。
「先に着替えてきたら」
「うん」
部屋へ向かおうとすると、結衣が袖を引いた。
「お父さん」
「何だ」
「怖かった?」
医療班にも聞かれた。
佐藤にも。
今日は何度も答えている。
「怖かった」
「でも、逃げなかった?」
「仕事だから」
「格好いいね」
一瞬、言葉が出なかった。
家族旅行の日。
妻と娘へ格好良い姿を見せたかった。
だが二人とも、俺がモンスターを倒したことに気づかなかった。
それから何度か現場へ出た。
褒められても嬉しくなかった。
フレイムワーカーの才能など要らないと思った。
今、娘が格好いいと言った。
戦ったからではない。
人を殺したからでもない。
作業を止めたから。
「そうか」
それしか言えなかった。
頬が少し熱い。
結衣は不思議そうに見た。
「嬉しくないの?」
「嬉しい」
正直に答える。
「すごく」
結衣は笑った。
リビングの奥で、美咲も少し笑っていた。
*
着替えを終え、遅い夕食を取る。
温め直した煮物。
味噌汁。
焼いた鶏肉。
美咲は向かいに座り、今日のことを聞いた。
俺は話せる範囲で、順番に説明した。
AIは作業可能と判断した。
佐藤は匂いが違うと言った。
微小な沈下があった。
作業を止めた。
地面が崩れた。
四十二人全員が無事だった。
美咲は途中で口を挟まず聞いていた。
「AIが間違えたの?」
最後に聞く。
「間違えたというより、見つけられなかった」
早川の言葉を使う。
「違いがあるの?」
「あると思う」
「でも、現場では同じじゃない?」
「そう聞こえる」
安全だと受け取る。
だがAIは、危険が確認できないと言っただけ。
「随分、AIの言い方に詳しくなったね」
美咲が言う。
「最近よく話すから」
「話す?」
まずい言い方だったかもしれない。
AIとの個別対話。
何を守りたいか。
地下空洞。
全ては話せない。
「機体のAIと」
「あなたから?」
「向こうからも」
美咲の手が僅かに止まった。
「AIが質問するの?」
「俺の行動を観察してるらしい」
「大丈夫なの?」
「分からない」
まただ。
「でも、今のところ害はない」
美咲は完全には納得していない。
「何を聞かれるの」
「怖いか。何を守りたいか」
「何て答えたの?」
「家族」
美咲は少し目を伏せた。
「それだけ?」
AIにも同じことを聞かれた。
家族のみですか。
「家族が暮らす社会も」
言うのが少し恥ずかしい。
美咲は笑わなかった。
「あなたらしいと思う」
「大げさだろ」
「そういうところ」
具体的には言わない。
「今日、少し嬉しかった」
俺は言った。
「何が?」
「仕事をして、人が助かった」
「今までもそうだったでしょう」
被害補償。
復興予算。
道路。
住宅。
間接的には、何度も人を助けている。
「見えなかったから」
俺は言った。
「今日、全員の顔を見た」
書類の数字ではない。
目の前にいた四十二人。
「それで、現場の仕事が好きになった?」
「好きではない」
即答する。
美咲が笑った。
「そこは変わらないのね」
「怖いし、責任は重いし、朝は早い」
「でも?」
「必要な仕事だと思った」
今までも必要だとは知っていた。
だが今日は、自分がその中にいることを少しだけ肯定できた。
「良かったね」
美咲が言った。
「嫌なのに?」
「嫌なことの中に、続けられる理由が見つかったなら」
続けたいわけではない。
だが、完全に逃げたいだけでもなくなった。
それが良い変化なのか。
妻はどう思うのか。
「変わったと思う?」
俺は聞いた。
美咲は少し考えた。
「変わった」
胸が緊張する。
「前より、仕事のことを自分の言葉で話すようになった」
「悪い?」
「今は、悪くない」
今は。
その言葉を忘れないようにしようと思った。
「もし悪くなったら?」
「言う」
「かなり遠慮なく?」
「かなり」
朝と同じ会話。
それが安心になる。
*
結衣が寝たあと。
俺は机の前に座った。
手書きの日記を開く。
端末ではなく、紙。
今日の任務名を書く。
場所。
天候。
搭乗機。
作業内容。
事実から始める。
書きながら、指が何度か止まった。
今日の判断を、どう記録するか。
自分が人を救ったと書くのは違う。
佐藤が救ったと書くのも、少し違う。
AIが役に立たなかったとも書きたくない。
実際、微小沈下を見つけたのは機体だった。
崩落後の安全確認にも必要だった。
代替工程もAIが計算した。
誰か一人が正しかった話ではない。
だから、見たままを書く。
---
四月二十九日
任務名:第四復興区画・旧東浜工業地帯工程監査
場所:第一倉庫解体予定地
搭乗機:作業仕様フレイムワーカー
AIは作業可能と判断した。
地盤崩落確率は〇・八パーセント。
現場責任者の佐藤源一氏は、土の匂いが違うと言った。
当初、自分には分からなかった。
地盤走査でも明確な異常は出なかった。
ただし、昨日から一・八ミリの沈下があり、接地時の補正値にも僅かな変化があった。
作業停止を決定。
その後、第一倉庫基礎が崩落した。
地下に、記録されていない冷却設備跡と空洞が存在していた。
作業員四十二名。
負傷者なし。
機材損傷一台。
人的被害なし。
---
そこまで書き、少し間を空ける。
考察。
いつもなら、事実の後に自分の考えを書く。
今日は何を書けばいいのか迷った。
ペンを動かす。
---
佐藤氏の判断は正しかった。
ただし、次も正しいとは限らない。
AIの判断は足りなかった。
ただし、間違っていたわけではない。
自分は迷った。
怖かった。
AIの推奨に従えば、責任を負わずに済むと思った。
佐藤氏の判断に従ったと言えば、同じように責任を渡せるとも思った。
最後は、自分で停止を決めた。
だが、自分一人で人を守ったわけではない。
佐藤氏が匂いに気づいた。
機体とAIが微小沈下を記録した。
小林氏が作業員を退避させた。
大山氏が資材車を移動させた。
早川技師が崩落原因を調べた。
全員がいたから、被害が出なかった。
責任を持つことと、全てを自分の功績や失敗にすることは違うらしい。
まだ、よく分からない。
---
さらに一行。
書いていいのか迷った。
格好つけているように見える。
誰も読む予定はない。
それでも、自分に対して格好つけている気がする。
だが、今日感じたことを消したくなかった。
俺は書いた。
---
今日、初めて。
現場監督という仕事を、少し誇らしいと思った。
---
文字を見つめる。
恥ずかしい。
線を引いて消そうとする。
やめた。
この日記は、格好良い自分を書くためのものではない。
格好悪いことも。
怖かったことも。
その時の本当の気持ちも残す。
なら、嬉しかったことだけ消す理由はない。
最後に、AIとの会話を記録する。
---
AIは、今回の判断を「非構造化経験情報による危険予測」と分類した。
難しい。
現場では、勘と呼ばれていた。
AIは、人間の経験を新しい情報として記録する。
人間も、AIの数字を使って判断する。
どちらかだけでは足りない。
完全自動化すれば、今回の作業は開始されていた可能性が高い。
人間だけなら、微小沈下を数字として確認できなかった。
今日の結論。
AIは正しい。
人間も正しい。
だから、どちらも間違える。
面倒だが、一緒に考えるしかない。
---
ペンを置く。
少し考え、最後に付け加えた。
---
結衣に格好いいと言われた。
今日、一番嬉しかった。
以上。
---
日記を閉じる。
机の上へ置いたまま、椅子にもたれる。
誰にも読ませるつもりはない。
特に最後の一行は、絶対に見られたくない。
後で引き出しへ入れよう。
そう思った。
だが身体が重い。
少し休んでからにしようと、目を閉じる。
廊下の向こうで、扉が小さく開く音がした。
気づかなかった。
結衣が水を飲みに起きてきたことも。
机の上に開かれていない日記が置かれているのを、少しだけ気にして見たことも。
その夜、結衣は日記を開かなかった。
ただ、父親が手書きで何かを残していることを、初めて知った。
面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。
また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




