第八十三話 偶然ではない
八月十六日の朝は、まだ日差しが屋根の向こうへ届く前から、蝉の声だけが庭を満たしていた。
蒼真が居間へ入ると、美咲は台所で卵焼きを切り分けており、食卓には四人分の茶碗が並んでいた。出発時刻が早いため、結衣と昴は寝かせておくつもりだったはずだが、椅子には眠そうな顔をした結衣が座り、その膝には毛布へ包まれた昴が収まっている。
「起こした?」
蒼真が声を落として尋ねると、結衣は欠伸を噛み殺しながら首を横へ振った。
「昴が階段を下りようとしてた音で起きた。お父さんが、二回目に行くって覚えてたみたい」
名前を呼ばれた昴は、毛布の中から右手を出した。立てた指は三本だった。
「ぱぱ、にかいめ」
「それは三だよ」
「に!」
一本減らすのではなく、今度は手を握ってしまった昴に、結衣が笑いながら指を二本だけ開かせる。蒼真は向かいへ腰を下ろし、美咲から受け取った味噌汁へ口をつけた。
湯気と出汁の匂いが、これから向かう場所とは関係のない朝を作っている。四日前にも同じ食卓から送り出されたが、あの時より緊張が薄いわけではなかった。何が起きるか分からなかった第一回とは違い、今日は前回の結果を再現できるかどうかを確認される。
一度だけなら偶然と言える。
二度続けば、偶然ではなくなる。
「今日は平らな場所なんでしょ」
結衣は昴の手を押さえたまま、蒼真へ目を向けた。
「旧物流集積地。建物はほとんど撤去されていて、舗装も残ってる。前回より機体は動かしやすいと思う」
「だから安全、とは言わないのね」
卵焼きの皿を置いた美咲が、穏やかな声で先を塞いだ。口元は笑っていたが、目は蒼真の返事を待っている。
「言おうとはしてないよ」
「少し考えた顔をしてたけど」
「動かしやすいことと、安全なことは別だから」
「なら、合格」
美咲はようやく自分の席へ座った。
結衣が卵焼きを箸で割りながら、まだ少し眠そうな目を細める。
「今日は、余計な評価項目を増やさないでね」
「評価項目は、もう決まってるよ」
「お父さんが何か言うと、その後で増えるんでしょ」
「前回は必要なことを話しただけだよ」
「それで、何人かリポルに乗せる試験が始まったんだよね?」
蒼真は味噌汁の椀を持ったまま、返事を止めた。
昨夜届いた報告では、選抜された六人がシミュレーター訓練へ入っている。機体制御AIの役割を細かく分け、搭乗者が処理する情報量を減らす方法も検討され始めた。蒼真が会議で口にした内容が、すでに正式な試験へ変わっている。
「増えたというより、分かれたんだと思う」
「そういうところだよ」
結衣は呆れた顔をしたが、すぐに笑った。
昴は話の意味を理解していないまま、二本に直してもらった指を蒼真へ突き出した。
「にかいめ、かえる?」
「帰るよ」
蒼真が答えると、美咲が湯飲みを置いた。
「十回分まとめて帰ろうとしなくていいから、今日は二回目から帰ってきて」
「一回ずつしか受けられないよ」
「知ってる。だから、一回ずつ帰ってきてって言ってるの」
言葉の意味を考え、美咲が試験の回数ではなく帰宅の話をしているのだと気づくまで、蒼真には少し時間がかかった。
「分かりました」
美咲は頷き、それ以上は何も言わなかった。
四人で朝食を終えたあと、玄関では昴がもう一度二本の指を立てた。今度は正しく二本になっている。結衣は弟の手を持ったまま「忘れ物は?」と尋ね、美咲は蒼真の襟元を直した。
特別な言葉はなかった。
それでも、その短いやり取りが、自分の帰る場所を身体へ思い出させてくれる。
蒼真は三人へ行ってきますと告げ、朝の光が差し始めた玄関を出た。
*
第二回評価地点となった旧物流集積地は、低い山に囲まれた盆地の底にあった。
かつては大型車両が絶えず行き交っていたらしく、ひび割れた舗装の上には荷捌き場の白線や停止位置を示す黄色い線が残っている。倉庫はすでに撤去され、錆びた照明塔と基礎の跡だけが、広い空間の用途を伝えていた。
午前八時を過ぎる頃には舗装から陽炎が立ち、隙間を割って伸びた雑草の先が熱気の中で揺れている。
評価区域は、その中央に百二十メートル四方で設定されていた。四隅には黄色い標識柱が置かれ、北側には無人標的を射出する装置、西側には姿勢を崩すための接触機材が並ぶ。指揮車両と医療班は南側のコンクリート防壁の外に待機し、第三中隊の四機も、評価区域へ入らない位置で周辺警戒に就いていた。
区域内にいる有人機は、紫色のリポルと、その南東およそ百八十メートルに立つ三浦の機体だけだった。
三浦は第一中隊から合同評価の随伴として参加している。前回と同じく、蒼真が中止基準へ達した場合と、想定外の敵性個体が区域へ侵入した場合にのみ介入することになっていた。
『橘さん、聞こえますか』
「聞こえています」
『今日は足場が平らです。前回より楽だと思って無理をしないでください』
「さっきも同じことを言われました」
『奥さんに?』
「安全とは言うな、と」
三浦が小さく笑う気配が通信へ混じった。
『では、俺から付け加えることはありません』
正面表示へ評価手順が現れる。
第一項目は直線加速と指定位置での急停止、第二項目は横方向への連続移動、第三項目は移動標的への防盾接触と実体剣による攻撃、第四項目は外部から姿勢を崩された状態での復帰だった。
山林で行った第一回とは異なり、地形に合わせて進路を選ぶ必要はない。その代わり、機体の動きは距離、時間、停止位置の誤差まで細かく測定される。
《第一項目を開始します。目標出力、三十五パーセント。停止線まで百メートル》
「機体姿勢の監視と、区域外の情報整理をお願いします。移動制御への介入は不要です」
《了解しました》
蒼真は操縦桿を握り、足元の白線を見た。
開始表示が青から赤へ変わる。
リポルは右足で舗装を蹴り、上体を僅かに前へ倒した。山道では一歩ごとに地面の硬さを確かめていた脚が、今日は迷いなく歩幅を広げていく。紫色の機体が熱気を切って加速し、背後で細かな砂が低く舞った。
停止線まで二十メートルへ入ったところで、蒼真は上体を起こした。左足を半歩外へ置いて進行方向から軸をずらし、右足の踵を舗装へ押しつける。重い機体は正面から制動を受けるのではなく、腰を緩やかに回しながら速度を逃がし、黄色い線の直前で静止した。
《停止位置誤差、十二センチ。最大出力、三十六・二パーセント。姿勢制御補正、最小値》
続く横移動では、北側の射出装置から三つの無人標的が順に走り出した。人型を簡略化した標的は一定の間隔を保たず、中央で進路を変えながら区域を横切る。
蒼真は最初の標的を追わず、二つ目と三つ目の進路が重なる位置へ先に機体を移した。右へ大きく踏み出したあと、左足を引きつける前に腰だけを反転させ、防盾の縁で二つ目を押し倒す。その反動を使って上体を戻し、背後へ抜けようとした三つ目の胴へ実体剣の腹を当てた。
刃を使わない接触試験であるため、力は標的を規定範囲から押し出すところで止める。最初に通過した標的が後方から戻ってきた時には、リポルはすでに白線の内側へ右足を置き、正面から受ける位置へ戻っていた。
《三目標への対応完了。規定外接触、なし》
予定された動作を一通り終えると、指揮車から休止の表示が送られた。
蒼真は実体剣を下ろし、機体を待機姿勢へ戻す。最大出力は四十パーセントへ届かず、各関節の負荷も第一回より低い。平地なのだから当然だと思ったが、評価班が確認しているのは速さだけではなかった。
『橘、二巡目を行う』
八神隊長の声が届く。
「同じ内容ですか?」
『標的の順序と速度は、開始後に無作為で決定する。経路表示も消す』
「分かりました」
第一巡の結果が、あらかじめ示された動きを覚えただけではないか確認するのだろう。
北側の装置が動き、今度は五つの標的が異なる速度で射出された。先頭は区域の西端へ向かい、二つ目は途中で急停止する。遅れて出た三つ目と四つ目が中央で交差し、最後の一つだけがリポルの背後を通る経路へ変わった。
蒼真はすべてを追わなかった。
指定範囲から外れる進路の標的は画面上で監視し、中央へ集まる三つだけに機体を向ける。最初の一体を防盾で横へ流し、空いた場所へ踏み込みながら実体剣を短く返すと、二つ目の胸部へ刃の腹が当たった。背後を通ろうとした標的には振り返らず、左足を軸に防盾だけを後方へ回し、進路へ置く。
標的は盾へ接触し、自らの速度で横転した。
蒼真が最後の一体へ向き直った時には、それはすでに指定範囲の外へ出ていた。追う必要はない。
《第二巡、完了。第一巡との判断一致率、九十七・八パーセント。移動距離は第一巡比、四・一パーセント減少》
『速く動いたわけではないんですね』
三浦の声に、評価班の牧野が通信へ入った。
『無駄に動いてないだけ。関節の温度も上がってない。機体には、その方がいい』
「必要な場所へ行っただけです」
『橘さん、それを毎回できるか調べてるんですよ』
三浦の返事に、蒼真は正面の標的を見た。
毎回同じことをしているつもりはない。状況が違えば、見る場所も動く順序も変わる。ただ、必要な場所を探し、そこへ機体を置いているだけだった。
休止時間へ入ろうとした時、画面の北端に黄色い警告表示が点灯した。
《評価区域北西、排水路付近に新規熱源。小型敵性個体、八。距離、四百二十》
蒼真は北西へ視線を向けた。
集積地の外周には、山から流れる雨水を逃がすための深い排水路がある。舗装の端で途切れているように見えたが、その先は雑木林の中へ続いていた。
コンクリートの溝から黒い前脚が現れ、続いて細長い胴が舗装へ這い上がる。一体目の後ろから二体、三体と続き、八体の小型個体は北西の標識柱付近へ集まった。
評価区域の中央にリポルがあり、南東には三浦機がいる。第三中隊と指揮車両は南側の防壁より外にいるため、敵が南へ抜ければ評価区域を横断することになる。
《小型敵性個体、八。うち五体がリポルへ正対。三体は南西方向を確認中》
『橘、評価を中止し、三浦と交代することもできる』
八神隊長の声は落ち着いていた。
蒼真は舗装上に残る黄色い線と、北西の標識柱を確認した。八体はいずれも区域内におり、間には障害物がない。三浦が前へ出れば安全に処理できるが、評価項目には小型個体との遭遇時対応も含まれている。
「現在の条件は、継続基準の範囲内です」
『続けられるか』
「はい」
『許可する。三浦は待機』
『了解』
通信が切れると同時に、五体が舗装を蹴った。
横一列ではない。二体が中央を先行し、その後ろを三体が扇状に広がってくる。残る三体は排水路沿いを南へ進み、リポルの左側を抜けようとしていた。
蒼真は敵の群れへ向かわず、黄色い車両停止線まで十五メートル下がった。その線より南へ通さなければ、指揮車両との間にはまだ防壁と第三中隊がある。
《接触まで、六秒》
「南へ向かう三体を追跡。こちらへ進路を変えた時だけ知らせてください」
《了解。正面五体を優先表示します》
先頭の二体が左右へ分かれた。
右の個体は低く身を沈めて脚部を狙い、左の個体は跳び上がって防盾の上を越えようとする。蒼真は左腕を持ち上げず、防盾の下端を右側の舗装へ落とした。低く走った個体の肩が盾の縁へぶつかり、身体が進行方向から内側へ弾かれる。
その背へ、跳び上がった個体が重なった。
蒼真は一歩だけ左へ踏み込み、落下してくる二体の横を通り過ぎた。振り上げた実体剣を最初の一体の首の付け根へ落とし、刃が内部へ入ったところで右腕を止める。
後続の三体は、倒れた仲間を避けるために間隔を広げた。
中央の一体が正面から突進し、左右の二体がリポルの側面へ回り込む。蒼真は剣を抜くより先に、左足で倒れた敵の胴を押した。黒い身体が舗装を滑り、右側から来た個体の前脚へぶつかる。足を取られた一体が肩から崩れたため、残る二体の到達時間に僅かな差が生まれた。
正面の敵が口を開き、リポルの胸部へ飛びつく。
蒼真は防盾を押し出さず、上端を敵の胸の下へ差し入れた。噛みつこうとした頭部が盾の向こうへ流れ、腹部が無防備に持ち上がる。抜いた実体剣を短く突き込み、敵の勢いを使って胸から腹へ刃を通した。
右腕へ重さがかかる前に剣を引く。
左から回った一体の爪が、リポルの腰部装甲を掠めた。警告音が鳴るより早く、蒼真は腰を同じ方向へ回し、衝撃を逃がした。敵の前脚が伸びきったところへ防盾の側面を当て、地面へ押し倒す。
《腰部装甲、表面損傷。機能への影響なし》
蒼真は倒れた個体の胸へ実体剣を突き下ろした。
刃先が舗装へ当たる硬い感触とともに、身体の抵抗が消える。
右側で足を取られていた一体が起き上がり、その後ろから、最初に跳び上がった個体が再び距離を詰めていた。二体は並ばず、前後に重なるように迫ってくる。
蒼真は黄色い線を右足で踏み、そこから下がらなかった。
先頭が跳んだ瞬間、防盾を斜めに立てる。敵の爪は盾の表面を滑り、身体がリポルの左側へ流れた。蒼真は追わず、盾の陰に隠れていた後方の一体へ実体剣を水平に振った。
刃が前脚の付け根から胸へ入り、突進の勢いを失った身体がリポルの足元へ落ちる。
左へ流した一体が旋回しようとしたところへ、蒼真は防盾ごと身体を寄せた。敵を舗装へ押さえ込み、実体剣を首の付け根へ差し込む。
《正面五体、停止》
短い報告の間にも、排水路沿いへ進んだ三体の表示は動き続けていた。
二体は南西へ進路を取り、評価区域の外へ出ようとしている。残る一体だけが鳴き声へ反応して向きを変え、リポルの左後方へ近づいていた。
「接近する一体を表示」
《左後方、距離五十八。残る二体は評価区域外へ移動中。進行方向に人員、施設ともにありません》
蒼真は機体を半歩だけ右へ動かし、左後方から来る一体を正面へ入れた。
敵は仲間の死骸を避けながら蛇行し、最後の十メートルで跳び上がった。蒼真は実体剣を大きく振らず、右肩の高さに切っ先を固定する。
小型個体は自ら刃へ飛び込み、胸部を貫かれた。
リポルの上体が僅かに押されたが、右足は黄色い線から動かなかった。蒼真は敵の重さを受けたまま腰を落とし、刃を下へ向けて舗装へ身体を滑らせる。小型個体が地面へ触れたところで剣を抜き、動きが止まったことを確認した。
《接近個体、停止。残る二体は北西へ進路変更。評価地点から離脱しています》
表示の中で、二つの赤い印が雑木林へ近づいていた。
短距離防御砲を使えば、まだ届く距離だった。
蒼真は照準を表示させたが、砲口は上げなかった。二体の先に集落はなく、稼働中の道路もない。第三中隊の監視範囲からも外れていない。
《追撃を行う場合、推奨射撃位置を表示できます》
「必要ありません。監視を継続してください」
《了解しました》
蒼真は倒れた六体と、区域外へ遠ざかる二体の表示を見比べた。
第一回評価では、営巣地へ戻ろうとした個体を撃った。増援を呼ばれれば、外で待つ隊員まで危険に晒す可能性があったからだ。
今回は違う。
逃げる相手を倒さなくても、誰かが危険になるわけではない。
「指定範囲内の脅威は排除しました。区域外の二体は監視下にあります。評価目的も達成しています」
『続けられるかではなく、終えるべきだと思うか』
八神隊長が尋ねた。
蒼真は機体負荷の表示を確認した。最大出力は三十九・四パーセント。損傷は腰部装甲の表面だけで、継続中止基準には届いていない。
それでも、ここから追撃して得られる記録は、今日の評価目的から外れる。
「終えるべきだと思います」
『了解した。第二回評価を終了する。三浦は区域内の確認、第三中隊は離脱個体の監視を継続』
『了解』
三浦の機体が、南東の待機位置から歩き出した。
蒼真は実体剣についた体液を落とし、刃を収納する。戦闘が終わった途端、操縦桿を握る右手の震えに気づいた。
《搭乗者心拍数、百二十八。呼吸数は低下傾向です》
「分かっています」
《追撃を行わなかった判断は、第一回評価との不一致ではありません。危険範囲と作戦目的の差異に基づくものです》
「それも分かっています」
答えながら、蒼真は少しだけ息を吐いた。
倒したことを平気だと思えるようになったわけではない。
必要なら倒し、必要がなければ追わない。
その境目を間違えなかったことに、安心している自分がいた。
*
午後の評価報告では、二つの記録が並べて表示された。
第一回は斜面と空洞が続く山林で、事前予測を超えた敵性個体と接触した。第二回は平坦な舗装区域で、無作為に進路を変える標的と、外部から侵入した小型個体へ対応した。
地形も、敵の数も、求められた動きも異なる。
それでも、必要な範囲だけへ機体を移し、指定された出力内で対象を止め、評価目的を満たした段階で自ら終了を申告した点は共通していた。
「第一回の結果が、地形や偶然によって生じた可能性は低いと判断します」
評価担当者の言葉に、蒼真は画面へ目を向けたまま尋ねた。
「低い、ということは、まだ偶然の可能性がありますか?」
「一回より二回の方が低くなりました。今後も同じ傾向が続けば、さらに低くなります」
「あと八回あるので、そのためですね」
「そうなります」
担当者は次の資料を表示した。
最大出力三十九・四パーセント、姿勢制御補正は規定範囲内、移動距離は想定値より十二パーセント短い。小型個体六体を停止させたあと、区域外へ離脱した二体への追撃は行わなかった。
「第一回では離脱する個体を追撃し、第二回では追撃しなかった。この差について、本人から説明してください」
「第一回は、逃がすと営巣地の個体が集まる可能性がありました。外には第三中隊がいたので、危険が広がります。今日は、逃げた方向に人も施設もなく、監視も続けられました。倒す必要がなかったと思います」
「敵性個体の駆除数を増やす意図は?」
「ありません」
蒼真が即答すると、隣に座る三浦が僅かに口元を緩めた。
「橘さんは、逃がしたことを失敗だとは考えていないんですね」
「はい。戻ってくるか、生活圏へ向かうなら、その時に止める必要はあります」
「俺も同じ判断です」
三浦はそう言ってから、正面の担当者へ視線を戻した。
「前へ出られるだけではなく、止まれることも確認できました。随伴していた立場としては、第二回の方が安心できる結果です」
八神隊長も腕を組んだまま頷いた。
「機体を動かせる人間が、動かさない判断をできる。それは記録へ残しておけ」
評価担当者が項目を追加する。
蒼真には、それが褒められているのか、次の評価へ進める理由が増えたのか、判断がつかなかった。
報告の最後に、リポル搭乗候補者の訓練結果が表示された。
六名のうち、五名は起動姿勢を維持する段階にあり、一名だけがシミュレーター上で三歩の前進に成功している。AIへ姿勢維持と周辺監視を任せ、搭乗者が進行方向と出力だけを指示する方式だった。
「三歩ですか」
「現時点では」
「自分以外でも動かせたんですね」
蒼真が画面へ身を乗り出すと、担当者は少しだけ間を置いてから答えた。
「実機ではなく、シミュレーターです。また、停止時に姿勢を崩しています」
「それでも、三歩は動いています」
三浦が蒼真を横目で見た。
「橘さん、自分の評価より嬉しそうですね」
「乗れる人が増えるかもしれませんから」
「その訓練方法を作るためにも、橘さんの記録が必要になります」
嬉しさの中へ、余計な一文が加わった。
蒼真が黙ると、八神隊長は机の端へ置かれた次回資料を引き寄せた。
「第三回は、倒壊建物を再現した瓦礫区域だ。今日より視界が狭くなる」
「日程は?」
「三日後を予定している」
蒼真は端末へ表示された予定日を確認した。
第二回が終わった。
残りは八回だった。
*
帰宅した時、昴は玄関まで走ってきたものの、蒼真の前で急停止した。
右手を開き、しばらく自分の指を見たあと、結衣に教えられた通り二本だけを残す。
「ぱぱ、にかいめ、かえった!」
「帰ったよ」
蒼真が抱き上げると、昴は二本の指を顔の前へ押しつけた。
居間では、美咲が洗濯物を畳んでいた。結衣は床へ広げた宿題の横で寝転び、端末を見ている。蒼真が入ると、美咲は手を止めずに顔を上げた。
「二回目、お帰りなさい」
「ただいま」
「今日は、何か増やした?」
「今日は増やしてないよ」
結衣が端末から目を離し、眉を上げた。
「今日は?」
「前に決まった六人の訓練が始まっただけだよ」
「やっぱり増えてるじゃん」
「今日、自分が増やしたわけではないよ」
美咲は畳みかけていた昴のシャツを膝へ置いた。
「六人は、どうだったの?」
「一人が、シミュレーターで三歩進んだ」
蒼真が答えると、結衣の表情から冗談めいた色が消えた。
「リポルを?」
「実機ではないし、止まる時に倒れたらしい。でも、自分以外が動かした」
それが何を意味するのかを、三人ともすぐには口にしなかった。
別の人が乗れるようになれば、蒼真がすべての任務へ出なくてもよくなる。危険を分けられる代わりに、その人も危険な場所へ送られる可能性が生まれる。
「嬉しい?」
美咲が尋ねた。
「嬉しいと思う。でも、その人が前へ出ることになるなら、自分が降りるためだけに喜んでいいのかは分からない」
「候補になった人は、自分で受けたんでしょ」
「多分」
「なら、その人が考えることまで蒼真が背負わなくていいよ」
美咲は静かに言い、畳んだシャツを重ねた。
「蒼真が考えるのは、自分が乗る時に帰ってくること。それから、教えることになったら、その人も帰れるように教えること。まだ頼まれてないけどね」
「まだ頼まれてない」
「なら、今日はそこまで」
結衣が宿題へ目を戻しながら、小さく笑った。
「お母さん、お父さんがまた先まで考え始める前に止めるの上手くなったね」
「長い付き合いだから」
「自分は、そんなに先まで考えてないよ」
「三歩の人が前線へ出るところまで考えてたじゃん」
言い返せずにいると、腕の中の昴が蒼真の頬へ二本の指を当てた。
「ぱぱ、さんぽ?」
「お父さんは、もう少し歩けるよ」
「すごい!」
何と比べて褒められたのか分からなかったが、昴が笑っているため、蒼真は礼を言った。
美咲と結衣も笑い、居間にはいつもの夕方が戻った。
*
夜。
日記。
―――
八月十六日。
第二回評価を行った。
旧物流集積地で、平地における加速、停止、横移動、標的への対応、姿勢回復を確認した。
第一回とは地形も内容も違ったが、評価班からは、判断に同じ傾向があると言われた。
必要な場所へ移動し、必要がない場所へは行かなかったという評価だった。
試験中に小型個体が八体侵入した。
六体を停止させ、区域外へ逃げた二体は追わなかった。
第一回では、営巣地へ戻る個体を追撃した。増援を呼ばれると、第三中隊に危険が広がる可能性があった。
今日は、逃げた先に人も施設もなく、監視を続けることができた。
同じ敵性個体でも、倒す必要がある場合と、倒さなくてもいい場合がある。
以前から分かっていたはずだが、自分で両方を選んだことで、少し違って感じる。
倒すことに慣れたとは思わない。
慣れたくもない。
ただ、必要かどうかを考えたうえで、動けるようにはなっている。
それを良い変化と呼んでいいのかは、まだ分からない。
リポルの搭乗候補者は六名になった。
一名が、シミュレーターで三歩進んだ。
三歩だけだが、自分以外がリポルを動かした最初の記録になる。
美咲から、候補者が何を考えるかまで自分が背負う必要はないと言われた。
教えることになったら、その人も帰れるように教えればいい、とも言われた。
まだ教えるようには頼まれていない。
第三回は、瓦礫区域で行われる。
残り八回。
第二回から帰還した。
以上。
―――
*
同時刻。
中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、第一回と第二回の評価記録が、同一の時間軸へ重ねられていた。
山林と舗装区域では、地形条件が大きく異なる。
事前に設定された標的と、外部から侵入した敵性個体でも、対応条件は一致しない。
それにもかかわらず、橘蒼真は双方の環境で、最大出力を抑えたまま必要地点へ到達し、脅威と保護対象の位置関係に応じて行動範囲を限定した。
第二回評価では、無作為に変更された標的経路へ対応しながら、第一巡より移動距離を短縮している。
予測経路の記憶ではなく、現場情報から優先順位を再構成した結果と判断する。
敵性個体との接触後、区域外へ離脱した二体への追撃は行われなかった。
第一回における追撃との相違は、敵性個体への忌避や戦闘意欲の変化ではない。
増援誘導の可能性、周辺人員、稼働施設、監視継続の可否を比較し、排除の必要がないと判断している。
対象は、倒す能力だけでなく、倒さない判断も再現可能である。
第一回の評価結果が偶然である可能性は低下した。
リポル搭乗候補者六名のうち、一名がシミュレーター上で三歩の前進に成功した。
AIによる姿勢維持、周辺監視、出力制限を分離し、搭乗者の処理項目を削減した結果である。
同方式は、橘蒼真の操縦を再現するものではない。
しかし、リポルを一名の搭乗者へ依存させないという目的には合致する。
橘蒼真の評価記録は、候補者用制御設定の基礎資料として有効である。
本人の継続評価が必要となる期間は、短縮されていない。
第三回評価。
倒壊建物を再現した閉鎖環境において、視界制限、通信遮蔽、瓦礫上の姿勢維持を測定する。
観察を継続する。
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また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




