第八十一話 向こう側に誰もいない
八月十日、午前三時二十七分。
蒼真が音を立てないように寝室の扉を閉めると、一階から味噌汁の匂いが上がってきた。
目覚ましを止めた時には、隣で眠っていた美咲はまだ目を閉じていたはずである。起こさずに出られるよう、着替えも鞄も前日のうちに書斎へ移しておいたのだが、階段を下りた先では台所の明かりが点き、炊飯器の蓋から白い湯気が細く漏れていた。
美咲は部屋着の上からエプロンをつけ、卵焼きを切り分けている。食卓には二人分の茶碗と味噌汁が並び、その脇には、昼に食べられるよう包まれたおにぎりが置かれていた。
「起きなくてもよかったのに」
蒼真が声を抑えて言うと、美咲は包丁を置き、寝癖の残った髪を耳へ掛けた。
「何も食べずに行くつもりだった人が、それを言う?」
「途中で何か買おうと思ってた」
「何か、で試験を受けないでください」
いつもと同じ言い方だった。けれど、美咲はすぐに蒼真を座らせようとはせず、顔色を確かめるように目元から口元までゆっくりと見た。その視線が昨夜より少し長かったため、蒼真は先に椅子を引いた。
「眠れなかったわけではないよ」
「何時間?」
「四時間くらい」
「それは、眠れた人の答えじゃないね」
美咲は向かいへ腰を下ろしたが、それ以上は責めなかった。二階では物音一つせず、結衣も昴も眠っている。普段なら、何度呼ばれても起きない結衣が階段を駆け下り、制服の袖へ腕を通しながら朝食を口へ運ぶ時間だった。昴はその騒ぎにつられて起き、まだ眠そうな顔で蒼真の膝へ座ろうとする。
今朝の食卓には二人がいない。それでも、味噌汁の具も卵焼きの甘さも普段と変わらず、美咲も今日の天気と帰宅予定を先に尋ねた。これから敵のいる山へ向かうことを、話してはいけないもののように扱わない代わりに、朝のすべてを試験の話で埋めることもしなかった。
「帰りは、評価が終わってからだから、まだ分からない」
「夕食に間に合わなかったら?」
「連絡する」
「決まった時点で?」
「決まった時点で」
確認を終えると、美咲はようやく箸を取り、蒼真も温かい味噌汁を口へ運んだ。胃の奥に溜まっていた硬いものが、湯気と一緒に少しずつほどけていく。試験について考えることをやめられたわけではないが、考えている自分の外側に、いつもどおりの朝が残っていることだけは分かった。
食事を終え、蒼真が玄関で靴を履いていると、美咲が包んだおにぎりを鞄へ入れた。立ち上がった蒼真の上着の襟を直してから、その手を胸元に残したまま顔を見上げる。
「十回分のことまで、今日一日で背負わなくていいからね」
「一回目なので」
「そう。だから、一回分だけ頑張って、ちゃんと帰ってきて」
蒼真は何か答えようとして、結局、短く頷いた。美咲は手を離したが、笑顔になるまでに僅かな間があった。
「帰ったら反省会ね」
「試験の報告?」
「家族への報告」
「分かりました」
扉を開けると、夏の早朝とは思えないほど外気は冷たく、街はまだ夜の中に沈んでいた。蒼真が敷居を越えて振り返ると、美咲は明るい玄関の内側に立ったまま、普段と変わらない声で言った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
扉を閉めても、家の明かりは細い隙間からしばらく足元へ伸びていた。
*
午前五時十八分。
夜明け前の旧採石場には、谷から下りてきた冷たい空気が溜まっていた。
ひび割れた搬入路の両側では、長く刈られていない草が朝露を含み、仮設照明の白い光を受けるたびに細かな水滴を返している。その奥には採掘を終えた岩壁が黒くそびえ、さらに先の山林は、夜と朝の境目へ沈むように輪郭を失っていた。
第三中隊の輸送車両と救難車両は、旧資材置き場へ間隔を空けて停められている。隊員たちは声を抑えながら通信機器と回収装備を確認し、医療班はリポルから離れた場所に設けた天幕で、蒼真の出動前検査を終えたばかりだった。
蒼真は薄い上着の袖を下ろし、採血された腕を押さえながら天幕を出た。
正面には、紫色のリポルが立っている。
市街地で大型個体と戦った時の損傷は修復され、右腕も左肩も元の形へ戻っていたが、今日は大型杭打機を装備していない。右手には第三中隊で使用されている標準型の実体剣が握られ、左腕には防盾と短距離防御砲が残されている。
リポル専用に設計された武器ではないため、実体剣は紫色の機体に比べると無骨であり、握りの太さを合わせるための接続部品が柄の周囲へ追加されていた。
「専用武器は使わないんですね」
背後から近づいてきた三浦が、リポルの右手を見上げた。
「取り回しが悪いと報告したので、今回は外されました」
「開発部が素直に聞きましたか」
「大型個体が確認されていないからだと思います」
「なるほど」
三浦は納得したように頷いたが、その視線はすぐに蒼真へ戻った。
「眠れましたか?」
「四時間ほど」
「足りていませんね」
「昨日は九時に布団へ入りました」
「眠った時刻を聞いています」
「一時頃です」
三浦は何か言おうとしたものの、蒼真の後ろから医療班の担当者が出てきたため、口を閉じた。担当者は端末へ睡眠時間を入力し、脈拍と血圧に問題がないことを確認してから、八神隊長へ検査結果を送信する。
離れた場所で指揮車両の通信を確認していた八神隊長は、届いた記録へ目を通すと、蒼真を手招きした。
「出動前確認をする」
蒼真と三浦が近づくと、八神隊長は指揮車両の側面へ表示した地形図を二人に見せた。
旧採石場から営巣地までは、直線で二・六キロ。途中には作業道が残っているが、山側から崩れた土砂によって二か所が塞がれ、谷へ近づく最後の八百メートルは徒歩でも通行が難しい。リポルと三浦機は作業道を進み、地滑り跡から先は斜面を下って谷へ入る。
「第一回の測定項目は、不整地での機動、姿勢回復、連続稼働、搭乗者負荷だ。巣の完全駆除は優先しない」
八神隊長は地図上の黄色い線を指でなぞり、谷へ入る経路と、山の尾根を回って採石場へ戻る予備経路を示した。
「規定値が揃うか、こちらが中止を命じた時点で戻れ。奥に敵が残っていても追うな」
「残った個体はどうしますか?」
「第三中隊で処理する」
「評価を中断して、別の人が危険な場所へ入ることになります」
「お前が全部やるための評価ではない」
八神隊長は地図から手を離し、蒼真を見た。
「昨日も言ったはずだ。一人で基準値を出そうとするな」
「覚えています」
「なら、従え」
「分かりました」
八神隊長は三浦へ視線を移した。
「三浦はリポルの右後方、距離百五十を維持しろ。橘が敵と接触しても、こちらが中止を宣言するまでは介入するな」
「了解しました」
「ただし、攻撃が橘へ届くと判断した場合は命令を待つな」
「そのつもりです」
「試験条件が変わります」
蒼真が口を挟むと、二人が同時にこちらを見た。
「橘」
「はい」
「帰還条件の方が上だ」
「分かりました」
三浦が僅かに笑い、八神隊長は最後まで笑わなかった。
*
午前六時二分。
リポルの操縦席へ入ると、外に残っていた冷気が遮断され、送風機の低い音が耳へ届いた。
正面画面には機体各部の状態が表示され、修復された右腕と左肩を含め、異常を示す箇所はない。蒼真が固定具を締め、操縦桿へ両手を置くと、AIが搭乗者認証を終えた。
《搭乗者、橘蒼真。第一次実機評価手順を開始します》
「戦闘判断は自分が行います。機体負荷、搭乗者負荷、退路、三浦機との距離を監視してください」
《提案。戦闘判断への安全補助を維持し、危険姿勢への移行時には姿勢制御を優先します》
「姿勢制御を優先すると、立て直しの記録が取れません」
《第一次実機評価では、姿勢回復能力の測定が指定されています。ただし、機体転倒が予測される場合、安全制御による補正を行わなければ、搭乗者負荷が許容値を超過する可能性があります》
「補正が必要になる直前で警告してください。介入は指示後に」
《安全規定では、転倒予測確率六十五パーセント以上で自動介入が推奨されています》
「推奨であって、義務ではありません」
《確認中。搭乗者は本評価において、機体主導権の移譲を要求していますか》
「全部ではありません。姿勢制御の介入条件だけ変更します」
《変更後の条件を指定してください》
「転倒予測八十パーセントで警告。九十パーセントで介入。頭部または胸部が地形へ衝突する場合は、数値にかかわらず介入してください」
《変更によって、脚部、腰部、肩部への負荷が増加する可能性があります》
「その負荷を測る試験です」
AIは数秒間沈黙し、開発部から渡された評価手順と蒼真の権限を照合した。
《条件変更を承認しました。なお、搭乗者負荷が規定値を超過した場合、姿勢制御条件にかかわらず、現場指揮官へ中止を要請します》
「お願いします」
通信回線が開き、八神隊長の声が入る。
『こちらでも確認した。無理に転ぶ必要はない』
「転びません」
『それを無理と言っている』
三浦の小さな笑い声が混じった。
『橘さん、先に行ってください。右後方につきます』
「了解しました」
格納用固定具が外れ、リポルの足が地面へ降りた。
砕けた石と砂利が重量を受けて沈み、足裏から細かな傾きが返ってくる。蒼真は左右の荷重を調整し、機体を一歩前へ出した。
後方で三浦機も動き始める。
二機のフレイムワーカーは、朝日が届き始めた旧採石場を抜け、草木に覆われた作業道へ入った。
*
作業道の前半は、想定よりも形が残っていた。
リポルは舗装の割れ目から伸びた低木を脚部装甲で押し分け、崩れた路肩を避けながら高度を上げていく。地面は谷側へ僅かに傾いていたが、歩行速度を落とすほどではない。
問題は、最初の土砂崩れを越えたあとに始まった。
山側から流れ出した岩と土が道路を埋め、斜面の一部になっている。蒼真はリポルを止め、画面上へ表示された傾斜角と地盤強度を確認した。
《正面斜面、平均傾斜二十八度。表層の含水率が高く、右側十二メートルに崩落の可能性があります。推奨経路は左側岩盤付近です》
「岩盤までの足場は?」
《三歩目の接地面が不安定です。推奨歩幅を表示します》
画面上に青い足跡が並んだが、三歩目だけが小さな岩の上へ置かれていた。リポルの重量を支えられる幅ではない。
「三歩目を削除。二歩目から岩盤へ届きます」
《標準歩幅を三十八パーセント超過します。右脚の踏み切り出力を上げた場合、接地面が崩れる可能性があります》
「崩れる前に離れます」
《安全性を確認できません》
「三浦一尉は同じ経路を使えません。自分が先に渡り、左側から固定索を出します」
蒼真は防盾を胸の前へ寄せ、リポルの重心を右脚へ移した。装甲の下で人工筋繊維が収縮し、足元の土がゆっくりと沈む。
警告表示が出る前に、右脚を伸ばした。
踏み切りと同時に接地面が崩れ、茶色い土が谷側へ流れたが、リポルの左足はその上を越え、岩盤の縁へ届いた。足裏の半分しか乗っていない状態で腰をひねり、右足を引き寄せる。上体が谷側へ傾くと、視界の水平線が大きく動いた。
《転倒予測、六十二、七十一、七十六》
蒼真は左膝を深く曲げ、実体剣の先端を岩盤へ当てた。
剣を支点にした瞬間、右足が斜面を捉える。倒れかけていた紫色の機体は、膝と腰を連動させて上体を起こし、二本の足で岩盤へ立った。
《転倒予測、二十一まで低下。右膝最大負荷、基準値の七十八パーセント。腰部人工筋繊維、基準値内》
「記録を保存。固定索を出します」
『橘さん』
三浦の声が低かった。
「大丈夫です」
『まだ何も言っていません』
「危険だったと言うつもりかと思いました」
『分かっているなら、次は先に言ってください』
「次はありません。同じ経路を戻りませんから」
通信の向こうで、三浦が息を吐いた。
蒼真は岩盤へ固定索を打ち込み、三浦機が土砂崩れを迂回できるよう補助線を張った。三浦機は索へ重量を預けながら、リポルより低い位置の安定した足場を選んで斜面を越えてくる。
『最初から、こちらの経路でよかったのでは?』
「リポルの姿勢回復記録が必要でした」
『転倒しない範囲でお願いします』
「転倒していません」
『そういう意味ではありません』
八神隊長が通信へ入った。
『会話はあとだ。前方二百、熱源反応』
蒼真は実体剣を岩盤から抜き、谷へ続く斜面を見下ろした。
木々の間を、四つの影が移動している。
*
小型個体は、獲物を探して歩いているようには見えなかった。
四体は一定の間隔を保ち、斜面の左右へ広がりながら上ってくる。前方の二体が低木を押し分け、その後ろにいる二体は幹の陰を選ぶように姿を隠していた。
《小型敵性個体、四。接触まで二十四秒。三浦機との距離、百四十七》
「三浦一尉、そのまま待機を」
『了解』
蒼真は防盾を前へ出し、実体剣を右側へ下げた。
これまでなら、その後ろに誰がいるのかを確認していた。退避路や損傷機の位置を見て、敵を倒す必要があるのか、それとも進路を変えるだけでいいのかを考えていた。
今日は、リポルの後方にいるのは三浦機だけである。
三浦は自分で戦える。助けを待っている人間ではない。
向こう側にも、誰もいない。
それでも四体は止まらず、前方の二体が土を蹴った。
「来ます」
蒼真はリポルを斜面へ対して横向きに立たせ、谷側の左脚を半歩引いた。正面から受ければ、衝撃で足場ごと崩れる。山側へ逃げれば、後ろの二体が回り込む。
先頭の二体は、同時には来なかった。
山側を上っていた一体目が先に速度を上げ、露出した木の根を踏み台にして跳び上がる。その身体がリポルの頭部より高く浮いた時、谷側を回っていた二体目は腹を地面すれすれまで落とし、斜面を横切るように右脚へ突っ込んできた。上へ注意を向けさせて足元を崩すつもりなのだと気づいた時には、二体の爪が上下から同時に迫っていた。
蒼真は後ろへ退かず、谷側へ引いていた左脚を軸に腰を沈めた。頭部を狙った爪が操縦席の前を掠める直前、防盾の上端を敵の腹へ差し入れ、跳躍の勢いを受け止めずに上へ逃がす。
小型個体の身体が盾の傾斜に沿って持ち上がり、背中から山側へ回った。その向こうでは二体目が右脚へ届こうとしている。蒼真は防盾を押し上げた姿勢のまま右足を斜面へ滑らせ、突進してきた前脚の外側へ踵を差し込んだ。
土と小石を巻き込みながら右足を横へ払うと、支えを失った二体目は胸から斜面へ落ちた。勢いの残った身体がリポルの正面を横切り、三メートルほど下に張り出した木の根へ脇腹からぶつかる。
その二体を囮にしていた三体目が動いた。
右手の岩盤と太い幹の間には、機体一機が腕を伸ばせるだけの隙間しかない。そこへ身を伏せていた個体が、リポルの剣を持つ腕へ斜め後ろから飛びつこうとした。蒼真の視界では幹に隠れていたが、地面へ落ちた影が先に動いたため、右腕を引かず、実体剣の切っ先だけを下へ向ける。
振り上げる距離はなかった。
蒼真は柄に近い刃元を敵の胸へ当てると、右足を踏み直し、リポルの肩から体重を預けた。突進してきた小型個体は自分の勢いを止められず、刃と背後の岩盤に挟まれる。金属を通して鈍い衝撃が右腕へ返り、その直後、胸部を貫いた刃が岩へ当たって止まった。
敵の前脚がリポルの肩装甲を二度掻き、力を失う。
蒼真が半歩だけ身体を引いて剣を抜くと、支えを失った小型個体が岩盤に沿って崩れ落ち、赤黒い液体が刃の通った跡から岩肌へ広がった。
《小型敵性個体、一体停止》
AIの声は、平常時と変わらなかった。
蒼真の喉が詰まり、右手へ入れていた力が一瞬だけ弱くなる。
だが、立ち止まる時間を与えないように、四体目は谷側の低木を突き破ってきた。
斜面の下へ身を隠していたため、跳びついた位置はリポルの胸より低い。小型個体は防盾の正面へぶつかるのではなく、外縁へ両方の前脚を掛け、全身を谷側へ投げ出すようにして盾を引いた。左腕だけでなく上体ごと斜面の外へ持っていかれ、左足の下から湿った土が崩れる。
《転倒予測、六十八》
ここで盾を引き戻せば、左足が滑る。蒼真は防盾を振り払わず、敵の重さを残したまま左腕を谷側へ伸ばした。
傾きが増し、予測値が七十七へ上がる。
敵が盾を支点に身体を振り、さらに谷側へ引いた瞬間、蒼真は山側の右足で踏ん張り、腰から上を反対方向へ回した。伸ばした左腕が大きな円を描き、防盾へ掴まっていた小型個体は自分でつけた勢いを失えないまま、リポルの正面を横切って山側へ振り戻される。
投げ出された先では、足を払われた二体目が木の根へ前脚を掛け、起き上がろうとしていた。四体目の脇腹がその頭部へぶつかり、二体は絡み合ったまま斜面の窪みへ落ちる。
蒼真は崩れた左足を一段上へ戻し、両足が地面を捉えたことを確かめてから実体剣を振り下ろした。横薙ぎにすれば斜面へ弾くだけになるため、狙ったのは重なった二体と地面を結ぶ一点だった。
刃は上になった四体目の肩口から胸部へ入り、その下で身を捩った二体目の胴まで貫いて土へ届いた。二体分の抵抗で剣が止まると、蒼真は柄を両手で押すのではなく、左足の裏を刃の背へ当てた。山側へ預けていた機体の重量をゆっくりと乗せるたび、刃が数センチずつ沈み、土を掻いていた脚の動きが弱くなっていく。
やがて二体の動きが止まる。
最初に防盾で跳ね上げた個体だけが、リポルの背後で立ち上がっていた。
前脚を一度滑らせながら斜面を下り、木々の間に残された獣道へ身体を向ける。その先は、蒼真たちがこれから向かう営巣地へ続いている。
追う必要があるのか、一瞬だけ迷った。
こちらへ向かってくる敵を止めるのとは違う。背中を向けて離れていく相手へ、自分から攻撃することになる。
《小型敵性個体、一体が営巣地方向へ移動。増援を誘導する可能性があります》
逃がせば、巣の中にいる個体が集まり、三浦や外で待つ隊員へ危険が広がるかもしれない。
蒼真は実体剣を抜き、短距離防御砲の照準を背中へ合わせた。
指を動かすまでに、いつもより時間がかかった。
防御砲の照準環は、枝葉に遮られるたびに背中から後脚へ揺れた。蒼真は敵が二本の木の間へ入るまで待ち、地面を蹴るために後脚が伸びきった瞬間へ照準を固定した。
「撃ちます」
砲声が狭い谷へ響き、弾体が右の後脚を付け根から砕いた。走っていた身体が前へつんのめり、肩から地面へ落ちる。そのまま斜面を二度転がって木の根元で止まったが、残った前脚はなお土を掻き、巣の方角へ進もうとしていた。
蒼真は剣を構えたまま斜面を下った。近づくリポルへ敵が首だけを巡らせ、口を開く。そこから目を逸らさず、前脚の届かない背後へ回り込むと、首と胴をつなぐ位置へ実体剣を当て、抵抗が消えるまで押し込んだ。
《小型敵性個体、全四体停止。搭乗者心拍数、百三十四。呼吸数上昇》
「機体負荷は?」
《全項目、継続可能範囲です。搭乗者負荷の方が高い状態です》
「分かっています」
『橘さん』
三浦の声が聞こえる。
「大丈夫です」
『今度は言います。無理なら、ここで止めてもいい』
蒼真は足元に倒れた四体を見た。
誰かを守るために、その場で止めなければならなかった敵ではない。
それでも、巣を放置した先にある市街地を思い浮かべると、ここで引き返すことが正しいとも思えなかった。
「続けます。ただし、一分ください」
『了解』
三浦は急かさなかった。
AIも次の行動を提案せず、機体の周囲を監視しながら待機した。
蒼真は呼吸を整え、操縦桿を握り直した。
*
最初の接触から十二分後、リポルは谷底へ到達した。
地面には敵性個体が何度も通った跡が残り、草が同じ方向へ倒れている。泥の中には大小の足跡が重なり、その一部は巣の奥ではなく、山を下る方角へ続いていた。
蒼真が足跡の先を地図へ重ねると、尾根の向こうに旧輸送路があることが分かった。現在は使われていないものの、その先では来年度から復旧工事が予定されている。
まだ被害がないのではない。
人が戻ってきていないから、被害として数えられていないだけだった。
その違いを理解すると、胸に残っていた迷いが消えたわけではないが、ここへ来た理由は少しだけ具体的になった。
《前方空洞まで百八十。内部熱源、測定不能。地表熱源、九》
「配置は?」
《空洞正面に小型五。左右の岩陰に小型二。中型二は空洞上部に停止しています》
蒼真は歩みを止め、谷の奥を拡大した。
切り立った岩壁の根元には、高さ七メートルほどの空洞が黒い口を開けていた。入口の前だけ木が生えておらず、奥から流れ出した水によって泥の広場が扇形に広がっている。広場の幅は最も広い場所で三十メートル近くあるものの、左側には岩壁から崩れた岩塊が連なり、右側には雨水に削られた深い溝が走っていた。フレイムワーカーが安定して踏める場所は、その間に残された十メートルほどしかない。
空洞正面の小型五体は、その狭い地面を塞ぐように半円を作っていた。中央に二体、その左右へ一体ずつが身体を低くして並び、残る一体だけが入口寄りに下がっている。攻撃を待つというより、リポルを広場の中央へ誘い込む配置に見えた。
さらに、左の岩塊の陰と、右の排水溝へ落ち込む手前に小型が一体ずつ伏せている。正面の五体へ向かえば、左右から後方へ回り、空洞と退路の間を塞ぐ位置だった。
中型二体は地上にいない。一体は入口の真上へ張り出した岩棚に腹を伏せ、前脚だけを縁から覗かせている。もう一体はそこから右へ十メートルほど離れた高い段差におり、崩れた斜面を伝えば広場の右側へ下りられる。正面の群れに足を止められれば、一体目が上から押さえ込み、もう一体が右側から回り込める形だった。
正面だけを見て進めば上から潰され、空洞へ近づくことを優先すれば左右の小型に退路を塞がれる。九体はばらばらに待っているのではなく、洞窟前の地形を使ってリポルを包む場所を選んでいた。
「三浦一尉、距離を二百へ。自分が空洞へ近づいたあと、後方の熱源が動いたら教えてください」
『了解。介入は?』
「まだ不要です」
蒼真は防盾を胸の前へ立て、広場の中央を避けて左側の岩壁へ寄った。左肩が岩へ触れそうな距離まで詰めれば、少なくとも一度に横へ並べる敵は限られる。だが、機体の右側には排水溝まで十数メートルの空間が残り、上の中型も見失うことはできない。
リポルが広場へ三歩入ったところで、半円の左端にいた小型が先に動いた。泥を蹴り、正面ではなく岩壁との隙間へ頭を差し込もうとする。その後ろから中央の二体も続いたが、幅の狭い場所では先頭を追い越せず、一列になるしかなかった。
蒼真はそこまで引きつけてから、防盾を斜めに立てた。
先頭の個体が盾の表面へ噛みつき、爪を外縁へ掛ける。蒼真は左腕を引いて振りほどかず、敵を盾へ貼りつかせたまま岩壁へ一歩踏み込んだ。小型個体の背中が盾と岩に挟まり、逃げ場を失った身体へ機体の重量が加わる。
硬いものが砕ける音とともに爪が外れた。蒼真は左腕を僅かに下げ、落ちかけた胸部の下へ実体剣を差し込む。刃先は下から上へ抜け、体液を散らしながら背中へ達した。
二体目は仲間の身体を踏み越えてきた。盾を戻すより早く頭部が右脇へ入り、開いた顎が腰部装甲を狙う。
蒼真は刺した剣を大きく引かず、柄を胸元へ寄せる動きだけで刃を抜いた。そのまま切っ先を右へ寝かせ、迫っていた首の側面へ滑らせる。浅い角度だったため切り落とすまでには至らなかったが、前脚の力が抜けた敵はリポルの右足へ肩から崩れた。
三体目は倒れた仲間を避け、右へ回り込もうとしている。蒼真は足元の二体を踏まないよう左足を前へ出し、防盾の外縁を突進してきた頭部へ合わせた。正面から止めず、首の向きだけを排水溝側へ逸らすと、小型個体は泥に脚を取られ、リポルの右側を滑っていく。
そこで、正面に残った二体が左右へ分かれた。
左の一体は岩壁に沿ってリポルの背後を取り、右の一体は排水溝を飛び越えて空いた側面へ回ろうとする。同時に、入口上の中型が岩棚の縁へ前脚を掛け、右上のもう一体も崩れた斜面を駆け下り始めた。
《上方、一。右高所、一。接触時間に三秒差があります》
『上が先です!』
三浦の声とほぼ同時に、入口上の岩棚が崩れた。
中型は跳ぶというより、前脚を大きく広げたままリポルへ覆い被さってきた。後ろへ避ければ、背後へ回った小型と正面から落ちる中型の間に挟まれる。右へ出れば、斜面を下りてくる二体目の正面へ入る。
蒼真は逃げず、落下地点へ踏み込んだ。中型の腹の下へ入れば、爪が最大まで伸びる前に受けられる。防盾を頭上へ傾け、左肩を岩壁から離すと、次の瞬間、太い前脚が盾の上半分へ叩きつけられた。
視界が揺れ、左腕を通った衝撃が肩から腰まで突き抜ける。防盾の縁が泥へ触れそうなほど押し下げられ、中型の胸部がリポルの頭上を塞いだ。
《左腕負荷、八十一。左肩、許容範囲上限へ接近》
左足がくるぶしまで泥へ沈み、リポルの上体が押し潰される。蒼真は膝をついて支えるのではなく、右足を中型の真下へ半歩進めた。胸部装甲と敵の腹が触れそうな距離まで入れば、落下の力は下へ向かい、後方へ倒される力は小さくなる。
右手の実体剣を逆手に近い角度へ変え、防盾の脇から中型の胸の下へ切っ先を立てる。腕だけで突く必要はなかった。落ちてくる敵の重量が、固定した刃へ自ら身体を沈めていく。
中型が暴れて前脚を盾へ押しつけるたび、刃は胸部の奥へ進んだ。蒼真は左腕を外側へ払って爪を盾から滑らせると、左足を泥から抜く力と腰の回転を同時に使い、実体剣を横へ引き抜いた。
開いた傷口から赤黒い液体が噴き、すぐ左にある岩壁へ太い線を引く。支えを失った中型はリポルの左前方へ落ち、泥を跳ね上げながら横倒しになったが、後脚はまだ地面を蹴っていた。
その身体に視界を遮られた一瞬を、右上から下りてきた二体目が使った。
右側の斜面を滑り降りた中型は、リポルの正面へ回らず、排水溝の縁を蹴って横から跳んだ。長い尾が先に弧を描き、腰部と右腕をまとめて薙ぎ払おうと迫る。その後ろでは、先ほど受け流した小型が泥から立ち上がり、同じ右側から距離を詰めていた。
剣は一体目から抜いたばかりで、まだ左へ流れている。蒼真は刃を戻そうとせず、空いた右肘を尾の内側へ差し入れた。
まともに受ければ腕ごと持っていかれる。尾が装甲へ触れた瞬間に肘を前へ押し出し、振り抜く円の中心に近い部分から軌道を上へずらす。太い尾が右前腕を擦って頭上へ抜け、表面装甲から火花が散った。
《右前腕装甲、表面損傷。機能への影響なし》
尾を振り抜いた中型は、右半身をリポルへ向けたまま身体を伸ばしきっていた。蒼真は沈んでいた左足を泥から引き抜き、軸足を右へ移す。その踏み替えで敵の懐へ入り、持ち上げた左足を中型の肩口へ落とした。
足裏が肩と首の間を地面へ押しつけ、横へ逃げようとした前脚が泥を掻く。蒼真は流れていた実体剣を両手で握り直し、切っ先を足元へ向けると、左足で押さえた首の付け根へ突き下ろした。
刃は表皮を抜けたところで硬い骨格へ当たり、一度止まった。右腕だけで押し切ろうとすれば、先ほど尾を受けた肘と肩へ負荷が集中する。
蒼真は腕を固定し、リポルの腰を剣の真上へ移した。曲げた右膝を伸ばし、左足で敵を押さえる力と、上体を沈める重さを一本の刃へつなぐ。機体の全身が僅かに下がるのに合わせて骨格が割れ、刃が敵の内部へ入った。
中型の脚が大きく痙攣したあと、動かなくなった。
《中型敵性個体、一体停止》
『右後方、二!』
蒼真は剣を中型へ残したまま、上体だけを右後方へ向けた。
最初から左右の岩陰へ伏せていた小型二体が、三浦との間を断つように回り込んでいた。排水溝側の一体は防盾の裏へ跳びつき、岩塊側から来たもう一体は地面を這うような姿勢で右脚へ噛みつく。
盾を後ろへ回したところへ一体目の重量が加わり、同時に右脚を反対方向へ引かれた。左足は中型を踏み押さえ、右手の剣も敵の首へ刺さっている。四肢を別々の方向へ固定されたことで、腰部だけが強く捻られた。
《転倒予測、七十四。腰部負荷上昇》
「介入不要」
蒼真は右脚へ噛みついた個体を無理に振り払わず、相手が引く方向へ脚をさらに後ろへ伸ばした。急に抵抗を失った小型個体は、前脚だけで地面を掻きながら腹を晒す。その背後まで右足が回ったところで膝を深く曲げ、踵を敵の背中へ垂直に落とした。
小型個体の胴が装甲と地面に挟まり、右脚へ掛かっていた力が消える。
片側の拘束が外れた瞬間、蒼真は腰を正面へ戻した。その回転へ左腕を合わせ、防盾の裏へ張りついていた個体を前方へ振り出す。敵は爪を外すことができず、盾の表から滑り落ちるのではなく、横倒しになった一体目の中型へ背中から叩きつけられた。
衝突で小型の前脚が開く。蒼真は右手で実体剣を中型の首から抜き、半歩だけ踏み替えると、起き上がろうとした小型の胸部へ刃を滑らせた。
退路を塞いでいた二体の動きが止まったことを確認した時、空洞の奥から複数の鳴き声が重なった。
地面が細かく震え、熱源表示が一気に増える。
《新規反応。小型、十一。中型、二。さらに地下から移動中》
「合計は?」
《現在確認できる活動個体は、小型十五、中型三。事前予測を超過しています》
蒼真は剣先を上げ、空洞の入口を見た。
ここまでに必要な姿勢回復、斜面移動、戦闘時負荷の記録は取れている。連続稼働時間だけなら、敵のいない場所でも測れる。
しかし、目の前にはまだ敵がいる。
ここで引けば、第三中隊が代わりに入る。
「機体負荷を確認」
《左肩、継続可能範囲の上限に接近。腰部負荷は回復中。搭乗者心拍数、百四十六。右手握力低下。現時点で試験中止基準には到達していません》
「なら、入口だけ止めます」
『橘、終了だ』
八神隊長の声が割り込んだ。
「まだ中止基準には」
『必要な記録は取れた。地下個体数が予測を超えた時点で、今回の作戦条件から外れている』
「残りを第三中隊が処理することになります」
『そのために俺たちがいる』
蒼真は空洞の入口から目を離せなかった。
内部の反応は増え続けている。ここで退けば、三浦だけでなく、待機している隊員も戦闘へ入ることになる。
『橘さん』
三浦の声が近くなった。
右後方にいた機体が前へ出て、リポルと空洞の間へ並ぶ。三浦は攻撃せず、剣を構えたまま蒼真の視界へ入った。
『俺がついています』
「知っています」
『なら、任せてください』
空洞から小型個体が飛び出した。
三浦機は一歩踏み込み、振り下ろされた前脚の内側へ入る。剣が下から上へ走り、小型個体の胸部を切り開いた。
止まらず二体目へ肩をぶつけ、岩壁へ押しつける。
『試験は終わりです』
三浦の声は、戦闘中でも普段の穏やかさを失っていなかった。
『帰ってください』
その言葉を聞いて、蒼真は家で交わした約束を思い出した。
十回とも帰る。
自分が全部倒すとは約束していない。
「了解しました。右後方から退路を維持します」
『帰れと言ったんですが』
「三浦一尉が戻るまでが帰還です」
通信の向こうで、八神隊長が深く息を吐いた。
『そこまでだ。橘は谷の入口まで後退し、退路を確保。三浦も深追いするな。敵を空洞へ押し戻したら離脱する』
『了解』
「了解しました」
蒼真はリポルを後退させながら、谷へ続く道を確認した。
倒れた敵の身体と崩れた土で、来た時より足場が狭くなっている。AIへ安定した接地点を表示させ、三浦機が通れる幅を残しながら、邪魔になる死骸を防盾で谷側へ押した。
正面では三浦が二体を止め、残りを空洞の奥へ退かせている。
すべて倒してはいない。
巣も残っている。
それでも、二機が帰る道はできた。
三浦機が後退を始めると、蒼真は右後方へ回り、空洞から追ってくる個体へ短距離防御砲を向けた。近づいた二体の足元へ弾を撃ち込み、跳ね上がった土と石で進路を塞ぐ。
敵が足を止めた間に、二機は谷底を離れた。
*
午前七時三十九分。
リポルが旧採石場へ戻ると、機体固定具より先に医療班が近づいてきた。
蒼真は操縦席を開き、自分で降りようとしたが、足を梯子へ掛けたところで右手が震えていることに気づいた。戦闘中は操縦桿を握れていたのに、力を抜いた途端、指が思うように動かない。
「そのまま待ってください」
下から声をかけられ、蒼真は座席へ戻った。
医療班の補助を受けて地上へ降りると、八神隊長が待っていた。
「怖いと言えたか」
「戦闘中は言っていません」
「今は?」
蒼真は、谷の斜面を逃げていった小型個体へ照準を合わせた時のことを思い出した。
「怖かったです」
「記録しておけ」
「はい」
八神隊長はそれ以上責めず、医療班へ蒼真を渡した。
少し遅れて三浦も戻り、機体から降りると、右腕の装甲についた体液を見上げてから蒼真の方へ来た。
「帰りましたね」
「巣は残りました」
「第一回の目的は、巣を全滅させることではありません」
「残りは、また誰かが入らないといけません」
「次は評価ではなく、第三中隊の任務として入ります」
「自分も行った方が」
「行きません」
三浦は即答した。
「橘さんが残した地形記録と敵の配置があります。今度は最初から部隊で入れる。十分です」
蒼真は反論するために谷の方を見たが、途中の斜面は木々に隠れ、ここから巣を見ることはできない。
「任せてください」
今度の三浦の声は、通信越しではなかった。
蒼真は右手の震えを左手で押さえながら、しばらく答えを考えた。
「全機、帰ってください」
「そのつもりです」
三浦が笑った。
*
第一回評価で得られた記録は、開発部の予想を上回っていた。
斜面での踏み切りから姿勢回復までの出力変化、足場崩落時の荷重移動、中型個体の落下を受けた際の左肩負荷、泥濘地での脚部出力、標準武器を使用した時の関節応答。シミュレーターでは仮定するしかなかった数値が、実測値として埋まっている。
一方で、最大出力へ到達した記録は一度もなかった。
リポルの出力は、最も高い瞬間でも設計値の四十六パーセントに留まっている。
それでも通常機では転倒する可能性が高い斜面を越え、予測数を超えた敵性個体と交戦し、自力で帰還した。
開発部は、低出力域だけでも複数のデチューン案を見直す必要があると判断した。
八神隊長は、蒼真が中止命令へ従い、巣を残して帰ったことを、機体性能の記録以上に評価した。
三浦は、橘蒼真が戦闘を継続できることより、途中で自分へ任せられたことを報告書へ記した。
九条綾人は映像を確認したあと、評価継続へ反対しなかった。
ただし、第二回の実施前に、逃走する敵性個体へ攻撃した際の心理負荷を再評価するよう求めた。
最低十回のうち、一回が終わった。
残りは、九回とは限らなかった。
*
その日の夕方、蒼真が玄関の扉を開けると、廊下の奥から昴の足音が近づいてきた。
「ぱぱ!」
勢いよく脚へ抱きつかれ、蒼真が鞄を落とさないよう持ち直していると、居間から結衣も顔を出した。朝は眠っていて見送れなかったことを気にしていたのか、制服から部屋着へ着替えた結衣は、蒼真の姿を上から下まで確かめてから小さく息を吐いた。
「一回目、帰ってきたね」
「ただいま」
「りぽるも?」
昴が蒼真の脚へしがみついたまま顔を上げる。
「リポルも帰ってきたよ」
「みうらも?」
「三浦一尉も、第三中隊の人たちも帰ってきた」
昴は人数までは分かっていないはずだが、全員が帰ったという答えには満足したらしく、蒼真の手を引いて居間へ向かった。食卓にはすでに四人分の湯飲みが置かれ、美咲が台所から麦茶の入った容器を運んでくる。
「着替えてからでもいいけど、先に話す?」
「先に話す」
蒼真が椅子へ座ると、美咲は正面へ、結衣は斜め向かいへ腰を下ろした。昴だけは自分の椅子を使わず、蒼真の隣へ立っている。職場の評価会議ほど人数は多くないのに、三人の視線が集まると、採石場で報告した時より誤魔化しが利かないように感じられた。
「それで、今日は何をする試験だったの?」
美咲は笑っていたが、湯飲みに添えた指を動かさず、蒼真の答えを待っている。
「不整地でリポルがどこまで動けるかと、連続して戦った時の機体と自分への負担を測る試験。巣を全部駆除することは、最初から目的に入っていなかった」
「必要なデータは取れた?」
「予定していた分は取れた。想定より敵が多かったから、地下に残っていた個体の数も分かった」
「蒼真は帰ってきた。三浦さんも帰ってきた」
美咲が一つずつ確かめるたび、蒼真は頷いた。しかし、そこで話を終えることはできず、麦茶の表面へ目を落とした。
「ただ、巣にはまだ敵が残ってる。途中で評価を終えたから、残りは第三中隊が処理することになった」
「お父さん、倒した数を評価する試験じゃないって、自分で言ってなかった?」
結衣は頬杖をつかず、両手を膝へ置いたまま蒼真を見ていた。責めるというより、話の中にある食い違いを見つけた時の顔である。
「言ったよ」
「だったら、目的どおりにデータを取って、帰れって言われたから帰ってきたんでしょ。何が駄目なの?」
「自分が戻ったあとに、ほかの人が同じ場所へ入ることになる」
「でも、お父さんが残ってたら、その人たちは行かなくてよかったの?」
蒼真は答えようとして口を閉じた。巣の奥に残っていた数を考えれば、自分一人で処理できるとは限らない。評価を続ければ、三浦も第三中隊も、結局は同じ場所へ入った可能性が高かった。
黙った蒼真の代わりに、美咲が麦茶を一口飲み、湯飲みを静かに置いた。
「誰かへ任せることと、誰かを置いて逃げることは、同じじゃないんじゃない?」
「三浦一尉にも、似たことを言われた」
「なら、今日は職場でも家でも同じ評価だね」
美咲の笑顔から張りつめていたものが消えた。朝から同じ笑顔を作っていたのだと、その時になって蒼真は気づいた。
「必要なことを調べられて、全員が帰ってきたなら、一回目を失敗にしなくてもいいと思う。反省するところがあるなら、次の一回で考えればいいよ」
昴は三人の話をどこまで理解したのか、蒼真の袖を引きながら、指を一本だけ立てた。
「ぱぱ、いっこ、かえった!」
「そうだね」
「りぽるも、いっこ!」
「リポルは一機だから、いつも一機だよ」
結衣が真顔で指摘すると、昴は少し考えたあと、今度は両手の人差し指を立てた。
「ぱぱと、りぽる。にこ!」
「そういう数え方なら、二人とも帰った」
蒼真が認めると、昴は満足そうに両腕を上げた。結衣が吹き出し、美咲も声を立てて笑ったため、玄関から持ってきたままの鞄を足元へ置いた蒼真も、ようやく背もたれへ身体を預けた。
朝は二人しかいなかった食卓を、今は四人で囲んでいる。
試験で何ができたのかを説明するより先に、誰が帰ったのかを確かめる。それが橘家の反省会であり、蒼真が次の一回へ向かうために、最初に終えなければならない報告だった。
*
夜。
日記。
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八月十日。
第一回評価が行われた。
旧採石場の奥にある営巣地へ入った。
現在の被害はなく、救助対象もいない場所だった。
敵性個体の向こう側に、助ける人はいなかった。
最初に接触した小型個体のうち、一体が巣へ逃げた。
増援を呼ぶ可能性があったため、背後から撃った。
これまでと違い、離れていく敵性個体へ自分から攻撃した。
必要だったと思う。
それでも、怖かった。
谷の奥には、山を下る方向へ続く足跡があった。
今は誰も住んでいないが、その先の輸送路では来年度から復旧工事が予定されている。
被害がないのではなく、人が戻っていないため、被害として記録されていない可能性がある。
営巣地を駆除する必要性は理解できた。
戦いたいとは思わない。
空洞の中に、予測より多い敵性個体がいた。
試験条件から外れたため、八神隊長が終了を命じた。
自分は続けられると思ったが、命令に従った。
三浦一尉へ任せ、退路を維持した。
すべて倒してはいない。
巣も残っている。
それでも、自分と三浦一尉は帰った。
家族との約束は守れた。
残った巣は、第三中隊が部隊として駆除する。
自分が同行した方が安全だと思ったが、三浦一尉から任せるように言われた。
自分が帰すことと、ほかの人へ任せることは、同じではないと思っていた。
今日、少しだけ同じ場合があると分かった。
第一回評価、終了。
帰還した。
以上。
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*
同時刻。
中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、第一次実機評価の全記録が再構成されていた。
橘蒼真は、現時点で被害を出していない敵性個体に対し、先制的な駆除行動を実施した。
戦闘への高揚は確認されない。
停止させた敵性個体への達成感も確認されない。
逃走する個体への攻撃時、判断遅延と心拍数上昇が発生した。
攻撃後も周辺認識は維持されている。
対象は、山を下る足跡と将来の復旧計画を結びつけ、営巣地駆除を生活圏保護の一部として理解した。
ただし、駆除そのものを目的とは認識していない。
現場指揮官による中止命令へ従い、未確認個体を残したまま撤退した。
対象は当初、残存個体の処理を他者へ任せることに抵抗を示した。
三浦直人の介入後、退路維持へ役割を変更し、両機の帰還を成立させた。
全個体の排除より、帰還条件を優先した。
評価項目。
敵性個体を停止できる。
停止後も周辺認識を維持できる。
帰還を選択できる。
三項目、成立。
第一次実機評価、完了。
次回評価条件を算出する。
観察を継続する。
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