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第八十話 最低十回

 八月四日。


 復興管理局の執務室へ入ると、蒼真の机にだけ新しい書類が置かれていた。


 表紙には《特別試験機リポル正式採用評価・第一次実施案》と印刷され、その右上へ赤い帯が入っている。緊急案件ではないが、受領した本人以外による持ち出しを禁じる印だった。


 昨日の会議で、限定的な実機評価へ参加すると答えたばかりである。もう実施案が作られたことに驚きながら、蒼真は鞄を椅子へ掛け、書類を開いた。


 一頁目には、評価の目的が並んでいた。


 機体出力。


 姿勢制御。


 連続稼働時間。


 搭乗者負荷。


 武装変更時の挙動。


 救助、回収、退路維持を含む複合行動。


 どれも昨日、会議室で確認した内容である。蒼真は頁をめくり、実施回数の欄で手を止めた。


 《第一次評価、最低十回》


 数字の前後を読み直したが、意味は変わらなかった。


「久賀さん」


 呼ばれた久賀は、自分の端末から顔を上げた。職場にいる時の彼女は、いつもどおり感情の薄い表情をしている。


「はい」


「これは十回とも、自分が乗るんですか?」


「現行のリポルを基準性能で運用できる搭乗者は、橘さんだけです」


「最低と書いてあります」


「十回で必要な数値が揃わない場合、追加評価が行われます」


 久賀は答えたあと、何か不明な点があるのかという顔で蒼真を見た。


 蒼真は書類へ視線を戻した。


「二回か、多くても三回くらいだと思っていました」


「昨日の会議では、回数の上限を指定していません」


「必要な基準値が取れるまで、と言いました」


「そのため、必要な条件を開発部が算出しました」


 久賀が端末を操作すると、蒼真の画面へ評価項目の一覧が届いた。平地、森林、急斜面、岩場、不整地。小型多数、中型を含む混成群。長時間稼働、通信制限、武装変更、複合任務。


 一つの現場ですべてを測ることはできない。


 十回という数字が多いのではなく、測るものが十回分ある。


 説明されると間違っている箇所を見つけられなかった。


「一回の記録だけで性能を落とすと、別の地形で使えない可能性があります」


「はい」


「救助に必要な力を残すなら、回収試験も必要です」


「はい」


「安全制御の範囲を決めるには、姿勢を崩した時の記録も要ります」


「そのとおりです」


「では、十回は必要ですね」


「橘さん」


 向かいの席から森下が呼んだ。


 蒼真が顔を上げると、彼女は両手を机につき、信じられないものを見るようにこちらを見ていた。


「いま、何を確認していたんですか?」


「十回必要な理由です」


「最初は多いと思っていたんですよね?」


「思っていました。でも、項目を分けると必要です」


「納得しないでください」


「間違っていますか?」


 森下の口が僅かに開き、そのまま止まった。


 久賀が横から答える。


「評価項目の設定に、明確な誤りは確認できません」


「久賀さんも、そこで補強しないでください」


「事実を回答しました」


「そういうところです」


 森下は眉間を押さえながら椅子へ座った。


 少し離れた机で書類を整理していた佐伯が、堪えきれずに笑い声を漏らす。


「橘さん、戻ってきたと思ったら、今度は山へ通うんですか」


「通勤ではありません」


「最低十回なら、通うと言っていいでしょう」


「毎日行くとは書いてありません」


「そこじゃないんですよ」


 執務室の奥から出てきた藤堂は、蒼真の机に置かれた赤帯の書類を一瞥したあと、抱えていた工程表を机へ置いた。


「先に言っておきます」


「何ですか?」


「評価日程に合わせて、復興現場の工程を動かそうとしないでください」


「でも、自分の担当日に重なれば」


「こちらで調整します」


「現場の確認をせずに変更すると、作業班が困ります」


「だから、こちらで確認します」


 藤堂の声は穏やかだったが、蒼真が口を挟む隙を残していなかった。


「橘さんが作った工程管理は、橘さんがいなくても動くように作られています。そうですよね?」


「そうですが」


「では、使わせてください」


 自分がいなくても現場が動くことは、望んでいた結果である。事故の兆候や遅延の原因を一人だけが知っている状態では、その人間が休むたびに現場が止まる。


 蒼真は、その仕組みを作った。


 それによって、自分が十回いなくても現場を動かせると言われている。


「分かりました」


 返事をすると、藤堂は工程表を抱え直した。完全に納得したか確かめるように数秒待ってから、ようやく自分の席へ戻っていく。


 森下が、小さく息を吐いた。


「こっちは何とかします。だから、橘さんも十回とも帰ってきてください」


「試験なので、帰還までが評価に含まれています」


「書類の話ではありません」


 森下の表情が変わったため、蒼真は返事を止めた。


 怒っているのではない。困っているようにも見えたが、それだけではない。昨日、綾人が見せた顔と少し似ている。


「はい。帰ります」


 蒼真が言い直すと、森下はようやく頷いた。


 久賀は二人のやり取りを見てから、自分の端末へ視線を戻した。数秒後、蒼真の画面へ新しい予定が追加される。


 午後四時。


 第一回から第三回までの安全条件を確認する遠隔会議。


「今日ですか?」


「評価開始までの時間を短縮するためです」


「まだ家で十回の話をしていません」


「会議終了後に説明できます」


「先に話した方がいいと思います」


「では、昼休みに連絡してください」


 久賀は画面から顔を上げずに答えた。


 止める気はないらしい。


*


 昼休み、美咲へ連絡を入れると、蒼真が十回と言い終えるまで、画面の向こうは静かだった。


 通話が切れたのかと思い、端末を耳から離して確認する。接続表示は残っている。


「美咲?」


『聞いてるよ』


「何も言わなかったから」


『一回の限定評価じゃなかったの?』


「回数は決まっていなかった。必要な基準値を取るには、最低十回らしい」


『最低?』


「十回で足りなければ増える」


 再び沈黙が落ちた。


 今度は通話が続いていることを知っているため、蒼真は待った。食堂の窓際では、ほかの職員が午後の天気を見ながら作業予定を話している。遠くで食器を片づける音が重なり、美咲が息を吐く音だけが妙にはっきり聞こえた。


『帰ってから聞く』


「今日の午後、安全条件を決める会議がある」


『それも一緒に話して』


「分かった」


『決まっていないことは、決まっていないって言ってね』


「昨日も言われた」


『一日で忘れないように、今日も言ったの』


 美咲の声は穏やかだった。


 穏やかなまま切れたことが、蒼真には少し怖かった。


*


 午後四時、復興管理局の小会議室に、第三中隊と中央防衛局の映像がつながった。


 壁面画面の左側には八神隊長と三浦、右側には作戦本部の担当者と八神特別運用評価官が映っている。九条綾人は外部評価者として別の場所から参加し、画面の端に小さく表示されていた。


 蒼真の隣には久賀が座った。彼女は管理局側の日程と安全管理に関する記録を担当するだけで、作戦へ意見を出す立場ではない。


 会議が始まると、八神隊長は挨拶より先に一枚の書類を画面へ出した。


「十回の実施を承認する前に、条件を決める」


 表示された項目は、蒼真の手元にある実施案より多かった。


 連続する二日間には実施しない。


 出動前後に、身体検査と心理評価を行う。


 支援部隊と救難車両を待機させる。


 通信経路を二重化する。


 撤退経路を二本以上設定する。


 機体負荷、搭乗者負荷、通信途絶のいずれかが基準を超えた場合、評価を終了する。


「中止の判断は、誰がするんですか?」


 蒼真が尋ねると、八神隊長は腕を組んだまま答えた。


「現場指揮官、監視担当、医療担当だ。お前にも中止を申告する権限はあるが、お前だけには任せない」


「自分が継続できると判断しても?」


「ほかの三者のうち一人が中止を宣言すれば終わる」


「機体の記録が取れる直前でもですか?」


「終わる」


 八神隊長は一切迷わなかった。


 蒼真は資料へ目を落とした。途中で止めれば、同じ条件の評価をやり直す必要がある。それでも、止める権限を自分だけが持つより安全なのは分かった。


「分かりました」


 綾人が画面の向こうで僅かに身を動かした。


「もう一つ。十回は最低回数であって、十回の完遂が目的じゃない。必要な値が途中で揃えば、その項目は終わる。逆に、取れなかった数値があっても、危険が大きければ別の方法を探す」


「別の方法がなかった場合は?」


「その時に考える」


「先に決めておいた方が」


「決めない」


 綾人の声が、普段より強くなった。


 画面越しでも、彼が真っ直ぐ蒼真を見ていることが分かる。


「先に決めれば、君は必要だと言われた数値を取りに行く。機体が壊れかけても、自分が怖くても、後から乗る人間のためだと言って続ける。だから、その場で君以外の人間も含めて判断する」


「でも、判断基準は必要です」


「数値だけで決めないための人間だよ」


 綾人の言葉に、蒼真は答えられなかった。


 八神特別運用評価官が、二人のやり取りを記録したあと、平坦な声で補足する。


「九条氏の意見は妥当です。評価の目的は、機体の正式採用に必要な情報を得ることであり、搭乗者を失って情報を得ることではありません」


「はい」


「また、搭乗者の恐怖、拒否感、疲労によって継続が困難となった場合も、中止理由として記録します」


「機体が動く場合でも?」


「橘二尉は機体部品ではありません」


 声も表情も変わらなかったが、蒼真の隣で久賀が一度だけ八神の画面を見た。


「分かりました」


 蒼真が答えると、八神隊長は次の資料へ切り替えた。


「第一回から第三回までは、俺が現場指揮を執る。第三中隊を支援待機させる」


「中隊全機ですか?」


「初回はな。お前とリポルが何をするか、俺たちも知らない」


「実施案には単機評価と書いてあります」


「評価区域へ入るのが単機という意味だ。外で待つなとは書いていない」


 八神隊長の言い方に、作戦本部の担当者が口を挟もうとしたが、その前に三浦が発言を求めた。


「自分も評価区域へ入ります」


「三浦一尉が入ると、リポル単独の戦闘記録が取れません」


 蒼真が指摘すると、三浦は小さく頷いた。


「橘さんが通常どおり動いている間は、手を出しません」


「なら、外で待機しても同じでは?」


「違います」


「何がですか?」


 三浦は少しだけ考え、普段と変わらない穏やかな声で答えた。


「俺がついていますから」


 理由になっているようで、なっていない。


 蒼真が次の言葉を探していると、三浦は先に続けた。


「橘さんが危険になった場合は、評価を中止して自分が討伐します」


「それでは、評価ではなく討伐になります」


「危険になった時だけです」


「途中から目的が変わっています」


「帰還するという目的は変わりません」


 三浦は真面目な顔をしていた。


 画面の端で、綾人が額へ手を当てる。


「蒼真君」


「はい」


「それを、ついていくと言うんだよ」


「言葉の意味は分かっています」


「なら、受け入れてくれ」


 八神隊長は口元へ拳を当て、咳払いを一つした。笑ったようにも見えたが、すぐに表情を戻す。


「三浦は第一回のみ区域内へ入れる。戦闘への介入は、現場指揮官が中止を宣言したあとだ。それでいいな」


「自分は構いません」


 三浦が答え、蒼真も頷いた。


 八神特別運用評価官は、その条件まで議事録へ加えた。


 止められたわけではない。


 試験回数も減っていない。


 それでも、昨日までとは違っていた。


 綾人も八神隊長も三浦も、蒼真が乗ることへ反対するのではなく、乗った蒼真をどう帰すかについて話している。


 その変化に気づくと、蒼真は胸の奥へ小さな重さを感じた。


 自分が参加すると答えたために、三人にも新しい役割が増えている。


「すみません」


 蒼真が言うと、八神隊長の眉が動いた。


「何について謝っている」


「自分の試験なのに、皆さんの仕事が増えました」


「お前一人の試験にする気がないから増やした」


 短く返され、蒼真は顔を上げた。


「一人で基準値を出そうとするな。機体の評価は開発部がする。お前の状態は医療班が見る。敵は三浦が止める。帰る判断は俺がする」


「では、自分は?」


「乗って、怖い時は怖いと言え」


 それが一番難しい指示のように思えたが、蒼真は口にしなかった。


「分かりました」


*


 その夜、食卓には評価実施案の写しが置かれていた。


 機密事項を除いた家族説明用の資料で、敵性個体の推定数や営巣地の正確な位置は伏せられている。それでも、表紙にある《最低十回》の文字は消されていなかった。


 美咲は資料を一頁ずつ読み、結衣は隣から覗き込んでいる。昴だけは内容に興味を持たず、蒼真の膝へ片足を乗せ、積み木の車を走らせていた。


「十回で終わるとは限らないんだ」


 結衣が最初に言った。


「必要な記録が取れなければ増える」


「最低って、増える方にしか使わない言葉だよね」


「減る可能性もある。途中で必要な値が揃えば、その項目は終わると綾人さんが言っていた」


「全部の項目が早く終わる可能性は?」


「低いと思う」


「じゃあ、やっぱり増える方じゃん」


 結衣は資料から顔を上げ、呆れたように父親を見た。


 蒼真は反論できず、昴の車が太腿から落ちないよう片手で受け止めた。


 美咲はまだ笑っていなかった。


 最後の頁まで読み終えると、資料を揃えて机へ置き、蒼真へ視線を向ける。


「蒼真は、十回必要だと思ってるの?」


「最初は多いと思った。でも、条件を分けて確認しないと、どの性能を残すべきか決められない」


「蒼真が戦えるかを確認する試験じゃないの?」


「違う。ほかの人が乗れるように、どこまで性能を調整しても役割を失わないか確認する」


「その、ほかの人って誰?」


「まだ決まっていない」


「顔も名前も分からない人のために、十回戦うの?」


 美咲の声は静かだった。


 責められているようには聞こえない。それでも、蒼真は膝の上で車を動かす昴の手を見ながら、すぐに答えられなかった。


「顔や名前が分からなくても、後から乗る人がいるなら、帰れるようにしておかないといけない」


「自分が怖くても?」


「怖いよ」


 蒼真が答えると、結衣の表情から呆れた色が消えた。


「巣へ行くのも嫌だし、助ける人がいない場所で、こちらから倒しに行くことにも抵抗がある。でも、一回の記録だけで調整した機体へ誰かを乗せて、その人が帰れなくなる方が嫌だ」


 美咲は蒼真の顔を見たまま、指先で資料の角を押さえた。


「その人たちを帰すために、蒼真が帰れなくなったら?」


 美咲より先に、結衣が尋ねた。


 蒼真は娘へ目を向けた。


 結衣は笑っていない。怒っているようにも見えなかった。ただ、曖昧な答えを許さない目で、父親を見ている。


「そうならないように、今日、条件を決めた」


「条件があれば絶対に帰れるの?」


「絶対とは言えない」


「なら、お父さんが十回やる理由だけじゃなくて、お父さんを十回帰す理由も必要じゃない?」


 その言葉に、蒼真は返事を止めた。


 後から乗る人を帰すための試験。


 それだけを考えていた。


 自分が帰ることは評価条件に含まれている。八神隊長も、帰還までが試験だと考えている。それでも、結衣が言ったのは条件ではなく、理由だった。


「家族だから」


 美咲が言った。


 蒼真が顔を上げると、美咲はようやく少しだけ笑っていた。ただし、その笑顔はいつもの柔らかいものより薄く、目元にはまだ不安が残っている。


「知らない誰かを帰したいって思う蒼真を、やめさせたいわけじゃない。でも、蒼真が帰ってくることを待ってる人もいる。それを、試験の邪魔みたいに扱わないで」


「扱っていないよ」


「だったら、自分が帰る理由にも入れて」


「分かった」


「本当に?」


「日記にも書く」


 美咲の笑顔が僅かに深くなった。


「日記に書かないと覚えられないの?」


「書いた方が忘れない」


「お母さん、お父さんの取扱説明書を日記に書かせてるみたい」


 結衣が小さく笑うと、美咲も堪えきれずに頬を緩めた。


 それまで話を聞いていなかった昴が、二人の笑い声に顔を上げる。


「ぱぱ、じゅっかい?」


「十回だよ」


「りぽる、いっぱい?」


「いっぱい乗るかもしれない」


 昴は自分の両手を見た。指を開き、一つずつ数えようとしたが、途中で分からなくなったらしい。両手を開いたまま、蒼真の胸へ押しつける。


「ぱぱ、じゅっかい、かえる?」


 食卓から笑いが消えた。


 蒼真は胸に当てられた小さな手を両手で包んだ。


「全部帰るよ」


「りぽるも?」


「リポルも帰す」


「みうらも?」


「三浦一尉も帰る」


「みんな?」


「みんな帰る」


 昴はようやく納得し、積み木の車を蒼真の膝へ戻した。


 結衣が隣で息を吐く。


「二歳に言われたら、もう破れないね」


「結衣にも言われてるよ」


「私は確認しただけ」


「昴も確認しただけだと思う」


「じゃあ、家族全員から確認されたってことで」


 美咲が資料を蒼真の方へ戻した。


 表紙の《最低十回》という文字は変わらない。


 ただ、その下へ見えない条件が一つ増えた。


 十回とも帰る。


 それは機体の正式採用に必要な数値ではなく、橘家が試験を認めるための最低条件だった。


*


 二日後、中央防衛局から第一回評価地点の詳細が届き、蒼真が端末で資料を開くと、市街地から北西へ八十二キロ離れた山間部の地図が表示された。


 評価地点に指定されたのは、十年以上前に採掘を終えた旧採石場のさらに奥にある谷だった。かつては採掘した石材を運び出すために大型車両が行き来していたらしいが、使われなくなった道路は崩れた土砂や伸びた草木に覆われ、上空から撮影された映像でも、山林の中に細い線が途切れながら残っているようにしか見えない。


 周辺にあった集落は三年前に移転を終えており、現在使われている道路や復興施設も存在しなかった。人の生活圏から切り離された谷の斜面には、採掘によって生じたものとは形の異なる空洞がいくつも開いており、その周辺から、小型二十七体と中型四体の熱源反応が検出されている。


 ただし、確認できたのは地表付近にいる個体だけであり、複数の空洞は地下でつながっている可能性が高く、その奥まで観測機器の探査は届いていない。資料にも、確認された三十一体を営巣地全体の個体数として扱わず、未確認の個体が存在することを前提に行動するよう記されていた。


 蒼真は地図を拡大し、旧集落から採石場を抜けて谷へ至る道を目で追った。画面に赤く表示された熱源反応さえ消してしまえば、そこには木々に覆われた静かな山しか残らない。敵性個体がすでに建物を壊した形跡もなければ、道路や復興工事を妨げている様子もなく、現在進行している被害は一件も報告されていなかった。


 今回の任務には、救助を待つ住民も、動けなくなった作業員も、回収しなければならない損傷機も存在しない。それでも営巣地を放置すれば、繁殖した個体がやがて山を下り、復興区域や輸送路へ現れる可能性がある。第一回評価では、その可能性を被害へ変わる前に取り除くため、リポルで営巣地へ進入し、敵性個体を駆除しながら、不整地における機動性能、連続稼働時間、姿勢制御の安定性、搭乗者へかかる負荷を測定することになっていた。


 資料を最後まで読んだあとも、蒼真は画面に映る谷をしばらく閉じられなかった。


 これまでリポルで戦った時には、敵性個体の向こう側に、必ず帰さなければならない誰かがいた。避難が遅れた住民や、動けなくなった機体、壊れた輸送車両、帰路を塞がれた作業員がいたからこそ、怖くても敵との間へ入ることができた。


 しかし今回、自分たちが向かう谷には、今すぐ助けなければならない人間がいない。生活圏へ現れた敵性個体を迎え撃つのではなく、将来、誰かを襲うかもしれない個体を減らすために、人間の側から巣へ踏み込み、まだ被害を出していない敵を駆除することになる。


 その違いを意識すると、三浦から以前言われた言葉が、画面に映る静かな谷へ重なった。


 目の前の人を救うことは大切だが、敵性個体に襲われる前に討伐することは、それより多くの人を助けることにつながる。


 営巣地から出てくる個体が減れば、避難を強いられる人も、家を壊される人も、家族を失う人も減る。復興工事が中断されず、物資を運ぶ道路が安全に使えるようになれば、直接救助した人数として記録されなくても、守られる生活は確実に増えるはずだった。


 三浦の考えが間違っているとは思わないし、今回の評価に意味があることも理解できる。それでも、意味があると理解することと、自分から敵の巣へ行きたいと思うことは別だった。


 画面の中にある谷は静かなままであり、その静けさをこちらから破りに行くのだと考えると、操縦席へ座った時に感じるものと同じ重さが胸の奥へ残った。


 蒼真は一度画面から目を離し、机の上に置いていた水を飲んでから、資料の末尾にある参加確認欄を開いた。


 そこにはすでに八神隊長と三浦の名前が並び、二人とも参加承認を終えていた。評価区域へ入るのはリポルと三浦機だが、八神隊長も区域外から部隊を指揮し、必要になれば即座に試験を中止できる位置にいる。


 二人が自分の試験へ付き合うのではなく、自分を帰すために参加するのだと、昨日の会議で説明されていた。


 蒼真は並んだ名前を見つめながら、自分が参加を取りやめれば、この二人が危険な山へ向かう必要もなくなるのだと考えた。搭乗資格を返上し、復興管理局の仕事だけを続ける道は、今も残されている。


 しかし、自分がここで降りれば、リポルの本来性能を測定する者がいなくなり、一般搭乗者でも扱える機体を作るための基準値も得られない。後から乗る人間は、不完全な記録をもとに調整された機体を渡されるか、リポルそのものが採用されないまま、必要な場所へ届かなくなる。


 どちらが正しいのかを考えても、戦いたくないという気持ちは消えなかったが、怖いから自分だけが降り、その結果をまだ顔も名前も知らない後進へ渡すことも選べなかった。


 蒼真は参加確認欄の空白へ自分の名前を入力した。


 送信を押す前に、もう一度だけ地図へ視線を戻すと、木々に覆われた谷の奥で赤い印がゆっくりと明滅している。そこにいる敵を倒したいわけではなく、戦えることを証明したいわけでもない。それでも、後からリポルへ乗る人間が任務を終えて帰れるようにするためには、誰かが最初の記録を持ち帰らなければならなかった。


 蒼真が送信へ触れると、八神隊長と三浦の下へ橘蒼真の名が加わり、三人の参加承認が完了したことを示す表示へ切り替わった。


 第一回評価が始まるまで、あと四日。最低十回と定められた評価は、まだ一度も始まっていない。それにもかかわらず、蒼真には、これまでより遠い場所から家へ帰ろうとしているように感じられた。


*


 夜。


 日記。


---


 八月六日。


 リポルの正式採用に必要な評価は、最低十回行われる。


 最初は多いと思ったが、評価する条件を確認すると、必要な回数だと思う。


 一回の記録だけで性能を調整した場合、別の地形や任務で使えない可能性がある。


 自分以外の搭乗者が乗る機体なので、その人が帰れるように確認する必要がある。


 八神隊長、三浦一尉、綾人さんが、試験の安全条件を決めた。


 自分以外にも試験を中止する権限がある。


 自分が続けられると思っても、現場指揮官、監視担当、医療担当の誰かが中止を宣言すれば終了する。


 三浦一尉も、第一回評価区域へ同行する。


 自分が危険になった場合は、評価を中止して討伐すると話していた。


 それでは試験の条件が変わると指摘したが、帰還する目的は変わらないと言われた。


 間違ってはいないと思う。


 家で、最低十回のことを説明した。


 結衣から、後から乗る人を帰すために自分が帰れなくなったらどうするのかと聞かれた。


 美咲から、自分が帰る理由にも家族を入れるように言われた。


 昴から、十回帰るのかと聞かれた。


 全部帰ると答えた。


 リポルも、三浦一尉も、全員帰ると答えた。


 これは機体の評価条件には書かれていない。


 ただし、家族との約束なので、ほかの条件より優先する。


 第一回評価地点が決まった。


 救助対象はいない。


 現在、敵性個体による被害も発生していない。


 将来の被害を防ぐため、こちらから営巣地へ向かう。


 必要性は理解できる。


 それでも、行きたいとは思わない。


 怖い。


 怖いことも報告するように言われているので、当日も伝える。


 四日後、第一回評価へ参加する。


 帰る。


 以上。


---


*


 同時刻。


 中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、第一次実機評価の安全条件と、橘蒼真の発言記録が照合されていた。


 評価回数、最低十回。


 対象は当初、二回から三回程度を想定していた。


 条件別の必要性を説明された後、回数削減ではなく、評価精度を優先した。


 対象は、自身の負担を増やす目的で参加していない。


 将来の搭乗者が安全に帰還できる機体を作るため、必要な記録を残すことを目的としている。


 自己犠牲との認識は確認されない。


 英雄願望も確認されない。


 一方、周囲の人間は、対象が合理性を優先して自身の限界を過小評価する可能性を認識した。


 九条綾人、八神隊長、三浦直人は、搭乗阻止から帰還支援へ行動方針を変更している。


 本人以外による中止権限。


 支援部隊。


 救難車両。


 同行戦闘要員。


 家族による帰還要求。


 複数の帰還条件が追加された。


 第一回評価地点に、現在の救助対象は存在しない。


 対象が、将来の被害可能性のみを理由として敵性個体を駆除できるかは未確認である。


 第一次実機評価。


 開始まで四日。


 観察を継続する。


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