第七十七話 家庭内指揮権
中央防衛局を出た時には、空が薄暗くなっていた。
西の雲だけが夕日の色を残し、庁舎前の駐車場へ長い影を落としている。出入口には報道関係者が集まっていたが、正面玄関ではなく職員用の通路を使ったため、蒼真と綾人が呼び止められることはなかった。
それでも、駐車場の上には報道用ドローンが二機残っている。
朝から街の上を飛んでいたものとは別の機体だった。庁舎へ戻ってくる作戦参加者を撮影するため、一定の高度から出入口を見下ろしている。
蒼真は一度だけ空を見上げ、すぐに綾人の車へ向かった。
「顔を隠さなくていいのか?」
運転席の扉を開けながら、綾人が尋ねた。
「搭乗者名は公表されていません」
「調べている人間はいるそうだぞ」
「ここには職員がたくさんいます」
「その中で、今日の作戦に出たような格好をしている人間が何人いる」
蒼真は自分の服を見た。
貸与された作業着の上に、防衛局の上着を羽織っている。胸元には医療拠点で貼られた検査済みの印が残り、首の近くには拘束具で擦れた赤い跡が僅かに見えていた。
「上まで閉めれば大丈夫ですか?」
「顔の話をしている」
綾人は疲れたように息を吐き、車へ乗り込んだ。
助手席へ座った蒼真が安全帯を締めると、胸の痣が圧迫されて痛んだ。少し位置をずらしている間に、車は駐車場を出る。庁舎前の人垣とドローンが後方へ遠ざかり、窓の外には帰宅時間の車列が続いていた。
しばらく、二人とも話さなかった。
車内には道路情報を読み上げる案内音声と、低く流れる空調の音だけがある。綾人は正面を見たまま運転し、蒼真は美咲へ送った帰宅予定時刻が既読になったことを確認した。
「蒼真君」
信号で車が止まったところで、綾人が口を開いた。
「今日、家で話すのは現場のことだけにする」
「会議の話は?」
「まだ何も決まっていない」
「概念設計と、AIの記録解析は始めると言っていました」
「始めるのは検討だ。兵装を作ると決まったわけでも、お前が試験へ参加すると決まったわけでもない」
信号が青へ変わり、綾人は前を向いた。
「未決定の話まで全部伝えれば、美咲を不安にさせるだけだ。正式に決まった時、お前から説明すればいい」
「でも、美咲には、決まったことをすぐに話すように言われています」
「だから、決まっていないことは話さなくていい」
「武器を作る可能性はあります」
「可能性を全部話すつもりか? 大型個体がまた現れる可能性。リポルを前線へ出す可能性。お前が新しい武器を試す可能性。そんなものは、明日なくなるかもしれない」
綾人の言うことにも、理由はあった。
蒼真は決まっていない予定を先に伝え、美咲を何度も心配させたくはない。説明したあとで中止になれば、結果として何も起きなかった不安だけが残る。
しかし、話さないことが正しいとも思えなかった。
「嘘をつくのは、よくないと思います」
「嘘は言っていない」
綾人がすぐに返す。
「事実を伝えないだけだ」
蒼真は横顔を見た。
「それは、美咲に怒られる言い方だと思います」
「その言い方を伝えるな」
「でも、今、言いました」
「お前は現場の説明だけをしろ。会議の話は、俺からも必要がないと判断したと言う」
「綾人さんが怒られませんか?」
「なぜ俺が怒られるんだ。現場指揮権もなければ、部隊運用を決める権限もない。ただ意見を求められたオブザーバーだぞ」
「美咲は、綾人さんに第三者として説明してほしいだけだと思います」
「分かっている」
綾人は少し強く答えた。
分かっていた。
美咲が自分を責任者として呼んだのではないことも、蒼真だけに説明させると、何が普通ではなかったのか分からないまま終わることも。
今日の現場を外から見ていた者として、足りない部分を補う。それが綾人の役目だった。
ただし、専用兵装とAI運用の標準化については、まだ説明する必要がない。
そう自分へ言い聞かせるように、綾人は正面を見た。
「とにかく、余計なことは言うな」
「聞かれたことには答えます」
「それが一番怖いんだ」
車は住宅街へ入った。
街灯が一つずつ灯り、家々の窓から夕食の明かりが漏れている。大型個体が倒れた街から、それほど遠く離れているわけではない。それでも、ここでは犬を連れた人が歩き、自転車に乗った学生が交差点を渡り、どこかの家から焼いた魚の匂いが流れてきた。
蒼真が守りたかったものは、特別なものではない。
毎日、同じ時刻に灯る明かりだった。
綾人の車が橘家の前へ止まる。
玄関の窓には、既に明かりがついていた。
「行きましょう」
蒼真が安全帯を外すと、綾人はハンドルへ手を置いたまま動かなかった。
「大型個体へ行く時より、迷っていますね」
「俺は大型個体へ行っていない」
「そうでした」
「その事実を忘れるなよ」
「覚えています」
綾人は深く息を吸い、ようやく車を降りた。
*
玄関の扉を開けると、昴が走ってきた。
「ぱぱ!」
いつものように脚へ抱きつこうとして、途中で止まる。蒼真の胸元に残った検査済みの印と、首の赤い跡を見つけたらしい。
昴は少し離れた場所から顔を見上げた。
「いたい?」
「少しだけ」
「だっこ、だめ?」
「今日は、ちょっと痛いかな」
昴は伸ばしかけた両手を下ろした。
その顔が曇ったため、蒼真は右手で頭を撫でた。
「でも、帰ってきたよ」
「うん」
昴は蒼真の脚へ触れないように注意しながら、その横にいる綾人を見た。
「おじちゃんも、かえった?」
「俺は、どこにも行ってないんだけどな」
綾人が答えると、昴は意味が分からないまま頷いた。
居間から美咲が来る。
薄い色のエプロンをつけ、片手には布巾を持っていた。蒼真の姿を見ると、最初に首元と胸を確かめ、それから顔へ視線を戻す。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「お邪魔します」
綾人が頭を下げる。
美咲は、いつもと変わらない笑顔で二人を迎えた。
「先に座って」
綾人の背筋が伸びた。
蒼真は靴を脱ぎながら尋ねる。
「着替えてからでもいい?」
「そのままでいいよ」
「食事は?」
「話が終わってから」
「分かりました」
居間へ入ると、テレビは消されていた。ただ、停止した画面の端にニュース番組の表示が残っている。美咲たちが、さきほどまで映像を見ていたことが分かった。
食卓には夕食が並んでいるが、誰も箸をつけていない。
結衣は制服から部屋着へ着替え、ソファの端へ座っていた。父親と綾人が入ってくると、手にしていた端末を伏せる。
「おかえり」
「ただいま」
「怪我したの?」
「打撲だけだよ」
「ニュースでは、左肩が壊れてた」
「あれはリポルの肩だから」
「中に乗ってたの、お父さんでしょ」
「そうだけど」
結衣の眉が寄る。
余計な答えだったらしい。
美咲が食卓の横へ座布団を二枚並べた。蒼真は胸の痛みを避けるため、ゆっくり腰を下ろす。綾人も隣へ座ったが、なぜか最初から正座だった。
「綾人さん。足を崩していいと思います」
「今は、この方がいい」
美咲が二人の向かいへ座る。
「じゃあ、聞かせて」
「何から?」
「今日、何があったのか。最初から」
蒼真は、朝の配置から説明を始めた。
三つの中隊が市街地へ入り、統合戦術情報を使って大型個体へ近づいたこと。第一中隊が正面を進み、第三中隊と西部方面隊が左右を押さえたこと。最初は訓練どおりに動けていたこと。
大型個体が群れを三方向へ動かし、人間側の対応によって中央の道を空けたところまで話すと、美咲の笑顔が少しずつ消えていった。
「後ろには、誰がいたの?」
「医療班と支援要員。五十一人」
「武器は?」
「ほとんど持ってない」
「そこへ、十二体が向かったの?」
「うん」
美咲は膝の上で手を組んだ。
責める言葉は出なかった。それでも、指先へ力が入っている。
「他の機体は?」
「それぞれ別の敵へ対応していて、間に合わなかった」
「蒼真は?」
「道路を使えば間に合わなかった」
「でも、行ったんだよね」
「報道用ドローンの映像から、AIに別の経路を作ってもらった」
「別の経路って?」
蒼真は立体駐車場から倒壊した建物を越えたことを説明した。映像に映っていた範囲をつなぎ、通常は道として扱われない場所を通った。
結衣がソファから身を乗り出す。
「ニュースで映ってた、建物から飛んだやつ?」
「多分、それ」
「多分じゃないよ。紫だった」
「リポルは紫だから」
「そういう意味じゃない」
結衣は父親を睨んだあと、綾人へ顔を向けた。
「あれ、普通なの?」
「普通ではない」
綾人は即答した。
第三者として呼ばれた役目を、ようやく果たせる質問だった。
「リポルの出力がなければ届かないし、同じ機体でも、あの速度で瓦礫を通過できる搭乗者はほとんどいない。AIも安全な経路とは評価していなかった」
「蒼真」
美咲の視線が戻る。
「AIに止められた?」
「推奨されないとは言われた」
「それでも行ったの?」
「他の道では、十二体の方が先に着いたから」
蒼真は、そこで一度言葉を止めた。
正しい判断だったと説明することはできる。結果として五十一人は無事で、大型個体も止めた。
しかし、正しかったから怖くなかったわけではない。
「怖かったよ」
美咲の指から、少し力が抜けた。
「建物が崩れるかもしれなかったし、間に合っても十二体を止められるか分からなかった。行かない方がいいとは思った」
「それでも、行ったんだね」
「うん」
「どうして?」
「誰も行けなかったから」
美咲は、しばらく蒼真を見ていた。
その答えを聞くために、最初から話させたのかもしれない。
「十二体は、どうなったの?」
「全部止めた」
「一人で?」
「リポルとAIがいたよ」
美咲は綾人を見る。
「一人で?」
「搭乗者は蒼真君一人だ」
「どのくらいの時間?」
「正確には、交戦開始から全停止まで一分を切っている」
結衣の目が大きくなる。
「それ、ニュースで言ってなかった」
「報道用ドローンは、途中で蒼真君を見失っている。映像も全部は残っていない」
蒼真だけなら、「全部止めた」で終わっていた。
美咲が綾人を呼んだ理由が、すぐに形になって現れた。
「それから、大型へ行ったの?」
「大型が残っていたら、また別の群れを送られる可能性があったから」
「医療班のところで待つことはできなかった?」
「できた。でも、送り続けられたら、いつか抜ける」
「第一中隊は?」
「三浦一尉が、一人で大型の正面にいた」
美咲の顔から、完全に笑みが消えた。
「蒼真が行けば、倒せると分かってたの?」
「分からなかった」
「武器は持ってたんでしょ?」
「初めて使う武器だった」
「初めて?」
声は静かだった。
蒼真は膝の上で指を組み直した。
「大型個体へ使うための穿杭槍。三浦一尉が止められなかった場合の予備で、最初からリポルにつけられていた」
「使い方は知ってた?」
「説明は受けた」
「全部?」
「資料の第三十七項に、機体を固定すると書いてあったらしい」
「らしい?」
「使う時にAIから、もう一度説明された」
美咲の目が細くなる。
「つまり、撃つまで動けなくなることを、その時に知ったの?」
「はい」
蒼真の隣で、綾人が僅かに身を引いた。
自分が説明しているわけではないのに、空気が冷える。
「それでも使った?」
「もう大型個体へ刺していたから」
「固定されたあと、大型が倒れてきたよね」
「映ってた?」
「何度も」
美咲は伏せてあった端末へ触れた。画面には、ニュース映像の停止位置が残っている。大型個体がリポルへ傾き、三浦機が右腕を掴もうとしている場面だった。
「あの時、何を考えてたの?」
蒼真は映像を見た。
大型個体の影が操縦席を覆い、固定爪が抜けなかった。AIは正常な手順を説明し、目の前では黒い身体が落ちてくる。
「帰れないと思った」
結衣が息を止めた。
昴は話の意味を理解していない。それでも部屋の空気が変わったことに気づき、美咲の隣へ静かに座っている。
「玄関のことを思い出した」
「玄関?」
「昴の靴が、いつも左右逆に脱いであること。結衣の靴と、美咲が揃えた自分の靴」
美咲の唇が僅かに震えた。
「そこへ帰るために乗ったのに、武器を使うために帰れなくなるのは、おかしいと思った」
「それで?」
「固定具を壊して外した。三浦一尉が引いてくれたから、倒れる下から出られた」
部屋が静かになった。
外を通る車の音と、台所で冷蔵庫が動く音だけが聞こえる。食卓の料理からは、もう湯気が上がっていなかった。
美咲は膝の上へ置いた手をほどき、蒼真の首元へ視線を向けた。
「帰ってきてくれて、よかった」
「うん」
「でも、ニュースを先に見るのは嫌」
「ごめん」
「蒼真から帰投したって連絡が来たあとだったから、生きてるとは分かってた。それでも、映像で大型が倒れてきた時、連絡のあとに何かあったのかと思った」
「映像に遅延があることを、伝えてなかった」
「うん」
「次から伝える」
「次がある前提なの?」
美咲の笑顔が、僅かに戻る。
蒼真は答えに詰まった。
「そういう意味ではなくて」
「分かってる」
美咲は困ったように笑った。
「危ないことをしないでって言っても、必要なら行くんでしょ?」
「多分」
「そこは正直なんだね」
「約束できないことは、言えないから」
美咲はすぐに返事をしなかった。
蒼真がもう二度と前線へ出ないと約束すれば、安心できる。しかし、誰かが取り残されても行かないという約束を、蒼真が守れるとは思っていない。
だから、別の約束を選ぶ。
「行ったら、帰ってきて」
「うん」
「帰ってきたら、何があったか話して。聞かれなかったから言わなかった、は駄目」
「分かりました」
「綾人も、足りないところを説明してくれてありがとう」
急に名前を呼ばれ、綾人の肩が揺れた。
「いや。それが、呼ばれた理由だから」
「蒼真だけだったら、十二体を一人で止めたことも、建物から飛んだことも、必要だったからで終わってたと思う」
「俺もそう思う」
「綾人がいてくれて、よかった」
ようやく役目を果たせた。
綾人の肩から力が抜ける。
その安堵を待っていたように、結衣が口を開いた。
「でも、綾人おじさんは、お父さんが大型を倒しに行くのを止めなかったんだよね?」
「待ってくれ」
綾人は結衣へ身体を向けた。
「俺は現場にいない。作戦本部から記録を見ていただけだ」
「行った方がいいって思った?」
「今回については、必要だったと評価した」
「じゃあ、次も必要って言われるじゃん」
「次があるとは決まっていない」
「ないとも決まってないよね?」
結衣の言葉に、綾人が止まる。
「お父さんが、自分から危ないところへ行くのも知ってたんでしょ?」
「知ってはいる」
「なのに、止めなかったの?」
「だから、俺には止める権限がないんだ。現場指揮権もなければ、部隊を動かす権限もない。外部から意見を求められただけのオブザーバーだぞ」
そこまで言って、綾人は美咲を見た。
「待ってくれ。そもそも俺には、蒼真君を前線へ出す権限も止める権限もない。なぜ俺まで正座しているんだ?」
「蒼真の隣が空いてたから」
美咲は普通に答えた。
「それだけ?」
「綾人からも話を聞きたかったし」
「責任者として呼んだわけではない?」
「違うよ」
「では、結衣ちゃんに責められているのは?」
「それは結衣に聞いて」
綾人は結衣へ顔を戻した。
「どうして俺なんだ?」
「お父さんと一緒に来たから」
「それだけか?」
「あと、必要だったって言ったから」
「意見を求められたんだ!」
「でも言ったんでしょ?」
「言ったが……」
理屈が通じないのではない。
結衣の理屈が、綾人とは別の場所にある。
大切な父親が危険な場所へ行った。その行動を必要だったと認めた大人が目の前にいる。現場の権限があるかどうかは、中学生の怒りには関係がなかった。
「結衣。綾人さんは悪くないよ」
蒼真が助けに入る。
綾人は僅かに顔を上げた。
「前線へ出すことには反対してくれてる。今回の行動については必要だったと評価しただけで――」
「なぜ後半まで言う!」
「正確に説明した方がいいと思って」
「誰のために俺が来たと思ってるんだ!」
声が大きくなり、昴が綾人を見た。
眉間へ小さな皺を寄せ、立ち上がる。二人の前まで来ると、綾人へ人差し指を向けた。
「おじちゃん、め!」
綾人が固まった。
「俺なのか?」
「ぱぱ、あぶない、した!」
「それをしたのは、パパだ」
「おじちゃんも、め!」
「なぜだ……」
元エースと呼ばれ、大型個体の戦闘記録を冷静に分析し、軍の会議で上層部へ意見を述べた男が、二歳児の一言で肩を落とした。
美咲の前では保っていた正座も崩れ、両手を床へつく。
「昴。綾人さんは何もしてないよ」
蒼真がもう一度説明する。
昴は綾人から父親へ顔を向けた。
数秒考えたあと、今度は蒼真へ指を向ける。
「ぱぱも、め!」
「自分も?」
「ぱぱ、あぶない、め!」
「でも、帰ってきたよ」
「め!」
「医療班の人を――」
「めぇ!」
昴の声が強くなる。
AIなら、目的と条件を整理して伝えれば、処理範囲を変更できる。上層部にも記録と数字を示せば、少なくとも話は通じる。
しかし、二歳児の「め」には、反論を入力する場所がなかった。
蒼真も綾人の隣で肩を落とした。
「分かっただろ」
綾人が床を見たまま呟く。
「何がですか?」
「言い訳の通じない相手の怖さだ」
「綾人さんも言い訳していました」
「お前を庇おうとしたんだ!」
「失敗しましたね」
「誰のせいだ!」
言い合う二人を見て、美咲が最初に吹き出した。
口元を手で押さえたが、笑いを止められない。結衣もソファの背へ顔を伏せ、肩を震わせ始める。
「二人とも、大型モンスターを倒したのに、昴に負けてる」
「倒したのは蒼真君だ。俺は何もしていない」
「それ、今度は自分から言うんですね」
「事実だからな!」
昴は二人に勝ったと思ったらしい。満足そうに美咲のところへ戻る。
「まま。ぱぱ、め、した!」
「うん。ちゃんとできたね」
美咲が頭を撫でると、昴は胸を張った。
家族会議は、そこで一度終わった。
何も解決したわけではない。
蒼真が必要なら再び前線へ行く可能性は残っている。大型個体が別の街にいないとも限らない。美咲が不安を感じなくなったわけでも、結衣が納得したわけでもない。
それでも、蒼真が怖かったことを話し、帰ってきて何を見たのかを伝えた。
美咲が欲しかったのは、危険な仕事へ出る許可を求められることではない。止められないから何も聞かされないのではなく、同じ家で起きていることとして知ることだった。
「ご飯、温め直すね」
美咲が立ち上がる。
綾人は正座を崩し、痺れた足をゆっくり伸ばした。
「終わったのか?」
「現場の話はね」
「ほかに何かあるのか?」
美咲が振り返る。
綾人は一瞬だけ蒼真を見た。
「いや。今日は、これで全部だ」
「蒼真は?」
「自分も、今日の現場については全部話した」
嘘は言っていない。
会議の話は、まだ決まっていないことが多い。綾人と車内で確認したとおり、正式な話になってから伝えればいい。
美咲は二人の顔を交互に見たが、それ以上は尋ねなかった。
綾人の胸へ、安堵が広がった。
判断は正しかった。
未決定の情報で不安にさせる必要はない。専用兵装も、AI運用の標準化も、蒼真が実地評価へ参加すると決まったわけではない。
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
綾人の安堵が、理由もなく消えた。
「誰だろう?」
美咲が廊下へ出る。
昴も後ろを追いかけ、結衣は食卓の皿を台所へ運び始めた。蒼真が立ち上がろうとすると、胸が痛む。
「座ってろ」
綾人に止められ、そのまま床へ残る。
玄関から、美咲の声が聞こえた。
「久賀さん?」
綾人は蒼真を見た。
「誰だ」
「管理局の人です」
「なぜ、今来る?」
「分かりません」
廊下を歩く足音が近づく。
美咲に続いて居間へ入ってきた久賀は、仕事中と同じ落ち着いた服装をしていた。片手に端末を持ち、もう片方には小さな紙袋を提げている。
居間へ入ると、床へ座った蒼真と綾人を順番に見た。
「お邪魔します」
「久賀さん。どうしたんですか?」
「本日の会議内容について、橘二尉の説明を補足する必要があると判断しました」
綾人の顔から表情が消えた。
蒼真は普通に頷いた。
「現場のことは、今、説明しました」
「会議内容は?」
「まだ決まっていないことが多いので、正式に決まってから話す予定です」
「一部は、本日の決定事項です」
綾人が目を閉じた。
会議録が、なぜ管理局へ届いている。
その疑問を口にする前に、美咲が座布団を一枚用意した。
「久賀さん。座ってください」
「はい」
久賀は美咲の向かいへ座り、端末を膝の上に置いた。綾人のように覚悟を決める時間もなく、自然な動作で正座する。
「どうして、管理局に会議の内容が?」
綾人が尋ねた。
「橘二尉は管理局から出向している支援員です。リポルの損耗、職務範囲、AI運用方法、今後の配置検討は、管理局の業務にも関係します。そのため、関係部署へ会議録が共有されました」
「軍の中だけではないのか」
「会議資料の末尾、第八項に共有範囲が記載されています」
「誰が、そこまで読むんだ」
「私は読みました」
「そうだろうな」
綾人は、力なく答えた。
久賀が端末を開く。
「本日、対大型兵装の改善に関する概念設計の開始、リポルのAI制御記録の解析、橘二尉が行った情報処理の手順化が決定されています」
美咲が、ゆっくり蒼真へ顔を向けた。
「決まってたの?」
「実地評価への参加は決まってないよ」
「今、聞いた三つは?」
「会議の最後に、決定事項として読まれてた」
「蒼真君!」
綾人が声を上げる。
「でも、綾人さんも全部が決定事項だとは思っていなかったと言っていました」
「それも言うな!」
「綾人?」
美咲が笑顔で名前を呼ぶ。
「はい」
元エースの背筋が伸びた。
「決まってないから、話さなくていいって?」
「未確定の情報をすべて伝えれば、不要な不安を与えると判断したんだ」
「嘘をつくのはよくないって言ったら、事実を伝えないだけだと言われました」
「蒼真君!」
「言ったの?」
「言葉の選択は適切ではなかったと思っている」
「言ったんだね?」
「はい」
美咲の笑顔は変わらない。
綾人は、さきほど昴に叱られた時よりも深く項垂れた。
久賀が横から淡々と補足する。
「九条氏の判断には、一定の合理性があります。未確定情報をすべて家族へ伝えることで、不要な心理的負担を生じさせる可能性はあります」
綾人が顔を上げた。
「分かってくれるのか」
「ただし、本日の会議では三項目が決定されています。そのため、今回の説明省略は適切ではありません」
援軍ではなかった。
「そこだけ切り分けるな」
「事実を整理しています」
「あなたは、さっきも別の会議で同じことを言っていたな」
「記録上、九条氏も同様の指摘をしています」
「記録を持ってくるな」
久賀は綾人の言葉へ反応せず、美咲へ顔を向けた。
「橘二尉が自ら討伐任務を希望した事実はありません。本人は前線配置への恐怖と忌避感を明確に記録し、今回の会議でも前線を望まないと回答しています」
蒼真を助けるために来た。
美咲は、その意図を理解したように表情を柔らかくした。
「蒼真を庇いに来てくれたんですか?」
「事実を伝えに来ました」
「ありがとうございます」
「ただし、他に方法がない場合は再び大型個体へ向かうと回答しています。また、対大型兵装の改善条件を提示し、AI運用手順と訓練内容の作成にも協力可能と発言しました」
「久賀さん」
蒼真が止める。
「何でしょう」
「そこまで説明しなくてもいいのでは?」
「会議内容の補足に必要です」
「自分を助けに来たんですよね?」
「説明不足を補うために来ました」
助けることと、都合の悪い事実を省くことは、久賀の中では同じではなかった。
美咲の笑顔が、再び深くなる。
「蒼真。新しい武器を頼んだの?」
「頼んでない。今回の武器が危険だったから、改善した方がいいと答えただけで」
「何に使う武器?」
「大型個体を止めるための――」
言葉が止まった。
結衣が、台所から顔を出す。
「お父さん、自分で次も行く準備してるじゃん」
「他の人が使えるようにするためだよ」
「誰が試すの?」
「まだ決まってない」
「お父さん以外に、リポルを動かせる人いるの?」
「AIの支援を調整すれば、ほかの人でも動かせると思う」
「それ、会議でも否定されていました」
久賀が事実を追加する。
「久賀さん」
「AI評価では、一般搭乗者による再現可能性は低いとされています」
「今は家です」
「はい」
「仕事場の久賀さんになっています」
久賀は僅かに目を瞬いた。
その時、居間の入口で様子を見ていた昴が、久賀に気づいた。
「くがしゃん!」
先ほどまでの緊張した顔が、一瞬で明るくなる。
床に置いていた紙製のリポルを拾い、久賀のところへ走ってきた。灰色の厚紙で作った機体は、遊び続けたため角が潰れ、顔に描いた二つの黒い丸も少し薄くなっている。
「りぽる!」
「確認しました」
「ばんばん、した!」
「映像で確認しています」
昴は紙製リポルを久賀の膝へ置いた。
「くがしゃん、これ」
「操作方法を教えてください」
「こう!」
昴が二本の紐を引く。
紙製リポルは前へ進まず、横向きに倒れた。片方の紐だけが強く引かれたため、その場で半回転している。
久賀は倒れた機体を起こし、二本の紐を同じ長さで持った。
「直進性に問題があります」
「ちょくしん?」
「真っ直ぐ進みません」
「ぱぱの、りぽる、ぴょーんした!」
「そのようですね」
「くがしゃんも、ぴょーん!」
「この機体では困難です」
二歳児との会話が、なぜか成立していた。
綾人は項垂れたまま、二人を見る。
「なぜ、あの人は怒られないんだ」
「昴が懐いているので」
「説明になってない」
「仕事場にいない久賀さんは、普通に笑います」
「今、笑っているか?」
久賀は真剣な顔で、紙製リポルを真っ直ぐ進ませようとしている。
「多分、楽しいと思います」
「分からない」
昴が久賀の手から紐を取り、今度は両方をまとめて引いた。紙製リポルが一度倒れ、床を擦りながら蒼真と綾人の前を横切る。
「くがしゃん」
「はい」
「ぱぱ、あぶない、した?」
「しました」
蒼真が小さく息を吐いた。
久賀は嘘をつかない。
「くがしゃん、した?」
「私は橘二尉を前線へ派遣していません。現場指揮権もありません」
昴は少し考えた。
「くがしゃん、いいこ!」
「ありがとうございます」
完全に勝った。
綾人が顔を上げる。
「それで納得するのか?」
昴は綾人を見る。
「おじちゃん、め!」
「なぜ俺は駄目なんだ!」
「九条氏は、不要な前置きと自己弁護を加えた可能性があります」
「あなたは見ていなかっただろう!」
「現在の反応から推測しました」
綾人は再び床へ両手をついた。
「俺は、ただのオブザーバーだったはずだ」
「現在も、その立場に変更はありません」
「なら、この状況を何とかしてくれ」
「家庭内の指揮権は、美咲さんにあります」
「それは見れば分かる!」
美咲がとうとう笑い出した。
結衣も台所の入口へ寄りかかり、声を上げて笑っている。二人につられ、昴まで意味も分からず笑い始めた。
久賀だけは、紙製リポルを手にしたまま三人を見ていた。
「説明は完了したと評価します」
「あなたが二回目を始めたんだ」
「不足していた事実を補いました」
「俺の逃げ道まで塞いだ」
「会議内容を伝えないと判断したのは、九条氏です」
「現実とは、かくも厳しいものだな……」
綾人が呟く。
久賀は紙製リポルの紐を持ち直し、僅かに口元を緩めた。
「その点については、同意します」
それから昴へ向き直る。
「次は、どこへ向かいますか?」
「おっきいの!」
「大型個体との戦闘は推奨しません」
「ばんばん!」
「支援機として運用します」
久賀が紐を引く。
紙製リポルは真っ直ぐ進まず、また横へ倒れた。昴は大声で笑い、すぐに起こして久賀へ戻す。
美咲は目元を拭いながら、冷めた料理を温め直すため台所へ向かった。
「もう話は終わり。ご飯にしよう」
「会議のことは?」
蒼真が尋ねると、美咲は振り返った。
「聞いたよ」
「怒ってない?」
「怒ってない。ただ、決まったことは話して」
「分かりました」
「綾人も」
「はい」
綾人は反射的に返事をしたあと、顔を上げた。
「俺もなのか?」
「事実を伝えないだけ、は駄目」
「もう言わない」
「なら、よし」
美咲は笑いながら台所へ入った。
綾人は項垂れたまま、痺れた足を伸ばす。
「本当に、締まらない家だな」
蒼真は床を進む紙製リポルを見た。
「家なので」
大型個体を倒した紫色の機体は、ニュースの中で何度も立ち上がっていた。
その搭乗者は今、二歳の息子に叱られ、妻に隠し事を見抜かれ、冷めた夕食が温まるのを待っている。
それが、蒼真の帰ってきた場所だった。
*
夜。
日記。
―――
七月三十一日。
市街地再奪還作戦が行われた。
三つの中隊と三機の支援機が参加した。
大型個体は、周囲の敵性個体を動かし、人間側が対応することで後方への道が開くようにしていた可能性がある。
後方医療拠点へ、小型九体と中型三体が向かった。
道路では間に合わなかったため、報道用ドローンの映像をAIに処理させ、別の経路を作った。
空撮映像は、自分では見ていない。
AIに、地形の高さ、幅、傾斜、耐荷重だけを確認してもらった。
管理局で、機械は見せたものを全部仕事にしようとすると言われたことを思い出した。
必要なものを人間が決めれば、AIは役に立つ。
十二体は、医療拠点へ到達する前に止めることができた。
その後、大型個体へ向かった。
大型個体が残っていれば、別の敵性個体を後方へ送られる可能性があった。
三浦一尉が正面を引き受けてくれた。
リポルに装備されていた穿杭槍を使い、大型個体を停止させた。
穿杭槍は、使用時に機体を地面へ固定する。
固定している間は回避できない。
使用後、固定爪が外れず、大型個体の下敷きになる可能性があった。
帰れないと思った。
玄関にある家族の靴を思い出した。
三浦一尉がリポルを引いてくれたため、倒れる大型個体から離れることができた。
穿杭槍は、威力はあるが、使用者と機体を帰すための武器としては問題がある。
会議で、改善した方がいいと話した。
AIの役割分担と、情報統合の方法についても、記録を整理することになった。
前線へ出たいわけではない。
ただ、前線へ出た時に死んでもいいわけではない。
自分以外の人も同じだと思う。
帰宅後、美咲へ今日のことを話した。
怖かったことも話した。
綾人さんが、第三者として自分の説明に足りない部分を補ってくれた。
結衣は、綾人さんが自分を止めなかったことに怒っていた。
綾人さんには、現場の権限はない。
昴にも怒られていた。
自分も怒られた。
久賀さんが、会議の決定事項を説明するために家へ来た。
綾人さんは、決まっていないことを話して美咲を不安にさせる必要はないと考えていた。
会議では一部が決まっていた。
綾人さんは、また怒られた。
久賀さんは、昴に怒られなかった。
理由は分からない。
美咲から、危険な場所へ行ったら帰ってきて、何があったか話すように言われた。
それは約束できると思う。
今日は、全員が帰った。
以上。
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