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第六十八話 帰るための戦場

《南側幹線路への先行移動を確認。現在速度を維持した場合、先頭個体は味方部隊より四十三秒早く撤退経路へ到達します》


 画面の上で、赤い軌跡が青い退路を横切った。


 敵は背後から追ってくるのではない。崩れた建物の間を抜け、地下道を使い、人間が市街地を出るために選んだ南側幹線路へ先回りしようとしている。


 リポルの左肩には、右脚を損傷した二番機の腕が回されていた。腰部同士を繋いだ牽引索が、二機の歩幅がずれるたびに張り詰める。二番機の足先が路面を擦り、剥がれた舗装を引きずっていった。


 その前では相馬機が後ろ向きに歩き、銃口を地下鉄車両基地へ向けている。残る二機も左右の路地を警戒していたが、どちらを見ても暗がりの奥に赤い目が浮かんでいた。


『橘、急げるか』


「これ以上だと脚が外れます」


『外して運ぶ方が早いか?』


「固定に時間がかかります。今はこのままです」


 相馬は一度だけ振り返り、損傷機の傾きを確かめた。言い返さずに速度を落とし、リポルの前へ半歩近づく。


 その動きに合わせるように、基地の屋根で小型個体が身を低くした。


「右上」


『見えた』


 小型個体が飛んだ。


 相馬機は銃口を上げず、左腕の防盾を屋根の縁へ突き出した。落下する勢いのまま個体が盾へ衝突し、爪が装甲を引っ掻く。相馬は受け止めた身体を横へ振り、そのまま建物の壁へ叩きつけた。


 二機目が、その陰から低く飛び出す。


 狙いは相馬ではなかった。


 路面すれすれを走り、リポルに支えられた二番機の損傷した右脚へ向かう。蒼真は牽引索を緩めないままリポルの腰を捻った。左肩で二番機を押し上げ、空いた右脚を小型個体の進路へ踏み込ませる。


 踵が舗装へ落ちる直前、個体は身体を折った。巨脚の外側へ転がり、そのままリポルの背後へ回ろうとする。


 右を守っていた相馬中隊三番機が銃を撃った。


 一発目は路面を砕き、二発目が個体の肩を貫く。小型個体は勢いを失って転がったが、倒れたまま前脚を伸ばし、二番機の足先へ爪を立てた。


『離れろ!』


 二番機の搭乗者が残った左脚を振る。装甲の踵が個体の頭部へ当たり、爪が外れた。三番機がもう一発撃ち込み、今度こそ赤い目が消える。


 蒼真は息を吐く暇もなく、広域画面へ視線を戻した。


 先行している小型個体は五体。南側幹線路までの予想到達時間は三十六秒へ縮まっている。第一中隊と第三中隊は、市街地中央で合流を始めていたが、互いの前を横切らないよう速度を調整しているため、後退はまだ遅い。後方の整備車両は方向転換を終えたものの、補給車一台が瓦礫を避けきれずに停止していた。


 全員へ同じ地図を見せても、動く順番までは揃わない。


 蒼真は共通回線を開きかけ、指を止めた。自分に命令する権限はない。第一中隊の動かし方も、第三中隊が守る場所も決められない。


 しかし、このままでは敵の方が先に退路へ着く。


「AI、十五機と後方車両が南側幹線路から市街地外へ出るまでの移動案を作成してください。優先条件は人員の生還。次に損傷機と車両の回収。敵性個体の撃破は条件から除外」


《作戦行動案の策定には、指揮権限の確認が必要です》


「作戦ではありません。撤退経路の混雑を避けるための移動順序です」


《移動順序が各中隊の戦闘配置および交戦継続時間へ影響する場合、実質的な部隊運用案に該当します》


 遠くで砲撃が続いている。右側の路地では、撃たれた小型個体の身体から黒い液体が路面へ広がっていた。AIだけが、役所の窓口で申請区分を確認するような調子を崩さない。


 蒼真は一度目を閉じた。


 管理局で工程が遅れた時にも、似たやり取りをした。AIへ「予定を組み直せ」と頼めば、管理権限がないと返される。だが、作業員と資材の現在位置から、予定どおり終えるための条件を聞けば、必要な情報は出してくれた。


「では、全員が帰還するために満たすべき条件を出してください。誰に何を命じるかではなく、どの場所を、いつまで維持する必要があるかです」


《条件の提示であれば可能です。算出対象に臨時大隊全機および登録済み後方車両を含めますか?》


「全て含めてください」


《計算します。なお、人員の生還を最優先とした場合、無人化可能な車両、修復不能と判断された装備、回収が他者の生還率を低下させる機体は放棄対象となります》


「分かっています。今の時点では、放棄が必要なものはありますか?」


《ありません。ただし、相馬中隊二番機の移動速度が現在値を下回った場合、二分十四秒後に放棄判断が必要となる可能性があります》


 蒼真は左肩へかかる二番機の重さを感じた。数字として聞かされると、牽引索が先ほどより強く張ったように思えた。


「その前に帰します」


《了解しました。必要条件を表示します》


 地図の上へ三本の線が引かれた。


 第一は、市街地中央から南側幹線路へ入る交差点。ここを五十八秒維持しなければ、後方車両が通過できない。


 第二は、その西にある古い商店街の入口。相馬中隊が損傷機を連れて交差点へ着くまで、敵の流入を止める必要がある。


 第三は、幹線路の先に架かる高架橋だった。小型個体が先行している。このままなら橋の南詰を取られる。


《三条件を同時に満たす場合、全登録人員の帰還予測率は九十三・八パーセントです》


「残りは?」


《敵性個体の未確認行動、大型個体の移動速度、損傷機の状態変化、および各部隊間の意思疎通遅延です》


「この画面を作戦責任者へ送信。移動案ではなく、帰還条件として」


《送信します》


 指揮所から返答が届くまで、十秒もかからなかった。


『中央支援、根拠を説明しろ』


 臨時大隊指揮官の声には、先ほどまでより強い雑音が混じっていた。後方指揮車両も移動を始めているらしい。


「車両が南側交差点を抜けるまで五十八秒必要です。西側から敵が入れば相馬中隊が合流できません。高架橋は四十秒以内に敵が到達します」


『部隊配置の提案は』


 蒼真は言葉に詰まった。


 配置を決めれば、誰かを敵の前へ置くことになる。自分が動くのとは違う。相手が三浦でも神代でも、そこへ行けと自分が言うことになる。


 右側の画面では、高架橋へ向かう赤い点がさらに速度を上げていた。


「自分には決められません」


『決めろとは言っていない。お前の画面で、どの隊なら間に合う』


 通信の向こうから、三浦の声が割り込んだ。


『第一が交差点に残る』


『第三が橋へ向かう』


 続いた神代の声に、蒼真は地図を見直した。第三中隊の現在位置から高架橋までは、直線なら届く。しかし途中の道路は倒壊した車両で狭まり、四機すべてが通るには時間が足りない。


「第三中隊四機では間に合いません。二機なら三十一秒です」


『残り二機は』


「商店街入口まで二十六秒」


 神代は返事をしなかった。蒼真が示したのは、第三中隊を二つに分ける形だった。敵がそれを狙って中隊を分断してきた直後に、また戦力を割る。


 ただし、今度は別々に戦うためではない。同じ退路を守るために、必要な場所へ立つ。


『第三、二機ずつに分かれる。俺と三番機が高架橋、二番、四番は商店街入口へ』


 神代の声が共通回線へ流れた。


 臨時大隊指揮官が、その配置を追認する。


『承認する。第一中隊は南側交差点を五十八秒保持。第三中隊は神代案で二地点を確保。西地区中隊は損傷機を中央支援へ預け、合流後は車両隊列の側面を守れ。支援左翼、右翼は補給車の離脱を支援。全隊、中央支援が送った統合画面を共通表示に指定する』


 十五機の画面が、同じ地図へ切り替わった。


 蒼真の胸が一度だけ強く鳴った。


 自分が作った画面だった。だが、そこに表示される青い印はもう、自分が見るだけの情報ではない。三浦も、神代も、相馬も、残る支援員も、同じ赤い軌跡を見ている。


『橘』


 三浦から呼ばれた。


「はい」


『秒数が変わったら言え』


「分かりました」


 それだけで通信は切れた。


 第一中隊が南側交差点へ入る。


 三浦機を先頭に四機が道路いっぱいへ展開した時、建物の陰から中型個体が二体現れた。先ほどまでのように撃っては退く動きではない。後方車両が交差点へ向かっていることを見て、左右から同時に飛び込んでくる。


 三浦は正面の一体へ銃を向けたが、撃たなかった。


 中型個体が射線を嫌って左へ踏み込む。その瞬間、第一中隊二番機の防盾が横から突き当たった。巨体が路上の標識を巻き込みながら倒れ、三番機の砲弾が首元を撃ち抜く。


 もう一体は四番機へ跳びかかった。


 四番機は下がらず、両腕で敵の前脚を受け止めた。爪が肩部装甲へ食い込み、機体が膝を曲げる。三浦機が側面へ回り、敵の腹へ砲口を押しつけた。


『伏せろ』


 四番機が機体を沈める。


 砲声とともに中型個体の身体が持ち上がり、交差点の中央へ落ちた。三浦は倒れた敵を見ず、すぐに北側の路地へ銃口を戻す。その向こうから、小型の群れが瓦礫を越えてきていた。


 交差点の保持時間、残り四十七秒。


 一方、高架橋へ向かった神代機と三番機は、南詰へ先行した小型五体とほとんど同時に到達していた。


 橋の上には放置された車が並び、二機が横へ広がる余裕はない。神代機が先頭に立ち、細長い防盾を路面へ立てる。最初の一体が車の屋根を蹴って跳び、盾の上を越えようとした。


『上』


 三番機の銃弾が空中の個体を弾いた。


 落ちた身体が後続へぶつかり、橋の入口で三体が絡む。残る二体は欄干の外側へ回り、一本下の生活道路へ降りようとした。神代は盾を押し出して前の群れを止めたまま、腰部の短砲身を下へ向ける。


 一発が欄干を砕き、外側へ回った個体の進路を塞いだ。


『三番、右を落とす』


『了解』


 神代機が盾を斜めに開いた。押し合っていた二体が狭い隙間へ殺到する。三番機は一体目を撃たず、その身体が橋へ入ったところで二体目の前脚を狙った。


 脚を砕かれた個体が前へ転び、一体目の後肢へ噛みつくように絡む。神代はそこへ盾を叩きつけ、二体まとめて橋の外側へ押し出した。欄干が折れ、黒い身体が下の道路へ落ちる。


 橋は開いた。


 だが、蒼真の画面では新しい赤い点が北から迫っている。小型ではない。大型個体が、広場を離れていた。


「大型、移動開始」


 声に出した途端、共通回線が静かになった。


《推定速度、時速二十八。進行方向は南南東。南側交差点または高架橋へ到達する可能性があります》


『どっちだ』


 三浦が尋ねる。


「まだ分かりません」


『分かったら言え』


 砲撃音が通信を押し流した。


 蒼真は二番機を支えながら商店街へ入った。アーケードの屋根は半分が崩れ、割れた看板が路面へ垂れ下がっている。かつて店先だった場所に食器や衣服が散らばり、その上をフレイムワーカーの足が避けるように進んだ。


 入口では第三中隊の二機が、中型個体一体と小型三体を止めている。狭い通りでは銃を振り回せず、二番機が防盾で中型を押さえ、四番機がその脇から小型を一体ずつ撃っていた。


 相馬がリポルの前へ出た。


『二番機を置いていけ。俺たちで運ぶ』


「相馬中隊が持つと、側面を守る機体が減ります」


『お前が持ったままじゃ、中央支援が動けないだろ』


「中央支援の仕事はしています」


『そういうところだよ!』


 怒鳴った直後、相馬機が右手の銃を上げた。商店の二階から飛び降りた小型個体を一発で撃ち抜き、その身体がリポルへ届く前に柱へ叩きつける。


 懐かしい言葉に返す余裕はなかったが、蒼真は少しだけ呼吸を取り戻した。


「牽引索は渡しません。相馬は右側をお願いします」


『あとで覚えてろ』


「帰ってからなら」


『絶対帰す』


 相馬機が右側の路地へ身体を向けた。


 商店街を抜けると、南側交差点が見えた。第一中隊の後ろを、整備車両が一台ずつ通過している。補給車の左前輪は応急処置を受けたらしく、傾きながらも動いていた。左右には支援機がつき、瓦礫へ寄りすぎないよう車体を押している。


 交差点保持、残り十九秒。


 大型個体の進路はまだ定まらない。建物を迂回せず、低い倉庫の壁を肩で突き破りながら南へ進んでいる。粉塵の中から現れるたびに、頭部の角と厚い前肢が少しずつ大きくなった。


《大型個体の進行方向を更新。南側交差点へ向かっています》


「到達まで」


《五十二秒》


 最後尾の指揮車両が交差点を抜けるまで、四十一秒。数字の上では間に合う。


 しかし、大型個体の前を小型と中型が走っている。第一中隊は交差点を守りながら、それらも止めなければならない。


 蒼真は全体図へ視線を走らせた。第一中隊を残せば車両は抜ける。だが、大型が到着した時、四機が市街地側へ取り残される。高架橋の神代たちは戻る途中で敵とぶつかる。相馬中隊は損傷機を抱えて速度を上げられない。


 全員を帰すための条件が、崩れ始めていた。


「大型の進路上に、通行を妨げられる構造物はありますか?」


《質問の目的を確認します》


「倒すのではなく、遅らせます」


《現行地図上では、旧立体駐車場、歩道橋、商業施設連絡通路が該当します。ただし、大型個体の推定質量に対して歩道橋の阻害効果は低く、旧立体駐車場は倒壊方向を制御できません。商業施設連絡通路は――》


 AIが説明する間、蒼真は現地映像を開いた。


 大型の右側に、二棟の商業施設を繋ぐ屋根付き通路がある。橋脚は道路の両側に立ち、通路の下を大型が通ろうとしていた。倒せば止められるかもしれない。しかし真下へ落ちるだけなら、背中へ瓦礫を載せるだけで終わる。


「連絡通路の北側橋脚だけを破壊した場合は?」


《南側接合部を支点として北東方向へ回転落下する可能性四十一パーセント。真下への崩落三十三パーセント。施設本体側への引き込み二十六パーセントです》


「南側接合部を残したまま、北側橋脚を道路側から押すと?」


《加力方向と破断位置を指定してください》


 画面に構造図が出た。AIは緊迫した状況など存在しないように、必要な数値を一つずつ求めてくる。蒼真は舌打ちしそうになりながら、橋脚の画像を拡大した。


 管理局の現場で、建物を壊さず設備だけを外す時と同じだった。どこを切るかではない。残した部分が、外した後の重さをどちらへ引くかを見る。


「北側橋脚の外側基部を破壊。大型の進行方向へ押し込みます。南側接合部の固定強度は現状値。リポルが押した場合を計算」


《リポルが推奨位置から最大出力で押した場合、北東方向への回転落下確率は七十二パーセント。リポルが崩落範囲から離脱できない確率は十八パーセントです》


「他の機体なら?」


《現在位置と移動時間を含めた場合、実行可能なのはリポルのみです》


 また、自分だった。


 蒼真は唇を結び、地図を見た。連絡通路まで、リポルなら二十三秒。ただし、二番機を連れてはいけない。


「相馬」


『聞いてる。今度こそ渡せ』


 相馬機が隣へ並び、二番機の左側へ肩を入れた。蒼真は牽引索を解除したが、指が一瞬だけ固定具の上で止まる。


『橘』


「脚を落とさないでください」


『誰に言ってる』


「相馬にです」


『そういうところだよ! 行け!』


 相馬が二番機を引き受けた。


 左肩から重さが消える。リポルは身体を起こし、商店街の出口から東へ踏み出した。


「作戦責任者。大型を三十秒以上止められる可能性があります。商業施設の連絡通路を倒します」


『成功率は』


「七十二パーセントです」


『お前の離脱は』


「八十二パーセント」


 通信が沈黙した。


『却下する』


「このままだと第一中隊が離脱できません」


『橘、待て』


 三浦の声だった。


 蒼真はリポルを止めなかった。正面には、道路を埋める大型個体が迫っている。その向こうにいるのは敵だけだ。振り返れば、第一中隊の四機と、まだ交差点を抜けていない車両がいる。


「倒しには行きません。帰るためです」


 自分へ言い聞かせたのか、通信の相手へ説明したのか、蒼真にも分からなかった。


 臨時大隊指揮官は数秒迷い、命令を変えた。


『リポルの障害物設置を承認。第一中隊は橘の離脱路を確保。制限時間三十秒。失敗した場合は即時離脱しろ』


『第一、了解』


 三浦の返答は低かった。


 リポルは速度を上げた。


 大型個体が蒼真を見た。太い前肢が路面へ落ちるたび、放置車両が跳ね、建物の窓から残ったガラスが降る。その足元を走っていた小型個体が左右へ散り、紫色の機体を囲むように路地へ入った。


 蒼真は大型へ向かわず、右手の商業施設へ機体を寄せた。


 北側橋脚は、正面から見れば大人しく立っている。だが壁との接合部には大きな亀裂があり、鉄骨の一部が露出していた。AIが示す破断位置へ、リポルは右肩を向ける。


《推奨位置まで二・四メートル》


 左の路地から小型個体が飛び出した。


 蒼真は機体を止めず、左腕の防盾を外側へ振った。盾面が個体の頭部を捉え、軽い身体を店舗のシャッターへ弾き返す。右から来た二体目が腰部へ爪を立てたが、リポルは振り払わなかった。装甲を削る音を背中で聞きながら、橋脚へ肩を当てる。


《接触位置、許容範囲。右へ一・二度修正してください》


「今ですか?」


《予測した倒壊方向を得るには、加力角度の修正を推奨します》


 蒼真は右足を半歩ずらした。


 大型が咆哮する。衝撃が胸部装甲を震わせ、腰へ取りついた小型個体の爪がさらに深く食い込んだ。


《角度、適正。最大出力を許可しますか?》


「許可。オートバランサーは?」


《機体転倒を回避するため、出力上昇時に後方への重心補正を行います》


「それでは押し切れません。解除」


《解除した場合、橋脚破断時に前方へ転倒する危険があります。代替として出力を八十一パーセントに制限し――》


「主導権を移譲。姿勢制御はこちらで行います。倒壊方向と敵の位置だけ教えてください」


《操縦者主導へ移行します。オートバランサー解除。脚部補助制御は維持します》


 リポルの重さが、一気に操縦桿へ戻ってきた。


 蒼真は両足で床を踏み、右肩へ力を集める。機体が前へ傾き、橋脚の亀裂が口を開いた。コンクリートが崩れ、内部の鉄骨が一本ずつ曲がっていく。


 大型個体まで、残り十八メートル。


《北東方向への回転を確認。離脱を推奨します》


 まだ早い。


 ここで離れれば、連絡通路は大型の後ろへ落ちる。


 蒼真は左脚をさらに踏み込み、橋脚を道路側へ押した。リポルの腰へ取りついていた小型個体が振り落とされ、路面を転がる。右肩の装甲が橋脚へ食い込み、警告灯が赤く変わった。


《右肩部負荷、許容値を超過》


「あと何度ですか?」


《回転角、六・三度。目標達成まで二・七度》


 大型が前肢を振り上げた。


 蒼真はその影を正面モニターいっぱいに見ながら、操縦桿を前へ倒した。リポルの足元で舗装が割れる。橋脚の鉄骨が最後まで耐え、甲高い音を立てた。


 大型の爪が届く直前、鉄骨が千切れた。


「離れます」


《左後方へ三歩。その後、右旋回を推奨》


 リポルは肩を抜き、前へ倒れかけた身体を左脚で受けた。オートバランサーは戻ってこない。巨体の重さが蒼真の操作どおりに傾き、左後方へ一歩、二歩と滑る。


 大型の爪が右肩の先を掠めた。


 装甲が剥がれ、視界が激しく揺れる。それでも三歩目を踏み切り、リポルは右へ身体を回した。


 頭上で、連絡通路が動いた。


 屋根と壁を繋いでいた金具が弾け、長い構造物が南側接合部を支点にして道路へ回り込む。大型個体は落下する通路を見上げ、前肢で受けようとした。


 数十トンの鉄骨と外壁が、その肩へ斜めに落ちた。


 地面が沈んだような衝撃が走り、粉塵が道路を呑み込む。大型の身体は倒れなかった。だが、連絡通路が首と右前肢の間へ食い込み、二棟の建物から伸びる瓦礫が巨体を道路の中央へ縫い止めた。


《大型個体、移動停止。推定継続時間、二十七秒から七十四秒》


「幅がありますね」


《構造物の損傷状態と敵性個体の最大出力が不明です》


「一番短い方で伝えてください」


《了解しました》


 蒼真はオートバランサーを復帰させ、第一中隊の方へ走った。


『大型停止、最低二十七秒! 全隊、離脱!』


 臨時大隊指揮官の命令と同時に、三浦機が最後の中型個体を交差点の北側へ蹴り返した。第一中隊四番機が先に下がり、二番、三番が続く。三浦だけが銃を構えたまま残り、粉塵から飛び出してくるリポルを待っていた。


『橘、走れ!』


「走っています」


『遅い!』


 リポルの右肩から剥がれた装甲が落ち、路面を跳ねた。その音の向こうで、大型個体が瓦礫を持ち上げ始める。


 神代たちが高架橋から戻り、交差点の南で第一中隊を受け入れた。相馬中隊は損傷機を中央に置き、車両隊列の左側へ回っている。三機の支援機も後方へ下がりながら、遅れた補給車を挟んでいた。


 全ての青い印が、南側幹線路へ入った。


 最後尾の三浦機が後退し、その横へリポルが並ぶ。


『怪我は』


「ありません」


『機体は』


「右肩装甲と腰部です。歩けます」


『なら下がれ』


「三浦もです」


『俺は前衛だ』


「今は最後尾です」


 三浦が何か言い返そうとした時、背後で瓦礫が爆ぜた。


 大型個体が連絡通路を押し退け、粉塵の中から頭を出す。右前肢は傷ついていたが、まだ立っている。赤い目が、幹線路を遠ざかる隊列へ向けられた。


 三浦機が銃口を上げる。


 しかし、大型は追ってこなかった。


 一歩だけ道路へ出たところで止まり、周囲へ短く吠える。退路へ先回りしていた小型個体と中型個体が、次々に動きを止めた。倒れた仲間の間から頭を上げ、人間の部隊を見送っている。


『なぜ来ない』


 相馬の声が小さく聞こえた。


「市街地の外へ出す必要がないから、だと思います」


 蒼真は答えながら、背後の街を見た。


 屋根の崩れた住宅。煙を上げる商店街。地下鉄入口の暗がり。そこには人の姿がなく、代わりに赤い目がいくつも並んでいる。


 敵は十二機を破壊できなかった。


 人間も、大型を倒せなかった。


 だが、街に残ったのは敵だった。


 それが、この戦いの結果なのだと蒼真にも分かった。


 市街地境界を越えたところで、臨時大隊指揮官から停止命令が出た。追撃がないことを確認しながら、機体と車両が順番に路肩へ寄る。


 リポルの左側では、相馬中隊二番機が片膝をついた。右脚は外れずに残っている。相馬が固定具を確認し、操縦席から長く息を吐いた。


『橘』


「はい」


『帰ったぞ』


 相馬の声から、先ほどまでの鋭さが少しだけ抜けていた。


 蒼真は広域画面を見た。


 戦闘機十二。支援機三。後方車両八。搭乗者と車両要員の生体反応に、消失はない。負傷者はいる。機体も傷ついた。作戦目標だった街の奪還には失敗した。


 それでも、十五個の機体反応は全て市街地の外にある。


「全員ですか?」


《登録人員を照合します》


 AIはいつもと同じ速さで確認を始めた。


 蒼真は返答を待ちながら、操縦桿から手を離した。指が細かく震えていた。大型の爪が右肩を掠めた感触が、今になって腕へ戻ってくる。


《登録人員、全員の生存を確認。市街地内に残存する味方人員反応はありません》


「分かりました」


 それだけ答えると、身体から力が抜けた。


 勝ったとは思えない。街を取り戻せず、中隊を全滅させた敵も残したままだ。明日になれば、あの大型はまた小型と中型を動かし、街の奥へ巣を広げていくかもしれない。


 それでも、今は誰も置いていない。


 蒼真は椅子へ背中を預け、暗くなり始めた空をモニター越しに見上げた。


 *


 撤退完了から十一分後。


 後方指揮車両へ集められた報告では、作戦結果の欄に《目標未達》と記録された。


 敵性大型個体、健在。


 市街地奪還、失敗。


 敵性個体の推定残存数、算出不能。


 臨時大隊側の戦死者、零。


 搭乗員の重傷者、零。


 フレイムワーカー大破、零。


 中破二機、小破七機。支援機一機の装甲損傷。


 内閣情報局の八神は、並んだ数値を黙って読んでいた。


 隣では臨時大隊指揮官が、市街地に残した監視機器の映像を確認している。大型個体は広場へ戻らず、南側幹線路の入口に立っていた。周囲へ集まった小型と中型は、無秩序に徘徊することなく、一定の間隔を保って道路を見張っている。


「撤退は成功です」


 八神が言うと、指揮官は画面から目を離さなかった。


「作戦は失敗だ」


「はい」


「橘二尉の情報がなければ、損害は増えていた」


「その可能性は高いと評価します」


「あれを、毎回偶然に期待するわけにはいかない」


 八神は手元の端末へ視線を落とした。


 リポルが作った統合画面は、まだ全機の記録に残っている。正式な指揮支援システムではなく、損傷機を助けに行くために蒼真が集めた情報の寄せ集めだった。それでも撤退時には、十五機が同じ画面を見て動いた。


「会議が必要です」


「分かっている」


 指揮官の返事には、疲労が滲んでいた。


 八神は感情を挟まず、報告書の準備を始めた。


 検討事項は多い。


 敵性個体の統率行動。


 即席大隊の指揮系統。


 中隊ごとに分断された情報。


 三機の支援機を統合する運用。


 そして、指揮権限を持たない一人の支援員が、撤退に必要な戦場を作ってしまったこと。


 どれも、本人が望んでいるかどうかとは別に、記録へ残さなければならない事実だった。

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