第六十三話 戻った場所
翌朝、第三中隊の格納庫には、リポルではなくノストスが準備されていた。
紫色の装甲には目立った傷がなく、右腕に大型防盾も装着されていない。背部には回収用ワイヤーと作業器具が収まり、腰部の収納区画には現場標識と簡易測定機が並んでいる。戦うためではなく、止まった仕事を動かし、人と機材を無事に帰すための姿だった。
蒼真は格納庫へ入ってから、ノストスを見上げたまま僅かに息を吐いた。
今日は、前線へ出なくていい。
その事実に安心した自分を認めた途端、昨日のシミュレーターで聞いた砲声が耳の奥へ戻ってきた。自分で撃った四発のうち、最後の一発だけが、ほかより重く残っている。
「橘さん」
呼ばれて振り向くと、牧野が点検端末を片手に歩いてきた。作業服の袖を肘まで上げ、もう一方の手にはノストスの起動鍵を持っている。
「昨日のリポル、確認しました」
「右腕を壊しました」
「壊しましたね」
否定されなかったため、蒼真は視線をノストスへ戻した。牧野は端末を操作し、昨日の損傷記録を表示する。
「それでも最終損耗率は二十四・八パーセントです。中型個体を単独で止め、オートバランサーまで切った結果としては低すぎます」
「褒められているんですか?」
「整備員としては褒めています。評価担当者へ見せたくない数字だとも思っています」
牧野は困ったように眉を寄せ、起動鍵を蒼真へ差し出した。
「今日はノストスです。作業現場です。壊さずに戻してください」
「こちらの方が安心します」
「機体がですか?」
「自分がです」
牧野は何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。代わりに蒼真の顔を一度見てから、ノストスの脚部へ視線を移す。
「安心できるなら、それが一番です。ただ、安心したから周りを見なくなる人ではないでしょう」
「仕事なので」
「知っています」
格納庫の反対側では、第一中隊の機体が訓練へ出る準備をしていた。長剣を背負った三浦機の足元で、三浦が整備員と話している。蒼真に気づくと、会話を終えてこちらへ歩いてきた。
「今日は管理局ですか」
「復興現場へ出向します」
「前線より嬉しそうですね」
「分かりますか?」
「昨日より顔色がいいので」
三浦はノストスを見上げた。戦闘訓練前のため表情に緊張はあったが、昨日の試験結果へ触れる様子はない。
「三浦一尉は、どうして前線へ出られるんですか?」
蒼真が尋ねると、三浦はすぐには答えなかった。質問の意味を確かめるように蒼真を見たあと、訓練区域へ続く扉へ目を向ける。
「出られるから、ではありません」
「では?」
「より多くの人の命を守るために、前線へ出ています。敵が街へ着いてから救うより、着く前に止めた方が、助かる人は増える」
昨日も似た話を聞いた。理屈は分かる。実際に中型個体を止めたことで、三十一人が避難する時間を作れた。
それでも、自分も前へ出るべきだという結論にはならなかった。
「怖くないんですか?」
「怖いですよ」
三浦は短く答え、右手の手袋を引き上げた。
「怖いから、街へ近づけたくないんです」
訓練開始を知らせる灯りが点滅する。三浦は蒼真へ小さく頭を下げ、第一中隊の方へ戻っていった。
その背中を見送っていると、柱の陰から八神が姿を現した。いつから聞いていたのか分からないが、壁へ預けていた肩を起こし、蒼真の前で足を止める。
「三浦の真似をするな」
「するつもりはありません」
「ならいい」
八神はそれだけ言って通り過ぎかけたが、二歩進んだところで止まった。
「迷いながら前線へ出れば、死ぬのはお前だけじゃない。助けようとした隊員まで危険に晒す」
振り返った目に、試すような色はなかった。能力を否定しているのでも、昨日の結果を軽く見ているのでもない。
「お前は前線に立つ人間ではない」
「昨日、倒せたからですか?」
「倒せることと、立つべきことは別だ」
八神は今度こそ歩き去った。
前へ出れば、より多くの人を守れるという三浦。前へ出るべき人間ではないという八神。どちらも蒼真を見て話しているのに、示す方向は反対だった。
ノストスの胸部で、搭乗準備完了を知らせる灯りが点いた。
蒼真は二人の言葉へ答えを出せないまま、昇降機へ足をかけた。
*
管理局の復興調整部へ入ると、最初に佐伯が笑った。
「出戻りか」
机へ肘をついたまま、以前と変わらない調子で言う。蒼真がフレイムワーカーの搭乗服姿であることも、その背後の搬入口へノストスが運び込まれていることも、特別な出来事として扱うつもりはないらしい。
「第三中隊からの出向です」
「籍がどこにあるかは、こっちには関係ない。仕事をするなら同じだ」
佐伯は用意していた端末を滑らせるように机の端へ置いた。画面には、南西第二区画の復興工程と、赤く表示された遅延項目が並んでいる。
「歓迎されているんですか?」
「仕事が増えた」
「それは歓迎ではないですね」
「戻ってきた初日から楽ができると思うな」
声を聞きつけた藤堂が、書類棚の向こうから顔を出した。蒼真を見ると、驚くより先に眉を寄せる。
「橘さん。先に言っておきます」
「何でしょう」
「出向で戻ってきたからといって、私たちの仕事へ勝手に口を出さないでください」
「以前も同じことを言われた気がします」
「以前も口を出したからです」
藤堂は厳しい表情のまま、蒼真の机へ追加の端末を置いた。表示されているのは作業員の配置表と、資材搬入の予定だった。口を出すなと言いながら、必要な情報はすべて準備している。
「ただし、危険だと思った場合は止めてください。そこは出向でも変わりません」
「分かりました」
「返事だけではなく、連絡もしてください」
「分かっています」
少し離れた机で聞いていた森下が、端末から顔を上げた。蒼真と目が合ってもすぐには口を開かず、周囲の様子を確認してから椅子を回す。
「橘さん」
「はい」
「前線へ出るつもりは、ないんですよね?」
昨日までなら、ないと即答できた。
しかし、三浦の言葉と、直哉の父親について考えたことが、返事の前へ入り込んだ。数秒にも満たない沈黙だったが、森下は気づいたらしい。机に置いていた指を僅かに曲げる。
「ありません」
ようやく答えると、森下は安心する代わりに、蒼真の顔を見たまま首を傾げた。
「今、考えましたよね」
「質問の意味を確認していました」
「前は確認しませんでした」
反論できずにいると、佐伯が端末を指先で叩いた。
「うちは、前線から外れた奴や、最初から出たくない奴の吹きだまりみたいな部署だ。今さら一人増えても困らん」
「自分も、そういう場所だと思っていました」
蒼真が苦笑すると、藤堂は露骨に嫌そうな顔をした。
「職場を吹きだまりと呼ばないでください」
「佐伯さんが先に言いました」
「佐伯さんにも言っています」
管理局にいた頃と変わらないやり取りだった。端末の配置も、少し冷えすぎた室温も、窓際に積まれたままの書類箱も変わっていない。
蒼真は、ようやく肩から力が抜けるのを感じた。
そこへ、久賀が会議室から出てきた。薄い資料を胸元へ抱え、室内を見渡したあと、蒼真の前へまっすぐ歩いてくる。
「橘二尉。本日の出向を確認しました」
「ここでは橘さんでいいと思います」
「所属上の階級を省略する合理的理由がありません」
「そうですか」
久賀は蒼真の返事へ頷き、手元の資料を開いた。
「現在、実地での前線運用は決定していません。本日の復興現場で重大な異常が発生せず、上層部の追加判断もなければ、当面は現在の勤務が継続されます」
「前線へ行かなくていいんですね」
「このまま何事もなければ」
安心させるための言葉だったのかもしれない。だが、何かが起これば変わるという意味も、同じ文章の中に入っていた。
「久賀さんは、そういう言い方しかできないんですか?」
「事実と異なる安心を与えることはできません」
「正しいと思います」
正しいが、安心はできない。
久賀は資料を閉じてから、思い出したように顔を上げた。
「ご家族へは、今回の出向について説明済みですか?」
「昨日、話しました。あと、昴が怒っています」
「何に対してですか?」
「久賀さんが家へ遊びに来ないことにです」
職場にいる久賀の表情は変わらなかった。しかし、資料を抱える指先だけが僅かに止まる。
「業務上の必要性がありません」
「二歳児に説明してください」
「難しいと思います」
「自分もそう思います」
久賀は数秒考えたあと、小さな声で「日程を確認します」と答えた。
その時だけ、森下が端末の陰で笑っていた。
*
南西第二区画では、集合住宅の再建と生活道路の復旧が同時に進められていた。
現場へ到着したノストスの操縦席からは、骨組みだけの建物と、仮設の配管が何本も横切る道路が見える。朝まで降っていた雨が掘削箇所へ溜まり、作業車両のタイヤが通るたび、灰色の泥が低く跳ねた。
この日の工程は、午前中に排水管を敷設し、午後から道路の仮舗装へ入る予定だった。AIは作業員の人数、重機の能力、資材到着時刻、天候予測を計算し、十七時二十分の終了を示している。
蒼真が現場全体を確認していると、東側の掘削箇所で警告灯が点いた。
《排水溝東端、水位上昇。予定工程への影響、十一分》
「原因は?」
《仮設排水ポンプ二号機の流量低下。三分以内の交換を推奨します》
地上では作業責任者がポンプへ向かい、二人の作業員が交換機を運び始めていた。だが、その進路には配管資材を積んだ車両が止まり、泥で狭くなった通路を塞いでいる。
「交換機は三分で届かない。現在の搬送経路を再計算」
《最短経路は変更ありません》
「通れるかどうかを含めて」
《車両間の有効幅、一・二メートル。交換機の幅、一・四メートル。通行不能です》
「どうして最短経路にしたの?」
《距離が最短であるためです》
昨日、戦闘中に長い説明を始めたAIと同じだった。条件へ入っていない事情は、現場を見ている人間が渡さなければならない。
「ノストスで資材車両を二メートル北へ移動。作業員は交換機を東側通路から搬送。移動中、掘削区画への立入を停止」
《資材車両の移動により、搬入工程が六分遅延します》
「排水の遅延十一分より短い。後工程を調整して」
《再計算します》
蒼真はノストスを資材車両の横へ移動させた。タイヤ周辺の地盤を確認してから、車体後部へ作業用アームを当てる。強く押せば泥へ沈むため、右側を僅かに持ち上げ、荷重を抜いた状態でゆっくり北へずらした。
通路が開くと、待っていた作業員が交換機を運び込む。蒼真はその間、掘削箇所の縁へノストスを立たせ、近づこうとする別班へ外部スピーカーから停止を伝えた。
「東端、作業停止。ポンプ交換が終わるまで入らないでください」
作業責任者が泥の中から片手を上げる。古いポンプが引き抜かれ、新しい機体へ配管がつながると、溜まっていた水が目に見えて下がり始めた。
《排水能力、正常値へ回復。遅延見込み、七分》
「西側の資材検査を前倒し。排水待ちの班を回せる?」
《可能です。作業員六名を西側検査へ移動した場合、全体終了予定は十七時十九分となります》
「それでお願いします」
午前の事故は、負傷者を出さずに収まった。
その後も、小さな予定外は続いた。仮設道路へ入った運搬車が泥へ沈み、資材の到着が遅れた。測量用標識の一つが雨で傾き、舗装範囲を再確認する必要が生じた。AIは問題が起きるたび、元の予定へ戻すための最短工程を提示したが、その経路に人や機材が置かれていることまでは、常に把握できるわけではなかった。
蒼真はノストスから現場を見渡し、AIへ条件を加え続けた。通行幅、地盤の状態、作業員の疲労、別班が使用している機材。人が動けない場所へ数字だけを押し込まず、動ける順番へ組み直していく。
午後四時を過ぎる頃には、朝に赤く表示されていた遅延項目がすべて黄色へ変わり、やがて一つずつ消えていった。
《仮舗装工程、完了》
ノストスの前で、最後の転圧車が道路の端まで進む。雨に濡れていた土の道は、まだ簡易的ではあるが、人と車が通れる平らな路面へ変わっていた。
《本日の全工程を完了。時刻、十七時十八分。予定比、二分前》
朝の段階では、少なくとも四十三分の遅延が予測されていた。それが、事故を処理しながら予定時刻の内側へ戻っている。
地上の作業責任者がヘルメットを外し、ノストスへ向かって大きく手を振った。
「橘さん! 明日も来るんですか!」
「予定では来ます!」
「なら、今日のうちに問題を残さないようにします!」
周囲の作業員から笑いが起きた。
蒼真も操縦席の中で僅かに笑い、完成した仮設道路の先を見た。ここへ資材が入り、住宅が建ち、人が戻ってくる。前線で敵を一体止めることとは違う。けれど、ここでも帰れる場所を増やしている。
自分がいるべきなのは、やはりこちらなのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し軽くなった。
同時に、昨日避難していた三十一人の表示が浮かんだ。
前線であの一体を止めなければ、この場所へ帰ってくる人も減る。
軽くなったはずの胸へ、別の重さが戻ってきた。
管理局へ戻る途中、端末へ綾人から連絡が入った。
ノストスを自動搬送車へ固定し、助手席へ移ってから応答すると、画面には綾人の顔ではなく音声通話の表示だけが出た。
『今日は復興現場だったそうだね』
「もう聞いたんですか?」
『評価資料が回ってきた。予定より二分早く終わったらしい』
「事故はありましたが、誰も怪我をしませんでした」
『嬉しそうだ』
三浦にも同じことを言われた。蒼真は窓の外へ目を向ける。新しく仮舗装された道路では、作業を終えた人たちが資材を片づけ、帰り支度を始めていた。
「やはり、自分がいるべきなのはこちらかもしれません」
通信の向こうで、綾人が短く息を吐いた。
『蒼真君。乗る理由を探すな』
「前線へ行く理由ですか?」
『前線に限らない。君は必要だと思える理由を見つければ、自分が嫌でも引き受ける。昨日の試験で救えた人だけじゃなく、今まで救えなかった誰かのことまで考え始める』
言い当てられ、蒼真は返事を止めた。窓ガラスへ映った自分の顔は、驚いているというより、見つかったことへ困っているように見える。
「可能性があるだけです」
『その可能性を一つずつ拾えば、乗らなくていい日はなくなる』
「でも、拾わなければ帰れない人がいるかもしれません」
『そうだ。だから簡単に答えが出ない』
綾人の声は、蒼真を止めようとする強さを保ちながら、考えることまで否定してはいなかった。
『理由があるから乗る、ではなく、乗ると決めた時に何を引き受けるのかを考えろ。理由に押されて操縦席へ座るな』
「違いが、まだ分かりません」
『今すぐ分かったら、僕が何年も悩んだ意味がなくなる』
僅かに笑う気配がして、通話が終わった。
画面が消えたあとも、「乗る理由を探すな」という言葉だけが残った。蒼真は前方へ続く仮設道路を見ながら、今度は答えを探さず、その言葉を持ち帰ることにした。
*
同じ頃、中央防衛局では、橘蒼真の運用方針を決める会議が続いていた。
正面画面の左側には、南西第二区画の復興工程が表示されている。事故発生によって四十三分まで広がった遅延は、ノストス投入後に縮小し、全工程が予定より二分早く終了していた。
「復興現場での運用効果は明らかです」
管理局側の担当者が、過去一か月分の工程表を重ねた。橘蒼真が参加した現場では、予定工程の遵守率が上がり、作業中断から再開までの時間も短縮されている。単に一日の仕事が早く終わるだけではない。道路、住宅、給水設備の復旧が早まることで、避難生活を終えられる住民も増えていた。
「前線へ転用した場合、この効果を失います。現在の配置を維持すべきです」
反対側に座る防衛局の担当者は、昨日のシミュレーター記録を表示した。中型個体の活動停止、三十一人の避難完了、リポルの損耗率二十四・八パーセント。標準制御を切ったあとの機動軌跡が、紫色の線で再現される。
「前線は常に人手不足です。単独で中型個体を止め、高いAI運用能力と低損耗率を同時に示した人材を、戦闘区域外だけで運用する余裕はありません」
「本人は前線勤務を希望していません」
「希望だけで配置を決めることもできません」
画面へ、新しい評価案が表示された。
リポル専用長距離砲。
大型個体を想定した単独および複数機での討伐運用評価。
神代は資料を最後まで読む前に顔を上げた。
「反対だ」
「理由を伺います」
「中型個体を一度止めた結果だけで、大型個体への評価へ進める根拠にはならない。専用武装を持たせれば、橘が救助より討伐を優先するようになるという保証もない」
「討伐を優先させるための評価です」
「なら、なおさら橘を選ぶ理由がない」
久賀は双方の資料を見比べていた。管理局での成果を否定せず、前線で示された能力も過小評価しない。そのため、どちらか一方へ肩入れする言葉は出てこなかった。
「中央戦術支援統合網の推奨案を表示します」
中央画面が切り替わる。
《推奨運用》
《所属、第三中隊を維持》
《通常時、復興および後方支援任務へ配置》
《合同戦闘時、前衛後方の中間支援位置へ配置》
《任務、損傷機回収、退路維持、民間人保護、限定的迎撃》
《専用討伐武装の常時装備は非推奨》
AIは、復興現場か前線かのどちらかを選ばなかった。蒼真を第三中隊へ残し、必要に応じて両方へ届く場所へ置く案だった。
「結論の先送りではありませんか?」
前線運用を求めた担当者が尋ねる。
《否定。対象の能力は複数領域で有効。単一領域への固定は総合的な救命効率を低下させます》
「大型個体への対応能力は未確認のままです」
《未確認であることは、即時確認の必要性を意味しません》
感情のない返答に、会議室が一瞬だけ静まった。
久賀は表示された三案へ目を通したあと、資料を閉じた。
「本日の復興実績を正式記録へ加えたうえで、継続審議とします」
誰も満足しない結論だった。しかし、少なくとも翌日すぐに大型討伐試験が行われることはない。
その時、会議室の照明が白から赤へ変わった。
壁面に埋め込まれた緊急回線が起動し、運用方針の資料が強制的に閉じられる。代わりに表示されたのは、市街地図と、一個中隊を示す四つの機体反応だった。
そのすべてが、灰色に変わっている。
《緊急報告》
《東部第七防衛区へ出動した一個中隊との通信が途絶》
《救援観測機による確認》
《所属機四機、全機行動不能》
《搭乗員の生体反応、確認できず》
神代が椅子から立ち上がった。
「街の避難状況は」
《一部住民の退避を確認。残留者数、不明》
地図が拡大され、住宅地と商業区へ赤い反応が広がっていく。道路上だけではない。倉庫、地下道、集合住宅の内部にも、複数の生体反応が重なっていた。
《敵性個体群、市街地内部へ侵入》
《電力、水道、交通網、停止》
《現時点での区域奪還は不能》
《東部第七防衛区の放棄を提案》
前線運用を主張していた担当者の顔から、先ほどまでの熱が消えた。管理局側の担当者も、復興工程の資料ではなく、赤く染まった市街地を見ている。
一個中隊が全滅した。
街が一つ、人の帰れない場所になろうとしていた。
*
その夜、蒼真は何も知らずに自宅へ帰った。
夕食のあと、美咲が洗濯物を畳み、結衣が食卓で課題を進めている横で、昴は床へ座り込んで頬を膨らませていた。
「くがさん、こない」
「今日、聞いてみたよ」
「こない」
「日程を確認するって」
「きょう、こない」
昴にとって、日程の確認は何の解決にもならないらしい。布製のリポルを両腕で抱え、蒼真から顔を背ける。
美咲は洗濯物から昴の寝間着を取り上げ、笑いを隠すように広げた。
「久賀さんも、お仕事があるからね」
「ぱぱも、おしごと」
「お父さんは帰ってきたでしょう」
「くがさん、かえってこない」
「久賀さんの家は、ここではないよ」
蒼真が説明すると、昴はさらに眉を寄せた。どうやら、問題はそこではないらしい。
結衣が端末から顔を上げ、昴を見た。
「遊びに来てほしいんだよ」
「そう言ってくれれば分かるんだけど」
「二歳に説明の正確さを求めないで」
今日、藤堂にも似たような注意をされた気がした。
美咲は畳んだ寝間着を昴の頭へ載せ、そのまま蒼真へ視線を向ける。
「管理局はどうだった?」
「以前と同じだった。佐伯さんには出戻りと言われて、藤堂さんには仕事へ口を出すなと言われた」
「それで、口を出したの?」
「事故が起きたので」
「出したんだ」
美咲の口元に、いつもの笑みが浮かぶ。責めているわけではないのに、蒼真は少し姿勢を正した。
「作業は予定より二分早く終わったよ」
「嬉しそうだね」
「人が怪我をせず、工程も戻ったから」
答えながら、蒼真は本当に安心している自分へ気づいた。敵を倒さなくても、人を守り、帰れる場所を増やせる。以前と同じ仕事へ戻れたことが嬉しかった。
結衣は端末へ視線を戻しかけたが、指を止めた。
「お父さん」
「何?」
「モンスターって、何なの?」
悪なのか、ではなかった。
生き物なのか。災害なのか。人の生活を壊す敵なのか。直哉から父親を奪い、今日もどこかで誰かを襲っているものを、何と呼べばいいのか。
蒼真には答えられなかった。
「分からない」
「また?」
「うん。でも、分からないままにしていいとは思ってない」
結衣は少し考え、納得したとも、していないとも言わずに頷いた。
美咲は二人の会話を聞きながら、昴の頭から落ちた寝間着を畳み直していた。蒼真へ答えを求めることも、代わりに説明することもしない。食卓の湯飲みが空になったことへ気づくと、いつもどおり立ち上がり、湯を足した。
家の中だけは、昨日と同じ時間が流れていた。
*
夜。
日記。
―――
本日、第三中隊から管理局へ出向し、ノストスで南西第二区画の復興作業へ参加した。
モンスターとの遭遇はなかった。
仮設排水ポンプの能力が低下し、掘削区画へ水が溜まった。AIは交換機を最短経路で運ぶよう提案したが、その経路は資材車両によって塞がれていた。
ノストスで車両を移動させ、作業員の配置と後工程を変更した。負傷者は出なかった。
朝の時点で最大四十三分の遅延が予測されていたが、本日の工程は予定より二分早く終了した。
復興が早く進めば、人が避難先から自宅へ戻れる時期も早くなる。
自分がいるべき場所は、やはり復興現場なのかもしれないと思った。
そのように考えると安心した。
安心したことに、少し罪悪感がある。
三浦一尉は、より多くの人の命を守るために前線へ出ていると話した。敵が街へ到達する前に止めれば、助かる人は増える。
八神さんからは、迷いながら前線へ出れば、自分だけでなく周囲の隊員も危険に晒すと言われた。また、自分は前線に立つ人間ではないとも言われた。
九条綾人さんからは、夕方に連絡があり、乗る理由を探すなと言われた。
理由を探し続ければ、必要とされるたびに乗ることになるためだと思う。
管理局では、佐伯さんに出戻りと言われた。藤堂さんからは、仕事へ勝手に口を出さないよう注意された。森下さんからは、前線へ出るつもりがないことを確認された。
ないと答えるまでに、少し時間がかかった。
久賀さんからは、このまま何事もなければ、現在の勤務が続くと説明された。
今日は何事もなかった。
現場で事故は起きたが、モンスターは現れず、誰も怪我をせず、全員が帰った。
前線へ出なくても、人を帰すことはできる。
前線へ出た方が、さらに多くの人を帰せる可能性もある。
どちらを選ぶべきかは分からない。
美咲は、普段どおりにしていた。
結衣から、モンスターとは何なのかと聞かれた。
分からないと答えた。
昴は、久賀さんが家へ来ないことを怒っていた。
久賀さんは日程を確認すると言っていたため、後日、昴へ説明する。
明日も管理局へ出向する予定になっている。
何事もなければ、今日と同じ仕事をする。
以上。
―――
*
日付が変わる直前、中央防衛局は東部第七防衛区の放棄を正式決定した。
全滅した中隊の救出可能性は、極めて低いと判定された。
しかし、放棄された市街地内部では、敵性個体の反応が増え続けている。倉庫、地下道、集合住宅、水路。人が生活するために作った設備が、そのまま敵性個体の遮蔽物と移動経路へ変わっていた。
このまま定着を許せば、市街地は新たな繁殖拠点となる。
単独中隊による再突入。
成功確率、基準未満。
複数中隊による同時作戦。
必要戦力を算出。
戦闘中隊、三。
フレイムワーカー、十二機。
支援機、三機。
合計、十五機。
三個中隊を統合した臨時大隊の編成案が承認された。
戦闘部隊十二機に加え、後方支援要員三名の派遣も決定される。
作戦目的。
敵性個体群の市街地外流出阻止。
残留住民の捜索。
損傷機および搭乗員の回収。
市街地奪還の可否判定。
支援要員の一人として、橘蒼真の名前が登録された。
本人は、まだ知らない。
翌日も管理局へ向かうつもりで、眠っている。
何事もなければ。
その条件は、すでに失われていた。
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また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




