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第六十二話 倒したあと

 試験当日の朝、蒼真が目を覚ますと、胸の上には何も乗っていなかった。

 珍しいこともあると思いながら身体を起こすと、枕元に置いていたはずの端末が、布団の端へ半分隠れている。時刻を確認しようと手を伸ばしたところで、足元から小さな寝息が聞こえた。

 昴は掛け布団の上で丸くなり、紙で作られたノストスを抱えていた。もう一方の手には布製のリポルが握られ、二機の顔が向かい合っている。

 昨夜、どちらが強いか決められないまま眠ったらしい。

 蒼真が布団から出ようとすると、昴の指からリポルが落ちた。床へ触れる前に受け止め、ノストスの隣へ置く。

「どちらも倒さないよ」

 眠っている昴へ小さく言ってから立ち上がった。

 台所では、美咲が弁当箱へ卵焼きを詰めていた。蒼真の足音に気づくと、箸を持ったまま振り返る。

「おはよう」

「おはよう。今日は早いね」

「目が覚めた」

「眠れなかった?」

「眠ったと思う」

 美咲は弁当箱へ視線を戻し、最後の一切れを隙間へ収めた。

「思う、なんだ」

「何度か時間を見ただけだよ」

「それを眠れてないって言うんじゃない?」

 蒼真は答えず、食卓の椅子を引いた。

 窓の外はまだ薄暗い。夏の朝は早いはずなのに、厚い雲が空を覆い、向かいの家の屋根まで青黒く見えた。雨は降っていないが、開けた窓から湿った風が入ってくる。

 美咲が味噌汁を運び、蒼真の向かいへ座った。

「家族からの条件、伝えた?」

「昨日の夜に送った。試験項目へ追加されたって、朝一番に返事が来てた」

「三つとも?」

「敵を止める。止めたあとも周りを見る。帰還を選べる。全部」

 美咲は頷いたが、安心した様子ではなかった。両手で湯飲みを包み、少し考えてから蒼真を見る。

「倒せなかったら?」

「単独対処能力なしと評価される」

「倒せたら?」

「詳細な分析へ進む」

「そうじゃなくて、蒼真はどうするの?」

 昨日と同じ聞き方だった。

 蒼真は箸を持つ前に、膝の上で一度手を握った。

「倒せなかったら、何が足りなかったのか確認する。倒せたら、そのあとに何が見えていたか確認する」

「よろしい」

 美咲はようやく味噌汁へ口をつけた。

 廊下の向こうで扉が開き、寝癖のついた結衣が顔を出す。制服へ着替えてはいたが、片方の靴下を手に持っていた。

「今日だよね」

「うん」

「結果が出たら?」

「帰る前に連絡します」

「ならいい」

 結衣は短く答え、洗面所へ向かった。

「朝から確認されました」

 蒼真が呟くと、美咲は薄く笑った。

「昨日の『うん』だけでは信用が足りなかったんじゃない?」

 やがて昴が起きてきた。右手にリポル、左手にノストスをぶら下げ、目を擦りながら蒼真の膝へ寄ってくる。

「ぱぱ、りぽる?」

「今日は乗るよ」

 昴の目が少し開いた。

「たおす?」

「できるか試してくる」

「かえる?」

 今度は、答えるまでに時間を置かなかった。

「帰るよ」

 昴は満足したように頷くと、リポルを蒼真の膝へ置き、自分は美咲の隣へ移った。

 食卓の上に残された紫色の機体を、蒼真は出発するまで自分の前へ置いていた。

*

 中央防衛局の全周囲型シミュレーターは、実機格納庫から二棟離れた試験棟に設置されている。

 蒼真が到着した時、建物の外壁は朝の雨に濡れていた。出入口へ続く庇から一定の間隔で雫が落ち、灰色の舗装へ小さな円を作っている。

 受付を通り、地下二階へ下りる。

 廊下の突き当たりにある準備室では、神代と三浦が先に待っていた。三浦は試験用の搭乗服を着ている。別区域で第一中隊を率いる役を、本人が担当することになっていた。

「おはようございます」

「おはよう」

 神代は蒼真の顔を見たあと、手元の端末へ視線を戻した。

「眠れたか?」

「美咲にも同じことを聞かれました」

「答えは?」

「眠ったと思います」

「なら、眠れていないな」

 三浦が僅かに笑ったが、すぐに表情を戻した。

「橘さん」

「はい」

「今日は、俺が向こうを早く終わらせても、橘さんの区域には入れません」

「分かっています」

「通信はつながっています。ただし、状況を聞くことしかできない」

「こちらへ来ようとしないでくださいね」

「試験なので」

「本当に?」

 三浦は返事をするまで僅かに間を置いた。

「努力します」

「来るつもりですね」

「システムが通さないでしょう」

 それは、来ないという答えではなかった。

 三浦は壁際の操作卓へ歩み寄ると、試験用設定の一覧を開いた。項目の半分近くが戦闘補助に関するもので、照準修正、回避支援、自動迎撃といった文字が縦に並んでいる。

「橘さん。リポルの戦闘補助は標準設定のままですか?」

「多分。支援任務では、変えたことがありません」

「今日は、かなり話しかけてくると思います」

 蒼真は画面から三浦へ目を移した。

「AIが?」

「討伐任務では、危険を最短で排除する方法を出し続けます。俺は損傷警告と敵味方の位置だけ残して、戦闘制御はほとんど切っています」

「だから、あれだけ勝手に動けるんですね」

「勝手に、は少し違いませんか?」

「第一中隊の通信記録を見る限りでは」

 三浦は反論しかけたが、神代に見られて口を閉じた。どうやら心当たりはあるらしい。

「全部切る必要はありません」

 三浦は設定画面の中から、戦闘自動制御と情報支援を指で分けた。

「必要なものだけ残せます。橘さんは、俺よりそちらの扱いに慣れているでしょう」

 蒼真は並んだ項目を見直した。現場監督として管理局の端末を使っていた頃も、AIの判断をそのまま受け入れることは少なかった。立入禁止だけを残すのか、全工程を止めるのか。警告を消すのか、提案だけを退けるのか。曖昧な命令を出せば、AIは最も安全な範囲まで作業を止める。

「戦闘中に、そこまで細かく指示できますか?」

「俺には向いていません」

 三浦が即答し、口元を僅かに緩めた。

「でも、橘さんならできると思います」

 準備室の奥にある扉が開き、評価責任者と九条綾人が入ってきた。綾人は防衛局の制服ではなく、濃紺のシャツに黒いズボンを着ている。手にした端末には、外部評価者を示す黄色い帯が表示されていた。

「おはよう、蒼真君」

「おはようございます」

「美咲からも連絡が来た」

「何と言っていましたか?」

「倒せたかどうかだけ見て帰ってきたら、家へは入れないと思ってください、と」

 蒼真は無意識に準備室の扉を振り返った。

「試験の前に帰る場所がなくなりました」

「僕も同じことを言われた。外部評価者として何を見ていたのか、あとで説明することになっている」

「綾人兄さんも家族会議に参加するんですね」

「僕は報告する側だけどね」

 綾人の笑みは少し硬かった。

 評価責任者が壁面の画面を起動する。黒い背景へ、試験区域の立体図が浮かび上がった。

 再現されるのは、郊外の住宅地と工業区域の境界だった。北側に第一中隊の戦闘区域があり、南側には避難所へ続く二車線道路が延びている。その途中に、住民を乗せた二台の車両と、徒歩で避難する十九人が表示された。

 リポルの開始位置は、住民から百二十メートル北東。

 中型個体は、リポルの正面百八十メートル。

 敵が住民へ到達するまでの予測時間は、百四秒だった。

「敵の進行方向を変えた場合、西側の生活道路へ入ります。そこにも避難中の住民がいます。東側は倒壊した建物で通行できません」

 評価責任者が立体図を回転させる。

「後退した場合は?」

 蒼真が尋ねる。

「敵は最短距離で避難車両へ向かいます」

「煙幕で誘導は?」

「過去の学習記録を反映し、視界を失ったあとは音と振動を追跡します」

「住民へ、車両を捨てて建物へ入るよう指示することは?」

「周辺の建物は、すでに避難済みとして施錠されています」

「解除は?」

「間に合いません」

 一つ尋ねるたび、画面の地図から道が消えていく。

 分かっていた。

 それでも蒼真は、住民と敵の位置を何度も確認した。自分が見落としている場所に、誰も倒さずに済む経路が残っている気がした。

「開始条件は以上です」

「試験の中断は?」

「本人の申告、または生体反応が基準値を超えた場合に行います」

「住民へ被害が出た時点では?」

「継続します。単独対処不能と判断されるまで、行動記録を取得します」

 蒼真は画面から視線を外し、評価責任者を見た。

「助けられなかったあとも、続けるんですね」

「シミュレーターです」

「分かっています」

 分かっていても、嫌だった。

 神代が立体図の前へ一歩出る。

「追加条件を確認する。敵性個体の停止だけで成功とは判定しない。停止後の周辺認識、救助判断、帰還判断を同時に記録する」

「反映済みです」

「停止後に別の敵を出すのか?」

「追加出現はありません。ただし、第一中隊側の戦闘と、周辺の救助要請は継続します」

「橘へ、次の戦闘を命令する通信は?」

「行いません」

 綾人が画面へ近づき、住民の配置を拡大した。

「停止した瞬間に試験を終了しないでください。最低三分間、環境を維持してください」

「理由は?」

「蒼真君が何を見るか確認するためです」

 評価責任者は数秒考えたあと、条件へ追加した。

「三分間、継続します」

 蒼真の正面に、リポルの機体情報が表示される。

 右腕防盾。

 短距離防御砲、六発。

 煙幕弾、四発。

 黒滝谷で使用したものと同じ構成だった。

「長剣はないんですね」

「ありません」

「第一中隊の標準武装だから?」

「リポルの固定装備ではないためです」

 敵を倒せと求めながら、倒すために作られた武器は与えない。

 黒滝谷の記録から、今ある装備だけで可能だと判断されている。

 そのことが、追加武装を渡されるよりも重く感じられた。

「橘」

 神代が呼ぶ。

「今なら、まだ断れる」

 蒼真は画面の住民表示を見た。

 十九人。

 実在しない。

 怪我をすることも、死ぬこともない。

 それでも、同じ配置が実際に生まれた時、画面の数字は誰かの名前へ変わる。

「受けます」

 神代は止めなかった。

「分かった」

*

 全周囲型シミュレーターの操縦席へ身体を固定すると、頭上から半球状の画面が下りてきた。

 準備室の白い壁が消える。

 代わりに、雨上がりの住宅地が現れた。

 濡れた道路に信号機の赤が映り、低い建物の屋根から雨水が落ちている。遠くでは黒い煙が上がり、第一中隊の戦闘音が遅れて届いていた。

 足元の感覚まで変わる。

 操縦桿を握る蒼真の身体は椅子に座っているはずなのに、意識は十メートルを超えるリポルの頭部へ持ち上げられていた。

《接続確認》

「橘蒼真。接続」

《第一中隊、接続》

『三浦。接続』

《評価開始まで、十秒》

 正面画面の端に、住民十九人の反応が並ぶ。

 避難車両二台。

 南側交差点まで、二百六十メートル。

 北側では、第一中隊の機体反応が四つ動いている。その周囲に、中型一体、小型七体。

 三浦のいる場所まで、八百四十メートル。

 来られない。

 蒼真は右腕を動かし、防盾の追従を確認した。左腕の短距離防御砲を展開する。砲身が前腕部の装甲からせり出し、残弾数が六と表示された。

《三》

《二》

《一》

《開始》

 百八十メートル先の交差点で、横転していた輸送車が持ち上がった。下から中型個体が姿を現す。四本の脚で舗装を踏み割り、背中に並ぶ突起を震わせた。頭部は低く、前方へ張り出した二本の角が雨に濡れている。右前肢には裂傷があるが、歩行速度に大きな変化はない。敵はリポルを見た。次に、その背後で動く避難車両へ頭部を向けた。

《到達予測、百一秒》

《脅威度、上昇。頭部への先制射撃を推奨します》

「まだ撃たない」

《推奨を保留。自動照準を継続します》

 蒼真は防盾を前へ向け、道路の中央へ出た。

「第一中隊」

『戦闘中』

「こちら、中型一」

『確認』

 三浦の返事は短い。その背後で銃声が続き、通信が途切れた。中型個体が走り出す。最初の一歩で身体が沈み、次の一歩で速度が上がった。角が正面を向き、四肢が水を蹴り上げる。蒼真は防盾を身体の中央に置かず、右斜めへ傾けた。真正面から受ければ、リポルごと住民側へ押される。敵の左角を盾の外側へ滑らせ、東へ頭部を向ける。接触まで五秒。四。三。蒼真は右足を半歩引いた。二。敵の前肢が舗装を抉る。一。角と防盾がぶつかった。衝撃が右腕から肩へ抜け、操縦席が大きく揺れる。防盾の表面を角が削り、金属片と雨水が同時に飛んだ。蒼真は押し返さない。右肘を畳み、腰を左へ回す。敵の力を盾の表面へ流しながら、前へ踏み込んだ。中型個体の頭部が東へ逸れる。

 巨体がリポルの右側を通り過ぎ、歩道へ乗り上げた。街路樹を折り、低い塀へ肩から衝突する。

《進路変更》

《西側生活道路へ再設定》

 敵が塀を踏み崩し、身体を反転させた。東へ向けても、南へ戻る。蒼真は煙幕弾を一発、敵と避難車両の間へ撃ち込んだ。白煙が道路を覆い、住民の姿を隠す。中型個体は足を止めた。頭部を左右へ振り、視覚以外の情報を探る。

「車両、停止しないで」

《了解》

 エンジン音が上がった。煙の向こうを車両が進む。敵の頭部が、正確にその方向へ向いた。四肢が沈む。蒼真は短距離防御砲を構え、左前肢を狙った。

《頭部命中率、六十八パーセント。即時排除を推奨します》

 撃てば、足は止まる。倒れた敵が道を塞いでいる間に、十九人を逃がせる可能性がある。引き金へ指をかける。その瞬間、中型個体が煙の中へ跳んだ。

「速い」

 狙いが外れる。

《照準逸脱。自動迎撃制御へ移行します》

「移行しない」

 蒼真は撃たず、リポルを左へ踏み込ませた。煙の中から現れた角が、防盾の下端へ食い込む。右腕が跳ね上がった。敵の前肢がリポルの胸部を薙ぐ。装甲へ三本の爪痕が走り、警告表示が赤く点滅した。

《胸部装甲損傷、七パーセント》

《搭乗者および避難者の安全確保を優先。攻撃許可を要求します》

「拒否。進路を塞ぐ」

 機体が後ろへ滑る。中型個体は追わない。リポルの横を抜け、煙の向こうにいる住民へ走る。

「行かせない」

 蒼真は右足を地面へ打ち込み、機体を反転させた。防盾の縁を、敵の右後肢へ当てる。脚を払うのではない。踏み出す位置を、半歩だけ内側へずらす。中型個体の後肢が交差した。巨体が傾き、左肩から道路へ落ちる。水しぶきと砕けた舗装が、白煙の中へ広がった。

《到達予測、七十六秒》

 蒼真は倒れた敵と住民の間へ立った。

「避難状況」

《車両一、交差点まで百八十。車両二、二百三十。徒歩十九、平均二百四十》

 間に合わない。中型個体が起き上がる。右前肢の裂傷が開き、黒い液体が舗装へ落ちた。それでも動きは鈍らない。頭部を下げ、防盾のない左側へ回ろうとする。蒼真は同じ方向へ移動した。敵が右へ。リポルも右へ。左へ踏む。リポルが先に塞ぐ。中型個体は二度方向を変え、三度目には動きを止めた。学習している。正面にいるリポルを退けなければ、住民へ届かないと理解した。敵の視線が、避難車両からリポルへ移る。

《交戦状態を確認。戦闘自動制御を待機します》

 蒼真は防盾を上げた。中型個体は走らない。間合いを詰め、左前肢を横から振った。防盾で受ける。爪が表面を滑り、その直後に右前肢が低い位置から入った。二段目。蒼真は盾を下げ切れず、リポルの脇腹へ衝撃を受けた。機体が横へ傾く。敵の頭部が突き出され、角が左肩装甲を貫いた。

《左肩駆動、低下》

 警告音。中型個体が角を振り上げる。リポルの左足が地面から浮いた。蒼真は右腕の防盾を、敵の頭部へ押しつけた。持ち上げられたまま盾を回し、角の向きを外側へ変える。左肩の装甲が裂けた。リポルが地面へ落ちる。膝をついた瞬間、蒼真は短距離防御砲を敵の右前肢へ向けた。引き金を引く。砲声が住宅地を揺らした。至近距離から撃ち出された弾体が裂傷の上へ入り、中型個体の前肢が外側へ弾かれる。敵の胸部が地面へ落ちた。

《残弾、五》

 倒れている。今なら、頭部を狙える。

《頭部命中率、九十二パーセント》

《自動射撃を推奨します》

 蒼真は砲口を向けた。中型個体の目が動き、煙の薄れた先にいる避難車両を捉える。前肢へ力が戻る。起き上がる。蒼真は撃たなかった。

「自動射撃は使わない」

《安全確保に必要な停止時間を超過する可能性があります》

 防盾で頭部を押さえ、砲口を右前肢へ戻す。もう一発。同じ場所へ撃ち込む。右前肢が折れ、巨体が再び傾いた。

《残弾、四》

《敵性個体、移動能力低下》

《到達予測、百四十秒》

 時間が増えた。

「避難を継続」

《継続中》

 これで待てるかもしれない。蒼真は敵の頭部を防盾で押さえたまま、住民の反応を見る。車両一、交差点まで百二十メートル。車両二、百六十。徒歩十九人、最も遅い反応まで百九十メートル。中型個体の左前肢が防盾の縁を掴み、三本の爪を外装へ食い込ませた。右前肢を失ってなお、巨体は頭部を押さえ込む盾ごと起き上がろうとする。蒼真はリポルの右膝を敵の首元へ当て、上体を預けるようにして押し込んだ。敵が頭を振るたび、防盾を通して右腕全体が激しく揺さぶられる。負荷表示が六十二、七十一と上がり、八十三を越えたところで、右肘の奥から太い金属を捻るような音が響いた。

《右腕機能喪失の危険が基準値を超過しました。搭乗者の安全確保、避難者への到達阻止、機体損傷の抑制を同時に満たす手段として、戦闘自動制御への移行を開始します。対象頭部への二連続射撃後、左側方へ自動回避することで、対象の活動停止確率は八十八・四パーセント、リポルの重大損傷回避率は――》

「長い」

 操縦桿が蒼真の掌の中で勝手に傾き、左腕の砲口が敵の頭部へ上がり始めた。腰部の駆動まで先回りして動き、リポルの重心が左へ移されていく。

《説明を短縮します。即時射撃および自動回避を推奨します。推奨理由は、第一に避難者十九名および車両乗員十二名の生存確率、第二に搭乗者の――》

「それも長い。待って」

《待機によって対象の移動再開を許した場合、避難者への到達予測は七十一秒へ短縮されます。安全確保を最優先するため、待機要求を受理できません》

 平板な声には焦りも苛立ちもなかった。右腕が壊れかけ、敵が目の前で暴れていても、管理局の窓口で工事計画を確認している時と何も変わらない。尋ねれば根拠を順番に並べ、こちらが遮らなければ、判断に用いた条件を最後まで説明しようとする。管理局の現場監督になって間もない頃、配管から微量の薬品が漏れ、AIが作業区画だけでなく隣接棟まで封鎖したことがあった。復旧を急ぐ責任者は、解除要求を繰り返す蒼真の隣で、赤く染まった端末を指して言った。――AIは安全を優先する。間違ったことは言わない。ただ、現場を見ているわけじゃない。数字の上で一番安全な方を選んでいるだけだ。

 あの時、蒼真は封鎖をすべて解除したのではない。漏洩区画の隔離と濃度監視を残し、資材搬入口だけを人の判断で開けた。AIが従わなかったわけではない。こちらの要求と責任範囲を、AIが受理できる言葉へ分けるまでに時間がかかったのだ。同じやり取りを、戦闘中に最初から繰り返す時間はない。

「命令系統を再設定。戦闘判断は搭乗者へ移譲。照準、射撃、回避、姿勢制御の自動介入を停止」

《姿勢制御には、機体転倒時の搭乗者保護および関節負荷を分散するオートバランサーが含まれます。全停止は推奨されません。停止した場合、急旋回時の転倒危険が三十二・六パーセント上昇し――》

「推奨は確認した。オートバランサーも切る。主導権を自分へ」

《指示の目的を確認します》

「リポルを自分の動きに遅れなく追従させるため。戦闘結果の責任は自分が負う」

《責任主体を搭乗者へ変更。権限を確認しました》

「AIは民間人の避難状況、退路、敵の到達時間を継続監視。三つを最適化して表示。機体損傷と弾薬は警告だけ。戦闘への介入は禁止」

《受理しました。戦闘制御権限を橘蒼真へ移譲します。情報支援を避難および退路維持へ再構成します》

 操縦桿を引いていた抵抗が消えた。同時に、リポルを真っ直ぐ立たせようとしていた補正も失われる。巨体に押された右脚が横へ滑り、機体が大きく傾いたが、蒼真は戻そうとしなかった。倒れまいとする力を抜き、傾いた勢いのまま腰を回す。防盾の角度が変わり、押し合っていた中型個体の力が行き場を失った。敵の頭部が盾の表面を滑り、リポルの右側へ落ちる。蒼真はその首へ右肘を被せるように防盾を残し、左足を敵の腹側へ踏み込ませた。人間なら崩れた姿勢だったが、補正の消えたリポルは、蒼真が思い描いた不均衡な動きを遅れなくなぞった。

「三浦一尉」

『いる』

「あと何秒ですか?」

『九十』

「来ないでください」

『分かっている。そちらを見ろ』

「はい」

 通信の向こうで長剣が硬いものを断つ音がし、すぐに銃声へ呑まれた。援軍は間に合わない。最初から分かっていた事実が、今度は不思議なほど静かに胸へ落ちた。中型個体が身体を捻り、盾の下から首を抜いた。折れた右前肢を引きずりながら三本の脚で舗装を掻き、避難車両へ向かって走り出す。蒼真は追いすがるのではなく、敵の進路へ斜めに踏み込んだ。右腕は壊れかけている。それでも防盾の縁を肩へ当て、走る力を横へ流せば、敵の巨体は西へ向きを変えた。西側生活道路の住民表示が、即座に赤へ変わる。

《西側住民十二名。対象進入時の退避完了率、四十一パーセント。東側は倒壊建物により通行不能。南側避難列の最後尾まで百七十二メートル》

 東にも西にも流せない。後ろへ戻そうとすれば、右腕が先に壊れる。ここで足を止め続けても、避難完了まで持たない。左腕の砲口を敵へ向けると、照準円が角の付け根へ重なった。指は引き金に触れたまま動かない。相手が人ではないことは分かっている。それでも、壊すためではなく、命を終わらせるために撃つことへの恐怖は消えなかった。脳裏に浮かんだのは、朝の食卓だった。寝癖をつけた結衣。両手にリポルとノストスを持った昴。湯飲みを包みながら、必ず帰ってこいとは言わず、倒したあとに何を見るのかと尋ねた美咲。もし、画面の向こうにあるのが自宅へ続く道だったなら。避難車両の窓にいるのが、結衣や昴だったなら。自分は、守れる力があるのに、殺したくないという理由だけで操縦桿を離せるのか。

 離せない。その答えが出た瞬間、恐怖がなくなったわけではなかった。息は浅く、指先は冷たい。撃てば何が起きるのかも分かっている。それでも蒼真は、逃げ道を探すためではなく、敵を止めるためにリポルを前へ出した。

「避難完了まで」

《最遅者、六十八秒。対象到達まで五十三秒》

「射線上の民間人」

《なし》

 中型個体が地面を蹴った。蒼真は防盾を胸の前へ戻さず、右腕を低く残した。角が届く直前、左足を軸に機体を半身へ開く。オートバランサーが働いていれば止められた角度まで上体を倒し、突進を紙一重で外へ流した。敵の角が胸部装甲を掠め、火花が視界を横切る。すれ違う一瞬、蒼真は砲口を脇腹へ押しつけた。

「一発」

 引き金を引くと、密着した砲声が装甲越しに腹へ響いた。弾体が胸郭の奥へ入り、中型個体の前半身が沈む。だが、後肢は止まらない。倒れながら爪を振り、リポルの左脚へ引っかけた。機体が傾く。姿勢補正は戻らない。蒼真は右脚で踏ん張らず、自分から膝を落とした。爪が膝装甲の上を滑り、敵の腕が伸び切る。その付け根へ防盾の縁を叩き込み、地面へ縫い留めた。

《左脚外装損傷。走行能力、七十二パーセント。避難列との距離――》

「距離だけ」

《百四十九メートル。到達予測、四十七秒》

 敵が口を開き、盾へ噛みつこうと首を捻った。外皮に覆われていない下顎の内側が見える。蒼真は左腕を真っ直ぐ伸ばさず、肘を畳んだまま砲口を差し入れた。

「二発」

 発射の衝撃で敵の頭部が跳ね上がった。黒い液体が盾とリポルの胸部へ散り、巨体が痙攣する。それでも左前肢が舗装を掻き、身体を南へ向けようとした。まだ生きている。まだ進もうとしている。ここで目を逸らせば、最初の二発まで無駄になる。

 展示されていたフレイムワーカーへ乗り込み、家族の前へ立った敵に拳を振り下ろした、あの日と同じだった。あの時は怒りと恐怖で何も見えなくなり、止めるという判断だけが残っていた。今は違う。敵の動きも、避難者の位置も、自機の損傷も見えている。罪悪感まで、はっきり残っている。それでも、やるべきことは分かった。

 蒼真は防盾で頭部を地面へ押し戻し、最初の弾が開けた傷へ砲口を合わせた。敵の目が動き、離れていく車両を追う。その視線の先へ、自分の家族ではない誰かの家族がいる。

「止める」

 三発目を撃った。中型個体の頭部が舗装へ打ちつけられ、四肢が大きく伸びた。後肢が二度、空を蹴る。蒼真は砲口を外さず、胸部の僅かな上下を見ていた。動きが止まりかけ、再び左前肢の爪が曲がる。躊躇は残っていた。しかし、判断は終わっている。四発目を撃つと、低い砲声が濡れた住宅地を走り、中型個体の身体から力が抜けた。防盾へ食い込んでいた爪が外れ、重い腕が路面へ落ちる。

《敵性個体、活動停止》

 住宅地から戦闘の音が消え、軒先の雨樋から落ちる水滴だけが、不自然なほど大きく聞こえた。蒼真は砲口を下ろさず、倒れた敵の頭部へ照準を置いたまま、胸部や四肢が再び動かないかを見続けた。数えるつもりはなかったが、一秒、二秒と時間が過ぎ、三秒目にも敵は動かなかった。

《活動反応、なし》

 停止した。自分が倒したのだと理解した瞬間、胃の奥が強く縮んだ。達成感はなく、避難者を守れたという安心も、すぐには湧いてこない。耳へ届くのは、右肘の駆動停止、左肩の出力低下、胸部装甲の損傷を知らせる警告音ばかりだった。

 蒼真は横たわる敵を見つめたまま、次に何を見るべきなのかを一瞬だけ見失った。そこで、美咲に尋ねられた言葉が浮かんだ。

 倒したあとも、今までどおり帰ってこられるのか。

 それに重なるように、結衣の「そっちからも帰るの?」という声が聞こえ、最後には、リポルも帰るのかと尋ねた昴の顔が脳裏に現れた。試験はまだ終わっていない。蒼真は短く息を吐き、敵へ向けていた砲口を下ろした。

「避難状況」

《車両一、交差点通過。車両二、残り四十。徒歩十九、最後尾まで七十二》

 表示された距離を見て、蒼真は視線を南側道路へ移した。一台目の車両はすでに交差点を抜けていたが、二台目はまだ四十メートル手前にあり、その後ろを走る徒歩避難者の列も伸びたままだった。まだ全員は逃げ切っていない。

「負傷者」

《転倒、二。歩行可能》

「最後尾へ誘導を」

《了解》

 AIが転倒した二人へ誘導表示を送る間に、蒼真は周辺地図を広げた。西側生活道路には十二人の反応が残っていたものの、移動速度にも生体情報にも異常はない。東側の倒壊建物にも、新たな熱源は表示されなかった。

 そこから地図を北へ動かすと、第一中隊の四つの機体反応のうち、一つだけが道路上で停止していた。敵を倒した直後まで見えていなかった情報に気づき、蒼真は通信を開く。

「第一中隊」

『こちら三浦』

「三番機が停止しています」

『脚部損傷』

「回収は?」

『四番機がつく』

 画面上では、四番機が三番機の左側へ回り込み、回収のために腕を伸ばしていた。その動きを確認した直後、二機の右側を小型個体が一体だけすり抜ける。小さな赤い反応は北側道路を外れ、そのまま南へ向きを変えた。

《新規脅威。距離、六百二十》

 短距離防御砲には二発残っている。右腕は動かず、左肩も損傷していたが、小型一体なら止められる可能性はあった。蒼真は北側の敵へ機体を向けかけ、無意識に右足を一歩だけ踏み出した。

 その時、視界の端で避難住民の最後尾が赤く点滅した。先ほど転倒した二人が列から遅れ、交差点まで六十八メートルを残している。一方、南下する小型個体の到達予測は九十二秒。リポルが迎撃のため北へ向かえば、逃げる二人のすぐ横を通過しなければならない。

 戦うことはできる。しかし、右腕を失った状態では、小型個体を受け止めた際に住民側へ弾く可能性があった。自分が行くことだけが、二人を守る方法ではない。

「三浦一尉」

『見えている』

「小型一、南下」

『二番機を回す』

「間に合いますか?」

『八十秒』

 二番機なら、敵より十二秒早く到達できる。蒼真は北へ向けかけた機体を止め、踏み出した右足を元の位置へ戻した。

「任せます」

『任された』

 任せたからといって、蒼真はその場を離れなかった。リポルを避難者の後方へ下げ、二番機が止め損ねた場合に、最後の壁として二人との間へ入れる位置を取る。

 画面上では二番機が北側道路を駆け下り、南下する小型個体と交差した。すれ違いざまに槍が横へ伸び、敵の身体を避難者から遠ざけるように北側の車線へ押し戻す。

《脅威進路、変更》

 脅威表示が避難経路から外れたことを確認しても、蒼真は追わなかった。二番機へ任せた以上、自分が見るべきなのは、まだ交差点へ届いていない人たちだった。

「徒歩避難、状況」

《十九人、交差点通過》

「全員?」

《全員》

 全員という返答を聞き、蒼真はようやく張りつめていた息を吐いた。これで、少なくとも避難していた人たちは帰せた。

 だが、周辺図にはまだ黄色い警告が残っていた。中型個体が現れた時に持ち上げた無人の輸送車が道路を半分塞ぎ、停止した敵の後肢が反対車線へはみ出している。このままでは、救急車両も回収班も通れない。

「南北道路の通行幅は?」

《最小二・八メートル。大型回収車両は通行不能です》

 倒したのだから終わりだと、AIは言わなかった。ただ、通れないという事実だけを示した。

 蒼真は、先ほどとは別の現場を思い出した。工事中の資材が崩れ、幸い誰も怪我をしなかった日のことだった。安全確認を終えて報告書を閉じようとした蒼真へ、現場責任者が散乱した資材を顎で示した。

 ――安全を確認しただけでは、現場は終わらない。人を帰して、使った物を戻して、明日また仕事ができるようにして、ようやく終わりだ。

 敵を倒すことは、これまでの仕事とは違う。それでも、危険を取り除いたあとに現場を戻すことまで、別の仕事になるわけではなかった。

「輸送車を路肩へ移動させます」

《右腕駆動停止。作業時の転倒危険度、十八パーセント》

「左腕だけで動かせる位置を出して」

《把持候補を表示します》

 輸送車の後部フレームへ青い印が灯った。リポルは倒れた中型個体を迂回して車体の横へ膝をつき、動かない右腕を胴体へ寄せたまま、左手で歪んだ後部フレームを掴む。左肩の警告が黄色から橙へ変わったため、一度に持ち上げず、まず車体を傾けて下へ入り込んだ瓦礫を外した。

 重心が路肩側へ移ったところで、蒼真は脚部を使ってゆっくりと車体を引く。潰れた車輪が濡れた舗装を擦り、輸送車の前端が白線を越えたところで、塞がれていた道路の幅が開いた。

「再計測」

《最小四・九メートル。大型回収車両、通行可能》

「中型個体の回収位置を記録。道路側の後肢に接近警告を設定」

《記録しました》

 蒼真は立ち上がり、開いた道路を南から北まで見通した。避難者はいない。北側の戦闘も収束へ向かい、損傷した三番機は四番機に支えられて移動を始めている。

 そこまで確認して、蒼真はようやく倒れた中型個体へ背を向けた。

「帰還します」

《試験継続、残り三十四秒》

「避難完了。第一中隊は戦闘継続中。リポルは右肘停止、左肩駆動低下。残留する理由はありません」

 返事はすぐに来なかった。

 評価室で、誰かが話している気配だけが通信へ混じる。

《帰還を許可します》

 蒼真は南側の帰還地点へ機体を向けた。

 背後には、停止した中型個体が残っている。

 北では、まだ戦闘が続いていた。

 助けを求める通信はない。

 損傷機の回収は始まっている。

 避難住民は全員、交差点を通過した。

 蒼真は一度だけ全体地図を確認し、リポルを歩かせた。

 撃破数の表示は見なかった。

《帰還地点、到達》

《評価終了》

 住宅地の景色が消える。

 白い準備室の壁が戻ってきた。

 蒼真は操縦桿を握ったまま、しばらく手を離せなかった。

 指先に力が入っている。

 意識して一本ずつ開く。

 右手。

 左手。

 固定具が解除され、頭上の画面が上がった。

 立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。背もたれへ身体を預け、呼吸を整える。

 扉が開いた。

 神代が最初に入ってくる。その後ろに三浦と綾人がいた。

 誰も、すぐには何も言わなかった。

 蒼真は三人の顔を順に見た。

「住民は全員、帰れましたか?」

「全員、避難完了だ」

 神代が答える。

「第一中隊は?」

「全機帰還。三番機の損傷率は二十一パーセント」

「リポルは?」

「二十四・八パーセント。右腕は使用不能だ」

 実機ではない。

 分かっていても、蒼真は息を吐いた。

 三浦が操縦席の横へ来る。

「橘さん」

「はい」

「倒しましたね」

「倒してしまいました」

 三浦の目が僅かに動いた。

「後悔していますか?」

「分かりません。ほかに方法がなかったか、まだ考えています」

「俺には、なかったように見えました」

「作った側が、ないようにした試験ですから」

「そうですね」

 三浦は操縦席の表示履歴へ視線を落とした。

「途中で、戦闘自動制御を切りましたね」

「勝手に撃とうとしたので」

「AIとしては、避難者も橘さんも助かる確率が一番高い方法を選んだんでしょう」

「分かっています。あれは安全を優先しただけです」

 蒼真は力の抜けた右手を見た。自動制御を止めたあとも、AIが示した命中率と損傷予測は使っている。提案を拒否したのではなく、決める役割だけを返してもらった。

「管理局では、全部止めると余計に危なくなることがあります。必要な監視まで消えますから」

 神代が腕を組み直した。表情は変わらなかったが、視線だけが表示履歴と蒼真の間を往復している。

「違う。聞きたいのは、なぜあれだけの権限変更を戦闘中に通せたかだ」

「目的と、残す機能と、責任を負う人を分けて伝えたからです」

「それだけか?」

「はい。業務でも同じなので」

 蒼真が当然のことを答えたつもりで三人を見ると、誰も頷かなかった。三浦は開いた設定履歴をもう一度読み、綾人は端末を持ったまま眉間を押さえている。

「蒼真君。通常、搭乗者が戦闘中に機体制御権限を組み替えることは想定されていない」

「でも、変更項目がありました」

「項目があることと、あの時間でAIに承認させることは別だよ」

「必要事項を順番に言えば通ります」

 綾人は何か言いかけ、結局、口を閉じた。三浦が神代へ顔を向ける。神代も同じ瞬間に三浦を見た。

 その短い視線のやり取りが何を意味したのか、蒼真には分からなかった。

 三人の頭に浮かんだ言葉は同じだった。

 最前線に置かれても、おかしくない。

「俺なら最初から切っています」

「三浦一尉は、AIより先に動くので」

「褒められたと思っておきます」

 三浦はそれ以上、撃破について何も言わなかった。

 綾人が端末を閉じる。

「蒼真君。倒した直後、三・二秒間だけ敵を見ていた」

「長いですか?」

「短い。活動停止を確認する時間として必要な範囲だ。そのあと、避難状況を確認した。第一中隊の停止機を見つけ、小型個体にも気づいた」

「向かいかけました」

「一歩だけね」

「戦おうとしたんだと思います」

「違う」

 綾人の答えは早かった。

「君は、止められる位置へ行こうとした。けれど、二番機が間に合うと分かって任せた。撃破直後の高揚で次の敵を求めた動きではない」

「高揚はありませんでした」

「記録にも出ていない。心拍は高かったが、恐怖反応だ」

 神代が腕を組み、操縦席へ残る蒼真を見下ろす。

「帰還命令を待たず、自分から帰還を申告した」

「残る理由がなかったので」

「それでいい」

「評価は成功ですか?」

 蒼真が尋ねると、三人はすぐに答えなかった。

 準備室の外では、評価担当者たちが記録を確認している。扉の向こうから、数値を読み上げる声が聞こえた。

 綾人が神代を見る。

 神代は、蒼真から視線を逸らさずに答えた。

「敵を止めた」

「はい」

「止めたあとも周囲を見た」

「はい」

「自分で帰還を選んだ」

「はい」

「三つとも満たした」

 家族会議で決めた条件だった。

 防衛局の評価が何と記録するかは、まだ分からない。

 それでも、少なくとも美咲へは、三つとも満たしたと話せる。

 評価責任者が遅れて準備室へ入り、手元の端末と蒼真を交互に見た。

「橘二尉。避難完了後に、なぜ輸送車を移動させたのですか?」

「回収車両が通れなかったからです」

「評価項目にはありません」

「でも、現場には残っていました」

 評価責任者は次の質問を探すように画面へ目を落としたが、神代が先に息を吐いた。

「橘にとっては、討伐だけで現場が終わるわけではない」

「人が帰って、回収する人が入れるところまでは必要だと思います」

 綾人が僅かに俯き、口元へ手を当てた。笑ったわけではない。けれど、評価する側が用意した試験の終点と、蒼真が見ていた終点が違っていたことには気づいたらしい。

 蒼真は固定具の外れた操縦席から、ゆっくり立ち上がった。

「連絡してきます」

「先に休め」

「帰る前に連絡すると約束しました」

「まだ帰らないだろう」

「結果が出たら、帰る前に、です」

 神代は何か言おうとしたが、綾人が首を横へ振った。

「それは先に送った方がいい。僕も報告しないと家へ入れない」

 三浦が不思議そうに綾人を見る。

「九条さんも?」

「橘家の決定なので」

 蒼真は端末を取り出した。

 指先には、まだ僅かな震えが残っている。両手で持ち、短い文章を入力した。

《試験終了。中型個体を停止した。停止後、避難完了と第一中隊の状況を確認して、自分で帰還を申告した。三つともできた。これから詳しい結果を聞く》

 送信する。

 返事は一分も待たずに届いた。

《分かりました。お疲れさま。帰ってきてから聞きます》

 その下へ、続けて結衣から届く。

《倒した数だけ見てない?》

 蒼真は画面を神代へ見せた。

「まだ確認されます」

「当然だ」

 蒼真は結衣へ返信した。

《見てない。何発撃ったかは覚えてるけど、撃破数の表示は見なかった》

 少しして、短い返事が来る。

《ならいい》

 その直後、美咲の端末から音声が送られてきた。

『ぱぱ、りぽる、かえった?』

 昴の声だった。

 蒼真は、ようやく少し笑った。

《帰ってきたよ。お父さんも帰る》

 送信してから、もう一度操縦席を見る。

 試験は終わった。

 倒せることを証明してしまった。

 同時に、倒したあとも帰れることを、少なくとも一度は証明した。

 その二つのうち、防衛局がどちらを重く見るのか。

 これから始まる評価で決まる。

*

 評価室を出たあとも、蒼真の中では答えの出ない問いが回り続けていた。

 戦いたくはない。危険な場所にもいたくない。その気持ちは試験を受ける前と何も変わっていない。中型個体へ最後の一発を撃った感触を思い出すたび、握っていないはずの操縦桿が掌へ戻ってくる。

 それでも、守るための力は必要ではないのかという考えも、もう追い出せなかった。

 かつて、フレイムワーカーへ乗ることを求められた時、蒼真は辞表を出すとまで言った。自分が戦う理由などなく、管理局の仕事を辞めれば元の生活へ戻れると思っていた。

 今なら、同じことを言えるのだろうか。

 今日の住宅地が、自宅の近くだったなら。避難車両の中に結衣や昴がいたなら。あるいは、逃げ遅れていたのが、結衣の友人の父親や母親だったなら。

 そこまで考えた時、蒼真は平岡直哉のことを思い出した。

 結衣が小学生だった頃、直哉は、父親を殺したモンスターは悪だと言った。結衣は分からないと答え、それをきっかけに二人は言い争いになった。

 あの日、結衣は蒼真にも、モンスターは悪なのかと尋ねた。蒼真も、分からないと答えた。人を襲う個体は止めなければならない。それでも、モンスターというだけですべてを悪だと言い切ることはできなかった。

 それから年月が過ぎ、結衣が中学生になったあとの家族旅行で、蒼真は母親と一緒にいた直哉と再会した。水族館で自分もワーカーになると宣言した直哉へ、蒼真は適性試験の話をしたあと、蝶々結びができるかと尋ねた。

 あの時は、父親を失った直哉がワーカーを目指すことと、今回の試験で自分が敵を倒すことが、同じ場所へつながるとは考えていなかった。

 蒼真は、直哉の父親がどのような状況で亡くなったのかを知らない。どこにいて、何から逃げ、助けが間に合う距離にいたのかも分からない。それでも、今の自分がその場にいたなら、帰すことのできる可能性はなかったのだろうかと考えた。

 だが、もし助けられなかったことを理由にモンスターを悪だと決めれば、直哉と結衣へ答えた「分からない」を、自分で捨てることになる。反対に、悪だと決められないから殺してはいけないと言えば、今日避難していた三十一人を守れなかったかもしれない。

 どちらか一方を選べば、簡単になる。けれど、どちらを選んでも、見えなくなるものがあった。

 次に襲われるのは、学校行事で顔を合わせた誰かかもしれない。昴と遊んでくれた誰かかもしれない。名前も知らない人であっても、家では子どもが帰りを待っているかもしれない。

 守れる力があると知りながら、それを放棄して平和な生活へ戻る。それは本当に、家族を守ることと同じなのだろうか。

 試験棟を出た時には止んでいた雨が、帰りの車の窓へ再び細かく当たり始めた。信号で止まるたび、濡れた歩道を急ぐ人の姿が見える。買い物袋を抱えた女性、傘を持たずに走る学生、幼い子どもの手を引く父親。どれも戦場の数字には見えなかった。

 答えは出ないまま、自宅へ着いた。

 玄関を開けると、昴が廊下の奥から走ってきた。靴を脱ぎ切る前に脚へ抱きつき、蒼真の顔を見上げる。

「ぱぱ、かえった」

「帰ったよ」

「りぽるも?」

「リポルも帰った」

 昴はそれで安心したらしく、蒼真の鞄を持とうとして両手で取っ手を掴んだ。持ち上がらないと分かると、床を引きずりながら居間へ運び始める。

「重いよ」

「すばる、もつ」

 止めようと伸ばした手を、蒼真は途中で引いた。鞄の底が床へ擦れないよう少しだけ支え、昴と一緒に居間へ入る。

 食卓では、結衣が学校の端末を広げていた。蒼真を見るなり画面を伏せたが、立ち上がりはしない。

「三つ、できたんだよね」

「できた」

「それなら、今日はいい」

 短く答えた結衣の目が、蒼真の手へ落ちた。まだ震えていないか確認したのかもしれない。何も言わずに端末を開き直したが、文字を追う視線はしばらく同じ場所から動かなかった。

 美咲は台所にいた。鍋の火を弱め、濡れた手を布巾で拭いてから振り返る。

「おかえり」

「ただいま」

 いつもの言葉だった。それだけで、張り詰めていたものが僅かに緩む。

 夕食の間、試験の詳しい話はしなかった。昴が味噌汁の中から人参を見つけるたびに美咲の皿へ移し、結衣が無言で元へ戻す。その攻防を見ながら箸を動かしているうちに、シミュレーターの光景が少しずつ遠ざかった。

 子どもたちが風呂へ向かったあと、美咲は食卓へ湯飲みを二つ置いた。蒼真の向かいへ座り、急かさずに待っている。

「倒したよ」

「うん」

「怖かった」

「うん」

 蒼真は湯飲みに触れたが、持ち上げなかった。温かさが指へ移るのを感じながら、試験で起きたことを順番に話した。AIが攻撃を勧め続けたこと。制御権を自分へ移したこと。敵を殺すと分かって撃ったこと。避難が終わったあと、回収車両の道を開けて帰ってきたこと。

 美咲は途中で口を挟まなかった。けれど、最後まで聞き終えた時には、最初に浮かべていた穏やかな笑みが消えていた。

「それで、今は何を考えてるの?」

「戦いたくない」

 答えると、美咲は僅かに頷いた。

「危険な場所にもいたくない。でも、必要な時に守れる力まで、いらないとは言えなくなった」

 言葉にした途端、それまで頭の中を回っていたものが、逃げられない形になって食卓へ置かれた。

「今日の場所が家の近くだったら、逃げているのが結衣たちだったら、自分は乗らないとは言えないと思う」

 そこで一度言葉を切ると、美咲は湯飲みへ添えていた指を止めた。

「この先、同じことが起きた時、そこにいるのは結衣の友達のお父さんやお母さんかもしれない。小学生の時に、結衣とモンスターのことで言い争った子がいたよね」

 美咲の指が、湯飲みの縁で止まった。

「旅行先で会った、直哉君?」

「うん。あの子のお父さんが、どういう状況で亡くなったのか、自分は知らない。だから、今の自分なら助けられたとは言えない。でも、助けられた可能性はなかったのかなって、考えてしまった」

 蒼真は湯飲みを両手で包み、揺れる水面へ視線を落とした。

「この先、同じ場所にいるのが結衣の別の友達のお父さんやお母さんかもしれない。今の自分なら、その人を帰せる可能性がある。知らない人でも、その人が帰るのを待っている子どもがいるかもしれない」

 美咲はしばらく答えず、蒼真の顔を見ていた。

「だから、今日倒したモンスターは悪だったと思うの?」

 蒼真は、すぐには答えられなかった。湯飲みから伝わる温かさとは反対に、操縦桿を握っていた時の冷たさが指先へ戻ってくる。

「分からない」

「直哉君のお父さんを殺したモンスターも?」

「分からない。でも、止めないと誰かが帰れなくなるなら、止める。ほかに方法がなければ、今日みたいに倒すと思う」

「それで、正しかったって思える?」

「それも、まだ分からない」

 美咲は目を伏せ、湯飲みを僅かに回した。茶の表面に浮いていた小さな葉が、縁に沿ってゆっくり動く。

「分からないことばかりだね」

「うん。でも、分からないからって、考えなくていいことにはならないと思う」

 美咲は湯飲みの縁を指でなぞりながら、蒼真を見ていた。その目に責める色はない。ただ、蒼真自身より先に、何かを確かめたようだった。

「あなたも変わるのね」

 蒼真は顔を上げた。

「変わってないよ。状況が変わっただけだ」

「前の蒼真なら、絶対にそんなことは言わなかった」

 美咲の声は柔らかかったが、否定ははっきりしていた。

「乗るくらいなら辞めるって言って、本当に辞表を出して、危険なものから離れようとしたと思う。家族を守るために、平和な生活へ戻ることを選んだ」

「今も、できればそうしたい」

「でも今は、自分の家族と同じように、誰かの家族も守れるかもしれないって考えてる」

 蒼真は反論しようとした。しかし、口を開いても言葉が出てこない。視線を落とすと、湯飲みの水面に自分の顔が小さく揺れていた。

「変わるって、怖くなくなることじゃないと思うよ」

 美咲はそこで少しだけ笑った。試験の話を聞く前の笑顔とは違い、困ったような寂しさが混じっている。

「怖いまま、前とは違うものを守ろうとすることも、変わるってことじゃない?」

「それだと、前線へ行く理由になってしまう」

「行けとは言ってない」

 笑みが消えた。

「守れることと、蒼真を好きに使っていいことは別だから」

 その言葉には、蒼真もすぐに頷けた。

「ただ、自分で気づいたことまで、上の人たちが言わせたことにしないで。今日考えたことは、蒼真のものでしょう」

 蒼真は、もう一度湯飲みへ目を落とした。

 戦いたくない。

 それでも、守るための力は必要かもしれない。

 どちらかが嘘なのではなく、どちらも自分の中にある。それを認めることが、今は一番怖かった。

「まだ、答えは出ないよ」

「今日中に出す答えじゃないよ」

 美咲は湯飲みを持ち上げ、一口飲んだ。台所の時計が小さく音を刻み、風呂場からは結衣と昴の笑い声が聞こえる。

 蒼真はその音を聞きながら、ようやく冷めかけた茶を口へ運んだ。

 その少し前、風呂から出た結衣は、廊下の角で足を止めていた。

 居間から、直哉の名前が聞こえた。

 結衣は、小学生だった自分へ、モンスターは悪だと言い切った直哉の顔を思い出した。父親を殺された直哉に対して、分からないと答えた。その言葉を直哉が受け入れられず、二人は言い争いになった。

 中学生になってから旅行先で再会した直哉は、蒼真へ、自分もワーカーになると宣言した。父親を奪ったものと戦うためなのか、それとも誰かを守りたいのか。結衣には、今も直哉の答えは分からない。

 そして今、蒼真も居間で、分からないと答えていた。

 分からないまま敵を倒し、分からないまま直哉の父親を助けられた可能性を考えている。それは曖昧な答えだったが、結衣には、以前と同じ答えには聞こえなかった。

 腕へ抱いていた着替えを少し強く握る。直哉の父親は、もう帰らない。けれど、次に同じ場所へ取り残される誰かの父親まで、帰れないと決まっているわけではなかった。

 結衣は居間へ入らず、風呂場から出てきた昴の手を取った。

「お父さんとお母さん、まだ話してるから、先に髪を乾かそう」

「ぱぱ、いる?」

「いるよ。ちゃんと帰ってきた」

 昴の手を引いて自分の部屋へ向かいながら、結衣は一度だけ居間の明かりを振り返った。

 帰る場所は、昨日までと同じだった。

 そこへ帰ってきた自分が、本当に昨日までと同じなのかは、まだ分からなかった。

*

 夜。

 日記。

―――

 本日、中央防衛局の全周囲型シミュレーターで、緊急時単独対処評価を受けた。

 試験では、避難中の住民三十一人と中型個体の間にリポルを配置され、避難が完了するまで、自分一人で敵を止めるよう求められた。

 進路を変える、煙幕で避難車両を隠す、転倒させる、前肢を壊して移動能力を下げる、という方法を試したが、避難が終わるまで止め続けることはできなかった。

 戦闘補助AIは、最初から敵の頭部を攻撃するよう提案した。

 AIは、人を殺そうとしたわけでも、敵を倒したかったわけでもない。避難している人と搭乗者の安全を最も高くできる方法として、敵の排除を選んだだけだった。

 説明が長かった。

 戦闘中に全部聞いている時間はなかったため、戦闘判断、照準、射撃、回避、姿勢制御を自分へ移すよう指示した。オートバランサーも停止させた。

 AIには、民間人の避難状況、退路、敵の到達時間を確認させた。

 神代隊長、三浦一尉、九条綾人さんからは、なぜ戦闘中に権限変更を承認させられたのかと聞かれた。

 目的、残す機能、責任を負う人を分けて指示したためだと答えた。

 管理局の業務では、普通に行っていることだと思う。

 三人は、普通だとは思っていないようだった。

 中型個体は、自分で倒した。

 以前、展示されていたフレイムワーカーへ乗り込んだ時は、家族が襲われ、怒りと恐怖で周囲が見えなくなっていた。今回は、敵の位置も、避難している人も、リポルの損傷も見えていた。殺すことへの恐怖と、撃ったあとの罪悪感もあった。

 それでも、撃つと決めた。

 試験が終わったあとも、戦いたくないと思っている。危険な場所にもいたくない。

 ただ、戦うための力が必要ないとは、以前のようには言えなくなった。

 帰りの車の中で、平岡直哉君の父親のことを考えた。

 結衣が小学生だった時、直哉君は、父親を殺したモンスターは悪だと言った。結衣は分からないと答え、二人は言い争いになった。そのあと、結衣は自分にも、モンスターは悪なのかと尋ねた。

 自分も、分からないと答えた。

 結衣が中学生になったあとの家族旅行で、直哉君と母親に再会した。水族館で、直哉君は自分もワーカーになると話した。自分は適性試験のことを説明したあと、蝶々結びができるかと尋ねた。

 あの時は、直哉君がワーカーを目指すことと、自分がモンスターを倒すことを、同じ問題として考えていなかった。

 自分は、直哉君の父親がどのような状況で亡くなったのかを知らない。今の自分がその場にいれば助けられた、と言うことはできない。ただ、助けられた可能性がなかったとも言い切れない。

 今日、自分は中型個体を倒した。

 それによって三十一人が避難する時間を作れた。だから、止める必要はあったと思う。

 しかし、必要だったことと、倒した相手が悪だったことは、同じではない。

 直哉君の父親を助けられなかったことを理由に、モンスターは悪だと結論づければ、自分が以前答えた「分からない」を捨てることになる。

 反対に、モンスターが悪だと決められないことを理由に戦わなければ、今日の三十一人は帰れなかった可能性がある。

 どちらが正しいのかは、今も分からない。

 この先、結衣の別の友人の父親や母親が襲われることもあるかもしれない。その時に今の自分がいれば、家へ帰せる可能性がある。

 学校行事で顔を合わせた人や、自分が名前を知らない人にも家族がいて、帰りを待っている子どもがいる。

 今の自分なら、その人を必ず助けられるとは言えない。しかし、助けられる可能性があることも、以前とは違う。

 その時に、自分が戦えることを知りながら、怖いから乗らないと言えるのかは分からない。

 分からないことが多い。

 ただ、分からないから考えなくていい、ということではないと思う。

 人を守るために戦うなら、なぜ止めたのか、ほかに方法はなかったのか、倒したことで何を守れたのかを、考え続けなければならない。

 答えが出ないことを理由に、判断をAIや命令した人へ任せることもできない。

 今日、戦闘の自動制御を切り、攻撃の判断を自分へ戻したことは、そういうことだったのかもしれない。

 帰宅後、美咲へそのことを話した。

 美咲から、あなたも変わるのね、と言われた。

 自分は、変わっていない、状況が変わっただけだと答えた。

 美咲は、以前の自分なら、そのようなことは考えず、辞表を出して平和な生活へ戻ったはずだと言った。また、怖くなくなることだけが変化ではなく、怖いまま、以前とは違うものを守ろうとすることも変化ではないかと言った。

 自分では、まだ変わったとは思えない。

 戦いたくない気持ちは、最初から変わっていない。

 家族のところへ帰りたいという気持ちも変わっていない。

 しかし、帰したいと思う相手が、家族や目の前の負傷者だけではなくなっているのかもしれない。

 以前の自分が何を見ていて、今の自分が何を見るようになったのか、考え続ける必要がある。

 モンスターが悪なのかという問いにも、直哉君の父親を助けられた可能性があったのかという問いにも、今は答えが出ない。

 答えが出ないままでも、現場では判断しなければならない。

 その判断をしたことまで忘れないために、今日のことは記録しておいた方がいいと思う。

 以上。

―――

*

 同時刻。

 中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、緊急時単独対処評価の全記録が解析されていた。

 対象、橘蒼真。

 特別機リポル。

 敵性中型個体、一。

 活動停止まで、百四十七秒。

 使用弾数、四。

 命中、四。

 敵性個体活動停止。

 住民避難完了、三十一名。

 第一中隊、全機帰還。

 リポル最終損傷率、二十四・八パーセント。

 単独停止能力、確認。

 対象は、開始後百十二秒まで、敵性個体の破壊を避ける行動を継続した。

 進路変更。

 視界遮断。

 転倒誘発。

 前肢破壊による移動能力低下。

 いずれも、住民避難完了までの時間を確保できなかった。

 対象は、代替手段が失われたことを確認したあと、頭部および胸部へ攻撃を実施した。

 標準戦闘補助AIは、避難者および搭乗者の安全確率を最大化するため、即時排除、自動照準、自動迎撃制御への移行を複数回提案した。

 対象は、提案理由を理解したうえで自動射撃を拒否。

 機体損傷の進行により戦闘自動制御が作動しかけた時点で、対象は照準、射撃、回避、姿勢補正を含む機体主導権の移譲を要求した。

 脅威分析、損傷計算、命中予測は継続使用。

 権限再構成に要した時間、四・八秒。

 管理局現場監督業務における対話型制御経験との相関、高。

 戦闘自動制御への依存、確認されず。

 最終攻撃判断、搭乗者によるものと判定。

 対象は、避難状況、退路、到達時間の最適化をAIへ委任した。

 一方、敵性個体を殺傷する必要性および行為の正当性については、AIの安全評価を最終判断として採用しなかった。

 判断と責任を搭乗者側へ保持。

 任務終了後も、行為の正当性に関する思考を継続している。

 未解決状態による判断能力の低下、確認されず。

 攻撃選択までの遅延、正常。

 恐怖反応、上昇。

 戦闘への高揚、確認されず。

 戦闘への恐怖、継続。

 敵性個体の殺傷に対する忌避感、継続。

 ただし、保護対象への危険が回避不能となった時点で、対象は殺傷を含む戦闘行為を自発的に選択した。

 判断能力の喪失、確認されず。

 激情による攻撃継続、確認されず。

 敵性個体活動停止後、対象は三・二秒間、活動再開の有無を確認した。

 その後、二・一秒で避難状況を要求。

 七・八秒で第一中隊の停止機を発見。

 十二・四秒で南下する小型個体を認識。

 迎撃行動を開始しかけたが、第一中隊二番機の到達時間と、自機の損傷状態、避難住民の位置を比較し、行動を中止した。

 支援を要請。

 任せることを選択。

 避難完了後、自発的に帰還を申告。

 ただし、帰還申告前に、道路を塞いでいた無人輸送車を路肩へ移動。

 大型回収車両の進入路を確保し、停止個体の回収位置および接近危険箇所を記録。

 指示された評価項目には含まれない。

 対象は、敵性個体の活動停止を現場終了条件として認識していない。

 避難完了、後続作業者の進入経路確保、残留危険の記録、自機の帰還を、一連の作業として処理した。

 外部から追加された三条件。

 敵を止める。

 停止後も周辺認識を維持する。

 帰還を選択する。

 全条件、達成。

 対象の単独戦闘能力は、予測値を上回った。

 成功要因を分解。

 第一。対象個人の特性。複数の危険情報を保持したまま、優先順位を更新する能力。

 第二。AIへの親和性。提案内容と制御権限を分離し、対話によって必要機能のみを再構成する能力。

 第三。フレイムワーカーへの親和性。姿勢補正停止後も機体重心を感覚的に把握し、標準制御では許可されない不均衡姿勢を継続運用する能力。

 三要素の相互作用を確認。

 同一手順を他搭乗者へ適用した場合、転倒、関節破損、判断遅延の発生確率が許容値を超過する。

 再現性、低。

 本結果を標準戦術へ転用することは不適切。

 橘蒼真固有の運用結果として記録。

 同時に、撃破行動による救助判断への負の影響は確認されなかった。

 ただし、戦闘への恐怖反応および忌避感は、試験前後を通じて明確に存在する。

 対象は恐怖を克服していない。

 保護対象の存在を理由として、恐怖を保持したまま戦闘を選択した。

 運用拡大の判断には、対象の心理的負荷、本人意思、家族生活への影響を勘案する必要がある。

 討伐任務適性。

 判定可能。

 前線運用拡大。

 提案可能。

 解析領域は、二項目を候補として記録した。

 ただし、対象が試験成功と認識した条件は、単独停止能力のみではない。

 家族との協議によって追加された条件が、停止後の行動選択へ継続的に影響した。

 橘家家族会議。

 非公式意思決定機構。

 影響度、最上位。

 対象は敵性個体を倒せる。

 対象は、倒したあとも救助対象を探す。

 対象は、帰還を選択できる。

 対象は、戦闘終了後の現場を回収工程へ引き渡すことができる。

 これらを同時に成立させた場合、対象の前線運用価値は大幅に上昇する。

 ただし、運用価値の上昇を配置拡大の単独根拠としてはならない。

 対象には、戦闘行為への明確な恐怖と忌避感が存在する。

 強制的または継続的な前線配置によって、現在確認されている判断特性が維持される保証はない。

 本人の意思、家族との関係、帰還を選択できる運用条件を評価へ含める必要がある。

 本人が最も警戒していた結果と一致。

 自己評価と外部評価の乖離は、さらに拡大する可能性が高い。

 評価会議を推奨。

 追加通知は不要。

 観察を継続する。

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