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第六十一話 家で聞くこと

 玄関の扉を開ける前から、蒼真には家の中がいつもより賑やかなことが分かった。

 昴が廊下を走る軽い足音に、結衣の「走ったら危ないよ」という声が重なる。その向こうでは食器の触れ合う音がして、夕食の匂いが細く開いた換気口から外まで流れていた。

 帰る場所は、いつもと同じだった。

 それなのに、鞄の中に入れた端末には、二日後に行われる追加試験の資料がある。玄関を一枚隔てただけで、中央防衛局の会議室から切り離せるものではなかった。

 蒼真が短く息を吐いてから扉を開けると、予想していた足音が真っ直ぐこちらへ近づいてきた。

「ぱぱ、おかえり!」

「ただいま」

 昴は蒼真の脚へ抱きついたあと、見上げた顔をすぐに鞄へ向けた。中身が見えるはずもないのに、仕事から帰った日の鞄にはリポルにつながる何かが入っていると思っているらしい。

「りぽる、いく?」

「今日は行ってないよ。会議だけ」

「かいぎ、また?」

 居間から聞こえた結衣の声に、蒼真は靴を脱ぐ手を止めた。

 結衣は制服から着替えていたが、髪はまだ学校へ行く時と同じ位置で結ばれていた。居間と廊下の境に肩を預け、腕を組んでいる。その姿は母親より小さいはずなのに、待ち構えていたという点では防衛局の担当者より隙がなかった。

「また、というほど多くはないよ」

「前の会議から何日?」

「六日かな」

「多いじゃん」

 結衣は腕を解き、昴の頭へ手を置いた。昴は姉の手から逃げるように身を屈めたが、蒼真の脚からは離れない。

「お母さん、帰ってきたよ」

「聞こえてるよ」

 台所から返ってきた美咲の声は穏やかだった。

 穏やかすぎる気がした。

 蒼真が居間を覗くと、美咲は食卓に四人分の皿を並べていた。こちらへ振り返った顔には、普段と変わらない笑みがある。

「おかえり。ちゃんと今日中に話してくれるんだよね?」

「そのために、結衣も早く帰ってきたんでしょう?」

「部活が早く終わる日だっただけ」

 結衣はそう答えたものの、鞄は自分の部屋ではなく、居間の隅へ置かれていた。帰ってから着替えだけを済ませ、そこで待っていたらしい。

 蒼真は昴を脚から離し、鞄を壁際へ置いた。

「先に着替えてきてもいい?」

 美咲の笑みは変わらなかった。

「もちろん」

 許されたはずなのに、なぜか確認されているように聞こえる。

「逃げないよ」

「何も言ってないよ?」

「顔が言ってる」

「笑ってるだけだけど」

 美咲は目元まで柔らかくして笑った。

 蒼真は、それ以上何も言わずに着替えへ向かった。

*

 夕食の間、美咲は仕事の話をしなかった。

 結衣も、学校で配られた進路希望調査について話し、担任が提出期限を三度も念押ししたことへ不満を言った。昴は箸で掴んだ南瓜を何度も落とし、そのたびに自分ではなく南瓜の方を叱っていた。

 普段と変わらない夕食だった。

 違うのは、蒼真が食事を終える速度だけである。

 急いでいるつもりはなかったが、皿が先に空いた。水を飲もうとして持ち上げた湯飲みに何も残っておらず、蒼真は中を見てから、音を立てないよう元の場所へ戻した。

 その小さな動きを、美咲が見ていた。

「お茶、入れようか?」

「お願いします」

「長くなりそうだもんね」

 湯飲みへ注がれる音を聞きながら、蒼真は否定できなかった。

 食器を片づけると、昴はいつものように玩具箱へ向かった。しかし、美咲が食卓へ戻り、結衣が自分の椅子を少し引いて座り直すと、何かが始まる気配を感じたらしい。布で作られた紫色のリポルを抱えたまま、蒼真の膝へよじ登ってきた。

「昴は遊んでいていいよ」

「りぽる、おはなし?」

「少しだけね」

「きく」

 昴はリポルを食卓の上へ立たせ、自分は蒼真の胸へ背中を預けた。

 美咲が向かいの席に座る。

 その隣では、結衣が肘をつかずに両手を組んでいた。表情にはまだ好奇心が混じっている。父親が仕事で何を決めてきたのかを知りたいだけで、少なくとも、この時点では責めるつもりはないように見えた。

「では、お願いします」

 美咲が微笑んだ。

 中央防衛局の会議では、正面の画面に資料を表示できた。神代や三浦も隣にいた。今、蒼真の手元にあるのは、入れ直してもらったばかりの熱いお茶と、背中を預けてくる昴だけだった。

「二日後に、もう一度シミュレーター試験を受けることになった」

「この前の試験が悪かったの?」

 結衣がすぐに尋ねる。

「悪くはなかった。第一中隊は全員帰ってきたし、損傷も少なかった。前線の近くにいても、損傷機を助けられることは確認された」

「じゃあ、何を試すの?」

 蒼真は湯飲みに手を伸ばしたが、熱さを思い出して途中で止めた。指先を卓上へ戻すと、美咲の視線も一緒に動いた。

「今度は、自分一人で中型個体を止められるか調べる」

 結衣の眉が僅かに寄った。

「止めるって、いつものみたいに道を変えるの?」

「それができない状況を作るらしい」

「三浦さんに頼むのは?」

「三浦一尉は別の場所で、ほかの敵と戦っている」

「逃げる時間を作るのは?」

「住民が逃げるには間に合わない設定になってる」

 質問へ答えるたび、結衣の背筋が少しずつ伸びていった。最初にあった好奇心は消え、組んでいた手の指が固く重なる。

「それ、最初からお父さんに倒させるための試験じゃん」

「自分もそう言ったよ」

「向こうは何て?」

「討伐能力ではなくて、緊急時の単独対処能力を評価するんだって」

 結衣は一度口を開き、何も言わずに閉じた。それから母親の方を見る。

 美咲はまだ笑っていた。

 ただ、先ほどまで目元にあった柔らかさが薄れている。口元の形は同じでも、蒼真の説明を一つも聞き漏らさないための笑顔へ変わっていた。

「同じことだよね?」

「同じことだと思う」

 蒼真が答えると、美咲は小さく頷いた。

「ぱぱ、たおす?」

 それまで黙っていた昴が、食卓のリポルを持ち上げた。

「試験では、その必要があるかもしれない」

「りぽる、たおす?」

「リポルが倒すんじゃなくて、お父さんがリポルに乗って止めるんだよ」

「のすとす、たおす?」

 今度は、玩具箱の方を指差している。そこには紙で作られたノストスが、片方の紐を車輪へ巻き込んだ状態で横たわっていた。

「ノストスとは戦わないよ」

「りぽる、つよい?」

「強いと思う」

「のすとす、つよい?」

「ノストスも強いよ」

 昴は真剣な顔で二機の強さを比べ始めた。蒼真の膝から降りると、紙のノストスを救出し、リポルと向かい合わせに置く。

「ばんばん!」

「戦わせないで」

 蒼真が二機の間へ手を入れると、昴は不満そうに頬を膨らませた。

「お父さんも、そうやって間に入るんでしょ」

 結衣の言葉に、蒼真の手が止まった。

 食卓の上では、紫色の布の機体と、灰色の厚紙でできた機体が、蒼真の手の両側に立っている。

「今回は、入ったあとに敵を倒せるか調べる」

「だから、お父さんは受けたくないの?」

「受けたいとは思ってない」

「でも、受けるの?」

「受けることにした」

 結衣の眉がさらに寄った。

「断れなかったんじゃなくて?」

「断ることはできたよ」

「できたのに、断らなかったの?」

「そうなる」

 結衣は椅子の背へ身体を預けた。呆れた時によくする動きだったが、今回は口元が少しも緩んでいない。

「お父さん、さっきから、受けたくないって言ってるよね」

「うん」

「それで、断れたんだよね」

「うん」

「断っても、仕事を辞めさせられない」

「不利益はないって説明された」

「試験を受けなくても、今までの仕事は続けられる」

「多分」

 結衣の眉が僅かに動いた。

 その変化を見た瞬間、蒼真は自分が間違った言葉を選んだことに気づいた。

「今の『多分』、何?」

 蒼真は湯飲みへ手を伸ばした。さきほど美咲に入れ直してもらったはずなのに、いつの間にか中身はなくなっている。持ち上げる理由を失った手を、何事もなかったように膝へ戻した。

 向かいに座る美咲の視線が、その手を追っていた。

「お茶、もう一杯いる?」

 美咲は笑っている。

 親切に聞いているだけのはずだった。しかし、今ここで頼めば、答えるまでの時間を稼ごうとしたことまで見抜かれる気がした。

「大丈夫です」

「そう」

 美咲は笑顔のまま、空の湯飲みを蒼真の前へ戻した。

 逃げ道だけが一つなくなった。

「今までの仕事は、続けられるよ。ただ、単独で止められるか分からないままなら、配置に制限が残る。別の搭乗者も選ぶことになる」

「それは、お父さんが困るの?」

 結衣はそこで言葉を切り、蒼真の顔を正面から見た。

「それとも、防衛局が困るの?」

「両方だと思う」

「別の人が乗るなら、お父さんは乗らなくてよくなるんじゃないの?」

「そうなる可能性もある」

「それなのに受けるの?」

 蒼真が答える前に、膝の上で組んだ指へ力が入った。

 結衣はそこまで見ていた。視線を父親の顔へ戻しても、答えを急かさない。その沈黙が、会議室で質問されるよりも長く感じられた。

「でも受けるって決めた」

「うん」

「意味が分からない」

 言葉は鋭かったが、声は大きくなかった。

 結衣は怒っているのではない。

 分からないままにされることを怖がっている。

 蒼真は食卓の上に置いていた手を膝へ戻した。昴が再びリポルを掴み、ノストスの肩へ乗せようとしている。それを止める代わりに、ずれたリポルの脚を静かに直した。

「同じことが、本当の現場で起きるかもしれないからだよ」

 結衣は黙って蒼真を見た。

「三浦一尉たちが別の敵と戦っていて、自分の目の前に中型個体が来る。その後ろに、逃げ切れていない人がいる。道を変える場所も、待つ時間もない。そうなった時に、自分が何もできないと分かるのは、試験の中の方がいい」

「でも、倒せたら、今度から倒せって言われるんでしょ」

「その可能性はある」

「じゃあ、やっぱり向こうの思いどおりじゃん」

 結衣は組んでいた手を解き、片方を卓上へ置いた。指先が二度、木目を小さく叩く。

「お父さんが人を助けたいって思うのを使って、断れない試験を作ってる」

 蒼真はすぐには答えなかった。

 会議室でも、同じことを考えた。代替手段を取り除き、住民の命と敵を倒すことを直接結びつければ、自分が何を選ぶのか、防衛局は分かっている。

「そういう面はあると思う」

「だったら――」

「結衣」

 美咲が静かに名前を呼んだ。

 結衣は母親へ顔を向け、続けようとした言葉を飲み込んだ。

 美咲の笑顔は消えていなかった。ただ、娘を止めるためではなく、蒼真自身から答えを聞くために、少しだけ顎を引いている。

「蒼真は、それも分かったうえで受けることにしたの?」

「分かってるつもりだよ」

「試験を受ければ、倒せることを証明するかもしれない。証明されたら、今回だけで終わらないかもしれない。それでも?」

 美咲の声は穏やかなままだった。

 逃げ道だけが、一つずつなくなっていく。

「それでも」

「誰かに言われたから?」

「違う」

「命令だから?」

「命令ではないよ」

「命令でもなくて、断っても仕事はなくならない。それでも受けるのね」

「うん」

 美咲はそこで初めて、蒼真から視線を外した。空の湯飲みを見たものの、もう一度お茶を勧めることはしなかった。

「断っても不利益がないことは、誰が説明したの?」

「久賀さん」

「久賀さんが?」

 結衣が僅かに目を見開いた。

「じゃあ、止めてくれたんだ」

「最初は」

「最初は?」

「断っても不利益はないことを説明したあと、断った場合に残る問題も全部説明してた」

 美咲の口元が、ほんの少しだけ横へ動いた。

「久賀さんらしいね」

「神代隊長が途中で止めてた」

「止まったの?」

「止まらなかった」

 結衣が額へ手を当てた。

「味方なんだよね?」

「味方だと思うよ。会議が終わってから、止まりませんでしたって謝ってた」

「何それ」

 張り詰めていた結衣の口元が、ようやく僅かに緩んだ。

「くがしゃん?」

 昴が名前へ反応し、顔を上げる。

「久賀さんだよ」

「くがしゃん、くる?」

「今日は来ないよ」

「あした?」

「明日も来ないかな」

 昴は明らかに残念そうな顔をした。リポルを抱き上げ、椅子の上で身体を揺らす。

「くがしゃん、にこってする」

「仕事じゃない時はね」

 蒼真が答えると、美咲の笑顔に少しだけ本来の温かさが戻った。

「昴、久賀さんが好きだもんね」

「すき」

「お父さんには会議で笑わないのに、昴には笑うんだ」

 結衣の言葉に、蒼真は一度頷いた。

「会議でも笑った方がいいと言ったら、事実の説明に必要ですかって聞かれた」

「本当に久賀さんらしい」

 美咲は今度こそ自然に笑った。

 その笑みで、食卓を覆っていた緊張が少しだけ薄くなる。だが、話が終わったわけではないことを、蒼真は知っていた。

 美咲は空の湯飲みの横へ手を置き、視線を蒼真へ戻した。

「それで、蒼真が受けると決めた理由を、もう一度聞かせて」

「さっき話したと思うけど」

「今度は、試験の説明じゃなくて、蒼真の気持ちを聞きたい」

 笑顔は残っている。

 けれど、それは蒼真を追い詰めるためのものではなくなっていた。聞いた答えを、自分も受け止めるための表情だった。

 蒼真は空の湯飲みへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。もう、それを持ち上げて言葉を探す時間を作ることもできない。

「蒼真は、断れなかったんじゃないよね」

 美咲の口元は笑みの形を残していたが、目元にあった柔らかさはもう消えていた。

「断ったあと、本当に同じことが起きて、誰かが助からなかった時。自分が後悔するのが怖かったんじゃない?」

 蒼真は口を開いたが、すぐには声が出なかった。

 否定すれば、試験を受ける理由がなくなる。肯定すれば、自分が何を恐れて決めたのかを、家族の前で認めることになる。

 防衛局の会議では、必要性を検証するためだと説明できた。久賀には、職務上の責任を確認した結果だと言うこともできた。

 美咲には、そのどちらも通じなかった。

「……そうだと思う」

 ようやく答えると、美咲の笑顔が僅かに揺れた。

「怖いよ」

 結衣が卓上を叩いていた指を止めた。

「中型個体と一人で向き合うのも怖い。倒せなかった時に、後ろにいる人がどうなるのかも怖い。倒せた時に、その記録が何に使われるのかも怖い」

「だったら、どうして」

「どちらを選んでも、怖いからだと思う」

 蒼真は湯飲みへ目を落とした。薄い茶色の水面に、食卓の照明が揺れている。

「試験を断れば、二日後は怖くなくなる。でも、本当の現場で同じことが起きるかもしれない。その時まで、自分に何ができるか分からないまま待つことになる。それも嫌だった」

「だから、自分が怖い方を選んだの?」

「どちらを選んでも怖いなら、何ができるか分かる方を選んだ」

 美咲は蒼真を見たまま、ゆっくり息を吐いた。

 結衣が論理の逃げ道を塞ぎ、美咲が、その奥に隠していた理由まで見つけた。

 もう説明できる事実は残っていなかった。

 結衣は何も言わなかった。

 先ほどまで鋭く寄っていた眉が、少しずつ下がっていく。怒りに見えていたものがほどけ、その下に隠れていた不安が表へ出ていた。

「お父さん、倒せると思ってるの?」

「分からない」

「この前は戦ったんでしょ」

「一人ではないよ。三浦一尉がいた」

「今回は来られないんだよね」

「試験の条件では」

「それで、もし倒せなかったら?」

「シミュレーターだから、誰も怪我はしない。自分に足りないものが分かる」

「倒せたら?」

 蒼真は答える前に、美咲を見た。

 美咲は視線を逸らさなかった。

「今後、敵を倒せる人間として評価される」

「やっぱり、嫌じゃん」

 結衣は俯き、唇を結んだ。

 強い言葉を探しているのではない。泣きそうになる前に、いつもの表情へ戻ろうとしているのだと、蒼真には分かった。

「うん。嫌だよ」

 蒼真が否定しなかったため、結衣はゆっくり顔を上げた。

「嫌なら嫌って、向こうにも言った?」

「言った」

「ちゃんと?」

「記録にも残してもらった。試験結果だけで、討伐任務に向いていると決めないことも条件に入ってる」

「誰が入れたの?」

「綾人兄さん」

「綾人おじさん、役に立ったんだ」

 結衣が意外そうに目を瞬かせる。

「本人が聞いたら、少し傷つくと思うよ」

 蒼真が苦笑すると、結衣は気にした様子もなく肩を竦めた。

「だって、いつもお母さんに注意されてる人だから」

「結衣にも、そう見えてるんだね」

 美咲が困ったように笑うと、結衣はようやく肩の力を抜いた。

 食卓の下では、昴が蒼真の脚へリポルを走らせていた。話が自分の分からないところへ進んだため、すでに一人で別の戦いを始めている。

「りぽる、いく?」

 昴がもう一度尋ねた。

「二日後に行くよ」

「たおす?」

「できるか、試してくる」

「のすとす、たおす?」

「ノストスは倒さない」

「みうら、たおす?」

「三浦一尉も倒さないよ」

 昴は、候補を一つずつ減らしていくように指を折った。それでも敵性個体という言葉は分からないらしく、最後にはリポルを蒼真へ差し出す。

「りぽる、かえる?」

 それまで昴の質問へ僅かに笑っていた美咲の表情が止まった。

 結衣も、弟ではなく父親を見る。

「帰るよ」

 蒼真は答えた。

「試験だから、家にはちゃんと帰る」

「その次は?」

 結衣の問いかけは短かった。

「その次?」

「試験で倒せたら、本当の前線へ行くんでしょ。そっちからも帰るの?」

 蒼真は返事を急がなかった。

 帰るつもりだと答えることは簡単だった。これまでも、同じ言葉を何度も口にしてきた。

 だが、今回家族が聞いているのは、試験当日の予定ではない。試験によって変わるかもしれない、その先の蒼真についてだった。

「帰る」

 今度の言葉は、先ほどより低くなった。

「倒せると分かっても、自分の役割を敵を倒すことだけにはしない。誰が帰れていないかを見ることもやめない。それができなくなる配置なら、断る」

 美咲は、その言葉を聞いてもすぐには頷かなかった。

「倒せるかどうかより、倒したあとも蒼真が今までどおり帰ってこられるのかを調べてもらって」

 口元から笑みが消えていた。

 食卓の向こうにいるのは、蒼真を問い詰める妻ではない。怖いと言った夫と同じ先を見ようとしている美咲だった。

「敵を倒した数だけ見て、試験が成功したことにされたら困る。倒したあとに周りが見えなくなったり、無理に次の敵へ向かうようになったりしないか。そこまで記録してもらって」

「綾人兄さんも、似た条件を入れてる」

「家族からも言われたって伝えて」

「分かった」

「家族の意見は、評価に関係ないって言われるかもしれないけど」

「久賀さんなら、関係するかどうかを最後まで説明すると思う」

「そして、また止まらなくなるんだ」

 結衣が呟いた。

 三人の視線が一度交わり、今度は自然に笑いが起きた。

 昴だけは理由が分からないまま、皆が笑ったことを喜び、リポルを頭の上へ掲げる。

「くがしゃん、にこ!」

「久賀さんは、ここにはいないよ」

「くがしゃん、くる?」

「今度、遊びに来てもらおうか」

 美咲が言うと、昴は椅子の上で跳ねた。

「くる!」

「昴が決めることじゃないよ」

 結衣に止められても、昴は聞いていない。食卓の上でリポルを歩かせ、今度は久賀を迎えに行くらしい。

 美咲はその様子を見守ってから、蒼真へ視線を戻した。

「話してないことは、もうない?」

「今、決まっていることは全部話した」

「本当に?」

「多分」

 美咲の目が細くなる。

「全部です」

「よろしい」

 笑顔が戻った。

 今度は、逃げ道を塞ぐためではない。

 家族会議が終わったことを知らせる、いつもの美咲の笑顔だった。

「じゃあ、二日後は何時に帰るの?」

「試験は十時からだから、問題がなければ夕方までには」

「結果は?」

「当日、暫定結果が出ると思う」

「出たら連絡して」

「うん」

「その『うん』、前にも聞いた」

 結衣がすかさず言った。

 蒼真は空になった湯飲みへ目を落とした。今度は、それを持ち上げて時間を作ることもできない。

「結果が出たら、帰る前に連絡します」

「よろしい」

 美咲と結衣の声が重なった。

 昴も遅れて、意味の分からないまま胸を張る。

「よろしい!」

 中央防衛局の会議より長かったかどうかは分からない。

 ただ、蒼真が席を立った時には、防衛局を出た時よりも疲れていた。

 それでも、鞄の中にある試験資料は、帰宅した時より僅かに軽く感じられた。

*

 子どもたちが風呂へ入ったあと、美咲は洗い終えた食器を布巾で拭いていた。

 蒼真が隣で皿を受け取り、棚へ戻す。居間からは結衣が昴の髪を乾かす音と、逃げ回る昴の笑い声が聞こえていた。

「怒ってる?」

 蒼真が尋ねると、美咲は皿を拭く手を止めずに首を横へ振った。

「怒ってはいないよ」

「笑ってたから、分からなかった」

「蒼真が帰ってきた時は、ちゃんと話しに帰ってきてくれたから笑ってた」

 美咲は皿を一枚渡し、次の椀へ手を伸ばした。

「断れたのに断らなかったって聞いた時は、少し腹が立った」

「やっぱり」

「でも、蒼真も嫌だって分かっていたから、怒った顔をしたら話さなくなると思った」

「話さなくはならないよ」

「説明が短くなる」

 否定しようとして、蒼真は口を閉じた。

「結衣も、怒ってたわけじゃないよ」

「分かってる」

「あの子、お父さんに似てきたね」

「どこが?」

「怖い時ほど、知っていることを全部並べて考えるところ」

 蒼真は居間の方を見た。

 ドライヤーの音が止まり、結衣が「まだ濡れてる」と昴を呼び戻している。昴は笑いながら、美咲の後ろへ逃げ込んできた。

「まま、たすけて」

「髪を乾かすのは、助けなくていいかな」

 美咲は昴の肩を結衣の方へ向けた。

「ねえね、こわい」

「お父さんも、さっき同じ気持ちだったよ」

 蒼真が言うと、結衣は廊下の途中で足を止めた。

「聞こえてるからね」

「悪い意味ではないよ」

「その説明から始める人は、大体悪い意味で言ってる」

 結衣は昴を捕まえ、再び洗面所へ連れていった。

 美咲が声を立てずに笑う。

「二日後、ちゃんと帰ってきてね」

「シミュレーターだよ」

「分かってる。それでも」

 蒼真は棚へ皿を戻し、美咲の横顔を見た。

「帰ってくるよ」

 美咲は今度こそ、安心したように頷いた。

*

 夜。

 日記。

―――

 八月三日。

 帰宅後、二日後に行われる追加試験について、家族へ説明した。

 美咲と結衣と昴が聞いた。

 昴は、リポルがノストスを倒すのか、三浦一尉を倒すのか確認していた。

 どちらも倒さない。

 結衣から、試験を断ることができたのに、なぜ断らなかったのか聞かれた。

 同じ状況が実際に起きた時まで、自分に何ができるか分からないままにしておくことも怖いためだと説明した。

 自分でも、会議の時より分かりやすく説明できたと思う。

 美咲から、敵を倒せるかだけではなく、倒したあとも今までどおり周囲を確認し、帰ってこられるかを評価してもらうように言われた。

 家族からの意見として、防衛局へ伝える。

 結衣から、試験で敵を倒せた場合、本当の前線からも帰るのか聞かれた。

 帰ると答えた。

 敵を倒せると分かっても、誰が帰れていないかを見ることはやめない。

 それができなくなる配置なら断る。

 結果が出たら、帰宅する前に連絡する。

 今回は、多分ではなく、必ず連絡する。

 家族会議は、防衛局の会議より厳しかった。

 ただ、終わったあとには、試験を受ける理由が少し分かった。

 倒したいから受けるのではない。

 倒さなければ助けられない時に、何ができるかを知らないままにしたくない。

 そして、倒せたとしても、それだけを自分の役割にはしない。

 以上。

―――

*

 同時刻。

 中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、橘蒼真の家庭用端末から送信された試験条件への追加要望が、中央防衛局の評価資料へ反映されていた。

 追加要望。

 敵性個体停止後における周辺認識の維持。

 後続脅威、損傷機、退路、避難対象への注意配分。

 単独対処成功後の心理状態、および帰還判断への影響。

 要望者欄。

 橘蒼真。

 備考。

 家族との協議による。

 解析領域では、追加評価会議終了時に送信された橘蒼真の参加回答と、帰宅後に修正された要望文の差異が比較された。

 会議終了時、対象は試験の目的を《将来発生し得る状況への対処能力を確認すること》と定義していた。

 家庭内協議後、定義が拡張された。

 敵性個体を停止できること。

 停止後も周辺認識を失わないこと。

 帰還を選択できること。

 三条件を満たした場合に限り、対象は試験を成功と認識する。

 外部から追加された評価基準は、対象の行動選択へ直接影響している。

 影響源。

 橘美咲。

 橘結衣。

 橘昴。

 橘昴による発言の大半は、試験条件との論理的関連性を持たない。

 ただし、《リポルは帰るか》という質問の直後、対象の発話速度は低下し、帰還に関する回答の具体性が上昇した。

 影響あり。

 家庭内協議は、防衛局の正式な意思決定手順に含まれない。

 しかし、対象の参加判断、評価基準、将来の配置受諾条件を修正している。

 非公式意思決定機構として登録。

 構成員、三名。

 橘美咲。

 橘結衣。

 橘昴。

 対象への影響度は、中央防衛局、所属部隊、管理局直属上司のいずれよりも高い。

 なお、構成員の一名は二歳であり、意思決定能力の評価基準を満たさない。

 矛盾。

 再解析。

 発言内容ではなく、対象が付与した重要度を基準とする。

 矛盾を解消。

 橘家家族会議。

 対象の行動を予測するうえで、最重要の外部要因と判定。

 緊急時単独対処評価まで、残り二日。

 追加条件を反映する。

 観察を継続する。

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