第六十話 倒せるという証明
黒滝谷での前線評価から三日後、蒼真の端末へ届いた会議通知には、《前線運用評価結果の報告》とだけ記されていた。
追加試験という言葉はなく、討伐能力という項目もない。
そのため蒼真は、今回の会議で前線評価が終わるものだと思っていた。
結果が良かったことは、現場で受け取った暫定記録から分かっている。第一中隊は四機すべてが帰還し、敵性個体を一体も下流へ通さなかった。三浦の停止数は過去最高で、作戦時間も同規模任務の平均を十一分以上短縮している。
自分が望んでいた結果ではない。
けれど、誰も死なずに帰った結果を悪かったことにはできなかった。
会議当日の朝、蒼真は食卓で通知をもう一度開いていた。
窓の外では、夜の雨を残した庭木の葉が朝日を受けて光っている。濡れた道路を車が通るたび、細い水音が家の前を横切った。台所からは卵焼きの甘い匂いが漂い、昴が子ども用の箸で小さく切ったものをつまもうとして、二度続けて皿へ落としている。
向かいに座る結衣は、牛乳を飲みながら蒼真の端末を見た。
「今日、結果が出るの?」
「多分、もう出てる。今日は説明を聞く会議だと思う」
「合格ってこと?」
蒼真は答える前に、味噌汁の椀へ目を落とした。
「合格という名前の試験ではないよ」
「でも、前に置いて大丈夫だったか調べたんでしょ」
「そうだね」
「大丈夫だったんでしょ」
「数字だけなら」
結衣は納得できないように眉を寄せたが、隣で昴の箸から卵焼きがまた逃げたため、そちらへ手を伸ばした。箸でつまみ直してやると、昴は口を大きく開ける。
「自分で食べないと上手にならないよ」
「おねえちゃん、して」
「今だけだからね」
そう言いながら、結衣は次の一切れもつまんでやっていた。
美咲は炊飯器の蓋を閉じ、蒼真の隣へ座った。
「数字だけなら、というのは?」
「前線にいても、リポルの損傷率は八・六パーセントだった。第一中隊の平均も十二・四パーセントで、三浦一尉の撃破数も増えた」
「それなら、向こうは続けたいと言うんじゃない?」
「限定運用くらいは言われると思う」
「それだけ?」
蒼真は端末を伏せた。
美咲が尋ねているのは、会議の議題ではなかった。蒼真が何を気にしているのかを聞いている。
「今回、自分は敵を倒してない」
「前にも聞いたよ」
「でも、結果には自分が前にいたことで撃破数が増えたと残る。そうなると、次は自分がどこまで倒せるかを調べたくなるかもしれない」
口にしてみると、それは予想というより、すでに決まっていることのように聞こえた。
美咲もすぐには否定しなかった。湯気の立つ湯飲みを両手で包み、しばらく蒼真の顔を見ている。
「会議の通知には書いてないんでしょう?」
「書いてない」
「だったら、まだ蒼真が考えすぎているだけかもしれない」
「そうだといいけど」
「でも、もし言われたら、その場ですぐ決めないで」
美咲の声に強さが加わった。
「分からないことを全部聞いてから返事をして。仕事だから断れないと言う前に、本当に断れないのかも確認して」
「分かった」
「本当に?」
「今日は説明を聞く会議だから」
「その言い方をする時の蒼真は、だいたい何か頼まれて帰ってくるの」
結衣が昴へ差し出していた箸を止め、深く頷いた。
「分かる」
「二人とも、自分を何だと思ってるの?」
「頼まれたら断れない人」
結衣が即答し、美咲も否定しなかった。
昴だけが会話の意味を理解しないまま、空になった口を開けて待っている。
蒼真は残っていた卵焼きを自分の箸でつまみ、昴の皿へ戻した。
「今度は自分で食べて」
「ぱぱ、して」
「頼まれても、これは断るよ」
昴が不満そうに頬を膨らませたため、美咲が笑った。
「その調子で会議へ行ってきて」
蒼真は返事をしながらも、同じようにはいかないだろうと思っていた。
卵焼きを自分で食べるかどうかなら、断った結果に困るのは昴だけである。しかも、少し時間をかければ自分で食べられる。
前線で敵を止めることは違う。
自分が断った場所へ、代わりに誰かが立つ。
その誰かが間に合わなければ、その先にいる人が襲われる。
そう考えた時点で、蒼真はすでに、美咲が言った通りの人間になっていた。
*
中央防衛局の会議室は、三日前まで降っていた雨の湿り気を残していた。
空調は動いているが、廊下から入るたびに紙と湿った絨毯の匂いがする。長い窓には薄い雲を通した光が広がり、磨かれた会議机の上へ白い筋を作っていた。
蒼真が神代とともに入室すると、すでに三浦が席についていた。その斜め向かいには九条綾人が座り、端末へ表示した記録を指で送っている。
綾人は蒼真に気づくと手を止めた。
「おはよう、蒼真君」
「おはようございます。今日は外部評価者としてですか?」
「そのつもりで来た」
綾人は答えたあと、蒼真の後ろに立つ神代へ軽く頭を下げた。神代も会釈を返したが、二人とも表情は硬い。
三浦が隣の椅子を引いた。
「橘さん、こちらへ」
「席は決まっていないんですか?」
「決まっていませんが、向かい側よりはこちらの方がいいでしょう」
正面には防衛局の担当者が使う端末と、まだ閉じられた資料が並んでいる。三浦の言うこちら側が、どちらの側なのかは分からなかった。
壁際には、管理局から同席する久賀が座っていた。膝の上へ端末を置き、事前資料と会議通知の記載を一行ずつ照合している。蒼真が会釈すると、久賀は顔を上げて同じ角度だけ頭を下げ、すぐに画面へ視線を戻した。
蒼真は勧められた席へ座り、神代がその隣へ腰を下ろした。
「結果の説明だけではなさそうですね」
小声で尋ねると、神代は正面から目を逸らさずに答えた。
「俺が受け取った通知も、お前と同じだ」
「質問に答えていません」
「答えられる材料がない」
それでも、神代が警戒していることは分かった。
開始時刻になると、防衛局の担当者が二人、技術評価部門から三人、戦術運用部門から二人が入室した。最後に前線運用評価の責任者が現れ、正面中央の席へ座る。
机を囲む人数は、前線配置を決めた時より多かった。
扉が閉まり、電子錠の小さな作動音が響いた。
防衛局の評価責任者が全員を見渡す。
「黒滝谷における特別機リポル前線運用評価について、結果を報告します」
正面の画面が点灯し、谷を上空から撮影した地形図が表示された。
赤い印が敵性個体、青い印が第一中隊、紫色の印がリポルを示している。映像は作戦開始直後から早送りで進み、赤と青の点が狭い谷底でぶつかった。
紫色の点は、三浦機の右後方を動きながら、下流へ抜けようとした二つの赤い点を押し戻している。途中で青い点が一つ戦列を離れると、紫色の点も後退し、その動きへ寄り添うように回収線まで下がった。
蒼真は映像を見ながら、あの時の音を思い出した。
谷壁を震わせた衝撃。三番機の左膝から散った火花。防盾へ爪が食い込んだ時に腕へ伝わった重さ。
上空から見れば、どれも小さな点の移動でしかない。
「第一中隊四機、全機帰還。搭乗者の負傷は軽微。部隊平均損傷率は十二・四パーセント。リポルは八・六パーセントでした」
担当者が数値を読み上げるたび、画面の端へ過去の平均値との比較が表示された。
「作戦時間は同規模任務の平均より十一分三十六秒短縮。敵性個体十九体のうち十五体を停止。四体は上流へ退避しましたが、下流側への流出はありません」
次に、三浦機の戦闘映像へ切り替わる。
三浦は一体目の中型個体を止めると、機体を反転させながら次の敵へ向かっていた。その背後を小型個体が抜けようとするが、画面の外から入ったリポルの防盾が進路を塞ぎ、敵を戦列へ押し返す。
「三浦一尉の個人停止数は、同一搭乗者による一任務の記録として過去最高です」
三浦は褒められても表情を変えなかった。映像の中の自機ではなく、その後方に映るリポルを見ている。
「前衛部隊の右後方へリポルを配置したことで、三浦一尉は後方へ抜ける個体への対応を中断し、正面の中型個体へ集中できました。また、三番機の離脱時には、リポルが回収線まで随伴したことで、残る三機が戦列を維持しています」
ここまでは、蒼真にも予想できた報告だった。
前線配置は有効だった。
帰還率は下がらず、損傷率も上がらなかった。
今後は第一中隊との合同任務に限り、同様の配置を選択肢へ加える。おそらく、その程度の結論になる。
担当者が最後の資料を閉じた時、蒼真はわずかに肩から力を抜いた。
しかし、防衛局の評価責任者は会議を終えなかった。
「以上をもって、前線配置に関する第一段階の評価を終了します」
第一段階。
その言葉だけが、静かな室内へ残った。
蒼真は正面の評価責任者を見た。
「第一段階という説明は、事前に受けていません」
「今回の結果を確認するまで、次段階へ進むか判断できなかったためです」
「次は何を評価するんですか?」
評価責任者が手元の端末を操作すると、正面の地形図が消えた。
代わりに表示されたのは、簡略化された市街地だった。中央を一本の道路が走り、その先に住宅区域がある。道路の手前には紫色のリポル。その左右へ離れた場所に、第一中隊の青い印が置かれている。
リポルの正面には、中型個体を示す赤い印が一つだけあった。
「前線配置の有効性は確認されました。しかし、黒滝谷で橘二尉が行ったのは、突破個体の戦列復帰と損傷機の回収です。敵性個体を単独で停止させる必要がある状況は発生していません」
「発生しなかったことが問題なんですか?」
「未評価の項目が残ったと考えています」
「自分の評価項目に、敵の討伐は入っていなかったはずです」
「討伐ではなく、単独対処能力の評価です」
言葉だけが置き換えられた。
画面の赤い印は、住宅区域へ向かっている。三浦機を含む第一中隊は、どれもすぐには戻れない距離にあった。
蒼真は配置図を見たまま尋ねた。
「この個体は、どこへ返すんですか?」
担当者の一人が答える。
「想定上、後方から別の個体群が接近しています。戦列へ戻すことはできません」
「横へ逸らせば?」
「道路の両側は倒壊した建物で塞がれています」
「自分が後退して、住民を避難させる時間を作ることは?」
「住宅区域の避難は完了していません。中型個体の移動速度を考えると、全員の退避前に到達します」
尋ねるたびに、逃げ道が一つずつ閉じられていく。
偶然ではない。
最初から、返す場所も、避ける場所も、待つ時間もないように作られた条件だった。
蒼真はようやく、正面の人々から画面へ視線を戻した。
「自分が敵を倒すまで終わらない状況を作ったんですね」
誰もすぐには答えなかった。
空調から流れる風が、机の上に置かれた紙の端を僅かに揺らした。
評価責任者が両手を組む。
「倒すという言葉に限定するつもりはありません。住民区域への到達を阻止できれば、方法は問わない」
「停止させる以外の方法が残っていません」
「結果として、そうなる可能性は高いでしょう」
「それなら、討伐能力の試験です」
「その面はあります」
評価責任者は、言い換えを否定しなかった。
神代が椅子の背から身体を起こした。
「評価の目的が変わっている」
低い声だったが、室内の全員が神代へ顔を向けた。
「橘を前へ配置する試験は、救援到達時間の短縮と退路維持を両立できるか確認するものだった。今回は、橘を単独戦闘要員として成立させる試験だ」
「単独戦闘要員として運用することを決めたわけではありません」
「決めるための数字を取ろうとしている」
戦術運用部門の担当者が資料を開いた。
「現場では、常に三浦一尉が対応できるとは限りません。複数地点で同時に中型個体が発生すれば、リポルの正面へ敵が残る可能性があります。その際、橘二尉が単独でどこまで対応できるかを把握していないことは、配置判断上の危険になります」
「なら、対応不能として配置条件へ入れればいい」
「実際に不能かどうかが分かっていません」
神代は反論しかけたが、口を閉じた。
リポルの出力と防御性能を考えれば、不能と決めつける根拠はない。蒼真自身も、中型個体の攻撃を何度も受け止め、進路を変えている。
倒していないことと、倒せないことは違う。
上層部が知りたいのは、その間にある距離だった。
綾人が端末を机へ置いた。
「確認させてください」
それまで黙っていたため、声が響いた。
「この試験で橘二尉が中型個体を停止させた場合、結果は何に使われますか?」
「今後の配置基準を定める資料とします」
「それだけですか?」
担当者は答えなかった。
綾人は相手を急かさず、返事を待っている。その横顔からは感情が読み取れない。けれど、机の上へ置いた右手の指先だけが僅かに曲がっていた。
「質問を変えます。単独停止が可能と判定された場合、討伐任務への投入、常時前線配置、武装追加の検討へ、この結果が転用される可能性はありますか?」
「将来的な運用可能性を、現時点で否定することはできません」
「やはり、それだけではない」
綾人は蒼真を見なかった。
「橘二尉に今回だけ中型個体を止められるか試させるのではなく、止められると証明された人間を作ろうとしている。証明が残れば、次からは『できる者を使わない理由』を橘二尉と所属部隊が説明することになる」
蒼真は、その言葉を聞いて初めて、試験の先をはっきりと見た。
今回の前線評価でも同じだった。
前にいても全機を帰せるという結果が出たことで、後方へ置く理由を説明しなければならなくなった。
次の試験で敵を倒せば、戦わせない理由が必要になる。
できないままなら、戦わなくて済む。
けれど、それは試験の中で住民を見捨てなければ得られない結果だった。
仮想の住民だと分かっている。
画面の向こうで誰かが本当に死ぬわけではない。
それでも、自分が手を抜き、敵を通す映像を記録へ残すことを考えると、胸の奥が冷たくなった。
三浦が画面を見ながら口を開いた。
「橘さんが戦う必要はありません」
蒼真は隣を見た。
「三浦一尉?」
「敵を倒すことは、俺たち前衛の仕事です。黒滝谷でも、橘さんが戻した敵を俺が止めた。それで成立していました」
「では、図の状況ではどうしますか?」
戦術運用部門の担当者が尋ねた。
三浦は答えようとして、画面へ視線を戻した。
第一中隊の三機は東側で大型個体に拘束され、三浦機は西側で別の中型個体二体と交戦中。応援到着まで四分二十秒。住宅区域まで、敵は二分足らずで到達する。
三浦の機体がどれほど速くても、間に合わない。
「俺が戻ります」
「その場合、西側の二体が輸送路へ流出します」
「先に止める」
「二分以内に?」
三浦の顎へ力が入った。
現場であれば、できると答えたかもしれない。しかし、評価会議で根拠のない約束をすることはできない。
「分かりません」
絞り出した言葉は短かった。
蒼真は三浦の横顔を見た。
三浦は自分に戦わせたくないと言った。それでも、図の中にいる住民を助ける方法を示せない。
上層部の作った条件は不快だった。
しかし、あり得ない条件ではなかった。
黒滝谷で三番機が損傷した時、第一中隊の戦力は一機減った。あの時、別方向から中型個体が抜けていれば、似た状況になっていた可能性がある。
「試験は、いつ行う予定ですか?」
蒼真が尋ねると、美咲の言葉が頭をよぎった。
その場ですぐ決めないで。
分からないことを全部聞いてから返事をして。
評価責任者は、蒼真の質問を参加の意思とは受け取らなかった。
「参加が決まれば、最短で二日後です。実機は使用せず、中央防衛局の全周囲型シミュレーターを使います」
「評価対象は一つの条件だけですか?」
「基本条件は今、表示しているものです。ただし、開始時の距離、住民の避難率、敵の損傷状態を変え、複数回実施します」
「武装は?」
「黒滝谷で使用したリポルと同じ構成です」
「自分が敵を止められなかった場合は?」
「単独対処能力なしとして、前線配置条件へ制限を加えます」
「止めた場合は?」
「単独対処可能として、詳細な分析へ進みます」
「その分析が、討伐任務への投入につながる可能性は否定しないんですね」
「否定できません」
評価責任者の答えは一貫していた。
隠しているわけではない。ただ、必要なところまでしか先を話さない。蒼真が尋ねなければ、討伐任務という言葉は出ないまま、追加評価への参加だけを求められていたのだろう。
「参加は命令ですか?」
室内の空気が変わった。
防衛局の担当者たちが互いの顔を見たあと、その視線は壁際の久賀へ集まった。現在の職務範囲を判断するのは、試験を計画した防衛局ではなく、蒼真の所属する管理局だった。
「いいえ」
久賀は明確に答えた。
「今回の試験は、現在の職務範囲を超えます。参加には橘二尉本人の同意が必要です」
蒼真の肩から、僅かに力が抜けた。
久賀はそれを見ても表情を変えず、手元の資料を一頁送った。
「参加を拒否した場合も、現在の職務評価や処遇に不利益は生じません」
「では、断っても――」
「ただし、緊急時の単独対処能力は未評価のまま残ります」
蒼真が言い終える前に、久賀は次の事実を重ねた。
「その場合、管理局は橘二尉を単独対処可能な人員として扱うことができません。同様の状況を想定する任務では、別の前衛機、または即応可能な救援部隊を配置する必要があります」
正面の画面には、応援到着まで四分二十秒と表示されている。
「救援部隊を確保できない場合は?」
蒼真が尋ねると、久賀は資料から目を上げた。
「その任務へ橘二尉を単独で配置することはできません」
「自分が行かなければ、別の人が行くんですね」
「必要な任務であれば、別の搭乗者を選定します」
神代が低い声で名前を呼んだ。
「久賀」
久賀の指が、頁を送る直前で止まった。
「分かっています」
何が分かっているのかは説明しなかった。それでも彼女は端末を閉じず、最後まで同じ調子で続けた。
「なお、評価を受けないという選択と、現場で緊急対処を行わないという判断は別です。実任務で人命への危険が切迫した場合、橘二尉には、その時点で可能な措置を選択する責任が残ります」
命令ではない。
断っても不利益はない。
しかし、断れば能力は分からないままになり、別の誰かが配置される。それでも実際に目の前で起きれば、何もしなくてよいわけではない。
久賀は蒼真を試験へ参加させようとは一度も言わなかった。
ただ、断った場合に残る事実を、一つも省かなかった。
断れる。
その事実に安心するより先に、蒼真は画面の住宅区域を見た。
灰色の四角で描かれた家々。その間に、小さな人型の印が残されている。
試験を断れば、この状況で自分が何をできるかは分からないままになる。
実際の現場で同じことが起きた時、初めて中型個体を倒そうとすることになる。その場には、やり直しも中断もない。
だからといって、ここで結果を出せば、次から戦える人間として数えられる。
どちらを選んでも、今までと同じ場所には戻れない。
「すぐに回答する必要がありますか?」
「本日中であれば、会議終了後でも構いません」
「家族へ相談しても?」
「問題ありません」
蒼真は頷いた。
「では、今は回答しません」
美咲との約束を守れたことに、わずかに安堵した。
ところが、胸の重さは変わらなかった。
*
会議は十五分の休憩に入った。
蒼真が廊下へ出ると、窓の向こうでは雲が切れ始めていた。濡れた中庭に日が差し、植え込みの葉から落ちる雫が、細かな光を散らしている。
端末を取り出したものの、美咲へ連絡する指は動かなかった。
相談すると言ったが、何を相談すればいいのか分からない。
試験を受けていいか、と許可を求めることではない。美咲が答えを決めることでもない。
蒼真が黙ったまま画面を見ていると、後ろで扉が閉まった。
綾人が隣へ立つ。
「美咲に連絡するのか?」
「そのつもりです」
「何と話す?」
「まだ考えています」
綾人は中庭へ目を向けた。
「断っていい試験だ」
「分かっています」
「分かっている顔には見えない」
「顔で判断しないでください」
「美咲にもよく言われる」
僅かに笑ったあと、綾人は窓枠へ手を置いた。
「俺なら、受けなかったと思う」
蒼真は意外に思い、綾人を見た。
「綾人兄さんなら、倒せますよね」
「倒せるかどうかではない。あの頃の俺なら、試される前に、自分から討伐任務へ出ていた。だから、今の俺が受けなかったと言っても、君の参考にはならない」
綾人の視線は、中庭より遠いところへ向いているようだった。
「一度、できると証明すると、自分でもそれを理由にするようになる。自分が一番早い。自分なら倒せる。自分が行けば被害が少ない。周りに言われる前に、自分で前へ出る理由を作るようになる」
「自分は、そうならないと思います」
「そう思う。君は俺とは違う」
綾人はすぐに認めた。
「ただ、君にも別の理由がある。自分が行けば誰かを帰せる。自分が止めれば、その先の人が助かる。言葉が違うだけで、自分を前へ出す力としては同じくらい強い」
蒼真は反論できなかった。
戦いたいから前へ出るのではない。
自分が行かなければ誰かが帰れないと思うから出る。
それは綾人と違うようで、結果だけを見れば同じ場所へ立っている。
「試験を受けなければ、本番で困ります」
「そうだな」
「本当に同じ状況が起きる可能性もあります」
「ある」
「止められるか確認しておいた方がいい」
「それも正しい」
綾人は一度も否定しなかった。
正しいと言われるほど、蒼真は息苦しくなった。
「止めないんですか?」
「止めてほしいのか?」
「分かりません」
「なら、俺が決めてはいけない」
綾人は窓から手を離した。
「ただし、受けるなら条件を出した方がいい。単独停止に成功しても、それだけで討伐任務への適性ありとは判定しないこと。支援と退路維持を外した状態の数字を、普段の配置へ転用しないこと。試験後に、君自身の意思をもう一度確認すること」
「上層部が認めますか?」
「認めさせるために、俺が呼ばれた」
穏やかな声だったが、綾人の目から迷いは消えていた。
そこへ三浦と神代も廊下へ出てきた。
三浦は蒼真たちの前で足を止めたものの、すぐには話さなかった。握った手を開き、また閉じる。
「橘さん」
「はい」
「先ほどは、俺が戻ると言いました」
「聞きました」
「実際の現場でも戻ります。ただ、間に合うとは言えません」
三浦は蒼真から目を逸らさなかった。
「敵を倒すのは俺の仕事です。けれど、俺が全部の場所にいることはできない」
それは、以前に三浦が話したことの続きだった。
目の前にいる人を助けることは大切だが、襲われる前に敵を止めれば、もっと多くの人を助けられる。
蒼真は、その考えに今も完全には納得していない。
見えていない人のために敵を倒すことと、目の前で倒れた人を助けることを、同じようには感じられなかった。
しかし、画面に示された住宅区域には、まだ逃げ遅れた人がいた。
見えていないだけで、そこにも一人ずつ生活がある。
「三浦一尉は、自分に試験を受けてほしいですか?」
三浦は長く息を吐いた。
「受けてほしくありません」
意外な答えだった。
「ただ、俺が間に合わない時に、橘さんが何もできないままでいてほしいとも思いません」
「矛盾していますね」
「しています」
三浦は苦笑しなかった。
「だから、決められません」
神代が壁へ背を預け、腕を組んだ。
「俺も反対だ」
「隊長もですか」
「試験を受ければ、お前は結果を出そうとする。結果を出せば、次の理由に使われる。そこまで分かって受けさせることには反対だ」
「でも、同じ状況が現場で起きたら?」
「その時は止めろ」
「できるか分からなくても?」
「分からなくても、やるしかない時はある」
「だったら、先に試した方がいいのでは?」
神代の眉間へ深い皺が寄った。
「だから反対理由を説明できなくなると言っている」
前線配置を決めた時と同じだった。
神代は蒼真を前へ出したくない。けれど、出ることで助かる人が増えるなら、隊長として感情だけを理由にはできない。
「美咲さんへ連絡しろ」
「何を話せばいいでしょう」
「今、俺たちへ話したことを、そのまま話せ」
神代は蒼真の端末を顎で示した。
「答えをもらおうとするな。お前が何を怖がっているかを伝えろ」
蒼真は三人の顔を順に見た。
誰も代わりに決めてくれない。
けれど、誰も一人で決めろとも言っていなかった。
蒼真は美咲の名前を選び、通話を開始した。
*
休憩が終わり、全員が席へ戻った。
窓から差し込む光は少し強くなっていたが、会議室の空気は冷えたままだった。
防衛局の評価責任者は蒼真へ回答を急かさず、外部評価者からの意見を求めた。
綾人が先ほど廊下で話した三つの条件を提示する。
単独停止の結果だけで討伐任務への適性を判定しないこと。
支援や退路維持を除外した試験結果を、通常任務の配置根拠として単独使用しないこと。
評価後に、本人と家族へ運用案を説明し、改めて意思を確認すること。
担当者たちは互いに資料を見せ合い、短い協議を始めた。
蒼真はその間、伏せた端末へ手を置いていた。
美咲との通話は長くなかった。
『受けたくないの?』
『受けたくない』
『でも、受けないまま現場へ出る方が怖い?』
『うん』
『だったら、それをそのまま言って。試験を受けたいわけじゃない。何もできないまま本番を迎えたくないだけだって』
美咲は、受けてもいいとも、断ってほしいとも言わなかった。
最後に一つだけ尋ねた。
『倒せると分かったら、蒼真は戦いたくなる?』
『ならないよ』
『それなら、帰ってからも同じことを言ってね』
通話はそこで終わった。
上層部の協議が終わり、防衛局の評価責任者が顔を上げる。
「九条氏から提示された条件を受け入れます。試験の目的は、緊急時の単独対処可能範囲を確認することに限定します。結果を討伐任務への適性判定へ用いる場合は、別途審査と本人への説明を必要とするものとします」
完全に使われないわけではない。
使うまでに、もう一度止める場所ができただけである。
それでも、何もないよりはよかった。
「橘二尉」
「はい」
「追加評価へ参加しますか?」
全員の視線が蒼真へ集まった。
断れば、会議は終わる。
誰も命令違反とは言わない。神代も綾人も、断ったことを責めない。美咲も受けろとは言わなかった。
蒼真は画面を見た。
住宅区域へ続く一本の道。その手前に立つ紫色の機体と、こちらへ向かってくる赤い印。
これは作られた状況だ。
自分に敵を倒させるため、ほかの選択肢を取り除いてある。
不快で、納得できない。
けれど、現実の敵は、蒼真が納得できる条件で現れてはくれない。
三浦が間に合わないこともある。
神代の指示を待てないこともある。
自分と敵の間に、帰さなければならない人がいることもある。
その時、初めて引き金を引けるか考えるのでは遅い。
「参加します」
評価責任者の前にある端末へ、承諾を示す欄が開いた。
蒼真は続けた。
「ただし、敵を倒せると証明したいからではありません」
「理由を記録します」
「同じ状況が本当に起きた時、自分が何もできないまま人が襲われる方が嫌です」
声に出しても、決意が強くなることはなかった。
怖さも消えない。
むしろ、二日後には自分から敵を止めなければならないことが、はっきりしただけだった。
それでも、蒼真は承諾欄へ指を置いた。
短い確認音が鳴り、《参加》の文字が表示される。
評価責任者が試験日程を確定した。
「二日後、午前九時より開始します」
正面の画面へ、新しい項目が加わった。
《特別機リポル 緊急時単独対処評価》
その下に、参加者として橘蒼真の名前が記される。
討伐という文字は、最後まで使われなかった。
しかし、画面の中で住宅区域へ向かう敵を止める方法は、一つしか残されていなかった。
*
会議が終わり、蒼真が廊下へ出ると、背後から早い足音が近づいてきた。
「橘二尉」
振り返った時には、久賀が蒼真の前で足を止めていた。
会議室では一度も崩れなかった表情が、今は困りきったように歪んでいる。久賀は胸の前で端末を抱え、神代と綾人の顔を順に見たあと、蒼真へ深く頭を下げた。
「すみません。途中で止めなければと思ったのですが、どうしても止まりませんでした」
「神代隊長が止めていましたよ」
「聞こえていました」
「聞こえていたんですか?」
「はい。ですが、説明を途中で終えると、橘二尉が不十分な情報で判断することになります」
久賀は顔を上げたものの、視線は蒼真の肩口までしか戻らなかった。
「話している途中で、これでは断りづらくなることにも気づきました」
「そのあとも、全部話していました」
「はい……」
会議中と同じ正確な返事だったが、声は小さい。
「本当は、命令ではないことと、断っても不利益がないことを伝えたかったんです」
「その二つだけなら、断りやすかったと思います」
「私もそう思います」
久賀は申し訳なさそうに眉を下げた。それから、諦めたように小さく笑う。
職場で資料を読んでいる時の彼女しか知らない人なら、同じ人物だと気づかないかもしれない。以前、管理局の外で会った時も、久賀が笑いながら目の高さまでしゃがむと、昴は美咲の後ろからすぐに出てきた。それ以来、昴は久賀を見つけるたび、自分から両手を伸ばす。
「昴には、今の顔を見せるんですね」
「仕事中ではありませんから」
「会議室でも、少し笑った方がいいと思います」
「事実の説明に必要でしょうか?」
「多分、必要ありません」
「では、難しいです」
久賀は真剣に答えたあと、もう一度頭を下げた。
「試験を受けると決めたことについて、謝るつもりはありません。ですが、決断を難しくしたことは謝ります」
「分かりました」
「今後は、途中で一度止まるようにします」
神代が隣で息を吐いた。
「できるのか?」
久賀は少し考えた。
「努力します」
できるとは言わなかった。
蒼真たちが一階へ下りると、玄関ホールで待っていた三浦がこちらへ歩いてきた。
自動扉の向こうには、雨上がりの青空が広がっている。濡れた舗道へ雲が映り、通り過ぎる人の足元で形を崩していた。
「橘さん」
「はい」
三浦は何かを言おうとして、玄関脇に展示された旧式機の模型へ目を向けた。
「試験では、俺も参加します」
「別の場所で中型個体二体と戦う役ですか?」
「そうです」
「助けに来ないでくださいね」
三浦が目を瞬かせた。
「試験なので」
「分かっています」
「三浦一尉が予定より早く敵を倒して来たら、自分の試験になりません」
「分かっています」
「本当に?」
「橘さんに言われるとは思いませんでした」
三浦は困ったように息を吐いた。
「助けに行けるのに待つことが、こんなに嫌だとは思いませんでした」
「自分は、いつも待つ側ですよ」
蒼真が答えると、三浦はしばらく黙った。
前線で敵を倒す三浦と、後方で損傷機を待つ蒼真。
役割が違うだけだと思っていた。
だが、誰かが危険な場所にいると分かりながら、自分の担当を守るために動かないことにも、別の種類の怖さがある。
「二分です」
三浦が言った。
「何がですか?」
「橘さんの正面に敵が現れてから、住宅区域へ到達するまで。俺が向こうを止めても、戻るには間に合わない」
「そうですね」
「それでも、終わったら向かいます」
「試験が終わったあとに来ても、遅いですよ」
「分かっています」
三浦は同じ言葉を繰り返し、今度は僅かに笑った。
「だから、終わるまでに来ます」
蒼真は返事をしなかった。
来なくていいとは言えない。
間に合ってほしいとも言えなかった。
自動扉が開き、湿り気を含んだ風が玄関ホールへ入ってくる。
蒼真は外へ出る前に端末を取り出し、美咲へ短い連絡を送った。
《試験を受けることにした。二日後。帰ってから、決まった条件を全部話す》
返事は、駐車場へ着く前に届いた。
《分かりました。今日は結衣も早く帰るから、みんなで聞きます》
蒼真は画面を見たまま足を止めた。
みんなで聞く。
その言葉は心強かったが、討伐評価の説明を結衣にすることを考えると、別の緊張が増えた。
神代が数歩先から振り返る。
「どうした?」
「家でも会議になりました」
「そちらの方が厳しいだろうな」
「多分」
蒼真は端末をしまい、神代の隣へ追いついた。
*
夜。
日記。
―――
八月三日。
黒滝谷で行った前線運用評価の結果について、中央防衛局で会議があった。
第一中隊は全機帰還し、平均損傷率は十二・四パーセントだった。
リポルの損傷率は八・六パーセントだった。
三浦一尉の敵性個体停止数は、個人記録として過去最高だった。
前線配置によって、第一中隊の戦闘と損傷機の回収を両立できることが確認された。
これで前線評価が終わると思っていた。
追加試験を行うことになった。
今度は、第一中隊が別の敵と戦っている間に、中型個体が住民区域へ向かう状況をシミュレーターで再現する。
敵を戦列へ戻す場所はない。
横へ逸らす場所もない。
住民全員が逃げる時間もない。
自分が敵を止める以外の方法がないように作られている。
防衛局は、討伐能力ではなく、緊急時の単独対処能力を評価すると説明した。
同じことだと思う。
この試験は命令ではなく、断ることができた。
久賀さんが、現在の職務範囲を超えるため、本人の同意が必要だと説明した。
そのあと、断った場合に残る問題も全部説明した。
会議が終わってから、途中で止められなかったと謝られた。
事実なので、仕方がないと思う。
断りたかった。
試験で敵を倒せば、今後、敵を倒せる人間として評価される。
それでも、同じ状況が実際に起きた時、何もできないまま人が襲われる方が嫌だと思った。
そのため、参加することにした。
九条綾人さんが、試験結果だけで討伐任務への適性を決めないことなどを条件に加えた。
美咲からは、試験を受けたいわけではなく、何もできないまま本番を迎えたくないのだと、きちんと伝えるように言われた。
伝えた。
試験は二日後に行われる。
敵を倒せるかは分からない。
倒したいとは思わない。
ただ、後ろに人がいるなら、通すこともできない。
多分、それを調べるための試験なのだと思う。
以上。
―――
*
同時刻。
中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、黒滝谷における橘蒼真の行動記録と、追加評価会議の音声が関連づけられていた。
前線運用評価の目的は達成された。
特別機リポルを前衛部隊の右後方へ配置した場合、橘蒼真は戦闘区域全体への認識を維持しながら、突破個体への対処と損傷機の回収を実行した。
第一中隊の攻撃効率は上昇し、損傷率は低下した。
橘蒼真本人による敵性個体停止数は、零。
ただし、中型個体への接触回数、攻撃回避率、防盾による軌道変更成功率、武装選択までの反応時間は、単独停止が可能であることを示唆している。
未検証項目。
敵性個体の破壊を必要条件とした場合の判断速度。
人命保護と敵性個体への攻撃が直接結びついた場合の心理的抵抗。
単独戦闘後における救助判断への影響。
会議では、対象が試験目的の変化を早期に認識した。
対象は、提示された条件が自身に討伐行動を選択させるため、代替手段を意図的に除外したものであると理解している。
参加拒否が可能であることも理解した。
管理局職員、久賀による説明は、参加拒否時の不利益が存在しないことを明示した。
同時に、能力が未評価のまま残る場合の配置制限、代替搭乗者の選定、実任務における緊急対処責任についても提示した。
説明内容に誤りはない。
説明順序は、対象の参加判断へ影響した可能性がある。
そのうえで、参加を選択した。
理由は、戦闘能力の証明、評価向上、命令遵守ではない。
将来、同様の状況が発生した際、対処不能によって住民が被害を受ける可能性を低減するためである。
外部評価者、九条綾人による制限条件が追加された。
制限は有効。
ただし、単独停止能力が確認された場合、その事実自体を無効化するものではない。
橘蒼真は、試験後の運用拡大を警戒している。
同時に、その警戒よりも、救助可能性を未検証のまま残すことへの不安を優先した。
自己意思による前進を確認。
戦闘への志向は、依然として確認されない。
恐怖反応、正常。
拒否感、継続。
それでも対象は、敵性個体と住民の間へ立つことを選択した。
緊急時単独対処評価。
準備開始。
観察を継続する。
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