第五十七話 何も起きなかった1日
任務を終えた蒼真が管理局を出た時には、すでに空が赤く染まり始めていた。
北西沿岸物流区から戻ったあと、簡単な聴取と身体検査を受け、リポルの損傷状況を牧野と確認した。右腕は駆動系を保護するために出力制限がかかっていたが、主要部品の交換で修復できる。左脚も外装と緩衝材の損傷が中心で、骨格部分に異常はなかった。
詳しい評価は明日行われる。
今日のところは帰宅してよいと告げられたが、車へ乗り込んでも、しばらくエンジンをかけることができなかった。
両手は、もう震えていない。
吐き気も、管理局へ戻る頃には治まっていた。
それでも、静かになった車内へ一人で座ると、第五倉庫の金属音が耳の奥へ戻ってきた。
中型個体の前肢が防盾へ当たった音。
リポルの左脚から装甲が弾けた音。
三浦機の長剣が敵の首元へ入った時の、硬いものが割れる音。
現場では一つずつ聞き分けていたはずなのに、今はすべてが重なっている。
蒼真は運転席の背へ身体を預け、ゆっくりと息を吐いた。
端末には、美咲から届いた《帰ってくるまで待っています》という文章が残っている。
帰らなければならない。
今日の任務は、まだ終わっていない。
蒼真はエンジンをかけた。
*
自宅の前へ車を止めると、居間のカーテン越しに明かりが見えた。
玄関へ近づく途中で、扉の向こうから足音が聞こえる。鍵を差し込む前に扉が開き、美咲が姿を見せた。
「おかえり」
「ただいま」
美咲は蒼真の顔を見たあと、視線を肩から足元まで下ろした。
「怪我は?」
「ないよ。検査も受けた」
「本当に?」
「本当に」
答えても、美咲はすぐには安心した顔をしなかった。
蒼真が靴を脱ぐ間も、歩き方に違和感がないかを見ている。左足を上げた時、美咲の目が僅かに動いた。
「左脚は?」
「自分の?」
「ほかに誰の脚があるの?」
「リポルの左脚が壊れたから」
「だから、蒼真も同じところを怪我してないか見てるの」
「怪我はしてないよ」
そこへ居間から結衣が走ってきた。
「パパ!」
蒼真の前まで来ると、抱きつくのではなく、その場で急に足を止めた。美咲と同じように、顔から足元までを確かめる。
「歩ける?」
「歩いて帰ってきたよ」
「リポル、左の脚が壊れたんでしょ?」
「どうして知ってるの?」
「ママが、四十三人みんな帰れたって。それから、リポルは左の脚と右の腕が壊れたって教えてくれた」
美咲は、蒼真から届いた連絡をそのまま子どもたちへ伝えたらしい。
蒼真は結衣の前で左足を一度上げ、元へ戻した。
「大丈夫。痛くないよ」
結衣はようやく息を吐いた。それでも完全には納得していないのか、蒼真のズボンの裾を見ている。
廊下の奥から、昴が紙製ノストスを抱えて現れた。
走ってはこなかった。
機体を胸へ押しつけたまま、蒼真の顔を見ている。
「昴、ただいま」
蒼真が声をかけても、返事がない。
「パパ、帰ってきたよ」
もう一度言うと、昴は小さな声で尋ねた。
「りぽるは?」
「管理局にいるよ」
「かえった?」
「帰った。牧野さんが直してくれる」
「あし、いたい?」
「リポルは痛いって言わないけど、左の足と右の腕が壊れた」
昴は紙製ノストスの左脚を見た。
結衣と一緒に補強した厚紙へ指を当て、それから蒼真を見上げる。
「なおる?」
「直るよ」
「ぱぱは?」
「パパは壊れてない」
昴はそこで初めて蒼真へ近づいた。
小さな身体が脚へ触れ、両腕が回る。蒼真が頭を撫でると、昴は顔を押しつけたまま離れなかった。
美咲はしばらく二人を見ていたが、やがて玄関に置かれた鞄へ手を伸ばした。
「先に着替えてきて。ご飯は温めればすぐ食べられるから」
「鞄は自分で持つよ」
「持てるかどうかじゃなくて、今日は持つ」
「重くない?」
「蒼真よりは軽い」
美咲は鞄を持ち、居間へ向かった。
昴が脚から離れないため、蒼真は小さな身体を抱き上げた。紙製ノストスも一緒に持ち上がり、厚紙の腕が蒼真の胸へ当たる。
「パパ、着替えたいんだけど」
「すばるも」
「一緒に着替えるの?」
「いっしょ」
結衣が後ろから笑った。
「今日は諦めたら?」
「結衣が抱いててくれない?」
「パパを?」
「昴を」
「分かってるよ」
結衣が両腕を出したが、昴は蒼真の首へ腕を回し、顔を背けた。
「嫌だって」
「見れば分かる」
結局、蒼真は昴を片腕で抱えたまま寝室へ向かった。
上着を脱ごうとすると、右肩へ鈍い痛みが走る。
怪我ではない。
操縦席の固定具が強く当たった場所へ、赤い痕が残っていた。
蒼真が僅かに顔をしかめると、昴が気づいた。
「いたい?」
「少しだけ」
「こわれた?」
「壊れてないよ。ぶつかった痕」
昴は蒼真の肩へ手を置き、撫でるように動かした。
「なおる?」
「明日には、もう少しよくなる」
「すばる、なおす」
「ありがとう」
寝室の入口に立っていた結衣が、蒼真の肩を見た。
笑っていた表情が消える。
「怪我してるじゃん」
「怪我ではないよ」
「赤くなってる」
「固定具の痕。検査でも問題ないって言われた」
結衣はすぐに返事をせず、肩から背中へ続く赤い線を見ていた。
リポルが壊れたと聞いても、結衣には機体の損傷しか見えなかったのだろう。蒼真の身体にも、出動した痕が残ることを、今初めて目にした。
「毎回、そうなるの?」
「強い衝撃を受けた時は」
「痛い?」
「今は少し」
「いつも言わないよね」
「聞かれなかったから」
結衣の眉が寄る。
「聞かれなくても言ってよ」
「これくらいなら、すぐ治るから」
「治るかどうかじゃない」
結衣の声が少し強くなった。
蒼真が答えを探していると、美咲が寝室へ入ってきた。手には冷やしたタオルを持っている。
「結衣の言うとおり」
「美咲も見えてたの?」
「玄関で右肩を動かした時に分かった」
「怪我ではないよ」
「怪我じゃなくても、痛かったことは話して」
美咲は昴を蒼真の腕から受け取り、冷たいタオルを肩へ当てた。
急な冷たさに、蒼真の身体が僅かに動く。
「痛い?」
「冷たい」
「それは我慢して」
美咲はタオルを押さえながら、赤い痕を確認した。
「病院へ行かなくていいの?」
「管理局で画像も撮った。筋肉にも骨にも異常なし」
「なら、今日はこれでいい。でも、明日も痛かったら言って」
「分かった」
「結衣にも」
蒼真は入口に立つ結衣を見た。
「聞かれなくても話すようにする」
「本当に?」
「努力する」
「そこは、話すって言って」
「話します」
結衣はようやく頷いた。
美咲が昴を連れて寝室を出る。結衣も後へ続こうとしたが、扉の前で一度振り返った。
「パパ」
「何?」
「四十三人、みんな帰ったんだよね」
「うん」
「パパも帰った」
「帰ったよ」
結衣は小さく笑った。
「なら、今日はよかった」
「うん」
結衣が廊下へ出たあと、蒼真は一人で着替えた。
右肩だけではなく、腰にも固定具の痕が残っている。痛みは強くない。しかし、鏡で見ると、自分が思っていたより広い範囲が赤くなっていた。
怪我がないという言葉は、嘘ではない。
それでも家族が知りたかったのは、病院へ行く必要があるかどうかだけではなかったのだろう。
帰ってきた自分が、どのような状態なのか。
痛いのか、怖かったのか、今は大丈夫なのか。
それを知らなければ、待っていた時間を終わらせられないのかもしれない。
*
夕食の食卓には、昨夜と同じく甘い卵焼きが置かれていた。
ただし今日は、蒼真の前だけではない。
「みんなの分?」
「四十三人帰ったから」
美咲が答える。
「四十三個はないよ」
「それは食べられない」
結衣が塩味の皿へ箸を伸ばしかけ、途中で甘い方へ変えた。
「今日はこっちにする」
「塩の方が好きじゃなかった?」
「ご褒美だから」
結衣は甘い卵焼きを一つ口へ入れた。少し甘すぎると思ったのか、眉が僅かに動いたが、何も言わずに食べる。
昴は最初から甘い方を二つ自分の皿へ取っていた。
「りぽるのは?」
「リポルは食べられないよ」
「まきの、あげる?」
「牧野さんに?」
昴は頷いた。
直してくれる人へ渡せば、リポルの分になると思ったらしい。
「明日、牧野さんに伝えるよ。昴が卵焼きをあげたいって」
「あまい」
「甘い方ね」
蒼真が答えると、昴は満足したように食事へ戻った。
美咲は味噌汁を一口飲み、蒼真の右肩へ目を向けた。
「明日の評価会議は何時?」
「十時」
「何を決めるの?」
「今回の前線配置が有効だったか。今後も使うか」
「一回だけの実地評価だったよね」
「うん。次の運用は、会議で決める。自分も参加する」
「今回で終わる可能性は?」
「あると思う」
「続く可能性も?」
「ある」
美咲の箸が止まる。
「蒼真は、どうしたい?」
問われて、蒼真は今日の現場を思い返した。
前にいたから、重機へ跳んだ中型個体へ間に合った。三浦と一緒に一体を止め、東階段を開け、第一中隊二番機を回収した。
後方から移動していれば、間に合わなかった場面もあっただろう。
その一方で、神代の指示がなければ、自分は重機を帰す前に倉庫へ戻っていたかもしれない。御堂の監視がなければ、北側の救急車が襲われたことにも気づけなかった。
「今日と同じ条件なら、前にいる意味はあったと思う」
「続けたい?」
「続けたいとは思わない」
「なら、明日もそう言って」
「うん」
「役に立ったから続けます、だけにしないでね」
「分かってる」
美咲はそれ以上言わなかった。
食事が終わる頃には、昴は蒼真の膝へ移っていた。紙製ノストスを食卓の端へ立たせ、何度も「かえった」と話しかけている。
蒼真は昴の背へ腕を回し、家族と同じ食卓へ座っていた。
ようやく、今日の任務が終わったように感じた。
*
翌日、午前十時。
中央防衛局の評価会議室には、前回までより多くの人間が集まっていた。
防衛局の担当者、久賀、神代、第一中隊の三浦。第三中隊からは御堂、安西、片瀬が参加し、整備部門の代表として牧野も呼ばれている。外部評価者の九条綾人は、壁際の席で資料を開いていた。
蒼真が席へ着くと、正面の画面へ北西沿岸物流区の記録が表示された。
最初に示されたのは、作戦全体の結果だった。
施設作業員四十三名、全員帰還。
負傷者一名。現場発生時の荷崩れによるもので、救助活動中の追加負傷者は零。
管理局員および第一中隊、第三中隊の人的損失、零。
敵性個体、中型二体、小型三体を停止。
第一中隊二番機中破。三浦機、三番機、四番機は小破。
リポルは右腕部負荷限界、左脚外装損傷、背部装甲損傷。最終損傷率二十六・四パーセント。歩行能力、救助能力を維持したまま帰還。
「限定実地評価は、成功と判定します」
担当者が告げた。
会議室に歓声は起きなかった。
全員が、次の説明を待っている。
画面が切り替わり、リポルの移動経路が紫色の線で表示された。
初期位置は第五倉庫南東。そこから倉庫内の重機へ向かい、中央搬送路へ退避。第二倉庫へ重機を収容したあと、再び第五倉庫へ戻っている。
東階段の開放後、第一中隊二番機を中央搬送路まで回収し、最後は正門まで退避路を維持した。
「橘二尉の前線配置により、中型個体が小型重機へ到達するまでの時間内に防護が成立しました。従来の後方支援位置からでは、到達前の接触を防げなかった可能性が高いと判断されます」
中型個体が跳躍した場面と、リポルが横から軌道を変えた場面が再生される。
「また、第一中隊との連携により中型個体一体を停止。地下救助通路を開放し、第一中隊二番機を回収しています」
担当者は別の資料を表示した。
「指揮系統も、事前に設定した条件どおり機能しました。橘二尉は東階段の障害物除去を提案しましたが、神代隊長の維持命令を受け、重機の帰還を優先しています。その後、北側で救助要請が発生しました」
御堂機が保守門の外へ降下する映像が流れる。
「もし橘二尉が独自判断で第五倉庫へ戻っていた場合、重機は中央搬送路上に残り、北側反応発生時の退避が遅れた可能性があります」
蒼真は映像を見た。
あの時は、倉庫へ戻れると思っていた。三浦が敵を押さえ、その間に東階段を開ければ六名を早く救助できる。
間違った判断ではない。
しかし、神代は施設全体を見て、重機を先に帰すよう指示した。その直後、北側の敵が動き、中央搬送路を使う危険が高まった。
結果だけを見れば、待ったことで守れたものがある。
「橘二尉」
担当者に呼ばれ、蒼真は顔を上げた。
「実地で前線配置を経験した結果、拒否感に変化はありますか?」
「ありません」
「有効性は?」
「今回の任務では、有効だったと思います」
「前線配置の継続を希望しますか?」
「希望はしません」
担当者の指が入力を止めた。
「理由をお願いします」
「前にいたことで間に合った救助はありました。でも、危険が減ったわけではありません。次も同じ条件が成立するとは限らないので、常に前へ配置することには反対です」
「条件付きの運用であれば?」
「任務ごとに内容を確認して判断します」
神代が僅かに頷いた。
綾人は資料から目を上げず、端末へ何かを書き込んでいる。
「第三中隊の意見を確認します」
担当者が神代へ向いた。
「前線配置は有効だった。ただし、橘を最初から前へ置くことを標準にはしない」
「理由は?」
「今回の配置は、御堂の監視、片瀬と安西の救助配置、第一中隊との通信がすべて機能することを前提としている。どれか一つが欠ければ、橘は後方へ戻す必要がある。任務ごとの限定運用が妥当だ」
御堂、安西、片瀬も異議を示さなかった。
三浦は画面に映る第一中隊の損傷記録を見ていた。
「第一中隊としては?」
「橘さんが右後方にいたことで、俺たちは二体の中型個体を分離できました。重機へ跳んだ一体を追う必要がなく、残った一体へ三機を集中できた。二番機が損傷したあとも、回収を任せて戦闘を継続できています」
三浦はそこで一度言葉を止めた。
「有効だったと評価します。ただし、神代隊長と同じく、任務ごとに判断するべきです」
「整備部門は?」
牧野がリポルの損傷図を開いた。
「機体の損傷率は二十六・四パーセント。支援機としては高いですが、中型二体が出現した前線で救助を継続した結果としては、許容範囲です。防盾を放棄し、右腕を保護した判断も適切でした」
「継続運用は可能ですか?」
「修復後は可能です。ただし、前線運用を標準にするなら防盾と右腕部の設計を見直す必要があります」
牧野は担当者へ顔を向けた。
「先に言っておきますが、私は標準化へ賛成しているわけではありません。機体が対応可能かと聞かれたので答えています」
「承知しています」
最後に綾人が意見を求められた。
綾人は端末を置き、中央画面を見た。
「事前に設定した条件は機能しました。橘二尉は担当外の救助へ独断で移動せず、指揮官の判断を待っています。前線配置によって支援能力が失われるという懸念も、今回の任務では確認されませんでした」
「限定運用に賛成ですか?」
「今回と同じ種類の任務であれば」
綾人は《同じ種類》という部分を明確に区切った。
「民間人の避難、救助通路の確保、損傷機の回収が同時に必要な現場です。橘二尉を前へ置く理由が、救助時間の短縮として説明できます」
担当者は全員の意見を記録した。
ここまでなら、会議は予想していた範囲だった。
今回の実地評価は成功。しかし、前線配置は標準化せず、救助任務ごとに条件を確認する。
蒼真も、その結論なら異論はなかった。
「続いて、追加評価案を説明します」
担当者が画面を切り替えた。
表示されたのは、倉庫でも工場でも、市街地でもなかった。
山間部を上空から撮影した地形図である。
谷の奥に、赤い区域が示されている。周囲に民家はなく、最も近い集落までも二十キロ以上離れていた。
「これは?」
蒼真が尋ねる。
「第一中隊が通常担当する、前進討伐区域の一例です」
画面へ部隊配置が表示される。
第一中隊が谷の入口から進み、敵性個体の群れを集落へ到達する前に停止させる。避難対象も、作業員も、輸送車両も存在しない。
救助対象として示されているのは、第一中隊の機体だけだった。
「今回の実地評価により、橘二尉と第一中隊の連携が実戦でも成立することが確認されました。次の段階として、第一中隊が本来担当する討伐任務で、前線支援の有効性を評価したいと考えています」
蒼真は配置図を見た。
リポルの印は、三浦機の右後方にある。
今回と同じ位置に見える。
しかし、その前にあるものが違った。
倉庫も、逃げる人も、守るべき車両もない。
敵と第一中隊だけがいる。
「救助する人がいないんですよね」
「任務開始時点では、民間人の救助対象はいません」
「なら、なぜリポルを出すんですか?」
担当者は第一中隊の過去記録を表示した。
「前進討伐任務における第一中隊の平均損傷率は三十四・八パーセント。中破以上の機体が発生した場合、残る機体が回収と護衛を行うため、討伐効率が低下します」
「損傷機を回収するため?」
「それも一つです。リポルが回収と退路維持を担当すれば、第一中隊は戦闘へ集中できます」
「でも、損傷する前から、自分を戦場へ置くんですよね」
「そうなります」
蒼真は画面から目を離さなかった。
今回の任務では、前にいる理由が分かった。
重機へ敵が到達する前に間へ入り、地下の六名へつながる通路を開ける。目の前に救助する人がいた。
前進討伐区域には、誰もいない。
「自分の仕事は、敵を倒すことではありません」
「撃破数を評価項目へ加える予定はありません」
「それでも、敵を倒すための場所へ行くことになります」
担当者は答えを急がなかった。
久賀が資料を見ながら尋ねる。
「橘二尉は、討伐任務を救助ではないと考えているのか?」
「少なくとも、始まる前に助ける人はいません」
「第一中隊の隊員はいる」
「その人たちは、戦うために行きます。救助されるためではありません」
蒼真が答えると、三浦が僅かに椅子を引いた。
机から身体を離し、蒼真の方へ向き直る。
「橘さん」
「はい」
「俺たちが前進討伐へ行く理由を、どう考えていますか?」
「敵性個体を止めるためです」
「なぜ止めるんですか?」
「集落や市街地へ来る前に」
「来たら、どうなります?」
「襲われる人が出ます」
三浦は頷いた。
「目の前にいる人を助けることは大切です」
声は静かだった。
戦場で通信を交わす時の短さでも、評価会議で結果を説明する時の硬さでもない。
「でも、敵が町へ着く前に止めれば、助けなければならない人そのものを減らせます」
三浦は画面の地形図へ手を向けた。
「谷の向こうにいる人たちは、俺たちが戦ったことを知らないかもしれません。敵が来ていたことも、誰かが怪我をしたことも知らず、いつもどおり朝起きて、仕事へ行って、家へ帰る」
赤い区域から二十キロ先に、小さな集落が表示されている。
「何も起きなかった一日を守ることも、俺たちの仕事です」
蒼真は集落の印を見た。
そこに誰が住んでいるのかは分からない。
子どもがいるのか、家族が食卓を囲んでいるのか、朝になれば誰が仕事へ出るのか。顔も名前も見えない。
倉庫で救助した四十三名は、画面に映っていた。地下から上がってくる姿も、正門を越える姿も確認できた。
けれど、襲われる前に守られた人は、救助されたことにさえ気づかない。
「理屈は分かります」
蒼真は答えた。
「でも、それを自分の救助だとは思えません」
「思わなくていいです」
三浦はすぐに言った。
「俺たちは倒します」
三浦の視線が、蒼真から逸れない。
「橘さんには、俺たちを帰してほしい」
会議室が静かになった。
三浦は自分たちの戦いを救助だと認めさせようとしているのではなかった。
敵を倒すことと、人を帰すこと。
違う役割のまま、同じ場所へ行こうとしている。
「自分がいなくても、これまでは帰っていたんですよね」
「帰っています」
「なら、必要ですか?」
「必要かを調べるのが、次の評価です」
三浦は一度、正面の損傷記録へ目を向けた。
「俺たちは、敵を倒しながら損傷機を守ります。誰かが動けなくなれば、残る三機のうち一機か二機を回収へ回す。その分だけ前が薄くなり、戦闘時間が延びる。長く戦えば、次の損傷も増えます」
「リポルが回収すれば、残る機体は戦い続けられる」
「はい」
「それで、撃破数が増える」
「増えると思います」
三浦は否定しなかった。
「でも、俺が欲しいのは撃破数ではありません。全員で帰れる余裕です」
蒼真は画面に並ぶ第一中隊四機の印を見た。
今回、中型個体を停止させたあと、三浦はすぐに二番機の状態を確認していた。敵を倒すことしか考えていない人ではない。
それでも三浦は、敵を倒すことを自分の役割として引き受けている。
「橘さんが後ろにいると分かっていれば、俺たちは敵だけを見られます」
「前を見すぎて、損傷が増える可能性は?」
「あります」
「危険になるのでは?」
「だから、どこまで動きが変わるかも評価する必要があります。橘さんがいるから無理をするようなら、その配置は失敗です」
三浦は自分に都合のいい説明だけをしなかった。
リポルがいることで第一中隊が強くなる可能性と、救助を前提に無理をする危険。その両方を確認するための試験だと話している。
蒼真は神代を見た。
「神代隊長は、この評価に賛成ですか?」
「現時点では、条件の検討に賛成している。参加を決めたわけではない」
「自分を討伐前線へ置くことには?」
「反対だ」
神代は迷わず答えた。
「ただし、第一中隊の帰還率が上がり、橘の役割を損傷機回収と退路維持に限定できるなら、試験そのものを否定する根拠は弱くなる」
「今回と同じですね」
「同じではない」
神代は地形図を指した。
「今回は救助対象へ到達するために前へ置いた。次は、損傷機が出る前から、その発生を予測して置く。橘が疑問を持つのは当然だ」
綾人も口を開いた。
「私は、すぐにシミュレーションへ進めることへ反対します」
担当者が綾人へ向き直る。
「理由は?」
「評価目的が曖昧です。第一中隊の撃破効率を上げたいのか、損傷率を下げたいのか、損傷機の回収時間を短縮したいのか。それぞれ必要な配置が違う」
綾人は三浦の方を見た。
「三浦一尉が言ったように、リポルの存在を前提として第一中隊が無理をする可能性もある。数字上の撃破数が増えても、損傷率が上がるなら、橘君を置く意味はない」
「評価項目を整理します」
「本人へ参加を求めるのは、そのあとです」
「承知しました」
担当者が追加評価案を保留へ変更する。
「本日の会議では、前進討伐任務における評価条件を検討します。橘二尉の参加意思は、条件確定後に改めて確認します」
蒼真は画面を見た。
次の試験は、まだ決まっていない。
任務内容も、場所も、敵の数も決まっていない。
ただ、自分がなぜ行くのかという問いに対して、三浦の答えだけは残った。
何も起きなかった一日を守る。
その考えに、納得できたわけではない。
目の前にいない人を助けたと、自分が思えるかも分からない。
それでも、第一中隊の四人を帰すという役割なら理解できる。
会議が休憩へ入ると、三浦が席を立ち、蒼真の隣へ来た。
「すみません」
「何がですか?」
「また、前へ引っ張る話をしました」
「三浦一尉が提案したんですか?」
「いいえ。防衛局の案です。でも、俺は有効だと思っています」
三浦は窓の外へ目を向けた。
「嫌なら、断ってください」
「行ってほしいんですか?」
「来てほしいです」
正直な答えだった。
「でも、橘さんが嫌だと言えないから来るのは違います」
「自分でも、まだ分かりません」
「なら、今は決めなくていいでしょう」
三浦は蒼真の右肩へ視線を向けた。
制服の下にある固定具の痕は見えない。それでも、昨日の戦闘でどこへ衝撃を受けたか、映像を見た三浦には分かっている。
「昨日、俺たちを帰してくれて、ありがとうございました」
「自分一人で帰したわけではありません」
「知っています」
三浦は僅かに笑った。
「それでも、橘さんが回収してくれたから、二番機は自分の足で帰れた。俺も最後まで正面を見られました」
蒼真は返事をせず、正面の画面へ目を戻した。
第一中隊の四機と、その右後方に置かれた紫色の印。
討伐前線へ行けば、そこに帰すべき民間人はいない。
けれど、帰すべき機体と、その中にいる人はいる。
それだけで行く理由になるのか。
まだ答えは出なかった。
*
夜。
日記。
―――
八月二十一日。
北西沿岸物流区の任務から帰宅した。
美咲、結衣、昴が待っていた。
怪我はなかった。
操縦席の固定具が当たった右肩と腰に、赤い痕が残っていた。
結衣から、聞かれなくても痛いことは話すように言われた。
怪我ではなくても、家族は帰宅した自分がどのような状態なのかを知る必要がある。
今後は話す。
夕食に甘い卵焼きが出た。
結衣も甘い方を食べた。
昴は、牧野さんへリポルの分を渡したいと話した。
翌日、限定実地評価の会議が行われた。
作業員四十三名は全員帰還した。
第一中隊と第三中隊にも、人的損失はなかった。
リポルの最終損傷率は二十六・四パーセントだった。
右腕と左脚は損傷したが、歩行能力と救助能力を維持して帰還した。
前線配置は、今回の任務では有効だったと評価された。
自分も有効だったと思う。
ただし、前線配置の継続は希望しないと答えた。
任務ごとに条件を確認する。
会議で、次の追加評価案が示された。
第一中隊が本来担当する前進討伐任務で、リポルを三浦一尉の右後方へ配置する案だった。
討伐区域には、民間人の救助対象はいない。
自分が行く理由が分からないと質問した。
三浦一尉は、敵が町へ到達する前に止めれば、助けなければならない人を減らせると話した。
町にいる人たちは、敵が来たことも知らないかもしれない。
何も起きなかった一日を守ることも仕事だと言った。
理屈は分かる。
それを自分の救助だとは、まだ思えない。
三浦一尉は、救助だと思わなくてもいいと話した。
第一中隊が敵を倒す。
自分には、第一中隊を帰してほしいと言われた。
その役割なら理解できる。
ただし、前進討伐任務へ行く必要があるかは、まだ分からない。
追加評価案は、条件を整理するまで保留になった。
条件が示されたあと、自分で参加するかを決める。
以上。
―――
*
同時刻。
中央戦術支援統合網は、北西沿岸物流区における限定実地評価を解析していた。
橘蒼真の前線配置は有効。
中型個体の小型重機への到達を阻止。
救助通路を開放。
第一中隊二番機を回収。
指揮命令への追従、正常。
担当外救助への独断移動、なし。
前線配置への拒否感、継続。
任務単位での限定運用を推奨。
標準配置への移行は非推奨。
追加評価案。
前進討伐任務における第一中隊支援。
民間人救助対象、なし。
支援対象、第一中隊四機。
橘蒼真は、民間人の存在しない討伐区域へ配置される理由を認識できていない。
三浦直人は、前進討伐によって将来の被害対象を減らすことを説明した。
橘蒼真は、論理を理解した。
感情的納得は確認されない。
ただし、第一中隊を帰す役割については理解を示した。
新規評価で測定すべき項目。
第一中隊の撃破数ではない。
平均損傷率。
中破機発生数。
損傷機回収時間。
全機帰還率。
討伐区域外への敵性個体流出数。
リポル配置による第一中隊の過剰攻撃傾向。
橘蒼真の戦闘参加率。
目標。
第一中隊の全機帰還。
討伐区域外への敵性個体流出、零。
橘蒼真の個人撃破数は、評価対象から除外する。
九条綾人の指摘に基づき、評価目的を再設定する。
本人への参加要請は、条件確定後まで保留。
前線運用評価、次段階。
準備を継続する。
観察を継続する。
面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。
また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




