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第五十五話 家族への説明

 蒼真が帰宅した時、居間の明かりは点いていたが、玄関まで走ってくる足音は聞こえなかった。

「ただいま」

 声をかけながら靴を脱ぐと、少し遅れて昴が顔を出した。いつもなら、そのまま蒼真の脚へ抱きついてくる。しかし今日は廊下の角から半分だけ身体を出し、居間の方を一度振り返った。

「ぱぱ、おかえり」

「ただいま。どうしたの?」

「しー」

 昴は口元へ人差し指を立てた。

 何を静かにすればいいのか分からないまま、蒼真も声を落とす。

「誰か寝てる?」

 昴は首を横へ振ったあと、居間を指差した。

「まま、むずかしい」

「ママが?」

「むずかしい、みてる」

 意味を確かめるため、蒼真は鞄を持ったまま居間へ向かった。

 食卓には、美咲の端末と、蒼真が前回持ち帰った前線運用評価の説明資料が並んでいた。美咲は椅子へ座り、画面と紙の資料を交互に見ている。向かい側では結衣が夏休みの課題を開いていたが、鉛筆は動いていなかった。

 蒼真が入ってくると、美咲が顔を上げた。

「おかえり」

「ただいま。もう見たの?」

「蒼真が帰ってから一緒に見ようと思ったけど、何が書いてあるかくらいは確認しておきたくて」

 美咲は端末の画面を閉じなかった。

 そこには《限定実地評価に関する家族向け説明資料》という見出しが表示されている。蒼真が職場を出てから帰宅するまでの間に、防衛局から送られてきたらしい。

「自分のところにも、さっき届いた」

「まだ読んでない?」

「車では読めないから」

「それは正解」

 美咲の声は普段と変わらない。しかし、資料の端を押さえている親指が、同じ場所を何度も撫でていた。

 蒼真は鞄を置き、向かいへ座ろうとした。すると結衣が課題を閉じ、立ち上がる。

「私、部屋に行くね」

「宿題はここでしていいよ」

「でも、仕事の話するんでしょ?」

 結衣の目が、蒼真と美咲の間を動く。

 聞きたくないわけではない。自分がいていい話なのかを確かめている顔だった。

 蒼真が美咲を見ると、美咲は僅かに考えてから、結衣のノートを指した。

「最初はここにいていいよ。分からないところや、聞きたくないところがあったら、部屋へ行っていいから」

「私も家族だから?」

「そう」

 結衣はもう一度座り、閉じた課題を自分の前へ寄せた。

 昴も話に加わるつもりらしく、紙製ノストスを抱えて蒼真の隣の椅子へ上ろうとした。足が届かずに身体だけが揺れたため、蒼真が脇へ手を入れて座らせる。

「昴には、難しいと思うよ」

「すばる、むずかしい」

「昴が難しいんじゃなくて、話が難しいの」

「おはなし、むずかしい」

 昴は納得したように言い直し、紙製ノストスを膝へ置いた。

 美咲が資料の最初の頁を開く。

「まず、今日の試験の結果から聞いてもいい?」

「うん」

 蒼真はシミュレーションで起きたことを、順番に話した。

 前線の右後方へ配置されたこと。御堂が施設全体を監視し、安西が搬送車へついたこと。救助が重なった時は神代が優先順位を決めたこと。

 第一中隊の四番機が拘束された時、自分は助けに行かなかった。北側で車両が追われた時も、指示を待った。その代わり、南側の配置を維持したことで、中型個体が現れた時に搬送車を守ることができた。

 美咲は途中で口を挟まず、蒼真の顔を見ていた。

 結衣は、四番機を助けに行かなかったところで僅かに眉を寄せたが、最後まで聞いてから尋ねた。

「助けに行かなくても、怒られなかったの?」

「怒られなかったよ。残っていたことを評価された」

「パパなのに?」

「どういう意味?」

「パパ、誰かが困ってたら、すぐ行くじゃん」

 結衣は責めているのではなかった。ただ、これまで見てきた父親の行動と違うことへ戸惑っている。

「今回は、別の人が行くことが決まっていたから」

「その人が失敗したら?」

「その時は、また別の指示が出る。自分が行くこともある」

「でも、待ってる間、怖くない?」

「怖かったよ」

 蒼真が答えると、結衣は少し驚いたように目を上げた。

「助けに行く方が怖いんじゃないの?」

「どちらも怖い。助けに行く時は、自分と相手が壊れるかもしれない。待っている時は、その人を助けられなくなるかもしれない」

「なら、どっちがいいの?」

「一人で決めなくていい方が、間違いは少ないと思う」

 結衣はすぐに納得しなかった。閉じた課題の表紙を指でなぞりながら、しばらく考えている。

 美咲が資料の二頁目へ目を落とした。

「それで、条件付きで実際の現場へ出すことを勧める結果になったのね」

「そう」

「条件は?」

 蒼真は資料に書かれた項目を読み上げるのではなく、自分が理解した内容として説明した。

 第一中隊と第三中隊の合同任務に限ること。後方監視を別の隊員が担当すること。神代が救助の優先順位を決めること。通信が切れた場合は、現在地に最も近い人命救助を優先すること。監視担当が機能しなくなれば、前線配置を解除して従来の支援位置へ戻ること。

 実地評価は一度だけ。結果を確認するまで、同じ配置を通常運用へ広げない。

「任務の場所は?」

「まだ決まってない」

「敵の数は?」

「決まってない」

「いつ?」

「それも決まってない」

 美咲の視線が資料から離れ、蒼真へ向いた。

「何も決まってないのに、参加するか決めるの?」

「先に参加意思を確認して、条件に合う任務が出た時だけ配置するらしい」

「条件に合う任務って、誰が決めるの?」

「防衛局と神代隊長」

「蒼真は?」

「任務が決まった時に、説明を受ける」

「そこで嫌だと言える?」

 蒼真は答えようとして、口を閉じた。

 資料には、本人の意見を再確認すると書かれている。しかし、任務が発生し、部隊編成まで決まったあとで、自分が嫌だと言えばどうなるのか。代わりの支援隊員を用意する時間があるのか。現場に必要だと説明された時、それでも断れるのか。

「分からない」

 正直に答えると、美咲は資料を机へ置いた。

「そこが一番大事じゃない?」

「確認する」

「参加するって答える前にね」

「うん」

「あと、家族への説明状況を確認するって書いてあるけど、これは何?」

「自分も今日、初めて見た」

「家族が反対したら、中止になるの?」

「多分、意見として記録される」

「多分?」

「明日、聞く」

 美咲は小さく息を吐いた。怒っているというより、説明資料の曖昧さへ疲れているように見えた。

「私に何を決めさせたいのか、分からない」

 その言葉に、蒼真は資料を見た。

 家族への説明状況を確認する。

 家族の理解を得る。

 どちらも一見すれば配慮のように見える。しかし、美咲が賛成すれば、蒼真を危険な場所へ送り出す判断に加わったことになる。反対すれば、必要とされている仕事を止めたように感じるかもしれない。

 決定する権限がないのに、責任だけを分けられる形になっている。

「美咲に許可を出してほしいわけではないと思う」

「なら、私が反対しても行くの?」

 蒼真は美咲の目を見た。

 すぐに答えられなかった。

 結衣が二人の顔を交互に見たあと、椅子から静かに降りた。

「昴、部屋に行こう」

「すばる、いる」

「難しいお話だから」

「むずかしい、いる」

 昴は紙製ノストスを抱え、首を横へ振った。

 結衣は困ったように美咲を見た。美咲が頷くと、昴の椅子の横へ回り、紙製ノストスごと抱き上げる。

「お姉ちゃんと、ノストスを直そう。足、潰れてるよ」

 昴は機体の足を見て、ようやく表情を変えた。

「なおす」

「うん。糊を使うから、部屋に行こう」

 結衣は昴を床へ下ろし、手をつないだ。

 居間を出る直前、結衣が振り返る。

「パパ」

「何?」

「行くって決めたら、ちゃんと帰ってきてね」

「うん」

「まだ決めてないけどね」

「分かってる」

 結衣はそれ以上言わず、昴を連れて廊下へ消えた。

 二人きりになった食卓で、美咲はしばらく資料を見ていた。

「蒼真は、行きたいの?」

「行きたくはない」

「必要だと思ってる?」

「前にいた方が、早く助けられる人はいると思う」

「それは試験で分かったことよね」

「うん」

「私が聞いてるのは、蒼真が行きたいかどうか」

「行きたくない」

「なら、どうして迷ってるの?」

 美咲の声は強くなかった。

 だからこそ、蒼真は言葉を選んで逃げることができなかった。

「自分が前にいることで助かる人がいるかもしれないのに、行きたくないだけで断っていいのか分からない」

「それは、行きたいとは違うよ」

「分かってる」

「本当に?」

 蒼真は黙った。

 美咲は資料を閉じ、両手を重ねてその上へ置いた。

「蒼真は、必要だと言われると、自分がやりたいかどうかを後ろへ置くでしょう」

「仕事だから」

「仕事でも、全部を引き受ける必要はないよ」

「全部ではない。今回だけの評価だよ」

「ノストスへ最初に乗った時も、臨時だったよね」

 蒼真は返事を止めた。

「次も臨時だった。その次は合同任務になって、今度は前線配置の実地評価。一つ一つは全部、今回だけって説明されてきた」

「でも、常任搭乗者にはなってない」

「ならなくても、乗る回数は増えてる」

 美咲の指が、閉じた資料の角を押さえる。

「私は、蒼真が誰かを助けることに反対したいわけじゃない。仕事をしないでほしいとも思ってない。でも、できると分かるたびに、次の危ない仕事が増えていくのが怖い」

「自分も怖いよ」

「じゃあ、その怖いを、ちゃんと条件にして」

「条件?」

「嫌だけど必要なら行きます、だけじゃなくて、ここを越えたら行かないって決めて。そうしないと、向こうは少しずつ条件を広げるよ」

 蒼真は資料を開き直した。

 合同任務に限る。後方監視を別に置く。指揮は神代。実地評価は一度。

 書かれている条件は運用上のものばかりだった。蒼真が断る条件は、どこにも書かれていない。

「監視担当が置けない場合は、前線へ出ない」

「それは書いてある」

「神代隊長が指揮できない任務も出ない」

「それも書いてあるね」

「第一中隊と第三中隊以外との任務には広げない」

「書いてある」

 美咲は待った。

 資料にない条件を、蒼真自身が言うまで。

「任務の内容を聞いた時、自分が無理だと思ったら断る」

「無理だと思える?」

「思うことはできる」

「断れる?」

「……確認する」

「そこは、確認じゃなくて条件にして」

 蒼真は美咲の顔を見た。

「断れることを、参加条件にする?」

「そう。任務が決まったあとでも、説明を聞いて無理だと思ったら断れる。代わりがいないからって言われても、蒼真が乗る前提で配置した側の問題にする」

 それは、蒼真が以前から繰り返してきた言葉と同じだった。

 乗る前提で配置するな。

 代わりがいない状況を先に作り、それから必要だから乗ってほしいと言われれば、蒼真は断れない。だから、任務が決まったあとでも拒否できることを、決定前に約束させる必要がある。

「分かった。それを条件にする」

「もう一つ」

「まだある?」

「あるよ」

 美咲は僅かに身を乗り出した。

「現場から帰ったあと、次の運用を決める会議を、蒼真がいないところでしないこと」

「結果の評価会議には呼ばれると思う」

「思う、じゃなくて確認して。蒼真が乗った結果を使って、次も必要だと決めるなら、本人がその場にいないと駄目」

「分かった」

「それと、当日は出発前に連絡して」

「それは当然する」

「現場が決まった日にも」

「うん」

「帰ってきた時も」

「うん」

 美咲は一つずつ確認し、最後に息を吐いた。

「私が決めることじゃないなら、許可は出さない」

「反対?」

「反対とも言わない」

 蒼真には、その違いがすぐには分からなかった。

 美咲は閉じた資料を蒼真の前へ押した。

「蒼真が、自分で条件を決めて、それでも評価を受けると決めるなら、私は家で待つ。怖いし、本当は行ってほしくないけど、蒼真の仕事を私が許可した形にはしない」

「責任を渡されたくない?」

「そう。賛成した家族がいるから大丈夫ですって、防衛局に使われたくない」

 美咲の言葉ははっきりしていた。

「でも、家族に関係ないとも言わせない。帰ってこなかった時に困るのは、職場だけじゃないから」

 蒼真は資料の表紙を見た。

 家族への説明。

 その言葉は、説明を受けた家族が判断を認めることではない。危険な仕事を引き受けた人間が、家へ帰る責任を持つためのものだった。

「分かった」

「本当に?」

「美咲は許可しない。でも、条件を決めて自分が参加するなら、家で待つ」

「そう」

「行ってほしくはない」

「それも忘れないで」

「忘れない」

 美咲はようやく椅子の背へ身体を預けた。

 廊下から、小さな足音が近づいてくる。

 昴が紙製ノストスを持って戻ってきた。潰れていた足は厚紙を重ねて補強され、左右の高さが揃っている。後ろから結衣もついてきた。

「なおった」

 昴は機体を食卓へ置き、両手を離した。

 紙製ノストスは少しも傾かず、自分の足で立っていた。

「結衣が直したの?」

「昴も糊を塗ったよ。塗りすぎたけど」

 結衣は蒼真の隣へ立ち、資料へ目を向けた。

「話、終わった?」

「今日はね」

 美咲が答える。

「パパ、行くの?」

「明日、条件を確認してから決める」

「また確認?」

 結衣が呆れた顔をしたため、美咲が笑った。

「今度の確認は必要なやつ」

「ならいいけど」

 結衣は紙製ノストスの足を指先で押し、倒れないことを確かめた。

「一人で立てるようになったよ」

「でも、直したのは一人じゃないね」

 蒼真が言うと、結衣は昴を見た。

「昴は糊をいっぱい出しただけだけどね」

「すばる、いっぱい」

「それは褒められてないよ」

 昴には伝わらなかったらしく、誇らしげに笑った。

 美咲が立ち上がり、食卓の資料をまとめる。

「ご飯、温め直すね」

「食べずに待ってたの?」

「子どもたちは食べたよ。私は蒼真と食べようと思って」

「連絡すればよかったのに」

「今日は早く帰ってきてって連絡した」

「そうだった」

 蒼真が上着を脱ごうとすると、美咲がその手を止めた。

「先に着替えてきて。今日はゆっくり食べるから」

「分かった」

「資料は食卓に置かないでね」

「まだ確認したいところがある」

「食べ終わってから」

 美咲が資料を端末の下へ置いた。

 話は終わっていない。

 実地評価へ進むかどうかも、まだ決まっていない。

 それでも、何を確認しなければならないのかは、帰宅した時より明確になっていた。

 蒼真は居間を出ようとして、紙製ノストスを振り返った。

 二本の足で立っている。

 けれど、その足には、結衣が切った厚紙と、昴が塗りすぎた糊が重ねられていた。

 一人で立つことと、一人で立たせることは違う。

*

 翌朝、蒼真は通常より三十分早く管理局へ出勤した。

 神代へ面談を求めると、返事はすぐに届いた。第三中隊の会議室へ入ると、神代のほかに久賀と防衛局の評価担当者も同席していた。

 机の中央には、昨日と同じ実地評価の説明資料が置かれている。

「家族へ説明したか?」

 神代が最初に尋ねた。

「しました。ただ、参加を決める前に確認したい条件があります」

「聞こう」

 蒼真は美咲と話した内容を、自分の言葉で伝えた。

 実際の任務内容を聞いた段階で、参加を拒否できること。代替要員がいないことを理由に、参加を求めないこと。評価後の運用会議へ、蒼真本人を必ず参加させること。家族の説明確認を、家族から許可を得たという意味で使用しないこと。

 評価担当者は途中から端末へ記録を始めた。

「任務決定後の拒否権については、現在の資料にも本人意思の再確認が含まれています」

「拒否した場合、任務編成はどうなりますか?」

「従来配置へ戻すか、別の支援隊員を配置します」

「別の支援隊員がいない場合は?」

「前線支援枠を設けず、通常の部隊編成で実施します」

「そのことを、資料へ明記してください」

 蒼真が言うと、担当者は僅かに目を上げた。

「口頭での確認では不十分ですか?」

「任務が決まったあとで、自分が断れば前線支援がなくなると説明された場合、断りにくくなると思います。最初から、断っても任務は通常編成で行うと決まっていれば、自分の判断として考えられます」

 久賀が腕を組み、担当者へ視線を向けた。

「妥当だ。橘二尉の参加を前提に任務を選ぶこと自体、試験の中立性を損なう」

「分かりました。限定実地評価の実施条件へ追加します」

 担当者が入力を続ける。

「評価後の会議については、橘二尉を参加者へ指定します。医療上の理由などで出席できない場合、決定を保留します」

「お願いします」

「家族の同意についてですが、防衛局は許可を求めているわけではありません」

「なら、家族の理解を得た、とは記録しないでください」

 担当者の指が止まった。

「説明済み、では?」

「それなら事実です。妻は、行ってほしくないと話しています」

 会議室が静かになった。

 蒼真は言葉を付け足さなかった。

 美咲は許可も反対もしないと言った。しかし、行ってほしくないという気持ちは明確だった。それを都合よく《家族の理解あり》へ変えるべきではない。

 担当者は記録欄を修正した。

「家族への説明済み。家族は危険性を理解しているが、参加を望んでいない。本人の判断を尊重する意向。これでよろしいですか?」

「はい」

 神代が蒼真を見た。

「条件が認められた場合、お前はどうする?」

 蒼真は机の上の資料へ目を落とした。

 行きたいわけではない。

 怖さが減ったわけでもない。

 しかし、シミュレーションで前線配置が有効であることは確認された。同時に、自分一人へ判断を集めない条件も作られた。実地でしか分からないことが残っているのも事実だった。

「限定実地評価には参加します」

「理由は?」

「前にいることで助けられる人が増えるかを、実際の現場で確認する必要があると思います。ただし、任務内容を聞いて無理だと判断した場合は断ります」

「嫌か?」

「嫌です」

 神代は頷いた。

「その回答も記録へ残せ」

 担当者が、参加意思の欄へ入力する。

《参加意思あり》

 その下へ、別の一文が追加された。

《前線配置への拒否感は継続》

 相反するように見える二つの記録が、同じ画面へ並んだ。

 蒼真にとっては、どちらも事実だった。

「条件に合う任務が発生するまで、通常業務へ戻ってください」

 担当者が資料を閉じる。

「候補任務が決まった場合、所属隊長を通じて連絡します。橘二尉の了承前に、前線支援を前提とした作戦編成は行いません」

「分かりました」

 面談が終わり、担当者と久賀が退室したあとも、神代は席を立たなかった。

 蒼真も資料を鞄へ入れ、神代の言葉を待つ。

「美咲さんが考えた条件か?」

「一緒に考えました」

「お前一人なら、そこまで言わなかっただろう」

「多分」

「なら、家族への説明を条件に入れた意味はあった」

 神代は椅子の背へ身体を預けた。

「ただし、美咲さんに止める役を任せるな」

「止める役?」

「お前が断れないから、家族が反対したことにするなという意味だ。行かないと決める時は、お前が決めろ」

「分かっています」

「本当に?」

 昨夜、美咲にも似たことを聞かれた。

 蒼真は少し考えてから答えた。

「分かろうとしています」

「今は、それでいい」

 神代が立ち上がる。

「候補が出るまで、リポルへは乗せない。通常の支援業務へ戻れ」

「訓練もありませんか?」

「評価に必要な訓練は終わった。乗る前提で待機させるつもりはない」

 蒼真は神代の言葉を聞き、僅かに肩の力を抜いた。

「ありがとうございます」

「礼を言うところじゃない。条件どおりに運用しているだけだ」

「それでも、助かります」

 神代は返事をせず、先に会議室を出た。

 蒼真は一人になった室内で、端末を取り出した。

《条件は全部、認められた。実地評価には参加すると答えた。ただし、任務の説明を聞いて無理だと思ったら断れる。自分が断っても、通常編成で任務を行うと資料に明記された》

 美咲へ送る。

 返事はすぐには届かなかった。

 仕事中なのだろう。

 蒼真は端末をしまい、通常業務へ戻った。

 午前の仕事を終え、昼休みにもう一度画面を見ると、美咲から返信が届いていた。

《分かりました。参加を決めたことは、帰ってから聞きます。条件を言えたことはよかったと思う》

 賛成とは書かれていない。

 行ってほしくないという気持ちも、変わっていないだろう。

 それでも、蒼真が自分で条件を決めたことは認めてくれている。

 蒼真は短く、《ありがとう》と返した。

*

 それから十二日間、前線運用評価の候補任務は発生しなかった。

 蒼真は通常の現場監督業務へ戻った。

 老朽化した防護壁の補修計画を確認し、避難所の備蓄更新へ立ち会い、作業員の安全教育を行った。第三中隊が出動する日もあったが、リポルへ乗るよう求められることはなかった。

 朝は家族と食事をし、夕方には可能な限り同じ時間に帰った。

 結衣の鉢植えは旅行へ持っていかれず、美咲の母へ預けられた。毎日送られてくる写真を見ながら、結衣は観察記録を続けた。自分で見なければ自由研究にならないと言っていたが、写真の撮影角度や葉の裏側まで細かく頼み、戻ってから実物と記録を照合している。

「人に任せても、ちゃんとできたね」

 蒼真が言うと、結衣は鉢の葉を数えながら顔を上げた。

「パパに言われたくない」

 その返事に、美咲が笑った。

 何も起きない日が続いた。

 限定実地評価は、このまま条件に合う任務がないまま終わるのではないか。蒼真がそう考え始めた十三日目の午後、端末へ神代から連絡が届いた。

《候補任務が発生した。十六時、第三会議室。参加判断は説明後でいい》

 蒼真は画面を見たまま、すぐには動かなかった。

 通常業務へ戻っていた時間の中で、前線へ出る可能性は遠くなったように感じていた。しかし、なくなったわけではなかった。

 端末を握る指へ、僅かに力が入る。

 蒼真は美咲への連絡画面を開いた。

《実地評価の候補任務が出た。今から説明を受ける。参加するかは、そのあとで決める》

 送信してから、第三会議室へ向かった。

 廊下の窓から見える空には、低い雲が広がっていた。

 雨はまだ降っていない。

 けれど、遠くの空は暗く、どこかで降り始めていることだけは分かった。

*

 夜。

 日記。

―――

 八月七日。

 昨日、第二回前線運用評価の結果が出た。

 限定実地評価へ進むことを勧める内容だった。

 帰宅後、美咲と話した。

 防衛局の資料には、家族への説明状況を確認すると書かれていた。

 美咲は、許可を出す立場にはならないと話した。

 反対した家族のために、自分が参加を断る形にもしてほしくないと言った。

 自分で条件を決めて、自分で参加するかを決めるように言われた。

 実際の任務内容を聞いたあとでも拒否できること。

 自分が拒否した場合、代わりがいないことを理由に参加を求めないこと。

 評価後の運用会議へ、自分も参加すること。

 家族へ説明したことを、家族が参加を許可したという意味で使用しないこと。

 今日、防衛局と神代隊長へ条件を伝えた。

 すべて認められた。

 条件が守られる場合、限定実地評価へ参加すると答えた。

 前線へ行きたいとは思わない。

 嫌だという気持ちも変わっていない。

 ただ、前にいることで助けられる人が増えるかどうかは、実際の現場で確認する必要があると思う。

 神代隊長から、行かないと決める時は、家族が反対したことにせず、自分で決めるように言われた。

 分かろうとしていると答えた。

 候補任務が決まるまで、通常業務へ戻る。

 リポルへ乗るための待機や訓練は行わない。

 乗る前提で配置しないことも確認された。

 美咲は、条件を言えたことはよかったと話した。

 参加への賛成ではない。

 行ってほしくないという気持ちも変わっていないと思う。

 それでも、家で待つと言ってくれた。

 帰る必要がある。

 以上。

―――

*

 同日。

 中央戦術支援統合網は、限定実地評価の参加条件を更新した。

 対象、橘蒼真。

 本人意思、参加。

 前線配置への拒否感、継続。

 家族への説明、完了。

 家族の意向、参加を望まない。ただし、本人の判断を尊重する。

 家族の許可、取得対象外。

 本人から追加条件が提示された。

 任務説明後の参加拒否を保証。

 拒否した場合、前線支援枠を解除し、通常編成へ移行。

 代替要員不在を、参加要請の根拠として使用しない。

 評価後の運用会議へ本人を参加させる。

 条件はすべて承認された。

 従来、橘蒼真は任務上の必要性を提示された場合、自身の拒否感より救助可能性を優先してきた。

 今回、任務の必要性が発生する前に、拒否条件を設定した。

 自己保護条件の明文化。

 家族との対話によって発生。

 家族は対象の判断を代行していない。

 対象が判断を行うための境界を設定した。

 将来の指揮能力との関連を認める。

 他者へ任務を割り当てる者は、実行者の拒否条件と限界を把握する必要がある。

 自身の限界を条件化できない場合、他者の限界も運用条件として扱えない可能性が高い。

 限定実地評価候補を検索。

 条件。

 第一中隊および第三中隊の合同任務。

 神代隊長による指揮。

 後方監視担当の配置可能。

 民間人または損傷機の救助可能性が高い現場。

 大型個体の出現予測なし。

 市街中心部を除外。

 候補なし。

 検索を継続する。

―――

 十二日後。

 北西沿岸物流区、第三防潮倉庫群。

 地下観測装置が、複数の移動反応を検出。

 推定、小型四から七体。

 施設内作業員、四十三名。

 避難経路、二系統。

 第一中隊、出動可能。

 第三中隊、出動可能。

 神代隊長、指揮可能。

 後方監視担当、配置可能。

 大型個体の反応なし。

 限定実地評価条件と一致。

 候補任務として登録。

 本人への説明を開始する。

 観察を継続する。


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