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第五十三話 任せる場所

 夕食を終えた食卓の上に、結衣の自由研究用のノートが広げられていた。

 左側の頁には、鉢植えを正面から撮った写真が貼られている。その横には日付と気温、葉の枚数が几帳面に書き込まれていたが、右側の頁はまだ白い。結衣はそこへ定規を当て、鉛筆で表の線を引いていた。

 蒼真が湯飲みを持って向かいへ座ると、結衣は定規を押さえたまま顔を上げた。

「パパ、試験、もう一回するの?」

「するよ。来週の水曜日」

「この前、全員助かったんでしょ?」

「シミュレーターの中ではね」

「じゃあ、合格じゃないの?」

 結衣の鉛筆が、引き終えた線の端で止まる。

 蒼真はすぐに答えず、ノートへ目を落とした。一つの葉から伸びた線が途中で僅かに曲がり、結衣は消しゴムでそこだけを消している。書き直さなくても記録の内容は変わらない。それでも、結衣にとっては、その線が真っすぐであることも必要なのだろう。

「助かったけど、自分が二か所を同時に助けようとしていたから」

「二か所に行けるの?」

「行けないよ」

「なら、なんで?」

「行けないことを確認するための試験だったのかもしれない」

 蒼真が答えると、結衣は眉を寄せた。中学生へ説明するには曖昧すぎたらしい。

 流し台で洗い物をしていた美咲が、泡のついた手を止めて振り返った。

「今度は、蒼真が見られないところを別の人が見るんだって」

「最初からそうすればよかったんじゃない?」

「そうなんだけどね」

 美咲は苦笑し、再び皿へ目を戻した。

 蒼真も否定できなかった。前回の試験では、前線へ置かれた自分がどこまでできるのかを確認した。その結果、できることだけでなく、できないことも分かった。今度は、そのできない部分を他の隊員へ渡した状態で試す。

 順番としては正しいのだろう。しかし、家族へ話すと、結衣の言うとおり、最初からそうすればよかったようにも思える。

「ぱぱ、ふたつ?」

 床で紙製ノストスの腕を動かしていた昴が、会話へ入りたそうに顔を上げた。

「パパは一人だよ」

「りぽる、ふたつ?」

「リポルも一機」

 昴は手元の機体を見下ろし、しばらく考えたあと、隣に置いていた紙製のノストスを持ち上げた。

「いっしょ」

 二機を並べ、畳の上を歩かせる。一機が右へ傾くと、もう一機の腕を添えて倒れないようにした。

 結衣がそれを見て、鉛筆の先を昴へ向けた。

「昴の方が分かってるじゃん」

「多分、違う遊びをしているだけだと思う」

「でも、一機より二機の方がいいんでしょ?」

「二機が別々のものを見て、ちゃんと話せるならね」

 蒼真の返事を聞き、美咲が水を止めた。

 布巾で手を拭きながら食卓へ来ると、蒼真の隣の椅子を引く。

「蒼真は、人に任せられるの?」

「任せることはできるよ」

「家では?」

「任せてると思う」

「この前、結衣と昴がお風呂に入っていた時、二回立ち上がったよね」

「昴が騒いでいたから」

「任せてないじゃん」

 結衣が笑い、美咲も口元を緩めた。

「あれは確認しようとしただけで、結衣が見てくれていることは分かってたよ」

「一回目は?」

「玩具を投げた音がしたから」

「二回目は?」

「急に静かになったから」

「どっちにしても立つんじゃん」

 蒼真は湯飲みへ口をつけた。答えを探す間を作ろうとしたが、中のお茶は思っていたより熱く、すぐに戻すことになった。

「仕事では、指示があれば従うよ」

「指示があれば、ね」

 美咲はそれ以上追及せず、結衣のノートを覗き込んだ。表の一番上には《旅行中の観察方法》と書かれている。

「鉢植えは、まだ持っていくつもりなの?」

「その方が自分で見られるから」

「美咲のお母さんに任せればいいのに」

 蒼真が言うと、結衣は何も答えず、呆れたようにこちらを見た。

 美咲が吹き出した。

「今、結衣と同じことを言ってるって分かってる?」

 蒼真は言葉を失った。

 床では昴が二機の紙製機体を並べ、「いっしょ」と何度も繰り返している。

*

 第二回前線運用評価の朝、中央防衛局の評価室には、前回より一枚多い配置図が表示されていた。

 一枚目は前衛部隊と敵性個体の予測侵入経路。もう一枚は、救助と監視を担当する隊員だけを抜き出した支援配置図だった。

 舞台となるのは、海岸沿いに建設された旧排水処理施設である。

 敷地の中央には巨大な沈殿槽が三基並び、その間を幅の狭い管理道路が縫うように走っている。北側には職員棟、南側には海へ通じる放水路。敷地を囲む防潮壁の一部が損傷しており、時間の経過とともに海水が流入する設定になっていた。

 避難対象は、職員棟に取り残された作業員八十名と、地下管理区画の技術者二十四名。さらに、地下区画から運び出される制御装置を載せた搬送車二台も帰還させなければならない。

 第一中隊は施設南側で敵性個体を迎撃する。

 リポルは、前回と同じく三浦機の右後方へ配置される。ただし、今回は後方監視担当として御堂機が北側の高架通路へ置かれ、施設全体の映像と退避状況をリポルへ送る。安西機は搬送車に随伴し、救助要請が重なった場合の優先順位は神代が決める。

「橘二尉には、担当区域外の救助判断を認めません」

 評価担当者が明言した。

 蒼真は支援配置図から顔を上げた。

「見つけても、向かわないということですか?」

「神代隊長へ報告し、指示を待ってください。緊急時も同様です」

「指示が間に合わない場合は?」

「その条件を含めた評価です」

 担当者の答えに、蒼真は配置図へ視線を戻した。

 現場では、数秒で状況が変わる。救助できると判断した時に動かなければ、間に合わなくなることもある。それを承知したうえで、今回は自分で決めないことを求められている。

 隣に立っていた神代が、蒼真の表情を横から見た。

「不満か?」

「不安です」

「何が違う」

「不満なら、指示が間違っていると思っています。不安なのは、正しいかどうかがまだ分からないからです」

 神代は支援配置図へ目を移した。

「お前が報告したあとは、俺が決める」

「間違えた場合は?」

「俺の責任だ」

「現場では、責任を取っても助からない人がいます」

 蒼真が答えると、神代の目が僅かに細くなった。しかし、声を荒らげることはなかった。

「だから、間違えないために御堂を上へ置き、安西を搬送車につける。お前一人の視界で決めるわけじゃない」

 高架通路の端に表示された御堂機の印を、神代の指が示す。

「お前が見つける前に、御堂が見つける。お前が行けなければ、安西か第一中隊を動かす。それでも足りなければ、その時は俺が選ぶ」

「分かりました」

「納得したか?」

「まだです」

 蒼真が正直に答えると、神代は小さく息を吐いた。

「それでいい。試験が終わってから決めろ」

 少し離れたところで装備確認をしていた三浦が、端末を閉じて近づいてきた。

「橘さん。今日は俺が損傷しても、指示が出るまで来ないでください」

「先に言われると、行った方がいいように聞こえます」

「来ないでほしいんです」

 三浦は笑わなかった。

「橘さんが毎回来る前提で戦ったら、俺たちの方が崩れます。今日は、こちらで立て直せることも見せます」

 蒼真は三浦の顔を見た。自信を見せるために言っているのではない。前回、自分が中段へ向かったあとも第一中隊が最下層を維持したように、互いが持つ役割を明確にしようとしている。

「分かりました。指示がなければ行きません」

「約束ですよ」

「職務命令なので」

「そういうことにしておきます」

 三浦の口元が、そこでようやく僅かに緩んだ。

 評価室の後方には九条綾人の姿もあった。今回は発言せず、第二回評価の記録を確認する役に回っている。蒼真と目が合うと、綾人は自分の目元を指し、次に周囲を示した。

 自分だけで見るな。

 そう言われたように感じた。

 蒼真は小さく頷き、操縦区画へ向かった。

*

 仮想映像が展開する。

 灰色の空の下で、旧排水処理施設の水面が鈍く光っていた。沈殿槽を囲む金属柵はところどころ錆び、海から吹きつける風に細かな飛沫が混じっている。

 南側の防潮壁には大きな亀裂が走り、その隙間から白い泡を伴った海水が敷地内へ流れ込んでいた。道路脇の排水溝はすでに溢れ、リポルの足元にも浅い水が広がっている。

 右前方に三浦機。

 第一中隊の残る三機は、防潮壁と沈殿槽の間へ横一列に展開していた。

『後方監視、開始』

 高架通路から御堂の声が届く。

『搬送車一、地下出口へ移動中』

 安西が続ける。

『各機、配置維持』

 神代の声は短かった。

「リポル、了解」

 開始表示が消える。

 防潮壁の外側で水が盛り上がった。

 黒い背が一つ、二つと海面を割る。敵性個体は壁の亀裂へ身体をねじ込み、流入する海水とともに施設内へ滑り込んできた。

 八体。

 前肢は短いが、胴は太く、濡れた外皮が金属のような光を帯びている。地上へ上がった個体は腹を引きずることなく、四肢を広げて一気に第一中隊へ走った。

『正面、八』

 三浦機が長剣を抜いた。

『止める』

 第一中隊の射撃が始まった。

 水面が細かく弾け、先頭の二体が身体を捩る。後続は倒れた個体を越え、左右へ分かれた。

 三浦機が右側へ踏み込み、長剣を斜めに振り下ろす。刃は敵の頭部を外れたが、肩口へ食い込み、その勢いのまま地面へ押さえつけた。

 左から三体が抜ける。

 狙いは職員棟へ向かう避難車両だった。

「左、三」

『二番、三番』

『了解』

 第一中隊の二機が進路を変えた。リポルはその後ろへ回り、避難車両との間へ位置を取る。

 一体が二番機の射撃を潜り抜けた。

 水を蹴り上げ、低い姿勢のままリポルへ迫る。蒼真は防盾を正面へ向けず、右斜めに構えた。

 敵の頭部が盾へぶつかる。

 衝撃を受ける瞬間、右足を後ろへ滑らせる。盾の表面を敵の身体が流れ、そのままリポルの左側へ抜けた。

 蒼真は機体を回した。敵の後肢が地面を掴む前に、左腕で胴を押す。進行方向を変えられた個体は、避難車両ではなく沈殿槽の外壁へ衝突した。

『取ります』

 第一中隊三番機の槍が伸びる。

 穂先が敵の首元を貫き、外壁へ縫い止めた。

 リポルは撃破を見届けず、南側へ向き直った。

 三浦機は二体を相手にしている。一体の牙を長剣の鍔元で受け止め、もう一体の突進を機体の側面へ流していた。四番機は左脚へ敵の尾を巻きつけられ、姿勢を崩している。

「四番機、拘束」

『確認している』

 神代の返答。

 蒼真はリポルの足を南へ向けかけた。

『橘、維持』

 命令が先に届いた。

「了解」

 動きを止める。

 四番機が膝をついた。敵が尾を締め上げ、脚部の装甲が赤く変わる。三浦機は二体に挟まれ、すぐには向かえない。

 蒼真の右手へ力が入った。

 距離は四十メートルもない。走れば数秒で届く。

 だが、職員棟から出た避難車両は、まだリポルの背後を通過している。ここを離れれば、第一中隊を抜けた敵と車両の間に機体がなくなる。

『二番、四番を援護』

『了解』

 二番機が射撃を止め、四番機へ向かった。

 その結果、左側で押さえていた一体が自由になる。

 敵は避難車両へ頭を向けた。

 リポルが前へ出る。

 敵は直進せず、沈殿槽の縁へ跳び乗った。濡れた外壁を蹴り、リポルの頭上を越えようとする。

 蒼真は盾を捨てなかった。両腕で持ち上げ、跳躍した敵の腹へ盾の上端を当てる。

 重みが腕部へ落ちた。

 リポルの膝が沈み、水面が円形に弾ける。

 敵の爪が盾を越え、頭部装甲を擦った。視界の上端に損傷警告が点く。

 蒼真は腕を伸ばさず、機体を沈めたまま左へ回った。盾の上に乗った敵の重さを利用し、避難車両から遠ざかる側へ投げ落とす。

 敵が水面へ背中から落ちた。

「三番」

『見えています』

 槍が敵の胸部へ突き込まれる。

 背後で最後の避難車両が通過した。

『職員棟、退避完了』

 御堂の報告が入る。

「確認」

 蒼真は南側を見た。

 二番機が敵の尾を切断し、四番機を立たせている。三浦機は一体を停止させ、残る一体と長剣を挟んで押し合っていた。

 自分が行かなくても、四番機は立った。

 その事実へ安心するより先に、北側の共有画面が赤く点滅した。

『地下出口、崩落!』

 安西の声。

 地下管理区画から続く斜路の上で、配管支持塔が倒れていた。鋼材が管理道路を塞ぎ、一台目の搬送車が地下出口で停止している。

 さらに、高架通路の下を細い影が走った。

『北側、敵三!』

 御堂が機体を振り向ける。

 一体は搬送車へ、二体は職員棟から離れた避難車両を追っていた。

 蒼真はすべて見た。

「北側、救助が重複」

『御堂、車両を守れ。安西、崩落除去』

 神代の指示が飛ぶ。

『了解』

『了解!』

「リポルは?」

『南を維持』

「了解」

 北へ向かわない。

 御堂機は高架通路から飛び降り、搬送車へ迫る一体の前へ着地した。衝撃で水が跳ね、敵が進路を変える。

 安西機は倒れた支持塔へ両腕をかけた。しかし、鋼材は地下出口の壁へ食い込み、持ち上がらない。

 避難車両を追う二体へ、対応する機体がない。

 蒼真は神代の指示を待った。

 一秒。

 二秒。

 共有映像の中で、敵と車両の距離が縮まる。

「避難車両、接触まで十二秒」

『確認』

 神代の声は変わらない。

『第一三番、北へ』

『距離があります』

『間に合う。行け』

『了解』

 三番機が槍を引き抜き、北へ走り出した。

 だが、到達予測は十一秒。敵の接触予測は十秒へ変わっている。

「一秒、足りません」

『車両を曲げる』

 神代は車両へ直接通信をつないだ。

『次の分岐を右。沈殿槽の間へ入れ』

『右は退避路ではありません!』

『一時退避だ。行け』

 車両が急に方向を変えた。

 濡れた道路で後輪が滑り、車体が大きく傾く。敵も追って曲がったが、その分だけ速度を落とした。

 三番機が間へ入る。

 槍の柄で先頭の一体を押し返し、後続の頭部へ穂先を向ける。二体は車両ではなく三番機へ向きを変えた。

『北側車両、確保』

 御堂が報告する。

 蒼真は息を吐いた。

 自分なら、間に合わないと判断した時点で走っていたかもしれない。神代は、車両の進路を変えることで時間を作り、より近い三番機を向かわせた。

 リポルが南を離れなかったため、第一中隊の前にはまだ防護線が残っている。

『増援、来るぞ』

 三浦の声が響いた。

 防潮壁の亀裂が広がった。

 海水が壁の一部を押し倒し、白い波が施設内へ流れ込む。その中から、中型個体が頭部を突き出した。

 平たい身体。左右へ大きく張り出した前肢。水中を進むための厚い尾が、崩れた壁をさらに押し広げる。

『正面、中型一』

「確認」

 中型個体は第一中隊ではなく、地下出口へ続く管理道路へ向きを変えた。

 道路には、まだ二台目の搬送車がいる。

『橘、止めろ』

「了解」

 待っていた指示が届いた。

 リポルは水を蹴り、敵の側面へ走った。

 正面からでは止められない。中型個体の進路と斜めに交差し、左肩を前へ出す。衝突の直前に防盾を敵の頭部横へ押し当てた。

 重い衝撃が機体を貫く。

 足元の舗装が割れ、リポルの両脚が外側へ滑った。

 止まらない。

 蒼真は押し返すのをやめ、盾を敵の外側へずらした。中型個体の力を受け流しながら、自分の機体ごと進路へ食い込ませる。

 敵の頭部が僅かに北へ向いた。

 管理道路の中央から、沈殿槽側へ軌道が変わる。

「まだ足りない」

『右を押す』

 三浦機が反対側から飛び込んだ。

 長剣を振らず、刀身の腹を敵の右前肢へ当てる。リポルと三浦機が左右から力を加え、中型個体の身体を管理道路と平行になるまで回した。

『搬送車、下がれ!』

 安西の声。

 二台目の搬送車が地下出口へ後退する。

 中型個体が尾を振った。

「下!」

 三浦機が身を沈める。

 尾がリポルの盾へ当たり、右腕ごと外側へ弾いた。蒼真は倒れかけた機体の左足を踏ん張らせ、上体を戻す。

 敵が三浦機へ頭部を向ける。

 三浦は一歩も退かず、長剣を低く構えた。

『左へ寄せる』

「合わせます」

 戦闘中の言葉は、それだけで足りた。

 三浦機が敵の右前肢を切りつける。刃は厚い外皮を断ち切れなかったが、中型個体の身体が痛みを避けるように左へ傾く。

 その先へ、リポルが盾を置いた。

 敵の頭部が防盾へ乗り上げる。

 蒼真は右腕を畳み、衝撃を機体全体で受けた。背中まで振動が突き抜け、警告表示が黄色へ変わる。

 敵が頭を持ち上げようとする。

 リポルは離れず、左腕を頭部の付け根へ回した。押さえ込むのではなく、持ち上がる方向を沈殿槽側へ誘導する。

『今だ』

 三浦の長剣が、露出した右前肢の関節へ振り下ろされた。

 一撃目で外皮が裂ける。

 二撃目で脚が沈む。

 中型個体が体勢を崩した。

 第一中隊二番機と四番機の射撃が、開いた傷口へ集中する。敵が身を捩った瞬間、三浦機は長剣を逆手に持ち替え、頭部と胴の境目へ突き立てた。

 巨体が水の中へ落ちる。

 それでも尾だけは動き、リポルの脚を払おうとした。

 蒼真は跳ばず、機体を一歩下げた。尾の先端が装甲を掠め、その動きが止まる。

『中型、停止』

 三浦が告げた。

「搬送車は?」

『一台目、障害物を除去。二台目も動けます!』

 安西の声が返る。

『御堂、北側』

『敵一、停止。残りは三番機が交戦中』

『橘、北へ移動。三番を回収』

「了解」

 今度は迷わなかった。

 リポルは三浦機の横を離れ、北へ走る。背後では第一中隊が残敵を押さえ、前方では御堂機が搬送車を守っている。

 沈殿槽の間へ入ると、三番機が二体を相手に後退していた。槍の先端は折れ、左腕の装甲が失われている。

「三番、下がって」

『まだ動けます』

「回収指示です」

『了解』

 三番機が退く。

 二体が追おうとしたところへ、リポルが横から割り込んだ。防盾は中型個体との戦闘で歪んでいる。正面から受ければ、今度は腕部ごと壊れる。

 蒼真は盾を敵へ向けず、地面へ突き立てた。

 障害物として置かれた盾を、一体目が避ける。進路が狭まり、二体が縦に重なった。

 リポルは先頭の頭部を左腕で抱え、沈殿槽の柵へ押しつける。後ろの一体は前へ出られず、左右へ身体を振った。

『射線、開きます』

 三番機が残った腕で銃を構える。

「三、二、一」

 リポルが身を引く。

 射撃が先頭の敵を貫き、その後ろの個体へ届いた。

 御堂機が側面から踏み込み、短剣を後方の敵へ突き立てる。

 二体の動きが止まった。

『北側、確保』

「三番機、歩けますか」

『可能です』

「一緒に戻ります」

 リポルは三番機の損傷した左側へ立った。直接支えるほどではない。それでも、敵が再び現れた時に、失われた腕の側を守れる位置を取る。

 二機で南へ戻る途中、最後の搬送車が施設の退避判定線を越えた。

 終了音が鳴る。

 風も波も止まり、流れ込んでいた海水が光の格子へ変わった。

 退避完了、百四名。

 搬送車両、二台帰還。

 第一中隊中破一、小破二。

 リポル小破。

 作戦成功。

 前回より、リポルが動いた距離は短かった。

 救助した対象も少ない。

 それでも、帰還した人数は減らなかった。

*

 評価室へ戻ると、中央画面には二つの数字が大きく表示されていた。

 リポルの移動距離、前回比六十八パーセント。

 救助対象への平均到達時間、前回比九十一パーセント。

 蒼真は椅子へ座り、その数字を見た。

 移動距離は三割以上減っている。到達時間は僅かに短くなった。自分が動かなかった場所へ、最初から近くにいた隊員が向かったためである。

 評価担当者が記録を切り替えた。

「第二回評価では、後方監視を御堂三尉へ移し、救助判断を神代隊長へ固定しました。結果として、橘二尉が担当外の区域へ移動した回数は零。支援対象を見失った時間も零でした」

 三浦機と四番機の映像が映る。

 四番機が敵の尾に拘束された場面で、リポルは四十メートル先にいた。しかし向かわず、避難車両の防護を続けている。

「この場面について、橘二尉は四番機を救助可能だと判断していましたか?」

「可能だと思いました」

「なぜ向かわなかったのですか?」

「神代隊長から、配置を維持するよう指示がありました。二番機が四番機へ向かうことも確認できたので、自分は避難車両の前に残りました」

「不安は?」

「ありました」

 蒼真は画面に映る四番機を見た。

「自分が行った方が早いとは思いました。でも、自分が動けば二番機は元の位置に残ったかもしれません。誰が動くかを自分で決める必要はなかったと思います」

 担当者が記録へ入力する。

 神代は蒼真の向かい側で腕を組んでいた。いつもと変わらない表情だが、前回の評価後より、肩の位置が僅かに下がっている。

「北側の避難車両へ敵が接近した場面では、指示を待つ時間がありました」

 画面が切り替わる。

 敵と車両の距離が縮まる中、リポルは南側から動いていない。

「あの時は?」

「怖かったです」

「命令へ反して向かうことは考えましたか?」

「考えました」

 室内の何人かが蒼真へ目を向けた。

 蒼真は隠さず続けた。

「接触予測が十秒を切ったら、指示がなくても向かおうと思っていました」

「実際には向かわなかった」

「神代隊長が車両の進路を変えました。自分が移動するより、早く時間を作れたと思います」

 担当者は入力を止め、神代を見た。

「神代隊長は、橘二尉が命令へ反して移動する可能性を認識していましたか?」

「していた」

「その場合は?」

「止めるつもりだった」

「通信で止まらなければ?」

「三浦へ南側を任せ、橘を北へ行かせる。命令違反の処理は帰還後だ」

 神代は蒼真を見た。

「ただし、今回は待った。そこを評価している」

「待つことがですか?」

「他人が判断している間、自分の場所を空けなかったことをだ」

 蒼真はすぐに返事をしなかった。

 待っている間、自分は何もしていないように感じていた。車両へ敵が近づくのを見ながら、南側の配置を維持していただけである。

 しかし、もし動いていれば、中型個体が現れた時に搬送車の前へ入る機体はいなかった。

 何も起きていない場所へ残ることにも、意味があった。

 三浦が椅子へ深く座り直した。

「四番機を助けに来なかったことについて、第一中隊から不満はありません。むしろ、二番機が援護へ動いたあとも、橘さんが車両の前に残っていることが分かっていたので、こちらは救助に集中できました」

「三浦一尉は、中型個体の出現後、橘二尉との連携で停止させています」

「はい。ただ、橘さんが北へ行っていたら、俺は搬送車と中型個体の間へ入る必要がありました。撃破には、もっと時間がかかったと思います」

 綾人は後方の席で記録へ目を通していた。担当者から意見を求められると、端末を机へ置いた。

「前回、私は橘二尉へ二つの救助を選ばせないことを条件にしました。今回は、その条件が機能しています」

「前線配置を有効と評価しますか?」

「限定的には」

「まだ条件がありますか?」

「あります」

 綾人は南側と北側の映像を並べた。

「今回は、神代隊長が施設全体を把握し、各隊員も指示どおりに動きました。通信も一度も途切れていない。この状態なら有効です」

 次に、画面上の通信線を一つ消す。

「しかし、実地では通信が途切れる可能性があります。監視担当が先に損傷する場合もある。指揮官の判断を待てない状況も起きるでしょう」

「すべての不測事態を、シミュレーターで再現することはできません」

「だから、実地評価へ進むなと言っているわけではありません」

 綾人の言葉に、蒼真は顔を上げた。

「条件が崩れた時、橘二尉へどこまでの判断を戻すのか。それを決めてから進めるべきだと言っています。指示がなければ何もできない支援隊員にするのも、すべてを背負わせるのも違う」

 神代が頷いた。

「通信断絶時は、現在地に最も近い人命救助を優先する。担当外へ移動する場合は、可能な限り共有通信へ残す。後方監視が失われた場合は、前線配置を解除して従来の支援位置へ戻す」

「それなら、現場で迷う時間は減るでしょう」

 担当者は条件を記録し、しばらく画面を確認していた。

 やがて、正面の結果表示が更新される。

《前線運用評価 第二段階》

《条件付き適合》

《限定実地評価への移行を推奨》

 蒼真は最後の一行を見た。

 予想していた。

 良い結果を出せば、次へ進む。最初の適性試験から、何度も繰り返されてきた流れだった。

 それでも今回は、以前と少し違った。

 自分が何でもできると評価されたから、次へ進むのではない。

 できないことを他の隊員へ渡し、その状態で部隊が動けたから、実地で試す価値があると判断された。

「実地評価について、橘二尉へ正式な説明を行います」

 担当者が資料を閉じた。

「参加の意思は、その説明後に確認します」

「拒否できますか?」

「実地評価は通常任務の配置変更を伴います。本人の意見、所属隊長の意見、家族への説明状況を確認したうえで決定します」

 家族という言葉が、正式な評価項目へ入っていた。

 蒼真が神代を見ると、神代は何も言わずに綾人へ視線を向けた。綾人も表情を変えなかったが、端末の上に置いた指が僅かに動いた。

 誰がその条件を加えたのかは、聞かなくても分かった。

 評価室を出たあと、蒼真は廊下の窓際で端末を取り出した。

《二回目の試験が終わった。条件付きで、実際の現場へ進むことを勧める結果になった。まだ決定ではない。帰ってから話します》

 美咲へ送る。

 返事を待っている間、三浦が隣へ立った。

「行くんですか?」

「まだ分かりません」

「嫌ですか?」

「嫌ですよ」

「それでも、必要だと言われたら?」

 蒼真は窓の外を見た。シミュレーター棟と本館を結ぶ道路を、整備車両がゆっくりと走っている。

「家へ帰ってから考えます」

「自分で決めないんですね」

「家のことなので、一人では決めません」

 端末が震えた。

《分かりました。今日は早く帰ってきて》

 短い文章だった。

 蒼真が画面を閉じると、三浦は小さく頷いた。

「それが一番よさそうですね」

「三浦一尉は、一人で決めるんですか?」

「俺は独身なので」

「結婚したら?」

「橘さんを見てから考えます」

「参考にしない方がいいと思います」

 三浦が笑った。

 少し先を歩いていた神代が振り返る。

「話は帰りながらしろ。次の説明時刻を確認するぞ」

 三人は再び歩き出した。

 蒼真は端末を鞄へ戻した。

 今回は、試験が終わったことだけではなく、次へ進む可能性まで、すぐに伝えられた。

 家へ帰れば、美咲は何を聞くだろう。

 自分は、どこまで答えられるだろう。

 実地評価へ進むかどうかより先に、今夜はそれを話さなければならなかった。

*

 夜。

 日記。

―――

 八月六日。

 第二回前線運用評価を行った。

 場所は、旧排水処理施設を再現した仮想区域だった。

 今回は、御堂三尉が後方監視を担当し、安西二尉が搬送車へ随伴した。

 救助要請が重なった場合は、神代隊長が優先順位を決めた。

 自分には、担当区域外の救助判断が認められなかった。

 第一中隊四番機が敵性個体に拘束された時、自分は助けに行ける位置にいた。

 神代隊長から配置を維持するよう指示があり、二番機が救助へ向かったため、自分は避難車両の前に残った。

 四番機は救助された。

 北側で避難車両へ敵性個体が接近した時も、自分は南側に残った。

 指示を待つ時間は怖かった。

 神代隊長は避難車両の進路を変え、第一中隊三番機が到着する時間を作った。

 自分が北へ移動しなくても、車両は助かった。

 その後、南側へ中型個体が現れた。

 三浦一尉と一緒に、中型個体を管理道路から外した。

 搬送車二台は帰還した。

 作業員と技術者、百四名も全員帰還した。

 自分が移動した距離は、前回より少なかった。

 自分が直接救助した対象も減った。

 しかし、全体の救助時間は短くなった。

 自分が行かなかった場所へ、別の隊員が向かったためだと思う。

 神代隊長から、何も起きていない場所を空けなかったことも評価すると言われた。

 待っている間は、何もしていないように感じた。

 自分がそこに残っていることで、他の隊員が動ける場合もある。

 前線配置は、条件付きで適合と評価された。

 限定的な実地評価へ進むことを勧める結果になった。

 まだ、実地評価へ参加することは決まっていない。

 本人、神代隊長、家族の意見を確認して決めるらしい。

 試験が終わったあと、美咲へすぐに連絡した。

 今日は早く帰るように言われた。

 帰宅後、話をする。

 前線へ行きたいとは思わない。

 ただ、今日の配置なら、自分一人で全部を決める必要はなかった。

 嫌ではある。

 前回より、少しだけ違う嫌さだと思う。

 以上。

―――

*

 同時刻。

 中央戦術支援統合網は、第二回前線運用評価の結果を解析していた。

 後方監視の分離。

 救助優先判断の指揮官への固定。

 支援機の担当区域制限。

 三つの条件により、橘蒼真の移動距離は減少した。

 直接救助数も減少した。

 作戦全体の救助時間は短縮された。

 前回、橘蒼真は複数区域を移動し、各地点の支援を成立させた。

 今回は、橘蒼真が担当区域に残ることで、他の隊員が別区域へ移動できた。

 行動しないことによる支援。

 従来の搭乗者評価では、積極性の不足として扱われる可能性がある。

 しかし、部隊全体の損傷率と救助時間は改善している。

 個人の行動量と作戦成果は一致しない。

 橘蒼真は、北側の救助要請に対し、命令へ反して移動する可能性を認識していた。

 接触予測時間が十秒を下回った時点で、独自判断へ移行する予定だったと申告している。

 完全な命令依存ではない。

 指揮官の判断が有効な間は、自身の判断を抑制している。

 神代隊長は、車両経路の変更によって必要時間を確保した。

 橘蒼真は、その判断を確認後、担当区域に留まった。

 信頼による待機。

 服従とは異なる。

 九条綾人の指摘に基づき、指揮系統喪失時の権限復帰条件が追加された。

 通信断絶時、橘蒼真は現在地に最も近い人命救助を優先する。

 後方監視能力が失われた場合、前線配置を解除し、従来の支援位置へ戻る。

 前線配置は固定された役割ではない。

 条件が成立している間のみ使用可能な運用形態とする。

 限定実地評価への移行を推奨。

 本人の拒否感は継続。

 恐怖反応は正常範囲。

 拒否感の低下を、適応条件としない。

 家族への説明状況を、実地評価開始条件へ追加。

 前線運用評価、第三段階。

 準備を開始する。

 本人への正式説明は、所属隊長を通じて実施する。

 観察を継続する。

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