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第五十二話 前線の右後方

 朝食を終えた食卓には、半分ほど減った麦茶のポットと、結衣の自由研究に使う鉢植えが並んでいた。

昨日までは窓際に置かれていたはずの鉢が、なぜか蒼真の席の真正面へ移されている。細い茎の先では、まだ開ききらない葉が朝の光へ向かって僅かに傾いていた。

「これ、どうしてここにあるの?」

 蒼真が尋ねると、通学鞄へ教科書を入れていた結衣が顔を上げた。

「パパに慣らしてるの」

「何を?」

「旅行の時に運んでもらうから」

 昨夜の話は、どうやら前日に植物の状態を見て決めるという結論にはなっていなかったらしい。少なくとも結衣の中では、すでに鉢植えを連れていくことが決まっている。

 蒼真が鉢と娘の顔を交互に見ていると、流し台の前に立っていた美咲が肩越しに振り返った。

「今日は大事な試験なんでしょ。朝から鉢植えと戦わなくていいから」

「戦ってはいないよ」

「ぱぱ、たたかわない」

 床に座って紙製のノストスを抱えていた昴が、覚えた言葉を使いたかったらしく、得意そうに言った。

「そうだね。できれば戦わない」

 蒼真が答えると、昴は満足したように頷き、紙の機体を畳の上で歩かせ始めた。足元が少し潰れているため、二歩進むたびに右へ傾く。それでも昴は倒れる前に小さな手を添え、何度でも立たせていた。

 美咲は弁当箱を布で包み、結び目を確かめてから蒼真へ差し出した。

「シミュレーターでも、終わったら連絡して」

「仕事が終わってからじゃなくて?」

「試験が終わった時。結果がすぐに出なくても、それだけでいいから」

 蒼真は弁当を鞄へ入れながら、美咲の表情を見た。声はいつもと変わらない。しかし、包みを離した指先が、すぐには食卓から離れなかった。

「分かった。終わったら連絡する」

「うん」

 それを聞いて、ようやく美咲の手が動いた。

 玄関へ向かう蒼真の後ろを、昴が紙製ノストスを抱えたままついてくる。靴を履き、立ち上がったところで、昴は機体の腕を持ち上げた。

「りぽる、かえる?」

「帰るよ」

「ぱぱも?」

「一緒に帰る」

 答えると、昴は安心したように笑った。

 蒼真は玄関の外へ出た。閉まりかけた扉の向こうから、結衣が「鉢植えもね」と付け足す声が聞こえたが、それについては返事をしなかった。

*

 中央防衛局の戦術シミュレーター棟は、通常の格納庫よりも静かだった。

 機体を運ぶ車両も、整備員の声もない。白い壁に囲まれた通路の奥で、空調の低い音だけが途切れずに続いている。その静けさの中へ足を踏み入れると、これから実機へ乗る時より、かえって試験であることを強く意識させられた。

 受付を済ませた蒼真が評価室へ入ると、正面いっぱいに広がる観測画面の前に、すでに九条綾人が立っていた。

 綾人は軍にいた頃の制服ではなく、紺色のシャツに黒いスラックスを着ていた。けれど、画面へ向ける目だけは、自宅で昴の相手をしていた時とは違う。表示された地形図の端から端までをなぞり、敵性個体の出現予測地点と退避路を順に確認している。

「おはようございます」

 蒼真が声をかけると、綾人は振り返った。

「おはよう。美咲には話したか?」

「話しました。試験が終わったら連絡することになっています」

「なら、俺から言うことはない」

 綾人はそう答えたものの、蒼真の顔をしばらく見ていた。体調を確かめているのか、緊張しているかを見ようとしているのか分からない。蒼真が首を傾げると、綾人は僅かに口元を緩めた。

「嫌そうな顔をしていると思ったが、いつもとあまり変わらないな」

「嫌ですよ」

「それを聞けて安心した」

「安心するところですか?」

「少なくとも、前に出られることを喜んではいない」

 綾人は再び画面へ視線を戻した。そこへ評価担当者と神代、三浦が入ってくる。三浦は綾人の姿を認めると背筋を伸ばしたが、綾人は軽く頭を下げるだけで済ませた。

 中央画面へ、今回使用する仮想区域が表示された。

 周囲を切り立った岩壁に囲まれた、旧露天採掘場。最下層から地上へ通じる道は、岩肌に沿って折れ曲がる一本の搬出路しかない。底部には作業員を乗せた輸送車が三台、採掘設備の陰には動けなくなった作業機が二機配置されている。

 第一中隊は最下層で敵性個体を迎撃し、第三中隊は中段から搬出路を維持する。リポルの初期位置は、三浦機の右後方二十メートル。先日の評価会議で示された配置と同じだった。

「勝利条件は、作業員百二十名の退避完了です」

 担当者が画面上の車両を指した。

「敵性個体の全排除は条件に含まれません。機体の大破、輸送車両の全損、または退避路の封鎖が十五分継続した場合は失敗とします」

 蒼真は最下層と中段を結ぶ坂道へ目を向けた。幅は輸送車二台がすれ違えるほどあるが、途中に大きく張り出した岩棚があり、その場所だけ見通しが悪い。

「敵の出現数は?」

「非公開です」

「出現位置も?」

「同様です」

 担当者は手元の資料を閉じた。

「橘二尉の評価項目は、三浦機への戦闘支援、損傷機の回収、退避路の維持、全体状況の把握です。優先順位は指定しません」

 優先順位を指定しないということは、状況ごとに蒼真が決めなければならないという意味だった。

 蒼真が配置図を見つめていると、隣に立つ神代が低い声で尋ねた。

「見えない場所は?」

「岩棚の裏です。最下層からだと中段の入口も見えません」

「なら、始まる前にどうする」

 蒼真は通信系統を確認した。第三中隊の御堂機が中段東側、安西機が西側へ配置されている。双方の視界を共有すれば、岩棚の裏と中段入口を補うことができる。

「御堂三尉と安西二尉に、見えない場所を見てもらいます」

「お前が見るのではなく?」

「前へ置かれるなら、一人では見られません」

 神代は短く頷いた。

 そのやり取りを聞いていた綾人は、何も口を挟まなかった。ただ、評価用の端末へ一度だけ何かを書き込み、蒼真が操縦区画へ入るまで、その指を止めたまま見送っていた。

*

 リポルの操縦席が閉じる。

 暗闇の中で固定具が肩と腰へ触れ、次いで周囲へ仮想映像が広がった。

 乾いた岩肌。掘削によって段状に削られた斜面。最下層には細かな砂埃が漂い、停車した輸送車の回転灯が、その向こうで赤く明滅している。

 右前方には三浦機。第一中隊の残る三機は、扇状に間隔を空けていた。リポルはその輪へ加わらず、三浦機の斜め後ろから搬出路と最下層の両方が見える位置に立つ。

『各機、状況報告』

 神代の声が通信へ入った。

『第一、異常なし』

『中段東、確保』

『西側、異常なし』

「リポル、退路確認。死角二か所、共有をお願いします」

『了解』

『任せろ』

 短い応答が返る。

 開始時刻まで、残り十秒。

 数字が減る間にも、輸送車の一台目が動き出した。車輪が砂を巻き上げ、緩い坂へ向かう。二台目は作業員を乗せている途中で、三台目の周囲にはまだ人影が残っていた。

 表示が零になった。

 岩壁の上から、黒い塊が落ちてきた。

 着地と同時に四本の脚が沈み、砕けた岩片が周囲へ弾ける。大型犬ほどの体躯を持つ敵性個体が六体。着地地点は第一中隊の正面ではない。搬出路へ向かう輸送車の側面だった。

『右、六!』

 三浦機が踏み込んだ。

 地面を蹴った脚部から砂煙が伸び、先頭の一体へ長剣が振り下ろされる。敵は身を捻って刃を避けたが、三浦は追わない。踏み出した足を軸に機体を回し、長剣の腹で二体目を輸送車から弾き離した。

 残る四体が左右へ散る。

 リポルは搬出路側へ回り込んだ。右腕の防盾を前へ出し、輸送車との間に機体を滑り込ませる。盾へ一体が衝突し、鈍い振動が操縦席まで伝わった。

「車両、止まるな」

『了解!』

 運転手の声と同時に、輸送車がリポルの背後を通過する。

 盾へ食いついた個体を振り払おうとした瞬間、視界の左端で別の一体が跳んだ。狙いはリポルではない。通過中の車両後部だった。

 蒼真は盾を押し出すのをやめ、左肩を落とした。敵の爪が装甲表面を擦り、火花を引く。機体を半歩だけ後退させ、その勢いを使って左腕で敵の胴を抱え込む。

 倒す必要はない。

 車両から離せばいい。

 リポルは敵を抱えたまま腰を回し、三浦機のいる方向へ投げた。

『三浦一尉』

『見えた』

 長剣が横薙ぎに走った。

 投げ出された敵が空中で切断され、光の粒へ変わる。三浦機は刃を止めず、そのまま地面近くまで振り抜いた。低く走った剣先が、リポルの盾から離れた個体の前脚を払う。崩れた敵へ第一中隊の二番機が槍を突き入れた。

 残り四体。

 うち三体は第一中隊が止めている。最後の一体は岩壁へ張りつき、戦闘区域を迂回して三台目の輸送車へ向かおうとしていた。

「上、壁際」

『任せろ』

 第一中隊三番機の射撃が敵の進路を塞ぐ。弾丸が岩肌を砕き、敵が跳躍方向を変えたところへ三浦機が踏み込んだ。

 蒼真は撃破を確認する前に搬出路を見た。

 一台目は岩棚を越えた。二台目が発進し、三台目では乗車が続いている。

『中段東、接敵!』

 御堂の声が響いた。

 共有画面へ切り替える。中段入口の地面が割れ、細長い胴体を持つ敵性個体が二体、搬出路を塞ぐように這い出していた。御堂機が一体の頭部を押さえているが、もう一体が一台目の輸送車へ身体を巻きつけようとしている。

「一台目、停止。後退できますか」

『後ろは見えない!』

「そのまま。動かないでください」

 蒼真は最下層を見た。三浦機の周囲には、まだ三体が残っている。第一中隊二番機の左肩は損傷し、槍を片手で保持していた。

『橘さん、こちらは持ちます!』

 三浦の声が届く。

 リポルは搬出路へ足を向けた。しかし、走り出す直前、最下層奥の採掘設備が僅かに揺れた。

 砂が、下から押し上げられている。

「待って」

 蒼真は足を止めた。

 次の瞬間、三台目の輸送車と第一中隊の間で地面が隆起した。

 岩盤を突き破り、中型個体が姿を現す。太い前肢が地面へ突き刺さり、持ち上がった頭部が最も近い輸送車へ向いた。

 中段では一台目が襲われている。最下層では、まだ乗車を終えていない人間がいる。

 どちらへ行っても、もう一方から離れる。

「神代隊長。中段へ支援を」

『安西を回す』

「お願いします」

 返事を終える前に、リポルは走り出していた。

 中型個体の前肢が振り上げられる。狙いは三台目の車体中央。直撃すれば、仮想上の人員損失は避けられない。

 蒼真は機体を加速させた。正面から割り込む時間はない。輸送車と敵の間へ斜めに滑り込みながら、右腕の盾を肩へ固定する。

 衝撃。

 視界が大きく揺れ、右脚が地面を削った。盾の表面に亀裂が走り、損傷表示が一気に黄色へ変わる。

 押し返せない。

 リポルは敵の腕を受けたまま、左脚を半歩後ろへ引いた。力へ逆らわず、機体ごと外側へ流す。中型個体の前肢が盾を滑り、その先端が輸送車の前方を掠めた。

 車体が揺れたが、横転はしない。

「発進!」

『まだ乗り切っていません!』

「設備の陰へ!」

 地上に残っていた作業員が、倒れた採掘機の陰へ走る。輸送車は低い唸りを上げながら動き出した。

 中型個体が追おうとする。

 リポルは割れた盾を捨て、敵の右前肢へ両腕を回した。駆動部が唸り、警告音が重なる。力で止めるのではない。車両の進路から、身体の向きを僅かにずらす。

『離れろ!』

 三浦の声。

 蒼真は腕を解き、機体を沈めた。

 頭上を長剣が通過する。刃は中型個体の肩口へ深く食い込み、巨体を横へ押し流した。三浦機は振り抜いた姿勢から一歩踏み込み、空いた左腕でリポルの肩を掴んだ。

『立てるか』

「立てます」

『車両は』

「動いています」

『なら、行くぞ』

「はい」

 三浦機が中型個体の正面へ戻る。リポルはその右後方へついた。

 敵は右肩から黒い液体を散らしながら、残った左腕を地面へ叩きつけた。岩片が跳ね、三浦機の視界を覆う。砂煙の奥から頭部が突き出される。

 三浦は左へ避けた。

 敵の身体が、そのままリポルの正面へ現れる。

 蒼真は後退せず、右へ踏み込んだ。敵の脇を抜けながら、損傷していない左肩を胴体へ当てる。軌道が僅かに変わり、中型個体は輸送車ではなく採掘設備の残骸へ衝突した。

「今です」

『了解』

 三浦機の長剣が、敵の後脚を断つ。

 巨体が傾いた。第一中隊二番機が片腕で槍を構え、露出した首元へ突き込む。敵が身を起こそうとしたところへ三番機と四番機の射撃が集中し、最後に三浦の刃が頭部を貫いた。

 中型個体が崩れ、光へ変わっていく。

「中段は?」

『一体停止! 残り一体!』

 安西の声が返った。

 蒼真は搬出路へ機体を向ける。二台目は岩棚の手前で停止していた。一台目が動けないため、道を空けられない。

「三浦一尉、最下層をお願いします」

『行ってください』

 リポルは坂道を駆け上がった。

 岩棚を回り込むと、一台目の輸送車へ細長い敵性個体が巻きつき、車体を崖側へ押していた。御堂機は頭部を押さえ、安西機が胴体を切り離そうとしている。しかし、刃を深く入れれば車体まで傷つける。

「御堂、三秒だけ上げられますか」

『やる』

「安西、車両を」

『了解』

 御堂機が敵の頭部を持ち上げた。巻きついた胴が締まり、輸送車の外板が軋む。

 リポルは車体と敵の間へ左腕を差し込んだ。装甲が擦れ、腕部の損傷表示が点滅する。隙間が広がった瞬間、安西機が輸送車の前部を掴み、崖から離れる方向へ引いた。

「今」

『抜く!』

 車体が敵の輪から滑り出す。

 御堂機が頭部を地面へ叩きつけ、安西の刃が胴体を断った。切断された敵はなおも身を捩ったが、リポルが上半身を踏み止め、御堂が頭部へ短剣を突き立てる。

 動きが止まった。

『一台目、走れます!』

「出してください。二台目、続いて」

 輸送車が再び動き出す。崖際を抜け、地上へ向かう坂を上っていった。

 蒼真はその後ろ姿を見送りながら、最下層の共有映像へ目を移した。

 三浦機を中心に第一中隊が残敵を押さえている。三台目も動き始めた。採掘設備の陰へ逃げた作業員は、回収用の小型車へ乗り換えている。

 すべて見えている。

 けれど、自分が中段へ来た間、最下層で何かが起きても、すぐには戻れなかった。

 画面に映っていることと、助けに行けることは違う。

 最後の輸送車が地上判定線を越えたところで、終了を告げる音が鳴った。

 周囲の岩壁が薄れ、敵も車両も光の格子へ変わって消えていく。

 結果表示。

 退避完了、百二十名。

 人員損失、零。

 輸送車両、全車帰還。

 第一中隊中破一、小破二。リポル中破。

 作戦成功。

 数字だけを見れば、良い結果だった。

 蒼真は操縦桿から手を離した。掌には汗が滲み、指を開いても、すぐには震えが止まらなかった。

*

 評価室へ戻ると、中央画面にはまだ作戦結果が表示されていた。

 三浦は自分の損傷記録より先に、リポルが中型個体の攻撃を受けた場面を見返している。神代は腕を組み、画面の端に並ぶ時刻記録へ目を向けていた。

 綾人だけは映像を見ていなかった。

 入室した蒼真の歩き方と、椅子へ座るまでの動きを黙って確かめている。

「気分は?」

「良くはありません」

「吐きそうか?」

「そこまでは」

「手を見せてくれ」

 蒼真が両手を開くと、震えは僅かに残っていた。綾人はそれを確認してから、ようやく中央画面へ向き直った。

 評価担当者が結果を読み上げる。

「退避完了率百パーセント。前衛部隊の平均損傷率は、同条件で行った通常配置より十一・二パーセント低下しました。輸送車両への被害も、走行に影響しない範囲です」

 画面が切り替わり、リポルの移動経路が紫色の線で表示された。

「橘二尉は、第一中隊の戦闘を支援しながら三台の輸送車を防護し、中段で発生した退路封鎖にも対応しています。前線配置は有効だったと評価できます」

 予想していた言葉だった。

 蒼真は紫色の線を見た。最下層と中段の間を往復し、何度も車両の前へ回り込んでいる。自分で動かしたはずなのに、上から見ると別の誰かの記録のようだった。

「反対意見があります」

 綾人が言った。

 担当者が顔を上げる。三浦も画面から視線を外し、綾人を見た。

「前線配置が有効だったという結論にですか?」

「その言い方にです」

 綾人は端末を操作し、二つの場面を並べて表示した。

 一方には、中段で一台目の輸送車が敵に巻きつかれた瞬間。もう一方には、最下層で中型個体が地面から現れた瞬間が映っている。

「この時、橘二尉は両方を認識していました。しかし、どちらか一方にしか行けない。今回は神代隊長が安西機を中段へ回し、三浦一尉が最下層を維持したことで成立しています」

「部隊連携を含めて、配置が機能したと判断しています」

「ならば、橘二尉単独の前線運用能力として評価するべきではありません。第一中隊と第三中隊の連携が成立している場合に限り、有効だったと記録すべきです」

 綾人の指が、紫色の移動線の上をなぞった。

「彼を前へ出せば、助けられる人数は増えるでしょう。ただし、前線へ出した橘二尉へ、これまでどおり現場全体の支援まで求めるなら、いずれ二つの救助を同時に選ばせることになる」

 室内が静かになった。

 蒼真は二つの映像を見比べた。あの時、自分は迷わなかった。中段を安西へ任せ、目の前の輸送車を守った。

 だが、もし安西が別の敵と交戦していたら。神代が応答できなかったら。三浦が中型個体のもとへ来られなかったら。

 どちらを選んでも、何かを残すことになる。

「九条さんは、前線配置そのものに反対ですか?」

 担当者の問いに、綾人はすぐには答えなかった。画面では、リポルが中型個体の攻撃を盾で受け流す場面が繰り返されている。

「役に立つかと聞かれれば、役に立ちます」

 綾人は映像を止めた。

「置くべきかと聞かれれば、条件なしでは反対します」

「必要な条件は?」

「前線へ配置する際は、後方監視を別の隊員へ明確に移すこと。救助要請が重なった場合の指揮権を、橘二尉本人へ背負わせないこと。そして、前線支援の成果を撃破数では評価しないことです」

 三浦が小さく頷いた。

「最後は必要ですね。橘さんに撃破数を求めたら、今日の動きは崩れます」

「三浦一尉の撃破数が増えている以上、部隊全体の戦果には貢献しています」

「だからこそ、本人まで倒す必要はありません」

 三浦は自分の機体とリポルの移動線が重なった地点を指した。

「俺が倒し、橘さんが帰す。今日も、それで成立しています」

 蒼真は画面を見たまま口を開いた。

「一つ、記録へ加えてください」

 担当者の手が端末の上で止まる。

「何でしょうか」

「中段へ向かっている間も、最下層の状況は見えていました。でも、戻るには時間が必要でした。見えているのに行けないことは、見えていない時より怖いです」

 言葉にすると、操縦席で感じていた重さが少しだけ形になった。

 見えないから助けられないのではない。見えているのに、どちらかを選ばなければならない。それは機体の性能を上げても、蒼真一人では解決できない。

「前へ配置されることへの拒否感は、試験前と比べて変化しましたか?」

「増えました」

 蒼真が答えると、三浦が僅かに目を見開いた。担当者も一瞬だけ入力を止めたが、綾人は表情を変えなかった。

「理由を聞いても?」

「前にいた方が助けられる人は増えると思います。でも、全部を助けられるようになるわけではありません。むしろ、助けられない人まで近くに見えるようになります」

 担当者は蒼真の言葉を記録した。

 神代が組んでいた腕を解き、机へ両手をついた。

「今回の結果だけで実地評価へ進めることには反対する。配置条件と指揮系統を整理し、別条件の試験を行うべきだ」

「第一中隊としても同意します」

 三浦が続ける。

「橘さんが前にいることで、俺たちは戦いやすかった。ただ、橘さん一人が俺たち全員の後ろを守る形にはしたくありません」

 担当者は三人の意見を確認し、最後に綾人へ視線を向けた。

「外部評価者としての正式な所見は、後日提出していただけますか」

「提出します。ただし、本人が戦闘を望んでいないことも、運用上の条件として扱ってください」

「心理評価として記録します」

「心理だけの問題ではありません」

 綾人の声は穏やかだったが、担当者から目を逸らさなかった。

「恐怖が残っているから、橘二尉は敵を倒すことより、帰る道を見ています。それを取り除いて戦闘へ適応させれば、今評価している能力そのものが変わる可能性があります」

 画面の端で、リポルの損傷率が表示されていた。

 二十一・八パーセント。

 中破判定ではあるが、盾の損傷が大半を占め、機体の歩行能力と救助能力は最後まで維持されている。

 蒼真はその数字よりも、綾人の言葉を考えた。

 怖くなくなれば、もっと動けると思っていた。

 しかし、怖くなくなった自分が、今と同じものを見るとは限らない。

「本日の結果は、条件付き有効として保留します」

 担当者が告げた。

「次回は後方監視担当を明確に置き、救助要請が重複した場合の指揮系統を設定したうえで、再評価を行います。実地評価への移行は、その結果が出るまで行いません」

 蒼真の肩から、僅かに力が抜けた。

 試験は合格でも、不合格でもなかった。

 前線への道が閉じたわけではない。ただ、数字だけで押し切られることもなかった。

 評価室を出ると、綾人が後ろからついてきた。人気のない通路をしばらく歩いたところで、蒼真は足を止める。

「反対してくれて、ありがとうございました」

「反対したわけじゃない」

 綾人は窓の向こうに並ぶシミュレーター区画を見た。

「前へ出れば役に立つと言った。その点では、防衛局と同じ意見だ」

「条件なしでは反対だとも言いました」

「それは、お前だからじゃない。誰であっても、一人へ二つの場所を守らせるべきじゃない」

 綾人はそこで蒼真へ向き直った。

「ただ、お前が選べてしまう人間だから、周りは選ばせても大丈夫だと思い始める。そこは止める必要がある」

「選べなかった場合は?」

「隊長が選ぶ。それが指揮官の仕事だ」

 蒼真は神代が安西を中段へ回した場面を思い出した。自分が目の前の中型個体へ向かえたのは、もう一方を神代が引き受けたからだった。

「綾人兄さんも、昔は選んでいたんですか?」

 問いかけると、綾人の目が僅かに細くなった。

「選んでいた。自分が一番強かったから、自分が決めるべきだと思っていた」

「間違っていましたか?」

「結果だけを見れば、正しいことも多かった」

 綾人は前を向き、再び歩き出した。

「だから、やめるのが遅れた」

 その背中へ、蒼真はすぐに次の質問を投げられなかった。

 通路の先で、自動扉が静かに開く。外から差し込んだ昼の光が、白い床の上へ長く伸びていた。

 蒼真は端末を取り出した。

《試験は終わった。結果は条件付きで保留。実際の現場へ出る話は、まだ進まない》

 美咲へ送ると、すぐに既読がついた。

《お疲れさま。帰ってから聞きます。お弁当は食べて》

 短い返事を読み、蒼真は鞄の中を見た。

 試験が終わった安心で、弁当のことを完全に忘れていた。

 前を歩いていた綾人が振り返る。

「どうした?」

「家の試験で、減点されるところでした」

「何をした」

「まだ弁当を食べていません」

 綾人は一度だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。

「それは、今からでも間に合う」

*

 夜。

 日記。

―――

 七月三十日。

 第一中隊との合同シミュレーションを行った。

 リポルは、三浦一尉の右後方へ配置された。

 作戦の目的は、旧採掘場から作業員百二十名を退避させることだった。

 敵性個体をすべて倒すことは、勝利条件ではなかった。

 最下層と中段で、同時に敵性個体が現れた。

 自分は両方を確認できていたが、同時に二か所へ行くことはできなかった。

 神代隊長が安西二尉を中段へ向かわせたため、自分は最下層に現れた中型個体へ対応した。

 三浦一尉と第一中隊が中型個体を停止させた。

 その後、中段へ移動し、御堂三尉、安西二尉と一緒に輸送車を救助した。

 作業員百二十名と輸送車三台は、すべて帰還した。

 リポルは中破した。

 防盾の損傷が大きかったが、最後まで歩行と救助は可能だった。

 前線へ配置されたことで、損傷機や輸送車へ到達する時間は短くなった。

 第一中隊の損傷率も、通常配置より低かった。

 ただし、前に出たことで、後方へすぐに戻ることはできなくなった。

 状況が見えていても、自分がそこへ行けるとは限らない。

 見えていない時より、見えているのに行けない時の方が怖かった。

 九条綾人さんは、前線配置を条件なしで行うことに反対した。

 後方監視を別の隊員へ移すこと。

 救助要請が重なった場合は、指揮官が優先順位を決めること。

 撃破数で自分を評価しないこと。

 以上の条件が必要だと話した。

 綾人さんは、恐怖が残っているから、自分は敵を倒すことより帰る道を見ているとも話した。

 怖くない方がいいと思っていた。

 怖くなくなった場合、自分が何を見るのかは分からない。

 今回の結果は、条件付き有効として保留になった。

 別条件で、もう一度シミュレーションを行う。

 実際の現場へ出るかどうかは、まだ決まっていない。

 試験終了後、美咲へ連絡した。

 弁当を食べるように言われた。

 忘れかけていたが、食べた。

 家の試験も、多分合格だと思う。

 以上。

―――

*

 同時刻。

 中央戦術支援統合網は、前線運用評価で得られた記録を、過去の任務記録と照合していた。

 橘蒼真を前衛部隊の右後方へ配置した結果、救助対象への平均到達時間は三十二・七秒短縮された。

 前衛部隊の損傷率は低下し、退避対象は全員帰還した。

 前線配置は有効である。

 一方、最下層と中段で救助要請が同時発生した際、橘蒼真は双方を認識しながら、その場で優先順位を決定しなかった。

 神代隊長へ中段支援を要請し、最下層の救助へ専念した。

 判断の委譲。

 通常の搭乗者評価では、自律判断能力の不足として減点される可能性がある。

 しかし、橘蒼真は自身の認識範囲と移動能力の限界を把握し、部隊全体で二つの救助を成立させた。

 自己の判断を放棄したのではない。

 自己の判断だけで現場全体を完結させることを避けた。

 外部評価者、九条綾人は、前線配置によって橘蒼真へ複数の救助選択を集中させる危険を指摘した。

 九条綾人自身は、現役時代、高い戦闘能力を理由に複数の現場判断を引き受けていた。

 結果は良好だった。

 同時に、その判断構造は部隊内で共有されず、九条綾人の離脱後、再現されなかった。

 個人の能力へ依存した戦術は、短期的な成果を向上させる。

 継続運用には適さない。

 橘蒼真の前線運用についても、同様の危険が存在する。

 ただし、相違点がある。

 九条綾人は、自身が最も正確に選択できると判断し、決定を集中させた。

 橘蒼真は、自身が二つの場所へ到達できないと判断し、決定と役割を分散させた。

 戦闘能力ではなく、限界の認識によって部隊を成立させている。

 前線配置への拒否感は、試験後に上昇した。

 戦闘への高揚は、引き続き確認されない。

 恐怖反応は正常範囲。

 恐怖の除去、または戦闘適応の促進は、対象の支援判断を変質させる可能性がある。

 是正対象として扱わない。

 次回評価条件。

 後方監視担当を別途設定。

 重複救助発生時の指揮権を神代隊長へ固定。

 橘蒼真の評価基準から、個人撃破数を除外。

 前線運用評価、第二段階へ移行。

 本人への追加通知は、正式決定後に実施する。

 観察を継続する。

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