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第五十一話 増えた数字

七月二十八日。


石灰石採掘場で第一中隊と合同任務を行ってから、四週間が過ぎていた。


その間に第三中隊は三度出動し、そのうち二度は第一中隊と行動を共にした。沿岸部の資材保管施設では、小型個体四体が無人倉庫へ入り込んでいたが、到着した時点で施設職員の避難は完了しており、第一中隊が倉庫の外へ追い出した個体を、第三中隊が周辺道路へ出さないよう封じ込めた。戦闘は二十分ほどで終わり、負傷者も機体損傷も出なかった。


もう一度は、山間部の送電設備で確認された中型個体一体の排除だった。現場の地形は狭かったものの、敵は第一中隊の接近に気づく前に包囲され、三浦が正面から注意を引いている間に、残る四機が退路を塞いだ。第三中隊が送電設備と作業路を守っているうちに戦闘は終わり、リポルが前へ出る必要もなかった。


毎回、想定外の事故が起きるわけではないらしい。


蒼真がそう口にすると、隣で報告書を確認していた安西が顔を上げた。


「起きない方が普通なんですけどね」


「以前は、出動するたびに何か起きていた気がします」


「橘さんが来てから、妙な現場が続いていただけです」


向かいの席にいた片瀬も会話へ加わり、机の上に置かれた資料を指で軽く叩いた。


「そのせいで、橘さんがいる現場では何か起きる、という噂までありましたからね」


「初めて聞きました」


「本人には言わない方がいいと思っていました」


「今、言っていますよ」


「もう過去の噂ですから」


片瀬は何でもないことのように笑い、御堂も端末から目を上げた。


「最近は、何かが起きる人というより、何かが起きても全員帰ってくる人、という話に変わっています」


「それも自分だけの話ではありません」


蒼真が訂正すると、三人は顔を見合わせた。安西は何かを言いかけたものの、結局は口を閉じて資料へ視線を戻し、片瀬も困ったように笑うだけだった。


以前なら、蒼真はその沈黙の理由を尋ねていたかもしれない。しかし、最近は自分が何を言っても似た反応が返ってくることを覚えていたため、それ以上は追及せず、未処理の報告書へ手を伸ばした。


第三中隊の机に並ぶ書類は、出動回数に比例して増えていた。戦闘記録だけでなく、他中隊との通信手順や損傷機の回収方法、民間車両を退避させる際の配置など、合同任務のたびに新しい検証項目が加えられている。


その日の午後、蒼真たちは、それらの記録をまとめた評価会議へ呼ばれていた。


*


会議が行われたのは、第三中隊の基地ではなく、中央防衛局の合同庁舎だった。


蒼真がこの建物へ来るのは、リポルの運用承認を受けて以来だった。灰色の外壁と大きな窓が並ぶ庁舎は、外から見ると一般的な行政施設と変わらない。しかし、受付を通過して奥へ進むにつれて警備は厳しくなり、会議室へ到着するまでに三度、身分証の提示を求められた。


神代とともに室内へ入ると、すでに久賀や相田のほか、第一中隊長の三浦も席についていた。壁際には軍関係者が数人並び、中央の長い机には、管理局と防衛局の担当者が向かい合う形で座っている。


蒼真は神代に示された席へ座り、机の上に用意されていた資料を開いた。


表紙には、《複数部隊連携下における特別機運用評価》と記されている。


内容の大部分は、これまで参加した任務の集計だった。第三中隊が単独で活動した場合の損傷率と、ほかの中隊を支援した場合の損傷率が比較され、救助した民間人の数だけでなく、回収された損傷機や、戦線へ復帰できた僚機の数まで整理されていた。


蒼真が最初に目を止めたのは、第一中隊の変化だった。


第三中隊と合同で出動した三回の任務では、第一中隊の平均損傷率が、それ以前より一八パーセント低下している。それだけでなく、三浦の敵性個体一体あたりの排除時間も短くなり、個人撃破数は過去の平均を上回っていた。


「第一中隊の戦果が上がったのは、三浦一尉たちが連携に慣れたからではありませんか?」


蒼真が尋ねると、資料の説明を担当していた相田が頷いた。


「それも要因の一つです。ただ、第一中隊だけの変化ではありません。第五中隊との合同任務でも、同じ傾向が確認されています」


相田が端末を操作すると、正面の画面へ別の表が表示された。


第三中隊と同じ現場へ投入された部隊は、敵性個体の排除に集中できる時間が増えている。後方から接近する敵への警戒や、損傷した僚機の回収、民間人の退避状況の確認を第三中隊が引き受けることで、前衛部隊は戦闘中に意識を分散させる必要がなくなるためだった。


「支援隊員制度を設計した段階でも、前衛部隊の負担軽減は想定していました。しかし、橘さんが参加した任務では、想定を大きく上回る結果が出ています」


久賀が穏やかな口調で説明を引き継いだ。


「特に目立つのは、危険が発生してから対応を始めるまでの時間です。橘さんは敵性反応だけでなく、周囲の設備や退避経路、味方機の位置を同時に確認しています。そのため、一つの問題が別の事故へつながる前に、現場の配置を変えているのです」


「自分一人で変えているわけではありません。神代隊長が指示を出して、片瀬さんたちが動いています」


「承知しています。これは橘さん個人だけの評価ではなく、第三中隊全体の運用評価でもあります」


そう前置きしたうえで、久賀は画面上の紫色の線を示した。


表示されているのは、石灰石採掘場でリポルが通った経路だった。中段から御堂のいる岩棚へ向かい、そこから第一中隊の損傷機へ移動し、三浦とともに中型個体を止めたあと、再び坂道へ戻っている。


「ただし、第三中隊が同じ運用を行っても、橘さん以外の搭乗者では、この移動経路を選択できませんでした」


画面が切り替わり、同じ状況を再現したシミュレーター試験の結果が表示された。


第三中隊以外から選ばれた支援隊員三名が、同条件の訓練を受けている。三名とも御堂への支援には成功したが、その後、第一中隊四番機へ向かうまでに時間がかかっていた。岩棚から坂道へ直接戻る者もいれば、中型個体との交戦を避けて神代の追加指示を待つ者もいる。


どの行動も、手順上は間違っていなかった。


支援隊員は味方を助ける役割を持つが、単独で中型個体の前へ入ることまでは求められていない。危険度が高い場合は、前衛部隊へ救助を要請し、自分は退路の維持を優先する。それが制度上の正しい行動だった。


「三名のうち二名は、四番機の回収を断念しています」


相田は記録を拡大し、損傷機が残された位置を示した。


「一名は第一中隊へ救援を要請しましたが、三浦一尉が交戦中だったため、四番機へ到達するまで二分四十秒を要しました。予測では、その間に搭乗区画が二度攻撃され、搭乗者が重傷を負う可能性が高いと判断されています」


「でも、三名の判断は間違いではないんですよね」


蒼真が確認すると、久賀はすぐに答えた。


「はい。規定に従った適切な判断です。危険な状況で無理に前へ出ることを、支援隊員へ義務づけることはできません」


「では、自分の動きの方が、規定から外れているのではありませんか?」


会議室の視線が蒼真へ集まった。


神代は何も言わず、三浦は腕を組んだまま僅かに俯いている。相田も返答を迷ったようだったが、久賀は表情を変えなかった。


「規定から外れたのではなく、規定が想定していない範囲まで対応した、と評価しています」


「言い方を変えただけでは?」


「その面はあります」


久賀があっさり認めたため、蒼真は次の言葉を失った。


会議室の端で、小さな笑いが起きる。緊張を崩すほどではなかったが、何人かの肩から力が抜けた。


三浦が腕を解き、机の上へ身を乗り出した。


「少なくとも、俺は橘さんが規定に反したとは思っていません。四番機を助けに来ることは、神代隊長が許可していました。その後、俺へ中型個体を止められるか確認し、無理に一人で倒そうともしなかった」


「倒せなかっただけです」


「それでいいんですよ。あの時、必要だったのは中型個体を倒すことではなく、四番機を立たせることでしたから」


「三浦一尉がそう言うのは、少し意外です」


「俺は敵を倒すことしか考えていないと思っていましたか?」


「戦闘記録を見る限りでは」


「否定しづらいですね」


三浦は苦笑し、それから中央画面へ視線を戻した。


「ただ、橘さんがいると、俺たちは敵を倒すことだけ考えていられる。後ろに損傷機が残っても、誰かが見ていると分かるからです。結果として撃破数が増え、損傷率が下がった。それが今回の数字でしょう」


室内が静かになった。


蒼真は資料へ目を落とした。三浦の撃破数が増えたことも、第一中隊の損傷率が下がったことも、記録を見れば分かる。しかし、それが自分の働きによるものだと言われると、どこか違うように感じた。


三浦が敵を倒せるのは、三浦が強いからだ。第一中隊の隊員が無事だったのは、彼らが互いの位置を確認し、必要な時に支え合ったからである。蒼真は、その中で空いた場所へ入っただけだった。


けれど、同じ条件で試験を受けた三人は、その場所へ入らなかった。


入れなかったのではなく、入る必要がないと判断した。規定上は、そちらが正しい。


その違いを、蒼真自身もうまく説明できなかった。


「本日の議題へ移ります」


防衛局の担当者が口を開き、正面の画面へ新しい資料を表示した。


そこには、第一中隊を中心とした前衛配置が描かれていた。これまでリポルが置かれていた後方や退路付近ではなく、三浦機から二機分ほど離れた右後方へ、紫色の機体が配置されている。


「現在、橘二尉とリポルは、現場状況に応じて前線へ投入されています。しかし、支援配置から前線へ移動するまでには、神代隊長の判断と移動時間が必要になります」


担当者は採掘場の記録を再生し、中段にいたリポルが最下層へ到達するまでの時間を表示した。


「採掘場では、四番機の損傷からリポルの到着まで五十一秒を要しました。もし橘二尉を作戦開始時から前衛部隊の後方へ配置していれば、二十秒以内に到達できたと予測されています」


「前衛部隊へ異動させるという話ですか?」


蒼真が尋ねると、担当者は首を横へ振った。


「現時点で、所属変更は検討していません。第三中隊に所属したまま、合同任務に限って前線配置を試験する案です」


「支援配置ではなく、最初から戦闘区域へ入るんですね」


「そうなります」


会議室に入った時から予想していた答えだった。それでも実際に言葉として聞くと、胸の奥が少し重くなった。


これまでも、必要になれば前へ出ていた。敵の攻撃を受けたことも、中型個体の正面に立ったこともある。しかし、それは帰る道を塞がれた時や、誰かが取り残された時だった。


最初から前へ出るのは、意味が違う。


誰かを助けるために戦闘へ入るのではなく、戦闘が起きる場所にいることが役割になる。


神代が、蒼真より先に口を開いた。


「実戦の前に、シミュレーターで評価する。配置を変更した結果、橘が現場全体を見られなくなるのなら、支援能力を失うことになる」


「その点はこちらも同意しています。前線配置によって撃破効率が上がっても、帰還率が低下すれば本来の目的から外れます」


「第一中隊へ合わせるために、第三中隊の連携を崩すつもりもない」


神代の言葉に、担当者は頷いた。


「まずは第一中隊との合同シミュレーションを行います。橘二尉には三浦機の右後方へ入り、戦闘支援と退路維持を同時に行っていただきます。その結果を確認したうえで、限定的な実地評価へ進むかを判断します」


「シミュレーターだけで終わる可能性もありますか?」


蒼真が尋ねると、今度は誰もすぐに答えなかった。


答えの代わりに、三浦が小さく息を吐いた。


「結果が悪ければ、終わるでしょう」


「良かった場合は?」


「実地評価へ進みます」


分かっていた。


リポルの操縦試験でも、同じことがあった。できなければ、乗らなくて済む。そう考えて試験を受けた結果、誰よりも高い数値を出してしまった。


今回も、自分が真面目に評価を受ければ、数字はそのまま次の試験へ使われる。手を抜くことはできないが、良い結果を出したいとも思えなかった。


「拒否することはできますか?」


蒼真の質問に、担当者は資料を確認してから答えた。


「シミュレーター評価への参加は、現在の職務範囲に含まれます。実地評価については、結果が出た段階で改めて説明します」


「つまり、今回は受けるしかないんですね」


「そうなります」


蒼真は隣に座る神代を見た。


「神代隊長は、どう思いますか?」


「前へ置くこと自体には反対だ。ただし、お前が前にいる方が帰還率も上がるという結果が出るなら、反対する理由を説明できなくなる」


「結果が出ない方がいいですか?」


「隊長としては、良い結果を出せと言うしかない」


神代はそこで一度言葉を切ったが、蒼真から視線を逸らさなかった。


「ただし、結果が良くても、お前をどこへ置くかは数字だけで決めさせない。前へ出たことで見えなくなるものがあるなら、それも記録へ残す」


「分かりました」


蒼真は正面の配置図を見た。


三浦機の右後方に置かれた紫色の印は、これまでより明らかに敵へ近い。そこからでも坂道や退路は見えるかもしれないが、戦闘が始まれば、目の前の敵を無視することはできない。


何を見るべきなのか。


どこまで見えるのか。


まだ分からない。


「シミュレーター評価には参加します」


蒼真が答えると、担当者は承諾欄へ記録を加えた。


大きな音が鳴るわけでも、何かが劇的に変わるわけでもなかった。ただ、画面の端にある《参加予定者》の欄へ、橘蒼真という名前が追加された。


その数行が、これまで曖昧だった前線への道を、少しだけはっきりさせていた。


*


会議が終わると、蒼真は神代とともに廊下へ出た。


三浦も後ろからついてきたが、エレベーターの前まで来たところで、蒼真の隣へ並んだ。


「すみません」


突然謝られたため、蒼真は三浦の顔を見た。


「何がですか?」


「俺の報告も、今回の評価につながっています。合同任務のあと、橘さんがいると戦いやすいと何度か書きました」


「実際にそう感じたのなら、書くべきだと思います」


「前線へ引っ張られるとは思わなかった?」


「少しは思いました。でも、三浦一尉が書かなくても、記録には残っていたでしょう」


三浦は返事をせず、閉じたエレベーターの扉を見た。


「俺が余計なことを言わなければ、もう少し後になったかもしれません」


「後になるだけなら、同じですよ」


「橘さんは、嫌ではないんですか?」


「嫌ですよ」


蒼真が即答すると、三浦は目を瞬かせた。


「でも、必要かどうかを調べるための試験でしょう。嫌だから受けないとは言えません」


「公務員だから?」


「公務員なので」


扉が開き、三人はエレベーターへ乗り込んだ。


神代が階数のボタンを押し、扉が閉じてから蒼真へ向き直る。


「嫌なら嫌だと、記録には残しておけ」


「評価に必要ですか?」


「必要かどうかは、後で決めればいい。お前が何も言わなければ、上は問題がないと判断する」


「でも、職務として受けることには変わりません」


「受けることと、納得していることは別だ」


神代の言葉に、蒼真は少し考えてから頷いた。


「分かりました。嫌だと書きます」


「本当に、そのまま書くつもりか?」


「違うんですか?」


三浦が吹き出し、神代は額へ手を当てた。


「理由も書け。戦闘区域へ最初から配置されることへの恐怖と、現場全体を確認しづらくなる懸念がある、と」


「最初からそう言ってください」


「今、言った」


三浦はまだ笑っていた。


エレベーターが一階へ到着すると、三人は玄関ホールへ向かった。途中で三浦は足を止め、端末に届いた連絡を確認した。


「もう一つ、話しておいた方がよさそうですね」


「何ですか?」


「前線評価について、経験者から意見を聞くそうです。軍の外にいる元搭乗者を何人か呼ぶと聞きました」


「元搭乗者?」


「現役の人間だけで評価すると、部隊の都合を優先しすぎる可能性があるそうです。退役後に民間へ戻った人間からも、意見を集めるらしい」


三浦は端末の画面を閉じた。


「候補者の中に、九条綾人さんの名前がありました」


蒼真は足を止めた。


「綾人兄さんが?」


「知り合いですか?」


「美咲の従兄です」


三浦は驚いたように蒼真を見たあと、何かに納得したらしく、ゆっくり頷いた。


「なるほど。だから資料を見た時、橘さんの名前に反応したのか」


「もう連絡を取ったんですか?」


「依頼を出しただけです。受けるかどうかは、まだ分かりません」


蒼真は、自宅で綾人と話した夜を思い出した。


敵を倒した時に、気持ちよかったか。


そう尋ねられ、自分は考えた。


戦闘が終わったことには安心したが、敵を倒したこと自体に達成感はなかった。綾人はその答えを聞き、美咲へ「蒼真は変わっているが、自分と同じではない」と話したらしい。


今度は、その綾人が、自分を前線へ置くべきかどうかについて意見を求められる。


「少し嫌ですね」


蒼真が呟くと、三浦が尋ねた。


「評価されることが?」


「家族の知り合いに、仕事の記録を見られることがです」


「そこなんですか?」


「戦闘映像も見るんですよね」


「必要な範囲では」


蒼真はリポルが中型個体の前へ入り、肩や防盾で攻撃を受けた場面を思い返した。美咲には概要を話しているが、実際の映像を見せたことはない。綾人が映像を見れば、当然、美咲へ何かを伝えるだろう。


神代が玄関の自動扉を抜けながら言った。


「隠すな」


「隠すつもりはありません」


「なら、今日のうちに美咲さんへ話しておけ」


「帰ってからでもいいですか?」


「今日のうちならな」


「神代隊長まで、美咲のことを分かってきましたね」


「お前よりは分かりやすい」


外へ出ると、夏の強い日差しが駐車場へ降り注いでいた。


蒼真は眩しさに目を細めながら、家へ帰った時に何から話すべきかを考えた。


*


その日の夕方、九条綾人の端末にも、防衛局から正式な依頼が届いていた。


添付されていた概要には、特別機リポルの前線運用評価と、搭乗者である橘蒼真の行動分析について意見を求める、と記されている。


綾人は自宅の食卓へ端末を置き、送られてきた資料へ目を通した。


公開を許可された範囲だけでも、蒼真の出動記録は相当な量に達していた。本人の撃破数より、救助した人数や回収した機体の数が多い。前線へ出た回数も増えているが、その理由の大半は、敵を倒すためではなく、誰かと敵の間へ入るためだった。


石灰石採掘場の映像では、蒼真が第一中隊の損傷機へ向かい、三浦へ敵を任せている。精製施設では、技術者を乗せた輸送車の前へ立ち、中型個体の進路を逸らしていた。


昔の自分なら、映像に映る敵だけを見ていた。


何体いるか。


どの武器なら倒せるか。


誰より先に攻撃できるか。


蒼真は、敵の向こう側を見ている。倒れた機体や、止まっている車両、使えなくなりそうな退避路を確認し、それらが帰る方向へ動くまで自分の位置を変え続けていた。


だからこそ、前線に置けば役に立つ。


敵へ近い位置にいれば、損傷機へ到達する時間も短くなり、前衛部隊を助けられる可能性も高くなる。その判断は、戦術だけを見れば正しい。


しかし、前線に置いたことで、蒼真が後方を見られなくなる可能性もあった。


何より、役に立つという理由だけで、戦いたくない人間を戦闘区域の中心へ近づけていいのか。


綾人は依頼への回答画面を開いたまま、しばらく指を動かせなかった。


意見を断ることもできる。


だが、自分が断れば、蒼真は撃破効率や損傷率といった数字だけで評価される。数字は、蒼真が前線でも有効だと示している。そのまま進めば、彼が何を見て、何を守ろうとしているのかを理解しないまま、配置だけが変更されるかもしれない。


綾人は考えた末、依頼を受諾した。


ただし、回答欄には、詳細資料と全体通信記録の閲覧を希望する、と付け加えた。


送信する直前、美咲の名前が頭に浮かんだ。


先に話した方がいい。


黙って評価へ参加し、あとから知られる方が、間違いなく怖い。


綾人は美咲へ連絡を入れようとしたが、時刻を確認して手を止めた。橘家では、ちょうど夕食が始まる頃だった。


食事中に話すことではない。


明日にしよう。


そう考えて端末を置いたあと、綾人は数秒ほど動きを止めた。


蒼真も、似たようなことを考えて話を先延ばしにし、美咲から注意されていたはずだ。


綾人は端末を取り上げた。


《防衛局から、蒼真君の前線運用評価について意見を求められた。引き受けようと思っている。詳しい話は、都合のいい時にする》


文章を読み返し、余計な言い訳がないことを確かめてから送信する。


返事は、一分も経たずに届いた。


《分かりました。蒼真からも今日、話を聞きます》


短い。


怒っているのかどうか、分からない。


綾人は元エースと呼ばれていた頃にも感じたことのない緊張を覚えながら、端末を伏せた。


*


蒼真が帰宅すると、玄関には結衣の靴と、左右を間違えて脱いだ昴の小さな靴が並んでいた。


「ただいま」


居間から昴が走ってくる。


「ぱぱ、おかえり!」


蒼真の脚へ抱きついた昴は、すぐに顔を上げた。


「きょう、りぽる?」


「今日は乗ってないよ」


「のすとす?」


「どちらにも乗ってない。会議だった」


「かいぎ、つよい?」


「強くはないかな」


昴はよく分からなかったようだが、それ以上は尋ねず、蒼真の手を引いて居間へ連れていった。


美咲は食卓へ皿を並べていた。いつもと変わらない様子だったが、蒼真が鞄を置くと、わずかにこちらへ視線を向けた。


綾人から、すでに連絡が届いているのかもしれない。


「先に着替えてくる」


「その前に、今日の話?」


「食事のあとにしようと思ってた」


「今日中ならいいよ」


美咲はそれだけ答え、味噌汁の鍋へ戻った。


夕食中は、仕事の話をしなかった。


結衣が夏休みの宿題について、美咲と交渉していた。自由研究の題材は決めたが、観察日記を毎日書く必要があるため、旅行へ行くなら鉢植えも持っていきたいらしい。


「鉢植えを旅館へ持っていくの?」


蒼真が尋ねると、結衣は当然のように頷いた。


「置いていったら、観察できないでしょ」


「美咲のお母さんに預けて、写真を送ってもらえばいいんじゃない?」


「自分で見ないと自由研究にならない」


「車の中で倒れたら?」


「お父さんが倒さないように運んで」


「自分の仕事なの?」


「帰すのが得意なんでしょ」


どこで覚えたのか分からない言葉に、蒼真は箸を止めた。


美咲は笑いを堪えながら味噌汁を飲み、昴は意味も分からないまま「ぱぱ、とくい」と繰り返している。


「鉢植えは人じゃないよ」


「機体も人じゃないのに帰してるじゃん」


「それは中に人が乗ってるから」


「じゃあ私が鉢植えを持って乗ってればいい?」


「そういう問題ではないと思う」


結衣は納得していない顔をしていたが、美咲が「旅行へ持っていくかは、前日に植物の状態を見て決めます」と話をまとめた。


食事が終わり、子どもたちが風呂へ向かったあと、蒼真は美咲と二人で食卓へ残った。


美咲は湯飲みを二つ用意し、一つを蒼真の前へ置いた。


「綾人から連絡が来たよ」


「やっぱり」


「蒼真の前線運用について、意見を求められたって」


「今日の会議で決まった。最初はシミュレーターだけど、第一中隊の前衛配置に入る」


美咲の手が、湯飲みの横で止まった。


「今までと何が違うの?」


「これまでは後方にいて、必要な時だけ前へ出てた。今度は、最初から戦闘区域の近くに配置される」


「戦うために?」


「名目は戦闘支援と退路維持。今より、敵に近くなると思う」


美咲はすぐには何も言わなかった。湯飲みを持ち上げ、一口だけ飲んでから、蒼真の顔を見た。


「嫌なの?」


「嫌だよ」


「断れない?」


「シミュレーターは職務の範囲だから、受ける。実際の現場へ出るかは、その結果を見てから説明される」


「良い結果が出たら?」


「多分、実際に試す」


「悪い結果を出そうとは思わないんでしょ」


「それはできないよ」


「知ってる」


美咲は困ったように笑った。


蒼真が真面目に試験を受ければ、良い結果が出るかもしれない。そして、良い結果が出れば、本人が望まない方向へ話が進む。その流れは、ノストスの適性試験から何度も繰り返されていた。


「今日、帰ってすぐ言おうと思ってた」


蒼真が付け加えると、美咲の表情が少しだけ柔らかくなった。


「食事のあとになったけどね」


「食事中に話す内容ではないと思ったから」


「それは正解」


「なら、今日は注意されない?」


「今のところは」


「今のところ?」


「綾人の話を聞いてから考える」


蒼真は、自分より先に綾人が注意される可能性を感じた。しかし、本人のいないところで安心するのも悪い気がしたため、口には出さなかった。


「試験の日が決まったら、すぐに言って」


「うん」


「実地評価へ進む時も」


「うん」


「あとから決まりました、は駄目だからね」


「分かってる」


美咲は頷くと、ようやく湯飲みから手を離した。


「じゃあ、今日はここまで」


「もっと聞かれると思ってた」


「まだ決まってないことを全部聞いても、蒼真も答えられないでしょ」


「助かる」


「ただし、決まったことは話して」


「分かりました」


「家族なので」


蒼真は、その言葉に頷いた。


職場で決められることと、家で決められることは違う。美咲が前線評価を止められるわけではなく、蒼真にも、すべての命令を拒否できるわけではない。


それでも、何も決められないから話さない、ということにはならない。


美咲が欲しいのは許可を求められることではなく、同じ家で起きていることとして、きちんと知らされることなのだろう。


「ちゃんと話せた?」


美咲が尋ねる。


「多分」


「多分なの?」


「自分が分かっている範囲は全部話した」


「なら、今日は合格」


「試験の前に合格した」


「こっちの試験の方が大事だから」


美咲が笑ったので、蒼真も笑った。


風呂場から、結衣が昴を叱る声が聞こえる。湯船へ玩具を投げ、結衣の顔へ水をかけたらしい。


蒼真が立ち上がろうとすると、美咲が首を横へ振った。


「今日は結衣に任せて」


「大丈夫?」


「お姉ちゃんだから」


「昴が泣かない?」


「結衣が先に泣くかもね」


二人で風呂場の方を見ていると、今度は結衣の笑い声が聞こえた。


どうやら、何とかなったらしい。


「帰すのが得意でも、何でも助けに行かなくていいの」


美咲が言った。


「家では?」


「家でも」


蒼真はもう一度椅子へ座り、残っていたお茶を飲んだ。


*


夜。


日記。



---


七月二十八日。


第三中隊と他中隊との合同任務について、中央防衛局で評価会議が行われた。


第三中隊と同じ現場へ出動した部隊は、以前より損傷率が下がり、敵性個体の排除に必要な時間も短くなっている。


第一中隊では、三浦一尉の撃破数が増えた。


三浦一尉は、自分がいることで後方を気にせず戦えると話していた。


自分は、三浦一尉が敵を止めてくれるため、損傷機を助けに行くことができる。


多分、同じことを別の側から言っている。


今後、第一中隊との合同任務で、リポルを最初から前衛部隊の近くへ配置する試験を行う。


まずはシミュレーターで評価する。


前線へ最初から配置されることには、恐怖がある。戦闘が近くなることで、後方や退路を確認しづらくなる可能性もある。


神代隊長から、嫌だということも記録へ残すように言われた。


嫌だ。


できれば、今までどおり後方にいたい。


ただ、前へいることで損傷機へ早く到達できる可能性はある。それによって助かる人が増えるなら、必要性は調べた方がいいと思う。


九条綾人さんも、外部の経験者として評価に参加するらしい。


戦闘記録を見られることは、少し恥ずかしい。


帰宅後、美咲へ前線評価の話をした。


決まったことは、すぐに話すように言われた。


今日は話せたので、家の試験には合格した。


防衛局の試験も、同じくらいで終わればいいと思う。


以上。



---


*


同時刻。


中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、橘蒼真が参加した合同任務の記録と、支援隊員三名による再現試験の結果が比較されていた。


三名の支援隊員は、いずれも規定に従い、担当する退路を維持した。危険度が上昇した場面では前衛部隊へ救援を要請し、自機と支援対象の双方が損傷する可能性を避けている。


判断に誤りはない。


しかし、実際の任務で橘蒼真は、退路を維持したまま前線へ移動し、損傷機を回収した。敵性個体を単独で排除しようとはせず、三浦直人が到着するまでの時間を作り、両者の行動を重ねることで中型個体を停止させている。


規定を無視した行動ではない。


規定が個別の担当として分けていた複数の役割を、同時に成立させている。


橘蒼真は、自身の行動を特別な技能とは認識していない。三名の支援隊員が同じ動きを再現できなかったことに対しても、自分の方が規定から外れている可能性を疑った。


自己評価と実績の乖離は、依然として大きい。


ただし、周囲の評価を理解する能力が欠けているわけではない。本人は、自身が試験で良好な結果を出せば、望まない前線運用へ進む可能性を正しく認識している。


そのうえで、意図的に成績を落とす選択をしていない。


救助可能性を検証する機会を、自身の希望によって失わせることを避けている。


戦闘への高揚は確認されない。


前線配置への恐怖と拒否感は明確に存在する。


それでも、救援可能人数が増える場合、試験そのものを拒否しない。


外部評価者として、元搭乗者である九条綾人が選定された。九条綾人は、過去に撃破数上位者として記録されながら、退役後は軍との接触を最小限に抑えている。


橘蒼真との親族関係は、評価の中立性を損なう可能性がある。


同時に、対象が戦闘によって変化しているかを判断するうえでは、有効な観測者となる可能性も高い。


前線運用評価。


開始。


本人への追加通知は不要。


観察を継続する。

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