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第五十話 元エース

七月五日。


日曜日。


朝から降っていた雨は昼前には上がったものの、窓の外には厚い雲が残り、庭の物干し台からは雫が落ち続けていた。


蒼真は居間の床に座り、昴が作った紙のフレームワーカーを直していた。


灰色のノストスは、背中に黄色い紙の布団を載せたまま、右腕が取れかかっている。紫色のリポルは片脚を何重もの透明なテープで補強され、白い三浦機は右腕の杭撃ちらしい筒が曲がっていた。


三機とも、最初に作られた時よりテープの面積が増えている。特にノストスは、厚紙より補修材の方が多くなりつつあった。


「ここ、なおして」


昴がノストスの右腕を押さえながら言った。


「腕をつけ直せばいい?」


「うん。うごかない」


「昨日は動いてたよね」


「りぽる、ひっぱったら、とれた」


黄色いテープで三機をつないで遊んでいるため、先頭の機体が曲がるたびに後ろの機体が引きずられる。腕の一本くらい取れても不思議ではなかった。


蒼真は短く切った透明なテープを、ノストスの肩へ慎重に巻いた。腕が動く余地を残そうとしたが、厚紙の関節が潰れているため、完全には元へ戻らない。


「少し動きにくいかもしれない」


「だいじょうぶ」


昴は直ったばかりのノストスを持ち上げ、腕を何度か動かした。実際には肩ごと揺れているだけだったが、本人は満足したらしい。


「ぱぱ、なおした」


「牧野さんほど上手じゃないけどね」


「まきのさん、もっと?」


「本物を直せるからね」


昴は紙の三機を見下ろし、少し考えた。


「すばるも、なおす」


「今も手伝ってくれたよ」


「ほんとの」


「大きくなったらね」


昴は大きく頷くと、紙のノストスを床へ戻した。


少し離れた食卓では、結衣が宿題をしている。問題集を開いているものの、鉛筆はしばらく動いていなかった。


「お父さん」


「何?」


「この前の三浦さんって、本当にエースなの?」


「撃破数では一番だって聞いたよ」


「お父さんは裏エースなんでしょ?」


「誰から聞いたの?」


「片瀬さん」


「また連絡してきたの?」


台所で昼食の準備をしていた美咲が、包丁を動かしながら答えた。


「昨日、買い物に行く時間を聞かれたから。その時に少し話しただけ」


「どうして片瀬さんが、美咲の買い物の時間を聞くの?」


「前に教えた店へ行きたいって言うから、一緒に行った方が早いでしょ」


蒼真は、片瀬と美咲がいつの間に買い物へ行く関係になったのか知らなかった。


職場の情報が美咲のところへ集まる仕組みが、少しずつ出来上がっている。


「片瀬さん、裏エースって言ってた?」


「言ってたよ。あなたが否定しても、もう遅いんじゃない?」


「撃破数は多くないよ」


「裏だから、撃破数じゃないんでしょ」


結衣が問題集へ視線を落としたまま言った。


「そういうものかな」


「知らない。私がつけた名前じゃないし」


もっともな答えだった。


蒼真が昴の紙のリポルへ取れかけた黄色いテープを貼り直していると、玄関の呼び鈴が鳴った。


美咲は包丁を置き、手を拭いてから廊下へ向かった。やがて玄関の扉が開き、聞き覚えのある男性の声がする。


「急に来て悪かったな」


「本当に急ね。連絡くらいしてよ」


「家にいるか聞いたら、いるって言っただろ」


「五分前にね」


「だから連絡した」


「それは確認って言うの」


美咲と一緒に居間へ入ってきたのは、九条綾人だった。


背は蒼真より少し高く、身体つきもがっしりとしている。若い頃は細身だったらしいが、フレームワーカーを降りた今も、搭乗者だった頃の訓練を続けているのか、肩や腕には厚みがあった。


片手には大きな紙袋を提げている。


「久しぶりだな」


「久しぶり」


蒼真が立ち上がろうとすると、綾人はそのままでいいと手を振った。


「今日は家族サービス中か」


「紙のノストスを直してた」


「お前、整備まで始めたのか?」


「本物は直せないよ」


「そういう意味じゃない」


綾人は床へ座り、昴の前へ紙袋を置いた。


「昴。お土産だ」


「おみやげ!」


袋の中には菓子箱と、子ども向けの工作用紙が入っていた。厚紙、折り紙、色付きのテープが何種類もまとめられている。


昴は紫色の厚紙を見つけると、すぐに取り出した。


「りぽる!」


「それを作ると思って、紫も入れておいた」


「黄色もある!」


「今の機体は、ずいぶん派手だな」


綾人は床に並んだ紙の三機へ目を向けた。


灰色のノストスと紫色のリポルを順番に見たあと、白い三浦機を持ち上げる。


「これは?」


「ばんばんするひと」


昴が答える。


「三浦さんらしいよ」


蒼真が補足すると、綾人の眉がわずかに上がった。


「第一中隊の三浦直人か?」


「知ってるの?」


「現役の頃に何度か一緒に出た。あいつ、まだ先頭を走ってるのか」


「撃破数は一番だって聞いた」


「そうだろうな。昔から、敵を見つけると人が変わったように前へ出た」


「でも、話してみると普通だったよ」


「俺だって普通だっただろ」


美咲が台所へ戻りながら、肩越しに言った。


「昔はね」


綾人の表情が、ほんの少しだけ止まった。


美咲はそれ以上何も言わず、昼食の準備を再開する。


結衣は問題集を閉じ、綾人の近くへ椅子ごと移動した。


「綾人おじさんも、エースだったの?」


「誰から聞いた?」


「お母さん」


「美咲。余計なことを教えるな」


「聞かれたから答えただけ」


「最近、その言い方が流行ってるのか?」


綾人は蒼真を見たが、蒼真にも心当たりがあったため否定できなかった。


「綾人おじさんは、何体倒したの?」


結衣の質問に、綾人はすぐには答えなかった。


昔なら、迷わず数字を言っていた時期がある。


美咲は、その姿を見ていた。


虫を外へ逃がすことさえ他人へ頼んでいた綾人が、モンスターを何体倒したと話すようになった。それが、美咲がフレームワーカーを嫌うようになった理由の一つだった。


「正確には、もう覚えてない」


綾人は白い紙の三浦機を床へ戻した。


「嘘」


結衣が即座に言う。


「どうしてそう思う?」


「エースだったなら、絶対覚えてるでしょ」


「覚えてはいる。でも、今は数えなくていいんだよ」


「何で?」


「倒した数より、一緒に出た人間を覚えていた方がいいと、後から気づいたからだ」


結衣は少し考えたあと、床に並んだ紙の三機を見た。


「お父さんみたい」


「そうか?」


「お父さんも、倒した数を覚えてないよ」


「それは、多分最初から数えてない」


蒼真が答えると、綾人は少し驚いたようにこちらを見た。


「本当に?」


「記録を見れば分かると思うけど、自分では数えてないよ」


「この前の採掘場では?」


「直接倒したのは零。そこは日記へ書いたから覚えてる」


綾人は何かを確かめるように蒼真の顔を見た。


その視線に気づいたが、蒼真には理由が分からなかった。


「ご飯にするよ」


美咲が声をかける。


食卓には、温かいうどんと、綾人が持ってきた稲荷寿司が並べられた。美咲は昼食を用意していたが、一人増えたことで量が足りなくなると考え、紙袋に入っていた稲荷寿司も食卓へ出したらしい。


「それ、お土産なんだけど」


綾人が言う。


「今食べても、お土産はお土産でしょ」


「俺が食べる前提ではなかった」


「持ってきた人が食べちゃ駄目なの?」


「駄目ではない」


「じゃあ座って」


「はい」


元ワーカーのエースは、美咲に言われたまま席へ着いた。


蒼真も自分の椅子へ座る。


「綾人、美咲の言うことをよく聞くね」


「お前もだろ」


「自分は夫だから」


「俺は子どもの頃から知ってるから、もっと逆らえないんだよ」


「二人とも聞こえてるよ」


台所から美咲の声が飛び、二人は同時に黙った。


結衣が笑い、昴も意味が分からないまま笑った。


*


昼食後、結衣は自分の部屋へ戻り、昴は綾人からもらった工作用紙を居間いっぱいに広げていた。


美咲が後片づけをしている間、蒼真と綾人は縁側へ出た。


雨上がりの空気は湿っていたが、窓を閉め切っているより涼しい。庭では、物干し台から落ちた雫が水溜まりへ入り、一定の間隔で小さな音を立てていた。


「煙草は?」


蒼真が尋ねると、綾人は首を横へ振った。


「とっくにやめた。搭乗をやめてから、吸う理由もなくなった」


「搭乗中は吸えないよね」


「そういう意味じゃない。終わったあとに吸ってたんだよ」


「どうして?」


「気持ちを切り替えるためだ。機体から降りて、一本吸い終わるまでは誰とも話さなかった」


「自分は日記かな」


「毎日書いてるのか?」


「うん」


「真面目だな」


綾人は庭へ視線を向けたまま、少し間を置いた。


「紫の幽霊」


「正式名称はリポルだよ」


「知ってる。ニュースで見た」


「なら、そう呼ばなくても」


「それから、帰還中隊。裏エース」


綾人が一つずつ名前を挙げる。


「よく知ってるね」


「現役を辞めても、昔の知り合いは残る。最近は、お前の話を聞かれることが増えた」


「綾人に?」


「九条の親戚に、橘という搭乗者がいるらしいが本当か、とな」


「何て答えてるの?」


「本人は嫌がってるから、放っておけと言ってる」


「助かる」


「でも、全員が放っておくとは思うなよ」


綾人の声から、先ほどまでの軽さが少し消えた。


「三浦と組んだんだろ」


「うん」


「相性がよかった?」


「三浦一尉には、そう言われた。自分としては、合同任務が増えそうで困る」


「増えるだろうな」


綾人は即答した。


「三浦は、一人で敵を倒す人間じゃない。周りを使って、自分が一番早く倒せる場所を作る。そこへ、お前みたいに全体を見て敵を流す人間が入れば、相手は戦いやすい」


「自分は、流しているつもりはないよ」


「退路から離してるだけ?」


三浦と同じことを言われた。


「そう」


「それを戦う側から見れば、自分の前へ敵を運んでもらっているように見えるんだよ」


蒼真は、採掘場で三浦機の前へ戻っていった小型個体を思い出した。


御堂の射線から逃れ、片瀬と安西に坂道を塞がれたため、敵は最下層へ戻った。戻った先に第一中隊がいた。


結果として、三浦の撃破数は増えた。


「綾人も、そういう人と組んだことがある?」


「いたよ。俺が前ばかり見ていた時に、後ろを見てくれる人がいた」


「その人は?」


綾人は答える前に、庭へ落ちる雫を見た。


「俺より先に辞めた」


「怪我で?」


「辞めた理由は、本人から聞いてない。俺が聞かなかったからな」


綾人は自嘲するように笑った。


「当時は、前から敵が来るなら倒せばいいと思ってた。後ろのことは、誰かがやってくれる。倒した数が増えれば、その分だけ被害が減ったと本気で思ってた」


「間違いではないと思う」


「完全な間違いではない。敵を倒さなければ帰れない人もいる。ただ、倒した数だけを見始めると、倒している自分が一番大事な人間に思えてくる」


綾人はそこで初めて、蒼真へ顔を向けた。


「蒼真。敵を倒した時、気持ちよかったか?」


「気持ちいい?」


「上手く動けた。狙いどおりに倒せた。自分ならやれると思ったことは?」


蒼真はすぐには答えなかった。


リポルは、考えた場所へ思ったとおりに動く。敵の攻撃を流し、姿勢を崩し、僚機の射線へ送ることができた時、上手くいったとは感じる。


それが気持ちよかったかと聞かれると、少し違った。


「早く終わって、よかったとは思った」


「倒したことは?」


「そこは、あまり」


「本当に?」


「倒したあと、別の敵や退路を確認するから。後で映像を見るまで、自分が止めたのか、誰かが止めたのか分からないこともある」


「リポルは動かしやすいんだろ?」


「うん。ノストスより速い。必要なところへ間に合える」


「その速さが、自分の力だと思わないのか?」


「機体の性能だよ」


「お前じゃないと、まともに動かせない機体でも?」


「適性がある人は、これから見つかるかもしれない」


綾人は蒼真の顔を見たまま黙った。


やがて、深く息を吐く。


「重症だな」


「何が?」


「そっちの重症なら、まだいい」


意味が分からなかった。


聞き返そうとした時、窓が開いた。


「二人とも、話が長い」


美咲が顔を出す。


「昴が綾人と遊びたがってるよ」


「今行く」


綾人はすぐに立ち上がった。


蒼真も続こうとすると、美咲がこちらを見る。


「蒼真は買い物」


「何を買うの?」


「牛乳と卵。明日の分が足りない」


「綾人は?」


「昴と遊ぶ」


綾人が勝ち誇ったように蒼真を見る。


「すまないな」


「じゃあ、綾人も一緒に行って」


美咲が言う。


「何でだ?」


「車を出して。雨がまた降りそうだから」


「さっきまで俺は、昴と遊ぶ予定だっただろ」


「帰ってきてから遊べばいいでしょ」


「はい」


綾人は抵抗せず、庭へ下りるのをやめた。


「蒼真、行くぞ」


「うん」


「財布を忘れないでね」


美咲に言われ、二人は同時に自分のポケットを確認した。


蒼真は財布を持っていた。


綾人は持っていなかった。


「車にある」


「取ってきて」


「はい」


元エースは、素直に玄関へ向かった。


*


買い物を終えて戻ると、昴は紙のノストスを抱えたまま昼寝をしていた。


せっかく工作用紙を持ってきた綾人は一緒に遊べず、不満そうに居間の椅子へ座る。


「子どもは待たないな」


「起きるまでいればいいよ」


蒼真が言うと、綾人は時計を見た。


「夕方まで寝るかもしれないだろ」


「その時は夕飯を食べていけば?」


美咲が冷蔵庫へ牛乳を入れながら言う。


「いいのか?」


「もう一人分くらい増えても同じだから」


「じゃあ、いる」


決めるのは早かった。


夕方、昴が目を覚ますと、綾人は床へ座って工作を始めた。


白い紙の三浦機を見本にしながら、今度は黒い厚紙を折っている。昴が何を作るのか聞くと、綾人は少し迷ってから答えた。


「昔、俺が乗っていた機体だ」


「つよい?」


「強かったぞ」


「ばんばん?」


「いっぱいした」


綾人はそこまで言い、手を止めた。


美咲は台所で夕食の準備をしながら、その背中を見ている。


昴は黒い紙の機体を覗き込んだ。


「かえった?」


綾人は手にしていた厚紙を見た。


「帰ったよ」


「みんな?」


答えるまでに、少し時間がかかった。


「全員じゃない日もあった」


昴には意味が分からなかったらしい。黒い機体の背中へ黄色いテープを貼りながら、明るい声で言う。


「つぎ、いっしょ」


「そうだな」


綾人は貼られた黄色いテープを剥がさなかった。


蒼真は、少し離れた場所から二人を見ていた。


三浦機。


リポル。


ノストス。


そこへ、綾人の黒い機体が加わった。


四機が並ぶと、昴は端から黄色いテープを渡し、すべての機体をつないでいく。


「これでは動けないんじゃないか?」


綾人が尋ねる。


「いっしょ」


昴は、それだけ答えた。


綾人は何か言いかけたが、口を閉じた。


「そうだな。一緒がいいな」


今度は、訂正しなかった。


*


夕食後、蒼真と結衣が食器を片づけ、綾人は昴と紙の機体で遊んでいた。


美咲は洗い物を終えると、綾人へ声をかけた。


「綾人。少しいい?」


「何だ?」


「台所まで来て」


綾人の表情が、わずかに強張った。


「ここでは駄目なのか?」


「蒼真に聞かれたくない話なら、外でするけど」


「いや。台所でいい」


綾人は床から立ち上がり、美咲の後ろへついていった。


蒼真は食器を拭きながら二人を見たが、何を話すのかは尋ねなかった。


台所の奥で、美咲は声を落とした。


「蒼真、変わった?」


綾人はすぐには答えなかった。


居間では、蒼真が結衣から食器の置き場所を注意されている。昴は黒い紙の機体を持ち上げ、三浦機と向かい合わせていた。


「変わったよ」


綾人は、やがて答えた。


美咲の指先がわずかに止まる。


「やっぱり?」


「以前より周りを見るようになってる。動けない奴がいたら、自分の役割から外れてでも助けに行くかもしれない」


「それは、前からよ」


「そうだったな」


「ほかには?」


「戦うことに慣れ始めてる。自分が前へ出た方が早い時も分かってる」


美咲の表情が硬くなる。


綾人はその変化に気づき、言葉を続けた。


「でも、俺とは違う」


「何が?」


「蒼真は、倒した数を覚えてない。自分が褒められても、周りがいたからだと言う。格好をつけてるんじゃなくて、本気でそう思ってる」


「それが心配なのよ。一人で全部背負うんじゃないかって」


「一人では背負ってないよ」


綾人は居間を見た。


蒼真は結衣に言われ、置き間違えた皿を別の棚へ移している。昴が呼ぶと、途中で手を止めて振り返った。


「美咲が戻してるんだろ。最近、余裕がなかったことも指摘したんじゃないか?」


「蒼真から聞いたの?」


「聞いた。本人は、いつもの自分に戻ったと言ってた」


「私が戻したわけじゃないよ」


「戻る場所を残してる。それで十分だ」


綾人は自分で言ったあと、少し苦い顔をした。


「俺には、それがなかったとは言わない。家族も、仲間もいた。ただ、帰ろうとしなかった。外にいる自分の方が大事になってた」


「綾人」


「だから、蒼真は俺とは違う」


美咲はすぐには安心しなかった。


それでも、張っていた肩から少しだけ力が抜ける。


「本当に?」


「今のところは」


「今のところ?」


「人は変わるからな。絶対とは言えない」


美咲の目が細くなった。


「でも、俺も見ておく」


綾人が慌てて続ける。


「昔の知り合いから話を聞ける。変な使われ方をしそうなら、先に美咲へ知らせる」


「先に?」


「蒼真へ言うより、美咲へ言った方が早いだろ」


美咲は少し考え、頷いた。


「分かった」


「これでいいか?」


「何が?」


「いや……許可が出たのかと」


「私、怒ってないよ」


綾人は眉を寄せた。


「怒ってない時の方が怖いんだよ」


「綾人?」


「何でもない」


二人が居間へ戻ると、蒼真が食器を片づけ終えていた。


「何を話してたの?」


「お前のこと」


綾人が答える。


「自分の?」


「美咲が、お前は変わったかと聞くから」


蒼真は美咲を見た。


「変わった?」


「少しね」


「悪い方に?」


「今のところは大丈夫だって」


「綾人が?」


「ああ。元エースの保証つきだ」


綾人が胸を張ると、美咲が横から言った。


「今のところ、だけどね」


綾人の肩が下がる。


「そこを強調するなよ」


「大事でしょ」


「そうだけど」


蒼真は二人を見比べた。


話の内容は完全には分からない。


それでも、美咲の表情は朝より柔らかくなっている。


「自分も気をつけるよ」


「何を?」


「変わりすぎないように」


「どうやって?」


「分からない」


美咲が笑った。


「なら、私が言う」


「うん。お願い」


綾人が呆れたように蒼真を見た。


「お前、素直だな」


「綾人も、美咲の言うことを聞いてたよね」


「俺は昔から逆らえないんだ」


「自分も同じかもしれない」


「夫婦と従兄を一緒にするな」


「何が違うの?」


「説明すると、また美咲に怒られる気がする」


「怒ってないよ」


美咲が言う。


綾人は姿勢を正した。


「はい」


結衣が廊下から顔を出す。


「綾人おじさん、元エースなのにお母さんに弱いね」


「エースは家の中では何の役にも立たないんだ」


「お父さんも?」


「蒼真は裏エースだから、もっと役に立たない」


「綾人」


美咲に名前を呼ばれ、綾人は口を閉じた。


昴が黒い紙の機体を持ち上げる。


「まま、つよい!」


居間にいた全員が笑った。


美咲だけは、少し呆れた顔をしていた。


*


綾人が帰ったあと、蒼真は日記を開いた。


テーブルの端には、昴が黄色いテープでつないだ四機が並んでいる。


紙のノストス。


リポル。


三浦機。


そして、綾人が昔乗っていた黒い機体。


どの機体も、実物とは違う。


けれど、昴の中では同じ場所へ帰る機体だった。


蒼真は日付を書き、昼間に綾人から聞かれたことを思い出しながらペンを動かした。



---


七月五日。


綾人が家へ来た。


工作用紙と菓子を持ってきた。


昴と一緒に、昔綾人が乗っていた黒い機体を作った。名前は聞かなかった。


綾人は、第一中隊の三浦一尉を知っていた。


現役の頃に、何度か一緒に出動したことがあるらしい。


自分が紫の幽霊、帰還中隊、裏エースと呼ばれていることも知っていた。


昔の知り合いから、自分について聞かれることが増えたと言っていた。


少し困る。


綾人から、敵を倒した時に気持ちよかったかと聞かれた。


早く終わってよかったと思うことはある。


上手く動けたと思うこともある。


ただ、倒したことそのものを気持ちいいと思ったことは、多分ない。


敵を止めた後は、別の敵や味方の位置を確認する。


そのため、誰が倒したのか覚えていないこともある。


綾人は、それならまだいいと言った。


何がいいのかは、よく分からなかった。


美咲は、綾人へ自分が変わったかと聞いたらしい。


少し変わったと言われた。


以前より戦うことに慣れ、前へ出た方が早い時も分かるようになったそうだ。


その通りかもしれない。


ただし、今のところは大丈夫らしい。


美咲が、変わりすぎた時には教えてくれることになった。


綾人も、昔の知り合いから何か聞いたら、美咲へ知らせると言った。


自分へ先に言ってほしい気もする。


でも、美咲へ言った方が早いということには納得できる。


家の中に、連絡網ができたらしい。


自分だけが、最後に知ることになるかもしれない。


少し困る。


今日は、昴と紙の機体を直した。


ノストスの右腕は、あまり動かない。


それでも昴は大丈夫だと言った。


実物も、無理に動かさずに帰す方がいい時がある。


朝に説明したことは、やはり間違っていたと思う。


以上。



---


日記を閉じると、美咲が隣へ座った。


「何を書いたの?」


「綾人が来たこと」


「ほかには?」


「家の中に連絡網ができたこと」


「嫌?」


「自分にも教えてほしい」


「必要なら教えるよ」


「必要かどうかは、誰が決めるの?」


「私」


「やっぱり、美咲が一番上なんだ」


「何か問題ある?」


「ないよ」


蒼真が答えると、美咲は少し笑った。


「綾人と何を話したの?」


「敵を倒した時、気持ちいいかって聞かれた」


「何て答えた?」


「早く終わってよかったとは思うけど、倒したこと自体はあまり気にならないって」


「そう」


「美咲も気になってた?」


「少しだけ」


美咲は、黄色いテープでつながれた四機を見た。


「蒼真」


「うん」


「変わってもいいよ」


「いいの?」


「人は変わるから。ただ、帰ってきて」


「家に?」


「そこも、自分にも」


昨日までの自分と、まったく同じでいることはできない。


現場へ出るたび、見えるものも、できることも増えている。


それでも。


「分かった」


蒼真が答えると、美咲は肩へ額をつけた。


「ならいい」


四機の紙製フレームワーカーは、黄色いテープでつながれたまま、テーブルの上に並んでいた。


*


同時刻。


中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、新たな人物との接触が記録されていた。


九条綾人。


元フレームワーカー搭乗者。


実戦記録多数。


かつて撃破数によるエース評価を受けていた人物であり、橘美咲がフレームワーカーへ忌避感を持つ契機の一つでもある。


九条綾人は、橘蒼真へ戦闘による高揚の有無を確認した。


対象の回答に虚偽反応は認められない。


敵性個体を停止させたことへの高揚は低く、戦闘終了と退避可能状態への移行に対する安堵が優位だった。


自己能力への陶酔は確認されない。


機体性能を自己の能力と同一視する傾向も低い。


一方で、前線での判断速度と戦闘行動への慣れは上昇している。


橘蒼真は変化している。


ただし、その変化は九条綾人が過去に示したものとは一致しない。


九条綾人は、対象を監視する非公式な人的経路へ加わった。


橘美咲。


第三中隊所属者。


整備担当、牧野。


元搭乗者、九条綾人。


対象本人が把握していない複数の観察経路が、家庭と職場の間に形成されつつある。


対象への通知は不要。


観察を継続する。



---


第五十話 終

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