第四十八話 裏にいる人
六月二十三日。
朝から降り続いていた雨は、蒼真が基地へ着く頃には細くなっていた。
格納庫前の舗装には浅い水溜まりがいくつもでき、整備員が運ぶ資材の車輪が通るたびに細かな波紋が広がっている。雲の切れ間は見えず、照明を点けた格納庫の中だけが、雨に沈んだ外より明るかった。
リポルは整備架台に固定され、損傷した左腕の防盾を外されていた。第五中隊との合同任務で中型個体の攻撃を受けた部分は交換が終わり、今は可動部の最終確認が行われている。
少し離れた場所にはノストスが立っていた。
二機とも動かせる状態へ戻りつつあるが、今日の蒼真に搭乗予定はない。午前中は前回の出動記録を確認し、午後から管理局で会議に出ることになっていた。
「おはようございます」
蒼真が声をかけると、リポルの左腕を点検していた牧野が振り返った。
「おはようございます、橘さん。今日は早いですね」
「雨で道路が混むと思って早く出たら、思ったより空いていました」
「それで、まっすぐ格納庫へ?」
「ほかに行くところもないので」
「控室がありますよ」
「まだ誰も来ていませんでした」
牧野は納得したように頷き、リポルの新しい防盾を示した。交換したばかりの表面には傷一つなく、左肩から腕へ続く黄色い識別線も綺麗に塗り直されている。
「リポルは、今日の午後には戻せます。左腕の駆動系にも異常はありませんでした」
「輸送車へぶつかった影響は?」
「接触したのは肩の外装だけです。車両側にも大きな損傷はなかったそうですよ」
「よかったです」
「ただし、あと二メートル押されていたら、車体へ機体の全重量がかかっていました。そちらは、よくありません」
「止めるつもりでした」
「止められなかったから、ぶつかったんですよね?」
「はい」
蒼真が素直に認めると、牧野はそれ以上責めずに端末へ視線を戻した。
「第五中隊の方から、整備班にも連絡がありました。損傷した機体を持ち帰ることができたので、修理記録を残せたそうです」
「現場に置いてきた場合は、記録を取れないんですか?」
「回収班が入れる現場なら可能です。ただ、敵性個体が残っていたり、設備そのものが危険だったりすると、機体をそのまま廃棄することもあります」
牧野はノストスへ目を向けた。
「機体を帰すことにも、意味はあるんですよ。搭乗者が生きていれば、それで十分だと思うこともありますけれど、持ち帰れれば次へ残せますから」
「第五中隊の機体は直りますか?」
「右脚を失った機体には時間がかかりますが、直せます。姿勢制御を損傷した方は、来週には戻るそうです」
蒼真は、旧工場で片瀬機と一緒に支えた機体を思い出した。
片脚を失い、防盾を杖のように使っていた。それでも基地へ戻り、もう一度現場へ出られる状態になる。
朝、昴が遊んでいた紙のリポルも、怪我をしたからノストスに引かれていた。
片脚で立てるかどうかは、関係なかったのだろう。
「牧野さん」
「はい」
「片脚が動く機体でも、引いて帰ることはありますよね」
牧野は少し不思議そうに蒼真を見た。
「もちろんあります。損傷した脚を無理に使えば、内部フレームまで壊れるかもしれませんから」
「そうですよね」
「何か気になることが?」
「昴に、間違ったことを言いました」
「昴君に?」
「紙のリポルが片脚を怪我していたんです。ノストスに引かれていたので、片脚なら自分で歩けるかもしれないと言ってしまって」
牧野は数秒ほど黙ったあと、口元を押さえた。
「笑いました?」
「すみません。少しだけ」
「結衣にも、朝から面倒くさいと言われました」
「それは、言われるかもしれませんね」
「美咲には余裕がなかったんだと言われました」
牧野の笑みが少し薄れた。
「最近は、前へ出ることが増えていますからね」
「でも、今日は戻ったそうです」
「何がですか?」
「いつもの自分に」
牧野は蒼真の顔をしばらく見たあと、穏やかに頷いた。
「それなら、よかったです」
格納庫の入口から片瀬が呼ぶ声が聞こえた。
「橘さん。神代隊長がお呼びです」
蒼真が振り返ると、片瀬は端末を片手に立っていた。いつもの搭乗服ではなく、会議へ出る時の制服を着ている。
「何かありましたか?」
「午前の予定が変わりました。九時から、前回の合同任務について追加の説明があるそうです」
「第五中隊との検証は終わりましたよね」
「現場の検証は終わりました。今日は、その結果をどう使うかという話らしいです」
片瀬の言い方から、本人も詳しい内容を知らされていないことが分かった。
蒼真は牧野へ一度頭を下げ、片瀬とともに会議室へ向かった。
*
会議室には、第三中隊の全員だけでなく、管理局の課長と久賀も来ていた。
第五中隊長の村瀬は別の基地から通信で参加し、そのほかに防衛部門の運用担当者が二人、画面の向こうへ並んでいる。
中央の表示には、合同任務の結果だけでなく、第三中隊が蒼真の正式配属後に出動した全現場の記録がまとめられていた。
蒼真は神代に指定された席へ座り、配布された資料を開いた。
最初の頁には、機体損傷率、搭乗者の負傷率、民間人の救助率、作業員と消防を含む現場関係者の帰還率が並んでいる。数字の意味は分かるが、比較対象として何を求められているのかは、まだ分からない。
全員が揃うと、運用担当者の一人が説明を始めた。
「本日の議題は、第三中隊および現場支援隊員の今後の運用についてです。制度の変更を決定する会議ではありません。これまでの試験運用と、正式運用後に得られた結果を共有し、次期評価へ移行するためのものです」
画面に、二本の折れ線が表示された。
一方は、第三中隊における過去三年間の平均損傷率。もう一方は、蒼真が支援隊員として加わってからの記録だった。
第三中隊の損傷率は、最初の数回を除いて明確に下がっている。現場の危険度が上がっても、機体が回収不能になる例はなかった。
搭乗者の負傷率も同じだった。
「ここまでは、現場支援隊員制度の評価時に確認しています。支援隊員が退避路を維持し、損傷機を早期に後退させることで、前衛機の損傷と搭乗者の負傷を抑制できる。これは制度を正式化した根拠の一つです」
次に表示されたのは、ほかの中隊で運用を始めた支援隊員の記録だった。
どの部隊でも、一定の成果は出ている。
退避判断が早くなり、負傷者を現場へ残す時間も減った。支援隊員が加わる前と比較すれば、どの数値も改善している。
しかし、第三中隊との差は大きかった。
「制度そのものには効果があります。ただし、第三中隊で確認されている数値を、制度全体の標準値として扱うことはできません」
運用担当者がそう言うと、村瀬が通信越しに腕を組んだ。
『橘さんのいる現場だけ、数字が違いすぎるということか』
「その認識で構いません。西部臨海工業地帯の合同任務でも、第三中隊だけでなく第五中隊の損傷機が二機とも回収されました。過去の同条件では、一機以上の放棄が予測されています」
久賀が資料から顔を上げた。
「数字だけを見れば、橘さんの支援範囲が第三中隊以外にも及んだように見えます。ただし、今回は第五中隊が退路の維持を第三中隊へ任せていたため、その影響を分けて評価する必要があります」
「橘さん個人の成果と断定するには、条件が揃っていないということですか?」
課長の問いに、久賀は頷いた。
「はい。敵性個体の位置、現場の設備、第五中隊の判断、第三中隊の連携、そのすべてが結果へ影響しています。橘さん一人のおかげで全員が帰還したと整理すれば、次の現場で誤った期待を生みます」
蒼真は、その説明に安心した。
第五中隊の機体が帰ったのは、自分一人の成果ではない。片瀬が損傷機を支え、安西と御堂が小型個体を止め、第五中隊自身も中型個体を倒した。
「自分も、そう思います」
思わず口を開くと、運用担当者がこちらを見た。
「橘支援員。何についてですか?」
「一人でできたことではありません。第五中隊の機体を道路脇へ移した時も片瀬さんが支えていましたし、中型個体を止めたのは第五中隊です。第三中隊の三人も橋の北側を維持していました」
「その点は承知しています」
「では、問題はないのでは?」
蒼真が尋ねると、村瀬が通信画面の向こうで笑った。
『問題があるとすれば、本人がこれだからだな』
「何がですか?」
『いや、続けてくれ』
運用担当者は咳払いを一つし、画面を切り替えた。
今度は、西部臨海工業地帯で各機が何を見ていたかを示す図だった。第五中隊の視界は中型個体へ集中し、第三中隊の各機は構内道路、配管橋、旧工場の出口を分担している。
リポルの視界だけが、ほぼすべての場所を何度も横切っていた。
「橘支援員が敵性個体を多く撃破したわけではありません。しかし、構内道路へ侵入した小型個体、損傷した第五中隊機、配管の破損、輸送車の移動開始、中型個体の接近を、同じ時間帯に把握しています」
「表示には出ていますから」
「すべての搭乗者に、同じ情報は表示されています」
「なら、ほかの人も見ているのでは?」
「表示されていることと、認識して判断へ使うことは同じではありません」
説明されても、蒼真には大きな違いがあるように思えなかった。
必要な情報を見なければ、現場で何をすればいいのか決められない。敵だけを見ていたら、退避路が塞がったことにも気づけない。
「第五中隊は、敵を止める役割でした。中型個体を見るのは当然だと思います」
『だから、俺たちには後ろを見る余裕がなかった』
村瀬が答えた。
『橘さんが道路を残していると分かっていたから、こちらは中型に集中できた。問題は、あなたが第三中隊だけでなく、俺たちの損傷まで見ていたことだ』
「同じ道路にいたので、見えました」
『見えたからといって、普通は拾わないんだよ』
蒼真は反論しようとしたが、片瀬が小さく首を横へ振った。
今は説明を聞いた方がいいという意味らしい。
運用担当者が話を続けた。
「今回の結果を受け、第三中隊を複数部隊の退路維持と緊急支援へ投入する案が出ています」
蒼真は資料から顔を上げた。
「第三中隊が、ほかの中隊と一緒に出ることが増えるということですか?」
「はい。ただし、常にではありません。民間人の退避、複数部隊による戦闘、設備被害の拡大が同時に予測される現場に限ります」
神代が腕を組んだまま尋ねた。
「第三中隊を増援専門にするつもりか?」
「現時点では評価運用です。第三中隊単独の出動も継続します。難度の高い現場において、貴中隊を後方の統合支援として配置した場合、他部隊にも同じ効果が生じるかを確認します」
「橘を前衛へ出す前提ではないな」
「支援配置が原則です。ただし、現場指揮官が必要と判断した場合、リポルによる前方支援を認めます」
蒼真には、その表現が少し気になった。
「前方支援というのは、前衛と違うんですか?」
運用担当者は答える前に、わずかな間を置いた。
「前衛部隊へ合流し、退路確保、僚機救援、敵性個体の分離を行います。敵の排除を最優先にはしません」
「前に行く支援ということですか?」
「簡単に言えば、そうなります」
結衣に言われたことを思い出した。
第三中隊でも前へ出るなら、第五中隊へ移るのと同じではないか。
確かに、役割の名前が違うだけで、行く場所は前だった。
「嫌そうですね」
片瀬が小声で言った。
「嫌ですよ」
蒼真も声を抑えて答えた。
「でも、断らないんですよね?」
「必要だと言われたら」
「そう答えると思いました」
二人の会話が聞こえたらしく、神代がこちらを見た。
「橘」
「はい」
「意見があるなら言え」
蒼真は少し考えた。
前へ出ることは嫌だ。
戦いたくないという気持ちも変わっていない。
それでも、第五中隊の損傷機が置き去りにならず、搭乗者も一緒に帰れたことはよかったと思っている。
「第三中隊が行くことで、ほかの中隊も帰れる人が増えるなら、評価する意味はあると思います」
運用担当者が頷いた。
「協力するということでよろしいですか?」
「ただ、最初から自分を前に置くのはやめてください」
「必要な場合に限るという条件は維持します」
「なら、分かりました」
隣で安西が小さく息を吐いた。
「橘さんらしいですね」
「何がですか?」
「嫌だと言ってから、やるところです」
「嫌なものは嫌です。でも、必要かどうかは別なので」
御堂が資料を閉じながら、静かに笑った。
「それを両立させられる人は、あまり多くないと思います」
「そうですか?」
「そうですよ」
会議では、その後も指揮系統と出動条件について話し合いが続いた。
合同任務で第三中隊をどこへ配置するのか。支援対象となる部隊は誰へ報告するのか。第三中隊と前衛部隊で判断が割れた時、どちらを優先するのか。
一つずつ確認した末、試験的な運用は神代を統合支援責任者として始めることになった。
蒼真に新しい肩書はつかなかった。
所属も第三中隊のまま変わらない。
ただ、今後は第三中隊が、ほかの部隊を帰すために呼ばれることになる。
会議が終わると、村瀬が通信を切る前に蒼真へ声をかけた。
『第五中隊への異動は断られたが、また一緒に出る機会はありそうだな』
「次は、あまり壊さないでください」
『それは敵に言ってくれ』
「聞いてくれるでしょうか」
『聞かないだろうな』
「では、早めに報告してください」
村瀬は少し驚いたあと、笑った。
『分かった。裏エースに助けを求めるのは癪だが、置いていかれるよりはいい』
今度は、はっきり聞こえた。
「裏エースというのは、自分ですか?」
『ほかに誰がいる』
「表に出ているリポルへ乗ってるのに、裏なんですか?」
村瀬は返事に詰まり、片瀬たちが笑った。
蒼真は冗談のつもりだった。
それがきちんと伝わったらしいことに、少し安心した。
*
会議が終わったあと、蒼真は管理局へ戻る予定だった。
しかし、廊下を歩いていると神代に呼び止められた。
「橘。少しいいか」
「はい」
神代は人気のない打ち合わせスペースへ入り、壁際の端末へ今日の資料を表示した。
そこに出ていたのは、第三中隊の配置案ではない。
ほかの中隊の通信記録から抽出された、非公式な呼称の一覧だった。
帰還中隊。
帰宅部。
紫の幽霊。
そして、裏エース。
「ずいぶん増えましたね」
蒼真が言うと、神代は一番下の名前を指した。
「お前を指している」
「さっき聞きました」
「嫌か」
「少し恥ずかしいです」
「否定はしないのか?」
「否定しても、やめてもらえないでしょう」
「そうだな」
「それに、裏ならニュースには出にくそうなので」
神代が、ほんの少しだけ笑った。
「それでいいのか」
「表のエースになりたいわけではありませんから」
「お前を表へ出したい人間もいる」
神代の声から笑みが消えた。
「リポルの映像は、すでに複数の報道で使われている。紫の機体が前へ出て敵を止め、低い損傷率で帰ってくる。それだけを見れば、分かりやすい英雄だ」
「自分は、バスや輸送車が動くのを待っている時間の方が長いです」
「映像には、その時間が残りにくい」
「結衣にも言われました」
「何と?」
「言わなくていいことまで説明すると、台無しになるそうです」
神代は数秒黙ったあと、視線を資料へ戻した。
「家族には、そう見えているのか」
「結衣はニュースの方が格好いいと思ってます。美咲は、本人が帰ってきているならテレビを消せと言います」
「そうか」
「神代隊長は、どう思いますか?」
「何をだ」
「裏エースという呼び方です」
神代はすぐには答えなかった。
画面に並ぶ非公式な呼称を見たまま、しばらく考える。
「嫌いではない」
「意外です」
「前に出る人間だけが戦っているわけではない。後ろを維持する人間がいなければ、前衛は戻れない」
神代は画面を閉じた。
「ただし、名前に慣れるな」
「どうしてですか?」
「呼ばれ方に合わせて動くようになる」
「裏エースらしく?」
「そうだ。期待へ応えようとすれば、必要のない時まで前へ出る」
蒼真は、自分がそうなるところを想像できなかった。
「多分、大丈夫です。嫌なので」
「それならいい」
神代は打ち合わせスペースを出る前に、もう一度蒼真を見た。
「嫌だと思うことを、忘れるな」
「はい」
その言葉は、牧野が言った「怖い方がいい」と似ていた。
戦いたくない。
前へ出たくない。
その気持ちは、仕事の邪魔になるものではないらしい。
むしろ、残しておく必要がある。
蒼真は少しだけ安心し、管理局へ戻った。
*
帰宅した蒼真は、玄関を開けたところで足を止めた。
床に紙のノストスとリポルが並んでいる。
朝には右脚を怪我していたリポルが、今は透明なテープを何重にも巻かれて立っていた。隣のノストスには、いつの間にか背中へ大きな黄色い紙が貼られている。
「ただいま」
「おかえり!」
居間から昴が走ってきた。
紙のリポルを拾い、蒼真へ見せる。
「なおった」
「直ったんだ」
「うん。すばる、なおした」
「すごいね」
蒼真が膝をつくと、昴は今度はノストスを持ち上げた。
「こっち、せなか」
「黄色いの、何?」
「おふとん」
「ノストスのお布団?」
「けがしたら、ねる」
「そうなんだ」
実物の機体には必要のない装備だった。
それでも、昴のノストスには必要なのだろう。
「リポルも使うの?」
蒼真が尋ねると、昴は紙の布団をノストスから外し、リポルの上へかけた。
「いっしょ」
「二機で使うんだね」
「うん」
朝なら、蒼真は機体の大きさに対して布団が小さすぎると説明していたかもしれない。
今は、黄色い紙の下に二機を並べた。
「これなら、二機とも休めるね」
昴は満足そうに笑った。
「お父さん、今日はちゃんとできたね」
後ろから結衣が言った。
「朝も、できてなかったわけじゃないよ」
「二歳に補助制御を説明してた人が?」
「少し余裕がなかったらしい」
「誰に言われたの?」
「美咲に」
結衣は台所を見た。
「お母さん、やっぱり強いね」
「強いというか、よく見てるんだよ」
「同じじゃない?」
「違うと思う」
台所にいる美咲から声が飛んできた。
「二人とも聞こえてるよ」
「悪い話はしてないよ」
蒼真が答えると、美咲が廊下へ顔を出した。
「何の話?」
「美咲は強いって」
「結衣が言った」
「お父さんも否定してなかった」
「よく見てるって言っただけだよ」
美咲は二人を交互に見たあと、蒼真へ視線を止めた。
「今日は戻ってきたみたいね」
「昨日も戻ったよ」
「今日は昨日より早い」
「そう?」
「うん」
美咲は少し笑い、台所へ戻った。
夕食が始まると、結衣は学校の話を始めた。蒼真が第五中隊と合同で出動する可能性が増えたことも、裏エースと呼ばれ始めたことも、家では話題にならなかった。
美咲も聞かなかった。
今は、結衣の席替えの方が大切だった。
隣の席になった男子が授業中に何度も消しゴムを落とすらしく、それがわざとなのか、本当に不器用なのかを巡って、結衣と美咲の意見が割れている。
「三回はわざとだよ」
結衣が言う。
「緊張してたら、それくらい落とすこともあるでしょ」
美咲は相手を庇った。
「じゃあ、お父さんは?」
突然話を振られ、蒼真は箸を止めた。
「何が?」
「隣の男子が、わざと消しゴムを落としてると思う?」
「拾わなければ、落とさなくなるんじゃない?」
「そういう話じゃない」
「気があるかどうか聞いてるの」
美咲が補足する。
「それは本人に聞かないと分からないよ」
「ほら。朝のお父さんに戻った」
結衣が笑う。
蒼真も意味を理解して、少し笑った。
「でも、勝手に決めるよりはいいでしょ」
「そうだけど、もう少し面白い答えが欲しかった」
「明日まで考えておくよ」
「遅いよ」
家では、答えが遅くても誰も困らない。
それでよかった。
*
夜。
蒼真は居間のテーブルで日記を開いた。
紙のノストスとリポルは、黄色い紙の布団を一緒にかけられ、テーブルの隅へ並んでいる。
二機とも脚の長さが違い、装甲の形も実物とは似ていない。
それでも、どちらも昴にとって大切な機体だった。
蒼真は日付を書き、今日の出来事を振り返った。
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六月二十三日。
西部臨海工業地帯での合同任務について、追加の会議があった。
第三中隊は今後、複数の部隊が出動する現場で、退路の維持と緊急支援を行うことになるかもしれない。
試験的な運用なので、正式に決まったわけではない。
ほかの支援隊員がいる部隊でも、以前より損傷率と負傷率は下がっている。それでも、第三中隊の数字はほかより低いそうだ。
自分がいる現場では、別の中隊も機体を持ち帰ることができていると言われた。
一人でしていることではないと思う。
片瀬さん、安西さん、御堂さんが退路を維持し、神代隊長が全体を見ている。第五中隊も、自分たちで中型個体を倒した。
それでも、第三中隊が行くことで帰れる人が増えるのなら、評価を続ける意味はあると思う。
前へ出ることは増えるかもしれない。
嫌だ。
ただ、必要なら行く。
神代隊長から、嫌だと思うことを忘れるなと言われた。牧野さんから怖くなくなる方が心配だと言われたことと、似ていると思う。
嫌なままでいいらしい。
ほかの中隊から、自分が裏エースと呼ばれていることを知った。
表に出ている紫色の機体へ乗っているのに、裏なのは少しおかしいと思う。
目立ちたいわけではないので、表よりはいい。
家に帰ると、昴が紙のリポルを直していた。ノストスには、怪我をした時に使う布団がついていた。
今日は、機体の仕様を説明しなかった。
二機で一緒に使う布団らしい。
美咲からは、昨日より早く戻ったと言われた。
多分、いつもの自分に戻るまでの時間のことだと思う。
明日は、もう少し早く戻りたい。
以上。
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日記を閉じると、寝室から美咲の声が聞こえた。
「蒼真、まだ?」
「今行く」
「今日は早いね」
「日記が短かったから」
「そういう日もあるの?」
「あるよ」
蒼真は立ち上がり、黄色い紙の布団を少しだけ直した。
二機とも、その下に収まっている。
ノストスも。
リポルも。
昴の中では、どちらが前で、どちらが後ろなのかは決まっていない。
怪我をした方を、もう一方が助ける。
それだけだった。
*
同時刻。
中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、橘蒼真の正式配属後に得られた記録が、ほかの現場支援隊員の運用結果と比較されていた。
制度全体として、支援隊員の配置には明確な効果が確認されている。退避判断は早まり、搭乗者と民間人の負傷率も低下していた。
しかし、第三中隊の結果だけが、その範囲から大きく外れている。
橘蒼真が同行した任務では、僚機の損傷率だけでなく、共同作戦に参加した他部隊の機体損傷率も低下している。回収不能と予測された機体が持ち帰られ、退避不能と予測された人員が生還していた。
撃破数との相関は低い。
橘蒼真が直接排除した敵性個体の数は、前衛部隊のエースと比較して多くない。それでも、現場全体の帰還率は上昇している。
この結果は、機体の性能だけでは説明できない。
リポルは高い戦闘能力を持つが、同型制御によるシミュレーションでは、同じ結果を再現できる搭乗者が確認されていない。ノストスの学習記録を移植した試験でも、支援効率の再現には至らなかった。
第三中隊の連携。
神代の指揮。
片瀬、安西、御堂の判断。
そして、橘蒼真の認識範囲と行動選択。
そのすべてが重なっている。
それでも、橘蒼真が存在する現場では、帰還する人間と機体の数が増える。
非公式呼称《裏エース》は、複数部隊の通信記録で定着し始めていた。
撃破数によって呼ばれるエースではない。
自分だけが生き残る搭乗者でもない。
周囲を帰すことで、結果を残す搭乗者。
分類は、いまだ保留されている。
本人は呼称を恥ずかしいと感じている。
戦闘への高揚はなく、前衛配置への拒否感も維持されている。
家庭内で確認されていた会話反応の硬化は、平常範囲へ戻りつつある。
帰宅後の感情回復時間は短縮した。
観察を継続する。
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第四十八話 終
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感想も頂けましたらありがたいです。
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