第四十七話 帰る数
六月十六日。
朝食を終えた蒼真がネクタイを締めていると、居間の床で遊んでいた昴が、二体の紙製フレームワーカーを持って食卓へやってきた。
右手には灰色のノストス、左手には紫色のリポルが握られている。二機の胴体は黄色いテープでつながれており、ノストスを前へ動かすと、右脚の折れたリポルが床を引きずられながら後ろをついてきた。
「のすとす、ひっぱる」
昴は床に座り、ノストスを少しずつ玄関の方へ進ませた。
「リポルを助けてるの?」
蒼真が尋ねると、昴は大きく頷いた。
「りぽる、けが」
紙のリポルは、膝の部分を何度もテープで留め直されていた。右脚だけが後ろへ折れ、単独では立てない。
「リポルなら、片脚を損傷しても補助制御で立てるかもしれないよ」
蒼真がそう説明すると、昴の手が止まった。
「けが、してる」
「完全に動かないなら、ノストスに引いてもらうことになるけど、片脚だけなら――」
「りぽる、いたいの」
昴は少し強い声で言い、紙のリポルを床へ寝かせた。
そこで蒼真は、自分が二歳の子どもを相手に機体制御の説明をしていたことに気づいた。
「お父さん、朝から面倒くさい」
向かい側でパンを食べていた結衣が、呆れたように言った。
「聞かれたから答えただけだよ」
「誰も片脚で動けるかなんて聞いてないでしょ。昴は、怪我したリポルをノストスが助けてるって言っただけじゃん」
結衣は椅子から降りると、床に寝かされたリポルを起こした。折れた右脚へ触れないようにしながら、ノストスの横へ並べる。
「リポルは怪我をしたので、ノストスに引っ張ってもらってお家へ帰ります」
「かえる!」
昴はすぐに機嫌を直し、二機を再び歩かせ始めた。
今度は結衣がノストスを動かし、昴がリポルを押している。黄色いテープが二機の間で何度も弛んだが、昴は気にする様子もなかった。
蒼真はその姿を見ながら、食卓へ戻った。
何かを間違えたことは分かる。けれど、自分がなぜあんな説明を始めたのかは、うまく分からなかった。
台所にいた美咲は、黙って一連のやり取りを見ていた。
「蒼真、味噌汁が冷めるよ」
「うん」
「今日の帰りは?」
「予定では、いつもどおり」
「分かった」
美咲は仕事の内容を聞かなかった。蒼真も、管理局と基地で待機するだけの予定だとは説明しなかった。
家を出る時、昴は黄色いテープでつながれた二機を玄関まで持ってきた。
「ぱぱ、いってらっしゃい」
「行ってきます」
「いっしょに、かえる」
ノストスもリポルも、昴の両腕へ抱えられている。
「うん。二機とも帰してね」
昴は嬉しそうに頷いた。
*
昼休みが終わる少し前、管理局から第三中隊の基地へ戻った蒼真は、自分の机に見覚えのない菓子箱が置かれていることに気づいた。
包装紙には、先日出動した臨海貨物集積場を運営する物流会社の名前が印刷されている。箱の上には礼状が添えられ、送迎バスに乗っていた人々が全員、仕事や学校へ戻ったことが記されていた。
「第三中隊宛てですね」
蒼真が礼状を読み終えると、隣の机で昼食を取っていた安西が頷いた。
「朝に届きました。橘さんが戻るまで、開けずに待っていたんです」
「先に食べていてもよかったのに」
「そう言うと思いました」
給湯器から戻ってきた片瀬が、湯気の立つカップを机へ置いた。
「礼状の最後に、紫色の機体を操縦されていた方にもよろしく、と書いてありますよ」
「その前に、第三中隊の皆様へ、とあります」
「そこは両方受け取ればいいんじゃないですか?」
片瀬が笑いながら包装紙を外し、御堂が休憩用の棚から小皿を出した。箱の中には、一口大の焼き菓子が隙間なく並んでいる。
「整備班にも持っていきましょう。リポルを動かせるようにしたのは、牧野さんたちですから」
御堂の提案に蒼真は頷き、焼き菓子を一つ受け取った。
礼状には、誰が何体の敵を倒したのかも、新型機がどのように戦ったのかも書かれていない。ただ、あの日に避難した全員が無事に日常へ戻ったことと、それに対する感謝が記されていた。
「いい手紙ですね」
「帰還中隊には、ちょうどいい内容でしょう?」
片瀬が尋ねると、蒼真は焼き菓子を口へ運びながら頷いた。
「帰宅部よりは格好いいですね」
片瀬と安西が同時に蒼真を見た。
「今日は、中隊なので部ではありません、と訂正しないんですか?」
「前にも言ったので、もう分かっているでしょう」
蒼真が少し笑うと、片瀬もつられて笑った。
「分かって言ってたんですね」
「さすがに、そのくらいは分かりますよ」
御堂は小皿を持ったまま、ほっとしたような表情を浮かべた。
「安心しました。橘さんが毎回、本気で訂正しているのかと思っていました」
「自分は、そこまで融通が利かないように見えますか?」
三人は顔を見合わせた。
誰もすぐには答えない。
蒼真がその沈黙の意味を尋ねようとしたところで、控室の警報が鳴った。
蒼真は残っていた焼き菓子を口へ入れ、全員とともに立ち上がった。
*
出動先は、西部臨海工業地帯にある精製施設だった。
隣接する旧工場で敵性個体が確認され、先に第五中隊が出動している。しかし、旧工場から現れた個体と精製施設へ侵入した個体を同時に相手にすることになり、増援が要請された。
精製施設では緊急停止作業が進められている。大半の職員は避難を終えたが、高温流体が通る設備を安全に止めるため、技術者十八人が中央制御棟に残っていた。
格納庫の大型画面には、旧工場と精製施設を上空から見た図が表示されている。
北側にある旧工場と南側の精製施設を、一本の広い構内道路が結んでいた。道路の上には、高温配管を通す橋状の設備が架かっている。この橋の下を通らなければ、精製施設から北側の出口へ戻ることはできない。
「第五中隊は、旧工場で小型個体と交戦中だ。確認された九体のうち二体を排除したが、一機が右脚を損傷している」
神代は画面上に表示された第五中隊機を示し、続いて精製施設の中央制御棟を拡大した。
「残る三機は精製施設へ入り、中型個体へ対応する。第三中隊は構内道路を維持し、技術者の退避と第五中隊の帰路を確保する」
「技術者の移動手段は?」
御堂が尋ねる。
「装甲輸送車が二台ある。停止作業が終わり次第、九人ずつ分乗して道路を北上する」
「配管橋が破損した場合は?」
「内部の温度と圧力次第では、道路が使えなくなる。現在も停止処理中だ。破断すれば、橋の下を通ることはできない」
神代は第三中隊の配置を画面へ重ねた。
片瀬は第五中隊の損傷機を回収し、安西は道路の西側を守る。御堂は東側の貯蔵設備から射線を確保する。神代自身は精製施設側へ入り、輸送車の退避を確認する。
「橘はリポルで道路を維持しろ。配管橋へ敵を近づけるな。技術者と第五中隊が帰る道を、最後まで残せ」
「ノストスではなく、リポルなんですね」
「道路が使える間は、現地車両が動ける。救助装備よりも、敵を短時間で離す能力が必要だ」
「了解しました」
「第五中隊が交戦する中型個体は、あちらの担当だ。状況が見えても、勝手に入るな」
「必要になったら、指示をください」
「そうする」
蒼真はリポルの足元へ向かった。
牧野は右脚の点検口を閉じ、固定部を確認しているところだった。
「前回の損傷は、すべて直っています。識別線も塗り直しましたよ」
「また削れたら、すみません」
「必要な傷なら直します。ただ、通れるからといって、狭い場所へ無理に入るのは控えてくださいね」
「今日は広い構内道路を守るそうです」
「橘さんが本当に道路だけにいてくださるのなら、安心です」
「いる予定です」
牧野は困ったように笑った。
「予定が変わった時には、リポルの幅も思い出してください」
「覚えておきます」
「では、行ってらっしゃい。ちゃんと帰ってきてくださいね」
「はい」
昇降機が上がり始める。
搭乗口へ入る前、蒼真は格納庫の端に立つノストスを見た。
朝、昴は紙のノストスにリポルを引かせていた。
今日出るのは、牽引装置を持たないリポルだ。
もし現場で誰かの機体が動けなくなった時、何ができるのか、その答えは、まだ分からなかった。
*
午後一時三十八分。
第三中隊が現場へ到着すると、旧工場の敷地は白い蒸気に覆われていた。
操業を停止してから長い施設だが、解体前の設備には圧縮空気や洗浄用の蒸気が残されていたらしい。敵性個体によって破壊された配管から白煙が噴き上がり、建物や設備の輪郭を何度も隠している。
その蒸気の中から、第五中隊の一機が後退してきた。
右脚は膝から下が大きく損傷し、足先を地面へつくことができない。機体は防盾を杖のように舗装へ押し当て、上体を傾けながら少しずつ出口へ近づいていた。
さらに奥では、第五中隊の三機が二体の小型個体を押し戻している。
神代は第三中隊を旧工場の入口へ止め、第五中隊から状況を引き継いだ。
『第五中隊長、村瀬だ。旧工場の小型は残り二体。こちらで処理する。精製施設内の中型は中央制御棟の西側にいる。小型一体が構内道路へ抜けた』
「技術者の停止作業は?」
『あと五分の予定だ。三機で中型へ向かう。右脚を失った四番機を頼めるか』
「引き受ける。第三中隊は構内道路と配管橋を確保する」
村瀬の視線を示す表示が、紫色のリポルへ向けられた。
『噂の新型機も来ているのか』
「橘は退路維持だ。中型には当てない」
『あの機体を後ろへ置くのか?』
「お前たちが前衛だろう」
一瞬の沈黙の後、通信の向こうから村瀬の笑い声が聞こえた。
『それもそうだ。退路を頼む』
第五中隊の三機は、一機が小型個体を押さえ、残る二機が南側の精製施設へ向かう形に分かれた。
第三中隊も、それぞれの配置へ移る。
片瀬機は、右脚を失った第五中隊機へ近づいた。相手の左腕を自分の肩へ回し、残された片脚だけで倒れないように支える。
安西機は構内道路の西側へ入り、旧工場と精製施設を結ぶ交差路を監視する。御堂機は東側の貯蔵設備へ上がり、道路全体を見下ろせる位置で銃を構えた。
蒼真は、リポルを構内道路の中央へ進めると、道路の先には、精製施設の中央制御棟が見える。その途中を横切る配管橋の上で、小型個体が太い配管へよじ登ろうとしていた。
敵は前脚の爪を保守用足場へかけ、後脚で支柱を蹴りながら身体を持ち上げている。
狙われている配管には、高温を示す赤い帯が巻かれていた。
『橘、砲は使うな』
神代の指示が入る。
「分かっています」
銃撃で敵を落とせても、外れた弾丸や破片が配管へ当たる可能性がある。近接杭も、敵と一緒に設備を破壊しかねない。
小型個体だけを配管橋から離す必要があった。
蒼真が出力を上げると、リポルは構内道路の中央を一気に加速した。機体の足が地面を蹴るたび、周囲の設備が急速に後方へ流れていく。
配管橋まで五十メートルを切った時、小型個体が橋の上へ身体を持ち上げた。
後脚の爪が配管の表面へ食い込み、細い亀裂が走る。そこから白い蒸気が糸のように漏れ始めた。
橋の高さは、リポルが地上から腕を伸ばしても届かない。跳躍する必要があるが、敵へ正面からぶつかれば、そのまま配管の上へ二体分の重量が落ちる。
蒼真が、橋の左側にある保守用足場へ目を向けると、人間と資材を支えるためのもので、リポルが乗り続けられる強度はなさそうだった。それでも、一歩だけなら使える。
リポルは道路の左端へ寄り、右脚を深く曲げ、地面を蹴って跳び上がり、左足を保守用足場の縁へかける。
金属板が機体の重量で大きくへこみ、固定具が悲鳴のような音を立てた。足場が崩れるより早く、蒼真は左脚を伸ばしてもう一度跳ぶ。
リポルの上半身が、配管橋の高さまで持ち上がった時に、小型個体が振り返り、配管へ立てていた前脚の爪を引き抜き、空中にいるリポルへ飛びかかった。
自分から配管を離れた為、それな ら受け止める必要はない。
リポルは左腕の防盾を下から振り上げ、敵の腹部へ斜めに当てた。正面から打ち返すのではなく、飛びかかってきた軌道を上へ変える。
敵の身体はリポルの頭上を越え、橋の北側へ投げ出され、リポルも橋の上へ降りず、そのまま反対側へ飛び越える。右足から地面へ着き、膝を曲げて落下の衝撃を受け止めながら、上半身を半回転させると、小型個体が背中から落ちてくる。
蒼真は右腕をその身体へ添え、叩き落とすのではなく、配管橋からさらに離れる方向へ勢いを流すと、敵は北側の空き地へ落ち、地面を二度転がった。すぐに前脚を立てようとしたが、リポルは追わずに右へ退いた。
それによって、東側の高所にいる御堂の射線が開き、二発の銃声が響くと、最初の弾丸が小型個体の前脚を撃ち抜き、身体を地面へ傾け、二発目は、露出した胴部の中心へ入り、敵の動きを止めた。
蒼真は配管橋を見上げると爪で傷つけられた場所から蒸気が漏れ続け、亀裂は少しずつ広がっている。
「配管に損傷があります。漏出は小規模ですが、拡大しています」
現地班が設備の状態を確認し、すぐに応じる。
『緊急遮断弁を閉じます。完了まで四分かかります。それまでは橋の下へ長時間留まらないでください』
「退避車両は通れますか?」
『現在の漏出量なら通行可能です。ただし、配管が破断した場合、高温の蒸気は橋の東側へ落ちます』
御堂機がいる側だった。
蒼真が東側へ視線を向けると、御堂はすでに通信を聞き、貯蔵設備から降り始めている。
『道路の西側へ移動します。射線は維持できます』
「お願いします」
御堂機が橋の東側から離れた直後、南側の精製施設で連続した銃声が響いた。
第五中隊が中型個体と接触したらしい。密集する配管設備の隙間に、甲殻で覆われた巨体の一部が見える。第五中隊の二機が左右へ回ろうとしているが、中型個体は貯蔵槽を背にし、一機ずつしか近づけない位置に身体を置いていた頃、中央制御棟の扉が開いた。
停止作業を終えた技術者たちが二列に分かれ、待機している装甲輸送車へ走り始める。一台目へ九人、二台目にも九人が乗り込んだ。
二台が走り出せば、この構内道路を通って北側へ退避する。
蒼真がリポルを配管橋の北側へ戻そうとした時、旧工場の白い蒸気の中から第五中隊の包囲を抜けた小型個体が飛び出してきた。
敵が向かっているのは、片瀬機に支えられた損傷機だった。
第五中隊機は右脚を失い、防盾も半分近く砕けている。片瀬が支えを外せば、道路側へ倒れる可能性が高い。
それでも敵を受け止めるには、片瀬が前へ出るしかなかった。
『片瀬、損傷機を道路脇へ下げろ』
神代の指示に従い、片瀬機が移動を始めようとするが、小型個体はすでに五十メートルほどまで迫っている。
『間に合いません。ここで受けます』
片瀬機が損傷機の腕を自分の肩から外そうとした。
支えを失いかけた第五中隊機の上体が、ゆっくりと道路側へ傾き始める。このまま倒れれば、数分後に来る輸送車の進路を塞ぐ。
蒼真と敵と片瀬機までの距離はリポルからは百五十メートル近く離れており、直線を走っただけでは、わずかに敵の方が早が片瀬に損傷機を置いて戦わせるわけにはいかない。
「片瀬さん。そのまま損傷機を支えてください」
『橘さん、敵が先に来ます』
「上から入ります」
片瀬が聞き返すより早く、リポルは構内道路から外れた。
小型個体と片瀬機の間には、旧工場へ資材を運んでいたベルトコンベアの骨組みが斜めに立っている。地面から十メートルほどの搬入口へ伸び、敵の進路を上から横切っていた。
蒼真はリポルを骨組みの基部へ向かわせ、その傾斜へ左足をかけると、錆びた金属が機体の重量で沈み、接合部から茶色い破片が落ちる。崩れるより早く右足を前へ出し、二歩だけ斜面を駆け上がる。
三歩目を着ける強度はないと判断し、リポルは右足で骨組みを蹴り、構内道路の上へ跳び出した。
眼下では、小型個体が片瀬機へ飛びかかるため、四肢を深く沈めている。
そこへリポルの影が重なった。
敵が顔を上げ、空中にいる紫色の機体へ目を向ける。
蒼真は敵そのものを踏みつけず、その進路上にある舗装へ着地し、両足が地面へ触れた瞬間、コンクリートが砕け、砂と破片が周囲へ噴き上がる。リポルは膝を深く曲げて落下の衝撃を吸収し、前へ倒れようとする上体を起こした。
突然、目の前へ現れた機体を避けようと、小型個体が前脚を捻るが勢いを消すことはできなかった。
敵の爪がリポルの右脚へ当たるが、蒼真は完全に避けず、装甲の傾斜へ爪を滑らせながら、敵の胸部へ左肩を差し入れると小型個体の前脚が地面から浮く。
リポルは右腕を脇の下へ入れ、敵の後脚が地面へついている間に身体を半回転させた。
持ち上げる必要はない。
片瀬機へ向かう進路を、反対側へ変えればいい。
リポルが腕を離すと、小型個体は自分の勢いを残したまま道路の西側へ投げ出された。
そこには、安西機が待っていた。
安西は防盾を地面へ斜めに立て、滑ってきた敵の身体を受け止める。防盾へ衝突した小型個体の上体が持ち上がったところへ、杭撃ちを腹部へ打ち込んだが、一撃では止まらずに、敵は身体を捻り、安西機の右腕へ爪を振るった。
安西が後ろへ引いた瞬間、片瀬機が損傷機を支えたまま右脚を伸ばした。蹴られた敵の身体が防盾から外れ、道路の中央へ転がる。
それによって御堂の射線が開き、一発の弾丸が小型個体の頭部へ入った。
敵の身体が地面へ落ち、そのまま動かなくなった。
「損傷機を移しましょう」
蒼真はリポルを第五中隊機の左側へ入れ、その腕を肩へ回した。反対側からは片瀬機が支える。
戦闘用の出力で強く引けば、損傷していない部分まで壊す可能性がある。蒼真は第五中隊機の傾きを確認しながら、倒れない分だけの力を加えた。
三機は、ゆっくりと道路脇へ動き始める。
壊れた右脚が舗装を擦り、重い金属音が続いた。
『新型機の橘さん、でしたか』
第五中隊機の搭乗者から、個別通信が入る。
「はい」
『すみません。足を引っ張りました』
蒼真は、地面を擦っている右脚を見た。
「今は、自分たちが引っ張っています」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
やがて搭乗者が笑い、片瀬からも声が入る。
『橘さん。今のは狙いました?』
「半分くらいは」
『半分は狙ったんですね』
「この状況で、全部狙って言えたらすごいと思います」
『それは確かに』
笑いが混じったことで、損傷機の搭乗者の声からも少し力が抜けた。
片瀬機とリポルは第五中隊機を道路の西側へ座らせ、二台の輸送車が通れる幅を確保したが、南側では第五中隊と中型個体の戦闘が続いている。
敵は密集した設備の陰を利用し、二機から同時に狙われないよう身体の位置を変えていた。第五中隊は攻撃を重ねているが、決定的な損傷を与えられていない。
『輸送車、中央制御棟を出ます』
技術者を乗せた二台の装甲車が、精製施設から構内道路へ出た。
一台目が先行し、二台目が一定の距離を空けて続く。
蒼真が配管橋の状態へ目を向けると、亀裂から漏れる蒸気が、先ほどより明らかに増えている。白い霧が橋の東側から道路へ降り、金属が内部から押されるような低い音が響いていた。
『緊急遮断、完了まであと一分です』
一台目は、すでに橋の南側まで来ているが、二台目が同じ位置へ来るまで配管が耐えられる保証はない。
「一台目は速度を上げて、そのまま橋を通過してください。二台目は手前で停止を」
『了解しました』
先頭の輸送車が加速し、白い蒸気の降る橋の下へ入った。
高温の水滴が車両の外装を叩く音が、通信へ混じる。表面温度は上昇したが、危険値には達していない。
数秒後、車両は橋の北側へ抜け、二台目が南側で停止すると、その直後に配管橋から大きな破裂音が響き、亀裂が一気に広がり、高温の蒸気が道路へ噴き出した。白い霧が橋の下を覆い、南北の視界を完全に遮断する。
『配管橋、通行不能です!』
一台目は北側へ抜けている。
二台目には、技術者九人が残されていた。
「輸送車の状態を教えてください」
『車両に異常はありません。技術者も全員無事です。ただ、こちらからは橋を通れません』
南側では、まだ第五中隊と中型個体の戦闘が続いている。
『橘、片瀬、安西。橋の南側へ入れ』
神代の指示が飛んだ。
安西が周囲を確認する。
『橋の下は通れません。東側も蒸気で塞がれています』
蒼真は配管橋の西側へ目を向けた。
橋を支える鋼鉄製の柱と、隣接する設備の間に、保守用の細い通路がある。片瀬機と安西機は肩の装備が張り出しているため通れないが、リポルなら機体を横へ向ければ抜けられるかもしれない。
「自分が先に行きます。片瀬さんと安西さんは、蒸気が止まってから橋を渡ってください」
『一人で戦うな』
神代が言う。
「輸送車との間に入るだけです。中型個体は第五中隊が止めています」
『持ち場は輸送車の前だ。敵を倒す必要はない』
「了解しました」
リポルは配管橋の西側へ向かった。
通路の左側には別系統の配管が並び、右側には橋を支える柱がある。左へ触れれば、新たな漏出を起こす可能性があったが接触できるのは、右側だけだった。
蒼真は左腕の防盾を胸元へ畳み、右肩を前へ出した。機体を半身にして、支柱との間へ滑り込ませる。
右肩の装甲が鋼鉄製の柱へ触れ、塗装を削る音が操縦席へ伝わった。左肩と配管の距離は、最も狭い場所で二十センチにも満たない為、歩くたびに上体が左右へ揺れれば、配管へ接触する恐れがある。リポルは足を大きく上げず、足裏を地面からほとんど離さないまま進んだ。右肩を支柱へ沿わせ、それを案内にして身体の位置を保つ。
支柱の継ぎ目へ近づくたび、上体を数度だけ回し、装甲が引っかからない角度へ変えていく。
最後に右脚を前へ滑らせると、リポルの全身が隙間から抜け、配管橋の南側へ出る。
白い蒸気の向こうに、停止した輸送車が見えた。
さらに奥では、中型個体が第五中隊の一機を前脚で弾き飛ばしていた。機体は精製設備の基礎へ背中から衝突し、姿勢を崩して動きを止める。
残る二機が、中型個体と輸送車の間へ入ろうとしたが、敵は二機を避けるように設備の脇を回り、構内道路へ巨体を現した。
中型個体の視線が、九人を乗せた装甲輸送車へ向く。
リポルは、車両の前へ移動した。
背後では輸送車のエンジン音が高まっている。運転手は中央制御棟へ後退しようとしているが、そこへ戻れば逃げ場を失う。
道路の右側には精製施設の設備があり、左側には高温の蒸気を噴き出している配管橋がある。敵を左右へ流せる余地はほとんどなかった。
中型個体が走り始める。
太い四肢が舗装を打つたび、地面が震えた。
右後脚には第五中隊の銃撃を受けた痕があり、その脚が着地するたびに膝の位置がわずかに沈んでいる。
あの脚だけでは、巨体を支えきれない。
蒼真はリポルを前へ出した。
中型個体が左前脚を大きく振り上げるのを見て、蒼真は右肩の短距離砲を起動した。
狙ったのは敵ではなく、左前脚が踏み込もうとしている舗装を狙い、一発だけ撃つ。
弾丸がコンクリートを砕き、着地点に浅い窪みを作り、中型個体は構わず前脚を振り下ろしたが、爪が窪みへ深く入り込んだことで、上体が想定以上に前へ傾いた。傷ついている右後脚では巨体を支えきれず、甲殻に覆われた腰が大きく沈む。
リポルは、振り下ろされた前脚の外側へ踏み込んだ。
完全に避ければ、敵はそのまま輸送車へ向かう。蒼真は左肩の装甲を爪へわずかに触れさせ、その軌道を地面へ向けて滑らせた。
重い衝撃が左肩から機体全体へ伝わる。
蒼真は力に逆らわず、リポルの上体を内側へ回した。傾斜した装甲に沿って流れた爪は砕けた舗装へさらに深く入り、中型個体の胸部がリポルの正面へ開かれる。
蒼真は左腕の防盾を敵の胸部へ当てたが力で押し返すつもりはなかった。正面から受け止めれば、重量で勝る中型個体にリポルが押し潰される。
必要なのは、輸送車へ向かっている勢いを、車両のいない右側へ逃がすことだった。
リポルは右足を軸に腰を回し、防盾を敵の甲殻へ滑らせながら、その進路を少しずつ横へずらしていく。
前進する勢いを奪われないまま向きだけを変えられた中型個体は、輸送車の正面から外れ、道路の右側へよろめいた。
その隙を逃さず、第五中隊の二機が射撃を集中させる。
弾丸が弱っていた右後脚へ次々と当たり、硬い甲殻を砕いていった。ついに脚が内側へ折れると、中型個体の巨体が右へ沈みながらも右前脚を横薙ぎに振るった。
リポルが回避すれば、その先には輸送車がある為に蒼真は逃げる代わりに左腕の防盾を構え、振るわれた前脚を正面から受け止めた。
激突した瞬間、操縦席が大きく揺れた。
防盾を押し込まれたリポルは踏みとどまれず、両足で舗装を削りながら後退する。五メートル、さらに十メートルと押し戻され、背後にある輸送車が急速に近づいてきた。
蒼真は機体の腰を落とし、右足の踵を舗装へ食い込ませた。背部推進器を短く噴射し、後退する力へ逆らう。
それでも、中型個体の重量と勢いを完全には止められなかったせいで、リポルの左肩が、輸送車の前部へ触れた。
車体が大きく揺れ、内部から技術者たちの悲鳴が聞こえる。しかし、接触する直前までリポルが衝撃を吸収していたため、輸送車の装甲に目立った変形はなかった。
《左腕防盾、損傷三一パーセント》
表示を確認した蒼真は、中型個体が前脚を引こうとする動きに気づいた。
力が抜ける瞬間に合わせて防盾を下げると、支えを失った前脚が舗装へ落ちる。リポルはそこへ右腕を差し込み、爪の付け根を下から持ち上げるように押し返した。
前脚が浮き、中型個体の胸部が再び開く。
待っていた第五中隊の二機が、左右から同時に踏み込んだ。一機が胸部の甲殻へ杭撃ちを打ち込み、もう一機が折れた右後脚を完全に払う。
支えを失った中型個体は、今度こそ道路へ横倒しになった。
蒼真は輸送車の前からリポルを退かせ、第五中隊の射線を開けた。立て直した三機が倒れた敵へ照準を合わせ、胸部へ射撃を集中させると連続して撃ち込まれた弾丸が甲殻を砕き、その下にある組織を露出させた。
最後に村瀬機が踏み込む。
構えた杭撃ちが割れた甲殻の中央へ深く入り、重い発射音が精製施設の設備へ反響した。
中型個体の巨体は一度だけ大きく震えたが、前脚が道路へ落ちると、それきり動かなくなった。
敵の停止を確認した直後、配管の緊急遮断が完了した。
橋から激しく噴き出していた蒸気が次第に弱まり、道路を覆っていた白い霧も海から吹く風に押されて薄れていく。その向こうから、橋の北側で待機していた片瀬機と安西機の姿が現れた。
『通行可能です』
現地班の報告を受け、九人の技術者を乗せた輸送車がゆっくりと走り始める。
リポルはその横につき、損傷した左腕を車両から離したまま、配管橋を越えるまで歩調を合わせた。
橋の北側では、先に退避した一台目の輸送車が待っていた。第五中隊の損傷機も片瀬機と安西機に支えられ、構内道路を北へ向かっている。
蒼真は戦術画面を開き、現場にいた人と機体の位置を一つずつ確かめた。
技術者を乗せた二台の輸送車は、どちらも北側へ渡っている。第五中隊は損傷した四機を含めて全機が移動中であり、第三中隊にも取り残された者はいない。
もう、南側には誰も残っていなかった。
全員が帰る方向へ動いている。
そのことを確認してから、蒼真はリポルを北へ向けた。
*
基地へ戻った後、第三中隊と第五中隊による合同検証が行われた。
会議室の中央画面には、精製施設と旧工場の全体図が表示されている。各機が通った経路は色の違う線で示され、紫色の線だけが構内道路と二つの施設の間を何度も往復していた。
第五中隊の四機は、すべて損傷している。右脚を失った機体の損傷率は四十二パーセント。精製施設の基礎へ弾き飛ばされた機体も、三十七パーセントに達していた。
それでも、搭乗者に重傷者はなく、機体も全機が基地へ持ち帰られている。
第五中隊長の村瀬は、記録を最後まで確認すると椅子へ深く背中を預けた。
「第三中隊が帰還中隊と呼ばれている理由が分かった」
「今日は第五中隊も全機帰還した」
神代が答えると、村瀬は画面上に表示された損傷機の経路を指した。
「だから言っている。これまでなら、四番機は現場へ置いていた。中型個体と技術者の退避を優先するなら、右脚を失った機体を回収する余裕はない」
片瀬機とリポルに支えられた四番機の線は、構内道路の端へ移動したあと、全員の最後尾について基地へ戻っている。
「三番機も、姿勢制御を失った時点で放棄を覚悟した。だが、紫の機体が中型の進路を外したことで、立ち上がる時間ができた」
「結果として、全機が帰れました」
蒼真が言うと、村瀬はこちらへ顔を向けた。
「橘さんだったな。今日、あなたは何体倒した?」
「小型一体です。中型個体は第五中隊が倒しました」
「リポルの損傷率は?」
牧野が記録を確認する。
「一一・八パーセントです。左腕防盾の損傷が大部分を占めています」
村瀬は、もう一度画面を見た。
リポルの撃破数は一体にすぎない。それでも、紫色の線が通った場所では、倒れかけた機体が道路脇へ移され、止まっていた輸送車が再び北へ動いている。
「一つ聞いていいか」
村瀬が蒼真へ向き直った。
「はい」
「あなたは、第三中隊と第五中隊のどちらを支援していた?」
質問の意図は分かった。
「最初は、第三中隊の役割として第五中隊を支援していました。途中からは、あまり分けていません」
「分けていない?」
「第五中隊も同じ道から帰りますから。退路を維持するなら、どちらの中隊かは関係ありません」
村瀬はしばらく蒼真を見たあと、神代へ視線を移した。
「橘さんを、第五中隊へ貸してもらえないか?」
「断る」
神代は即答した。
「まだ本人へ聞いていない」
「正式に頼まれても断る」
村瀬が今度は蒼真を見る。
「本人はどうだ? 前衛を一枠空けてもいい」
「勘弁してください」
蒼真も、少し笑いながら答えた。
「今でも予定より前へ出ることが増えているんです。これ以上は困ります」
「前衛は嫌か?」
「嫌ですよ。怖いので」
「今日、中型個体の正面へ入った人間が言うのか」
「輸送車の後ろに九人いましたから。好きで入ったわけではありません」
村瀬は一瞬呆れた顔をしたあと、声を上げて笑った。
「噂どおりだな」
「どんな噂ですか?」
「裏エースは、自分がエースだと思っていない」
「実際、違いますよ。中型個体を倒したのは第五中隊です」
「そこまで含めて、噂どおりだ」
蒼真は片瀬たちへ目を向けた。
三人とも、否定してくれなかった。
*
帰宅すると、玄関で靴を脱ぐより先に、結衣から尋ねられた。
「お父さん、第五中隊に移るの?」
「移らないよ」
「本当に?」
「どうして知ってるの?」
結衣は、居間にいる美咲へ視線を向けた。
美咲は食卓で洗濯物を畳み、昴と結衣の服を分けている。
「片瀬さんから連絡が来たの。第五中隊から誘われたけど、蒼真が断ったって」
「正式な異動の話ではないよ。村瀬さんが、貸してほしいと言っただけ」
「それを引き抜きって言うんじゃない?」
「神代隊長も自分も断ったから、何も変わらないよ」
結衣は安心したように息を吐いた。
「第三中隊なら、前に出なくていいの?」
「必要なら出ることはある」
「じゃあ、第五中隊でも同じじゃん」
「同じではないよ。第三中隊には慣れているし、誰がどんな時に無理をするのかも分かるから」
「お父さんも、無理をする側でしょ」
「自分は必要な範囲で動いてるよ」
「それを無理って言うんじゃないの?」
結衣が笑う。
蒼真は反論を考えたが、うまく思いつかなかった。
「言い返せないんだ」
「考えてるだけ」
「負けた人が言うやつ」
「勝負だったの?」
今朝とは違い、結衣が何を言おうとしているのかは分かった。
蒼真が笑うと、結衣も満足そうに笑った。
夕食中、仕事の話はそれ以上出なかった。
昴は、食卓の下で紙のノストスとリポルを動かしていた。今度はノストスの右脚が折れたらしく、紫色のリポルが前に立っている。
「りぽる、ひっぱる」
昴が言った。
蒼真は、牽引装置のないリポルでは難しいと説明しそうになった。
その言葉を飲み込み、食卓の下を歩く二機を見る。
「今度は、リポルが助けるんだね」
「うん。こうたい」
「交代なんだ」
昴は笑い、二機を玄関の方向へ歩かせた。
「いっしょに、かえる」
「ちゃんと二機とも帰してね」
「うん!」
蒼真が顔を上げると、美咲がこちらを見ていた。
何も言わなかったが、少しだけ笑っている。
*
夜。
日記を書き終えた蒼真が居間の明かりを消そうとすると、美咲が寝室から出てきた。
「まだ起きてたの?」
「今、終わったところ」
「少し話していい?」
「うん」
美咲は向かいの椅子へ座った。
深刻な表情ではないが、すぐに寝室へ戻るつもりでもないらしい。
「蒼真、最近ちょっと余裕がなかったでしょ」
「そう見えた?」
「見えた。今朝の昴との話とか」
蒼真は、紙のリポルに補助制御の説明をしたことを思い出した。
「余計なことを言ったとは思う」
「前のあなたなら、あのリポルを見て、最初に『片脚でも歩ける』とは言わなかった」
「何て言ったと思う?」
「昴に、どこを怪我したのって聞いたんじゃない?」
言われてみれば、その方が自然だった。
紙のノストスには、実物にない黒い目が描かれている。それを間違いだと訂正したことは一度もなかった。
「仕事のことを考えてたのかな」
「家にいても?」
「多分」
「自分では気づいてなかった?」
「普通だと思ってた」
美咲は小さく息を吐いた。
「あなたは、普通に仕事ができて、普通に帰ってきたら、自分は大丈夫だと思うでしょ」
「違うの?」
「大丈夫ではあるよ。でも、余裕がなくなることはある」
美咲はテーブルに置かれた二体の紙細工へ視線を向けた。
「ノストスだけだった時と違って、今はリポルにも乗る。前へ出ることも増えた。周りからは向いてるって言われるけど、あなた自身は戦いたくない」
「うん」
「やりたくないことを、できるからって何度もやってるんだもの。少しくらい余裕もなくなるよ」
蒼真は、第五中隊の中型個体を思い出した。
輸送車の前へ立った時、怖いとは感じなかった。帰ってきた後になって、もし止められなかったらと考えた。
そのことを美咲には話していない。
それでも、美咲は何かが変わったことに気づいている。
「昴に悪いことをしたかな」
「明日も一緒に遊ぶでしょ」
「うん」
「なら大丈夫。二歳の子どもは、あなたより引きずらないから」
「自分は引きずってる?」
「少しね」
美咲は椅子から立ち上がり、蒼真の肩へ手を置いた。
「仕事の顔のまま帰ってきてもいいよ。でも、家にいるうちに戻って」
「どうすればいい?」
「昴と遊んで、結衣に言い負かされて、私の話を聞く」
「最後が一番長そう」
「何か言った?」
「何も」
美咲が笑う。
蒼真も、少し笑った。
「今日は戻った?」
「今はね」
「よかった」
「明日も、ちゃんと戻ってきて」
家へ。
いつもの自分へ。
どちらの意味なのかは聞かなかった。
「うん」
蒼真は美咲と一緒に寝室へ向かった。
*
日記。
---
六月十六日。
臨海貨物集積場の物流会社から、第三中隊へ礼状と菓子が届いた。送迎バスに乗っていた全員が、仕事や学校へ戻ったと書かれていた。
昼休みに菓子を食べようとしたところで、出動になった。明日まで残っていれば食べたい。
今日は、西部臨海工業地帯へ出動した。
精製施設の停止作業をしていた技術者十八人が、二台の装甲輸送車で退避した。全員が無事だった。
第五中隊では二機が大きく損傷したが、搭乗者に重傷者は出なかった。すべての機体を基地まで持ち帰ることができた。
第三中隊も全員帰還した。
自分はリポルで構内道路を維持した。
そこは技術者を乗せた輸送車が通る道であり、前へ出た第五中隊が帰るための道でもあった。
途中で高温配管が破損し、二台目の輸送車が橋の南側に取り残された。中型個体が輸送車へ向かったため、その間へ入った。
リポルは、今回も間に合った。
第五中隊の村瀬さんから、前衛として第五中隊へ来ないかと誘われた。勘弁してほしいと断った。
前衛は嫌だ。
第三中隊でも前へ出ていると、結衣から言われた。
確かに、最近は前へ出ることが増えた。それでも、第三中隊にいたいと思う。
神代隊長が、行くべき時と残るべき時を決めてくれる。片瀬さん、安西さん、御堂さんがどのように動くのかも、以前より分かるようになった。
自分が前へ出た時、誰が後ろを見てくれているのかも分かる。
第五中隊が嫌なわけではない。
第三中隊だから、自分は前へ出ても帰れるのだと思う。
美咲から、最近は少し余裕がなかったと言われた。
自分では普通のつもりだった。
昴の紙のリポルへ、補助制御の説明をしてしまった。二歳の遊びには必要のない説明だった。
美咲は、仕事の顔のまま帰ってきてもいいが、家にいるうちに戻ってほしいと言った。
今日は戻ったらしい。
明日も戻れるようにしたい。
以上。
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*
同時刻。
中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、二個中隊による合同任務の記録が、過去の同規模任務と比較されていた。
同じ条件で予測された搭乗者の重傷者は二・四人であり、放棄される機体は一・七機だった。しかし、実際の重傷者は一人もおらず、現場へ投入された全機が回収されている。精製施設に残っていた技術者も、全員が帰還した。
橘蒼真が直接排除した敵性個体は、小型一体にとどまっている。
その一方で、蒼真が維持した退避経路を利用した人数は三十人に及んだ。支援を受けた第五中隊の二機は、いずれも回収不能と予測される損傷を受けながら、僚機の補助によって基地へ帰還している。
橘蒼真が所属する第三中隊だけではない。
同じ現場へ投入された部隊にも、損耗率の低下が確認された。
対象の影響範囲を、所属する中隊だけに限定することは適切ではない。
前衛としての適性は高く、戦闘能力にも異常値が継続している。それでも蒼真は、前衛への異動を即座に拒否した。
その理由は、戦闘への恐怖だけではない。
指揮系統、僚機の能力、退避経路、支援対象の位置を把握できる環境を優先している。
対象が求めているのは、戦闘による勝利ではない。
現場全体を、帰還できる状態へ近づけることだった。
一方、家庭内では会話反応の硬化と、不要な訂正行動の増加が観測されていた。二機への適応、前線への投入、自己認識と周囲からの評価の乖離が、継続的な緊張を生じさせている可能性が高い。
ただし、家族との対話後、反応は平常範囲へ戻っている。
恐怖は維持されている。
戦闘への高揚は確認されない。
帰宅後の感情回復も確認された。
複数部隊の通信記録では、非公式呼称《裏エース》の使用頻度が上昇している。
本人への通知は不要。
観察を継続する。
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