第四十六話 紫の幽霊
六月二日。
朝食を終えた蒼真がネクタイを締めていると、居間の床で紙を折っていた昴が立ち上がった。
その手には、紫色の紙で作られたリポルが握られている。以前は片腕しかなかった機体に、今は長さの違う両腕と、太い二本の脚がついていた。黄色いテープも胸から肩にかけて貼り足され、実物より随分と賑やかになっている。
「できたの?」
蒼真が尋ねると、昴は首を横へ振り、機体を裏返した。
「まだ、うしろ」
背中には、灰色の紙を丸めて作った筒が二本、透明なテープで固定されている。見慣れた形だった。
「それ、牽引装置?」
「うん」
「リポルにはついてないよ」
昴の手が止まった。
何を言われたのか理解できないような顔で、紙のリポルを見下ろす。やがて床に置いてあったノストスを手に取り、二機の背中を見比べた。
「ないの?」
「リポルは速く動くための機体だからね。ノストスとは、できることが違うんだよ」
「つけたらいい」
「つけると、重くなるかもしれない」
「まきのさん、つける」
「牧野さんでも、勝手にはつけられないと思う」
昴は納得できないらしく、紙の筒をリポルの背中へ押しつけた。テープの固定が甘く、一つが床へ落ちる。
「のすとす、ひっぱる」
「そうだね」
「りぽる、はやい」
「うん」
「いっしょにいく」
昴は床に二機を並べた。
リポルが先頭に立ち、ノストスがその後ろにつく。それを少し動かしてから、今度は二機の位置を入れ替えた。何を考えているのかは分からないが、本人の中では共同作業が始まっているらしい。
「二機で行けたら便利だね」
蒼真が言うと、昴は当然のように頷いた。
「ぱぱ、ふたり」
「お父さんは一人しかいないよ」
「もうひとり、つくる」
「作らなくていいから」
台所で弁当箱を包んでいた美咲が、会話へ入ってきた。
「蒼真が二人いたら、私が困る」
「どうして?」
「一人でも面倒なのに、二人になったら面倒も二倍になるでしょ」
「自分は、そんなに面倒じゃないと思うけど」
「それは私が一人分を片づけてるから言えるの」
美咲は包み終えた弁当を蒼真へ渡した。口調は穏やかだったが、異論を受け付ける様子はない。
向かいでは、結衣が残っていたパンを口へ押し込みながら、二人のやり取りを眺めていた。
「お父さんが二人なら、一人は仕事へ行って、もう一人は家にいればいいじゃん」
「家にいる方も働くのよ」
「家で?」
「掃除、洗濯、買い物、昴の相手。いくらでもあるでしょ」
「じゃあ、家にいるお父さんの方が先に逃げそう」
「逃げないよ」
蒼真が否定すると、結衣は笑った。
「仕事より大変かもしれないよ?」
「そっちは危ないから、って言い続ければいいんでしょ」
「それだけじゃ済まないから」
美咲が即座に訂正した。
家を出る時間になり、蒼真は鞄を持った。昴が紙のノストスとリポルを抱えて玄関までついてくる。
「ぱぱ、きょう、どっち?」
「今日は乗る予定はないよ」
「のらない?」
「乗らないのが一番いいからね」
昴は少し考えてから、二機を自分の胸へ抱き直した。
「じゃあ、おうち」
「家で待ってて」
「うん」
玄関を出る時、紙のノストスから牽引装置が一つ落ちた。
昴が慌てて拾い上げるのを見て、蒼真は扉を閉めた。
*
午前九時十一分。
第三中隊の控室で前回の出動記録を確認していた蒼真は、警報が鳴った瞬間に端末から顔を上げた。
短く鋭い音が、間を置かずに三度続く。
室内にいた片瀬と安西も立ち上がっていた。御堂が壁面の表示を出動情報へ切り替えると、東部臨海貨物集積場の地図が現れた。
確認された敵性個体は七体以上。そのうち一体は中型と推定されている。
現場には物流会社の職員と運転手が多数残っており、避難中の送迎バス一台が中央通路で走行不能になっていた。南側の管理棟にも、職員九名が取り残されている。
神代が控室へ入ってきた。
「説明は格納庫で行う。急げ」
全員が同時に動いた。
格納庫へ入ると、第三中隊の四機はすでに出撃位置へ移されていた。警告灯が赤く点滅する中、整備員たちが最終確認を行っている。
ノストスも格納庫の右側に立っていた。
蒼真がそちらへ向かおうとすると、神代に呼び止められた。
「橘。今日はリポルを使う」
蒼真は、格納庫の中央に立つ紫色の機体へ目を向けた。
「ノストスではなく?」
「現場には大型牽引車が残っている。送迎バスは、そちらで動かせるそうだ。問題は、牽引車とバスの間に敵がいることだ」
中央の大型画面に、上空から撮影された貨物集積場が映し出された。
敷地は、南北に長い長方形をしていた。北側に一般道路へ続く出口があり、南端には三階建ての管理棟が建っている。敷地内にはコンテナが幾重にも積み上げられ、その間を縦横に作業用通路が走っていた。
中央を南北に貫く最も広い通路で、白い送迎バスが斜めに止まっている。前輪が陥没した舗装へ落ち、車体の前部が地面に接触していた。
バスの北側、百メートルほど離れた位置には大型牽引車がある。しかし、両車両の間を三体の小型個体が動き回り、近づくことができない。
中型個体は、バスから南西へ約三百メートル離れた場所にいた。管理棟の西側でコンテナを押し崩し、建物へ近づこうとしている。
「バスには運転手を含めて二十三人。管理棟には九人いる」
神代は現場図の南側を示した。
「片瀬と安西は、中型個体を管理棟から引き離せ。御堂は北東の積載塔へ上がり、両方を援護する。俺は管理棟へ向かい、消防の進入路を作る」
次に、バスと牽引車の間が拡大される。
「橘はリポルで中央通路を確保しろ。牽引車がバスへ到達すれば、あとは現地の人間が動かせる」
「バスを救助するのは、自分ではないんですね」
「そうだ。お前は、救助できる状態を作れ」
蒼真は画面に映る三体の小型個体を見た。
リポルには牽引装置も補助アームもない。バスを引くことも、乗客を一人ずつ運ぶことも難しい。
それでも、敵を退かせれば牽引車が動ける。
運転手と現場職員が、自分たちでバスを救助できる。
「了解しました」
「敵を追いすぎるな。バスと牽引車から離せばいい」
「はい」
「中型の方はこちらで対応する。まず、自分の持ち場を守れ」
念を押された理由は分かっている。
バスを守っている最中に、片瀬や安西が危険になったとしても、勝手に持ち場を離れるなということだ。
蒼真がリポルの足元へ向かうと、牧野が搭乗用昇降機の前で待っていた。
「実戦投入は、今日が初めてですね」
「はい」
「訓練時から操縦系統は変えていません。機体の制御補正も、橘さんの記録を反映した状態です」
「救助用の装備はないんですよね」
「左腕の防盾と、両腕の近接杭、右肩の短距離砲だけです。ただ、手で物を持つことはできます。救助を想定した出力制限はありませんから、人や車両へ触れる場合は注意してください」
「今日は触れない予定です」
牧野がわずかに眉を上げた。
「橘さんの予定は、現場でよく変わりますから」
「今回は、牽引車があります」
「なくならないといいですね」
縁起でもないことを言われたが、反論はできなかった。
牧野は昇降機を起動する前に、紫色の機体を見上げた。
「前回、ノストスに待たされているように感じたとおっしゃいましたよね」
「はい」
「リポルでは、反対になるかもしれません」
「自分が待たせるんですか?」
「それなら問題ありません。怖いのは、待たせることを忘れた時です」
牧野は蒼真へ視線を戻した。
「リポルは、橘さんが動こうと思えばすぐに動きます。迷っている間まで止まってくれるとは限りません。何ができるかではなく、何をしていいのかを決めてから動かしてください」
蒼真は水路でノストスを遅いと感じた瞬間を思い出した。
あの時、頭の中では機体がすでに二歩先へ進んでいた。
リポルなら、本当にそこまで進んでしまう。
「分かりました。先に決めます」
「お願いします」
昇降機が動き始めた。
牧野の姿が下へ遠ざかり、代わりに紫色の胸部装甲が目の前へ近づいてくる。
搭乗口へ入る直前、蒼真は格納庫の端に立つノストスを見た。
今日、灰色の機体はここに残る。
それが正しい選択だったのかは、現場へ行かなければ分からない。
*
午前九時四十七分。
海から吹きつける強い風が、集積場の煙を内陸側へ押し流していた。
倒れた運搬車から燃料が漏れ、中央通路の一部で火災が発生している。黒煙は積み上げられたコンテナの間へ入り込み、視界を何度も遮った。
上空から見た地図では通路が規則正しく並んでいたが、地上ではその印象が変わる。
左右には、五段以上積まれたコンテナの壁がそびえている。いくつかは中型個体に押されて傾き、通路へ張り出していた。無人の運搬車や資材も放置され、直線に見えた道の中にいくつもの障害物がある。
集積場の北側から進入した第三中隊は、最初の交差路で二手に分かれた。
片瀬機と安西機は西側の通路へ入り、中型個体のいる管理棟方向へ向かう。御堂機は北東に設置された積載塔へ向かい、神代機は中央通路から南東へ抜けて管理棟を目指した。
リポルだけが中央通路に残る。
正面の煙の向こうに、停止した送迎バスが見えた。
車体は通路を斜めに塞ぎ、前輪の半分近くが陥没へ落ちている。窓の内側には、身を寄せ合う乗客たちの姿があった。
バスとリポルの間には、小型個体が一体。
残る二体はバスの後方にいて、北側から近づこうとしている牽引車を警戒するように動き回っている。
『橘』
神代の声が通信へ入る。
『牽引車は、通路が開けば前進する。バスとの接続に四分、その後、陥没から引き上げるのに一分程度だ』
「合計五分ですね」
『少なくとも、だ。作業員が外へ出る。近づけさせるな』
「了解」
リポルを前進させる。
蒼真は訓練と同じように、最初の一歩を小さく出すつもりだった。
ところが、足裏が地面を押した感覚が伝わるより先に、紫色の機体は加速へ入っていた。背中を座席へ押しつけられるほどではない。搭乗者へ負担をかけないよう、加速度は精密に制御されている。
それでも、周囲の景色がノストスとは違う速さで後ろへ流れていく。
右側に落ちていた鋼材へ意識を向けると、リポルは蒼真が回避操作を終える前に進路を数十センチ左へずらした。前方の陥没へ視線を移せば、踏み込む位置がすでに変わっている。
機体が勝手に判断しているわけではない。
蒼真の手と足が入力した、ごく小さな動きを拾っている。
水路で感じたような待ち時間は、どこにもなかった。
正面にいた小型個体が、リポルの接近に気づいた。
灰褐色の身体を低く沈め、四肢の爪を舗装へ立てる。その位置からまっすぐ跳べば、リポルの胸部へ届く。
しかし、敵の背後には送迎バスがある。
正面から突き飛ばせば、敵をバスへ近づける。短距離砲も使えない。弾丸が外れなくても、破片が窓へ当たる可能性があった。
蒼真は敵の左側にある隙間へ目を向けた。
左側は、コンテナの壁まで五メートルほど空いている。右側にはバスがあり、通れる余地はほとんどない。敵を左へ誘導し、そのまま壁際へ押し込めば、中央通路が開く。
そう考えた瞬間、リポルが右へ踏み込んだ。
小型個体から見れば、バス側の進路を塞がれたことになる。敵は前脚を捻り、空いている左側へ向きを変えた。
蒼真はさらに右へ寄り、バスと敵の間へ機体を入れる。
小型個体が横を抜けようと跳躍した。
リポルの左腕が上がる。
防盾を正面からぶつければ、敵の身体を傷つけることはできる。しかし、その反動でリポルの足が止まる。
蒼真は防盾の角度を斜めにし、敵の胸部へ縁だけを当てた。
衝撃が左腕から肩へ抜ける。
小型個体の勢いは止まらず、盾の表面を滑るように横へ変わった。敵の身体がリポルの脇を通り過ぎ、そのまま左側のコンテナへ激突する。
鋼板が大きくへこみ、鈍い音が通路へ響いた。
リポルは振り返らない。
敵を倒すことが目的ではない。中央通路から退かせれば、牽引車が進める。
そのままバスへ向かおうとした時、後方にいた二体が動いた。
一体は倒れた仲間を避け、リポルの正面へ回り込む。もう一体は通路の端を走り、牽引車へ向かった。
距離が違う。
正面から来る個体は、あと三秒で届く。
牽引車へ向かう個体はすでに加速を始めており、運転席まで八十メートルもない。こちらを追えば、正面の一体へ背中を見せることになる。
蒼真は二体と牽引車の位置を見た。
自分へ向かう一体を倒してから追えば、間に合わない。
ならば、倒さなければいい。
正面の小型個体が舗装を蹴った。
リポルは速度を落とさず、その個体へ向かっていく。敵が前脚を広げ、肩へ爪を突き立てようとした瞬間、蒼真は機体の重心をわずかに左へ寄せた。
完全には避けない。
爪の正面から肩を外し、装甲の傾斜へ沿わせる。
小型個体の爪が左肩へ触れ、黄色い線を削りながら後ろへ流れた。装甲へ衝撃が走るが、リポルは足を止めない。
《左肩外装、損傷二・一パーセント》
警告を聞きながら、蒼真は牽引車へ向かった個体を追う。
背後では、擦れ違った敵が着地し、すぐにリポルを追い始めている。
前後から挟まれる形になった。
牽引車は停止したまま動けない。運転手が車体を前後させようとしているが、積み上げられた資材に囲まれ、方向を変える余地がなかった。
前方の小型個体が、運転席側へ回り込もうとする。
リポルと敵との距離は、まだ二十メートル近くある。
届く。
蒼真が右足へ力を入れると、リポルは上体を低くし、舗装を蹴った。
一歩で距離が半分に縮む。
二歩目を着く場所には、低い車止めと散乱した固定具があった。ノストスならば速度を落とし、踏める場所を探す必要がある。
リポルは右足を車止めの手前へ着けると、その脚を深く曲げた。身体を沈ませた反動で左へ跳び、固定具が散らばる範囲を一度に越える。
空中で身体を捻り、牽引車と小型個体の間へ着地した。
敵の前脚が振り上げられている。
リポルは右腕を突き出した。
拳で殴るのではなく、開いた手を敵の胸へ添える。衝突の瞬間に腕を引き、勢いを受け止めながら機体全体を右へ回した。
小型個体の身体が、リポルの腕に沿って向きを変える。
そこへ、後ろから追いついたもう一体が跳びかかってきた。
蒼真は、胸元に抱える形になった敵を手放した。
解放された小型個体が、後方から来た個体の進路へ押し出される。
二体は空中で衝突し、四肢を絡ませたまま舗装へ落ちた。勢いを殺せず、互いの身体を引きずりながら牽引車とは反対側へ転がっていく。
リポルは二体を追わず、牽引車へ身体を向けた。
「前進できますか?」
外部回線へ呼びかけると、運転手の荒い息が返ってきた。
『動ける。そっちは大丈夫なのか?』
「通路は空きました。自分が後ろへ入りますので、バスまで進んでください」
『分かった。行くぞ』
牽引車のエンジン音が高まり、黒い排気が上がる。
大型車両がゆっくりと動き始めた。
その背後で、転倒した二体の小型個体が起き上がる。一体は右前脚を引きずっていたが、もう一体には目立った損傷がない。
二体は牽引車の後方へ回ろうと、左右へ分かれた。
リポルは、牽引車との距離を保ちながら後退する。
右へ動いた個体に合わせ、リポルも右へ寄る。敵が足を止めると、リポルも止まる。反対側の一体が左へ回れば、今度は一歩だけ左へ入り、進路の先へ身体を置く。
二体は何度も方向を変えたが、牽引車へ近づくことができない。
蒼真は攻撃していない。
ただ、敵が進もうとする場所へ先に立っている。
リポルの深い紫色は、通路を流れる黒煙の中へ入ると輪郭を失った。肩と胸部、四肢を走る黄色い線だけが煙の表面へ浮かび、左右へ動く。
敵が黄色い線を追って身体を向けるたび、牽引車との距離が開いていく。
御堂から通信が入った。
『橘さん。その位置から三歩、後ろへ下がれますか』
蒼真は積載塔の位置を確認した。
御堂機は北東側の高所にいる。今のリポルが射線を塞いでおり、二体の敵を撃てない。
「下がります。牽引車はそのまま前進してください」
一歩目で、二体がリポルを追う。
二歩目で、敵の身体が牽引車の後方から完全に外れた。
三歩目を着く直前、蒼真はリポルの身体を低くした。
頭上を銃弾が通り抜ける。
最初の一発が、右側の個体の後脚を撃ち抜いた。敵は勢いのまま前へ倒れ、舗装を滑る。
二発目は、左側の個体が身を翻して避けた。
その先には、リポルがいる。
小型個体は御堂機の射線から逃げようとして、リポルの正面へ自ら入ってきた。
右腕の近接杭を使えば、止められる。
蒼真が敵の向こうへ目を向けると、百メートルほど先に送迎バスがあった。杭撃ちの衝撃で敵が飛ばされれば、作業を始める職員へ向かう可能性がある。
リポルは拳を握らず、両腕を開いた。
敵が飛びかかる。
左腕で前脚を受け、右腕を脇の下へ差し入れる。リポルは上体を前へ倒し、敵の勢いを肩の上へ流した。
持ち上げようとはしない。
前へ進もうとする力を利用し、左足を軸に身体を回す。
小型個体の後脚が地面から離れた。
一回転する前に腕を放すと、敵はバスから離れる方向へ投げ出され、横転した無人の運搬車へ背中から衝突した。
車体の側面がへこみ、個体の身体が地面へ落ちる。
そこへ御堂の三発目が入った。
弾丸は露出した腹部を貫き、敵の動きが止まった。
『一体、停止。脚を撃った個体は活動を継続しています』
「位置を確認しました」
残る一体は、損傷した後脚を引きずりながらコンテナの陰へ逃げようとしていた。
追えば、数秒で止められる。
しかし、牽引車はすでにバスへ到着している。現場職員が車外へ出て、バスの下へ牽引用の金具を取りつけようとしていた。
蒼真は敵を追わず、バスとコンテナの間へリポルを移動させた。
「小型個体が一体、通路西側へ移動しました。こちらでは追いません」
『御堂が監視する』
神代から返事が入る。
『橘は作業員を守れ』
「了解」
牽引車から降りた職員は四人だった。
二人がバスの下へ入り、残る二人がワイヤーを送り出す。バスの運転手も車外へ出ようとしたが、蒼真は拡声器で中に残るよう伝えた。
リポルはバスの西側に立ち、敵が消えたコンテナの隙間を見張る。
機体の後方では作業が続いている。
金属同士がぶつかる音。職員たちが互いに指示を出す声。バスの中で泣いている子どもの声も、外部集音器が拾っていた。
その時、南側でコンテナが崩れる轟音が響いた。
視界の端に、中型個体が見える。
片瀬機の防盾を前脚で押し込みながら、管理棟へ向かおうとしていた。安西機が側面から杭撃ちを放つが、甲殻に阻まれ、浅い傷しか与えられない。
中型個体が片瀬機を押し退ける。
数歩下がった片瀬機が、背後のコンテナへ肩をぶつけた。安西機がその前へ出るが、今度は太い前脚を横から受け、左腕が不自然な方向へ折れた。
『安西機、左腕駆動停止!』
御堂の報告が飛ぶ。
リポルなら、数秒で届く。
コンテナの間を抜ければ、中型個体の側面へ入れる。片瀬機と安西機が押さえている間に、後脚を崩すこともできる。
蒼真が右足へ力をかけると、リポルはすぐに重心を前へ移した。
その瞬間、神代の声が届いた。
『橘、動くな』
リポルが止まる。
完全に静止するまで、一歩も必要なかった。
『バスの退避を優先しろ』
「安西機の左腕が動きません」
『搭乗者は無事だ』
「片瀬機も押されています」
『分かっている。お前の持ち場はそこだ』
中型個体の前脚が再び持ち上がる。
片瀬機が防盾を構え、安西機は動く右腕だけで敵の側面へ回ろうとしていた。
蒼真の目には、二人を助けるための道が見えていた。
それでも、リポルを動かさなかった。
背後にはバスがある。
車外へ出た四人の職員は、まだワイヤーを接続している。今ここを離れ、コンテナの陰へ逃げた小型個体が戻ってくれば、彼らは身を守れない。
『橘さん』
安西から通信が入った。
声は落ち着いていた。
『左腕だけです。脚は動きます』
「でも」
『早く報告する約束でしたから、報告しました。助けを求めたわけではありません』
その横から、片瀬の声が続く。
『こちらは二人います。御堂さんも見ています』
『見ていますよ』
御堂が応じた。
『橘さんは、そちらをお願いします』
中型個体が前脚を振り下ろす。
安西機が右へ退き、片瀬機は左から防盾を当てて軌道を変えた。前脚が二機の間を抜け、地面へ突き刺さる。
片瀬と安西は、押されながらも止めている。
蒼真はバスの方を見た。
職員たちがワイヤーを接続し、固定具を確認している。一人が立ち上がり、牽引車へ向かって大きく手を振った。
『接続完了!』
牽引車のエンジン音が高まる。
太いワイヤーが地面から持ち上がり、一直線に張った。
車体が前へ動く。
最初は、バスの前部だけがわずかに揺れた。陥没へ落ちた前輪が縁に引っかかり、タイヤが空転する。
牽引車の運転手が一度力を抜き、再びゆっくりと引く。
ワイヤーが軋む。
バスの車体が傾き、前輪が陥没の斜面を少しずつ登り始めた。
その時、西側のコンテナの陰から、後脚を負傷した小型個体が飛び出した。
敵はリポルではなく、バスの下から退避しようとしている職員へ向かっている。
距離は五十メートル。
リポルが踏み出す。
損傷した敵は、以前より遅い。
それでも人間の足では逃げ切れない。
職員の一人が転倒した。仲間が助け起こそうとして立ち止まる。
「伏せてください!」
拡声器で叫びながら、蒼真はリポルを加速させた。
通路には牽引用のワイヤーが張られている。踏めば切断する可能性がある。バスと牽引車の間を通ることもできない。
リポルはワイヤーの手前で左足を深く沈めた。
右脚が地面を蹴り、紫色の機体が跳び上がる。
牽引車とバスの間を、ワイヤーごと越える。
空中で身体を捻り、敵と職員の間へ向きを変える。
着地した右足が舗装を砕いた。
膝を曲げ、衝撃を吸収する。左足を前へ出しながら身体を起こした時には、敵が目の前まで迫っていた。
小型個体が跳躍する。
背後には職員がいる。
完全に避けることはできない。
リポルは左肩を前へ出し、敵の爪を肩の装甲で受けた。
鋭い衝撃が操縦席を揺らす。
爪が紫色の表面へ食い込み、黄色い線を削る。リポルは踏みとどまらず、衝撃に合わせて上体を後ろへ引いた。
敵の勢いを止めず、そのまま右腕を胴へ回す。
後退した右足が地面を捉えた。
リポルは腰を低くし、敵を抱えた状態で身体を半回転させる。職員とバスを背後から外し、何もない東側の空き地へ向いたところで、両腕を開いた。
小型個体の身体が投げ出され、舗装の上を転がる。
今度は追うことができた。
リポルは敵が起き上がる前に距離を詰め、胸部を右足で地面へ押さえ込む。足裏の荷重を調整し、身体が逃げられない程度に固定した。
右腕の近接杭を敵の胴へ向ける。
杭が撃ち込まれた瞬間、機体の右腕がわずかに跳ねた。
敵の身体から力が抜ける。
《敵性個体、活動停止》
蒼真はすぐに足を退け、職員の状態を確認した。
転倒した一人が仲間に支えられて立ち上がる。足を引きずってはいるが、自力で動けていた。
「怪我はありますか?」
『足を捻っただけだ! 作業は終わってる!』
後方から、別の職員が叫ぶ。
『バスが上がった!』
牽引車の力によって、バスの前輪が陥没から抜けていた。エンジンが再始動し、運転手が慎重にハンドルを戻す。
白い車体が中央通路へ向きを合わせた。
『送迎バス、自走できます!』
「北側出口まで止まらず進んでください。職員の方も牽引車へ乗ってください」
『了解した!』
職員たちが牽引車へ駆け戻る。
バスが先に動き、牽引車が後ろへ続いた。
蒼真は二台が北側の交差路を曲がるまで、その場から動かなかった。
管理棟側では、まだ戦闘が続いている。
片瀬機の防盾は大きくへこみ、安西機は左腕を垂らしたまま右側へ回っている。御堂機の弾丸が中型個体の甲殻へ当たるたび、白い破片が飛ぶが、決定的な損傷にはなっていない。
バスが北側出口へ到達したことを示す表示が出た。
二十三人全員の退避を確認。
「神代隊長。送迎バスの退避が完了しました」
『片瀬と安西を援護しろ』
「了解」
待っていたリポルが、即座に動いた。
*
中型個体まで、直線なら二百六十メートルだった。
しかし、中央通路から西側へ向かう交差路には、横転した運搬車が道を塞いでいる。迂回すれば、コンテナの列を二つ回らなければならない。
リポルなら、横転した車両を越えられる。
そう判断して出力を上げようとした時、運搬車の向こうで積み上げられたコンテナが揺れた。
中型個体が片瀬機を押し込み、その背後にある列へぶつけたためだった。
最下段のコンテナがずれ、上に積まれていた二つが通路側へ傾く。
そのまま進めば、落下地点へ入る。
リポルは右足を強く踏み込み、左へ向きを変えた。
横転した運搬車ではなく、その手前にある狭い作業路へ入る。両側のコンテナとの間隔は、リポルの肩幅よりわずかに広い程度だった。
速度を落とせば、安全に通れる。
だが、その間にも片瀬機が押されている。
蒼真は減速せず、リポルの肩を斜めにした。
右肩を後ろへ引き、左肩を前へ出す。機体を半身にすることで、横幅を狭くする。
紫色の装甲が左側のコンテナへ触れた。
金属同士が擦れる甲高い音が響き、左肩の黄色い線が削れていく。それでも機体を戻さない。接触した装甲を滑らせるように前へ進む。
作業路の出口には、燃料が漏れて燃えている小型運搬車があった。
炎は通路の右半分を覆っている。左へ寄れば、傾いたコンテナの支柱へ接触する。
蒼真はリポルの右腕を上げ、頭部を守った。
炎の中へ踏み込む。
右肩と腕の装甲表面で温度警告が点灯する。視界が一瞬、赤と黒に覆われた。燃えている時間は一秒にも満たない。
リポルは反対側へ抜けた。
先に黒煙から現れたのは、胸と肩を走る黄色い線だった。その後を追うように、紫色の機体が戦場へ姿を見せる。
中型個体との距離は、すでに四十メートルを切っていた。
敵は安西機へ向けていた前脚を止め、頭部をリポルへ向ける。低い唸り声を上げ、太い右前脚を振り上げた。
その脚は、先ほど小型個体が振るった爪よりもはるかに大きい。まともに受ければ、防盾ごと機体を押し潰される。
『橘、正面で受けるな!』
神代の警告が飛ぶ。
「受けません」
中型個体の前脚が振り下ろされる。
爪が空気を裂き、リポルの頭部へ迫った。
蒼真は後ろへ下がらなかった。
右足を敵へ向けたまま、左足だけを外側へ踏み出す。機体の腰を回し、上半身を前脚の軌道から外した。
爪が胸部装甲の数十センチ前を通り過ぎる。
風圧で黒煙が裂け、紫色の表面へ細かな破片が当たった。
前脚は勢いを殺せず、舗装へ突き刺さる。コンクリートが割れ、敵の爪が地面へ食い込んだ。
中型個体は前脚を抜こうと身体を起こす。
そのために重心が前へ移り、反対側の脚へかかる重量がわずかに減った。
リポルは、振り下ろされた前脚の外側を回り込んだ。
敵の肩へ近づくほど、太い前脚の可動範囲から外れる。リポルは左腕の防盾を肩関節の下へ差し入れ、機体の左半身を押しつけた。
「片瀬さん。反対側から押せますか?」
『やります』
片瀬機が敵の右側へ回り、防盾を甲殻へ当てる。
「安西さんは後脚を」
『了解です』
安西機が動く右腕だけで杭撃ちを構え、中型個体の後脚へ向かった。
蒼真がリポルの両脚へ力をかける。
左肩が敵の身体へ沈み込む。リポルの足元で舗装が軋み、細かな亀裂が外へ広がった。
中型個体は前脚を地面から抜こうとするが、爪が深く食い込んでいる。身体を支え直す前に、片瀬機が反対側から押し返す。
巨体が揺れた。
安西機の杭が後脚の関節へ入る。
甲殻が割れ、脚が内側へ折れた。
支えを失った中型個体の身体が、ゆっくりと傾き始める。
それでも倒れない。
敵は地面へ刺さった前脚を支点にし、上体を捻ってリポルを振り払おうとした。甲殻の突起が左肩の防盾へ食い込み、金属が削れる。
《左腕防盾、損傷一四パーセント》
リポルの足が、地面を数十センチ滑った。
蒼真は押す力を緩めた。
抵抗が消えたことで、中型個体の身体がわずかにリポル側へ戻る。
その瞬間に、蒼真は左足を敵の後ろへ入れた。
防盾を肩関節から外し、今度は胴体の下へ差し込む。敵が戻ろうとする力へ合わせ、リポルは腰を持ち上げた。
中型個体の身体が浮く。
完全に持ち上げる必要はない。
後脚を失った側へ、重心を移すだけでいい。
「今です」
片瀬機が防盾を押し込む。
安西機は損傷した後脚をさらに内側へ払った。
三機の動きが同時に重なり、中型個体が横倒しになる。
地響きとともに巨体が落ち、背後に積まれていた空のコンテナへ衝突した。鋼板が内側へ大きくへこみ、隣のコンテナまで押されてずれる。
敵はまだ動いていた。
太い前脚を振り回し、横倒しの状態から起き上がろうとする。
『橘さん、離れてください!』
御堂の声が飛ぶ。
蒼真は片瀬機の防盾を掴み、機体ごと後ろへ引いた。左腕の壊れた安西機は自力で距離を取る。
三機が射線から外れた瞬間、積載塔から銃声が響いた。
一発目が、中型個体の前脚の付け根へ当たる。
二発目も、同じ場所へ入る。
甲殻に亀裂が走り、三発目がその中心を貫いた。割れた甲殻の下から、暗い色の組織が露出する。
神代機が前へ出た。
管理棟にいた九人の退避を消防へ引き継ぎ、戦闘へ戻ってきたらしい。
『離れていろ』
神代機は動きの鈍った前脚を防盾で押さえ、露出した部分へ杭撃ちを向けた。
重い発射音が響く。
杭が深く入り、中型個体の全身が一度だけ大きく痙攣した。
振り回されていた前脚が地面へ落ちる。
《敵性個体、活動停止》
警告表示が消えるまで、誰も近づかなかった。
煙と砂塵が風に流され、倒れた中型個体の全身が見えるようになる。
片瀬機は防盾を失いかけている。
安西機の左腕は、肩から力なく垂れ下がっていた。
神代機にも、管理棟周辺で受けたらしい爪痕が残っている。
それでも、四機とも立っている。
送迎バスは北側出口を通過し、一般道路へ出ていた。管理棟に取り残されていた九人も、消防車両へ収容されている。
第三中隊から、搭乗者の負傷を示す信号は出ていない。
全員が帰れる。
その確認を終えた時、蒼真はようやく操縦席の背もたれへ身体を預けた。
リポルは、まだ動ける。
出力にも、武装にも余裕がある。
けれど、もう動く必要はなかった。
*
帰還したリポルは、格納庫の中央で整備員たちに囲まれた。
左肩の黄色い線には小型個体の爪痕が走り、防盾の縁は中型個体の甲殻に削られている。狭い作業路を通った際の擦過痕も、左半身へ長く残っていた。
右肩と腕は、炎の中を抜けたため黒く変色している。
見た目だけなら、相当な損傷を受けたように見える。
しかし、牧野が算出した全体損傷率は六・四パーセントだった。
「低いですね」
蒼真が言うと、牧野は端末を持ったまま顔を上げた。
「初めて前線へ出た機体で、その数字を低いと言えることが、もう普通ではないんですよ」
「前衛機の平均は、三十パーセントくらいでしたよね」
「平均と比べれば、低すぎます」
牧野はリポルの記録を表示した。
小型個体の爪を左肩で流した場面。牽引車との間へ跳び込んだ場面。ワイヤーを越えて職員を守り、中型個体の前脚を避けた場面。
どこにも、完全な回避を優先した動きはなかった。
「こちらの攻撃は避けられましたよね」
牧野が、小型個体の爪を受けた場面で映像を止める。
「全部避けると、敵が牽引車へ近づきます」
「バスの前でも、左肩で受けています」
「後ろに職員がいました」
「炎の中も通りました」
「迂回すると、片瀬さんたちのところへ着くのが遅れます」
「コンテナには接触しています」
「あの角度なら、肩の外装だけで通れると思いました」
牧野は一つずつ確認したあと、画面を閉じた。
怒ってはいない。
ただ、想定していたより多くのことが、蒼真にとっては当然の判断だったことに困っているようだった。
「リポルは、どうでしたか?」
「速かったです」
「速すぎませんでしたか?」
「最初は少し。でも、途中からは気になりませんでした」
「ノストスの時のように、待たされたとは感じませんでしたか?」
「はい。考えた場所へ、すぐに行けました」
「怖くは?」
蒼真は、牽引作業をしていた職員へ小型個体が向かった時のことを思い出した。
リポルが間に合うことは分かっていた。
それでも、転倒した職員の姿を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「現場では、あまり感じませんでした。今は、少し怖いです」
「それなら、安心しました」
「怖い方がいいんですか?」
「怖くなくなったら、もっと無理をするでしょうから」
牧野はリポルの傷ついた左肩へ触れた。
「ノストスを物足りないと感じた理由は、分かりましたか?」
「分かりました」
「リポルの方がいいですか?」
蒼真はすぐには答えられなかった。
今日、リポルは必要な場所へ間に合った。牽引車も、バスも、作業員も守ることができた。中型個体へ到達するまでの時間も、ノストスより短かったはずだ。
しかし、リポルは送迎バスを引いていない。
実際にバスを助けたのは、牽引車の運転手と現場の職員たちだった。
もし牽引車が壊れていれば、リポルではバスを動かせなかったかもしれない。
「今日は、リポルでよかったと思います」
「今日は?」
「牽引車があったので。なければ、ノストスが必要でした」
牧野は小さく笑った。
「やはり、そう答えるんですね」
「どちらかがいらないとは思えません」
「そうですね。私も、どちらも必要だと思います」
「乗れる人が二人いれば、両方を出せます」
牧野の笑みが、少しだけ困ったものへ変わった。
「また、その話へ戻るんですね」
「違いますか?」
「制度上は、違いませんよ」
否定されなかったので、蒼真はいつか適性者が見つかるのだろうと思った。
*
控室へ戻ると、片瀬が椅子へ深く座り、自分の右肩を回していた。防盾で中型個体を受け続けた影響が残っているらしい。
安西は左腕に軽い打撲があり、救護班から渡された冷却材を当てていた。
「大丈夫ですか?」
蒼真が尋ねると、片瀬は肩を回すのをやめた。
「怪我ではありません。明日、筋肉痛になるくらいです」
「安西さんは?」
「俺も打撲だけです。機体の左腕が先に壊れてくれました」
安西は冷却材の位置を直し、少し笑った。
「今日は、早く報告したでしょう」
「はい。聞こえていました」
「高架道路の時の反省がありますからね。壊れてからでは遅いので、動くうちに報告しました」
「助けに行けなくて、すみません」
蒼真が言うと、安西の表情が変わった。
「謝らないでください。橘さんは、バスを守っていたでしょう」
「リポルなら、すぐに行けました」
「来なかったから、バスが帰れたんです」
片瀬も、椅子から身体を起こした。
「俺たちは、橘さんが来るまで耐えるつもりでした。橘さんは、バスが出るまで残る。その役割分担です」
「二人とも押されていました」
「押されていても、負けたわけではありません」
片瀬は痛むらしい肩を軽く叩いた。
「それに、橘さんがすぐに来ると分かっていたから、少しくらい無理ができました」
「無理はしない方がいいです」
「橘さんが言いますか?」
「自分は、できる範囲で動いています」
「俺たちも同じです」
片瀬に返され、蒼真は言葉に詰まった。
安西が笑い、御堂も端末を持ったまま控室へ入ってきた。
「橘さん。現場映像を見ますか?」
「検証ですか?」
「いいえ。片瀬さんに見せようと思いまして」
御堂は机へ端末を置き、積載塔から記録された映像を再生した。
黒煙が通路を横切り、中型個体と二機の姿を何度も隠している。片瀬機が押し込まれた直後、煙の奥に黄色い線が浮かび上がった。
最初は、何の形か分からない。
黄色い線が急速に近づき、その周囲から紫色の輪郭が現れる。リポルは炎の中から飛び出したように戦場へ入り、中型個体の攻撃をすれすれで避けていた。
「幽霊ですね」
御堂が言う。
「どこがですか?」
「煙の中では、黄色い線しか見えていません」
「本体もあります」
「分かっていますよ」
「なら、幽霊ではありません」
片瀬が映像を指差した。
「問題は、そこではありません。橘さん、なんでここを通ったんですか?」
「迂回すると遠いので」
「この幅ですよ?」
「リポルの肩を斜めにすれば通れました」
「炎もあります」
「耐熱範囲でした」
「映像を見た人が、紫の幽霊と呼び始めても仕方ないですよ」
「正式名称はリポルです」
「そういうところは厳密なんですね」
安西が冷却材を腕へ当てたまま、映像を覗き込んだ。
「第三中隊が帰還中隊で、橘さんが紫の幽霊か」
「自分は生きています」
「知っています」
「なら、違いますよね」
「そういう意味ではないんですよ」
三人が笑う。
蒼真には、やはり何が面白いのか分からなかった。
神代が控室へ入ると、笑い声が止まった。
全員が揃っていることを確認し、今日の被害状況を伝える。
送迎バスに乗っていた二十三人と、管理棟に取り残されていた九人は全員無事だった。牽引作業中に転倒した職員が足首を捻挫したものの、入院の必要はない。
第三中隊にも重傷者はいない。
片瀬機の損傷率は二十七パーセント。安西機は十九パーセント。神代機は十一パーセント、御堂機は三パーセントだった。
リポルは六・四パーセント。
「前衛に出た機体としては、低い」
神代は数字を読み上げたあと、蒼真を見た。
「初めて実戦で使った感想は」
「今日の現場には、リポルが適していたと思います」
「機体の性能について聞いている」
「必要な場所へ間に合いました」
「戦闘は?」
蒼真は少し考えた。
牽引車を狙った敵を止めた。バスへ飛びかかった敵も、作業員へ向かった敵も止めた。中型個体を倒すため、片瀬と安西に合わせて動いた。
それでも、戦ったという実感は薄かった。
「通路を空けて、バスと作業員を守りました。最後に中型個体を倒すのを手伝いました」
「怖かったか」
「後から、少し」
「その感覚は残しておけ」
「はい」
「次にどちらの機体へ乗るかは、任務内容で決める。速いからという理由だけでリポルを出すことはない」
「分かりました。救助装備が必要ならノストスで、敵を早く退かせる必要があればリポルがいいと思います」
「俺たちが決める」
「はい」
「お前の意見も聞く。ただし、最終判断は指揮側だ」
神代の言葉に、蒼真は頷いた。
一人で現場のすべてを知ることはできない。
どちらの機体が必要かも、自分だけで決めない方がいいのだろう。
それでも、二機を同時に使える方法は必要だと思った。
「適性のある人が見つかった場合は――」
「それは見つかってから考えろ」
神代に遮られた。
片瀬が顔を背け、笑いを堪えている。
「何ですか?」
蒼真が尋ねると、片瀬は首を横へ振った。
「何でもありません」
「そうですか」
今日の検証は、それで終わった。
誰も蒼真をエースとは呼ばなかった。
控室を出る時、安西が小さな声で「紫の幽霊」と言ったが、蒼真は聞こえなかったことにした。
*
帰宅すると、昴が紙のリポルを持って玄関まで走ってきた。
「ぱぱ、きょう、どっち?」
「リポル」
「りぽる!」
昴は紙の機体を高く持ち上げた。
「はやかった?」
「速かったよ」
「のすとすは?」
「今日は基地で休んでた」
昴は居間へ戻り、紙のノストスを持ってきた。二機を玄関の床へ並べ、リポルだけを一歩分ほど前へ出す。
「りぽる、おしごと。のすとす、おやすみ」
「そうだね」
「つぎ、いっしょ」
「乗る人が二人いればね」
昴は、朝に落ちた牽引装置を紙のリポルの背中へ押しつけた。今度はテープを何重にも巻いたらしく、簡単には取れそうにない。
美咲が居間から出てきて、蒼真の顔を見た。続いて肩や腕へ視線を動かし、目立った怪我がないことを確かめる。
「おかえり」
「ただいま」
「夕飯、もうできるよ」
それ以上は聞かなかった。
居間のテレビでは、臨海貨物集積場の映像が流れていた。
黒煙の中から紫色の機体が現れ、中型個体へ向かっていく。御堂が見せた映像と同じものだった。
食卓にいた結衣が、テレビと蒼真を見比べる。
「これ、お父さん?」
「リポルだね」
「乗ってるの、お父さんでしょ」
「うん」
「すごく目立ってるよ」
「煙のせいだよ」
「紫と黄色だからでしょ。何か、悪い方の機体に見える」
「敵を倒す機体だから、完全には間違ってない」
「お父さん、これで何体倒したの?」
「何体だったかな」
「覚えてないの?」
「全部を一人で倒したわけじゃないから」
「じゃあ、何をしてたの?」
「牽引車がバスまで行けるようにした。あとは、バスが動くまで待ってた」
結衣は画面に映るリポルを見た。
映像だけなら、派手に戦っているようにしか見えない。
「ニュースと全然違う」
「ニュースには待ってるところが出ないからね」
「そこは言わなくていいと思う」
「どうして?」
「何か、台無しになるから」
美咲が台所から顔を出す。
「本人が帰ってきてるんだから、テレビはもう消して。ご飯にするよ」
結衣は少し不満そうだったが、リモコンを手に取った。
画面の中のリポルが消え、代わりに今日の夕食が食卓へ並べられる。
蒼真には、そちらの方がよかった。
*
夜。
家族が寝静まってから、蒼真は居間のテーブルで日記を開いた。
昴が作った紙のリポルは、ノストスより少し前に置かれていた。今日はリポルが仕事へ行き、ノストスは休みだったかららしい。
背中には、実物にはない牽引装置が二つついている。
蒼真は二機の位置を直さず、今日の日付を書いた。
---
六月二日。
東部臨海貨物集積場へ、リポルで出動した。
リポルで実際の現場へ出たのは、今日が初めてだった。
送迎バスには二十三人、管理棟には九人が取り残されていた。第三中隊で敵性個体を排除し、全員が退避した。第三中隊にも重傷者はなく、全機が帰還した。
自分は、送迎バスまで牽引車が進めるよう、中央通路を確保した。
バスを引いたのは、現場に残っていた牽引車だった。接続作業も、現場の人たちが行った。
自分は、その人たちが仕事をできるように敵を近づけなかった。
それも支援なのだと思う。
リポルは速かった。
敵が牽引車へ向かった時も、作業員へ向かった時も間に合った。ノストスの時に感じたような、機体を待つ時間はなかった。
反対に、今日は自分がリポルを待たせた。
片瀬さんと安西さんが中型個体を止めているのが見えていた。リポルなら、すぐに助けに行けた。
しかし、神代隊長からバスを守るよう指示されていた。
バスの周りでは、四人の職員が外へ出て作業をしていた。自分が離れれば、その人たちを守る機体はいなくなる。
助けに行けるのに、その場へ残るのは難しかった。
安西さんから、助けを求めたわけではないと言われた。片瀬さんからも、こちらは二人いると言われた。
二人を信じて待った。
バスが動いた後は、すぐに助けに行けた。
リポルは、自分が動こうと思えばすぐに動いた。待つと決めた時には、その場に止まっていた。
考えた通りに動く機体だった。
だから、何をするのかを先に決めなければならない。
牧野さんが言っていた意味が、少し分かった。
ノストスとリポルは、できることが違う。
今日の現場にはリポルが必要だったと思う。それでも、牽引車が壊れていたら、ノストスが必要になった。
どちらかだけでいいとは思えない。
乗る人が二人いれば、二機とも出せる。
自分が二人になればいいとは思わない。
美咲が困るから。
以上。
---
最後の一文を書いたあと、蒼真は少し迷った。
仕事の記録としては不要だった。
しかし、日記は報告書ではないので、そのまま残すことにした。
「蒼真、まだ起きてるの?」
寝室から美咲の声が聞こえた。
「もう寝る」
「それ、毎日言ってない?」
「毎日寝てるよ」
「そういう意味じゃない」
美咲が寝室から出てきた。
テーブルに置かれた二体の紙細工を見つけ、リポルの背中を指す。
「それ、ノストスの装備じゃなかった?」
「昴がつけた」
「外さないの?」
「本人は必要だと思ってるから」
「あなたも?」
蒼真は紙のリポルを見た。
今日、牽引車がなければ、バスを動かせなかったかもしれない。リポルにも牽引装置があれば、できることは増える。
「あると便利だと思う」
「牧野さんに言っちゃ駄目よ」
「言わないよ」
美咲は蒼真の顔を見た。
「今、少し考えたでしょ」
「少しだけ」
「そういうところよ」
美咲は呆れたように笑い、寝室へ戻った。
今回も、何が「そういうところ」なのかは説明してもらえなかった。
蒼真は紙のノストスとリポルを並べ直し、居間の明かりを消した。
今日、リポルは敵を倒した。
けれど、蒼真にとって大切だったのは、倒した数ではなかった。
バスへ間に合った。
作業員へ間に合った。
片瀬と安西のところへも、最後には間に合った。
リポルは、戦うための機体だった。
それでも蒼真は、その速さを、帰すために使っていた。
*
同時刻。
中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、リポルの初実戦記録が再生されていた。
橘蒼真の入力に対し、機体制御が介入した割合は〇・八パーセントだった。初めて実戦へ投入された機体としては、想定範囲を大きく下回っている。
リポルの出力と反応速度に、蒼真は遅れることなく追従した。
小型個体三体を排除し、中型個体一体の転倒に寄与している。しかし、蒼真が行った攻撃のすべてに、退避経路の確保、救助作業者の保護、僚機の援護という目的が確認された。
撃破そのものを目的とした行動は、一度もない。
中型個体への救援が可能だった時間帯にも、蒼真は神代の命令に従い、送迎バスの退避が完了するまで持ち場を離れなかった。
片瀬機と安西機の損傷率は上昇したが、二機とも自力で帰還している。
民間人三十二名も帰還した。
リポルの損傷率は六・四パーセント。前衛機として想定されていた損傷率を、大幅に下回っていた。
戦闘への高揚は確認されない。
撃破数への関心も、戦闘を継続しようとする欲求も低いままだった。
蒼真がリポルの性能を求める理由は、他者へ到達する時間を短縮することに限定されている。
エース適性は上昇した。
支援行動の特性に変化はない。
二つの評価は、初めて同じ方向を示した。
現場の記録には、非公式な呼称も残されていた。
紫の幽霊。
本人は、その名を否定している。
非公開解析領域は呼称だけを保存し、本人への通知を不要と判断した。
観察は継続される。
---
第四十六話 終
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