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第四十五話 知ってしまった速さ

五月二十六日。


午前十時四十二分。


蒼真は管理局の会議室で、東部地域における復旧工事の進捗報告を聞いていた。


中央の画面には、前月まで立入禁止区域だった場所が色分けされている。安全確認を終えた区域は青、作業中の区域は黄色、敵性個体の痕跡が残っている場所は赤。その赤が、以前より少なくなっている。


説明を担当していた職員が次の資料へ切り替えた時、蒼真の端末が机の上で短く震えた。


会議中の連絡は振動だけに設定してある。私的な連絡なら後で確認するところだが、画面に表示されたのは第三中隊の招集通知だった。


東部第三区の雨水排水路で敵性個体が確認され、現場から避難していた作業員のうち、二人の所在が分からなくなっている。


蒼真は画面を一度読み直し、説明が途切れるのを待ってから立ち上がった。


「すみません。第三中隊から招集が入りました」


課長は驚く様子もなく、蒼真の端末へ目を向けた。


「場所は?」


「東部第三区です。雨水排水路の工事現場で、作業員二名が取り残されている可能性があります」


「分かりました。こちらは続けますから、行ってください」


向かいに座っていた藤堂が、蒼真の手元にある資料を引き取った。


「午後の打ち合わせはこちらで対応します。現地の件が早く終わっても、管理局へ戻る必要はありません」


「助かります。森下さんと久賀さんにも共有をお願いします」


「承知しました。お気をつけて」


久賀はすでに施工会社から送られてきた現場情報を確認していた。蒼真が鞄へ端末を入れようとすると、崩落前の作業員配置図を転送してくる。


「一人は仮設通路の中ほどで資材確認をしていました。もう一人は排水路内の点検に入っていたようです。現地班も混乱していますから、位置情報をそのまま信用しないでください」


「分かりました。最後に姿を見た人の証言はありますか?」


「現在、消防が確認しています。情報がまとまり次第、森下さんから送ります」


会議室を出ようとした蒼真へ、今度は森下が予備の通信端末を差し出した。


「管理局の現地班へ直接つながります。施工会社の責任者も同じ回線に入る予定です」


「ありがとう。会議を止めてしまって、すみません」


「止めたのは橘さんではありませんよ」


森下はそう言い、早く行くように扉を開けた。


蒼真が退室すると、背後ですぐに会議が再開された。


自分がいなくても、管理局の仕事は進む。


そのことに安心しながら、蒼真は基地へ向かった。


*


基地へ到着した時には、第三中隊の四機が格納庫の外へ移されていた。


ノストスも出撃位置に立ち、整備員たちが牽引装置の固定部を確認している。その少し奥では、深い紫色のリポルが整備架台に載せられ、脚部の装甲を外されていた。


蒼真は搭乗服へ着替えながら、リポルの状態を見た。


「リポルは使えないんですか?」


質問に答えたのは、ノストスの右脚を確認していた牧野だった。


「関節部の負荷測定が終わっていません。実戦投入前に必要な検査ですので、今日はノストスでお願いします」


「分かりました」


返事をした瞬間、蒼真は自分が少し安心していることに気づいた。


リポルは速い。操縦者の意思を待たず、考えた動きへすぐに入れる。それでも、実際の救助現場で何ができるかについては、まだ十分に知らない。


その点、ノストスのことなら分かっている。


牽引装置でどの程度の重量を支えられるのか。補助アームで人間を持ち上げる時、どこまで力を弱めなければならないのか。足元が不安定な場所で、機体をどの角度まで傾けられるのか。


今日のように作業員が取り残されているのなら、ノストスの方がいい。


「先日の修理後試験では、すべて正常でした」


牧野は蒼真の表情を確認してから、説明を続けた。


「右肩の外装だけでなく、腰部と脚部の調整も終わっています。牽引装置の冷却能力も少し上げましたが、前回のような使い方をすれば、やはり過熱します」


「今回は、バスを支えながら僚機を引く予定はありません」


「現場へ着く前の予定は、あまり当てになりませんから」


牧野の口調は穏やかだったが、言っていることは正しかった。


高架道路へ出動した時も、バスを支えながら安西機を引くことになるとは思っていなかった。


「無理をさせる時は、先に報告します」


「できれば、無理をさせないでくださいね」


「努力します」


「そこは、そう答えるんですね」


牧野は困ったように笑い、ノストスの足元から離れた。


間もなく神代から招集がかかり、全員が格納庫内の大型画面前へ集まった。


画面に映し出された排水路は、高架道路と住宅地に挟まれた細長い工事現場だった。地上から地下の水路へ下りる斜面には仮設通路が組まれているが、その中央部分が崩れ、鋼材が水路の入口付近まで散乱している。


敵性個体は、確認できただけで四体。地上へ出た直後に作業員の避難が始まったものの、その最中に仮設通路が崩落した。崩壊に巻き込まれた作業員一名からは救難信号が出ているが、排水路内部にいたもう一名とは連絡が取れていない。


「現地では消防と警察が避難区域を広げている。俺たちが到着するまで、敵性個体への接近はさせない」


神代は地上に残る一体を指し、その後、水路の入口へ表示を移した。


「片瀬と安西は地上の個体を排除。御堂は高架道路側から援護しろ。住宅地側へは撃つな。俺は水路入口を確保する」


最後に、崩れた仮設通路の位置が拡大された。


「橘は救助を優先。足場下の一名を確保したあと、水路へ入る。内部に敵性個体がいた場合は、俺が前に出る」


「作業員を発見した後、戦闘になった場合は?」


蒼真が尋ねると、神代はすぐに答えた。


「作業員を連れて戻れ。敵を倒す必要はない」


「了解しました」


「今回、リポルは出せない。ノストスの速度で間に合うよう、俺たちが前を止める」


いつもと変わらない指示だった。


蒼真も、その言葉に疑問を持たなかった。


ノストスの速度で間に合わないと思ったことなど、今まで一度もなかった。


*


第三中隊が東部第三区へ到着した頃には、空が厚い雲に覆われていた。


上流ではすでに雨が降っているらしく、排水路を流れる水が少しずつ濁り始めている。地上の作業区域には、放置された工具やヘルメットが残されていた。規制線の外へ避難した作業員たちは、消防隊員に止められながらも、崩れた通路から目を離せずにいる。


一人が、まだ下にいる。


自分たちだけが安全な場所へ戻ったことを、納得できていないのだろう。


排水路の縁では、灰褐色の小型個体が低い姿勢で周囲を窺っていた。警備車両の側面には爪痕が残され、運転席側の扉が内側へ歪んでいる。


『配置につけ』


神代の指示と同時に、片瀬機と安西機が左右へ分かれた。


小型個体は二機を交互に見たあと、足場の崩落地点へ逃げようとした。片瀬機がその進路へ入り、防盾を前へ出す。敵は防盾へ衝突する直前に身体を捻り、片瀬機の肩を越えようと跳躍した。


安西機が横から腕を伸ばし、空中にいた個体を地面へ叩き落とす。


『御堂、撃てるか』


『住宅地が近い。二機分、右へ動かしてください』


片瀬と安西が敵を挟んだまま、高架道路側へ押し込む。住宅地から射線が外れた瞬間、御堂機の銃声が一発だけ響いた。


小型個体の肩が砕け、跳ね上がった身体を片瀬機が防盾で地面へ押さえ込む。安西機の杭撃ちが胴部へ入り、敵の動きが止まった。


地上の戦闘が終わるより早く、ノストスは崩れた通路へ到着していた。


折れ曲がった鋼材の下から、弱い救難信号が発信されている。上から見ただけでは作業員の姿を確認できない。足場板と資材が幾重にも重なり、どれか一本を不用意に動かせば、全体がさらに沈む状態だった。


蒼真はノストスを斜面へ踏み入れる前に止めた。地面には崩落によってできた亀裂が走り、その一部から水が染み出している。


機体を近づけすぎれば、ノストスの重さで斜面そのものが崩れるかもしれない。


「救難信号を確認しました。崩落地点の中央より少し下です。ただ、斜面へ直接入るのは危険です」


管理局の現地責任者が答える。


『通路の基礎杭が二本抜けています。残った杭も荷重に耐えられるか分かりません』


「図面にない支持材はありますか?」


『左側に旧工事用の固定基礎があります。撤去予定でしたが、まだ残っています』


蒼真が周辺映像を拡大すると、土に半分埋まった固定金具が見つかった。ノストスの牽引装置を撃ち込み、接続強度を確かめる。


一本目のワイヤーを張り、自機の重量を斜面ではなく固定基礎へ逃がす。足元の圧力表示が下がったことを確認してから、蒼真はノストスをゆっくりと前へ進めた。


斜面の土が沈み、濁った水が機体の足元へ流れ込む。


救難信号の真上で立ち止まると、補助アームを使って鋼材を一本ずつ持ち上げた。引き抜くのではなく、絡んでいる部分を少し浮かせ、別の補助アームで下の資材を支えてから横へずらしていく。


やがて、重なった足場板の隙間に橙色の作業服が見えた。


男性作業員が横向きに倒れている。右脚を鋼材に挟まれ、上半身にも足場板が覆いかぶさっていた。


蒼真が外部拡声器から声をかけると、作業員の手がわずかに動いた。


「第三中隊です。聞こえますか?」


返事はなかったが、指先がもう一度動く。


意識はある。


「今から上の資材を動かします。身体を動かさず、そのまま待ってください」


後方で待機していた消防隊員が、ノストスの作業によってできた隙間へ近づく。鋼材を支える補助アームが少しでも動けば、隊員まで巻き込まれる。


蒼真は息を整え、表示された荷重を見ながら右腕の位置を調整した。


先日の試験で感じた通り、ノストスは以前より素直に動いた。蒼真が次に荷重を逃がしたい方向を、機体が先に理解している。補助アームの角度も、一度の入力で必要な位置へ収まった。


やはり、ノストスでよかった。


リポルの出力なら足場全体を持ち上げることもできたかもしれない。けれど、人が挟まれている場所で必要なのは、強さよりも細かさだった。


消防隊員が作業員の身体へ手を入れ、傷の状態を確認する。


『右脚を固定します。資材をあと五センチだけ上げられますか』


「上げます。合図してください」


『お願いします』


蒼真は補助アームの力を少しずつ強めた。


作業員の脚を挟んでいた鋼材が持ち上がる。消防隊員が身体を引き出し、担架へ移したところで、蒼真はゆっくりと荷重を戻した。


作業員は意識を取り戻し、掠れた声で何かを訴えている。


消防から報告が入った。


『右脚を負傷していますが、生命に危険はありません。中に残っている同僚のことを気にしています』


「中の作業員の位置は分かりますか?」


『排水路の点検口付近へ入ったのを見たそうです。崩落の直前まで通信していました』


排水路の奥にある点検口は、入口から二百メートルほど離れている。水路は途中で緩やかに曲がっており、地上から内部を見ることはできない。


神代機が斜面の下で水路入口を確認していた。


『敵性反応が二つある。どちらも水路内部だ』


「作業員の反応は?」


『さらに奥だ。信号は弱いが、消えてはいない』


ノストスは一人目を助けるため、牽引装置の一基を固定基礎へつないでいる。蒼真は崩落した足場が安定していることを消防へ確認し、ワイヤーを巻き取った。


もう一人を連れて帰る。


そのためには、水路へ入らなければならない。


*


排水路へ下りる斜面は、近くで見ると地上から想像した以上に崩れていた。


仮設通路の支柱が何本も抜け、土砂と一緒に水路へ滑り落ちている。神代機が先に下り、ノストスが通れるだけの幅を確保した。


『俺が前へ出る。橘は五十メートル空けろ』


「了解」


二機が水路へ入ると、外から聞こえていた重機や消防車の音が遠くなった。


代わりに、壁と壁の間を流れる水音が大きくなる。ノストスの足が水底の泥を踏むたび、濁った水が扇状に広がり、コンクリートの壁へ当たって戻ってきた。


天井は高いものの、左右に避けられる空間は狭い。神代機と並んで戦える幅はなく、後ろから射撃することもできない。


神代が進む先に、弱い敵性反応が二つ表示されている。


反応は動いていない。


崩落に巻き込まれたのか、それとも待ち伏せているのかは分からない。


曲がり角まで残り三十メートルになった時、金属を引っかくような音が水路へ響いた。


神代機が速度を落とし、防盾を上げる。


『来る』


曲がり角の暗がりから、小型個体が飛び出した。


一体目は壁を蹴り、神代機の頭部へ向かって跳ぶ。神代は防盾で受け止め、その勢いを殺さないまま反対側の壁へ叩きつけた。


もう一体は水の中を低く走り、神代機の脚元を抜けた。


『一体、そちらへ行った』


「見えています」


敵との距離は八十メートルほどだった。


水面を跳ね上げながら走る姿を見た瞬間、蒼真には止め方が分かった。


水路の左側へ半歩入り、敵が右へ逃げる余地を消す。飛びかかってきたところで補助アームを伸ばし、後ろ脚を取る。勢いを横へ流せば、壁へ押しつけられる。


防御砲を使う必要はない。


背後には消防隊の進入路があり、コンクリートの壁で跳ねた弾丸がどこへ向かうか分からない。ここでは、掴んだ方が安全だった。


蒼真が左脚へ入力する。


ノストスの重心が移り、機体が動き始める。


その瞬間、蒼真は違和感を覚えた。


遅い。


ノストスは正常に動いていた。


入力が伝わらなかったわけでも、足場が滑ったわけでもない。機体は蒼真の意図を正確に読み取り、左へ踏み込もうとしている。


それでも、まだ必要な場所にいない。


敵の前脚が水底を蹴った。


蒼真の中では、すでにノストスが一歩目を終え、補助アームを広げているはずだった。


実際の機体は、今ようやく重心を左足へ乗せたところだった。


小型個体が跳躍する。


補助アームを伸ばすが、先端が後ろ脚の外側を掠めただけで、捉えることができない。


敵の身体がノストスの右脇を抜けた。


背後には排水路の入口があり、その先では消防隊員が救助に入る準備をしている。


蒼真は振り返りながら、牽引装置を射出した。


固定具そのものを当てるのではなく、敵が着地する場所の先へ飛ばす。壁へ当たって跳ね返ったワイヤーが、小型個体の胴へ巻きついた。


巻き取り装置を作動させると、入口へ走ろうとしていた個体の身体が後ろへ引かれ、水面へ叩きつけられた。


それでも敵は止まらない。


爪を水底へ立て、ワイヤーを引きずりながら再び立ち上がる。


ノストスが向き直った時、神代機は一体目を排除し、すでにこちらへ踏み込んでいた。


『離せ』


蒼真が牽引装置を緩めると同時に、神代機の杭撃ちが小型個体の胴を捉えた。


衝撃音が狭い水路に反響し、壁から細かな砂が落ちる。


今度こそ、敵の動きが止まった。


『橘、損傷は』


「ありません」


『捕捉に失敗したな』


「はい」


『原因は分かるか』


蒼真は操縦表示を確認した。


右脚、左脚、補助アーム、牽引装置。すべて正常に動いている。警告は一つも出ていない。


「分かりません。機体は正常です」


『なら、今はそれでいい。記録は帰ってから確認しろ』


「了解」


神代は簡潔に指示を終えると、再び水路の奥へ向いた。


蒼真も後ろに続く。


敵を止めることはできた。


誰も傷ついていない。


それでも、最初に思い描いた動きにはならなかった。


ノストスで敵の脚を掴めなかったのは、初めてではない。現場では予測どおりにならないこともある。今までなら、牽引装置で補った時点で終わったことだった。


今日は、違った。


リポルなら間に合った。


その考えが、ごく自然に浮かんでいた。


*


取り残された作業員は、曲がり角のさらに奥にある点検用足場で見つかった。


足場は壁から半分外れ、流れに押されて上下に揺れている。男性作業員は歪んだ手すりと壁の間に肩を挟まれ、胸まで水に浸かっていた。


上流から流れ込む水は、出動時より明らかに増えている。このまま水位が上がれば、自力で顔を水面に出していることも難しくなる。


蒼真が外部拡声器で呼びかけると、作業員がゆっくりと顔を上げた。


「第三中隊です。聞こえますか?」


「聞こえる……」


声は弱かったが、意識はある。


「痛む場所はありますか?」


「左の肩が……脚は動く」


「分かりました。これから手すりを広げます。身体を捻らず、そのまま待ってください」


リポルなら、足場ごと持ち上げられたかもしれない。


しかし、水流に押されて揺れている足場へ強い力をかければ、残っている固定部まで外れる可能性がある。


ここで必要なのは、速さではなかった。


ノストスは水底へ両足を沈め、作業員のいる足場の前で姿勢を低くした。一方の補助アームで足場を下から支え、もう一方を歪んだ手すりへかける。


大きく開く必要はない。


作業員の肩を引き抜けるだけの隙間があればいい。


「神代隊長。作業員を受け取ってください」


『分かった』


神代機が足場の横へ入り、作業員の身体を支えられるよう右手を差し出す。


蒼真は補助アームへ少しずつ力を加えた。


錆びた手すりが軋み、足場全体が揺れる。水面が作業員の顎まで上がったが、神代機の指が背中を支え、身体が沈むのを防いだ。


「もう少しです。肩を動かさないでください」


手すりがわずかに開く。


作業員の身体が自由になった瞬間、足場を壁へ留めていた固定具が外れた。


神代機が作業員を抱えて後ろへ下がる。落ちた足場は流れに押され、その脚部へ向かった。


ノストスの補助アームが先に動き、足場を水底へ押さえ込む。


今度は、遅いとは感じなかった。


ノストスは蒼真の意図を正確に読み取り、作業員と神代機を守った。


『救助対象を確保。意識あり』


「帰りましょう」


神代機が作業員を胸元へ抱え、水路の入口へ向きを変えた。


ノストスは落下した足場を壁際へ寄せ、退路を空けてからその後ろに続いた。


救助は成功した。


作業員も、神代も、自分も無事だった。


この現場へ来た目的は果たしている。


それなのに、蒼真の頭からは、敵を捕まえ損ねた時の感覚が消えなかった。


思った場所へ、ノストスがまだ来ていない。


ほんの一瞬のずれだった。


これまでなら気づきもしなかったはずの時間が、今は長く感じられた。


*


午後零時十八分。


行方が分からなくなっていた作業員二名は、どちらも生存した状態で救助された。一人は右脚を骨折し、もう一人は左肩を脱臼していたが、命に関わる負傷ではなかった。


確認された敵性個体四体のうち、三体は第三中隊が排除した。残る一体は、崩落した仮設通路の下から活動を停止した状態で発見された。


避難していた作業員に追加の負傷者は出なかった。


第三中隊も、全員が帰還した。


*


基地へ戻ると、蒼真は着替える前にノストスのところへ向かった。


整備架台へ固定された機体は、両脚に泥が付着し、右側の牽引装置には敵性個体の体液が残っている。整備員が洗浄を始める横で、牧野はすでに今日の記録を確認していた。


「お疲れさまでした、橘さん」


「ただいま戻りました」


「右肩に異常はありません。牽引装置も、敵性個体を引き戻した際に負荷がかかっていますが、規定値の範囲内です」


「補助アームは?」


「表面に軽い傷があるだけです。明日には戻せますよ」


ノストスには問題がない。


それを聞いて安心する一方で、蒼真は水路内で感じたことを言わずにはいられなかった。


「牧野さん。確認してほしいことがあります」


「はい。どの部分でしょうか?」


「水路で敵を止めようとした時、ノストスの反応が遅れました」


牧野の表情が変わった。


「警告は出ましたか?」


「出ていません。左へ移動して、補助アームで脚を掴むつもりでした。入力は伝わっていたと思います。でも、機体が位置へ入る前に敵が通り過ぎました」


牧野はすぐに記録を呼び出し、問題の場面を再生した。


小型個体が神代機の横を抜け、ノストスへ向かってくる。蒼真が左脚へ入力し、ノストスが動き始める。補助アームの先端が敵の脚を掠め、そのまま右脇を抜けられていた。


映像を何度か見直したあと、牧野は入力から駆動開始までの時間を測定した。


「機体の反応に遅れはありません」


「そうですか」


「修理前より〇・〇三秒速くなっています。ノストスは、橘さんが左へ移動しようとした瞬間に重心を動かしています」


「では、自分の判断が遅かったんでしょうか」


「いいえ」


牧野は首を横へ振り、敵を認識してから蒼真が入力するまでの時間を表示した。


「こちらも以前より速くなっています。橘さんは、過去の平均より〇・〇四秒早く動き始めています」


「両方とも速くなっているのに、間に合わなかったんですか?」


「少し待ってください」


牧野は別の記録を開いた。


先日の訓練で、リポルが移動標的を御堂機の射線へ送った時のものだった。状況は異なるが、敵との距離と移動速度を今日の記録に合わせ、蒼真の入力をリポルへ与えた場合の動きを再現する。


半透明の紫色の機体が、ノストスの映像へ重なる。


蒼真が左への移動を始めた瞬間、リポルは必要な位置へ踏み込んでいた。敵が跳躍する前に進路を塞ぎ、その動きを水路の壁際へ限定している。


補助アームも牽引装置も必要なかった。


機体そのものが、蒼真の考えた場所へ間に合っている。


「リポルなら、止められましたね」


蒼真が言った。


牧野はしばらく画面を見たあと、静かに頷いた。


「可能性は高いと思います」


「ノストスが遅くなったわけではないんですよね」


「はい。今日のノストスは、以前よりも速く橘さんの操作へ反応しています」


「それなのに、遅いと思いました」


自分で口にすると、その言葉は思っていた以上に重かった。


ノストスは何も悪くない。


今日も崩れた足場を支え、二人の作業員を助けた。水路で敵を逃がしかけた時も、牽引装置があったから止めることができた。


牧野は映像を消し、ノストスを見上げた。


「リポルの速さを知ってしまったからだと思います」


「知っただけで、自分の方まで変わるんですか?」


「橘さんは、考えた通りに機体が動く感覚を覚えたんです。リポルなら、判断と動作の間にほとんど待つ時間がありません。今日も橘さんは、その時と同じ速さで周囲を見て、動き方を決めたのでしょう」


「ノストスは、その速さにはついて来られない」


「機体の反応はついていけます。ただ、実際に重い身体を動かす速度には限界があります」


牧野の言い方は、ノストスを庇っているようにも聞こえた。


あるいは、自分がそう聞いているだけなのかもしれない。


「今日の救助は、リポルでもできましたか?」


蒼真が尋ねると、牧野は少し考えた。


「不可能ではありません。ただ、足場の下にいた作業員を救助するには、消防の資機材を使う必要があったでしょう。水路内でも、足場を固定する別の手順が必要になります」


「時間がかかりますか?」


「おそらくは」


「では、ノストスでよかったんですね」


「はい。今日の任務には、ノストスが適していました」


その答えに、蒼真は安心した。


しかし、完全に納得したわけではなかった。


「でも、敵を止める時だけはリポルの方が早かった」


「そうですね」


牧野は否定しなかった。


「一つの機体で、すべてをできるわけではありません。ノストスとリポルは、目的が違いますから」


「現場へ行く前に、どちらが必要か分かればいいんですが」


「敵が何をするのか、事故がどのように起きるのかを、最初から全部予測することはできません」


「難しいですね」


「だから、橘さんは二機へ登録されたのだと思います」


蒼真はノストスと、格納庫の奥にいるリポルを見比べた。


二機同時には乗れない。


どちらかを選べば、もう一方にできることを置いていくことになる。


「乗れる人が増えれば、二機とも出せます」


「そうですね」


「適性のある人が早く見つかるといいんですけど」


蒼真が本気で言うと、牧野は一度口を開きかけ、それをやめた。


「見つかるといいですね」


返ってきたのは、それだけだった。


*


帰宅した蒼真を最初に迎えたのは、昴だった。


玄関の扉が開く音を聞きつけ、居間から走ってくる。蒼真の脚へ抱きつくと、顔を上げるより先に尋ねた。


「きょう、どっち?」


「ただいまが先じゃない?」


「おかえり。どっち?」


「ノストス」


昴の顔が明るくなった。


「のすとす!」


どうやら昴の中では、まだノストスの方が上らしい。


「ノストスも帰ってきたよ」


「はやかった?」


水路の中で感じたことを思い出し、蒼真の返事が少し遅れた。


「今日は、少し遅いと思った」


「おそい?」


「でも、ちゃんと帰ってきた」


昴は少し考えたあと、すぐに頷いた。


「じゃあ、いい」


昴にとっては、それで十分だった。


蒼真が居間へ入ると、結衣が食卓で数学の宿題をしていた。ニュースで出動を知ったらしく、蒼真の姿を見るなり鉛筆を置く。


「排水路のところに行ってたの?」


「うん」


「取り残された人は?」


「二人とも助かったよ」


「お父さんは怪我してない?」


「してない」


「ノストスは?」


「明日には戻せるって」


結衣はそれだけ確認すると、宿題へ戻った。


美咲も、台所から蒼真の顔を一度見ただけだった。


「夕飯、もうできるよ。先に着替えてきて」


「分かった」


仕事の話は、それ以上続かなかった。


夕食が始まると、結衣が数学の答えが合わないと言い出した。蒼真が途中式を見ると、最初の段階で符号を間違えている。


「ここでマイナスを掛けているから、こっちはプラスになるよ」


「そこから?」


「そこから」


「途中まで合ってることにできない?」


「最初が違うと、答えも変わるよ」


「一個くらい見なかったことにしてくれてもいいのに」


美咲が味噌汁を置きながら言った。


「間違いを見なかったことにしてくれる仕事なんてないでしょ」


「お父さんの仕事は?」


結衣が尋ねる。


蒼真は少し考えてから答えた。


「間違えたら、記録を見直すよ」


「今日も?」


「今日も」


結衣は蒼真の顔を見た。


何を間違えたのかと聞きたそうだったが、聞かなかった。


「じゃあ、私もやり直す」


消しゴムを手に取った結衣の横で、昴が自分の皿を指差す。


「すばるも、やりなおす」


「昴は、何を?」


「たまご」


卵焼きは、すでに食べ終わっていた。


「もう一つ欲しいだけでしょ」


美咲が言うと、昴は笑った。


「やりなおす!」


「言い方を変えても駄目」


結衣も笑い、蒼真も少し笑った。


水路で感じた違和感は、まだ消えていない。


けれど、家にいる間は、それを急いで整理しなくてもよかった。


*


夜。


蒼真は居間のテーブルで日記を開いた。


隅には、昴が作った紙のノストスとリポルが並んでいる。二機をつないでいた黄色いテープは、何度も動かしたせいで端が少し剥がれていた。


蒼真は日付を書いたあと、しばらく何も書かずに二機を見た。


今日のノストスは、必要な仕事をすべて果たした。


足場を支え、作業員を助け、敵を止め、自分を家まで帰した。


それなのに。


蒼真は、日記へ向き直った。



---


五月二十六日。


東部第三区の雨水排水路へ、ノストスで出動した。


崩落した仮設通路と排水路の中に作業員が一人ずつ取り残されていたが、二人とも救助することができた。第三中隊にも負傷者はなく、全員が帰還した。


水路の中で、小型個体を一体捕まえ損ねた。


どこへ動けば止められるのかは分かっていた。ノストスも入力した通りに動いていたが、必要な位置へ入る前に敵が横を抜けた。


牽引装置で引き戻せたので、負傷者は出なかった。


帰還後、牧野さんに記録を調べてもらった。


ノストスに異常はなかった。反応は修理前より速くなっていて、自分の判断も以前より早かったらしい。


遅くなったものは、何もなかった。


それでも、自分はノストスを遅いと思った。


リポルなら間に合っていたからだ。


今日の救助には、ノストスが必要だった。リポルでは時間がかかったかもしれない。だから、ノストスで出動したことは間違っていない。


それでも、敵を止める時だけは、リポルの方がよかったと思っている。


ノストスが物足りないのではない。


ノストスにできることは、今日も十分すぎるほどあった。


自分が、もっと速い機体を知ってしまった。


そのために、今まで気にならなかった時間を待てなくなっている。


それが、少し嫌だった。


早く敵を倒したいわけではない。


戦いたいわけでもない。


ただ、間に合わないかもしれないと思った。


もし牽引装置がなかったら、敵は消防隊員のいる入口へ抜けていた。


リポルなら、もっと早く止められた。


次は、どちらへ乗ればいいのか。


現場へ行く前に分かればいいが、多分、全部は分からない。


難しい。


今日は、それ以上は分からなかった。


以上。



---


日記を閉じても、答えは出なかった。


蒼真はテーブルの端にある紙の機体へ目を向けた。


灰色のノストスと、紫色のリポル。


昴は、二機を黄色いテープでつないだ。


一緒に帰るためだと言っていた。


実際の機体も、そうできれば簡単なのかもしれない。


「蒼真、まだ?」


寝室から美咲の声が聞こえた。


「今行く」


「昨日も言ってた」


「昨日は行ったよ」


「今日も来て」


蒼真は日記を持って立ち上がった。


二機のことは、明日また考えればいい。


今日は、ノストスが帰してくれた。


作業員も、第三中隊も、自分も。


そのことだけは、物足りないとは思わなかった。


*


同時刻。


中央戦術支援統合網の非公開解析領域では、東部第三区におけるノストスの行動記録が、過去の任務と照合されていた。


機体の応答速度に異常はなく、操縦補正も正常だった。修理前と比較すれば、ノストスの反応はむしろ向上している。


一方、橘蒼真が敵性個体を認識してから操作を開始するまでの時間は、過去の平均を大きく下回っていた。


遅れたのは、機体でも搭乗者でもない。


リポルへの搭乗を経験したことで、蒼真が想定する「間に合う時間」そのものが短くなっていた。


捕捉には失敗したものの、蒼真は即座に牽引装置へ切り替え、敵性個体が救助隊のいる入口へ到達することを阻止している。その判断に要した時間は〇・〇九秒だった。


撃破数への関心に変化はない。


戦闘を求める傾向も確認されない。


高性能機へ乗ること自体への欲求も低いままだった。


しかし、他者を救助できる可能性が性能差によって変化すると認識した時、蒼真はより高い性能を必要と判断し始めている。


現行機への愛着と、高性能機の必要性。


相反する二つの認識が、初めて同時に記録された。


支援行動の特性に変化はない。


戦闘適性は上昇している。


エース適性の評価が、再び更新された。


本人は、その変化を「物足りない」と記録した。


解析領域は、その言葉を感情記録として保存した。


観察は継続される。



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第四十五話 終

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