第四十二話 ノストスで十分
ゴーストによる検査を終えてから九日が過ぎた。
新井田から追加検査の連絡はなく、神代奈緒からも結果についての知らせは届いていない。開発が止まっていた試験機を今後どう扱うのか、政府や軍の中では検討が続いているらしいが、蒼真には関係のない場所で進んでいる話だった。
前衛への配置が決まったわけではなく、実機のゴーストへ乗るよう命じられたわけでもない。検査は終わり、自分はこれまでどおり第三中隊の現場支援隊員としてノストスへ乗る。
蒼真は、それで以前の仕事へ戻ったつもりでいた。
*
午後二時十七分、管理局の庁舎で現場記録を確認していた蒼真の端末へ、第三中隊から緊急出動要請が入った。
北部第三交通結節点にモンスターが出現し、復旧済みの都市高速と高架下の一般道で複数の車両事故が発生している。確認された敵性個体は小型四体と中型一体だったが、通報内容が錯綜しているため、実際の数は確定していなかった。
都市高速では、長距離バスと乗用車三台が衝突し、後続の物流車両も道路を塞いでいる。消防が現場へ向かっているものの、事故車両には逃げ遅れた人が残っている可能性があった。
蒼真は資料を閉じ、端末を手に席を立った。
廊下へ出たところで、同じ通知を受けた藤堂と顔を合わせる。
「第三中隊へ合流されるんですか?」
「はい。ノストスで高架上の救助を担当します」
「管理局の現地班はこちらで手配します。必要な資料はありますか?」
「都市高速の構造図と交通管制の記録をお願いします。事故車両の数と、消防が確認した逃げ遅れの人数も分かり次第送ってください」
「承知しました。橘さんもお気をつけて」
「ありがとうございます」
蒼真が基地へ向かう間にも、現場の情報は更新され続けた。
長距離バスには乗客十七名と運転手一名が残り、そのうち五名は自力で歩くことが難しい。都市高速へ上がった小型個体は三体確認されているが、最初の通報にあった一体の位置は分かっていない。中型個体は高架下の一般道を移動しており、第三中隊が到着するまで消防も事故車両へ近づけない状態だった。
蒼真は端末へ送られてきた構造図を拡大した。
都市高速は古い高架を補強して再利用している。耐震工事は終わっているものの、車両事故とモンスターの衝突が同じ支柱の周辺で重なれば、図面に記された強度がそのまま残っているとは限らない。
ノストスには二基の牽引装置と四本の補助アームがある。救助用昇降機や短距離防御砲も搭載されており、事故車両から人を救い出すために必要な装備は揃っていた。
前回乗ったゴーストより、できることは多い。
今日の現場にはノストスの方が向いていると、蒼真は思った。
*
基地へ到着すると、ノストスはすでに出動準備を終え、格納庫中央の発進位置に立っていた。
牧野は機体の足元で整備端末を確認していた。蒼真が近づくと画面を閉じ、いつもと変わらない穏やかな口調で説明を始める。
「牽引装置と補助アームは、すべて正常です。救助用昇降機も使えます。現場は高架道路だと聞いていますが、構造物へ索を固定する時は気をつけてください」
「構造図は受け取りました」
「図面どおりに残っているとは限りません。路面が損傷している場合、固定した支柱や防壁も一緒に崩れる可能性があります」
「現場で確認します」
「二基の牽引装置を同時に使う時は、背部フレームの負荷も見てください。一方向へ引くだけなら問題ありませんが、異なる方向から強い荷重がかかると、機体へねじれが生じます」
蒼真は頷いた。
「分かりました」
「本当に?」
念を押され、蒼真は少し困った。
「今日は、よく確認しますね」
「橘さんがゴーストの検査を受けた後ですから」
「ノストスの操作は変わっていません」
「橘さん自身は、そう思っているんですね」
牧野が何を心配しているのか、蒼真には分からなかった。
やがて出動を知らせる警報が格納庫へ響き、搭乗用昇降機が降りてくる。牧野はそれ以上説明せず、蒼真へ道を譲った。
「行ってらっしゃい。今日もちゃんと帰ってきてくださいね」
「行ってきます」
蒼真は昇降機へ乗り、ノストスの操縦席へ向かった。
*
第三中隊が北部第三交通結節点へ到着した時、都市高速の上には黒い煙が広がっていた。
事故を起こした物流車両から火が出ており、消防が高架の西側から放水を始めている。煙と水しぶきが風に流され、道路上の視界は安定しなかった。
高架下の一般道では、神代機と安西機が中型個体を挟むように展開していた。片瀬機と御堂機は都市高速上へ先行し、事故車両の間に入り込んだ小型個体へ対応している。
ノストスは西側の進入路から高架へ上がった。
車を置いて逃げた人々が、消防隊員の誘導に従って非常階段へ向かっている。道路の中央には乗用車と物流車両が不規則に止まり、その先で長距離バスが外側の防壁へ斜めに乗り上げていた。
バスの前輪は、路面に走った大きな亀裂を越えた場所にある。後輪はまだ道路へ接地しているものの、車体の重量が前方へ偏り、亀裂は少しずつ広がっていた。
「ノストス、現場へ到着しました。避難者の位置を確認します」
『橘、高架上の救助を優先しろ』
神代隊長の指示が入る。
「了解」
蒼真はバスへ近づきながら、高架の状態を確認した。事故の衝撃で外側の防壁が崩れ、その下にある路面も沈んでいる。車体を強引に引けば、後輪が接地している部分まで割れる可能性があった。
消防隊員が後部扉を開こうとしていたが、事故によって車体が歪み、扉は人一人が通れるほどにも開いていない。
「車内に十八名います。歩行困難者は五名です」
消防の現場責任者から報告が入る。
「後部扉は使えますか?」
『変形していて開きません。救助器具を入れる隙間も足りません』
「先に車体を固定します。その後、ノストスで扉を外します」
蒼真はノストスをバスの後方へ移動させた。
右側の牽引索を後部車軸へ固定し、左側の索を高架内側の補強支柱へ巻き付ける。一方でバスを後方へ引き、もう一方でノストスが前へ滑るのを防ぐ形だった。
二基の牽引装置を少しずつ巻き上げると、ノストスの背部へ異なる方向から荷重がかかった。表示は許容範囲内に収まっているものの、路面の亀裂は止まっていない。
蒼真は二本の補助アームでバスの後部を支え、残る一本を扉の隙間へ入れた。車体そのものを歪めないよう抵抗を確かめながら、扉を固定している金具へ少しずつ力をかける。
金属が軋み、金具が外れた。
蒼真はノストスの右手で扉を掴み、消防隊員から離れた路面へ静かに置いた。
開いた後部から消防隊員が車内へ入り、歩ける乗客から順番に外へ誘導する。負傷者は担架へ移し、一人ずつ運び出さなければならない。
蒼真は救助の様子を見ながら、牽引装置へかかる荷重と路面の状態を監視していた。
高架下で中型個体が暴れ、道路全体が揺れた。
その振動によって、バスがわずかに前へ動く。右側の牽引索が強く張り、ノストスの上半身がバス側へ引かれた。
蒼真はバスを引く力を強めると同時に、支柱へ固定した左側の索を巻き上げた。背部を支柱側へ寄せ、左右からかかる荷重を釣り合わせる。
ノストスの足が路面を滑る前に、バスの動きが止まった。
「路面の亀裂が広がっています。どのくらい保持できますか?」
消防の現場責任者が尋ねる。
蒼真は背部フレームの負荷と牽引装置の温度を確認した。
「今の状態なら十分以上は持ちます。急ぐ必要はありませんから、負傷者を安全に降ろしてください」
返答した直後、ノストスの東側に二つの敵性反応が現れた。
片瀬機と御堂機が交戦している位置とは別方向だった。所在不明だった一体に加え、確認されていなかった個体が高架へ上がってきたらしい。
「東側から小型二体が接近しています」
『片瀬、行けるか』
『こちらは一体と交戦中です』
『御堂』
『すぐには動けません』
神代機と安西機は、高架下で中型個体を抑えている。救援へ向かえる機体はなかった。
蒼真はバスを保持したまま、ノストスの上半身を東へ向けた。
「こちらで止めます」
『バスを離すな』
「離しません」
ノストスは二基の牽引装置を使い、補助アームでもバスを支えている。敵へ向かって移動することはできないが、本体の両腕と使っていない補助アーム、それに短距離防御砲は動かせる。
蒼真は防御砲を東側へ向けた。
煙の向こうから現れた一体目は、放置車両の屋根へ飛び乗り、その勢いのままノストスへ跳躍した。
蒼真は敵の進路と、その後方にいる消防隊員の位置を見てから、一発だけ撃った。
弾は頭部を外れて肩へ命中したが、小型個体の身体を空中で回転させ、バスから離れた道路内側へ落とした。活動を止めるには至らないものの、すぐに起き上がれる状態ではない。
二体目は事故車両の間を抜け、道路外側からバスへ回り込もうとしていた。射線の先に乗客と消防隊員がいるため、防御砲は使えない。
蒼真は空いている補助アームを伸ばし、敵の進路上に止まっていた乗用車の後部を押した。動かなくなった車両が横へ滑り、小型個体の前を塞ぐ。
敵は車両を跳び越えようとした。
蒼真は、その瞬間にノストスの左手で乗用車の屋根を押し下げた。車体の前側が持ち上がり、空中へ出た敵の腹部へぶつかる。
路面へ落ちた小型個体の首元を、ノストスの右手で押さえた。爪が腕の装甲を引っかき、表面に傷を付ける。
蒼真は敵を潰そうとはせず、バスから遠ざけるために道路の中央へ押し戻した。
そこへ、最初に撃ち落とした一体が体勢を立て直し、ノストスの右側から跳びかかってきた。
防御砲を使えば、押さえている個体にも当たる。蒼真はノストスの右手を離し、迫る爪を右肩の装甲で斜めに受けた。
爪は装甲の表面を滑り、飛びかかってきた小型個体は勢いを失わないまま、もう一体へ衝突した。
二体が重なって路面へ倒れる。
蒼真は防御砲を敵の手前へ向け、舗装を一発撃った。砕けた路面と砂煙に驚き、小型個体はバスと反対方向へ下がった。
「小型二体をバスから離しました。救助を続けてください」
『あと四十秒で行きます』
片瀬から通信が入る。
「了解」
ノストスの右肩には、外装の損傷が表示されていた。機能に問題はない。
小型個体は二体とも活動を続けていたが、防御砲を警戒してすぐには近づいてこない。その間にも消防隊員は乗客を運び出し、車内に残る人数は半分を切っていた。
最後に残るのは、自力で動けない者たちである。
一人を担架へ移し、後部から降ろすたびに時間がかかる。それでも蒼真は急がせなかった。バスを保持できる限り、消防隊員が転倒する危険を増やす必要はない。
高架下から大きな衝撃音が響いた。
中型個体の攻撃を受けた安西機が、損傷した支柱の近くへ押し込まれている。安西機は片膝をつき、右脚を瓦礫に挟まれたまま動けなくなっていた。
その位置は、バスのほぼ真下だった。
「安西さん、そこから離れられますか?」
『右脚が挟まっている。すぐには抜けない』
中型個体が安西機へ向きを変えた。
神代機が側面から攻撃しているが、敵の動きを完全には止められていない。片瀬機と御堂機も、まだ高架上の小型個体へ対応している。
神代隊長から通信が入る。
『橘。安西を引けるか』
蒼真はノストスの状態を確認した。
バスへつないだ右側の牽引索は、少しでも緩めれば車体が前へ滑る。左側も、ノストスを支柱へ固定し、バスの重量に耐えるために使っている。
安西機へ伸ばせる索は残っていない。
「少し待ってください」
蒼真は右側の牽引装置を巻き、バスをわずかに後方へ動かした。後輪が路面の亀裂から離れたことで、車体がすぐに落ちる危険は少し下がった。
次に、支柱へ固定した左側の索を限界まで短くする。ノストスの腰を落とし、足裏へ荷重を移すと、支柱と機体を結ぶ索の張力が一瞬だけ弱まった。
蒼真はその瞬間に固定を解除し、空いた左側の牽引索を高架下へ向けて射出した。
先端が安西機の背部へ固定される。
「安西さん。右脚の力を抜いてください」
『抜いたら倒れる』
「倒れる方向はこちらで支えます。引かれる力に合わせてください」
短い沈黙の後、安西が応じた。
『了解』
蒼真は牽引を開始した。
安西機の重量に加え、右脚を挟んでいる瓦礫の抵抗が断続的に伝わってくる。しかも、ノストスの反対側では、もう一基の牽引装置がバスを保持している。
背部フレームには、上下で異なる方向の力がかかっていた。
ねじれを示す警告が表示される。
蒼真は、バスを引く右側の出力を一瞬だけ弱め、車体の荷重をノストスの脚部へ移した。その間に左側の牽引出力を上げ、安西機を強く引く。
中型個体が前脚を振り上げる。
安西機の右脚が瓦礫から抜け、その身体が地面を転がりながら後方へ引かれた。直後に中型個体の爪が振り下ろされ、先ほどまで安西機がいた地面を抉る。
『抜けた!』
「索を外します」
安西機が攻撃範囲から離れたことを確認し、蒼真は牽引索を切り離した。
神代機が中型個体の側面へ杭撃ちを打ち込む。体勢を立て直した安西機も、損傷していない左脚で踏み込み、二撃目を加えた。
中型個体は支柱の間へ倒れ、そのまま動きを止めた。
蒼真が左側の牽引索を巻き戻そうとした時、ノストスの背部から異音が鳴った。
バスを保持している右側の牽引装置が過熱し、巻き上げを停止している。背部フレームへ強いねじれが生じたことで、駆動部に想定以上の負荷がかかったらしい。
索を固定する力も少しずつ低下していた。
バスが前へ動き始める。
「車内の状況を教えてください」
蒼真が消防へ呼びかける。
『最後の一人を降ろしています!』
消防隊員が担架へ載せた乗客を後部から運び出そうとしている。その足元でバスが傾き、救助用の板がずれ始めた。
蒼真は右側の牽引装置を再起動した。
動かない。
巻き上げることはできず、索が外れないよう固定する力だけが残っている。
それなら、牽引装置ではなく、ノストスそのものを動かすしかない。
蒼真は、機体をゆっくりと後退させた。
右側の索を巻き取れなくても、ノストスとバスの距離を広げれば、車体を後方へ引くことはできる。牽引装置へかかる力を、機体の腰部と脚部で受ける形になる。
ノストスが一歩下がると、足裏が路面を削った。バスの前進が止まり、消防隊員が担架を後部から降ろす。
「最後の乗客を救出しました!」
「バスから離れてください」
消防隊員が担架とともに距離を取ったことを確認し、蒼真はさらにノストスを後退させた。
バスの後輪が亀裂から離れ、車体が少しずつ道路の中央へ戻ってくる。その一方で、ノストスの左脚には過熱警告が表示され、腰部の出力も限界へ近づいていた。
右足が路面を滑り、機体の身体がバス側へ引かれる。
蒼真は右脚を斜め後方へ置き直し、足裏を路面へ押し付けた。背部フレームから軋む音が伝わる。
それでも、牽引索は切れていない。
バスも落ちていない。
『橘、そのまま維持しろ』
神代隊長の声が届いた。
中型個体を止めた神代機と安西機が、高架へ上がってくる。片瀬機と御堂機も残る小型を排除し、バスへ向かっていた。
四機はノストスの周囲へ到着すると、それぞれの位置へ分かれた。
神代機と片瀬機がバスの側面を支え、御堂機は前方から車体を持ち上げる。安西機も損傷した右脚をかばいながら後部へ入り、ノストスと一緒にバスを押し戻した。
『橘、少しずつ牽引を緩めろ』
「了解」
蒼真は右側の牽引装置を操作し、索をゆっくりと緩めた。バスの重量がノストスから四機へ移っていく。
やがて前輪と後輪の両方が安定した路面へ着き、バスは道路の中央で停止した。
牽引索から荷重が消える。
蒼真はノストスの腰を上げようとしたが、過熱した左脚の反応が遅れた。それでも機体は自力で立ち上がり、歩くこともできる。
「ノストス、救助を完了しました。搭乗者に異常はありません」
『第三中隊、全機離脱する』
消防は救助した乗客の搬送を始め、管理局も都市高速への進入を完全に止めている。敵性個体はすべて排除され、事故車両に取り残された人間もいなかった。
ノストスは損傷しているが、自力で基地へ戻れる。
蒼真は第三中隊の最後尾に付き、全機の位置を確かめながら現場を離れた。
*
帰還したノストスは、第三格納庫の整備架台へ固定された。
外から見える損傷は、右肩に残った爪痕と、補助アームの一部にできた歪み程度だった。しかし装甲を外して内部を確認すると、二基の牽引装置から異なる方向へ荷重がかかったことで、背部フレームにわずかなずれが生じていた。
右側の牽引装置は、巻き上げ用の駆動部を交換しなければならない。左脚も冷却だけでは足りず、関節部を分解して、過熱による変形がないか確認する必要があった。
牧野は整備記録と操縦記録を照合しながら、ノストスがバスと安西機を同時に引いた場面を何度も見直していた。
右側の牽引装置でバスを保持したまま、機体の脚部へ荷重を移し、一瞬だけ空けた左側の牽引装置で安西機を引く。設計上、操作そのものが禁止されているわけではない。しかし、異なる方向へ大きな力が加わる状況で行うことは想定されていなかった。
「全体の損傷率は、どのくらいですか?」
蒼真が尋ねる。
「一六・八パーセントです」
「前衛機の平均よりは低いですね」
「ノストスは支援機です」
牧野は画面から顔を上げた。
声は穏やかで、怒っているようには見えない。それでも、いつもの整備報告とは違うことを話そうとしているのは分かった。
「橘さんは、ノストスで対応できたと思っていますか?」
「はい。安西さんも、バスの乗客も帰りました」
「いいえ。対応できていません」
蒼真は、整備架台の上に立つノストスを見上げた。
「でも、失敗はしていません」
「結果を否定しているのではありません。橘さんの判断が間違っていたとも思いません。あの状況では、安西さんを引かなければ負傷していた可能性がありますし、バスを離すこともできなかったでしょう」
牧野は、背部フレームの負荷記録を表示した。
「問題は、橘さんの操作へノストスが対応できなくなり始めていることです。橘さんは牽引装置の張力を細かく入れ替え、脚部と腰部まで使って二つの対象を支えました。操作自体は正確でしたが、ノストスは、その使い方を前提に作られていません」
「ほかに方法がありませんでした」
「そうですね。だから、今回は必要だったと思います」
牧野は、その場での判断を否定しなかった。
「ただし、次も同じことができるとは思わないでください。今回は背部フレームが耐え、索も切れず、左脚も最後まで動きました。でも、同じ負荷をもう一度かければ、次はどこが先に壊れるか分かりません」
牽引装置が安西機を引く前に停止していれば、中型個体の攻撃は間に合っていたかもしれない。バスを支えている途中で固定力を失えば、消防隊員と乗客を巻き込んで高架から落ちていた可能性もある。
結果として全員が帰ったことと、その方法が安全だったことは同じではない。
蒼真は、ようやく牧野が伝えようとしていることを理解し始めた。
「ノストスは直りますか?」
「直します」
牧野は迷わず答えた。
「交換する部品は多いですが、主要フレームに致命的な損傷はありません。時間は少しかかりますけど、必ず直します」
蒼真は、わずかに息を吐いた。
「良かった」
「愛着があるんですね」
「できることが多いので」
「まだ、それを言いますか?」
牧野は困ったように笑った。
「できることが多いからといって、何でもさせていいわけではありません。橘さんができると思ったことを、ノストスが全部できるとは限らないんですよ」
「分かっています」
蒼真が答えると、牧野は少しだけ首を傾けた。
「多分、まだ分かっていません」
口調は最後まで柔らかかった。
「橘さん。ノストスは、何でもできる機体ではありませんよ」
その言葉は、格納庫を出た後も蒼真の中に残った。
*
帰宅したのは、午後八時を過ぎていた。
遅くなることは連絡していたため、美咲は玄関で待っていなかった。蒼真が居間へ入ると、結衣は食卓で宿題を広げ、昴は床の上で紙のノストスを動かしていた。
「ただいま」
「おかえり」
台所から顔を出した美咲は、蒼真の表情と肩へ一度だけ目を向けた。
「怪我は?」
「ないよ」
「ノストスは?」
「少し時間がかかるけど、直る」
美咲は、それ以上詳しく聞かなかった。
「ご飯を温めるから、先に着替えてきて。昴が待ってたよ」
名前を呼ばれた昴は、紙のノストスを持って立ち上がった。
「ぱぱ、のすとす?」
「今日はノストスに乗ったよ」
「かえった?」
「帰った」
「けが?」
「少し壊れたけど、牧野さんが直してくれる」
昴は紙のノストスを見下ろし、近くにあった黒いクレヨンを取った。右肩へ一本の線を引くと、実物と同じ傷であるかのように蒼真へ見せる。
「いっしょ」
「どうして同じ場所なの?」
「なおす」
今度は黄色いクレヨンを選び、黒い線の上から何度も色を重ねた。
実際のノストスは、クレヨンを塗るようには直せない。
牽引装置を外し、背部フレームを測り、傷んだ部品を一つずつ交換する。多くの整備員が時間をかけて、ようやく元の状態へ戻せる。
「そんなに簡単には直らないよ」
蒼真が言うと、昴は手を止めた。
「なおらない?」
「直るよ。でも、少し待たないといけない」
昴はしばらく紙の機体を見つめた後、床へそっと置き、その隣へ座った。
「じゃあ、まつ」
「うん。待とう」
蒼真も昴の隣へ座った。
現場では、敵も事故も崩落も待ってくれない。そのため蒼真は、ノストスが動く限り、できることを使おうとする。
しかし、今日できたからといって、次も同じようにできるとは限らない。機体が壊れるまで使えば、助けるはずだった人まで危険に巻き込むことになる。
ノストスには多くのことができる。
それでも、何でもできるわけではない。
牧野の言葉を、蒼真はようやく自分の中へ置き直した。
今日の現場には、ノストスで十分だった。
だが次も同じ状況が起きた時、同じ機体で同じように全員を帰せるとは、もう思えなかった。
昴は紙のノストスの隣へ座ったまま、黄色く塗った右肩を指先で撫でている。
蒼真も、整備架台に残してきた機体を思い浮かべた。
直るまで待つ。
そして、もう一度乗る時には、今日と同じ使い方をしない方法を考えなければならない。
今はまだ、その方法が分からなかった。
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第四十二話 終
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