第四十一話 蝶々結び
ゴーストによる最初の検査から四日後、新井田虎雄は神代奈緒を第二評価室へ呼んだ。
中央画面には、次回検査に使用する仮想市街地が表示されていた。前回のような平坦な走路ではなく、損傷した建物と放置車両が並び、道路には高低差や亀裂も再現されている。地図の中央には九十六名の避難者が配置され、そこから南東の退避地点まで、二本の経路が延びていた。
奈緒は地図の外周へ並ぶ敵性個体の印に気づき、新井田を見た。
「今度は戦闘をさせるんですね」
「単純な歩行と走行では、橘さんの能力を測れないことが分かりました」
新井田は、前回の検査記録を画面の隅へ呼び出した。路面が沈下するより先に危険を察知し、右脚の着地点を変えた蒼真と、その急な操作へ遅れることなく追従したゴースト。接続率は六十パーセントに抑えられ、機体出力も最大値の三分の一に届いていなかった。蒼真にもゴーストにも、まだ十分な余裕が残っていた。
「橘さんは、速く走ること自体には興味がありません。機体の性能を試せと言っても、安全に終えられる範囲でしか動かさないでしょう」
「守るものを置けば、本気になると?」
「少なくとも、何を優先して機体を動かすのかは分かります」
今回の目的は、敵性個体の全滅ではなかった。第三中隊とともに避難者を守り、全員の退避が完了するまで指定区域を維持する。それが検査の終了条件となる。
ゴーストは北西の交差点へ配置され、神代隊長の指揮下で前衛機として行動する。敵性個体の数と出現位置は、検査開始後まで搭乗者へ知らせない。新井田が見たいのは、決められた手順をどこまで速くこなせるかではなく、変化する状況の中で蒼真が何を見て、どのような判断を選ぶのかだった。
奈緒は画面上の配置を確かめた。
「第三中隊も参加させるんですね」
「神代隊長からの要望です。仮想僚機では、橘さんが普段と同じように判断できない可能性があると言われました」
「兄らしいですね」
奈緒が小さく息を吐いた時、評価室の扉が開いた。
入ってきた神代隊長は、中央画面の前で足を止めた。奈緒が政府側の監察担当であることは理解しているはずだが、今日の表情は普段より硬い。
「説明を聞かせてもらう」
「新井田さんから、もう聞いているでしょう?」
「政府側が何を知りたがっているのか、お前の口から聞く」
職場では、あくまで神代隊長と神代監察官である。ただ、兄妹だからこそ、曖昧な説明では納得しない部分もあるらしい。
奈緒は端末を閉じ、兄へ向き直った。
「支援隊員制度を正式運用するためには、ノストスによる成果と橘さん個人の能力を分けて考える必要があります。ほかの支援隊員候補でもノストスは運用できましたが、橘さんと同じ成果は出せなかった。その理由を、機体への習熟だけでは説明できません」
「それをゴーストで測るのか」
「標準機では、橘さんが機体へ合わせてしまいました。ゴーストの基本動作を行った結果、機体側の制限がなければ、橘さん自身の動きが表れる可能性があると分かりました」
神代隊長は地図を見た。第三中隊は北、西、南西の三方向を守り、その内側を管理局と消防が避難者を連れて移動する。ゴーストが配置された北西は、敵が抜ければ避難経路へ直接つながる位置だった。
「安全基準は?」
新井田が答える。
「接続率は八十パーセントを上限とし、ゴーストの出力も開発時の六十パーセントまでに制限します。身体負荷が基準値へ近づいた場合は、私の判断で中止します」
「橘が無理をしても?」
「本人の申告は待ちません」
その答えを聞き、神代隊長はわずかに頷いた。
「第三中隊は全員、普段の機体設定で参加する。俺が指揮する」
「仮想僚機でも検査はできます」
「橘は、周囲の動きまで見て判断する。誰がどう動くか分からない状況を作れば、橘の能力ではなく、未知の僚機へ対応する検査になる」
新井田は、その指摘を受け入れた。神代隊長、片瀬、安西、御堂の参加を計画へ追加し、各機の損傷と搭乗者負荷を同じ系統で記録する。
奈緒が兄へ尋ねた。
「橘さんを守るために参加するの?」
「部下を検査へ出すのに、指揮官が外から見ている理由はない」
「そういうことにしておく」
兄は答えなかった。
*
検査当日、蒼真は搭乗服に着替え、中央画面に映る仮想市街地を見ていた。
管理局と消防が誘導する避難者は九十六名。負傷者役も含まれており、徒歩で移動する者と車両で運ばれる者がいる。退避地点までの道路には狭い交差点が二つあり、大型車両は一台ずつしか通過できない。戦闘によって道路が塞がれれば、別の経路へ移す必要がある。
「検査の終了条件は、避難者全員の退避と第三中隊の区域外離脱です」
新井田が地図上に経路を示しながら説明する。
「敵性個体をすべて撃破する必要はありません。数と出現位置は、開始後まで非公開とします。橘さんにはゴーストで北西の交差点を守ってもらいますが、状況に応じた配置変更の提案は認めます」
蒼真は敵の想定出現地点ではなく、避難経路を見ていた。
「ゴーストの救助装備は、牽引索だけですか?」
「一本だけです。ノストスのような補助アームはありません」
「負傷者が出た場合は?」
「原則として消防が対応します」
「消防が動けない場合は、どうしますか?」
新井田は少し迷ってから答えた。
「その時は、神代隊長の指示に従ってください」
「分かりました」
蒼真が続けて確認したのは、機体損傷による行動不能と搭乗者の死亡判定だった。武装の性能やゴーストの最高速度については、最後まで尋ねなかった。
「質問は以上です」
説明を聞いていた神代隊長が、蒼真へ声をかけた。
「橘。今回は前衛機だ。指定区域を離れる時は報告しろ。敵を追って、自分から防衛線を崩すな」
「了解しました」
「全部を一人でやろうとするな。目の前で何かが起きても、俺が待てと言ったら待て」
蒼真は、すぐには返事をしなかった。
助けられると思った時に、指示を待てるか。安西機の右後方へ敵が迫った初実戦で、もし神代隊長から「待て」と言われていたら、自分は本当に動かなかったのか。
今でも答えは分からない。
「できるだけ従います」
「そこは従うと言え」
「できない約束をしても、意味がないと思います」
神代隊長は蒼真を見つめたが、叱責はしなかった。
「分かった。必要なら、こちらで止める」
「お願いします」
そのやり取りを聞いていた片瀬が、わずかに笑った。
「止められることを最初から頼む人も珍しいですね」
「自分で分からない時は、指揮官に判断してもらうしかないので」
「格好をつける気はないんですか?」
「分からないのに、分かったと言う方が危ないと思います」
片瀬は何も言い返さず、神代隊長を見た。
神代隊長は短く頷いた。
「それでいい。全員、乗れ」
*
ゴーストとの接続は、前回より滑らかに進んだ。
蒼真の操縦記録は残されているが、機体側の学習制御は最低限に抑えられている。ゴーストが蒼真へ合わせた結果ではなく、搭乗者自身がどこまで機体を扱えるのかを確認するためだった。
接続率が六十パーセントを超えると、ゴーストの足裏が地面へ触れている感覚が、操縦席にいる蒼真の身体へ伝わってきた。自分の足と混同するほどではないが、機体のどこへ重量がかかり、地面がどの程度の硬さなのかは理解できる。
「接続率を七十五パーセントで固定します。身体との境界が曖昧に感じる場合は、すぐに申告してください」
新井田の声を聞きながら、蒼真はゴーストの指を動かした。
「自分が操縦席にいることは分かります。問題ありません」
「動かしにくさは?」
「ありません」
仮想市街地が表示されると、薄暗い夕方の空の下に、損傷した建物や放置車両が現れた。遠くから避難を促す警報が聞こえ、中央の旧商業区では、管理局と消防が人々を南東へ誘導し始めている。
ゴーストの装備は、右手の短銃身砲、左腕の小型防盾、腰部の杭撃ち装置、そして背部へ収納された一本の牽引索だけだった。
ノストスに比べれば、できることは明らかに少ない。
その代わり、蒼真が機体を動かそうとした時、その判断を待たせるものは何もなかった。
『全機、接続を報告』
神代隊長の声に、片瀬、安西、御堂が順番に応答した。蒼真も機体の状態を確認し、通信を返す。
「ゴースト、異常なし」
『検査開始』
開始信号と同時に、仮想市街地の警報が一段階高くなった。
*
最初の敵性反応は、北側の道路に現れた。
三体とも小型で、倒壊しかけた建物の間を縫うように北西の交差点へ向かっている。その建物の反対側では、避難者の列が移動を続けていた。
「北側に小型三体。交差点まで四十秒です」
『橘、そこで止めろ』
「了解」
蒼真はゴーストを道路の中央へ進めた。
機体が走り始めても、ノストスや標準機のように次の動作を待つ必要がない。右足が路面を蹴れば、左脚は蒼真が求めた時に前へ出る。歩幅を広げれば、その入力がそのまま加速へ変わった。
先行していた一体が交差点へ入り、ゴーストを見つけると同時に跳躍した。
蒼真は防盾を構えなかった。爪が肩へ届く直前に上半身をひねり、敵の懐へ踏み込む。ゴーストは、その小さな重心移動を迷いなく動作へ変えた。
爪が背後を通り過ぎる。
蒼真は敵の胴へ短銃身砲の銃口を押し当て、そのまま一発撃った。吹き飛ばされた個体は後続する二体目の前脚へぶつかり、二体が重なるように路面へ転がった。
蒼真は倒れた二体目へ向けて防盾を突き出した。起き上がろうとした敵の胸部を、放置車両と建物の隙間へ押し込み、動きが止まったところで杭撃ちを打ち込む。
その間に三体目が交差点の外側へ回り、避難者がいる建物へ向かっていた。
蒼真が右へ踏み込むと、ゴーストの背部推進器が短く噴射した。機体は路面を蹴るだけでは得られない速度で前へ出て、逃げる個体の横へ並ぶ。
短銃身砲を使えば、建物の向こう側へ弾が抜ける恐れがあった。
蒼真は敵の背中へ防盾を当て、走りながら進路を道路側へ押し戻した。暴れた個体が爪を振ると、ゴーストは上半身を沈めてその下へ潜り込み、右肩を胴へ入れて脚を払う。
路面へ転がった敵へ銃口を向け、一発で止めた。
「北側の小型三体を排除しました。交差点に戻ります」
『そのまま北を維持しろ』
「了解」
交戦時間は二分にも満たず、ゴーストに損傷はなかった。発砲も、必要な二回だけで終わっている。
評価室では、新井田が蒼真の操作記録を追っていた。
一つ一つの判断に、理解できないものはない。敵を避難経路から遠ざけ、射線が安全な場所でだけ攻撃し、必要以上に追わない。ノストスに乗っていた時と、行動原理は何も変わっていなかった。
しかし、その判断を実行する速度が違う。
標準機では、安全制御と機体の反応を待つ間に、蒼真が動きを調整していた。ゴーストにはその時間が必要ない。蒼真が進路を決めた瞬間、機体はすでに次の場所へ向かっている。
奈緒が記録を見ながら尋ねた。
「機体側の補正は入っていますか?」
「姿勢維持だけです。回避も攻撃も、ほぼ搭乗者の入力どおりです」
「肩と爪の距離は?」
新井田が映像を拡大すると、敵の爪はゴーストの肩から数センチの場所を通過していた。
余裕を持って大きく避けたのではない。機体へ当たらない分だけ動き、その後の攻撃へ最短の距離でつなげている。
「偶然では?」
「同じことが続けば、偶然とは言えなくなります」
新井田は検査を止めず、次の敵性反応を待った。
*
西側では、片瀬機と御堂機が中型一体と小型二体を迎え撃っていた。安西機が守る南西にも小型二体が現れ、神代機は中央に位置したまま、避難者の移動と全機の状況を見ている。
やがて、安西機の左側を一体の小型個体が抜けた。
敵は中央の避難区域へ向かっている。蒼真の位置からでも間に合う距離だったが、神代機の方が近い。
ゴーストを動かそうとした時、神代隊長の指示が届いた。
『橘、北を維持しろ』
「了解」
蒼真は交差点に残った。
神代機が中央から南西へ移動し、抜けた個体を正面から受け止める。杭撃ちの衝撃音が響き、敵性反応が一つ消えた。
命令に従うだけなら、難しいことではない。
それでも蒼真は、敵が止まったことを確認するまで、神代機と避難者の位置を表示から外さなかった。
その直後、北側へ新しい反応が現れた。
先頭を走るのは四脚型の中型個体で、その後ろから小型二体が続いている。さらに遠くには、建物の影へ隠れて全体像が見えないものの、中型より大きな反応が近づいていた。
「北に中型一体、小型二体。さらに後方から大型反応が接近しています」
『交差点を維持できるか』
神代隊長の問いに、蒼真は敵の速度と避難者の位置を確かめた。北西を抜かれれば、二分ほどで避難区域へ届く。まだ半数近くの人間が残っている状況で、ここを空けることはできなかった。
「維持します」
『無理なら下がれ。撃破にこだわるな』
「了解」
先行する中型個体は、倒れた車両を跳び越えながら距離を縮めてきた。正面装甲が厚く、胴へ短銃身砲を撃っても、一発では止まりそうにない。
蒼真は前脚の付け根へ照準を合わせた。
中型個体が大きく跳び上がった瞬間、ゴーストは右へ走った。敵の正面から外れながら二発を撃ち、左前脚の関節へ続けて命中させる。
着地した敵の身体は傾いたものの、倒れなかった。残る三本の脚で姿勢を支え、ゴーストへ頭を向ける。
蒼真は立て直す時間を与えず、敵の側面へ回り込んだ。
中型個体の尾が路面を薙ぐ。ゴーストは両脚で地面を蹴り、迫る尾を飛び越えた。背部推進器が機体を前へ押し、蒼真は敵の背中へ着地する。
左手で外殻の突起を掴み、右腕の杭撃ちを損傷した脚の付け根へ押し当てた。
衝撃によって外殻が割れる。
中型個体は身体を激しく振り、ゴーストを背中から投げ落とそうとした。蒼真は突起から手を離し、宙へ投げ出される前に牽引索を射出した。
索の先端が道路脇の街灯へ巻き付き、落下するゴーストの身体を支える。蒼真は推進器を一度だけ噴かし、張った索を軸にして中型個体の側面へ回り込んだ。
着地と同時に牽引索を巻き上げる。
古い街灯が根元から倒れ、中型個体の後脚へ絡んだ。姿勢を崩した敵が路面へ倒れると、蒼真は損傷した前脚へ二度目の杭撃ちを入れた。
中型個体は、すぐには立てない。
完全に活動を停止させるには、さらに攻撃が必要だった。しかし、後方から小型二体が迫っている以上、ここで時間を使う理由はなかった。
蒼真は倒れた中型個体を残し、交差点へ戻った。
左右へ分かれた小型のうち、一体が右側からゴーストへ飛びかかる。蒼真は爪を防盾の表面で流し、体勢を崩した敵へ短銃身砲を撃ち込んだ。
もう一体は、その時にはゴーストの左側へ回り込んでいた。
避ければ、敵は交差点を抜ける。正面から受ければ、ゴーストが押し戻される。
蒼真は左腕を上げ、防盾の縁へ敵の前脚を引っかけた。衝撃を止めようとせず、勢いを残したまま上半身を回す。
敵の身体が地面から浮き、そのまま道路脇へ投げ出された。
ゴーストも片脚を浮かせ、倒れる寸前まで傾いたが、蒼真は右脚を引いて接地させ、振り切った左腕を身体の近くへ戻した。機体は大きく揺れながらも転倒せず、投げ飛ばした敵へ短銃身砲を向けた。
一発で活動を停止させる。
「北の小型二体を排除しました。中型一体は移動を阻害しています。大型反応は、まだ接近中です」
評価室の新井田は、蒼真がいつから街灯を倒すつもりだったのか判断できずにいた。
牽引索を撃ち込んだ時点では、落下する機体を支えるための操作に見えた。しかし蒼真は着地すると同時に索を巻き上げ、街灯そのものを中型個体の脚へ絡めている。
偶然、使える位置にあったから利用したのか。索を撃ち出した時から、そこまで考えていたのか。
記録だけでは分からない。
「橘さん本人へ聞きますか?」
奈緒の問いに、新井田は画面から目を離さず答えた。
「今はやめておきます。戦闘中に説明させれば、判断を遅らせます」
ゴーストの出力は、制限値の七割にも届いていない。蒼真の心拍数は上昇しているが、身体負荷も基準の範囲内だった。
大型反応は、もうすぐ視界へ入る。
*
倒壊した建物の間から現れたのは、六本の脚と二本の長い角を持つ大型個体だった。
第三中隊が実戦で遭遇する大型より一回り小さい。それでも、中型個体の倍近い体格があり、狭い道路を通るたびに外壁や放置車両を押し潰している。
評価室で、新井田が設定を確認した。
「大型を出す予定だったんですか?」
奈緒が尋ねる。
「予備個体として登録はしていました。ただ、戦術AIが投入する条件までは指定していません」
仮想敵を制御する戦術AIが、第三中隊の防衛状況を見て予備戦力を投入したらしい。検査上の不具合ではないが、蒼真一機へ大型個体を任せることは計画に含まれていなかった。
「止めますか?」
「検査はいつでも止められます。ただ、現時点で身体負荷に問題はありません」
新井田が答える間にも、大型個体は北西の交差点へ近づいている。
神代隊長の指示が飛んだ。
『橘、第二交差点まで下がれ。中央で合流する』
蒼真は大型個体の後方を見た。
先ほど倒した中型個体が、絡んだ街灯を引きずりながら立ち上がろうとしている。今すぐ退けば、大型と中型の二体が続けて交差点へ入る。中央で合流するまでには間に合うとしても、その先には最後の避難車両が残っていた。
「退避完了まで、あとどのくらいですか?」
『二分二十秒』
「今下がると、第二交差点で二体を同時に受けます。ここで二分だけ止めます」
『中央へ全機を集める』
「そうすると、西と南西が空きます」
西側では片瀬機と御堂機が中型個体を排除した直後だった。安西機は南西の敵を抑えている。全機を中央へ集めれば北は守れるが、退避路の側面が開く。
神代隊長は数秒で全体の配置を見直した。
『二分だけだ。退避完了と同時に下がれ。大型を倒そうとするな』
「了解」
蒼真は短銃身砲を腰部へ固定し、ゴーストの両手を空けた。
大型個体が頭を下げ、二本の角を前へ向けた。突進を始めれば、狭い道路の中で正面から止めることは難しい。
それでも蒼真は、交差点で待たずに前へ出た。
「橘さんは何をするつもりですか?」
新井田が思わず口にすると、奈緒は迫ってくる大型個体と、その両側に並ぶ建物を見た。
「正面から止めないつもりでしょう」
大型個体が走り始めた。
六本の脚が路面を砕き、巨体が速度を上げていく。ゴーストも正面から走り出したが、蒼真は衝突する直前に左へ踏み切った。
機体の右足が建物の外壁へ着く。
壁が重さに耐えられる時間は短い。
蒼真はすぐにもう一歩を踏み出し、推進器を噴かして斜め上へ跳んだ。大型個体の角が、ゴーストの足元を通過する。
空中で身体をひねり、右手で敵の角を掴む。左足を頭部へ着けると、角を支点にしてゴーストの身体を前へ振った。
機体は大型個体の頭上を越え、首の後ろへ回り込む。
蒼真は外殻を両脚で挟み、空いた左手で牽引索を射出した。索の先端は、道路脇の建物を支える鉄骨へ巻き付く。
巻き上げを始めると、ゴーストの身体が鉄骨側へ引かれた。
蒼真はその力を利用し、大型個体の頭を横へ向ける。正面へ走っていた巨体の進路がずれ、道路脇の建物へ肩から衝突した。
外壁が崩れ、周囲へ瓦礫が降り始める。
ゴーストも巻き込まれかけたが、蒼真は牽引索を切り離し、大型個体の背中を蹴って跳んだ。落下するコンクリート片の間を抜け、道路へ降りる。
着地した右脚が滑り、機体の背部へ瓦礫が当たった。
蒼真は片手を路面へつき、倒れる前に姿勢を支えた。
機体表示には、右脚と背部の軽微な損傷が示されている。走行に支障はない。
建物へ半身を埋めた大型個体は、瓦礫に脚を取られ、すぐには道路へ戻れなくなっていた。
「大型の進路を外しました。行動を阻害しています」
その報告とほぼ同時に、後方で中型個体が立ち上がった。
退避完了まで一分余り。
蒼真はゴーストを立たせ、中型個体へ向かった。
正面から受け止めれば止められるが、機体の損傷は大きくなる。そこで蒼真は敵と接触する前から進路を右へずらし、ゴーストを追う中型個体を避難区域から遠ざけた。
敵が前脚を振り下ろす。
ゴーストは上半身を沈めて爪の下を抜け、そのまま敵の側面へ肩を当てた。押し返すのではなく、走る方向を変えるように身体を押す。
中型個体は脚をもつれさせながらも、ゴーストを追って進路を変えた。
その先には、大型個体が崩した建物の瓦礫が積み上がっている。
蒼真は敵の力を横へ流し、前脚を瓦礫の中へ踏み込ませた。中型個体が脚を抜こうとして身体を持ち上げた瞬間、ゴーストは背後から体当たりを加えた。
外殻が瓦礫へ沈み、動きが止まる。
完全に活動を停止させたわけではない。しかし、避難車両を追うことはできない。
蒼真は敵から離れ、交差点へ戻った。
間もなく、最後の避難車両が南東の区域境界を越えた。
『全員の退避を確認』
管理局役の報告に続き、神代隊長が全機へ指示を出す。
『任務完了。全機、離脱する』
片瀬機と御堂機が西側から下がり、安西機も南西の敵を振り切った。神代機が三機をまとめ、退避地点へ向かう。
蒼真は、その後方へゴーストを回した。
大型個体は瓦礫を押し退け始め、中型個体も埋まった脚を引き抜こうとしている。それでも、第三中隊へ追いつくほどの時間は残されていなかった。
ゴーストは最後尾を維持し、僚機と避難車両の位置を確かめながら区域外へ出た。
仮想市街地の映像が消え、任務完了を示す表示だけが操縦席へ残った。
避難者に負傷者はいない。
第三中隊も全機が離脱している。
ゴーストの損傷率は六・二パーセント。敵性個体をすべて撃破したわけではないが、追撃可能な個体を残さず、退避に必要な時間を確保していた。
蒼真は表示を最後まで確認してから、操作桿から手を離した。
「終わりですか?」
新井田の返事は、少し遅れた。
「戦術検査は終了です」
「戦術検査は?」
蒼真が聞き返すと、仮想空間がもう一度切り替わった。
目の前に腰の高さほどの作業台が現れ、その上には一本の太い紐が置かれていた。
戦闘用の機体には、あまりにも似合わないものだった。
「これは何ですか?」
「最後の検査です。その紐を蝶々結びにしてください」
「ゴーストで?」
「はい」
蒼真は作業台と、ゴーストの両手を見比べた。
つい先ほどまで、その手で敵の角を掴み、大型個体の進路を変えていた。ゴーストの指は紐に比べて大きく、少し強く掴めば表面を傷つける可能性がある。
「今の検査の後にするんですか?」
「今の後だから意味があります」
新井田は、蒼真の心拍数と指先に残る微細な震えを確認していた。
高速で機体を動かした直後に、力を抑えた繊細な作業へ切り替えられるか。フレームワーカーの適性は、敵を倒す能力だけでは測れない。人間を掴んでも傷つけず、救助装備や作業器具を壊さずに扱うためには、自分の力を正確に抑える能力が必要になる。
それを確認するため、古くから適性試験には紐を結ぶ課題が含まれていた。
「結び目の位置は?」
「紐の中央です」
「左右の輪の大きさは揃えますか?」
「そこまでは指定していません」
蒼真は少し考えた。
「では、揃えます」
ゴーストの右手が、紐の一端をそっと持ち上げた。
指先に力を入れすぎないよう、表面へ触れる感覚を確かめる。左手で反対側を持ち、二本を中央で交差させると、片方の端を下から静かにくぐらせた。
戦闘中とは違い、急ぐ理由はない。
蒼真は結び目が中央へ来るよう位置を整え、左右の端を同じ強さで引いた。それから、それぞれの紐で輪を作る。
ゴーストの指は大きい。輪の内側へ反対側の紐を通すには、一度手首の角度を変え、根元を押さえ直す必要があった。
右手の力を少し緩め、左手で作った輪が崩れないように支える。反対側の輪を根元の下へ通し、左右を交互に引きながら、形を整えていく。
強く引けば、紐は傷つく。
弱ければ、結び目が緩む。
蒼真は両手に返ってくるわずかな抵抗を確かめながら、最後まで同じ速さで紐を締めた。
作業台の中央に、蝶々結びが完成した。
紐の表面に損傷はなく、結び目も緩んでいない。中央からのずれは三ミリ。左右の輪には、五ミリだけ長さの差があった。
評価室では、誰も声を出さなかった。
ゴーストが大型個体の頭上を跳び越えた時よりも、避難者全員の生存が確認された時よりも、静かだった。
蒼真は完成した結び目を見下ろした。
「右が少し長いですね」
ゴーストの左手で結び目を押さえ、右側の輪をほんの少しだけ引く。
二つの輪が同じ長さになった。
新井田は、その状態で記録を保存した。
「これで検査は終了です」
蒼真は、すぐには接続解除を始めなかった。
「今回は、本当に終わったんですね?」
「はい」
新井田は、画面に映る蝶々結びから目を離さずに答えた。
「残念ながら、最後まで測れてしまいました」
何が残念なのか、蒼真には分からなかった。
ただ、これ以上検査を受けなくてよいことには安心した。
ゴーストの巨大な両手が、ゆっくりと作業台から離れる。
そこには、左右の輪がきれいに揃った蝶々結びだけが残されていた。
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第四十一話 終
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