表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
46/50

第四十話 待たなくていい機体

新井田虎雄が追加検査の申請書を提出したのは、標準型前衛機による適性検査が終わった日の夕方だった。


申請書には、蒼真がFW-A17を操縦した際の記録と、過去に開発が中断された試験運用機の資料が添付されていた。新井田が確認したかったのは、蒼真に前衛機の適性があるかどうかではない。それについては、すでに十分な結果が出ている。


問題は、検査で測れたものが、どこまで行っても機体側の限界だったことにある。


蒼真は標準型前衛機を問題なく操縦していた。しかし、実際には機体の反応が終わるまで次の操作を待ち、安全制御が介入する前に自分の入力を抑えていた。記録上は正常な操縦に見えても、搭乗者の能力を測ったことにはならない。


そこで新井田が選んだのが、試験運用機FW-X03だった。


開発時に与えられた識別名称は、ゴースト。


次期汎用機として設計されたものの、搭乗者の入力へ過敏なまでに反応する特性から、規定の評価を最後まで完了できた者はいない。性能不足で採用されなかったのではなく、性能を引き出せる人間がいなかったため、計画そのものが停止していた。


そのゴーストのシミュレーターデータを、橘蒼真の検査に使用する。


申請は通常よりも早く政府側の審査を通過した。神代奈緒が監察担当者として意見書を添えたことで、支援隊員制度の評価に必要な追加検査として扱われたからだ。


ただし、認められたのはシミュレーターの使用だけである。実機への搭乗は許可されず、検査中も身体負荷が基準を超えた時点で即座に中止することが条件となった。


蒼真には、承認された翌日の夕方に連絡が入った。


彼がその機体の名前を知ったのは、それからさらに二日後のことだった。



検査当日の朝、蒼真は居間の床へ膝をつき、ソファの下を覗き込んでいた。


探しているのは昴の靴下である。美咲が昨夜、洗濯したものを揃えて棚へ入れたはずなのに、右足分だけが見つからなかった。


「昴、昨日、靴下を持っていかなかった?」


美咲に聞かれた昴は、片方だけ靴下を履いた足をぶらつかせながら、紙で作ったノストスを抱えていた。


「もってない」


「頭に載せていたのを、お母さんは見たんだけど」


「ぼうし」


「あれは帽子じゃありません」


「はいらなかった」


「入れようとはしたのね」


美咲が額へ手を当てる横で、蒼真はソファの下へ腕を伸ばした。玩具の車と青いクレヨンは見つかったが、靴下はない。テレビ台の裏にも、玩具箱の下にも落ちていなかった。


結衣は食卓でパンを食べながら、家族総出の捜索を眺めていた。


「もう別の靴下を履かせればいいじゃん」


「そうすると、今度はこれだけ片方になるでしょう」


「片方だけになったら捨てれば?」


「そういう時に限って、後からもう片方が出てくるのよ」


美咲の言葉には、これまで何度も同じ経験をした者の重みがあった。


蒼真は時計を見る。今日は追加検査があるため、いつもより二十分早く起きた。それでも、家を出るまで十分しか残っていない。


その時、昴が抱えている紙のノストスの背中から、白い布が垂れていることに気づいた。


「昴。それ、何?」


指差され、昴は紙の機体を持ち上げた。丸めた紐で作られた牽引装置の間に、探していた靴下が挟まっている。


「にもつ」


「靴下だよ」


「のすとす、はこんでる」


蒼真が靴下を外し、美咲へ渡す。


「ノストスが運んでた」


「持たせたのは昴でしょう」


美咲は呆れながらも、ようやく見つかった靴下を昴に履かせた。


「靴下は運ばなくていいの。朝、みんなが困るから」


「のすとす、おしごと」


「お仕事にも、運んでいいものと駄目なものがあります」


昴は納得していない顔をしていたが、両足の靴下が揃ったことで捜索は終わった。


蒼真は立ち上がり、鞄を手に取った。


「行ってきます」


「待って」


美咲が玄関へ向かおうとする蒼真を呼び止めた。


「今日は基地でいつもの仕事?」


「午前中は、またシミュレーターに乗る」


「検査は終わったんじゃなかったの?」


美咲が眉を寄せる。蒼真自身も終わったと思っていたため、少し困った顔になった。


「検査員の人は、まだ終わっていないと思ってるらしい」


「今度は何を調べるの?」


「別の機体を動かす。昔の試験機らしいけど、実機じゃなくてシミュレーターだけだよ」


「危険はない?」


「転倒が続けば酔うことはあると思う。でも、身体に異常があれば止めることになってる」


美咲は靴下を履かせ終えた昴から目を離し、蒼真の顔を見た。


「異常が出るまで頑張らないでね」


「頑張る検査ではないよ。指示されたとおりに動かすだけだから」


「あなたの場合、それが一番心配なの」


「どうして?」


美咲は何かを言いかけたものの、時計を見て諦めた。


「帰ってきたら、結果だけ教えて」


「分かった」


「行ってらっしゃい」


玄関の扉を開ける蒼真の後ろで、昴が紙のノストスを持ち上げた。


「ぱぱ、くつした!」


「持っていかないよ」


「はこぶ?」


「運ばない」


蒼真が答えると、昴は不思議そうに紙の機体を見下ろした。


家にとっては、試験運用機より靴下の方が大きな問題だった。


蒼真には、その方がありがたかった。



シミュレーター棟の第二評価室へ入ると、前回とは異なる機体が中央画面に映っていた。


全身を黒く塗られた細身の機体で、前衛機としては装甲が薄い。手足は長く、背部から腰へかけて大型の推進装置が取り付けられている。ノストスのような作業用補助アームはなく、救助や牽引に使えそうな装備も見当たらなかった。


人間の身体を、そのまま大きくしたような姿だった。


制御卓の前では、新井田が機体データの最終確認を行っている。神代奈緒と牧野もすでに来ており、後方の見学席には宮田の姿もあった。


「おはようございます」


蒼真が声をかけると、新井田は画面から目を離した。


「おはようございます。体調はどうですか?」


「問題ありません」


「睡眠は?」


「六時間半くらいです」


「朝食は食べました?」


「食べました。靴下を探していたので、少し急ぎましたけど」


新井田は一瞬、返事に迷った。


「靴下?」


「息子がノストスに積んでいました」


「……そうですか」


何をどう理解すればよいのか分からなかったらしく、新井田は深く追及せず、中央画面へ向き直った。


「今日、橘さんに乗ってもらうのはFW-X03です。開発時の識別名称はゴースト。次期汎用機として作られた試験運用機ですが、現在は開発と評価の両方が停止しています」


「何か問題があったんですか?」


「性能が高すぎました」


蒼真は画面の機体を見上げた。


「高いなら、問題ではないと思います」


「搭乗者が扱えれば、です」


新井田が過去の評価映像を開くと、ゴーストが試験場に立っている場面が映し出された。


最初の搭乗者は、一歩踏み出しただけで身体を前へ傾けた。転倒を防ごうとして反対側へ入力すると、機体はその動きにも即座に反応する。重心が右から左へ大きく振れ、三歩目を出す前に地面へ倒れた。


別の搭乗者は、右へ曲がろうとして機体を回しすぎた。慌てて止めようとした結果、上半身だけが逆方向へ振られ、姿勢を崩して膝をついた。


「標準機には、搭乗者の曖昧な入力を切り捨てる安全制御があります」


新井田は映像を止め、FW-A17とゴーストの制御範囲を並べた。


「人間が右へ一歩進もうとする時、右脚だけを動かしているわけではありません。無意識に肩へ力が入り、腰もわずかに傾く。標準機は、その中から必要な入力だけを拾い、機体が転ばない範囲へ調整します」


「ゴーストは調整しないんですか?」


「最低限の姿勢維持は行います。ただし、搭乗者の能力を機体側が邪魔しないよう、補正の介入をかなり遅くしてあります。そのため、余計な力まで動作として反映されてしまうんです」


過去にゴーストへ乗った評価搭乗者は十二名いた。全員が前衛機の操縦経験を持ち、そのうち半数以上が教官資格を持っていたが、規定された基本動作を最後まで完了した者はいない。


「普通の人が扱えないなら、汎用機にはなりませんね」


蒼真が言うと、新井田は頷いた。


「開発側も同じ結論を出しました」


「では、なぜ自分が乗るんですか?」


「前回の検査で、橘さんが標準機の動作を待っていたからです」


新井田は、蒼真がFW-A17へ乗った時の操作記録を表示した。旋回、急停止、敵を避けた際の重心移動。どの場面でも、蒼真は機体の反応が終わるまで次の操作を遅らせている。


「標準機で分かったのは、橘さんに前衛機の適性があるということだけです。橘さん自身がどこまで動かせるのかは測れていません」


「適性が分かったなら、それで十分では?」


「検査は終わっていません」


「自分は困りません」


「私が困ります」


新井田は真面目な顔で答えた。


蒼真も冗談で言ったわけではない。そのため、二人はしばらく無言で向き合うことになった。


牧野が口元を手で隠している。


「牧野さん、笑っていませんか?」


「いいえ。お二人とも、とても真面目に話していると思っただけです」


「話が進まないので困っています」


新井田が言うと、奈緒が二人の間へ入った。


「橘さん。今回の検査は、あなたを前衛へ配置するためのものではありません。標準機で測れなかった部分を確認することが目的です。また、実機を使用する許可は出ていません。ゴーストのシミュレーターデータを、現在の設備上で再現するだけです」


「結果が良くても、第三中隊の支援から外れませんか?」


「今日の結果だけで、配置を変えることはありません」


奈緒が明言すると、蒼真の表情からわずかに緊張が消えた。


「それなら分かりました」


「前衛機への適性が高いと言われることは、そんなに嫌ですか?」


「適性があることと、乗りたいことは別なので」


「ノストスもフレームワーカーです」


「ノストスには、戦う以外にできることがあります」


蒼真がそう答えると、奈緒はそれ以上追及しなかった。ただ、その言葉を端末へ記録した。


新井田は検査内容を説明した。


今日行うのは、機体との接続確認と基本動作だけだった。手指や四肢の反応を確かめた後、平坦な仮想空間で歩行、旋回、停止を行う。問題がなければ、最後に百メートルの直進走行を試す。


戦闘も、障害物回避も予定されていない。


「これだけですか?」


蒼真が聞く。


「それを最後まで完了できた人がいません」


新井田の返答を聞き、蒼真はもう一度、黒い機体を見た。


見た目だけなら、立って歩けない機体には思えなかった。



ゴーストの操縦席は、現行機より簡素に見えた。


実際に表示される情報が少ないわけではない。ただ、機体側が行った補正や、次に推奨される操作がほとんど表示されない。搭乗者の入力を修正するのではなく、そのまま機体へ伝えることを前提としているためだった。


蒼真が座席へ身体を預けると、固定具が胸と腰を押さえ、首筋から背中にかけて複数の感覚端子が接触した。


「接続を開始します」


新井田の声が、操縦席内へ流れる。


「最初は二十パーセントです。この段階では機体を固定していますから、手を動かそうとしても実際には動きません。まず、右手を握るつもりで力を入れてください」


蒼真が右手を握る。


画面内に表示されたゴーストの右手は固定されたままだったが、各指へ入力信号が入ったことを示す線が動いた。


「入力を確認しました。肩や左手への不要な信号は、ほとんどありません」


「出てはいけないものなんですか?」


「普通は出ます。人間は、右手だけを完全に独立させて動かしているわけではありませんから。ただし、今のところ問題はありません」


接続率が三十パーセントへ引き上げられ、右手の固定が解除された。


蒼真が指を曲げると、ゴーストの右手もほぼ同時に閉じた。


わずかな遅れさえ感じない。


もう一度開き、親指から順番に動かしてみる。FW-A17では反応の遅れを感じた薬指と小指も、蒼真の意識に重なるように動いた。


「速いですね」


「過敏に感じますか?」


「いいえ。自分の手と同じです」


評価室で、新井田が操作記録を見直した。


過去の搭乗者は、接続率三十パーセントの段階でも、指を必要以上に強く曲げている。自分の手を握る感覚で入力すると、ゴースト側では最大出力に近い信号となっていたからだ。


蒼真の入力は違った。


強く握る必要がないと、一度目の動作で理解したらしい。二度目からは、指を動かすために必要な分だけ入力している。


「接続率を四十パーセントへ上げます。次に、両手と両腕を確認します」


新井田が告げると、固定を解除された範囲が肩まで広がった。


蒼真は左右の腕を前へ伸ばし、肘を曲げた。肩を回し、指を開いたまま手首の角度を変える。ゴーストは一連の動作へ遅れることなく追従し、蒼真が止めようとした位置で正確に止まった。


ノストスに似ている。


そう感じたが、同じではない。


ノストスは、蒼真が次に何をしようとしているのかを先に読み、必要な姿勢を準備する。それに対してゴーストは、何も予測していない。ただ、入力した分だけ動き、入力を止めればそこで止まった。


「違和感はありませんか?」


牧野が尋ねる。


「ありません。ノストスより軽く感じます」


「機体重量は、実際にノストスより軽く設計されています」


「重さではなく、動かす時の抵抗がない感じです」


蒼真の答えを聞き、牧野は操作記録を新井田と共有した。


「補正量は?」


「姿勢維持以外、ほぼゼロです」


「学習記録は初期化されていますよね?」


「もちろんです。橘さんの操縦傾向は登録していません」


それなら、ゴーストが蒼真へ合わせているのではない。蒼真も、機体の癖へ合わせるために入力を変えてはいなかった。


合わせる必要がない。


それが、もっとも簡単な説明だった。


接続率が五十パーセントへ上がり、脚部との接続が始まった。


蒼真が右脚を上げると、ゴーストの右足が床から離れた。左脚と腰部は、機体を支えるために必要なだけ重心を移している。蒼真が意図していない余計な傾きは発生しなかった。


そのまま右脚を前へ出し、指定された線へ足を下ろす。


誤差は一センチにも満たなかった。


「右足が遠くない」


蒼真が呟いた。


新井田は前回の記録を思い出した。FW-A17では、蒼真が最初に右脚を動かした際、指定された位置より二・八センチ先へ着地している。蒼真は一度で誤差を把握し、二度目には自分の入力を弱めて補正した。


今回は、最初から補正する必要がなかった。


「ゴーストの方が動かしやすいですか?」


新井田が聞くと、蒼真は右脚を戻しながら答えた。


「今のところは」


その返事を聞いた宮田は、見学席で息を吐いた。


過去の評価搭乗者が一歩も歩けなかった機体を前に、蒼真は好みを確かめるような口調で話している。


宮田には、もう驚くべきなのか、呆れるべきなのか分からなかった。



接続率を六十パーセントまで上げたところで、歩行試験へ移った。


仮想空間に再現されたのは、白い線だけが引かれた平坦な地面だった。十メートル先に停止位置が示されている。段差も障害物もなく、蒼真が行うのは、そこまで歩いて止まることだけである。


新井田は、過去の評価映像を思い出していた。


最初の一歩で歩幅が大きくなりすぎ、次の足が追いつかなくなる。姿勢を戻そうとして、逆方向へ機体を振る。ゴーストは入力へ忠実に反応するため、搭乗者が焦るほど動きが大きくなり、最後には自分で制御できなくなる。


「急ぐ必要はありません。最初は右脚を前へ出し、機体が安定してから左脚を動かしてください」


「分かりました」


蒼真が右脚を踏み出す。


ゴーストは上半身を揺らすことなく足を前へ運び、蒼真が意図した位置へ着地した。続いて左脚が自然に重心を引き継ぐ。二歩、三歩と進んでも歩幅は乱れず、機体の上半身は人間が歩く時と同じ程度に揺れているだけだった。


蒼真は十メートルを歩き、停止線の手前で足を揃えた。


停止位置の誤差は、一・一センチ。


「歩行を完了しました。体調に変化は?」


「ありません」


「機体の動きは?」


「分かりやすいです」


新井田は数値を確認した。ゴーストの姿勢制御は最低限しか働いていない。それでも機体は一度も均衡を失わず、蒼真の入力と同じ周期で歩いている。


「次は右へ九十度、旋回してください」


蒼真は左脚へ重心を移し、右脚を弧を描くように動かした。腰部の旋回へ上半身を合わせ、正面が九十度変わったところで足を止める。


旋回角度の誤差は〇・三度だった。


「安全制御が働いていないのは分かりますか?」


新井田に聞かれ、蒼真はゴーストの姿勢表示を確かめた。


「はい。自分で動かした分だけ動いています」


「動かしすぎれば、その分だけ大きく動きます。怖くありませんか?」


「動かしすぎなければいいんですよね?」


「そうです」


「なら、大丈夫だと思います」


新井田は、すぐには返事ができなかった。


理屈としては正しい。


しかし、過去にゴーストへ乗った者たちも同じ説明を受けている。問題は、自分がどれだけ余計な入力をしているのか、本人には分からないことだった。


蒼真は最初から、必要な分しか動かしていない。


左右の旋回、後退、歩幅の変更、腰を落とした姿勢からの立ち上がり。新井田が指示した基本動作を、蒼真は一度も失敗せずに終えた。


評価室の後方では、いつの間にかゴーストの開発関係者が映像を見ていた。使用申請が承認されたことを知り、遠隔で接続してきた者たちである。


誰にも扱えなかった機体が歩いている。


しかも、搭乗者はそれを特別なことだと思っていない。


「基本動作は完了です」


新井田が告げると、蒼真は操縦席で首を傾げた。


「これで終わりですか?」


「基本動作は、です。この後に走行試験がありますが、その前に休憩を入れます」


「まだ疲れていません」


「確認する記録が増えました。私の方が休憩を必要としています」


「新井田さんが?」


「そうです」


蒼真には理由が分からなかったが、検査員の判断なら従うしかない。


「分かりました」



操縦席から出てきた蒼真に、牧野が水を渡した。


「ノストスと比べて、どうでしたか?」


「ゴーストの方が、そのまま動きます」


「動かしやすい?」


「はい。ただ、ノストスとは違います」


蒼真は水を一口飲み、どう説明すればよいのか考えた。


「ノストスは、自分が次に何をするのか分かっている感じがします。ゴーストは、何も考えずに言われたとおり動いている感じです」


「どちらが好きですか?」


「仕事で使うならノストスです」


答えは早かった。


「ゴーストの方が動かしやすいのに?」


「牽引装置も補助アームもありません。救助装備も少ないです」


「その代わり、戦闘性能はゴーストの方が高いですよ」


「自分は、戦うために乗りたいわけではないので」


牧野は柔らかく笑った。


「そうでしたね」


近くで聞いていた宮田が口を開いた。


「橘さんは、ゴーストが普通の機体ではないと分かっていますか?」


「昔の試験機だとは聞きました」


「そうではなくて、十二人の評価搭乗者が誰も基本動作を終えられなかった機体です」


「映像は見ました」


「それを、一度も転ばずに歩かせたんですよ」


「指示されたとおりに動かしただけです」


宮田は、しばらく蒼真の顔を見つめた。


嘘を言っているようには見えない。謙遜でもない。本当に、それだけのことだと思っている。


「ノストスの検証をした時、橘さんは手順を覚えれば自分と同じようにできると言いましたね」


「はい」


「あれは間違いです」


「そうですか?」


「少なくとも、私はゴーストへ乗っても、今のようには歩かせられません」


「まだ乗っていないので、分からないと思います」


「乗りません」


「比較するなら必要では?」


「これは支援機ではありません。それに、今の映像を見た後で乗ろうとは思いません」


「普通に歩いただけですよ」


「だからです」


宮田は、そこで説明することを諦めた。


「奥様も大変でしょうね」


「妻を知っているんですか?」


「いいえ。ただ、何となく分かりました」


蒼真は不思議そうな顔をした。


少し離れたところで会話を聞いていた奈緒は、端末へ短い記録を残した。


本人認識と周囲の評価に、著しい差異。


前回も書いた内容だった。


ただ、ゴーストの基本動作を終えた後では、その意味がさらに重くなっていた。



休憩後、蒼真は再び操縦席へ戻った。


次の検査は、百メートルの直進走行だった。歩行から始め、姿勢が安定していることを確認しながら速度を上げ、時速三十キロへ到達した時点で終了する。


ゴーストの最大速度と比べれば、半分にも満たない。それでも、過去の評価では誰一人として到達できていなかった。


「接続率は六十パーセントを維持します。速度は一度に上げず、十キロから五キロずつ引き上げます。姿勢を崩した場合は無理に修正せず、操作をこちらへ渡してください」


「了解」


「身体に異常を感じた場合も、すぐに申告してください」


「分かりました」


仮想空間に百メートルの走路が現れる。


開始信号とともに、蒼真はゴーストを歩かせた。


時速五キロから十キロへ速度を上げる。歩幅が広がり、両足が地面から離れる時間が少しずつ増えていく。蒼真が身体を前へ傾けると、ゴーストも同じように重心を移し、歩行から走行へ滑らかに切り替わった。


時速十五キロに達しても、機体を待つ必要はなかった。


右脚を出そうと思えば、その時に出る。地面を蹴る力を強めれば、入力した分だけ速度が上がる。FW-A17で感じた歩幅のずれも、旋回前の余計な重心移動もない。


ゴーストは、蒼真の身体と同じ速さで動いていた。


「二十キロへ上げます」


新井田の指示に従い、蒼真は歩幅を少し広げた。


機体が加速する。


身体負荷を示す数値は安定していた。心拍数も平常範囲から大きく変化していない。新井田は速度を二十五キロへ上げるよう指示した。


その直後だった。


走路の右前方が、わずかに沈んだ。


警告表示は、まだ出ていない。


蒼真は右脚を着地させる直前に、そこへ足を置けば姿勢を崩すと感じた。


理由を考える時間はなかった。


左脚へ重心を移し、右足の着地点を変える。ゴーストは急な入力を抑えず、そのまま進路を左へずらした。沈んだ路面を避けて右脚が着地し、次の一歩で元の走行線へ戻る。


その時になって、操縦席へ警告が表示された。


《右前方、路面異常》


「停止してください!」


新井田の声が響いた。


蒼真は歩幅を狭め、上半身を起こした。ゴーストは二歩、三歩と速度を落とし、停止線を少し越えた場所で止まった。


「機体停止。身体に異常はありません」


蒼真が報告する。


評価室では、誰もすぐに答えなかった。


予定された試験には、路面の沈下など設定されていない。古い環境データを現在のシミュレーターへ変換した際、一部の地形情報が正常に読み込まれていなかったらしい。


設備側の不具合だった。


本来なら、異常が発生した時点で検査を中止しなければならない。


しかし、新井田が見ていたのは不具合の原因ではなかった。


蒼真が左脚へ重心を移し始めた時刻。


路面が沈み始めた時刻。


操縦席へ警告が表示された時刻。


三つを並べると、蒼真の動作が警告表示より〇・一秒早い。


奈緒も、その記録に気づいた。


「警告が出る前に避けていますね」


「映像上で路面が沈んだのは、さらに後です」


新井田は何度も記録を再生した。


ゴーストの右脚が地面へ近づく。路面に目立った変化はない。それでも蒼真は左脚へ重心を移し、着地点を変え始めている。


新井田は通信を開いた。


「橘さん。路面の異常には、いつ気づきました?」


「右足を置く前です」


「警告を見てから?」


「違います」


「では、何が見えたんですか?」


蒼真は記憶を辿った。


路面が崩れたところを見たわけではない。警告も聞いていない。ただ、そこへ右足を置いてはいけないと感じた。


「地面が下がるような気がしました」


「その時点では、映像上の変化はありません」


「なら、分かりません」


「分からないのに避けた?」


「そこへ足を置くと、姿勢を崩すと思いました」


「なぜ?」


「それが分かりません」


以前と同じ答えだった。


初めて実戦へ出た日、安西機の右後方へ敵が接近した時も、何をすればよいかは分かっていた。


なぜ分かったのかだけが、抜け落ちている。


新井田は、蒼真の入力とゴーストの反応を重ねた。


標準機であれば、安全制御が突然の進路変更を抑え、右脚は沈んだ路面の縁へ着地していた可能性が高い。しかしゴーストは、蒼真の判断へ遅れず追従した。


蒼真が正しい時、ゴーストはその判断を邪魔しない。


その代わり、判断を誤れば、機体も一緒に間違える。


「今日の検査は中止します」


新井田が告げると、蒼真は操縦席で自分の身体を確認した。


「体調は問題ありません」


「設備側の異常です。この状態では続けられません」


「分かりました」


蒼真は反論しなかった。


ゴーストの固定処理が始まり、接続率が段階的に下げられていく。


奈緒は、止まったままの黒い機体を見つめていた。


「適性は確認できましたか?」


「あります」


新井田は即答した。


「どの程度ですか?」


「まだ書けません」


「基本動作を完了し、走行中の異常にも対応した。それでも足りない?」


「橘さんにも、ゴーストにも余裕が残っています。今の検査では、どちらの限界にも届いていません」


標準機では、機体が先に限界へ達した。


ゴーストなら、蒼真の上限を測れると思っていた。


しかし接続率は六十パーセント。出力は最大の三分の一にも届かず、走行速度も試験予定の範囲内だった。蒼真はゴーストを動かしているが、その性能を試してはいない。


「限界を測るには、何が必要ですか?」


奈緒の問いに、新井田はすぐには答えなかった。


平坦な場所を歩き、まっすぐ走るだけでは足りない。複数の情報が同時に変化し、その場で優先順位を決めなければならない状況が必要になる。


障害物。


味方機。


退避する民間人。


そして、敵性個体。


条件を増やすほど、検査は実戦へ近づいていく。


「次の検査案を作ります」


新井田は慎重に答えた。


「ただし、実施するかどうかは、その内容を確認してから決めてください」


「新井田さんが、検査の続きを迷うんですね」


「測ることは必要です。ただ、測った数字が何に使われるのかも考えなければならなくなりました」


奈緒は、新井田の横顔を見た。


数日前まで、彼は搭乗者の上限を測れていないことだけを問題にしていた。


ゴーストを引っ張り出した本人が、ようやく、その先にあるものへ気づき始めていた。



検査を終えて評価室へ戻った蒼真は、接続時の身体記録を確認されていた。


心拍数に大きな変化はなく、筋緊張も正常範囲だった。接続酔いの兆候も見られない。


「今日の結果だけで、配置が変わることはありません」


奈緒が改めて伝えると、蒼真は明らかに安心した。


「それなら良かったです」


「ゴーストを動かせたことより、そちらの方が重要ですか?」


「はい」


「過去に誰も基本動作を完了できなかった機体です」


「聞きました」


「何か思うところは?」


蒼真は少し考えた。


「使う人を選びすぎる機体は、配備しにくいと思います」


「自分が動かせたことについては?」


「相性が良かったのかもしれません」


「嬉しくはない?」


「前衛機なので」


奈緒には、やはり理解しにくかった。


新井田が尋ねる。


「もう一度ゴーストへ乗ってもらうことになったら、どうしますか?」


「業務命令なら乗ります」


「嫌ですか?」


「ノストスの方がいいです」


「ゴーストの方が動かしやすかったんですよね?」


「はい。でも、できることはノストスの方が多いので」


「戦闘でできることは、ゴーストの方が多いですよ」


「だからです」


蒼真は静かに答えた。


戦うことしかできない機体より、戦わずに人を助けられる機体へ乗りたい。


それでも戦わなければならない時には、命令を受け入れる。


蒼真の中では、最初から何も変わっていなかった。


牧野は、その答えを聞いて柔らかく笑った。


「橘さんらしいですね」


「そうですか?」


「はい」


何が自分らしいのか、蒼真には分からなかった。



帰宅すると、昴は左右で違う色の靴下を履いていた。


右足は青く、左足は黄色い。朝、探していた白い靴下は両方とも揃ったはずなのに、なぜこうなったのか分からない。


「靴下、違うよ」


蒼真が指摘すると、昴は青い方の足を高く上げた。


「こっち、はやい」


次に、黄色い足で床を強く踏む。


「こっち、つよい」


「靴下で変わるの?」


「かわる!」


本人がそう思っているなら、昴にとっては変わるのだろう。


美咲が台所から出てきた。


「おかえり」


「ただいま」


「検査はどうだった?」


「途中で中止になった」


美咲の表情が変わった。


「何かあったの?」


「古いシミュレーターデータに不具合があった。自分は大丈夫だよ」


「機体は動かせた?」


「普通に」


「その普通が、一番信用できないんだけど」


「どうして?」


美咲は答えず、蒼真の顔色を確かめるように見つめた。


「気分は悪くない?」


「大丈夫」


「身体は痛くない?」


「走っただけだから」


「無理はしなかった?」


「指示された範囲しか動かしてないよ」


それを聞いても、美咲は完全には安心しなかったらしい。それでも、蒼真がいつもと変わらないことを確認すると、台所へ戻った。


「今日は鶏団子鍋。着替えたら昴を座らせて」


「分かった」


蒼真が寝室へ向かうと、昴が左右で色の違う足を大きく上げながら後を追ってきた。


「ぱぱ、みて!」


青い靴下の右足を勢いよく前へ出す。


「はやい!」


続いて、黄色い靴下の左足で床を踏む。


「つよい!」


「転ばないでね」


「ころばない!」


言い切った直後、昴は敷居へ足を引っかけた。


身体が前へ傾く。


蒼真は振り返り、その脇へ手を入れて抱き止めた。


昴の顔は、床へ届く前に止まった。


「転びそうだったね」


蒼真が言うと、昴は床と父親の顔を交互に見た。


「ころんでない」


「お父さんが止めたからね」


「ぱぱ、はやい?」


「間に合ったよ」


昴は満足そうに笑った。


「ぱぱ、つよい?」


「強くはないと思う」


「つよい!」


本人がそう思っているなら、昴にとってはそうなのだろう。


蒼真は息子を床へ下ろした。


今日乗った機体は、速かった。


蒼真が動かそうとした時に動き、止めようとした時に止まった。機体を待つ必要はなく、自分の判断を妨げるものもなかった。


けれど、速いことにどれほどの意味があるのか、蒼真にはまだ分からない。


昴が転ぶ前に手を伸ばせたように、誰かが倒れる前へ間に合うための速さなら。


その時は、少しだけ役に立つのかもしれなかった。



その夜、新井田は一人でシミュレーター施設へ残っていた。


画面では、蒼真が路面の沈下を避けた瞬間が繰り返し再生されている。警告より早く始まった重心移動と、それへ遅れず追従したゴースト。搭乗者の判断と機体の動作の間には、ほとんど隙間がなかった。


標準機なら、安全制御が蒼真の動きを止めていた。


ゴーストは止めなかった。


蒼真の判断が正しければ、それは理想的な反応だった。


しかし、間違えた時にも、ゴーストは同じ速さで応える。


新井田は次回の検査案を開いた。


単純な走行では、蒼真の能力を測れない。複数の障害、味方機、退避対象、そして敵性個体を同時に配置し、その中で何を優先するのかを確認する必要がある。


項目を書き加えるほど、検査内容は戦闘へ近づいていく。


新井田は途中で手を止めた。


ゴーストを引っ張り出したのは、自分だった。


測定できていないものを、測定済みとして終わらせたくなかった。ただ、それだけのつもりだった。


けれど、ここから先の検査によって証明されるものは、単なる機体適性ではない。


橘蒼真が、前線で何をできるのか。


軍の上層部が知りたがるのは、そこだろう。


新井田は次回検査案を保存したが、提出はしなかった。


先に、神代奈緒へ相談する必要がある。


検査の続きを行いたいという気持ちは変わらない。それでも、ただ数字を取ればよいとは思えなくなっていた。


暗い画面の中で、ゴーストが静かに立っている。


誰にも扱えなかった機体。


誰にも扱ってほしくなかったのかもしれない機体。


それを蒼真だけが、普通に動かした。


そして本人は、その結果を少しも望んでいなかった。



---


第四十話 終

ここまでお読みいただきありがとうございます。

面白いと思われましたら、ブックマーク、いいねをお願いします。

また、気軽に何でも良いので感想を書いて頂けたら執筆の励みとなります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ