第三十九話 普通を測る
正式評価の翌朝、中央戦術支援統合網は、橘蒼真に関する記録を更新した。
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対象、橘蒼真。
所属、第三中隊。
職務、現場支援隊員。
専用機、FW-S09ノストス。
支援能力評価、最高区分。
同型機による比較試験、完了。
機体性能による優位性、一部否定。
他搭乗者との差異、極めて大。
要救助者搬送成功率、基準値以上。
退避経路維持率、基準値以上。
僚機損傷抑制率、基準値以上。
複数対象への同時対応、再現困難。
個人技能による差異、推定。
前衛機適性、未評価。
追加検査、承認。
使用機体、標準型前衛フレームワーカー。
目的、機体性能と搭乗者技能の分離。
本人通知、通常適性検査。
観察、継続。
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蒼真は、その記録を知らなかった。
政府の監察部門が追加検査を承認したことも、基地の外から検査員が呼ばれたことも聞いていない。
彼が知っているのは、いつもより一時間早く基地へ出勤し、シミュレーターによる前衛機の適性検査を受けるということだけだった。
*
朝食の席で、昴はゆで卵の黄身だけを皿の端へ集めていた。
白身はすでに食べ終わっている。残された黄身を箸の先で押し、崩しては固め、また押している。食べ物というより、砂場の土と同じ扱いだった。
「遊ばないの」
美咲に言われると、昴は箸を止めた。
「ぱさぱさ」
「お茶を飲みながら食べればいいでしょう」
「おちゃ、いらない」
「じゃあ、そのまま食べなさい」
「ぱさぱさ」
話が一周して戻った。
蒼真は味噌汁の椀を置き、昴の皿を見た。
「白身と一緒に食べればよかったんじゃない?」
「しろいの、もうない」
「先に全部食べたからね」
「もういっこ」
「黄身を食べたらね」
美咲が答えると、昴は自分の皿と、まだ手を付けていない蒼真のゆで卵を見比べた。
嫌な予感がした蒼真は、自分の皿を少し遠ざけた。
「これは、お父さんのだよ」
「しろいの、ちょうだい」
「そうしたら、お父さんにも黄身だけ残るでしょう」
「ぱぱ、たべる」
「自分が食べたくないものを渡そうとしてない?」
昴は答えず、蒼真のゆで卵へ手を伸ばした。
「駄目」
美咲に止められ、昴は不満そうに頬を膨らませる。
その様子を見ていた結衣が、自分のゆで卵を半分に割った。
「白いところを少しあげるから、黄色いところも食べなよ」
「ほんと?」
「半分だけね」
「ぜんぶ」
「交渉しないの」
「結衣、甘やかさないで」
美咲に注意された結衣は、白身を小さく切って昴の皿へ置いた。
「今日だけだからね」
「きょうだけ」
昴は素直に繰り返し、白身と黄身を一緒に口へ入れた。
蒼真は、そのやり取りを見ながら残りの味噌汁を飲んだ。
家を出る時間が近づいている。
「今日はノストスに乗るの?」
結衣が聞いた。
「実機には乗らないよ」
「訓練?」
「検査らしい」
その言葉に、美咲が顔を上げた。
「昨日の続き?」
「そうだと思う」
「何を調べるの?」
「普通の前衛機に乗れるかどうか」
「乗れるんでしょう?」
「資格を取った時には乗ったよ」
「それなら、どうしてまた調べるの?」
美咲の疑問はもっともだった。
蒼真も同じように思っている。
「ノストス以外でも、同じように動けるか確認したいらしい」
「同じようにって、救助するの?」
結衣が尋ねる。
「今日は前衛機だから、戦闘の適性を見るんじゃないかな」
「戦うの?」
美咲の声が、わずかに硬くなった。
「シミュレーターの中だけだよ。実際には何も起きない」
蒼真がそう答えると、美咲の表情は少しだけ緩んだ。
「終わったら帰ってくるのね?」
「午後は基地で通常勤務。帰る時間はいつもと同じ」
「なら、分かった」
美咲はそれ以上聞かなかった。
結衣も、前衛機の武装や試験内容について質問を続けることはなかった。今日は体育があるのに体操服を鞄へ入れていなかったことを美咲に指摘され、慌てて自室へ取りに戻ったからだ。
昴は、結衣からもらった白身だけを先に食べ、再び黄身を残していた。
仕事の話は、それで終わった。
食卓では、残った黄身を誰が食べさせるかという問題の方が重要だった。
*
第三中隊の基地へ着くと、牧野が格納庫の前で待っていた。
薄い灰色の作業服を着て、胸元に端末を抱えている。今日はノストスの定期整備が予定されているはずだが、蒼真を見ると、その隣へ並んだ。
「おはようございます、橘さん」
「おはようございます。牧野さんもシミュレーター棟へ?」
「はい。整備班からの立会人です」
「ノストスの整備は大丈夫ですか?」
「担当者へ引き継いであります。午前中だけですから、問題ありません」
二人は格納庫の間を通り、基地の奥にあるシミュレーター棟へ向かった。
途中、整備架台に固定されたノストスが見えた。背部の牽引装置が開放され、二人の整備員が内部へ入っている。正式に蒼真の専用支援機として運用されることが決まったが、機体の外見は昨日までと何も変わらない。
「専用機になったら、搭乗者の名前を機体に書くんですか?」
蒼真が尋ねると、牧野は足を止めた。
「書きたいんですか?」
「いえ。そういうものなのかと思っただけです」
「前衛部隊では、識別章や搭乗者の個人標章を付けることもあります。ただ、必須ではありません」
「それなら、今のままでいいです」
「橘さんの名前を入れてもいいんですよ」
「自分が乗っている時は、見えないので」
牧野は一瞬黙り、やがて小さく笑った。
「確かに、そうですね」
「それに、必要な人が見ればノストスだと分かります」
「では、今のままにしておきます」
蒼真は頷き、再び歩き始めた。
牧野は少し遅れて、その後へ続いた。
専用機に愛着がないわけではないのだろう。ただ、蒼真にとって機体の所有を示すことと、機体を大切にすることは別らしい。
そこが、いかにも橘蒼真らしかった。
*
第二評価室へ入ると、見覚えのない男性が制御卓の下へ潜り込んでいた。
黒い作業用ズボンに、紺色のシャツを着ている。白髪の混じり始めた短い髪と、がっしりした肩を見れば若くないことは分かるが、床へ片膝をついて配線を確認する動きには無駄がなかった。
制御卓の横には、工具箱が開いたまま置かれている。
「新井田さん、搭乗者が来ました」
部屋の奥から女性に声をかけられ、男性は卓の下から顔を出した。
「もうそんな時間ですか」
立ち上がった彼は、腰を一度叩いてから蒼真へ向き直った。
「中央訓練評価施設の新井田虎雄です。今日の検査を担当します」
年齢は五十歳。
事前資料にあった経歴によれば、シミュレーター設備の検査員として二十年以上勤務し、旧式機から現行機まで十七機種の評価に携わっている。
「第三中隊の橘蒼真です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。今、最終確認をしていました。機械のせいにはできないようにしておかないと、後で面倒ですからね」
新井田は何でもないことのように言い、制御卓の画面を指先で叩いた。
「設備は正常です。検査中に変だと思ったことがあれば、遠慮なく言ってください。機体が悪いのか、設備が悪いのか、搭乗者が悪いのか。それを分けるのが私の仕事です」
「自分が悪い場合も言ってもらえますか?」
「もちろんです。その方が直しやすいでしょう」
「助かります」
二人がごく普通に会話を終えると、部屋の奥にいた女性が近づいてきた。
濃紺のスーツを着て、肩までの黒髪を後ろで束ねている。年齢は蒼真と大きく変わらないように見えた。
どこかで見た顔だった。
蒼真が記憶を探していると、女性の方から名乗った。
「政府危機対策調査室の神代奈緒です。以前、管理局で一度お会いしています」
蒼真は思い出した。
地下施設の記録について聞き取りを受けた時、同席していた政府側の人間だ。発言は多くなかったが、修正前の記録と修正後の記録を何度も見比べていた。
「お久しぶりです」
「覚えていたんですね」
「名前までは、今思い出しました」
「正直ですね」
奈緒は少し笑った。
その後方には、神代隊長が立っていた。
同じ名字。
目元も、よく見れば似ている。
蒼真が二人を見比べると、奈緒が気づいた。
「兄です」
「そうだったんですか」
「職務上は、別の所属です。今回、私は政府側の監察担当として来ています」
神代隊長も普段と変わらない表情で告げる。
「ここでは神代監察官だ。俺との関係は気にしなくていい」
「分かりました」
蒼真が素直に頷くと、奈緒は兄を横目で見た。
「相変わらず説明が短いのね」
「必要なことは言った」
「そういうところは変わらない」
神代隊長は答えず、壁際へ移動した。
二人の関係は悪くないらしい。
しかし、職場で兄妹らしく振る舞うつもりもないようだった。
評価室には、城戸一尉、片瀬、安西、御堂も来ていた。さらに壁際の席には、昨日の支援機比較試験へ参加した宮田が座っている。
宮田は蒼真と目が合うと、軽く頭を下げた。
「今日は見学させていただきます」
「宮田さんも検査を受けるんですか?」
「いいえ。私は昨日、十分受けました」
答えながら、宮田は少し疲れたように笑った。
「同じノストスを使って、なぜあれほど差が出たのか。それを自分でも確認しておきたいんです」
蒼真は首を傾げた。
「手順を覚えれば、差は縮まると思います」
「昨日も聞きました」
「そうでしたか」
「はい。ですから今日は、黙って見ています」
その口調には、すでに何かを諦めたような響きがあった。
奈緒が制御卓の前へ立つと、中央画面に検査要綱が表示された。
「今回の目的を説明します」
室内の会話が止まった。
「昨日の比較試験によって、ノストスは他の支援隊員でも運用可能だと確認されました。一方、同一条件下における橘さんの成績は、他の候補者と大きく離れています」
画面に、四人分の記録が表示される。
救助対象者の搬送時間、退避路の確保、損傷機の牽引、周辺危険の発見、複数作業の同時処理。宮田たち三人も基準を満たしていたが、蒼真だけは、ほぼすべての項目で突出していた。
「この差が、ノストスへの習熟によるものなのか、現場支援隊員としての経験によるものなのか、それとも搭乗者個人の特性によるものなのか。現時点では切り分けられていません」
奈緒は画面を切り替えた。
標準型前衛フレームワーカー、FW-A17。
現在、もっとも広く配備されている機体だった。
「そこで今回は、ノストスとは特性の異なる標準型前衛機を使用します。橘さんの前衛配属を決める検査ではありません。機体を変えても同じ傾向が現れるかを確認するための追加検査です」
「結果が良くても、第三中隊の支援から外れないということですか?」
蒼真が確認する。
「本日の結果だけで、配置を変更することはありません」
「分かりました」
返事が早かった。
奈緒は、その反応を見逃さなかった。
「前衛機へ乗ることに抵抗がありますか?」
「あります」
評価室が静かになる。
蒼真は特に声を強めたわけではない。ただ、質問へ正直に答えただけだった。
「理由を聞いても?」
「戦うための機体だからです」
「ノストスでも戦闘へ参加していますね」
「必要な時だけです。ノストスには、戦う以外にできることがあります」
「前衛機にはない?」
「少ないと思います」
奈緒は少し考えたあと、頷いた。
「分かりました。その認識も評価記録へ残します」
新井田が制御卓を操作すると、今日行う三つの検査が表示された。
第一検査は基本機動。
模擬市街地を走行し、指定された経路を通過する。歩行、加速、旋回、急停止、障害物回避を行い、機体操作の精度を測定する。
第二検査は単機戦闘。
小型の仮想敵四体を相手に、防盾、短銃身砲、杭撃ち装置を使用する。撃破数だけでなく、自機の損傷、建物や道路への被害も評価対象となる。
第三検査は部隊行動。
第三中隊の四機と行動し、避難中の民間人を守りながら敵を排除する。ただし、蒼真に求められるのは避難誘導ではなく、前衛機として指定された区域を守ることだった。
「内容について質問はありますか?」
新井田が聞いた。
「第三検査で、状況に問題があると判断した場合、作戦の中断を申告できますか?」
「できます。ただし、シミュレーターそのものを止めるかどうかは、神代隊長が判断します」
「配置変更の提案は?」
「それも可能です。理由を説明し、指揮官の許可を取ってください」
「分かりました」
「ほかには?」
「ありません」
新井田は検査要綱を閉じた。
「それでは始めましょう。最初は本当に普通の機体です。無理に速く動かす必要はありません。機体の反応を確かめながら操作してください」
「普通の機体」
蒼真が、その言葉を繰り返した。
「何か?」
「いえ。分かりました」
*
FW-A17の操縦席は、ノストスより狭かった。
座席の形状や操作桿の位置は大きく変わらない。しかし、支援装備を操作するための副制御盤がなく、表示される情報も整理されている。
敵性反応。
機体損傷。
武装の残弾。
推進出力。
照準。
前を見るために必要な情報は揃っていた。
その代わり、作業員の位置、周辺構造物の強度、退避経路、救助対象者の生体反応は表示されない。
戦うことだけを考えればいい。
そういう操縦席だった。
『接続を開始します』
新井田の声が聞こえた。
『右手を開閉してください』
蒼真が指を動かすと、画面内の機体も右手を握り、再び開いた。
動作に異常はない。
だが、わずかに遅い。
「右手の第三指と第四指が遅れています」
『数値上の遅延は〇・〇二秒です。許容範囲内ですが、分かりますか?』
「はい」
『操作へ影響しますか?』
「今はありません」
『左手をお願いします』
左手を動かす。
「こちらは同じです」
『脚部の確認へ移ります』
蒼真は右足を半歩前へ出した。
FW-A17の脚が動き、指定線より三センチほど先へ着地する。
「右脚が少し遠いです」
新井田は測定値を確認した。
『指定位置から二・八センチ先です』
「それだと思います」
『機体は正常です。個体差として認められている範囲ですが、補正を入れますか?』
「必要ありません。自分で合わせます」
もう一度、右脚を動かす。
今度は入力をわずかに弱め、指定線へ正確に足を置いた。
評価室で、新井田はその記録を保存した。
一度目で誤差を見つけ、二度目には修正した。
珍しいが、あり得ないことではない。
少なくとも、この時点ではそう判断できた。
『第一検査を開始します』
仮想市街地が表示された。
低層の建物が並ぶ道路には、放置された車両や瓦礫が置かれている。路面の一部は陥没し、狭い通路を塞ぐように電柱が倒れていた。
青い光で示された地点を、指定された順番で通過する。
開始信号と同時に、蒼真は機体を歩かせた。
最初の直線で速度を上げ、交差点の手前で右へ旋回する。
ノストスと同じ感覚で重心を移した瞬間、FW-A17の上半身が想定より大きく外側へ傾いた。
蒼真は一度速度を落とし、機体の姿勢が戻るのを待ってから曲がった。
『どうしました?』
新井田が尋ねる。
「旋回する前の重心移動が大きいです」
『転倒防止のため、安全制御が先に働いています』
「制御を外せますか?」
『通常運用では解除しません』
「分かりました」
次の角では歩幅を小さくし、機体の重心が移り終えるのを待ってから旋回した。
今度は外へ膨らまない。
ただし、その分だけ遅くなる。
蒼真は同じように機体の特性を一つずつ確かめながら、経路を進んだ。陥没した路面を飛び越え、放置車両の間を抜ける。狭い通路では肩を引き、上半身を斜めにして倒れた電柱を避けた。
一度も障害物へ接触せず、機体の姿勢も崩さなかった。
走破時間は、基準より十一秒遅かった。
『第一検査、終了です』
新井田が記録を確認する。
「遅かったですね」
蒼真が言った。
『安全制御に合わせて減速した場所が八か所ありますからね』
「解除しない方がいいんですよね?」
『一般の搭乗者が扱う標準機です。安全制御を切ることは想定されていません』
「なら、このくらいだと思います」
蒼真は気にした様子もなく答えた。
評価室では、新井田が八か所の記録を開いていた。
蒼真は、安全制御の警告が表示される前に、すべての場所で操作を変えている。機体側から補正される前に、自分から機体の許容範囲へ合わせていた。
奈緒が画面を覗き込む。
「安全制御は作動していないんですか?」
「待機状態には入りました。しかし、実際に操作へ介入したのは最初の旋回だけです」
新井田は最初の記録と、二度目以降の旋回を並べた。
「一度で機体の癖を掴んでいます。速く走れなかったのではありません。この機体で安全に走れる速度へ、自分から落としています」
「通常の範囲ですか?」
新井田は少し考えた。
「上手な搭乗者ならできます。ただ、初めて乗る機体で、最初の一周からここまで正確に合わせる人は多くありません」
壁際で見ていた宮田が、小さく息を吐いた。
昨日、自分がノストスへ合わせるために何度も失敗したことを思い出しているのだろう。
「次へ進めます」
新井田が告げた。
*
第二検査が始まると、仮想市街地の空が暗くなった。
敵性反応は四つ。
正面の大通りに二体。残る二体は、左右の建物を回り込むように散開した。
FW-A17の装備は、左腕の防盾、右手の短銃身砲、腰部の杭撃ち装置である。
『目的は敵性個体四体の排除。制限時間は十分です。建物、道路への被害と自機損傷も評価します』
「民間人はいないんですね?」
『配置していません』
「了解しました」
開始信号が鳴る。
正面の二体が走り出し、左右へ分かれた二体が建物の陰へ消えた。
蒼真は撃たなかった。
そのまま後退し、交差点を左へ曲がる。
『なぜ下がる』
神代隊長の声が入った。
「四方向を見たくないので」
簡潔に答え、蒼真は機体を狭い道路へ入れた。
正面から追ってきた一体が角を曲がり、こちらを見つけると同時に跳躍した。
蒼真は防盾を構える。
爪が触れる直前、防盾の上端をわずかに下げた。
敵の身体が盾の表面を滑り、機体の左側へ流れる。その着地点へ右脚を入れ、体勢を崩した敵の胴を踏みつけた。
短銃身砲を真下へ向け、一発。
《敵性個体、活動停止》
路面損傷、軽微。
角の向こうから、二体目が現れる。
蒼真は短銃身砲を向けたが、引き金を引かなかった。
敵が射線を避けようと横へ動く。その瞬間、防盾の縁を頭部へ当て、姿勢を崩したところへ杭撃ちを入れた。
《敵性個体、活動停止》
残り二体が、別の道路から同時に接近してくる。
蒼真はさらに狭い路地へ下がった。
一体目が入ってくる。
その後ろで、二体目が進路を塞がれて止まった。
「これなら、一体ずつです」
蒼真は防盾で爪を受け、踏み込んできた敵の力を横へ流した。外壁へ接触する前に身体を押し返し、空いた胴へ杭撃ちを打ち込む。
倒れた敵の身体が、路地を塞いだ。
最後の一体は、それを乗り越えなければ接近できない。
蒼真は短銃身砲を構えた。
敵が倒れた個体へ脚をかけ、身体を持ち上げる。四肢のうち三本が足場から離れた瞬間、一発目を撃った。
肩部へ命中。
傾いた胴へ、二発目。
《敵性個体、活動停止》
試験時間、二分四十八秒。
短銃身砲、三発。
杭撃ち、二回。
自機損傷率、一・一パーセント。
建物損傷、なし。
路面損傷、軽微。
新井田は終了を告げる前に、二度記録を確認した。
『第二検査、終了です』
「一・一パーセントは、防盾ですか?」
『表面損傷のみです。前衛機では軽微にも入りません』
「なら、良かったです」
『橘さん。一つ聞いていいですか』
「はい」
『撃てる場面で、三回撃ちませんでしたね』
「外したら建物に当たるので」
『民間人は配置されていません』
「建物はあります」
『仮想空間です』
「市街地被害も評価すると説明されました」
新井田は黙った。
確かに、自分で説明した。
「それでは、敵を路地へ誘い込んだ理由は?」
「同時に相手をしないためです」
『四体同時でも対応できたと思いますか?』
「分かりません」
『できないと思った?』
「できるかもしれません。でも、一体ずつなら四回成功すれば終わります。四体同時だと、一度失敗した後に三体が残ります」
『制限時間が短ければ?』
「急ぎます」
『味方が危険なら?』
「もっと急ぎます」
答えに迷いはなかった。
新井田は記録へ短い注釈を加えた。
撃破速度より、失敗時の被害を優先。
その文章を読んだ奈緒が尋ねる。
「前衛搭乗者としては消極的ですか?」
「いえ」
新井田は映像を最初から再生した。
「撃つ必要がないから撃たなかっただけです。必要な攻撃は全部しています。それも、三発撃って三発当てた。杭撃ちも二回で二体を止めています」
「なら、積極的?」
「それとも違います」
新井田は腕を組んだ。
「敵を倒したいわけではない。ただ、倒す必要があると判断した後は、無駄がありません」
奈緒は画面の中で停止しているFW-A17を見た。
「支援機に乗っている時と変わらない」
「そう見えます」
「機体を変えても、見ているものは同じということですか?」
「第三検査で、それを確かめましょう」
*
休憩中、蒼真はシミュレーターから出て、牧野から渡された水を飲んだ。
「身体に違和感はありませんか?」
「ありません。ただ、ノストスより疲れます」
「どこが疲れますか?」
「機体が動くのを待つところです」
「待っている?」
「先に次の操作をすると、安全制御が入ります。だから、動き終わるまで待っています」
牧野は端末へ記録しながら、蒼真を見た。
「普通は、機体が動くのを待ってから次の操作をします」
「ノストスは待たなくても動きます」
「ノストスの方が、橘さんに合っているということですね」
「多分」
「専用機に愛着が湧きましたか?」
「いえ」
牧野は記録する手を止めた。
「即答ですね」
「使いやすいとは思っています」
「それを愛着と呼ぶこともあるんですよ」
蒼真は少し考えた。
「でも、ノストスにはできることが多いので」
「できること?」
「牽引も、救助も、瓦礫の除去もできます。できることが多ければ、それだけ多くの人を助けられると思います」
牧野は何も言わなかった。
近くで聞いていた宮田も、蒼真を見ている。
蒼真は二人の反応が分からず、水の容器を持ったまま尋ねた。
「違いますか?」
「いいえ」
牧野は柔らかく答えた。
「橘さんがノストスを好む理由は、よく分かりました」
「愛着ではないですよね?」
「そういうことにしておきます」
宮田は小さく息を吐いた。
「昨日、分かったつもりでいました」
「何がですか?」
「いえ。何でもありません」
宮田は、それ以上説明しなかった。
*
第三検査の舞台は、大型商業施設と周辺道路だった。
避難対象は三百二十人。管理局と消防が東側駐車場へ誘導し、複数の車両で区域外へ運び出す。
神代隊長、片瀬、安西、御堂の四機は、北、南、西から接近する敵を迎撃する。
蒼真のFW-A17は東側に配置された。
その位置は退避路に近いが、想定上、敵の出現方向からは外れている。
蒼真は地図を見て、避難車両の経路を確認した。
東側駐車場から区域外へ続く道路は一本しかない。片側には配送車両が放置され、反対側には損傷した立体駐車場がある。
「配置を四十メートル東へ移してもいいですか?」
蒼真が尋ねると、新井田は神代隊長を見た。
「理由は?」
「東から敵が出た場合、今の位置では退避車両との間へ入れません」
「現時点で東側に敵性反応はない」
「途中で出ないとは説明されていません」
神代隊長は地図を確認した。
「西側への支援が遅れるぞ」
「交差点までは戻れます」
「敵が標準速度なら、だろう」
「はい」
「変更を認める。橘機を東へ四十」
新井田が配置を書き換えた。
奈緒が兄へ尋ねる。
「簡単に認めるのね」
「理由がある」
「東側に敵が出ると知っているわけではないでしょう?」
「知らないから備える」
神代隊長の返事は短かった。
奈緒は地図へ目を戻した。
「似ているのね」
「誰と誰がだ」
「別に」
その会話を聞いていた新井田は何も言わず、試験開始の準備を進めた。
*
第三検査が始まった。
仮想空間に警報音が鳴り、商業施設から避難者が東側駐車場へ移動を始める。先頭の消防車両には負傷者役の人形が乗せられ、後続するバスと輸送車が順番に出発した。
北側に小型二体。
神代機が迎撃へ向かう。
南側には小型三体が現れ、片瀬機と御堂機が対応する。
西側からは中型一体が接近し、安西機と接触した。
通信が重なる。
『北、二体。止める』
『南、三。御堂、右を頼む』
『了解』
『西、中型と接触』
『安西、下がりすぎるな』
蒼真の前には敵がいない。
退避車両が一台ずつ交差点を通り、区域外へ向かっていく。
北と南の戦況を見れば、救援へ向かう余地はある。西側の中型個体を安西機一機に任せるより、自分が加わった方が早く排除できるかもしれない。
それでも蒼真は動かなかった。
『橘』
神代隊長から通信が入る。
「東を維持します」
『了解』
説明は、それだけだった。
避難車両の三台目が通過する。
四台目。
五台目。
残り百四十八人。
その時、警報が鳴った。
《敵性反応》
東側、距離四百二十。
中型一体。
低い姿勢で走る六脚型の個体が、道路の先に姿を現した。
敵と退避車両は、同じ道路上にいる。
「東、中型一」
『対応できるか』
「します」
蒼真は交差点の中央へ出た。
六台目の退避車両が、敵の向こう側にいる。短銃身砲を撃ち、外せば、そのまま車両へ届く。
敵を横へ避ければ、退避車両へ接触する。
防盾で正面から止めれば、押し込まれた自機が車両へぶつかる可能性がある。
距離、二百。
百五十。
百。
「退避車両、先頭だけ十メートル後退してください」
管理局役から返答がある。
『後続車両が詰まっています。十メートル以上は下がれません』
「十メートルで構いません」
『理由は?』
「機体が倒れます」
通信の向こうで、一瞬の沈黙があった。
『了解。先頭車両、後退します』
蒼真は短銃身砲を腰部へ固定し、両手を空けた。
六脚型が跳躍する。
防盾で受け止める直前、蒼真は左腕を斜めに突き上げた。敵の力を止めるのではなく、その身体を上へ逃がす。
衝撃が操縦席を揺らした。
FW-A17の左脚が路面を削り、上半身が大きく傾く。
《姿勢限界》
《転倒警告》
機体が後ろへ倒れ始めた。
蒼真は右脚を引き、防盾の上へ乗った敵を右肩で押す。腰部を回し、倒れる方向を道路脇の空地へ変えようとした。
安全制御が作動する。
急激な重心移動を抑えるため、腰部の旋回が一瞬遅れた。
「遅い」
蒼真が初めて、機体へ不満を漏らした。
左腕の出力を上げ、敵の胴をさらに押す。
完全には向きを変えられない。
それでも、退避車両から離れるには十分だった。
FW-A17は敵を抱えたまま、道路脇の空地へ倒れ込んだ。
地面が揺れ、土煙が上がる。
退避車両まで十二メートル。
敵の六本の脚が動く。
蒼真は仰向けに倒れた姿勢のまま、杭撃ち装置を作動させた。
一回目。
敵の外殻に亀裂が入る。
二回目。
《敵性個体、活動停止》
「東、排除。退避路は維持しています」
『機体損傷は』
「左腕十二、背部六。搭乗者に異常なし」
『起きられるか』
蒼真は右腕を地面につき、上半身を起こした。
損傷した左腕を保護するため、安全制御が出力を制限している。立ち上がるまでに時間がかかる。
それでも機体は片膝をついた。
先頭の退避車両が横を通過し始める。
蒼真は完全には立ち上がらず、片膝をついたまま防盾を道路側へ向けた。最後の車両が通り過ぎるまで、その場を動かなかった。
残り八十二人。
北側の敵、活動停止。
南側、残り一体。
西側、中型活動継続。
『橘。移動可能なら西へ』
神代隊長の指示が届く。
「了解」
最後の退避車両が交差点を抜けた。
残り人数、零。
《全避難対象、区域外へ移動》
試験終了の表示が出る。
仮想市街地が消え、操縦席の周囲が暗くなった。
蒼真は操作桿から手を離した。
息は乱れていない。
手も震えていない。
ただ、標準型前衛機は扱いにくかった。
検査を終えた感想は、それだけだった。
*
第三検査の結果が中央画面へ表示された。
避難完了率、百パーセント。
民間人負傷、零。
退避車両損傷、零。
商業施設への追加被害、軽微。
第三中隊の機体損傷率は、すべて基準値内に収まった。
その中で、蒼真の機体だけが一八・四パーセントに達していた。
「自分が一番高いですね」
操縦席から戻った蒼真が言った。
「前衛機には向いていないということですか?」
新井田は、すぐには答えなかった。
「数字だけを見れば、そう判断する人もいるでしょう」
制御卓を操作し、東側での行動を再生する。
六脚型が退避車両へ向かう。
蒼真が道路の中央へ立つ。
敵を防盾で押し上げ、自機ごと空地へ倒れ込む。
「この状況で選べた行動は、大きく三つです」
新井田は最初の予測映像を表示した。
「一つ目は射撃。敵を早く排除でき、自機損傷も抑えられます。ただし、外した場合は退避車両へ命中します」
二つ目。
防盾による正面防御。
「敵を止められる可能性は高い。しかし、後方へ押し込まれ、退避車両と接触する確率が三〇・八パーセントありました」
三つ目。
実際に蒼真が選んだ、自機ごと空地へ倒れる行動。
「自機損傷率は最も高くなります。その代わり、退避車両へ被害が出る確率は二・三パーセントまで下がった」
城戸が映像を見る。
「自機を損傷させ、全体の被害を抑えた」
「はい。結果だけなら、合理的です」
「結果だけなら?」
「普通の搭乗者は、自分の機体を壊す動きをここまで迷わず選べません」
新井田の言葉に、蒼真が答えた。
「シミュレーターだからでは?」
「実機なら、やりませんか?」
蒼真は少し考えた。
「後ろに人がいれば、同じようにすると思います」
「自分が怪我をする可能性があっても?」
「怪我をしないようにはします」
「それでも、自分の機体を盾にする?」
「撃って外すよりは安全です」
蒼真にとっては、それで説明が終わっていた。
新井田は椅子へ深く座り直した。
「分かりました」
その声に、宮田が昨日と同じものを感じた。
諦めである。
説得することを諦めたのではない。蒼真に、自分がどれほど標準から外れているかを理解させることを諦めたのだ。
奈緒は、三つの検査結果を見比べていた。
「前衛機の適性は?」
「あります」
新井田は即答した。
「それも、かなり高い。基本機動の精度、敵の分離、攻撃の成功率、周辺被害の抑制、部隊全体の状況把握。どれも前衛搭乗者として高い水準です」
「問題は?」
「機体が、橘さんの入力についていけていません」
牧野が操作記録を拡大した。
蒼真の入力と、FW-A17の動作を比較した波形が表示される。操作から機体が反応するまでの遅れは、どれも許容範囲内だった。
標準機として異常はない。
しかし蒼真は、機体の動作が終わるまで、何度も次の操作を意図的に遅らせていた。
「第一検査で八回、第二検査で十三回、第三検査では二十七回、橘さんは機体を待っています」
牧野が説明する。
「安全制御が介入するより先に、操作を弱めたり、次の入力を遅らせたりしています」
安西が画面を見る。
「前衛機の方がノストスより高性能なんじゃないのか?」
「基本性能はFW-A17が上です。ただし、ノストスには橘さんの操作記録が蓄積されています。次に何をしようとしているのかを機体側が予測し、動作の準備を始めているんです」
「AI補助ですか?」
蒼真が尋ねた。
「通常の学習制御です。搭乗者の癖へ機体を合わせる機能は、どのフレームワーカーにもあります」
「なら、この機体も何度か乗れば動きやすくなりますね」
「その可能性はあります」
牧野は丁寧に答えた。
「ですが、ノストスが橘さんに合わせている量は、通常の範囲を超えています。ノストスだけが橘さんを学んだのではなく、橘さんもノストスの動きを覚え、お互いの不足を埋めているように見えます」
「問題ですか?」
「今のところは分かりません」
奈緒が蒼真を見る。
「今日の検査を、橘さん自身はどう評価しますか?」
「普通の前衛機を、普通に動かしたと思います」
新井田が目を閉じた。
宮田は額へ手を当てた。
片瀬は笑いを堪え、御堂は小さく息を吐く。
誰も驚いてはいなかった。
奈緒だけが、蒼真から目を逸らさなかった。
「あなたが普通と呼んでいるものを確認するために、私は来ました」
蒼真は少し困った顔をした。
「確認できましたか?」
「普通ではないことは確認できました」
「そうですか」
「納得していませんね?」
「何と比べて普通ではないのか、よく分からないので」
奈緒は、わずかに笑った。
「分からないことを、分かったことにはしないんですね」
「間違えるので」
その答えを聞き、奈緒は端末へ何かを記録した。
「今日の検査結果だけで、配置を変更することはありません。橘さんは、これまでどおり第三中隊の現場支援隊員として任務を継続してください」
蒼真の肩から、わずかに力が抜けた。
「分かりました」
前衛適性が高いと言われたことより、今までどおりノストスへ乗れることの方が重要らしい。
奈緒は、その反応も記録へ残した。
*
検査終了後、ほかの者たちが評価室を出ていく中、新井田だけが制御卓の前に残った。
画面には、蒼真の操作入力とFW-A17の動作が並んでいる。
入力の速さだけなら、過去にも上回る搭乗者はいた。
判断の正確さだけなら、同じ水準に届いた者もいる。
被害を抑える能力も、それだけなら説明できる。
しかし、そのすべてが一人の搭乗者へ集まり、しかも本人には戦闘への高揚も、撃破への欲求もない。
ただ、後ろにいる人間を帰すために、前衛機を動かしている。
奈緒が戻ってきた。
「新井田さん。何か問題がありましたか?」
「問題というより、検査が終わっていません」
「三項目とも完了しています」
「適性があることは分かりました。しかし、搭乗者の上限を測れていない」
「上限?」
新井田は、蒼真が安全制御に合わせて操作を遅らせた箇所を表示した。
「今回測れたのは、FW-A17が許容できる範囲までです。橘さんは一度も自分の限界まで動かしていません。機体に合わせて、ずっと待っていた」
「標準機で最高水準なら、十分では?」
「十分かどうかと、検査が終わったかどうかは別です」
奈緒は、新井田を見た。
「続けるつもりですか?」
「検査員ですから」
新井田は過去の試験機一覧を開いた。
現行機。
旧式機。
開発中止機。
試作機。
画面を下へ送りながら、入力制限の少ない機体を探していく。
「橘さんの入力を止めず、機体側がどこまで追従できるか。それを測れるシミュレーターが必要です」
「安全性は?」
「実機へ乗せるわけではありません。動作制限を段階的に解除し、危険があればこちらで止めます」
新井田の手が止まった。
画面に一機の情報が表示されている。
次期汎用フレームワーカー開発計画。
試験運用機。
高出力、高応答型。
搭乗者負荷、基準値超過。
制御特性、過敏。
汎用機としての採用、保留。
識別名称。
ゴースト。
奈緒が表示された機体名を読む。
「これを使うんですか?」
「まだ使用許可が取れるか分かりません」
「扱えた人は?」
「評価記録では、規定動作を最後まで完了した搭乗者はいません」
「それを橘さんに?」
「逆です」
新井田は、蒼真の記録とゴーストの仕様を並べた。
「この機体なら、橘さんを待たせずに済むかもしれません」
奈緒は画面を見つめた。
「神代隊長は反対するでしょうね」
「では、反対する理由を聞きます」
「橘さん本人も嫌がると思います」
「実機ではありません」
「そういう問題ではない気がします」
「検査が終わっていないんです」
新井田は真面目だった。
搭乗者を前線へ送りたいわけではない。
ゴーストを復活させたいわけでもない。
ただ、測定できていないものを、測定済みとして記録したくない。それだけだった。
奈緒は、その横顔をしばらく見ていた。
「使用申請を作ってください。私からも確認します」
「助かります」
「許可するとは言っていません」
「申請しなければ、許可も出ませんから」
新井田は早くも必要な資料を開き始めていた。
奈緒は小さく息を吐いた。
兄の部隊には、変わった人間が集まるらしい。
その中でも、今日検査した男は特に理解しにくかった。
戦いたくないと言いながら、戦うための機体を正確に扱う。
自分の機体を壊してでも、人を帰す。
優れた適性を示しながら、その結果を望んでいない。
そして、それを特別なことだと思っていない。
政府の記録には、橘蒼真の前衛機適性が最高区分であることだけが残る。
しかし奈緒は、その記録とは別に、個人的な所見を残した。
――本人の言う「普通」と、測定結果が一致しない。
それは以前、地下施設の記録を調べた時に覚えた違和感とよく似ていた。
記録の上では、何もおかしくない。
けれど、実際に起きたことと並べると、どこかが合わない。
奈緒は、その小さな不一致を消さずに保存した。
*
帰宅すると、居間の床いっぱいに大きな紙が広げられていた。
昴が腹ばいになり、灰色のクレヨンで四角い機体を描いている。太い脚が二本あり、胴体からは何本もの腕が伸びていた。
「ただいま」
「ぱぱ!」
昴は立ち上がり、描いたばかりの絵を踏みながら走ってきた。
「紙を踏んでるよ」
「のすとす!」
「これが?」
蒼真は鞄を置き、昴に手を引かれて絵の前へ座った。
描かれたノストスには、腕が六本あった。背中からも紐のような線が伸び、その先に丸いものがいくつもつながっている。
「腕が多いね」
「いっぱい、たすける」
「この丸いのは?」
「ひと」
「全部、ノストスが運ぶの?」
「うん」
昴は当然のように答えた。
美咲が台所から顔を出す。
「おかえり」
「ただいま」
「検査はどうだった?」
「前衛機にも乗れるらしい」
「そう」
美咲は蒼真の顔を見た。
「乗ることになったの?」
「今までどおり、ノストスで支援を続ける」
「なら、良かったのね」
「うん」
それ以上、仕事の話は続かなかった。
美咲は夕食の鍋へ戻り、昴は蒼真へ灰色のクレヨンを渡した。
「ぱぱも、かく」
「何を?」
「のすとす」
蒼真は紙の空いている場所へ、四角い胴体と二本の脚を描いた。腕を二本付け、背中には牽引装置らしいものを描き足す。
昴は、すぐに不満そうな顔をした。
「うで、すくない」
「普通は二本だよ」
「たすけられない」
「二本でも助けられるよ」
「いっぱいは?」
蒼真は少し考え、背中から補助アームを二本増やした。
昴はまだ納得しない。
さらに一本。
もう一本。
結局、蒼真が描いたノストスにも六本の腕が付いた。
美咲が鍋を食卓へ運びながら、二人の絵を見下ろした。
「どっちがお父さんの?」
「こっち!」
昴が蒼真の描いた方を指差す。
「ずいぶん腕が多いのね」
「昴が増やせって言ったから」
「断ればいいのに」
「多い方が、たくさん助けられるらしい」
美咲は絵を見たあと、蒼真を見る。
「似た者親子ね」
「どこが?」
「自分で分からないところ」
美咲はそれだけ言い、台所へ戻っていった。
蒼真には、やはり意味が分からなかった。
昴は父親の描いたノストスへ、さらに七本目の腕を付け足した。
「多すぎない?」
「もっと、たすける」
「多ければいいわけじゃないよ」
「なんで?」
「ちゃんと使えないと、危ないから」
昴は少し考え、七本目の腕を黒く塗り潰した。
「こわれた」
「もう壊したの?」
「なおす」
「誰が?」
昴は自分を指差した。
「すばる」
蒼真は笑った。
「そう。じゃあ、お願いしようかな」
「うん!」
昴は別の色のクレヨンを取り、壊れた腕の上へ何本もの線を描き始めた。
何をしているのか、蒼真には分からない。
それでも昴は、真剣な顔で機体を直していた。
今日受けた検査のことは、もう考えていなかった。
普通の前衛機に乗った。
普通に動かした。
適性があると言われた。
ただ、それだけだった。
その検査を担当した男が、普通ではない機体の使用申請を作り始めていることを。
蒼真は、まだ知らなかった。
*
夜。
日記。
---
今日は、標準型前衛機の適性検査を受けた。
政府から神代奈緒監察官が来ていた。神代隊長の妹だと初めて知った。職場では別の所属として扱っているらしい。
検査員は新井田虎雄さん。五十歳。機械のせいにできないよう、検査前に自分で設備を確認していた。
基本機動では、機体の反応がノストスより遅く感じた。異常ではなく、標準的な安全制御らしい。待てば問題なく動かせた。
単機戦闘では、小型個体四体を排除した。
部隊行動では、東側から出現した中型個体を止めた。退避車両へ当てないため、機体ごと道路脇へ倒れた。損傷率は一八・四パーセント。今日の中では一番高かった。
民間人役の負傷者はいなかった。退避車両も無事だった。
前衛機の適性は高いと言われた。
配置は変わらない。これまでどおり、第三中隊でノストスに乗る。
それで良かった。
帰宅。
昴が腕の多いノストスを描いていた。
腕が多ければ、たくさん助けられると言った。
多ければいいわけではない。
使えなければ危ない。
昴は壊れた腕を直していた。
自分も、使えるものを正しく使いたい。
以上。
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日記を閉じた時、居間から美咲の声が聞こえた。
「蒼真、まだ起きてる?」
「もう寝るよ」
「電気、消してきて」
「うん」
蒼真は端末を伏せ、立ち上がった。
明日になれば、ノストスへ戻る。
前衛機の検査は終わった。
少なくとも。
蒼真は、そう思っていた。
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