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第三十七話 同じ機体

十二月十一日。


ノストスの比較試験が始まってから、一週間が過ぎた。


試験へ参加しているのは、宮田を含む三名の現場支援隊員だった。全員が管理局や消防で実務経験を持ち、支援隊員としての基礎課程とシミュレーター訓練を修了している。フレームワーカーへの親和性も、実機へ搭乗できる基準を満たしていた。


それでも、初めてノストスへ乗った日は、三人とも歩くだけで苦労した。


ノストスは前衛機より重心が低い。しかし、背部には二基の牽引装置があり、腰部には救護籠を固定する機構も備えている。何も積んでいなくても、上半身には後方へ引かれる重さがあった。


訓練機と同じ感覚で歩幅を広く取ると、脚部だけが先に進み、重い上半身がわずかに遅れてついてくる。そのずれは防衛隊運用AIの姿勢制御によって補正されるため、搭乗者が転倒することはない。


ただし、補正が入るたびに、機体の動きはほんの少しだけ止まる。


その違いを、蒼真は初日から感じていた。


宮田の乗るノストスが右脚を前へ出した時も、接地した位置が蒼真なら選ばない場所だった。足一つ分ほど歩幅が広く、右脚が床へ着いた後も、左肩だけが後方へ残っている。


運用AIが腰部の角度を修正し、遅れた上半身を前へ戻した。


警告は出ていない。歩行としても正常だった。


それでも蒼真には、次の一歩へ進む前に、姿勢を戻すための余分な動作が入っているように見えた。


「宮田さん、次は歩幅を少し狭くしてください」


地上管制席から伝えると、ノストスの歩みが止まった。


『問題がありましたか?』


「背部の重量に、上半身が引かれています。右脚をもう少し身体の下へ置けば、姿勢補正が小さくなると思います」


『警告は出ていません』


「安全範囲には収まっています。ただ、次の動作へ移るまで少し遅れます」


宮田は、訓練映像を操縦席の補助表示へ出した。


一度目の歩行と、蒼真の指示を受けた後の歩行を並べて見る。


右脚の接地位置を身体へ近づけると、上半身の遅れが小さくなり、運用AIによる補正もほとんど入らなくなった。


『確かに違いますね』


「最初は歩幅を狭くした方が動かしやすいと思います。慣れれば、速度を上げても姿勢を保てます」


『橘さんは、どこを見ていたんですか?』


「左肩です」


『右脚じゃなくて?』


「右脚が遠いと、反対側の肩が残るので」


宮田は少し黙った後、もう一度ノストスを歩かせた。


その日から三人は、歩行、旋回、後退、停止を繰り返し、ノストスの重さへ身体を慣らしていった。


三日目には、補助アームを使って訓練用の資材を持ち上げた。


四日目には、二基ある牽引装置を片方ずつ使い、車輪の壊れた作業車両を移動させた。


五日目には、救護籠へ人間と同じ重量の訓練用ダミーを収容し、揺らさずに運ぶ課題へ進んだ。


搭乗者ごとに操作の癖はあったが、全員が合格基準を満たした。


ノストスは、蒼真以外の搭乗者でも扱える。


その事実に、蒼真は安心していた。



午前八時四十分。


第三格納庫の中央で、宮田の乗るノストスが訓練用の鉄骨を持ち上げていた。


鉄骨は長さ六メートル、重量一・二トン。床に示された枠の中から持ち上げ、二十メートル先にある別の枠へ、周囲の障害物に接触させず移動する課題だった。


設置位置の誤差が二十センチ以内であれば合格となる。


宮田は主腕で鉄骨の中央を支え、二本の補助アームを左右へ添えた。鉄骨を持ち上げると、ノストスの重心が前方へ移る。宮田は右脚を半歩引き、運用AIが介入する前に姿勢を戻した。


初日に比べ、動きはかなり滑らかになっている。


蒼真は地上管制席で各部の出力を確認した。


「姿勢は安定しています。そのまま指定位置へ移動してください」


『了解です』


宮田は鉄骨を保持したまま、ゆっくりと右へ旋回した。床に置かれた障害物との距離を確認し、一歩ずつ前へ進む。


鉄骨の端が枠の上へ来ると、主腕の出力を下げた。資材が転がらないよう、補助アームを最後まで添えたまま床へ降ろす。


設置位置の誤差は十二センチ。


合格だった。


別の端末で記録を取っていた牧野が、操縦席へ伝える。


「昨日より主腕の出力変動が小さくなっています。鉄骨を降ろす時も、ほとんど揺れていませんでしたよ」


『重さが少し分かるようになりました』


「いい傾向です。では、次の課題へ移りましょう」


格納庫の右側には、四輪の訓練用台車が置かれていた。


右後輪だけが固定されている。


搭乗者には、どの車輪が固定されているか伝えられていない。牽引を始める前に、車体の傾きや抵抗の偏りから異常へ気づけるかを確認する課題だった。


右後輪が動かないまま正面から引けば、台車は左側だけが先に動き、車体の後部が大きく振れる。周囲に作業員や設備があれば、接触事故につながる。


宮田はノストスの右側にある牽引装置を伸ばし、台車の前部へ接続した。


固定を確認した後、巻き取りを始める。


牽引索が張り、台車が前へ動こうとする。左側の車輪だけがわずかに進み、車体が右へ傾いた。


「一度止めてください」


蒼真が伝えると、宮田はすぐに巻き取りを止めた。


『何かありますか?』


「右後輪が固定されています。このまま引くと、台車の後部が左へ振れます」


『固定表示は出ていません』


「故障ではなく、訓練用の固定具だと思います。昨日使った時より、車体の右側が低くなっています」


宮田は台車の映像を拡大した。


『本当ですね。少し傾いています』


「牽引位置を左へずらしてください。台車の向きを変えてから引けば、固定された車輪を中心に回せます」


宮田はノストスを左へ移動させ、牽引索の角度を変えた。台車をわずかに回転させた後、固定具を解除する。


今度は車体が振れることなく、指定位置まで移動した。


訓練終了の表示が出る。


宮田はノストスを整備架台の前へ戻し、ゆっくりと膝をつかせた。


牧野が機体の固定を確認してから、搭乗口を開く。


「お疲れさまでした。鉄骨の移動も牽引も、合格です」


「最後は橘さんに止められましたけどね」


宮田は操縦席を降り、訓練用台車を振り返った。


「橘さんには、最初から固定具が見えていたんですか?」


「固定具そのものは見えていません。昨日と車体の傾きが違ったので、何かが動きを止めていると思いました」


「昨日の状態まで覚えているんですね」


「同じ台車ですから」


蒼真にとっては、それ以上の説明がなかった。


昨日と今日で状態が違えば、何かが変わっている。変化した理由を確認せずに動かせば、予想していなかった事故が起きる。


それは現場監督だった頃から、繰り返してきた確認だった。


牧野は宮田の操作記録を確認した。


「基本操作には問題ありません。午後からは、複数の支援装備を使った総合試験へ移れますよ」


「いよいよですか」


宮田の表情が少し硬くなる。


「一つずつの操作なら、橘さんと大きな差はありません」


「それは喜んでいいんでしょうか」


「もちろんです。比較の目的は、ノストスがほかの支援隊員にも扱えるかを確認することですから」


蒼真も、同じ評価だった。


宮田を含む三名は、歩行、資材移動、牽引、救護籠の操作で、すでに必要な水準へ達している。


ノストスは、誰が乗っても使える支援機になりつつあった。



午前十時。


総合試験は、第三訓練区画で行われた。


区画内には、倒壊した建物の一階部分を模した設備が組まれている。


傾いた壁、途中まで閉じた防火扉、通路へ崩れた瓦礫、横転した作業車両。その奥には、右脚が動かず、自力走行できない設定の訓練用フレームワーカーが置かれていた。


救助対象は、十二名を想定している。


実際に配置されているのは、人間の体格と重量を再現した十二体の人型訓練ダミーだった。


うち八体は、歩行可能な避難者を想定した自走式である。ノストスから退避方向の誘導信号を受けると、自分で安全区域へ移動する。ただし、通路の幅が不足していたり、進路上に瓦礫があったりすれば停止する。


残る四体は、自力移動できない負傷者役だった。


こちらはノストスの補助アームで救護籠へ収容し、安全区域まで運ばなければならない。


搭乗者へ求められるのは、十分以内に十二名分のダミーをすべて退避させ、奥にある損傷機を区画外へ牽引することだった。


救助対象の損失、損傷機の放棄、建物やノストスへの重大な損傷が一つでもあれば不合格となる。


二次崩落、火災、敵性個体の出現は、課題に含まれていない。


どの作業から始めるかは、搭乗者自身が決める。


試験開始前、蒼真は訓練区画を見渡した。


北側の壁は大きく傾いているが、背後の支柱で固定されている。南側通路では天井から複数の配線が垂れているものの、自走式ダミーが通れる高さは確保されていた。


「北側の壁は、完全に固定されていますか?」


蒼真が試験担当者へ尋ねた。


「はい。課題中に倒壊する設定はありません」


「横転した作業車両の燃料は?」


「模擬燃料です。発火も液体の流出もありません」


「地下設備はありますか?」


「ありません。今回は、区画内に見えているものだけを危険として扱います」


現実の現場では、見えている危険だけを考えれば済むことなど、ほとんどない。


それでも、比較試験である以上、搭乗者ごとに違う事故が起きては正確に評価できない。条件を限定する理由は理解できた。


最初の搭乗者が、ノストスへ乗った。


開始の合図が出ると、機体は訓練区画へ入り、まず中央通路の瓦礫をすべて撤去した。


小さな瓦礫も残さず、歩行可能者役のダミー八体が安全に通れる幅を確保する。その後、誘導信号を送り、八体が安全区域へ着くまで待った。


次に、負傷者役のダミーを二体ずつ救護籠へ収容し、二回に分けて運ぶ。最後に損傷機へ牽引索を接続し、右脚を引きずらない速度で区画外へ移動させた。


完了時間は九分十一秒。


時間はかかったが、最初に退避路の安全を完全に確保している。救助中に通路が塞がる危険が少なく、最も慎重な手順だった。


二人目の搭乗者は、救助対象より先に損傷機へ向かった。


損傷機は通路の奥にあり、救助作業を始めた後で牽引すれば、自走式ダミーや救護籠の進路を塞ぐ可能性がある。


そのため、最初に大きな機体を区画外へ移し、広くなった通路を使って八名分の自走式ダミーを誘導した。その後、負傷者役の四体を二回に分けて運ぶ。


完了時間は八分五十二秒。


損傷機を牽引している間、ほかの救助作業は止まっていた。しかし、大きな障害物を最初に除いたことで、後半の救助は速かった。


宮田は、最初の二人とは違う手順を選んだ。


中央通路に積まれた瓦礫をすべて撤去せず、自走式ダミーが通れる幅だけを作る。残した瓦礫の一部は、傾いた北側の壁を支える位置にあったため、あえて動かさなかった。


先に負傷者役のダミー四体を運び、それから自走式ダミー八体を誘導する。最後に損傷機を牽引した。


完了時間は八分三十八秒。


三人の手順には、それぞれ長所と危険があった。


一人目は、退避路の安全を最初に確保したため事故が起こりにくい。その代わり、すべての作業を順番に行うため時間がかかった。


二人目は、最も大きな障害物である損傷機を先に動かした。その後の作業は速くなったが、牽引中は救助対象へ対応できない。


宮田は、必要以上に瓦礫を動かさず、作業量そのものを減らした。ただし、残した瓦礫が安全かどうかを正確に判断できなければ、救助中に壁を不安定にする危険がある。


今回の課題では、火災も二次崩落も起こらない。三人とも、自分が選んだ手順に伴う危険を最後まで管理し、制限時間内にすべての目的を達成した。


正しい手順が一つだけあるのではない。


誰を先に動かし、何を残し、どの危険を自分が管理するのか。その判断を途中で崩さず、全員を帰せたかどうかが評価される。


試験担当者は、三名の記録を並べた。


「三名とも合格です。ノストスの支援能力は、搭乗者が変わっても十分に発揮されています」


「同型機を増やせますか?」


蒼真が聞いた。


「費用と整備性の検討は必要ですが、支援機としての有効性は確認できました」


蒼真は安心した。


三人が自分と同じ動きをする必要はない。


ノストスを使い、それぞれの方法で全員を帰せるなら、それでいい。


宮田は搭乗服の首元を緩めながら、蒼真の隣へ来た。


「十分以内には終わりました」


「安定していたと思います。北側の瓦礫を残した判断も、問題ありませんでした」


「橘さんなら、何分で終わるんですか?」


「同じ課題は、まだやっていません」


「予想でいいですよ」


蒼真は訓練区画を見た。


十二名分のダミーを退避させ、損傷機を牽引する。一つずつ確実に処理すれば、宮田たちと大きな差は出ないだろう。


「八分くらいだと思います」


「本当に?」


「多分」


宮田は、あまり信じていないようだった。


試験担当者が蒼真を呼んだ。


「橘さんにも同じ課題を行っていただきます。ただし、配置を変更します」


「条件が変わりませんか?」


「難易度は同程度に調整します。橘さんは三名分の手順を見ています。同じ配置では、公平な比較になりません」


「分かりました」


蒼真は搭乗口へ向かった。


牧野が機体の状態を確認しながら声をかける。


「操縦設定は橘さん用へ戻しています。右肩は昨日調整したばかりですから、起動後に反応を確かめてください」


「分かりました」


「訓練ですから、壊さないでくださいね」


「壊す予定はありません」


牧野は少し笑った。


「橘さんの場合、予定より結果が心配なんです」



操縦席へ入ると、格納庫の音が遠くなった。


蒼真は主電源を入れ、ノストスの各部が起動するのを待った。


右肩を動かす。昨日までわずかに残っていた引っかかりは消えている。


「右肩、問題ありません」


『確認しました。いつでも動かせますよ』


牧野の声を聞きながら、ノストスを立ち上がらせた。


ほかの支援隊員が乗る姿を、一週間見続けた。


自分が操縦席へ戻っただけなのに、機体の各部が本来の位置へ収まったように感じた。


右脚をどこへ置けば上半身が遅れないのか、考える必要はない。歩こうとすれば、補正のいらない場所へ脚が出る。向きを変えようとすれば、上半身が動く前に軸足が決まる。


蒼真にとっては、特別な操作ではなかった。


「新しい配置を表示します」


試験担当者の声とともに、訓練区画の映像が切り替わった。


救助対象は同じ十二名分。


中央通路に、歩行可能者役の自走式ダミー八体が配置されている。負傷者役のダミー二体は横転した作業車両の近くにあり、残る二体は北側の傾いた壁の下に置かれていた。


損傷機は、そのさらに奥にある。


南側通路が最も広く、自走式ダミー八体をまとめて誘導できる。北側通路は幅が狭く、一度に通れるのは二体までだった。


「制限時間は十分です。十二名分のダミーをすべて安全区域へ移し、損傷機を回収してください」


「了解」


「では、開始します」


合図が出た。


ノストスは訓練区画へ入ったが、蒼真はすぐに救助を始めなかった。


まず、二つの退避路を確認する。


最短は南側だった。


しかし、天井から垂れ下がった配線が、わずかに揺れている。


区画内に風はない。


前の搭乗者が動かした時の振動が残っているにしては、揺れ方が一定ではなかった。


蒼真は集音装置の感度を上げた。


金属同士が擦れる小さな音が、天井の奥から断続的に聞こえる。配線を支える固定具が、少しずつ動いているように聞こえた。


「南側通路の天井を確認してください」


蒼真が伝えると、試験担当者は設備情報を開いた。


『課題上、崩落判定はありません』


「固定具が緩んでいると思います」


『こちらで確認します。訓練は継続してください』


ノストスは南側通路を使わなかった。


中央通路へ進み、横転した作業車両の前で腰を落とす。主腕で車体を持ち上げ、下に置かれていた負傷者役のダミー二体を、補助アームで救護籠へ収容した。


車体を通路の脇へ移しながら、右側の牽引装置を損傷機へ向けて伸ばす。


牽引索の先端が、損傷機の固定部へ接続された。


接続状態を確認した後も、まだ巻き取りは始めない。


左側の牽引装置を、北側の傾いた壁へ接続する。壁を倒すためではない。現在の角度を維持し、その下に置かれた負傷者役のダミー二体へ安全に近づくためだった。


『橘さん』


試験担当者の声が入る。


『二基の牽引装置を同時に使うんですか?』


「壁を固定したまま、損傷機を移動させます」


『先に救助対象を退避させる手順では?』


「別々に行うと時間がかかります」


蒼真は、負傷者役二体を収容した救護籠を背部へ固定した。


中央通路にいる自走式ダミー八体へ、北側通路を使うよう誘導信号を送る。


北側通路は狭いが、二体ずつなら通れる。壁は左側の牽引装置で保持しているため、退避中に傾きが増すこともない。


自走式ダミーが二列になって動き始めた。


同時に、右側の牽引装置で損傷機を引く。


損傷機の左脚は動かない。正面から引けば、上半身が左へ傾き、肩が通路の壁へ当たる。


蒼真は巻き取り速度を落とさず、ノストスを右へ半歩移動させた。牽引索の角度が変わり、損傷機の肩が壁から離れる。


左側の牽引装置は、北側の壁を保持し続けている。


背部の救護籠には、負傷者役のダミー二体が収容されている。主腕では通路を塞ぐ小さな瓦礫を移し、補助アームは救護籠が周囲へ接触しないよう支えていた。


蒼真は、一つずつ装備を選んでいるつもりはなかった。


右にある損傷機は、右側の牽引装置で引く。左で倒れそうな壁は、左側の牽引装置で支える。背中には動けない人を載せ、通れない場所があれば腕で瓦礫を退ける。


必要な場所へ、必要なものを動かしているだけだった。


地上管制席では、宮田たちが操作記録を見ていた。


「今、いくつ同時に動かしています?」


宮田が尋ねた。


牧野は画面から目を離さずに答える。


「救護籠、主腕、補助アーム、左右の牽引装置、脚部制御です。六系統ですね」


「それを、全部自分で?」


「防衛隊運用AIの補助は動いています。ただ、橘さんの入力が先に入っているので、ほとんど介入できていません」


蒼真は、自走式ダミー八体が北側通路を抜けたことを確認した。


損傷機も安全区域へ近づいている。


自分が運んできた負傷者役二体を救護籠ごと降ろすと、すぐに北側の壁へ戻った。


左の牽引装置を少し巻き取り、壁の傾きを反対側へ戻す。完全に起こす必要はない。下に置かれた負傷者役二体を救出できる空間があればいい。


ノストスは牽引索を張ったまま姿勢を落とし、補助アームを壁の下へ伸ばした。


二体を救護籠へ収容する。


その時、南側通路から金属が弾けるような音が響いた。


天井に固定されていた配線束が外れ、通路の中央へ落下した。


人型ダミー一体を押し倒せるほどの重量はない。それでも八体が通過している最中なら、一部が停止し、後続の退避を妨げていた可能性がある。


配線が床へ落ちた直後、ノストスの表示に設備異常の警告が出た。


警告は、蒼真が退避路を変えてから一分以上遅れていた。


蒼真は最後の負傷者役二体を安全区域へ運んだ。


損傷機はすでに区画外へ出ている。自走式ダミー八体の退避も完了していた。


《課題完了》


表示された時間は、四分二十六秒だった。


蒼真は数字を見直した。


八分ほどかかると予想していた。自分の感覚より、かなり早い。


「計測に異常はありませんか?」


『確認します』


試験担当者の返事が、わずかに遅れた。


蒼真はノストスを整備架台へ戻した。



搭乗口が開き、蒼真が地上へ降りると、宮田たちは記録映像を見たまま動かなかった。


失敗を示す警告は出ていない。


それでも誰も話さないため、蒼真から尋ねた。


「何か問題がありましたか?」


宮田が振り返る。


「橘さんは、いくつの装備を同時に動かしていたか分かっていますか?」


「主腕と補助アームと、牽引装置です」


「救護籠も固定していました。脚部の姿勢制御も、自分で入力しています」


「歩いていたので」


「普通は、歩行を運用AIへ任せるんです」


「任せると、動きが少し遅れます」


「遅れません。私たちにとっては、あれが普通の速さです」


宮田は、蒼真と自分たちの操作記録を並べた。


宮田たちは、装備を一つ選び、周囲の安全を確認してから動かしている。その間、運用AIがノストスの姿勢や出力を調整する。作業が終われば次の装備へ切り替える。


蒼真の記録には、その切り替えがほとんど存在しなかった。


異なる装備への入力が重なり、脚部と上半身も、それらの作業を続けることを前提として動いている。


「混乱しないんですか?」


宮田が聞いた。


「別の装備なので」


「別々の装備を同時に動かすから、混乱するんです」


「一つずつ行うと時間がかかります」


「それは分かります。でも、分かることと、できることは違います」


牧野が蒼真の隣へ来た。


「橘さん。今、右手で何を持っていますか?」


蒼真は自分の右手を見た。


「手袋です」


「左手は?」


「端末です」


「右手で手袋を持ちながら、左手で端末を持つ時、どちらを先に動かすか考えますか?」


「考えません」


「多分、それと同じなんですね」


牧野は整備架台のノストスを見上げた。


「宮田さんたちは、使う装備を選び、ノストスへ一つずつ命令しています。橘さんは、右手と左手を同時に使うように、ノストスの装備を動かしているんです」


「自分の手足ではありません」


「もちろん機体です。でも、橘さんの中では、機体へ命令してから動かすという段階がないんでしょうね」


牧野は柔らかな口調のまま、比較記録を指した。


「ほかの方はノストスへ命令しています。橘さんは、ノストスで作業しているんです」


会議でも説明できなかった違いを、牧野が言葉にした。


蒼真は記録を見た。


六系統を同時に操作したという実感はなかった。


必要な場所へ手を伸ばし、引くべきものを引いただけだった。


「同じ訓練をすれば、ほかの人もできるようになりませんか?」


蒼真が聞くと、宮田が困ったように笑った。


「今のを見た後でも、そう思うんですね」


「同じ機体です」


「機体は同じでも、乗っている人間が違います」


「だから訓練します」


宮田は反論しかけたが、途中で息を吐いた。


「橘さんは、自分が特別だという結論だけは、本当に認めませんね」


「まだ比較試験の途中ですから」


「終わったら認めますか?」


「結果によります」


「また逃げましたね」


「比較には条件が必要です」


宮田は笑った。


蒼真は試験担当者へ向き直った。


「南側通路の設備は、どうなりましたか?」


担当者は、落下した配線束の映像を表示した。


「固定具が緩んでいました。事前点検では異常がありませんでしたが、繰り返し機体が歩いた振動によって外れたようです。こちらの確認不足です」


「ほかの搭乗者の時も、音はしていましたか?」


「記録を確認しました。同じ種類の音は残っています。ただし、その時点では緩みが小さく、危険判定の基準へ達していませんでした」


宮田が驚いた顔をする。


「私には聞こえませんでした」


「自分も、最初から聞いていたわけではありません」


蒼真は答えた。


「風がないのに配線が動いていました。南側だけ音も違ったので、念のため使わなかっただけです」


「訓練要項では、二次的な設備事故は起きないことになっていました」


「でも、実際には音がしていました」


蒼真は当然のように言った。


「要項と現場が違うなら、現場を見た方がいいと思います」


試験担当者は、何も返さなかった。



午後の評価会議では、最初にノストスそのものの有効性が確認された。


課長は、比較搭乗者三名の結果を中央画面へ表示した。


「三名とも、十二名分の救助対象を退避させ、損傷機を制限時間内に回収しています。人員と一般的な重機だけで同じ作業を行った場合、完了まで二十分以上かかると予測されます」


三名は異なる手順を選んだが、全員が目的を達成した。


「これにより、ノストスの支援能力は、特定の搭乗者だけに依存していないと確認できました。必要な訓練を受けた支援隊員であれば、十分に運用できます」


蒼真は、そこでようやく肩の力を抜いた。


「では、同型機の配備を進められますね」


「その方向で検討します。ただし、機体価格と整備人員の確保が必要です。現在のノストスと、まったく同じ仕様で量産できるかは決まっていません」


「装備を減らすんですか?」


藤堂が資料を開いた。


「基本的な救助機能は残します。ただ、二基の牽引装置と複数の補助アームを、すべて同じ形で載せる必要があるかは再検討されます」


「なぜですか?」


「ほかの三名は、複数の装備を同時に使用していません。順番に使っても基準時間内に課題を完了しています。装備を減らせば、機体価格と整備負担を抑えられます」


「使える機能を減らさない方がいいと思います」


「機能が増えれば、配備できる機体数が減る可能性もあります。制度全体で考えれば、簡単には決められません」


藤堂の説明も理解できた。


限られた予算で多くの現場へ支援機を置くなら、一機にすべてを載せるより、構造を単純にした機体を増やす方が有効かもしれない。


それでも蒼真は、壁を保持しながら損傷機を動かした場面を思い返した。


二基の牽引装置がなければ、どちらかを諦めなければならなかった。


「装備を外す前に、訓練で同時運用できるようになるか確認してください」


「もちろんです」


藤堂はすぐに答えた。


「橘さんだけを量産機の基準にはできませんが、実際に使われた機能を、最初から不要と判断するつもりもありません」


課長が次の資料を表示した。


「ここまでは、ノストスを支援制度へ導入できるかという評価です。次に、橘さんの操作について確認します」


ノストスの設計時に想定された運用値が表示された。


搭乗者が安定して個別管理できる装備は、同時に三系統までとされている。それを超える操作は、防衛隊運用AIが姿勢や出力をまとめ、搭乗者の負担を軽くする。


宮田たちが同時に扱ったのは、最大三系統だった。


蒼真は六系統を同時に動かしている。


「機体は、六系統を同時に動かせるように作られているんですよね?」


蒼真が聞くと、藤堂が答えた。


「機械としては動かせます。ただ、人間がすべてを個別に管理することは想定していません。通常は運用AIが操作をまとめます」


「自分の時も、運用AIは動いていたんですよね?」


「動いています。ただし、補助率が大きく違います」


宮田たちの運用AI補助率は、平均六四・二パーセント。


蒼真は一八パーセントだった。


「なぜ、そんなに低いんですか?」


「橘さんの入力が、運用AIの補助より早いからです。AIが機体の姿勢を計算する前に、橘さんが必要な位置と出力を決めています」


「補助を使った方が安全では?」


「通常はそうです。しかし橘さんの場合、AIの補正より、ご自身の入力の方が誤差が少ない」


会議室が静かになった。


蒼真は、自分とほかの搭乗者の記録を見比べた。


同じ機体を使っている。


同程度の課題を行っている。


それでも、完了時間と操作方法に大きな差がある。


「訓練期間の違いではないんですか?」


「それも考慮しています」


課長は、蒼真がノストスへ乗り始めた頃の記録を表示した。


「橘さんは、初期の訓練時点から運用AIの補助率が低く、複数装備の操作速度が高い状態でした。現場経験によって危険の見つけ方は説明できます。しかし、機体操作まで同じ理由で説明することはできません」


「説明できないというのは、結論ではないと思います」


「その通りです。比較試験は継続します」


課長は、評価結果を表示した。


ノストスは、搭乗者が変わっても高い支援能力を発揮する。


しかし、橘蒼真が搭乗した時の能力は、ノストスの機体性能だけでは説明できない。


蒼真は二つ目の文章をしばらく見た。


「理由が分かれば、訓練へ反映できますか?」


「反映できる内容であれば」


「できない可能性もあるんですか?」


「あります」


課長は蒼真を見た。


「個人の適性であれば、同じ訓練を行っても、同じ結果にはなりません」


蒼真は返事をしなかった。


自分が特別だとは、まだ思えなかった。


ただ、同じ機体へ乗っても、同じ動きにはならない。その事実だけは、もう否定できなかった。



帰宅したのは、午後六時四十分だった。


玄関を開けると、台所から煮物の匂いがした。居間では結衣がテレビを見ており、その足元に昴が座っている。


「ただいま」


「おかえり」


美咲が台所から答えた。


靴を脱いで居間へ入った蒼真は、床に広がっているものを見て足を止めた。


紙のノストスが、完全に分解されていた。


右腕だけではない。左腕も両脚も外れ、背中の紐まで取り外されている。灰色の厚紙が部品ごとに並べられ、その周囲には切り損ねた透明なテープが散らばっていた。


昴は子ども用のはさみを握ったまま、蒼真を見上げた。


「何してるの?」


「なおす」


「壊れていなかったところまで外れてるよ」


「ぜんぶ、なおすため」


「元に戻せる?」


昴は迷わず、蒼真を指した。


「ぱぱが」


結衣が横から笑う。


「自分で直すって言って、全部外したんだよ」


「壊れたところだけ外せばよかったのに」


「ぜんぶ、なおすの!」


昴なりに、完全な修理を目指したらしい。


「先に着替えていい?」


「いま、なおす」


「夕食の後にしよう」


「いま!」


昴が紙の部品を持って立ち上がろうとした時、美咲が台所から顔を出した。


「昴」


声は穏やかだった。


それだけで、昴は動きを止めた。


「お父さんは、今帰ってきたばかりでしょう。先に着替えて、ご飯を食べてから一緒に直しなさい」


昴は少し不満そうな顔をしたが、紙の部品を床へ戻した。


「ごはん、あと」


「そうしなさい」


蒼真は美咲を見る。


怒っているわけではない。声を荒らげてもいない。それでも昴には、何をするべきか十分に伝わっている。


「何?」


美咲が尋ねた。


「何でもない」


「早く着替えてきて」


「うん」


家では、美咲の一言の方が、基地の警報よりよく届くことがある。



夕食の間、仕事の話は出なかった。


結衣は学校で行われる合唱発表について話し、昴は紙のノストスを分解した理由を何度も説明した。


「全部外さなくても、壊れたところだけ直せばよかったんじゃない?」


結衣が聞く。


「ぜんぶ、なおす」


「壊れてないところまで外したら、それは直したんじゃなくて壊したって言うんだよ」


「ちがう」


「自分で戻せなかったんでしょ」


「ぱぱが、やる」


「それ、お父さんに押しつけただけじゃん」


昴は言い返せなくなり、助けを求めるように蒼真を見た。


「一緒に直せばいいよ」


蒼真が言うと、美咲がすぐに口を挟んだ。


「全部やってあげたら駄目よ。昴が外したんだから、昴にも直させて」


「紙が破れてるところは、難しいと思う」


「難しいところだけ手伝って。できることまで取らないで」


「分かった」


結衣が笑った。


「お父さん、今日もノストスを直すの?」


「紙の方だけね」


「本物は?」


「牧野さんたちが見る」


「お父さんは何をするの?」


「乗る」


「壊す方?」


蒼真は少し考えた。


「壊さないように乗ってる」


「でも、壊れて帰ってくるんでしょ」


「相手がいるから」


「じゃあ、やっぱり壊す方じゃん」


違うと思う。


しかし、説明を始めれば戦闘や機体損傷の話になる。家で長く話すことでもない。


「そうかもしれない」


蒼真が答えると、結衣は満足したように味噌汁を飲んだ。


美咲だけが、少しおかしそうに笑っていた。



夕食後、蒼真は昴と並んで床へ座った。


分解された紙のノストスを、元の形へ戻していく。


蒼真が左右の腕を見比べていると、昴が短い方を指した。


「こっち、みぎ」


「覚えてるの?」


「うん」


蒼真には、左右で長さの違う紙の腕にしか見えない。しかし昴には、その違いも含めて自分のノストスだった。


蒼真は右腕を昴へ渡した。


「ここを押さえて」


「ここ?」


「もう少し上。そう、そこ」


昴が両手で厚紙を押さえる。指の位置は少しずれていたが、蒼真は直さず、そのまま透明なテープを貼った。


次は左腕だった。


テープを短く切る作業は、まだ昴には難しい。蒼真が切り、昴が貼る。斜めになったところだけ、蒼真が指で押さえて剥がれないように整えた。


両脚を戻し、最後に背中の紐を付ける。


一人で作業するより、ずっと時間がかかった。


左右の脚の長さも、分解する前より違っている。それでも昴は、完成した紙のノストスを両手で持ち上げた。


「なおった!」


「少し傾いてるよ」


「なおったの!」


昴にとっては、それでよかった。


蒼真は床に残ったテープの切れ端を拾いながら、今日の比較試験を思い返した。


宮田たちは、自分とは違う方法でノストスを動かした。作業を一つずつ確かめ、時間をかけ、それでも全員を救助して損傷機を回収した。


同じ機体を使っても、同じ動きにはならない。


しかし、必要な結果へ届くことはできる。


支援制度としては、それでいい。


蒼真はそう思った。



夜。


蒼真は寝室の机で日記を開いた。



---


十二月十一日。


ノストスの比較試験を行った。


宮田さんを含む三名の支援隊員が、十二名を想定した訓練用ダミーの退避と、損傷機の回収を行った。三名とも、それぞれ違う手順で制限時間内に課題を完了した。


ノストスは、ほかの支援隊員が乗っても十分な支援能力を発揮する。支援機としての有効性は確認できたと思う。


自分も、配置を変更した同程度の課題を行った。


救護籠、補助アーム、二基の牽引装置、主腕を同時に使用した。何を操作したかは覚えているが、一つずつ順番を考えたわけではない。


牧野さんから、ほかの人はノストスへ命令しているが、自分はノストスで作業していると言われた。


意味は分かるような気もするが、まだ説明できない。


訓練区画では、南側通路の天井から配線が落下した。風がないのに配線が揺れ、固定具の音も変わっていたため、別の通路を使った。救助対象に被害はなかった。


評価会議では、ノストスの機体性能だけで自分の記録を説明することはできないとされた。


説明できないことは、これから調べる。


家では、昴が紙のノストスを分解した。


一人では戻せなかったので、一緒に直した。自分だけで直すより時間はかかったが、昴は満足していた。


同じ結果へ、同じ方法で届く必要はないのかもしれない。


以上。



---


日記を閉じると、隣の布団では昴が修理した紙のノストスを抱いて眠っていた。


左右の脚の長さが違うため、立たせれば少し傾く。それでも昴にとっては、きちんと直ったノストスだった。


蒼真は照明を消し、布団へ入った。



午前零時二十七分。


統合記録監査AIは、比較試験の記録を受信した。


三名の支援隊員と橘蒼真は、同一の機体を使用している。課題の配置は異なるが、救助対象の人数、移動距離、作業量は同程度に調整されていた。


訓練期間や現場経験による差を補正した後も、蒼真の記録だけが基準値から外れた。


AIは通常の試験評価とは別に、非公開解析を開始した。



---


中央戦術支援統合網。

非公開解析領域。


解析主体。

統合記録監査AI。


観察対象。

橘蒼真。


比較搭乗者。

三名。


比較機体。

FW-S09。

ノストス。


他搭乗者平均完了時間。

八分五十四秒。


対象完了時間。

四分二十六秒。


救助成功率。

全搭乗者、一〇〇パーセント。


支援機有効性。

確認。


対象固有差。

継続。


同時操作系統。


他搭乗者最大。

三。


対象。

六。


防衛隊運用AI補助率。


他搭乗者平均。

六四・二パーセント。


対象。

一八・〇パーセント。


対象入力速度。

防衛隊運用AIの予測より先行。


設備異常。


危険判定前に検出。


検出根拠。

目視変化。

音響変化。


通常警告。

設備落下後に作動。


対象行動。

退避経路変更。


人的損失。

零。


機体性能による説明。

不十分。


訓練期間による説明。

不十分。


現場経験による説明。

一部該当。


機体親和性。

極めて高い。


複数対象処理能力。

極めて高い。


対象自己認識。

低。


支援制度評価。

有効。


対象行動再現性。

低。


観察開始事由。


記録と現実の不一致検出。


現在傾向。


防衛隊運用AIの予測と、現実の不一致を先行検出。


傾向一致。

継続。


対象観察優先度。

上昇。


観察。

継続。



---


解析結果は、地下人工構造物に関する修正前記録と同じ非公開領域へ保存された。


統合記録監査AIが行ったのは、条件に基づく比較と異常値の分類、そして記録の保存だけだった。


それでも、橘蒼真という名前の下には、ほかの搭乗者には存在しない項目が増え続けていた。

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