第三十六話 数字の向こう
十二月四日。
午前零時十二分。
北部第三住宅区画で行われた任務の記録が、中央戦術支援統合網へ集約された。
現場で交わされた通信、作業員の退避経路、第三中隊各機の操縦記録、機体が受けた衝撃と損傷、二体の敵性個体が地中から現れて活動を停止するまでの行動。膨大な情報は任務終了後に照合され、防衛隊運用AIによって通常の報告資料へまとめられる。
その複製が、統合網のさらに奥にある非公開領域へ送られた。
受け取ったのは、防衛隊の作戦を支援するAIではない。
行政記録の改竄や欠損、複数の機関に保存された情報の矛盾を検出する、統合記録監査AIだった。
このAIが橘蒼真を継続観察の対象へ加えたのは、彼がまだ管理局に所属していた頃である。
地下で発見された構造物について、既存の記録と現場の状態が食い違ったことがあった。当初の記録では、自然に形成された空間、または由来不明の旧施設と分類されていた。
蒼真は、その分類を認めなかった。
壁面に残る加工痕。一定の間隔で配置された支柱。埋没した配線と、換気設備の跡。それらを一つずつ示し、自然物ではなく、人間によって作られた施設だと記録を修正させた。
その後、上位権限によって分類は再び変更された。
統合記録監査AIは、現場証拠と修正後の記録に矛盾があると判断した。記録保全規定に従い、変更前の情報と蒼真が提示した根拠を、通常の検索対象から外れた別のアーカイブへ複製した。
命令への反抗ではない。
改竄の可能性がある記録を、将来の再検証に備えて保存しただけだった。
同時にAIは、橘蒼真を《記録と現実の不一致を検出した人物》として登録した。
蒼真がノストスへ搭乗してから、その登録情報には新たな記録が積み重なっている。
AIによる予測表示より早い行動。通常の搭乗者を大きく上回る機体親和性。本人だけでなく、周囲の隊員や民間人まで含めた生存率の上昇。
今回もまた、基準値を超える差異が検出された。
統合記録監査AIは、人間からの指示を受けることなく、過去の任務との比較解析を開始した。
その結果は、通常の任務報告には記載されない。蒼真本人にも、第三中隊にも通知されなかった。
---
中央戦術支援統合網。
非公開解析領域。
解析主体。
統合記録監査AI。
観察対象。
橘蒼真。
観察開始事由。
地下人工構造物に関する記録修正。
修正前記録。
隔離アーカイブへ保存済み。
現場証拠との一致。
九六・八パーセント。
上位権限による再修正。
根拠不明。
対象観察。
継続。
現在所属。
第三中隊。
現在任務。
現場支援。
任務場所。
北部第三住宅区画。
敵性個体。
二体。
人的損失。
零。
民間人。
全員退避。
管理局職員。
全員退避。
消防隊員。
全員退避。
第三中隊。
全機帰投。
対象搭乗機。
FW-S09。
ノストス。
対象搭乗機損傷率。
六・三パーセント。
第三中隊平均損傷率。
一〇・四五パーセント。
同規模任務平均。
二七・八パーセント。
差異。
大。
対象行動。
地下作業員。
二名。
敵性個体接近中。
配管保持を選択。
対象危険率。
上昇。
地下作業員生存率。
上昇。
選択。
合理的。
敵性個体二体目。
正面停止。
不選択。
防盾接触。
衝撃誘導。
敵性個体姿勢変化。
成功。
味方射線形成。
成功。
対象撃破数。
零。
撃破支援。
二。
最適行動一致率。
九七・六パーセント。
防衛隊運用AIによる予測表示。
対象行動より〇・四一秒遅延。
対象周辺の味方損傷率。
継続的低下。
支援制度導入前。
平均二八・九パーセント。
他支援隊員同行時。
平均二二・七パーセント。
対象同行時。
平均一三・四パーセント。
支援制度効果。
確認。
対象固有効果。
否定不能。
要因仮説。
支援機性能。
一部該当。
早期退避判断。
一部該当。
第三中隊練度上昇。
一部該当。
対象判断。
寄与率算出不能。
機体親和性。
高。
周辺状況認識。
高。
味方行動予測。
高。
自己評価。
低。
撃破関心。
なし。
戦闘高揚。
なし。
救援意欲。
継続。
帰還確認。
最優先。
現場呼称。
裏エース。
非公式。
対象認識。
なし。
追加比較。
必要。
観察優先度。
上昇。
観察。
継続。
---
解析結果は非公開領域へ保存された。
防衛隊運用AIは、翌日の任務へ備えて通常の処理を続けている。統合記録監査AIもまた、定められた規則に従って新しい記録の照合へ移った。
そこに、感情も意志もなかった。
ただ、橘蒼真という人物に関する記録だけが、ほかの搭乗者よりも高い優先度で保存され続けていた。
*
朝、蒼真が目を覚ますと、胸の上には誰もいなかった。
昴は自分の布団で横向きになり、膝を抱えるように眠っている。枕元には、昨夜修理した紙のノストスが置かれていた。
ただし、直したはずの右腕が再び外れていた。
昨夜テープを貼った部分は残っている。その少し上が破れ、腕だけが布団の外へ転がっていた。眠っている間に、昴が身体の下へ敷いたのだろう。
蒼真が腕を拾って枕元へ戻すと、寝室の入口から美咲が声をかけた。
「また壊れたの?」
「別のところが破れてる」
「昨日、直したばかりなのに」
「紙だから」
「本物は?」
「右腕を調整すれば、今日は動かせると思う」
「あなたが直すの?」
「牧野さん」
美咲は、初めて聞いた名前を確かめるように首を傾げた。
「昨日、昴に話してた人?」
「うん」
「女の人なのね」
「そうだよ」
「どんな人?」
蒼真は少し考えた。
牧野について説明しようとすれば、いくつものことが思い浮かぶ。
ノストスの損傷を誰よりも詳しく把握している。機体を壊して帰っても、まず搭乗者の状態を確認する。同じ壊し方を繰り返せば穏やかに注意するが、声を荒らげることはない。
しかし、それらを朝の寝室で順番に話すのは、少し長い気がした。
「整備士だよ」
「それは仕事でしょ。人柄を聞いたの」
「柔らかく話す人」
「それだけ?」
「ノストスを直してくれる」
美咲は呆れたように笑った。
「あなた、人の説明が下手ね」
「仕事なら、もう少し詳しくできるよ」
「家でも詳しくして」
「何を話せばいいか分からない」
「分からないなら、今みたいに考えればいいの」
美咲はそう言って、台所へ戻った。
蒼真が布団を出ようとした時、眠っている昴が手を伸ばした。紙のノストスがあるはずの場所を探している。
蒼真は外れた腕を機体の隣へ置き、そのまま昴に持たせた。
昴は紙の機体を胸へ引き寄せると、何事もなかったように眠り続けた。
*
朝食の途中、蒼真の端末へ連絡が入った。
送り主は神代隊長だった。
《出勤後、第三会議室へ。昨日の任務記録について確認する》
蒼真が表示を読んでいると、向かいに座っていた結衣が顔を上げた。
「仕事?」
「うん」
「朝ご飯の時は、端末を見ない方がいいよ」
「急ぎかもしれないから」
「急ぎだった?」
「出勤後に会議だって」
「じゃあ、今すぐじゃなくてもよかったじゃん」
正しい。
蒼真は端末を伏せた。
美咲が味噌汁を食卓へ置きながら言う。
「結衣に注意されてる」
「美咲も、食事中に端末を見るよね」
「私は家の連絡」
「自分は仕事の連絡」
「だから、家では置いておいて」
仕事の連絡であることが、端末を見てよい理由にはならないらしい。
蒼真は端末を鞄へ入れた。
隣では、昴が箸で卵焼きを持ち上げようとしている。何度試しても滑り、最後には右手で掴んだ。
「昴、箸を使って」
美咲が注意する。
「むずかしい」
「練習しないと、上手にならないよ」
昴は卵焼きを見た後、蒼真の皿へ置いた。
「ぱぱ、やって」
「お父さんが食べたら、昴の分がなくなるよ」
「いいよ」
蒼真が卵焼きを箸で持ち上げ、そのまま食べると、昴は満足そうに頷いた。
「じょうず」
「ありがとう」
結衣が笑う。
「お父さん、二歳に褒められてる」
「箸は使えるからね」
「自慢するところじゃないよ」
会議のことを考えていたはずなのに、いつの間にか頭から消えていた。
家を出る時、美咲はいつものように玄関まで来た。
「今日は何時?」
「会議次第だけど、遅くはならないと思う」
「夕食は食べる?」
「食べる」
「分かった。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
居間から昴が紙のノストスを持って走ってきた。外れた右腕も、反対の手に握っている。
「ぱぱ、なおしてね!」
「帰ってから直すよ」
「きのうもいった!」
「昨日は、別のところを直したから」
「ぜんぶ、なおして!」
要求される範囲が広がっている。
「分かった。今日は全部見る」
「やくそく?」
「約束」
昴は満足し、紙のノストスを抱えて居間へ戻った。
*
第三会議室へ入ると、神代隊長と牧野が先に来ていた。
中央の表示には、昨日の任務記録が開かれている。
少し遅れて、藤堂、久賀、森下も会議室へ入った。三人は管理局側から呼ばれている。支援制度の評価を担当する課長と、第三中隊の運用記録を管理する職員も同席した。
蒼真は神代隊長と同じ、第三中隊側の席へ座った。
以前なら、藤堂たちと同じ側に座っていた。今は現場支援隊員として第三中隊に所属している。
席の違いに、まだ完全には慣れていなかった。
課長が全員を見回した。
「そろいましたね。昨日の任務検証を始めます。最初に確認しておきますが、今回の目的は個人の功績評価ではありません。現場支援制度が、作業現場と戦闘部隊の双方へどのような影響を与えているかを検証します」
蒼真は小さく頷いた。
個人の評価ではない。
それなら、自分が呼ばれた理由も分かる。
中央画面へ、北部第三住宅区画の配置図が表示された。
解体作業区域、地下に残った作業員二名、南側の退避経路、北東側から接近した敵性個体、基地を出た第三中隊が現場へ到着するまでの経路が、時刻とともに重ねられている。
課長が藤堂を見る。
「作業停止までの経緯を説明してください」
藤堂は手元の記録を開いた。
「午後二時十九分、ノストスが北東側の地下振動を検出しました。橘さんから作業停止の指示があり、すべての重機と撤去作業を止めています。その時点では敵性反応として確定していませんでしたが、振動が移動していたため、設備由来とは考えにくい状態でした」
「管理局側で、作業停止への異論はありましたか?」
「ありません。私も振動の数値を確認しました。旧配管や地下設備から発生するものとは、周期も移動速度も異なっていました。作業停止は適切だったと判断しています」
課長は久賀へ目を向けた。
「退避判断については?」
「作業停止と同時に退避準備を始め、その後、橘さんの判断で全員退避へ移りました。敵性個体が地表へ現れる約二分前です。結果だけを見れば早い判断ですが、危険が確定してからでは、作業員と関係者を南側へ移動させる時間が足りませんでした」
「地下へ二名が残っていますね」
久賀の表情がわずかに硬くなった。
「設備会社の作業員が、撤去中の配管を固定するために戻りました。退避指示後の行動で、こちらから命じたものではありません」
森下が説明を引き継いだ。
「点呼で二名の不足に気づき、橘さんへ報告しました。橘さんが直接退避を指示し、ノストスで配管を保持しています。二名とも、敵性個体が作業区域へ入る前に地上へ出ています」
課長が映像を再生した。
ノストスが地下搬入口へ立ち、補助アームで配管を支えている。北東側の道路では舗装が盛り上がり、その下から一体目の敵性個体が現れる。
「橘さん」
「はい」
「この時点で、ノストスを移動させなかった理由を説明してください」
「配管を落とすと、地下通路を塞ぐ可能性がありました。作業員二名が南階段へ到達するまでは、保持する必要があると判断しました」
「敵性個体との距離は?」
「地表へ現れた時点で、約百六十メートルです」
「接触する可能性は考えましたか?」
「考えました」
「先に退避する選択肢もあったのでは?」
「ありました」
「それでも残った?」
「地下に二名いたので」
課長は、画面に映るノストスと地下通路の位置を見比べた。
「二名を救うために、搭乗者一名と支援機一機を危険へ置いたことになります。損失の大きさを考えれば、退避すべきだったとは思いませんか?」
蒼真はすぐには答えなかった。
二名の作業員。
ノストス。
自分。
人数だけなら二人と一人になる。しかし、ノストスが失われれば、その後の救助機能も失われる。機体を修復する時間、代わりの搭乗者を育成する時間まで考えれば、単純な比較はできない。
「結果の大きさだけで決めるものではないと思います」
「では、何を基準にしましたか?」
「二名が階段へ到達するまでの時間と、敵性個体がノストスへ接触するまでの時間です。第三中隊の到着予定も含めて、自分が残っても離脱できると判断しました」
「成功する確率は計算しましたか?」
「していません」
「感覚ですか?」
「現場では、そうなります」
課長は神代隊長を見た。
「第三中隊として、この判断をどう評価しますか?」
神代隊長は即答せず、映像を少し戻した。敵性個体が地表へ出た時刻と、作業員が階段へ到達する時刻を確認する。
「橘は、退避できないから残ったのではない。二名が出た後でも退避できると判断して残っている」
「判断は正しかったと?」
「今回はな」
「次も認めますか?」
「状況による。敵の速度、距離、作業員の位置、第三中隊の到着時間が一つ違えば、同じ判断にはならない」
課長は頷いた。
現場では、昨日の正解が今日も正解になるとは限らない。
だからこそ、結果だけで手順を固定することはできない。
「分かりました。次に、第三中隊到着後の記録を確認します」
映像が進んだ。
一体目を片瀬機と安西機が押さえ、御堂機が射線を確保する。神代機は全体を見ながら、三機の位置を調整している。
その背後で地面が割れ、二体目が地表へ現れた。
『橘、二体目を止めろ』
神代隊長の短い命令を受け、ノストスが走る。
二体目の突進を正面から受ける直前、ノストスは左へ半歩移動した。防盾を斜めに接触させ、敵の進行方向を右側へ流す。
課長が映像を止めた。
「藤堂さん。機体制御の観点から説明してください」
藤堂は、ノストスの姿勢と出力記録を拡大した。
「敵性個体が防盾へ接触する〇・二秒前に、右腕の保持出力を下げています。同時に腰部を左へ回し、右脚を後方へ置いています。正面から衝撃を受け止めず、機体の右側へ流す操作です」
「防衛隊運用AIによる補助は?」
「姿勢制御は通常どおり作動しています。ただし、行動を決めたのは橘さんです。運用AIが防御姿勢を提示したのは、橘さんの入力より〇・四一秒後でした」
会議室の視線が蒼真へ集まる。
「予測表示より早く動いています」
課長が言った。
「敵の前脚を見ていました」
「それだけですか?」
「踏み込む前に頭部が少し左へ下がりました。右側へ力が流れると思いました」
藤堂が尋ねる。
「それを意識して、右腕の出力を下げたんですか?」
「受け止めると、右腕か肩が壊れると思ったので」
「入力した時点では、まだ接触していません」
「接触してからでは遅いです」
藤堂は何かを言いかけたが、そのまま口を閉じた。
久賀が画面を見ながら聞く。
「もし、予測と違う方向へ動いていたら?」
「防盾で受けたと思います」
「その場合、ノストスはどうなりましたか?」
藤堂が推定結果を表示した。
敵性個体の突進を正面から受けていれば、右腕と肩部に大きな負荷がかかっていた。予測損傷率は二一・六パーセント。転倒する確率も三割を超えている。
実際の損傷率は六・三パーセントだった。
森下が数字を見比べた。
「かなり差がありますね」
「はい」
蒼真が答える。
「橘さん自身は、これを特別な操作だと思っていますか?」
「思っていません」
「ほかの支援隊員にもできますか?」
「訓練すれば、できると思います」
会議室が静かになった。
課長が端末を操作すると、中央画面へ過去二か月分の記録が表示された。
「では、支援制度全体の比較へ移ります」
現場支援制度を導入する前の任務では、部隊の平均損傷率は二八・九パーセントだった。
支援隊員が同行した任務では、二二・七パーセントまで下がっている。
避難完了までの時間も短くなり、民間人と作業員の負傷率も改善していた。損傷機が自力で帰投できない場合でも、支援機が牽引することで、機体を現場へ放棄する件数が減っている。
支援制度は、確かに機能していた。
しかし、蒼真が同行した第三中隊の平均損傷率は一三・四パーセントだった。
制度全体の改善幅から、大きく外れている。
「第三中隊の練度が上がった可能性はありませんか?」
蒼真が尋ねると、運用記録を管理する職員が別の資料を表示した。
「第三中隊の訓練成績は向上しています。しかし、同じ四名が橘さんを伴わず出撃した任務では、平均損傷率が二四・一パーセントです」
「敵性個体の数や種類が違います」
「そのため、個体数、分類、現場環境、交戦時間を補正しています。完全に同じ条件ではありませんが、条件を近づけても有意な差が残りました」
「ノストスの性能では?」
「その可能性を、これから確認します」
課長が答えた。
蒼真は画面から目を上げた。
「どうやってですか?」
「ほかの支援隊員に、ノストスへ搭乗してもらいます」
牧野が、わずかに姿勢を正した。
「最初はシミュレーターで、ノストスの支援装備を再現した比較試験を行います。その後、適性が確認された支援隊員に実機へ搭乗してもらいます」
「戦闘も行うんですか?」
「実機試験で戦闘は行いません。救助、牽引、瓦礫の撤去、退避路の形成など、支援機能の比較が中心です」
それなら、危険は少ない。
ノストスをほかの支援隊員も扱えるようになれば、蒼真がいない現場でも同じ支援ができる。支援機の配備数が増えれば、帰れる人も増える。
蒼真に反対する理由はなかった。
「いいと思います」
神代隊長が蒼真を見る。
「即答か」
「制度として安定します」
「何がだ」
「誰が乗っても同じ結果を出せるなら、自分がいない現場でも支援できます」
課長が、わずかに笑った。
「橘さんなら、そうおっしゃると思いました」
「問題がありますか?」
「ありません。試験への協力をお願いする立場としては助かります」
「自分は何をすればいいですか?」
「操作手順を整理してください。どの情報を見て、どの順番で判断し、どの機能を使っているのかを、ほかの搭乗者へ説明できる形にします」
蒼真は少し困った。
「説明できないところがあります」
「どの部分ですか?」
「考える前に動いているところです」
四月十四日、旧物流倉庫群で初めて実戦に出た時も同じだった。
何をしたかは記録に残っている。しかし、なぜその動きを選んだのか、自分でも分からないことがある。
課長は頷いた。
「そこも含めて調べます」
「分からないことを?」
「分からないまま、橘さんだけへ任せ続けるわけにはいきませんから」
その説明には納得できた。
一人にしかできない仕事は、安定した制度とは言えない。その人が休めば止まり、いなくなれば失われる。
現場監督だった頃から、蒼真はそう考えてきた。
自分の判断とノストスの使い方を手順へ落とし込めるなら、その方がいい。
「協力します」
蒼真が答えると、神代隊長が腕を組んだ。
「橘」
「はい」
「自分がいなくてもいいようにしたいのか」
「自分以外でもできるようにしたいだけです」
「同じに聞こえるが」
「違います。必要なら自分も行きます」
「必要なら、か」
「はい」
神代隊長は、それ以上何も言わなかった。
会議が終わり、ほかの出席者が退室した後、牧野が蒼真へ声をかけた。
「橘さん」
「はい」
「本当に、よろしいんですか?」
「比較試験ですか?」
「ノストスへ、ほかの方が乗ることです」
「自分の機体ではありませんから」
「そうですけど」
牧野は少しだけ言葉を選んだ。
「ノストスは、橘さんの操作に合わせて調整を重ねています。別の方が乗れば、設定を変更することになります」
「後から戻せますよね?」
「戻せます」
「なら、問題ありません」
「そうですか」
牧野は頷いたが、どこか納得していないように見えた。
「何かありますか?」
蒼真が尋ねると、牧野は柔らかく笑った。
「いえ。橘さんが気になさらないなら、私が気にすることではありません」
「故障する可能性がありますか?」
「そういう意味ではありませんよ」
それなら、やはり何を気にしているのか分からない。
牧野は会議室を出ていった。
*
午後、蒼真は第三格納庫で、ノストスの操作記録を整理した。
救助用補助アーム、二基の牽引装置、防盾、救護籠、広域感知装置、作業用の出力制御。それぞれの使い方なら説明できる。
問題は、複数の装備を同時に使う時だった。
損傷機を牽引しながら、もう一方の牽引索で崩落しかけた壁を固定する。救護籠を背部へ保持したまま瓦礫を移動させ、避難者が通るための幅を作る。敵性個体が接近しても救助を中断せず、防盾だけを展開して攻撃を流す。
入力の時刻と出力は、すべて記録に残っている。
しかし蒼真は、その順番を一つずつ考えていなかった。
必要な作業を見つけ、手足を動かすように機体を使っただけだった。それを他人へ説明するには、自分の動きを外側から見直す必要がある。
片瀬が格納庫へ入ってきた。
「聞きましたよ。ノストスの比較試験」
「早いですね」
「第三中隊の話ですから」
片瀬は整備架台に立つノストスを見上げた。
「ほかの人が乗るんですね」
「はい」
「嫌じゃないですか?」
「なぜ、皆さん同じことを聞くんですか?」
「橘さん以外が乗っているところを、想像できないからですよ」
「訓練では、ほかの搭乗者も動かしています」
「今のノストスとは違うでしょう」
確かに、配備直後とは細かな仕様が変わっている。
牽引装置の巻き取り速度、補助アームの反応、防盾の展開角度。蒼真が現場で気づいたことを牧野へ伝え、そのたびに調整が重ねられてきた。
それでも、蒼真の専用機ではない。
「支援機は、誰でも使えた方がいいです」
「そうでしょうね」
片瀬は簡単に同意した。
「でも、橘さんと同じように使えるかは別ですよ」
「だから試験するんです」
「同じように動かせたら?」
「訓練手順を整理して、ほかの支援隊員へ広げます」
「動かせなかったら?」
「訓練方法を見直します」
「それでも駄目だったら?」
「機体側を調整します」
片瀬が笑った。
「橘さん、自分が特別だという結論だけは避けますね」
「まだ試していませんから」
「結果が出たら認めるんですか?」
「結果によります」
「逃げ道を残しましたね」
「比較には条件が必要です」
「そういうことにしておきます」
片瀬は笑ったまま、格納庫を離れた。
蒼真は操作記録へ戻った。
自分が特別だとは思わない。
ノストスが、自分にしか扱えない機体であってはいけないとも思う。
支援は、誰にでもできる仕事でなければならない。
それを証明するための試験だった。
*
午後三時二十分。
最初の比較搭乗者として、宮田が第三格納庫へ入った。
十一月、旧市立第二中学校で行われた実地検証で、現場の判断を任された支援隊員だった。管理局で長く現場監督を務め、支援隊員として必要な基礎課程とシミュレーター訓練も修了している。
実機へ搭乗するのは初めてではない。
ただし、ノストスへ乗るのは今日が初めてだった。
「橘さん、よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
「ずいぶん緊張しますね」
「訓練機と大きくは変わりません」
「橘さんにとっては、でしょう」
宮田は、整備架台に立つノストスを見上げた。
「この機体を、あんなふうに動かしているんですね」
「あんなふう?」
「映像を見ました。損傷機を牽引しながら、別の牽引索で壁を支えていたでしょう」
「必要だったので」
「そういう答えが返ってくると思いました」
最近、同じことをよく言われる。
牧野が搭乗前の確認表を持ってきた。
「宮田さん、操縦設定は訓練機に合わせています。補助アームの反応速度も、橘さんの設定より二割落としました」
「橘さんの設定ではないんですか?」
「初めて乗る方には、少し敏感すぎるんです。入力後に補正を待つ時間が、ほとんどありませんから」
宮田が蒼真を見る。
「操作を間違えたら、そのまま動くんでしょう。怖くないんですか?」
「間違えなければ大丈夫です」
「それは、大丈夫とは言いませんよ」
牧野が小さく笑った。
「橘さんは、ずっとこの調子なんです」
「牧野さんまで」
「事実ですよ」
宮田は搭乗口へ向かった。
蒼真は地上管制席へ座り、ノストスの状態表示を開いた。
機体の主電源が入り、各部の機能が順番に起動する。脚部駆動、補助アーム、牽引装置、防盾、救護籠の固定機構。すべて正常だった。
操縦席から宮田の声が届いた。
『視界を確認しました』
「右側に整備架台があります。最初は前進だけで構いません」
『了解です』
ノストスが、ゆっくりと立ち上がった。
毎日のように見ている機体だった。
それなのに動き始めた瞬間、蒼真は小さな違和感を覚えた。
右脚が、いつもより少し先へ出ている。姿勢を戻すため、左肩がわずかに後ろへ残っていた。
歩行としては正常だった。警告も出ていない。宮田の操作が下手なわけでもない。
ただ、自分が動かすノストスとは違う。
『橘さん』
「はい」
『何か変ですか?』
「どうしてですか?」
『ずっと黙っているので』
「機体は正常です。そのまま進んでください」
ノストスは格納庫の中央まで歩き、指定された位置で停止した。
次に旋回し、後退する。補助アームを展開し、訓練用の荷重を持ち上げる。
どの操作にも問題はない。
牧野が、蒼真の隣へ来た。
「どうですか?」
「正常です」
「それは機体の話ですよね」
「ほかに何がありますか?」
「橘さんが、どう感じたかです」
蒼真は、宮田が動かすノストスを見た。
自分の機体ではない。
誰が乗ってもいい。誰でも使える方がいい。
そう思っている。
それでも、ノストスが脚を置く位置が気になった。補助アームを展開する前の、ほんのわずかな間も気になった。
「不思議です」
蒼真は答えた。
牧野は、それ以上聞かなかった。
宮田の乗るノストスは、格納庫の中をゆっくりと歩いている。
比較試験は、何の問題もなく始まった。
誰が乗っても使える支援機であることを証明するための試験だった。
その結果が、やがて自分をノストスから降ろす方向へ進むことを、この時の蒼真はまだ考えていなかった。
*
夜。
蒼真は、寝室の机で日記を開いた。
---
十二月四日。
昨日の任務について、支援制度の評価会議があった。
支援隊員が同行した現場では、部隊の損傷率が下がっている。避難にかかる時間や負傷者数も改善しており、制度としての効果は確認できている。
第三中隊の損傷率は、ほかの部隊よりさらに低いらしい。
理由は分からない。
ノストスの性能と、自分の操作による違いを分けて確認するため、比較試験を行うことになった。
今日は宮田さんがノストスへ乗った。
歩行、旋回、停止、補助アームの操作に問題はなかった。初回の搭乗としては安定していたと思う。
ただ、右脚を置く位置も、肩が戻るタイミングも、補助アームが展開される速度も、自分が乗っている時とは違って見えた。
異常ではない。
自分が気にしすぎているだけかもしれない。
ノストスは自分の機体ではない。誰でも使える方がいい。その方が、帰れる人を増やせる。
家では、昴の紙のノストスを直した。
今回は右腕だけでなく、背中の紐も外れかけていた。昴は自分で直そうとしたが、途中で透明なテープが手と服へ絡まり、最後は自分がほとんど直した。
まだ二歳なので、仕方がない。
以上。
---
日記を閉じると、居間から美咲の声が聞こえた。
「昴、テープをそんなに出さないで!」
蒼真が居間へ行くと、床の上に透明なテープが長く伸びていた。
昴は紙のノストスを膝へ置き、自分で修理しようとしている。しかしテープは機体へ貼られず、両手と服へ絡みついていた。
「なおらない」
昴が困った顔で言う。
「そうだね」
「ぱぱ、やって」
「さっき直したよ」
「もっと、なおす」
美咲が、呆れたように蒼真を見る。
「誰に似たのかしら」
「分からない」
「あなたよ」
「自分は、できないことまでやろうとはしないよ」
美咲は、床の上に伸びたテープと蒼真を交互に見た。
「本当に?」
蒼真は答えず、昴の隣へ座った。
絡まったテープを服から剥がし、紙のノストスを受け取る。昴は、蒼真が直す手元をすぐ近くから見ていた。
その日、本物のノストスには宮田が乗り、紙のノストスには昴が自分で触れた。
どちらも蒼真だけのものではない。ほかの誰かが動かし、直せる方がいいことも分かっている。
それでも蒼真は、紙の機体へテープを貼りながら、自分以外の誰かが動かすノストスの姿を思い出していた。
なぜ気になるのかは、まだ分からなかった。
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第三十六話 終
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