第三十五話 帰ってくる数字
十二月三日。
冬の朝は、目を覚ましてから布団を出るまでが長い。
蒼真が目を開けると、胸の上に昴がいた。
いつ移動してきたのかは分からない。自分の布団から枕を持ってきたらしく、蒼真の胸と顎の間へ無理に挟み込んでいる。右手には、灰色の厚紙で作ったノストスが握られていた。
紙の機体は、以前より傷んでいた。
透明なテープは何度も貼り直され、左右で長さの違った腕は、さらに片方だけ短くなっている。背中に付けた紐の牽引装置も、一つは根元から垂れ下がっていた。
蒼真が紙のノストスへ触れると、昴が目を閉じたまま呟いた。
「まだ、なおしてない」
「起きてたの?」
「ねてる」
「寝てる人は話さないよ」
「ねながら、はなしてる」
蒼真は昴の身体を支え、ゆっくりと隣へ降ろした。掛け布団を掛け直してから起き上がると、昴も紙のノストスを抱えたまま身体を起こした。
「ぱぱ、きょう、のすとす?」
「今日は乗る予定だよ」
「こわれる?」
「壊さないようにする」
昴は手元の機体を見た。
「こわれても、なおすよ」
「誰が?」
「すばる」
「できるの?」
「てーぷ、ある」
今の昴にとって、整備とはテープを貼ることらしい。
「じゃあ、これも直せるね」
「ぱぱ、やって」
「昴が直すんじゃないの?」
「むずかしいから」
早くも外注された。
寝室の入口で、美咲が笑っている。
「おはよう。二人とも起きたなら、先に顔を洗って」
「昴がノストスを直してほしいって」
「帰ってきてからにして」
「うん」
蒼真が答えると、美咲は一瞬だけ彼を見た。
仕事へ行く前の「帰ってきてから」という言葉に、美咲が少しだけ敏感になっていることを蒼真は知っている。
だから、今日は曖昧にしなかった。
「夕食までには帰る予定だよ」
「予定は?」
「午後五時に現場終了。基地へ戻って報告しても、七時前には帰れると思う」
「何もなければ?」
「うん」
「最近、何もなかった日は?」
「多いよ」
この一か月、蒼真は何度も復興現場へ出ていた。
配管交換、建物の解体、地下設備の調査、倒壊した高架の撤去。ノストスを伴う支援制度の試験運用が続いているが、モンスターが出現したのは一度だけだった。それも敵性反応が確認された時点で作業を止め、第三中隊が到着する前に個体が区域外へ離れている。
毎回、何かが起きるわけではない。
その事実に、蒼真は少し安心していた。
「じゃあ、今日は大丈夫そう?」
美咲が聞く。
「そうだといいね」
「大丈夫って言わないんだ」
「言い切ると、美咲が嫌がるから」
「学習したのね」
「同じことを何度も言われたから」
「それを学習って言うの」
美咲はそう言って台所へ戻った。
仕事の内容について、それ以上は聞かなかった。
居間では、結衣が食卓に教科書を広げていた。朝食を待ちながら、昨日終わらなかった宿題を片づけているらしい。
「おはよう」
蒼真が声をかけると、結衣は顔を上げずに答えた。
「おはよう。お父さん、数学分かる?」
「中学一年なら、多分」
「多分じゃ困る」
「問題を見せて」
結衣が教科書を回す。方程式の文章問題だった。
蒼真が式を書こうとすると、結衣は手元を覗き込んだ。
「途中も書いてよ」
「頭の中で計算した」
「先生に途中式を書けって言われてるの」
「答えは合ってるよ」
「合ってても駄目なの」
蒼真は消しゴムで答えを消し、最初から式を書き直した。
現場では、結果だけでなく判断の過程を記録しろと言われている。学校の宿題でも、同じらしい。
「お父さん、今日も現場?」
「うん」
「ノストスに乗る?」
「乗るよ」
「じゃあ、帰ったら昴のも直してあげて」
結衣は、蒼真の隣で紙のノストスを振っている昴を指した。
「分かってる」
「約束した?」
「帰ってからって言った」
「それ、約束?」
蒼真は少し考えた。
「約束にする」
「じゃあ、忘れないでね」
美咲が朝食を運びながら言う。
「結衣も、宿題を忘れないでね」
結衣は何も言わず、教科書を閉じた。
*
午前八時四十分。
北部第三住宅区画の解体現場では、古い集合住宅が冬の空の下に並んでいた。
住民の移転はすでに終わっている。今日は中央の二棟を解体し、地下の電力線と給水管を撤去する予定だった。
蒼真は作業開始前からノストスへ搭乗していた。
支援制度の試験運用では、現場支援隊員と支援機を作業区域へ配置する。敵性個体の出現を前提とした警備ではない。災害や設備事故が起きた場合に、支援機がどこまで被害を抑えられるかを検証するためだった。
戦闘を担当する第三中隊の四機は、基地で待機している。
管理局から来ているのは、藤堂、久賀、森下の三人だった。
藤堂は設備会社の責任者と、地下配管の切断手順を確認している。久賀は建物周囲の安全区域を歩き、仮設柵と警告表示の位置を見ていた。森下は作業員の入退場記録と、緊急時の点呼方法を消防へ説明している。
蒼真はノストスの操縦席から、三人の位置と作業員の動きを確認していた。
「橘さん、南側の監視映像は見えていますか?」
藤堂から通信が入った。
「見えています。二号棟の影に入ると一部途切れます」
「中継器を追加しますか?」
蒼真は表示を切り替え、死角の範囲を確認した。
「今のままでも作業区域は見えます。ただ、退避時に南側通路へ人が集中すると確認しにくくなります」
「では、一台移します。設置位置を送ってください」
「送ります」
藤堂は、蒼真の指定した位置へ設備会社の作業員を向かわせた。
数分後、南側通路の映像が追加される。建物の陰になっていた区域まで見えるようになった。
午前九時、作業が始まった。
重機が外壁を崩し、散水車が粉塵を抑える。地上では誘導員が車両を動かし、地下では設備班が古い配管の内部を確認している。
ノストスが実際に動いたのは、午前中に二度だけだった。
一度目は、解体した外壁材が予定より外側へ倒れ、作業車両の進路を塞いだ時だった。ノストスは外壁材を持ち上げ、安全な場所へ移した。
二度目は、地下から引き上げていた配管が途中で折れ、残った部分が作業員側へ振れた時だった。ノストスが補助アームで配管を押さえ、作業員が離れるまで固定した。
どちらも、フレームワーカーを使うほどの事故にはならなかった。
それでも、重機を入れ直していれば一時間以上かかっていた。ノストスなら数分で作業を再開できる。
昼休憩の直前、久賀がノストスの足元まで来た。
「橘さん。午前中の記録を共有しました」
「確認します」
「配管の方は、こちらの事前確認が足りませんでした。腐食箇所が図面と違っています」
「昨日の検査では分からなかったんですか?」
「外側からは確認できませんでした。撤去後に内部を調べます。ただ、午後の作業では同じことが起きる可能性があります」
蒼真は地下設備の図面を開いた。
古い配管は、二号棟から三号棟の下まで延びている。午前中に折れた箇所と同じ年代に設置された部分が、あと三か所残っている。
「午後は、引き上げる前にノストスで支えます」
「作業員を減らしますか?」
「切断担当と確認担当だけ残してください。引き上げはノストスで行います」
「分かりました。藤堂さんと森下さんにも伝えます」
久賀は、現場で蒼真を呼び捨てにしない。管理局にいた頃から、仕事中はずっと「橘さん」だった。
役割が変わっても、それは変わらなかった。
「久賀さん」
「はい」
「昼休憩にしてください」
「橘さんも降りるんですよね?」
「記録を整理してから」
「先に食べてください。午後に呼ばれて、また食べられなくなります」
「呼ばれる予定はありません」
「予定どおりにならない時のために、私がいるんです」
久賀はそう言い残し、藤堂たちの方へ戻った。
蒼真は少しだけ記録を整理してから、ノストスを待機姿勢へ移した。
*
異常が起きたのは、午後二時十九分だった。
二号棟地下の配管を引き上げている最中、ノストスの広域感知装置が地表近くの振動を捉えた。
重機の振動とは周期が違う。
蒼真は作業表示を閉じ、振動の発生位置を地図へ重ねた。
北東。
現場の外。
距離は約三百メートル。
一度消えた後、別の位置に現れる。一定方向へ移動していた。
《識別不能》
「作業停止」
蒼真は全体通信へ切り替えた。
「北東側で不明振動を検出しました。全作業を停止してください。作業員は機材をその場に残し、南側の集合地点へ移動してください」
重機の音が順番に止まっていく。
藤堂から通信が入る。
「橘さん、設備由来の可能性は?」
「移動しています。現時点では否定できませんが、設備とは考えにくいです」
久賀が続く。
「敵性個体の可能性は?」
「あります。管理局と消防は退避を開始してください」
「橘さんは?」
「北東側を確認します。ただし、現場外には出ません」
森下はすでに点呼を始めていた。
「作業員三十二名、設備会社六名。南側へ誘導します」
「お願いします」
蒼真は基地へ緊急回線を開いた。
「北部第三住宅区画。移動する不明振動を検出。敵性個体の可能性があります」
神代隊長の声が返る。
『こちらでも受信した。地上反応はない』
「地下二十から三十メートル。北東から接近しています」
『作業員は』
「退避中です」
『第三中隊、出る。到着まで七分』
「了解」
七分。
蒼真は地図を見た。
作業員は南側へ移動している。大型車両は現場内に残されているが、南側通路は空いている。消防車両も退避方向へ向きを変えていた。
このままなら、三分以内に全員が現場外へ出る。
振動の移動速度が上がった。
地表に近づいている。
「森下さん、点呼状況は?」
「三十六名確認。二名が地下です」
「誰ですか?」
「設備会社の切断担当です。撤去機材を止めに戻ったと」
蒼真は地下作業区域の映像を開いた。
二人の作業員が、途中まで引き上げた配管の固定装置を操作している。このまま退避すれば、吊られた配管が地下通路へ落下する可能性がある。だが、固定にかかる時間と敵性反応の接近を比べれば、残るべきではない。
「地下の二名。作業を中止してください。機材は放棄して、直ちに南階段から退避してください」
一人が通信へ答える。
『あと一分で固定できます』
「一分はありません。離れてください」
『でも、このままだと配管が――』
「ノストスで保持します。退避してください」
二人はようやく機材から離れた。
蒼真はノストスを地下搬入口へ移動させ、吊り上げ途中の配管を補助アームで挟んだ。重量は許容範囲内。固定装置が外れても、通路へ落ちることはない。
地下の二人が階段へ向かう。
その直後、北東側の地面が持ち上がった。
舗装が割れ、土砂が噴き上がる。崩れた道路の下から、灰褐色の背が現れた。
四脚。
全長約九メートル。
頭部は低く、前脚だけが異様に太い。土中を掘り進むための個体らしく、肩から先が硬い外殻に覆われている。
一体。
続いて、少し離れた場所で別の振動が地表へ近づいた。
二体目。
《敵性個体確認》
警報が鳴る。
「敵性個体二体。北東側道路」
蒼真は第三中隊へ情報を送った。
神代隊長が即答する。
『到着まで四分』
「作業員二名が地下から退避中です。残りは南側へ移動済み」
『ノストスは』
「配管を保持しています」
『放棄できるか』
蒼真は補助アームの状態を確認した。
配管を落とせば地下通路が塞がる。二人はまだ階段へ到達していない。土砂が流れ込めば、退避できなくなる可能性がある。
「二名が出るまで保持します」
一秒の間。
『了解。出たら南へ下がれ』
「了解」
一体目が道路から現場へ入った。
解体途中の建物へ頭部を向け、低い音を発する。重機の振動に反応したのか、縄張りへ侵入したものを探しているのかは分からない。
二体目は、まだ地下にいる。
一体目がノストスへ顔を向けた。
距離は百六十メートル。
ノストスは動けない。配管を保持したまま移動すれば、地下の作業員を危険にさらす。
蒼真は防御砲の射線を確認した。
今撃てば、敵を刺激する。現場へ入る前に方向を変える可能性も残っている。
撃たない。
敵が五歩進んだ。
距離百二十。
地下映像では、一人目が階段へ到達している。二人目はその後ろを走っていた。
「あと三十秒」
蒼真は呟いた。
敵が前脚で地面を叩いた。
振動がノストスの脚部へ伝わる。配管が揺れ、補助アームの保持出力が上昇した。
敵は音へ反応し、速度を上げた。
「森下さん、地下の二名は?」
『一名、地上へ出ました。もう一名、階段です』
距離八十。
ノストスは右腕を上げ、防盾を展開した。左の補助アームは配管を保持したまま、右の補助アームだけを前へ出す。
戦うためではない。
接触した時、敵の頭部を横へ流すためだった。
距離五十。
『橘』
神代隊長の声。
『視認した』
第三中隊の四機が、南西側の道路から現れた。
神代機が先頭。片瀬機と安西機が左右へ分かれ、御堂機が射撃位置を取る。
「地下、残り一名」
『先にそちらを出せ』
神代機は、ノストスへ向かっていた個体の側面へ杭撃ちを放った。
外殻へ命中。
敵の身体が揺れ、進行方向が変わる。
片瀬機が左から入り、防盾で頭部を押さえる。安西機は右前脚を狙い、動きを止めた。
『御堂、待て』
神代隊長が射撃を止める。
敵の背後には、解体途中の建物がある。ここで大型弾を使えば、外壁が地下搬入口側へ倒れる可能性があった。
蒼真は地下映像を見た。
最後の一人が階段を上がり、地表へ出る。
「二名、退避確認」
『橘、配管を置け。南へ』
「了解」
ノストスは配管をゆっくりと地下床へ降ろした。補助アームを解放し、姿勢を変える。
その瞬間、二体目が地表を破った。
出現位置は、神代機の右後方。
「神代隊長、右後方!」
『見えた』
神代機は振り向かない。
一体目を押さえている片瀬機と安西機の間へ入れば、拘束が崩れる。
神代隊長が短く命じた。
『橘、二体目を止めろ』
「了解」
ノストスは地下搬入口から走り出した。
二体目は、まだ全身を地上へ出していない。太い前脚を舗装へ突き立て、身体を引き上げようとしている。
蒼真は正面から向かわなかった。
右側へ回り込み、敵の進行方向と南側退避路の間へ入る。自分を追わせれば、作業員から離せる。
二体目がノストスへ頭を向けた。
突進。
ノストスは左へ踏み込み、敵の頭部を防盾で受けた。
正面から止めない。
接触する直前に腰を回し、衝撃を右へ流す。敵の身体がわずかに傾き、前脚が舗装の割れ目へ落ちた。
《右腕負荷上昇》
蒼真は防盾を離し、敵の側面へ回る。
敵が前脚を引き抜こうとする。
「御堂さん、右前脚」
『見えてる』
御堂機の射撃。
一発目が外殻を割り、二発目が関節へ入る。
敵の姿勢が崩れた。
それでも止まらない。身体を捻り、ノストスへ肩をぶつけようとする。
蒼真は後退せず、補助アームを敵の外殻へ当てた。押し返すのではなく、そのまま力の向きを変える。
敵の肩がノストスの左側を通過する。
直後、神代機が背後から杭撃ちを入れた。
敵が地面へ沈む。
《活動低下》
まだ動いている。
蒼真は敵の頭部と神代機の位置を確認した。
「左へ起きます」
『安西』
『行く』
一体目を片瀬機へ任せ、安西機が走る。
蒼真の予測どおり、二体目が左側へ起き上がろうとした。安西機がその動きへ合わせ、杭撃ちを外殻の隙間へ突き込む。
敵の動きが止まった。
《活動停止》
「二体目、停止」
『片瀬、離れろ』
神代隊長の命令と同時に、片瀬機が一体目から距離を取った。
御堂機の射線が通る。
連続射撃。
砕けた外殻の奥へ弾頭が入り、一体目もその場へ崩れた。
《敵性反応消失》
戦闘開始から、二分四十七秒。
作業員は全員、南側の集合地点へ退避している。負傷者はいない。
神代隊長が全体通信を開いた。
『周辺確認。地下反応に注意しろ』
片瀬が東側へ移動する。
『東、反応なし』
安西。
『北、なし』
御堂。
『西、異常なし』
蒼真はノストスの広域感知を最大へ上げた。
地中振動。
重機の停止後も残る微かな揺れ。
崩れた道路から落ちる土砂。
それ以外の移動反応はない。
「地下、新規反応なし。作業区域の全員を確認しています」
『了解。橘は救助線へ戻れ』
「了解」
ノストスは南側へ向きを変えた。
戦闘は終わった。
しかし、仕事はまだ終わっていない。
消防と合流し、退避した作業員の状態を確認する。残された機材の危険を調べ、配管が地下通路を塞いでいないか確かめる。第三中隊が周辺警戒を続ける間、現場から全員を帰す。
ノストスは、そのために来ている。
*
午後六時十一分。
第三格納庫では、帰還した五機の点検が続いていた。
神代機の損傷率は一二・八パーセント。
片瀬機は一五・二パーセント。
安西機は九・七パーセント。
御堂機は四・一パーセント。
ノストスは六・三パーセントだった。
敵の突進を防盾で流した際、右腕の関節部に負荷がかかっている。外装にも擦過痕が残ったが、交換が必要な部品はなかった。
牧野はノストスの右腕へ測定器を当て、記録を確認していた。
「また一桁ですね」
「後方支援なので」
蒼真が答えると、牧野は振り返った。
「今回は前へ出ていますよ」
「短時間です」
「敵の突進も受けています」
「止めてはいません。流しました」
「ですから、それを皆さんが簡単にできるわけではないんです」
牧野の口調は穏やかだったが、簡単には引き下がらなかった。
隣では、別の整備員が片瀬機の防盾を取り外している。外殻との接触面が大きくへこみ、固定部にも歪みが出ていた。
整備員の一人が、五機分の損傷記録を見比べた。
「最近、第三中隊はずっと軽いですね」
別の整備員が答える。
「橘さんが支援に入ってからだろ」
「前は片瀬機か安西機のどちらかが二十を超えてたよな」
「敵が少なかっただけじゃないのか」
「同規模の記録を比べても低いぞ」
蒼真は、彼らの会話を聞きながらノストスを見上げた。
「支援機がいるからだと思います」
整備員たちが蒼真を見る。
「牽引と救助をノストスが引き受けるので、前衛機が無理に残らなくていいんです。今日は避難が先に終わっていたので、第三中隊も戦闘へ集中できました」
説明としては間違っていない。
牧野も否定しなかった。
「それもありますね」
「なら、制度の効果です」
蒼真が言うと、片瀬機を担当していた整備員が笑った。
「でも、ほかの支援員が入った部隊は、ここまで下がってないんですよ」
蒼真は答えに困った。
「現場条件が違うので、単純には比較できません」
「橘さん、そういうところまで管理局の人みたいですね」
「以前は管理局にいましたから」
「今は第三中隊でしょ」
「支援です」
「知ってますよ」
整備員は端末を操作し、別の記録を表示した。
過去二か月に行われた支援制度の試験運用。
支援なし。
他支援員が同行。
橘蒼真が同行。
敵性個体の数、現場環境、交戦時間が異なるため、正式な比較資料ではない。それでも、平均損傷率には明らかな差が出ていた。
支援なし。
二八・九パーセント。
ほかの支援員が同行。
二二・七パーセント。
蒼真が同行した第三中隊。
一三・四パーセント。
「ずいぶん違いますね」
蒼真が言った。
「橘さんの話ですよ」
「第三中隊の練度が上がったのでは?」
「二か月で?」
「訓練もしていますから」
「橘さん、自分の数字だけは絶対に認めませんね」
「自分の数字ではありません。部隊全体の記録です」
整備員が少し考えた後、笑った。
「敵を倒すエースじゃなくて、裏方のエースってことですかね」
「裏方の?」
「裏エース」
近くにいた整備員たちが笑った。
片瀬も、点検を終えて戻ってきたところで、その言葉を聞いたらしい。
「いいじゃないですか。橘さんに合ってますよ」
「何がですか?」
「表に出たがらないところが」
「支援隊員なので、前へ出る必要はありません」
「今日は出てましたけどね」
「命令があったので」
「やっぱり裏エースだ」
片瀬が笑う。
安西も近くへ来た。
「橘がいると、後ろを気にしなくていい」
「右後方は見てください」
「四月の話をまだ言うのか」
「必要だと思います」
「あれから見てるよ」
「なら、よかったです」
安西は一瞬だけ呆れた顔をした後、牧野に尋ねた。
「ノストスは?」
「右腕の調整だけで済みます。明日には戻せますよ」
「こっちも?」
「安西さんの機体は、右脚の外装交換があります。今日は橘さんより壊していますね」
「前衛だから仕方ないだろ」
「そういうことにしておきます」
牧野が柔らかく笑う。
神代隊長は、少し離れた場所から損傷記録を見ていた。
「裏エースか」
その声で、周囲の笑いが少し静かになった。
神代隊長は蒼真を見る。
「嫌か?」
「呼ばれる理由が分かりません」
「今、説明されていただろ」
「正式な評価ではありません」
「なら、正式な数字が出るまで待て」
「出るんですか?」
「すでに集計へ回した」
蒼真は表示された数字を見た。
一三・四パーセント。
低い。
それは分かる。
しかし、何が理由なのかは分からない。
ノストスがいるから。
第三中隊の練度が上がったから。
退避判断が早くなったから。
現場支援制度が機能しているから。
複数の理由が重なっている。
自分一人の成果ではない。
「橘」
神代隊長が呼ぶ。
「はい」
「今日は全員帰った」
「はい」
「なら、今はそれでいい」
四月十四日にも、似たことを言われた。
分からないことを、分かったことにする方が悪い。
蒼真は頷いた。
「分かりました」
背後で、また整備員が言う。
「裏エースのお墨付きが出たな」
「出ていません」
蒼真は否定した。
今度は、さっきより多くの人が笑った。
*
帰宅したのは、午後七時二十二分だった。
予定より少し遅れたが、夕食には間に合った。
「ただいま」
「おかえり」
美咲が台所から答える。
昴が紙のノストスを持って走ってきた。
「ぱぱ、なおして!」
「先に着替えていい?」
「だめ」
「どうして?」
「やくそく」
結衣が居間から顔を出す。
「約束したんでしょ」
「帰ってから直すとは言ったけど、帰ってすぐとは言ってないよ」
「そういう言い方、嫌われるよ」
美咲まで台所から言う。
「先に直してあげて」
「夕食は?」
「それくらいでは冷めないから」
蒼真は鞄を置き、制服のまま居間へ入った。
食卓の上に、透明なテープと子ども用のはさみが用意されている。昴は最初から、帰宅した蒼真を捕まえるつもりだったらしい。
紙のノストスを受け取る。
片方の牽引装置が外れ、右腕の付け根も破れていた。
「右腕だね」
「ぱぱと、おなじ?」
蒼真は昴を見る。
「どうして?」
「きょう、みぎ、こわれた?」
「少しだけ」
昴は紙のノストスの右腕を指した。
「いっしょ」
偶然だった。
蒼真は透明なテープを短く切り、破れた部分へ貼った。外れた紐も背中へ付け直す。
昴は、蒼真の手元を真剣に見ていた。
「何してるか分かる?」
「なおしてる」
「それだけ?」
「てーぷ、はる」
今は、それで十分らしい。
修理を終えた紙のノストスを渡すと、昴は両手で持ち上げた。
「なおった!」
「多分」
「ほんとのも?」
「明日には直るよ」
「ぱぱが、なおした?」
「牧野さんが直してくれる」
「まきのさん?」
「ノストスを直す人」
昴は、その名前を初めて聞いたような顔をした。
「つよい?」
「強いと思う」
「ばんばんする?」
「しないよ」
「じゃあ、なにする?」
「壊れたものを直す」
昴は紙のノストスを見た。
何かを考えているようだったが、すぐに機体を床へ置き、歩かせ始めた。
「のすとす、かえった!」
それだけで、遊びへ戻る。
蒼真も制服を着替えるため、立ち上がった。
「今日、何かあった?」
結衣が聞いた。
「少し」
「戦った?」
「第三中隊がね」
「お父さんも?」
「少しだけ」
「怪我は?」
「ないよ」
「ノストスは右腕?」
「調整すれば直る」
結衣はそれ以上聞かなかった。
「今日の夕飯、鍋だよ」
「そうなんだ」
「お父さんが遅いと、昴が先に全部食べるところだった」
「野菜も?」
「肉だけ」
台所から美咲の声が飛ぶ。
「結衣も人のこと言えないでしょ」
「私は白菜も食べたよ」
「一枚だけね」
仕事の話は、そこで終わった。
蒼真が着替えて戻ると、鍋から湯気が上がっていた。昴は紙のノストスを椅子の隣へ立たせようとして、何度も倒している。結衣は自分の器へ肉を確保し、美咲に見つかって戻すよう言われていた。
職場では、裏エースという名前が生まれた。
家では、誰も知らない。
蒼真も、話す必要を感じなかった。
今は鍋の方が大事だった。
*
夜。
日記。
---
十二月三日。
北部第三住宅区画で、支援制度の試験運用を行った。
午後二時十九分、北東側で地下振動を検出した。作業を止め、全員を南側へ退避させた。設備会社の二名が地下に残ったが、ノストスで配管を保持し、二人とも退避できた。
敵性個体は二体だった。
第三中隊が到着するまで、ノストスで現場を維持した。到着後、神代隊長の指示で二体目へ対応した。
負傷者はいない。作業員、消防、管理局、第三中隊は全員帰った。
ノストスの損傷率は六・三パーセント。右腕の調整が必要だが、明日には戻る。
第三中隊の平均損傷率が、以前より低くなっているらしい。現場支援制度とノストスの効果だと思う。
整備員から、裏エースと呼ばれた。
意味は説明されたが、よく分からない。正式な役職ではない。
昴の紙のノストスも右腕が壊れていた。透明なテープで直した。
本物は牧野さんが直す。
今日は、両方帰った。
以上。
---
蒼真は日記を閉じた。
居間から、紙の機体が床へ落ちる音がした。
続いて、昴の声が聞こえる。
「ぱぱ! また、こわれた!」
蒼真は時計を見た。
寝る時間を過ぎている。
「明日直すよ」
「いま!」
美咲が笑っている。
蒼真は日記を机へ置き、居間へ向かった。
本物のノストスより、紙のノストスの方が頻繁に壊れる。
整備する人が必要なのかもしれない。
その役を誰がするのか。
今はまだ。
蒼真しか知らなかった。
面白いと思われたら、ブックマークして頂ければ幸いです。
また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
感想も頂けましたらありがたいです。
よろしくお願いします。




