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第三十三話 同じ手順

十月一日。


復興現場支援隊員制度が、正式に施行された。


第三中隊の執務室へ入ると、蒼真の机には見慣れない腕章が置かれていた。


濃い青地に、人と機体を囲む白い円が描かれている。その下には、《現場支援》という四文字が刺繍されていた。


蒼真は腕章を持ち上げ、向かいの席に座っていた安西へ尋ねた。


「これ、着けるんですか」


「そのために置いてあるんだろ」


「今までの腕章だけでは駄目なんですか」


「現場で権限を見分けられるようにするらしい。作業員や消防が、誰に判断を確認すればいいのか分からないと困るからな」


「所属章は第三中隊のままですよね」


「当然だろ」


蒼真は新しい腕章を作業服の左腕へ着けた。


第三中隊の所属章は、これまでと変わらず右腕にある。戦闘中隊の一員であり、復興現場を担当する支援隊員でもあることを、左右の腕がそれぞれ示していた。


そこへ入ってきた片瀬が、蒼真の腕を見るなり笑った。


「似合うじゃないか」


「何も変わっていませんよ」


「少し偉そうに見える」


「それなら外したいです」


「今日から正式制度なのに、初日から外すなよ」


「偉そうに見えるのは嫌です」


「実際、現場を止める権限があるんだから諦めろ」


蒼真は、着けたばかりの腕章を見た。


現場支援隊員には、作業を中断し、作業員を退避させる権限がある。その判断によって工事が遅れ、復興計画や費用へ大きな影響が出ることもある。


腕章は、蒼真が偉くなったことを示すものではない。現場を止める権限と、その判断に伴う責任を、周囲から見える形にしたものだった。


「外さない方がいいですね」


「最初からそう言ってる」


「でも、偉くはなっていません」


「分かったから、何度も確認するな」


安西が机へ顔を伏せて笑っている。


神代が執務室へ入ってきたのは、その時だった。


手には十二台の端末を持っている。会議机へ置かれた端末には、昨日まで蒼真たちが修正を続けていた支援隊員用の教材が入っていた。


「橘。候補者用の教材だ」


「今日から研修ですか」


「午後から第一期研修を始める。お前にも参加してもらう」


「講師として?」


「現場経験者としてだ」


「説明は誰がするんですか」


「お前だ」


蒼真は少し考えた。


「それは講師では?」


「肩書は現場経験者だ」


違いが分からなかった。


安西が笑いを堪えながら言う。


「橘先生」


「やめてください」


「説明が長いから、候補者が今日中に帰れるか心配だな」


「時間割では、午後五時に終了します」


「そういう意味じゃない」


安西に言われた意味は、やはり分からなかった。



第一期研修へ参加する支援隊員候補は、十二名だった。


管理局の現場監督経験者が五名、消防の救助指揮経験者が三名、戦闘中隊の搭乗者が四名。年齢も所属も異なり、復興現場で十年以上働いてきた者がいれば、戦闘型フレームワーカーの搭乗経験は長くても、民間の工事現場へほとんど入ったことのない者もいる。


全員が、蒼真たちの作った教材を持っていた。


研修室の正面には、制度の基本方針が表示されている。


《敵を倒すことではなく、全員が帰るために必要な行動を選ぶこと》


研修責任者が制度の目的と支援隊員の権限を説明した後、正面の場所を蒼真へ譲った。


十二人が、一斉に蒼真を見る。


蒼真は全員の前へ立ち、簡単に名乗った。


「第三中隊の橘蒼真です」


そこまで言ったところで、次に何を話せばよいのか分からなくなった。


制度の目的は、すでに研修責任者が説明している。教材にも目を通しているはずなので、同じ説明を繰り返す必要はない。


自分の経歴から話すべきか、五月二十六日の現場から話すべきか、それとも作業中断の基準から始めるべきなのか。


順番を決めないまま前へ出てしまった。


沈黙が続き、最前列に座る消防出身の候補者が、少し心配そうに蒼真を見ている。


後方に立っていた神代が声をかけた。


「橘」


「はい」


「始めろ」


「今、順番を考えています」


「考えてから前へ立て」


正しい指摘だった。


候補者たちの間に、小さな笑いが起きる。張り詰めていた研修室の空気も、少しだけ柔らかくなった。


蒼真は手元の端末を開いた後、最初に用意していた自分の経歴を閉じた。


「すみません。説明する順番を決めていませんでした。最初に、教材の一番前に書かれている文章について話します」


正面の表示を、旧東央商業施設の地下構造図へ切り替える。


「ここには、全員が帰るために必要な行動を選ぶと書かれています。しかし、何をすれば全員が帰れるのかは、現場ごとに違います」


地下構造図には、設備層、西側斜路、崩落した階段、資材昇降口、敵性個体と第三中隊の位置が表示されている。


「この現場では、設備班六名が地下へ取り残されました。西側階段が崩落していたため、資材昇降口のシャッターをノストスで開け、六名を救助しています。その後、第三中隊の退路を大型個体が塞いだので、牽引装置を使って敵を南側へ移動させました」


戦闘中隊出身の候補者が手を上げた。


「質問してもよろしいですか」


「どうぞ」


「敵性個体を撃破せずに移動させた理由は、構造崩落までの時間がなかったからですか」


「はい。大型個体を三メートル動かせば、第三中隊の機体が交差部を通ることができました。活動停止させるまで戦う必要はないと判断しました」


「しかし、崩落へ巻き込まれた個体が、後から活動を再開する危険は残ります」


「残ります。実際、四体のうち一体は活動停止を確認できませんでした」


「その場で排除した方が、後の危険は少なかったのではありませんか」


「排除している間に支柱が折れれば、第三中隊の四機が地下へ取り残されます」


「敵性個体の排除と、味方の帰還のどちらを優先するかということですか」


「その時は、帰還を優先しました」


候補者は頷いたが、完全に納得したようには見えなかった。


蒼真は、それで構わないと思った。


戦闘中隊の搭乗者なら、敵性個体を残すことへ抵抗がある。消防出身者であれば負傷者を最優先に考え、管理局の現場監督なら、二次災害と作業員全体の安全を先に見るかもしれない。


同じ現場に立っていても、これまでの経験と役割によって、最初に目へ入るものは変わる。


「自分が行った判断が、いつでも正しいわけではありません」


蒼真は候補者たちへ言った。


「結果として全員が帰りましたが、牽引に失敗していれば、ノストスも地下へ取り残された可能性があります。教材へ載っている事例は正解ではなく、その時に持っていた情報を基に、実際に行った判断として読んでください」


管理局出身の候補者が尋ねた。


「正解ではないとすれば、私たちは何を学べばよいのでしょうか」


「その時にどの情報を持っていて、何を優先したのかです」


「同じ情報があれば、同じ判断をするべきではありませんか」


蒼真は少し考えた。


「同じ判断をする必要はないと思います。ただし、違う判断を選ぶなら、なぜ違うのかを説明できる必要があります」


後ろで腕を組んでいる神代は、何も言わなかった。


この答えでいいのかどうか。


研修が終わったら聞こうと、蒼真は思った。



午後の訓練では、現場支援用の模擬システムが使われた。


候補者は三人ずつ四組へ分かれ、管理局、消防、設備班、戦闘部隊から送られてくる情報を基に、作業中断と退避を判断する。


最初の課題は、旧貨物集積所を模した現場だった。


作業員は四十名、消防が八名、設備班が六名。現地には支援機が一機配備されている。


作業内容は、倒壊した倉庫からの資材搬出と、地下燃料槽の撤去。戦闘中隊は基地で待機しており、出撃命令から現着までは九分と設定されていた。


訓練開始から十分後、三つの問題がほぼ同時に発生した。


東側搬入口では、資材を積んだ搬送車両が故障し、消防の進入路を半分塞いだ。


西側倉庫では、作業員一名が足場から転落し、自力で動けなくなった。


さらに、地下燃料槽の周辺で弱い振動が検出された。


敵性反応はない。


各組は同じ情報を与えられ、それぞれの判断で現場を動かした。


第一組は、消防出身者を中心に負傷者の救助を最優先した。


支援機を西側倉庫へ向かわせ、消防の半数も負傷者救助へ送る。残る消防隊員には東側搬入口の確保を指示した。


しかし、故障車両が消防経路を塞いでいたため、救急車両は倉庫内へ入れなかった。


支援機が負傷者を抱えて東側搬入口へ戻った時、地下燃料槽の配管が破断した。漏れた燃料が床へ広がり、東側搬入口そのものが使えなくなった。


第一組は負傷者の救助には成功したが、作業員四十名を退避させるまでに長い時間を要した。


第二組は、管理局出身者を中心に地下振動の危険を重視した。


すべての作業を中断し、四十名全員を西側の非常口から退避させる。支援機には故障車両を移動させ、消防経路を確保するよう指示した。


作業員全体の退避は第一組より早かった。


その一方で、転落した作業員は足場の下へ残された。


地下燃料槽の配管が破断したことで、西側倉庫にも燃料蒸気が流れ込んだ。消防が安全を確認して救助へ入るまで時間がかかり、負傷者の状態が悪化した。


第三組は、戦闘中隊出身者を中心に、地下振動を敵性個体が移動している可能性と考えた。


支援機を地下燃料槽へ向かわせ、作業員全員へ地上退避を指示する。同時に、戦闘中隊へ早期出撃を要請した。


しかし、振動の原因は敵性個体ではなく、燃料槽を固定していた器具の破損だった。


敵性個体が出現した場合の備えは最も早かったものの、支援機を地下へ向かわせたため、負傷者の救助と故障車両の移動が遅れた。


どの組の判断にも、正しい部分はあった。


ただし、それぞれが最初に見つけた危険を優先したことで、別の危険への対応が遅れていた。


訓練映像を見ていた蒼真は、各組が何を確認し、どの時点で行動を決めたのかを手元の記録へ書き込んだ。


研修責任者が尋ねる。


「橘さんなら、どのように対応しますか」


候補者たちも、蒼真を見た。


蒼真は模擬現場の全体図を確認した後、首を傾げた。


「今の情報だけでは分かりません」


研修責任者が目を瞬かせる。


「分からない?」


「判断するための情報が足りません。転落した作業員の意識と負傷部位が分かりませんし、足場の下に燃料配管が通っているのかも表示されていません。故障車両が自力で動けない理由と、地下振動の周期や発生範囲も必要です」


研修責任者は訓練設定を確認した。


「それらの情報は、候補者が要求した場合に追加表示することになっています」


「では、先に確認します」


「最初の判断まで、三分という制限があります」


「三分あれば、確認できると思います」


候補者の一人が手を上げた。


「その三分間に、負傷者、車両故障、地下振動のすべてを確認するのですか」


「自分一人で確認する必要はありません。消防には負傷者の状態を見てもらい、設備班には地下振動と燃料槽の圧力を確認してもらいます。故障車両の運転手には、走行機能が残っているか聞きます」


「それまで、作業は続けるのですか」


「全作業を止めます。ただ、作業員をすぐには移動させません」


「退避させない?」


「燃料槽の状態が分からないまま四十名を動かすと、危険な方向へ集める可能性があります。機材を停止させ、班ごとに移動できる準備をしてもらいます」


研修責任者が、蒼真の求めた追加情報を表示した。


負傷者は意識があり、左足首を負傷している。出血はないが、自力歩行はできない。


故障車両の駆動系に異常はなく、制御装置を再起動すれば、低速で移動できる可能性がある。


地下振動は六秒間隔で、燃料槽の圧力変動と一致していた。


蒼真は情報を読み、順番に指示を出した。


「故障車両は運転手に再起動を試してもらい、動けば東側搬入口の外へ出します。動かなければ支援機で移動させます。消防の二名は負傷者を足場の外へ運び、残る六名は東側搬入口で待機してください」


「支援機はどこへ向かわせますか」


「地下燃料槽の出入口です。設備班が退避する経路を確保します。ただし、車両が動かなければ、すぐ東側へ戻します」


「作業員四十名は?」


「地下燃料槽の圧力変動が続いているので、設備班を先に上げます。ほかの作業員は西側非常口と南側通路へ分け、移動準備をさせます。配管の破断が確認された時点で、風向きと燃料蒸気の流れを見て、退避先を決めます」


模擬現場の時間が進む。


故障車両は、制御装置を再起動したことで低速移動を始め、東側搬入口を空けた。


消防は負傷者を足場の外へ搬送する。


設備班が地下から戻った直後、燃料槽の配管が破断した。


漏れた燃料は地下の防液区画へ溜まり、地上へは広がらなかった。しかし、燃料蒸気が西側倉庫へ流れ込む。


蒼真は西側にいた作業員を南側通路へ移し、消防へ燃料槽周辺の封鎖を頼んだ。


支援機は地下入口前に残した。


設備班が地下へ置いてきた機材は、回収しない。人員の退避が終わった後で、安全を確認してから取りに戻ればよいと判断した。


模擬訓練が終了する。


転落した作業員は左足首を骨折していたが、二次被害は発生しなかった。作業員と設備班は全員退避し、消防の進入路も維持されている。


候補者たちは、訓練結果を黙って見ていた。


第一組の候補者が尋ねる。


「最初から、どの問題が起きるか分かっていたのですか」


「分かっていません」


「しかし、すべての対応が間に合っています」


「必要な情報を、それぞれの担当者へ確認しただけです」


「私たちも、表示された情報は確認しました」


「表示されていない情報があると、考えなかったのではありませんか」


候補者は自分たちの行動記録へ目を落とした。


第一組は負傷者を助けなければならないと判断した時点で、支援機と消防の配置を決めている。


第二組は地下振動を危険だと考え、全員退避を決めた。


第三組は敵性個体の可能性を考え、支援機を地下へ向かわせた。


三組とも、最初に見つけた危険へ対応しようとした。


一方の蒼真は、最初に与えられた情報だけで、何が最も危険なのかを決めなかった。判断できないまま待ったのではなく、作業を止め、移動準備を進めながら、判断に必要な情報を各担当者へ求めた。


「最終判断を遅らせたのですか」


戦闘中隊出身の候補者が尋ねる。


「作業はすぐに止めています」


「退避先と支援機の配置を決める判断です」


「何を確認すれば決められるのかを考えました」


「その間に敵が出現したら?」


「出る可能性はありました。ただ、敵性反応はなく、振動周期は一定でした。すぐに支援機を戦闘配置へ入れる理由もありませんでした」


「判断しないことも、判断になるのでしょうか」


蒼真は少し考えた。


「何もしないという意味なら、違います。作業を止め、情報を集め、移動できる準備をしています。退避先や支援機の行き先だけを、決めるには早すぎると思いました」


候補者は頷いた。


言葉の意味を理解したのか、まだ納得していないのか、蒼真には分からなかった。



訓練終了後、候補者たちは自分たちの判断を報告書へまとめた。


成功した判断だけではなく、失敗したことや迷ったことも、その時に持っていた情報と一緒に記録する。


第一組は、負傷者救助を優先するあまり、消防の進入路を確認していなかった。


第二組は、作業員全体の退避を優先し、動けない負傷者への対応が遅れた。


第三組は、敵性個体がいる可能性を強く見すぎたため、支援機を救助と経路確保へ使えなかった。


それでも、候補者たちの能力が不足しているわけではない。


消防出身者は、負傷者の状態を確認して救助へ到達するまでが最も早かった。


管理局出身者は、作業班の位置と退避人数を正確に把握していた。


戦闘中隊出身者は、敵性個体が出現した場合の機体配置を、短い時間で作ることができた。


全員が、自分の経験を生かしている。


だからこそ、最初に見るものが違った。


研修責任者は候補者の報告を回収した後、蒼真へ尋ねた。


「今日の訓練を受けて、教材へ追加すべき内容はありますか」


「最初に持っている情報だけで、行動を決めないことです」


「情報が足りなければ、追加を求める?」


「はい。ただし、全部の情報が揃うまで何もしないわけではありません。何が分かれば次の判断ができるのかを先に考え、その間に止められる作業を止め、移動準備を進めます」


「文章にできますか」


「やってみます」


蒼真は端末を開き、教材へ新しい項目を加えた。


《判断に必要な情報が不足している場合は、決められない理由を明確にし、各担当者へ確認を求める。その間も作業停止、移動準備、経路確保など、判断を待たずに行える安全措置を進める》


書き終えた文章を、後ろにいた神代が読んだ。


「長いな」


「短くすると、情報が揃うまで何もするなと読めます」


「候補者が現場で思い出せるか?」


「教材を見ればいいと思います」


「現場で教材を読む時間がない場合もある」


「それなら、短い方も作ります」


蒼真は長い文章の上へ、見出しを追加した。


《決められない時も、止められるものは止める》


「これならどうですか」


神代は二つの文章を見比べた。


「さっきよりはいい」


「短い方だけでは、説明が足りません」


「だから、下に長い方を残せ」


「分かりました」


研修責任者が、短い見出しと詳しい説明の両方を教材へ登録した。


短い言葉で判断の方向を示し、その下へ理由と手順を残す。蒼真一人の中にあった判断が、少しずつ他の人間へ渡せる形になっていく。


「候補者は、出来そうですか」


蒼真が研修責任者へ尋ねた。


「何がですか」


「支援隊員です」


「まだ初日ですよ」


「昴は、蝶々結びが出来るまで四か月くらいかかりました」


「昴というのは?」


「息子です」


「支援隊員の育成と、お子さんの蝶々結びを比べているんですか」


「繰り返せば出来るという意味です」


研修責任者は笑った。


「そうですね。全員、今日よりは出来るようになると思います」


「なら、大丈夫です」


蒼真は本気でそう思っていた。


候補者たちは、全員が必要な能力を持っている。足りない部分があるとしても、手順と経験で補えるはずだった。


同じ情報を見て、同じ目的を理解すれば、いつか同じように全員を帰せる。


それが制度を作った理由だった。



候補者たちが帰った後、第三中隊の執務室では、初日の評価が行われた。


研修責任者が十二名の判断記録を並べ、その隣へ蒼真の記録を表示する。


「候補者が最初の行動を決めるまでの平均時間は、四十二秒でした」


神代が尋ねる。


「橘は?」


「最初の作業停止まで十一秒です。ただし、退避先と支援機の配置を確定したのは、訓練開始から二分十八秒後でした」


「候補者より遅いな」


「最終判断だけを比較すれば、そうなります。しかし橘さんは、その間に消防、設備班、車両運転手へ七つの確認を行っています。候補者が追加情報を求めた回数は、平均で一・六回でした」


蒼真も資料を見る。


「自分は聞きすぎですか」


「いいえ。今回の課題では、追加情報を求めることも評価項目に入っています」


「なら、他の人も聞けばいいと思います」


「何を聞く必要があるのかが、分からなかったのでしょう」


「今日、教材へ追加しました」


「次回の訓練で、効果を確認します」


研修責任者は、候補者ごとの評価を表示した。


「初日の段階で、不適格と判断する者はいません。それぞれの専門分野では、橘さんより優れた判断もありました。消防出身者は負傷者評価が早く、管理局出身者は作業班の位置を正確に把握しています。戦闘中隊出身者は、敵性個体が出現した場合の危険範囲を短時間で作ることができました」


「なら、問題ないのでは?」


「それらの情報を同時に扱う段階で、判断が分かれています」


蒼真は候補者たちの記録を見直した。


「今日は初めてだったからだと思います」


「その可能性はあります」


「繰り返せば出来ます」


研修責任者は否定しなかった。


神代も何も言わない。


ただ、蒼真の判断記録だけは、候補者のものとは別の領域へ保存された。


研修責任者は、その理由を本人へ説明しなかった。


候補者が同じ教材を学び、同じ情報を求めるようになれば、蒼真と似た判断へ辿り着くかもしれない。


その可能性を否定できるだけの記録は、まだなかった。



帰宅したのは、午後六時五十分だった。


玄関を開けると、甘い匂いがした。


「ただいま」


「おかえり」


居間から結衣が答える。


美咲は台所で、焼き上がった菓子を切り分けていた。昴は食卓の椅子へ座り、切られる前の菓子をじっと見ている。


「何を作ったの?」


「結衣の調理実習の練習」


美咲が答えた。


「学校で蒸しパンを作るんだって」


蒼真は、オーブンから出されたばかりの菓子を見た。


「焼いてるように見えるけど」


「家に蒸し器がないから、今日はオーブンを使ったの」


「それだと、別のものでは?」


結衣が不満そうに父親を見る。


「味の練習だからいいの」


「味は誰が決めたの?」


「私」


「なら、もう分かってるんじゃない?」


「お父さん、細かい」


仕事では、細かく確認する方がいいと言われる。


家では、必ずしもそうではないらしい。


「ぱぱ、たべる?」


昴が聞いた。


「食べるよ」


「すばるも!」


「夕飯の後ね」


美咲が言うと、昴は露骨に不満そうな顔をした。


「いま」


「夕飯が入らなくなるでしょ」


「はいる!」


「この前もそう言って、残したよね」


「きょうは、はいる!」


二歳児の自信には、特に根拠がない。


結衣が、切り分けられた中で最も小さいものを指差した。


「味見だけならいいんじゃない?」


「結衣が食べたいだけでしょ」


「作った人が確認しないと、明日の実習で困るから」


美咲は少し考え、一切れをさらに半分へ分けた。


結衣と昴へ一つずつ渡す。


「これだけよ」


「やった!」


昴は一口で食べた。


「どう?」


結衣が聞く。


昴は口の中のものを飲み込んでから答えた。


「あまい!」


「それだけ?」


「おいしい!」


「ならいいか」


結衣も自分の分を食べる。


美咲が蒼真を見る。


「今日からだったんでしょ」


「何が?」


「新しい人の研修。朝、自分で言ってたよ」


「そうだっけ」


「言ってた。どうだった?」


家では仕事のことを詳しく聞かない美咲が、珍しく尋ねた。


蒼真は鞄を置きながら、今日の訓練を思い出した。


候補者たちは、それぞれ最初に見つけた危険へ向かっていた。それは間違いではないが、一つの問題へ集中したことで、別の場所が見えなくなっていた。


「皆、自分より得意なことがあった」


「そう」


「消防の人は負傷者を見るのが早かった。管理局の人は、作業員の位置を正確に覚えてた。戦闘中隊の人は、敵が出た時の配置をすぐ決めた」


「それなら、あなたが教わった方がいいんじゃない?」


「自分もそう思う」


「先生なのに?」


結衣が笑う。


「先生ではないよ」


「何て呼ばれたの?」


「現場経験者」


「人に教えるなら先生じゃん」


「違うと思う」


「でも、お父さんも教わることがあったんでしょ?」


「うん」


結衣は少し考えた。


「先生も、生徒から教わるんじゃない?」


「そうなの?」


「多分」


急に自信がなくなったらしいが、間違ってはいないように思えた。


美咲が夕飯の皿を並べる。


「今日は、何を教わったの?」


蒼真は答えを考えた。


「同じものを見ても、全員が同じように見るわけじゃないこと」


「難しそうね」


「うん」


「教えられそう?」


「手順を増やした」


「それで足りる?」


「繰り返せば、出来るようになると思う」


「昴の蝶々結びと同じ?」


「同じだと思う」


「仕事の人と二歳児を一緒にしないで」


「でも、昴も出来るようになったよ」


「四か月かかったけどね」


「時間はあるでしょ」


美咲はすぐには答えなかった。


その代わり、蒼真の前へ夕食を置いた。


仕事の話は、そこで終わった。



夜。


日記。



---


十月一日。


復興現場支援隊員制度が正式に始まった。第一期候補十二名の研修にも参加した。


模擬訓練では、作業員の負傷、搬送車両の故障、地下設備の異常が同時に発生した。


消防出身者は負傷者の救助を優先した。管理局出身者は作業員全体の退避を優先した。戦闘中隊出身者は、敵性個体がいる可能性を優先した。


どの判断にも理由があったが、一つの危険を優先したことで、別の危険への対応が遅れた。


自分は情報が足りないと感じたため、負傷者の状態、車両故障の原因、地下振動の周期を確認した。その間、作業だけは先に止めた。


教材へ、「決められない時も、止められるものは止める」と追加した。


候補者には、それぞれ自分より得意なことがある。繰り返せば、複数の情報を繋ぐことも出来るようになると思う。


家では、結衣が蒸しパンの練習をしていた。蒸してはいなかった。


昴は甘くておいしいと言った。


以上。



---


日記を閉じた後、蒼真は候補者たちの判断を思い返した。


一人では見えないものがある。


消防には、消防が見ている危険がある。管理局には、管理局が守ろうとする現場全体がある。戦闘中隊には、敵が現れた時に最初に止めなければならない場所が見えている。


それらの情報を繋げることができれば、蒼真一人で判断するより、早く正確に全員を帰せるかもしれない。


だから、「誰にでも出来る仕事」という考えが間違っているとは、今も思わなかった。


候補者たちは、まだ同じ手順を使い始めたばかりである。経験を重ねれば、少しずつ全体が見えるようになるはずだった。


ただし、同じ情報を集めた後、最後に何を選ぶのか。


その選択に生じる人間ごとの差には、蒼真自身もまだ気づいていなかった。

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