第三十二話 誰にでも出来る仕事
九月三日。
朝から雨が降っていた。
夏の間に熱を溜め込んだ道路へ雨が落ち、開けた窓から湿った風が入ってくる。八月の暑さはまだ残っていたが、遠くで鳴く蝉の声には、少しずつ力がなくなっていた。
食卓では、結衣が新学期の提出物を鞄へ詰めていた。
夏休みの宿題は最終日まで残っていた。昨夜も遅くまで机に向かっていたため、今朝はいつも以上に眠そうである。
「本当に全部入れた?」
美咲が聞くと、結衣は鞄の中を覗かずに答えた。
「入れた」
「確認した?」
「したよ」
「いつ?」
「昨日」
「昨夜、数学のプリントを探してなかった?」
「あったから大丈夫」
「どこに?」
「机の下」
「どうして机の下にあるの」
「落ちたんじゃない?」
「自分のことでしょ」
結衣は答えず、パンを口へ運んだ。
蒼真は味噌汁を飲みながら二人の会話を聞いていた。
夏休みが始まった頃、結衣は「宿題は七月中に終わらせる」と言っていた。八月に入ると「お盆までには終わる」に変わり、先週には「まだ一週間ある」と言っていた。
最終的には終わったらしいので、結果だけなら予定どおりなのかもしれない。
「お父さん」
結衣が蒼真を見る。
「何?」
「今、私のこと計画性ないって思ったでしょ」
「何も言ってないよ」
「顔に出てた」
「蒼真は顔に出ないよ」
美咲が言った。
「出てるよ。分かるもん」
「どんな顔だった?」
「仕事だったら、もっと早く確認してたんだろうなって顔」
「よく分かったね」
「やっぱり思ってた!」
結衣が不満そうに眉を寄せる。
「でも、終わったならいいんじゃない?」
「お父さんは分かってる」
「甘やかさないで」
「来年、同じことにならなければ大丈夫だよ」
美咲が蒼真を見る。
「なると思う?」
蒼真も結衣を見る。
結衣は二人の視線から逃げるように、パンを口へ入れた。
「多分、なる」
「お父さん!」
「嘘をつかないでって言われてるから」
「そういう時だけ正直!」
昴は隣で、紐を結ぼうとしていた。
紙のノストスではない。今日は自分の雨靴へ紐を巻き、蝶々結びを作ろうとしている。雨靴に紐は必要ないのだが、本人は真剣だった。
夏の初めには、二つの輪を作ることもできなかった。
今は輪らしいものが一つできている。もう一方を作ろうとすると最初の輪が解けてしまうため、完成まではまだ遠い。
「できない」
昴が言った。
「昨日より出来てるよ」
蒼真が答える。
「ちょうちょ、いない」
「片方はいるね」
「ふたつ、いる」
「じゃあ、もう一回やってみようか」
蒼真は手を出しかけたが、昴は紐を隠すように身体を丸めた。
「じぶんで!」
「分かった。見てるだけにする」
昴はもう一度、紐を結び始めた。
少し離れた場所から、美咲が二人を見ている。
「今日は遅くなる?」
「制度の最終評価があるから、少し遅れるかもしれない」
「夕飯は?」
「家で食べるよ」
「連絡してね」
「うん」
美咲は制度の内容を聞かなかった。
蒼真も説明しなかった。
今日は家族にとって、新しい制度が決まる日ではない。
結衣の新学期が始まり、昴が雨靴へ不必要な紐を結び、美咲が濡れた洗濯物をどう乾かすか悩む日だった。
家では。
そちらの方が大事だった。
*
六月から八月までの三か月間、蒼真とノストスは十一か所の復興現場へ配置された。
実証運用の日数は、合わせて二十七日。
その間、モンスターが出現することは一度もなかった。
六月、旧集合住宅の地下で配管を撤去していた時には、閉鎖済みのはずの給水管から圧力が検出された。
蒼真は作業区域を限定して停止し、藤堂が配管系統を確認した。図面上では切断されていた給水管が、別の建物から延びる仮設管へ繋がったままになっていた。
接続を確認している最中、腐食した継ぎ目が破断した。
勢いよく噴き出した水は作業区画を浸水させたが、作業員はすでに別の階へ移動しており、負傷者は出なかった。ノストスが資材を移動させて排水経路を作ったことで、作業は翌日の午後に再開された。
七月には、旧貨物橋の補修現場で搬送車両が故障した。
大型の鋼材を積んだ車両が消防の進入路を塞ぎ、自力では動けなくなった。以前なら修理車両を待つか、別の大型機を手配する必要があったが、ノストスが車両を路肩まで牽引したことで、消防経路は二十分で復旧した。
その日、事故も敵性反応も起きなかった。
消防車両が進入路を使うこともなかった。
それでも、使える経路が残っていることには意味がある。
八月の旧工業団地では、作業員の一人が熱中症で倒れた。
本人は休憩まで作業を続けられると主張していたが、森下が歩き方の変化に気づき、蒼真が作業を止めた。冷房設備のある救助区画へ搬送された後、消防による処置を受け、当日中に帰宅している。
それらは、五月二十六日のような大きな事故ではなかった。
新聞へ載ることもない。
作業員や設備会社にとっても、現場で起こり得る問題の一つとして処理された。
しかし、実証運用の記録には、すべて残っていた。
誰が異常に気づいたのか。
誰から、どの情報を受け取ったのか。
全面停止と部分停止のどちらを選んだのか。
退避させた人数。
作業を再開するまでの時間。
ノストスが動かした資材や車両。
消防へ負傷者を引き渡すまでにかかった時間。
何も起きなかった現場でも、蒼真は退避経路と作業員の位置を記録した。
作業終了後には、藤堂、久賀、森下と検証を行った。
「停止範囲が広すぎました」
蒼真が報告すると、久賀は当時の危険範囲を表示した。
「結果だけを見ればそうなりますが、停止を決めた時点では破断箇所が分かっていませんでした。最初に広く止めて、原因が分かった後で範囲を狭めた判断は妥当だと思います」
「作業員を戻すまで、一時間以上かかっています」
「早く戻して負傷者が出るよりはいいです。ただし、次からは配管の系統ごとに作業班を分けておけば、安全が確認できた区画から再開できます」
藤堂は設備の資料を確認しながら続けた。
「図面だけで切断済みと判断したことも問題です。次の現場では、圧力と流量を確認してから撤去へ入ります。橘さんが止める前に、設備側で異常を見つけるのが本来の形です」
失敗だけを蒼真の責任にする者はいなかった。
成功だけを蒼真の成果にする者もいない。
それぞれが自分の判断を見直し、次の現場で同じ問題を起こさないための手順へ変えていく。
三か月の検証によって積み重なったのは、派手な救助の記録ではなかった。
事故になる前に止めたこと。
使わなかった退避路を維持したこと。
負傷者を重症化させずに消防へ引き渡したこと。
それまで現場ごとに経験として残されていた判断が、少しずつ共有できる形へ変わっていた。
*
午前九時。
中央管理局本部。
現場支援隊員制度の最終評価会議には、管理局、復興計画局、消防、各戦闘中隊、機体開発部門の担当者が参加していた。
蒼真の隣には神代が座り、その向こうに藤堂、久賀、森下が並んでいる。牧野もノストスの機体評価を説明するため、少し離れた席から参加していた。
正面の大型画面には、三か月間の実証結果が表示されている。
蒼真たちが参加した十一現場と、同じ時期に支援隊員を配置せず作業した十二現場。それぞれの事故件数、作業中断時間、退避時間、負傷者数、作業再開までの時間が比較されていた。
評価責任者が説明を始める。
「現場支援隊員を配置した十一現場では、全面停止が六回、部分停止が十九回行われました。支援隊員を配置していない十二現場より、停止判断そのものは多くなっています」
画面へ棒グラフが表示される。
停止回数だけを見れば、支援隊員がいる現場の方が多い。
「しかし、全面停止後の平均再開時間は、比較対象より短くなりました。原因が確認できた区画から部分的に作業を再開したため、全工程の遅延時間は一八パーセント減少しています」
作業を止めた回数は増えている。
それでも、工事全体の進みは遅くなっていない。
早い段階で止めることで、事故や設備損傷が大きくなる前に対処できた。安全な区画まで止め続けるのではなく、藤堂の設備判断、久賀の危機評価、森下の安全確認を繋ぎ、再開できる場所から人を戻した結果だった。
「負傷者数については、比較対象の十二現場で軽傷者が十一名、重傷者が一名出ています。支援隊員を配置した現場では軽傷者が三名で、重傷者はいませんでした」
一名は熱中症。
一名は資材を運ぶ際の手指の負傷。
もう一名は、雨で濡れた通路で転倒した作業員だった。
いずれも現場で応急処置を受け、入院はしていない。
「ただし」
評価責任者が続ける。
「現場の規模、作業内容、参加した設備会社が異なるため、この差をすべて支援隊員の効果と断定することはできません。また、現時点で実証運用に参加している支援隊員は橘蒼真一名、支援機はノストス一機だけです」
蒼真は資料へ目を落とした。
五月二十六日の評価でも、同じ問題が出ていた。
制度が有効だったのか。
ノストスが優秀だったのか。
蒼真個人の判断によるものなのか。
一人と一機だけでは、その違いを分けることができない。
復興計画局の担当者が尋ねた。
「比較対象を増やすため、実証期間をさらに延長するべきではありませんか」
評価責任者は、別の資料を表示した。
「延長は必要です。ただし、現行制度を試験運用のまま続けるのではなく、復興現場支援隊員制度として正式採用した上で、運用対象を増やすことを提案します」
会議室の空気が僅かに変わった。
蒼真も顔を上げる。
「正式採用ですか」
「はい。三か月間の結果だけで、すべての効果が確認されたわけではありません。しかし、支援隊員が設備、安全、危機管理、消防、戦闘中隊の情報を繋ぐ役割には、明確な必要性があります」
画面には、制度の正式名称と任務範囲が表示された。
《復興現場支援隊員制度》
支援隊員は、復興現場における作業中断、退避判断、救助活動、消防および管理局との情報調整を担当する。
支援機が配備される場合は、瓦礫の除去、負傷者の搬送、退避経路の確保、損傷車両の牽引を行う。
敵性個体が出現した場合、支援隊員は戦闘中隊到着までの退避支援と現場維持を担当する。敵性個体の追跡および積極的排除は、任務に含まれない。
神代が資料を読み、確認した。
「戦闘中隊到着後の指揮系統は」
「敵性個体への対応は戦闘中隊長が指揮します。民間人の退避と救助については、現場支援隊員が継続して判断します。ただし、双方の行動が互いへ影響する場合は、情報を共有した上で中隊長が全体を調整します」
「五月二十六日のように、支援隊員が戦闘区域へ入る場合は?」
「原則として、戦闘中隊長の許可を必要とします。ただし、通信不能や即時の救助が必要な場合は、支援隊員による現場判断を認めます。その場合、事後報告へ判断理由を記載します」
神代は蒼真を見た。
「聞いたか」
「はい」
「何を聞いた」
「原則として、神代隊長の許可を取ります」
「原則だけ覚えるな」
「通信不能や即時救助の場合は、自分で判断します」
「事後報告もだ」
「全部書きます」
「ならいい」
会議を聞いていた消防の担当者が、小さく笑った。
評価責任者は説明を続けた。
「制度の正式採用に合わせ、支援隊員候補者の育成を開始します。第一期候補は十二名。管理局の現場監督経験者、消防の救助指揮経験者、戦闘中隊の搭乗者から選抜します」
「搭乗しない支援隊員もいるんですか」
蒼真が聞いた。
「はい。支援隊員と支援機搭乗者は、必ずしも同一である必要はありません。現場調整に専念する支援隊員と、その指示で支援機を動かす搭乗者を分ける運用も検証します」
「その方がいいかもしれません」
「なぜですか」
「自分がノストスで地下へ入っている時、地上の状況は森下さんたちに確認してもらっていました。一人で現場全体を見ながら機体を動かすより、役割を分けた方が情報を減らさずに済みます」
森下が補足する。
「五月二十六日は、私が地上で退避人数を確認し、藤堂さんが設備状態、久賀さんが構造変位を見ていました。橘さん一人では、設備班の救助中に地上の人数まで確認できなかったと思います」
久賀も頷いた。
「支援隊員を一人配置すれば足りる、という制度にはしない方がいいと思います。支援は一人で判断する役職ではなく、複数の情報を繋ぐ役割です」
評価責任者は資料へ追記した。
「候補者の育成では、単独運用と複数運用の両方を検証します」
「ノストスと同じ支援機も増やすのですか」
牧野が尋ねた。
「すぐに同型機を製造する予定はありません。既存機へ救助装備と牽引装置を追加し、支援運用が可能か確認します。機体開発部門には、ノストスの運用記録を提供してください」
「記録の提供は可能です。ただし、既存機へ装備を追加しただけでは、重量配分や補助アームの動作が同じにはなりません」
「機体ごとの差も含めて検証します」
「分かりました」
評価責任者は会議室を見渡した。
「異議がなければ、十月一日付で復興現場支援隊員制度を正式採用します。それまでの一か月を移行期間とし、候補者教育と配置現場の選定を開始します」
反対する者はいなかった。
試験運用だった制度が。
正式な仕事になる。
蒼真は画面に表示された制度名を見た。
「これで、自分がいない現場でも同じことができますね」
何気なく言ったつもりだった。
しかし、隣にいた神代が蒼真を見る。
評価責任者も、すぐには答えなかった。
「そのための制度です」
少し間を置いてから。
評価責任者が言った。
「ただし、本当に同じ結果になるかは、これから確認します」
「手順が同じなら、近い結果になるのでは?」
「なるかもしれません。ならない可能性もあります」
「どうしてですか」
「人が違うからです」
当たり前の答えだった。
それでも蒼真には、その違いがまだよく分からなかった。
誰が見ても危険なものは危険である。
退避経路が塞がれていれば、別の道を探す。
負傷者がいれば救助する。
味方が帰れなければ、帰る道を作る。
必要な情報と手順があれば。
誰でも同じようにできるはずだった。
*
午後から、第一期支援隊員候補へ配布する教材の確認が行われた。
教材の大半は、三か月の実証運用中に蒼真たちが作成した手順書を基にしている。
作業中断の判断。
危険範囲の設定。
退避経路の確認。
消防への負傷者情報の引き渡し。
支援機を使った瓦礫と車両の移動。
戦闘中隊到着までの現場維持。
そこには、旧東央商業施設で大型個体を牽引した事例も含まれていた。
教材の最後に。
他の項目とは少し異なる一文があった。
《目的を見失わないこと。敵を倒すことではなく、全員が帰るために必要な行動を選ぶこと》
蒼真はその文章を読んだ。
「これは、自分が書いた部分ですか」
「そうです」
教材作成を担当した職員が答えた。
「大型個体を牽引した際の手順書に記載されていました。支援隊員制度の基本方針として適切だと判断し、最後に置きました」
「もっと前に書いた方がいいのでは?」
「どうしてですか」
「最初に目的を知らないと、その後の手順を選べないと思います」
担当者は教材を最初から読み直した。
「確かに、そうですね。制度の目的として冒頭へ移します」
文章が教材の最後から、最初のページへ移された。
制度名の下。
最初に読む場所。
《敵を倒すことではなく、全員が帰るために必要な行動を選ぶこと》
蒼真は頷いた。
「これなら分かりやすいと思います」
神代は、少し離れた場所から教材を見ていた。
「文章は分かりやすい」
「問題がありますか」
「教えるのが難しい」
「なぜですか」
「何が必要な行動なのかは、現場ごとに変わる」
「だから手順があるのでは?」
「手順にない状況が起きたらどうする」
「その時に考えます」
「全員が同じように考えられるか?」
蒼真は教材を見た。
設備班の救助。
西側斜路の維持。
大型個体の牽引。
どれも、次の現場で同じ形になるとは限らない。
「考え方も、手順にできませんか」
「できるなら、やってみろ」
神代は否定しなかった。
蒼真は教材の余白へ、新しい項目を書き加えた。
《行動を選ぶ前に確認するもの》
民間人の位置。
負傷者の有無。
退避経路。
消防と管理局の位置。
味方機の状態。
敵性個体の位置。
構造物の損傷。
支援機の残存機能。
そこまで書いたところで。
手が止まった。
すべてを確認している間に、状況が変わることもある。
一つずつ確認する時間がない場合、何から見るべきなのか。
民間人を優先する。
しかし、その民間人を救助する消防隊員の退路が失われれば、被害が増える。
負傷者を先に運ぶ。
しかし、退避経路を確保しなければ、搬送そのものができない。
味方機を助ける。
しかし、そのために支援機まで動けなくなれば、他の負傷者を救えない。
「難しいですね」
蒼真が言った。
「今気づいたのか」
「書けば、もっと簡単になると思っていました」
「簡単なら、制度にする必要もない」
神代の言葉に、蒼真は少し考えた。
支援は。
特別な仕事ではないと思っていた。
誰かが帰れないなら、帰るために必要なことをする。
それだけの仕事だと思っていた。
けれど。
その「必要なこと」が何なのかを、他人へ伝えるのは難しかった。
「それでも、作ります」
蒼真は言った。
「何を」
「誰でも使える手順です」
「できると思うか」
「できないと、制度にならないので」
神代は蒼真をしばらく見ていた。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
*
帰宅したのは、午後七時前だった。
雨は朝より弱くなっていたが、道路にはいくつもの水溜まりが残っている。
玄関の扉を開けると、昴が雨靴を履いたまま廊下に立っていた。
「ただいま」
「おかえり!」
「どうして家の中で雨靴を履いてるの?」
「ちょうちょ!」
昴が足元を指差す。
朝から何度も挑戦していた紐が、雨靴の上で蝶々結びになっていた。
左右の輪はまだ不揃いで、結び目も緩い。それでも二つの輪があり、引けば解ける形になっている。
「自分で出来たの?」
「まま、みてた!」
「手伝ってないよ」
美咲が居間から答えた。
「途中で何度も出来ないって怒ってたけど、最後は自分で結んだ」
昴は誇らしそうに胸を張った。
「すごいね」
蒼真が言う。
「試験、一つ大丈夫だね」
「しけん?」
「何でもないよ」
昴には。
まだ必要のない話だった。
結衣が居間から顔を出す。
「お父さん、今日遅かったね」
「会議だった」
「何の?」
「仕事の制度が正式になることになった」
「お父さんの仕事?」
「自分だけじゃなくて、他の人も同じ仕事をするようになる」
「じゃあ、お父さんは楽になる?」
蒼真は少し考えた。
支援隊員が増えれば、自分がいない現場にも支援を配置できる。ノストス以外の機体でも運用できれば、担当できる地域はさらに広がる。
「多分」
「多分なんだ」
「まだ他の人が始めてないから」
「お父さん、教えるの?」
「手順書を作ることになった」
結衣は少し笑った。
「大丈夫?」
「何が?」
「お父さん、説明長いよ」
「短くすると、必要なことが抜けるから」
「学校の先生になったら嫌われそう」
「ならないから大丈夫」
「仕事の先生にはなるんでしょ?」
「少しだけ」
「やっぱり大丈夫じゃないじゃん」
美咲が台所から呼ぶ。
「話してないで、着替えてきて。夕飯にするよ」
「うん」
蒼真が寝室へ向かおうとすると、昴が雨靴の紐を見せるためについてきた。
「ぱぱ、ちょうちょ!」
「出来たね」
「もういっかい、やる!」
「先に雨靴を脱ごうか」
「ぬいだら、ほどける?」
「紐を引かなければ、解けないよ」
「じゃあ、ひかない」
昴は慎重に雨靴を脱ぎ、蝶々結びが崩れていないことを確認した。
何度も失敗して。
最後には。
自分で結んだ。
誰でも最初から出来るわけではない。
教わり。
失敗し。
繰り返す。
それで出来るようになる。
支援隊員も。
きっと。
同じだと思った。
*
夜。
日記。
---
九月三日。
現場支援隊員制度の最終評価が行われた。
六月から八月まで、十一の復興現場で実証運用を行った。モンスターは一度も出なかった。設備故障、車両の立ち往生、熱中症などは起きたが、重傷者はいなかった。
支援隊員を配置した現場では、作業を止めた回数が増えた。しかし、異常が大きくなる前に対応できたため、全工程の遅延時間は比較対象より短くなった。
十月一日から、復興現場支援隊員制度が正式に採用される。第一期候補として十二名が選ばれ、他の部隊でも支援機を運用できるか検証する。
自分たちが作った手順書が、候補者用の教材になる。
教材の最初には、「敵を倒すことではなく、全員が帰るために必要な行動を選ぶこと」と書かれた。
分かりやすい文章だと思う。
ただ、何が必要な行動なのかを、手順として他の人へ伝えることは難しい。
それでも、制度になれば、自分がいない現場でも同じ支援ができるようになる。
昴は今日、一人で蝶々結びが出来た。
何度も失敗していたが、最後には出来た。
支援隊員も、同じだと思う。
以上。
---
日記を書き終えた後、蒼真は新しい教材をもう一度開いた。
誰でも使える手順。
誰でも出来る仕事。
そのために制度が作られた。
蒼真は、自分が特別だとは思っていない。
設備の異常は藤堂が見つける。
危険の広がりは久賀が考える。
人員の安全は森下が確認する。
戦闘が始まれば、神代たちが敵を止める。
ノストスは、瓦礫や負傷者を運ぶ。
自分は。
それらを繋いでいるだけだった。
繋ぎ方を伝えれば。
他の人にも出来る。
蒼真は、そう信じていた。
翌月。
十二名の支援隊員候補が。
同じ教材を手にする。
全員が。
最初の一文を読む。
敵を倒すことではなく。
全員が帰るために必要な行動を選ぶこと。
文章を理解することは。
難しくなかった。
けれど。
同じ現場を見て。
同じものを選べるかどうかは。
まだ。
誰にも分からなかった。
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