第三十一話 七分間
六月二日。
第三中隊の会議室には、旧東央商業施設の地下構造図が表示されていた。
中央通路、設備層、西側搬入斜路、崩落した階段、資材昇降口。さらに、敵性反応を検出してから第三中隊が現場へ到着するまでの人員とノストスの動きが、時刻ごとに色分けされている。
五月二十六日の現場から一週間が過ぎていた。
地下へ埋まった敵性個体四体のうち、三体は再走査で活動停止が確認された。残る一体は崩落した暗渠の奥にいる可能性があるものの、反応は極めて弱く、移動も確認されていない。
旧中央棟は倒壊の危険があるため、周辺一帯が封鎖された。地下へ再進入するには、地上部分を解体し、構造を安定させなければならない。その作業には数か月かかる見込みだった。
今日行われるのは、戦闘の検証ではない。
現場支援隊員制度の中間評価だった。
参加者は第三中隊の五名と、管理局の藤堂、久賀、森下、機体整備を担当する牧野。さらに制度の評価を担当する管理局本部と消防、復興計画局の職員が同席していた。
正面に座る評価責任者は、資料を開いたまま蒼真へ尋ねた。
「敵性反応が検出されたのは、午前十時四十一分三十二秒です。それ以前から退避を開始していたという記録で間違いありませんか」
「はい。最初の圧力変化で作業を中断し、二度目の変化で全面退避へ切り替えました。敵性反応が表示されたのは、その後です」
「モンスターの出現を予測したのですか」
「予測していません」
蒼真がすぐに否定すると、評価責任者は顔を上げた。
「しかし、結果として出現前に退避を始めています」
「退避を決めた時点では、圧力変化の原因が分かりませんでした。設備層の下にある暗渠も、図面では埋め戻されたことになっていました。ただ、施工を裏づける記録がなく、安全だと判断できなくなったので作業を止めました」
「その判断がなければ、作業員は中央通路に残っていた可能性があります」
「可能性はあります。ただ、何人が残ったのか、どのような被害が出たのかは分かりません」
評価責任者は、手元にある別の資料を開いた。
そこには、現場の動きを再現した予測結果が記されていた。
支援隊員による事前の作業中断がなかった場合、敵性反応を検出してから退避指示を出すことになる。中央通路へ残る作業員は、最少で十七名、最多で二十六名。敵性個体が床を破ってから西側斜路へ到達するまでの予測時間は、一分四十二秒。
通常の歩行速度と通路の混雑を考えれば、最後尾の作業員が地上へ出る前に、小型個体が追いつく可能性が高い。
負傷者数の予測は、四名から十一名。
死亡者が出る可能性も否定できないと書かれていた。
「解析では、橘さんの判断によって、少なくとも四名の負傷を防いだ可能性が高いと出ています」
評価責任者が言った。
蒼真は、予測資料を見た。
「少なくとも、ではないと思います」
「どういう意味ですか」
「実際に起きていないことなので、四名が負傷したとは言えません。敵が別の方向へ進んだ可能性もありますし、作業員が予測より早く退避した可能性もあります」
「しかし、制度の効果を評価するには、比較が必要です」
「比較することは分かります。ただ、助けた人数として四名を記録するのは違うと思います」
「結果的に、負傷者は設備班の一名だけでした」
「その一名も敵に襲われたのではなく、階段の崩落で転倒しています」
蒼真の返答に、評価責任者は少し困ったような表情を見せた。
数字として成果を示さなければ、制度の有効性を判断できない。
一方で、起きなかった被害を実績として数えれば、推定が事実へ変わってしまう。
久賀が口を開いた。
「予測値を使うこと自体は必要だと思います。ただし、実績と分けて記載すべきです。実際の結果は、敵性個体の出現前に地下作業を停止し、搬送路にいた二十六名全員を西側斜路へ移動させたことです。設備班六名は階段崩落によって孤立しましたが、事前に確認していた資材昇降口から救助されました」
評価責任者が久賀を見る。
「予測される被害軽減数は、参考値とするべきだと?」
「はい。橘さんが四名を救ったと断定するのではなく、従来手順と比較した場合の負傷者数を推定値として併記する形が適切です」
「分かりました。表記を修正します」
画面上の資料から、《救助実績四名》という記載が削除され、《予測負傷者数四名から十一名》へ変更された。
蒼真は少し安心した。
自分が何人を助けたのか。
その答えは、分からない。
実際に地上へ帰った人数なら、数えることができる。
作業員三十二名。
設備班九名。
消防十名。
管理局三名。
第三中隊五名。
その全員が帰った。
記録できるのは、その事実だった。
*
検証は、第三中隊が出撃してから現場へ到着するまでの時間へ移った。
中央管制が敵性反応を確認し、第三中隊へ出撃命令を出したのは午前十時四十一分四十五秒。
神代たち四人が搭乗を完了したのは、その一分二十二秒後だった。格納庫からの出動、輸送車両への固定、現場までの移動を経て、西側搬入斜路へ到着したのは午前十時四十八分五十七秒。
出撃命令から現着まで、七分十二秒。
戦闘中隊として、遅い時間ではない。
第三中隊の基地は現場から近く、道路にも大きな障害がなかった。他の中隊が担当した場合や、復旧していない道路を使う場合には、到着まで十五分以上かかることもある。
評価責任者が神代へ尋ねた。
「第三中隊として、この七分十二秒を短縮する余地はありますか」
「搭乗から出動までなら、あと十秒程度は縮められる。ただし、現場までの距離は変えられない」
「フレームワーカーを自走させた場合は?」
「市街地への損害が増える。道路が完全に空いていなければ、輸送車両より遅くなる可能性もある」
「現地へ一機を待機させる運用は有効だったと思いますか」
「有効だった」
神代は短く答えた。
評価責任者は、もう少し詳しい説明を求めるように待った。
神代もそれを察したらしく、地下の再現映像へ目を向けた。
「我々が到着した時点で、搬送路の作業員二十六名は全員、西側斜路へ入っていた。ノストスが小型二体と作業員の間に立ち、斜路への進入を止めていたため、到着後すぐに戦闘を引き継げた」
「もし、橘さんとノストスがいなければ?」
「現場到着後、敵の排除と作業員の保護を同時に行う必要があった。設備班六名の孤立を把握するまでにも、今より時間がかかったはずだ」
「第三中隊の損傷率が上がった可能性はありますか」
「可能性はある。ただし、起きなかったことは断定できない」
神代が蒼真と同じような答え方をしたため、評価責任者が僅かに苦笑した。
「第三中隊では、そう答える決まりがあるのですか」
「分からないことを、分かったことにはしない。それだけだ」
「では、分かっていることを教えてください」
「現着時点で退避経路が維持されていた。そのため、四機すべてを戦闘へ投入できた。設備班の救助をノストスへ任せ、我々は敵性個体を西側斜路から引き離すことができた。そこまでは事実だ」
評価責任者は記録へ目を落とした。
「つまり、戦闘部隊が戦闘へ集中できたことも、支援隊員の成果に含まれる?」
「含まれる」
「橘さんは、どう考えますか」
突然聞かれ、蒼真は少し考えた。
「神代隊長たちが到着したので、自分は設備班の救助へ向かうことができました」
「質問は逆です。橘さんが救助を担当したことで、第三中隊は戦闘へ集中できたのではありませんか」
「そうなると思います」
「自覚はなかった?」
「役割を分けただけなので」
「それを支援と呼ぶのでは?」
「多分」
評価責任者は端末へ何かを入力した。
蒼真には、なぜ質問が続くのか分からなかった。
第三中隊が戦闘を担当し、自分が救助を担当する。
最初から。
そういう役割だった。
*
次に表示されたのは、ノストスが小型二体を西側斜路へ通さなかった場面だった。
機体の補助アームが一体の進路を塞ぎ、右脚の外装で別の一体の攻撃を受けている。防御砲は最後まで使われていない。
評価責任者が尋ねた。
「ここで敵性個体を撃たなかったのは、地下での跳弾を避けるためと報告されていますね」
「はい。それに、倒さなくても斜路を維持できました」
「もし一体を撃破していれば、もう一体への対応が容易になったのでは?」
「発射後に姿勢を戻す時間が必要です。その間に、もう一体が斜路へ抜ける可能性がありました」
「一体目へ補助アームを当て、二体目を右脚で止める方が安全だった?」
「作業員にとっては、その方が安全だと思いました」
「ノストスにとっては?」
「右脚の外装だけなら、その後も動けます」
牧野が機体記録を表示した。
「実際、右脚の損傷率は三・一パーセントで、内部駆動部には届いていません。外装は交換しましたが、歩行系と姿勢制御には異常がありませんでした」
「橘さんは、攻撃を受ける場所を選んだのですか」
「結果としては」
「意図的ではない?」
「避ける場所は選びました。ただ、爪が外装の中央へ当たることまで正確に分かっていたわけではありません」
「四月十四日にも、同様に右肩で攻撃を受けています」
牧野が以前の映像を並べた。
一度目は、安西機の右脚へ向かう攻撃をノストスの右肩で受けた。
今回は、西側斜路を守るために右脚で一度、大型個体の攻撃から安西機を守るために右肩で一度受けている。
いずれも外装だけが損傷し、内部機能は維持された。
「偶然だと思いますか」
評価責任者が聞いた。
蒼真は二つの映像を見比べた。
「一回目は、どうしてできたのか分かりませんでした」
「今回は?」
「何を守るために動いたのかは分かります。右脚の時は、斜路へ敵を通さないためです。右肩の時は、安西さんの損傷した脚へ攻撃を当てないためでした」
「損傷率が一桁に収まった理由は?」
「交戦時間が短かったことと、第三中隊が敵を止めてくれたからだと思います」
「ご自身の判断は含まれませんか」
「含まれるかもしれません」
「かもしれない?」
「自分だけで比較できないので」
評価責任者は、次に神代たち四機の損傷率を表示した。
神代機は二一・六パーセント、片瀬機は二七・二パーセント、安西機は三三・八パーセント、御堂機は一八・四パーセントだった。
前衛四機の平均は、二五・二五パーセント。
対して、ノストスは七・一パーセント。
支援機が前衛機より低いこと自体は、異常ではない。
しかし、ノストスは大型個体の側面へ入り、牽引装置を使って交差部から動かしている。二度の被弾も記録されていた。
評価責任者は数値を見ながら言った。
「現時点では、橘さん個人の能力によるものか、ノストスの機体特性によるものか、支援という役割によるものかを分けられません」
「まだ二回ですから」
牧野が答えた。
「はい。実戦例が少なすぎます」
「少ない方がいいと思います」
蒼真が言うと、評価責任者が顔を上げた。
「検証としては困ります」
「現場としては、その方がいいです」
「それは、そうですが」
会議室に僅かな笑いが起きた。
神代は笑わなかったが、否定もしなかった。
*
午前の最後に、制度の継続について話し合われた。
現場支援隊員と支援機を復興現場へ配置したことで、作業中断の判断、退避誘導、戦闘部隊到着までの経路維持、取り残された設備班の救助が行われた。
一件だけで制度全体の有効性を断定することはできない。
しかし、少なくとも。
戦闘中隊が到着するまでの空白を、支援隊員が埋められる可能性は確認された。
評価責任者は、次期検証案を表示した。
「今後三か月、第三中隊の橘さんとノストスを、地下作業や大規模解体を伴う復興現場へ優先配置します。敵性反応が出なかった現場も含め、作業中断時間、事故発生率、退避時間、負傷者搬送時間を記録します」
蒼真は資料を読んだ。
「敵性反応が出なくても、検証は続けるんですか」
「むしろ、そちらが本来の目的です。事故や設備故障への効果も確認しなければ、復興現場へ支援機を置く意味を評価できません」
「分かりました」
「ただし、敵性個体が出現した場合は、今回と同様に戦闘中隊到着までの支援を行ってもらいます」
「戦闘はしないんですよね」
「敵性個体の排除は戦闘中隊の任務です。橘さんの任務は、退避と救助、現場維持です」
蒼真は神代を見る。
神代が答えた。
「必要なら防御しろ。追うな」
「分かりました」
「それから」
評価責任者が続ける。
「今回の結果を受け、他中隊でも支援機を運用できるか検討を始めます」
「ノストスを増やすんですか」
「すぐに増やすわけではありません。必要な装備、搭乗者の適性、指揮系統を調べるところから始めます。橘さんには、他の搭乗者でも使える手順を記録してもらいます」
「自分の手順ですか」
「設備班の救助、戦闘部隊との役割分担、牽引装置による退路確保。今回行ったことを、他の人間でも再現できる形へ整理してください」
蒼真は地下での自分の動きを思い出した。
小型二体の進路を塞いだ。
資材昇降口を開けた。
設備班を救助した。
大型個体を牽引した。
一つずつなら、手順として記録できる。
ただ。
なぜ右脚で攻撃を受ける位置を選んだのか。
なぜ大型個体を倒すより、三メートル動かす方が早いと判断したのか。
それを、他の人間が同じ状況で使える形にする方法は分からなかった。
「できる範囲で書きます」
「それで構いません。分からない部分も、そのまま残してください」
神代が言った。
「迷ったことも書け」
「はい」
会議は正午前に終了した。
制度は継続される。
成功したとは。
まだ言われなかった。
蒼真も、成功したとは思っていなかった。
次の現場でも同じように全員が帰れる保証はない。
分かったのは、七分間の空白があること。
そして、その七分間に。
ノストスでできることがあったという事実だけだった。
*
格納庫へ戻ると、ノストスの修理は終わっていた。
右脚と右肩の外装は交換され、傷は残っていない。切れた牽引装置も新品へ替えられていた。
牧野は牽引装置の試験記録を確認しながら、蒼真へ尋ねた。
「検証は続くことになったんですか」
「三か月延長です。復興現場へ優先配置されます」
「戦闘が起きなくても?」
「作業中断や救助への効果を確認するそうです」
「それでしたら、本来の使い方をたくさん試せそうですね」
「本来の使い方?」
「ノストスは支援機ですから。瓦礫を除去して、負傷者や動けなくなった機体を連れて帰る。そのために造られています」
牧野は、交換したばかりの牽引装置へ手を触れた。
「敵を倒すことより、誰かを帰すことの方が多い機体であってほしいです」
「自分もそう思います」
「ただ、今度は交換したその日に切らないでくださいね」
「必要なら使います」
「そうおっしゃると思いました」
牧野は困ったように笑った。
「では、切れない範囲でお願いします」
「それは努力します」
「絶対とは言ってくださらないんですね」
「相手がいるので」
「牽引するのは瓦礫だけにしていただきたいです」
その言葉には。
蒼真も少し笑った。
*
午後。
蒼真は第三中隊の執務室で、検証用の手順書を作り始めた。
最初に書いたのは、西側斜路を維持した時の機体配置だった。
通路幅九メートル。
左側に資材棚と瓦礫。
ノストスを中央から右へ一・八メートル寄せる。
左補助アームを床から〇・六メートルの高さへ展開する。
右脚を外へ出し、斜路へ通じる幅を狭める。
そこまでは記録できる。
次に、防御砲を使わなかった理由を書く。
地下通路での跳弾。
退避中の作業員との距離。
発射後に姿勢を戻すまでの時間。
一体を撃破するより、二体の進路を同時に塞ぐ方が斜路を維持できる可能性が高かった。
ここも文章にできた。
しかし。
攻撃を右脚外装で受けた時の判断を、他の搭乗者が使える手順にすることは難しかった。
《敵の攻撃を、駆動部へ影響しない場所で受ける》
そう書くことはできる。
けれど、どの攻撃を避け、どの攻撃を受けるべきなのかは、その場の位置と敵の動きによって変わる。
受けられると思っても、僅かに角度が違えば駆動部を壊すかもしれない。完全に避けることで、味方や民間人に攻撃を向ける可能性もある。
蒼真は何度か文章を書き直した末、次のように記録した。
《完全回避後の敵攻撃軌道を確認し、後方の救助対象または味方機へ危険が及ぶ場合、機体機能を維持できる部位による受傷を選択肢とする。ただし、判断の再現性は未確認であり、標準手順への採用は推奨しない》
隣の席から画面を見ていた安西が言った。
「長いな」
「短くすると、受けてもいいように読めます」
「実際、受けただろ」
「いつでも受けていいわけではありません」
「なら、避けろでいいんじゃないか」
「避けると、安西さんの右脚へ当たっていました」
「そうだったな」
安西は少し考えた。
「じゃあ、俺が最初から右脚を傷めなければよかった」
「それは別の検証です」
「厳しいな」
「事実なので」
安西は笑いながら、自分の端末へ戻った。
しばらくして、神代が執務室へ入ってきた。
「進んでいるか」
「一応」
「どこで止まった」
「大型個体を牽引した判断です」
「何が分からない」
「他の搭乗者が、同じ状況で使える条件です」
神代は蒼真の手順書を読んだ。
「支柱の破断予測。大型個体の推定重量。牽引装置の最大荷重。必要移動距離三メートル。条件は書いてある」
「その条件が揃えば、誰でも同じ判断をするでしょうか」
「しないかもしれない」
「なら、手順にならないと思います」
神代は少し考えた後、蒼真の隣の椅子へ座った。
「お前は、なぜ排除ではなく牽引を選んだ」
「全機が帰るために、大型個体を倒す必要がなかったからです」
「それを書け」
「理由としてですか」
「手順は動作だけではない。何を優先するかがなければ、同じ情報を見ても判断は変わる」
蒼真は入力欄へ、新しい項目を追加した。
《目的》
その下へ。
《敵性個体の撃破ではなく、第三中隊全機の退路確保を優先する》
と入力する。
手順書に目的を書くことは、当たり前のように思えた。
それでも。
蒼真は動作と数値ばかりを記録し、最も単純な部分を書いていなかった。
「これでいいですか」
「今はな」
「今は?」
「次の現場では、別の方法が必要になる」
「手順書なのに?」
「現場は同じ形にならない」
神代は立ち上がった。
「だから、判断する人間がいる」
支援隊員。
その言葉が。
少しだけ重くなった。
*
帰宅したのは、午後六時四十分だった。
予定より十分遅れたが、美咲へ連絡するほどではなかった。
玄関を開けると、昴が床へ座り、複数の玩具を紐で繋いでいた。先頭にあるのは紙のノストスで、その後ろには作業機、車、動物の人形、正体の分からない丸い玩具が並んでいる。
「ただいま」
「おかえり!」
昴は立ち上がろうとして、玩具を繋いでいる紐へ足を引っかけた。
蒼真が鞄を置き、転ぶ前に身体を支える。
「危ないよ」
「だいじょうぶ!」
「転びそうだったでしょ」
「ころんでない」
以前。
風呂でも似たことを言われた。
走る前に止められたから、走っていない。
転ぶ前に支えられたから、転んでいない。
間違ってはいない。
「何してたの?」
「みんな、かえる!」
紙のノストスを先頭にして、後ろの玩具を居間まで引いていくつもりらしい。
「こんなに引ける?」
「ひける!」
「途中で絡まると思うよ」
「からまらない!」
すでに。
かなり絡まっている。
美咲が台所から出てきた。
「おかえり」
「ただいま。これ、ずっとやってたの?」
「夕方から。何でも繋ごうとするから、椅子は駄目って言った」
「椅子も引こうとしたんだ」
「本棚にも紐を結ぼうとした」
「それは止めて」
「止めたよ」
昴は大人たちの心配を気にせず、紙のノストスの紐を引いた。
一番後ろにある丸い玩具が、机の脚へ引っかかる。昴がさらに強く引くと、途中の車が横転した。
「ほら、止まった」
蒼真が言う。
「のすとす、がんばる!」
「頑張っても、引っかかってるよ」
「ひっぱる!」
「先に、引っかかったものを直した方がいいよ」
昴は紐を引くのをやめ、列の後ろへ回った。丸い玩具を机の脚から外し、横転した車も元へ戻す。
それから先頭へ戻り、もう一度紐を引いた。
今度は。
全部の玩具が動いた。
「できた!」
「できたね」
昴は嬉しそうに笑い、玩具の列を居間へ引いていった。
蒼真は、その後ろ姿を見た。
力があっても。
引っかかったままでは。
帰れない。
先に道を直す。
今日作った手順書より。
昴の遊びの方が。
分かりやすい気がした。
「蒼真」
美咲が呼ぶ。
「何?」
「着替えてきて。夕飯にするから」
「うん」
「今日は何かあった?」
「会議が長かった」
「それだけ?」
「手順書を作ることになった」
美咲は、それ以上は聞かなかった。
「大変そう?」
「少し」
「なら、先にご飯食べて」
「分かった」
食卓では、結衣が端末を伏せた。
「お父さん」
「何?」
「将来の仕事って、どうやって決めた?」
「学校の課題?」
「何で分かったの」
「端末に《職業調査》って書いてある」
結衣は画面を手で隠した。
「見ないでよ」
「見えたから」
「平岡がワーカーって書くって言ってる」
「そう」
「私は、まだ決めてない」
「決めなくていいんじゃない?」
「課題だから書かないといけないの」
「今興味がある仕事を書けば?」
「分からない」
「なら、分からない理由を書いたら?」
「それでいいの?」
「先生に聞いて」
「お父さん、すぐ逃げるよね」
「学校の課題は、専門外だから」
結衣は不満そうだったが、少し笑っていた。
美咲が料理を運んでくる。
昴は紙のノストスを食卓の脇へ置き、その後ろに繋いだ玩具を一つずつ並べ始めた。
仕事の話は、そこで終わった。
夕飯の献立。
結衣の課題。
昴が玩具をどこへ置くか。
明日の天気。
洗濯物。
家では。
そちらの方が長かった。
*
夜。
日記。
---
六月二日。
五月二十六日の現場について、支援隊員制度の中間評価が行われた。
第三中隊が現場へ到着するまで、七分十二秒かかっていた。戦闘中隊として遅いわけではないが、その間も現場では退避と救助を続けなければならない。
管理局の解析では、支援隊員がいなければ四名から十一名の負傷者が出た可能性があるとされた。ただし、実際に起きていないことなので、自分がその人数を助けたとは記録しないことになった。
三か月間、実証運用を継続することが決まった。敵性個体が出現しない現場でも、作業中断、事故、退避、救助への効果を記録する。他の部隊でも支援機を運用できるか検討するため、今回の行動を手順書にすることになった。
動作と数値は記録できる。しかし、同じ状況で誰もが同じ判断をするかは分からない。
神代隊長から、何を優先したのかも書くよう言われた。
大型個体を牽引した目的は、敵を倒すことではなく、第三中隊全機の退路を作ることだった。
家では、昴が紙のノストスにたくさんの玩具を繋いでいた。途中で紐が机へ引っかかったが、無理に引かず、先に引っかかった玩具を直した。その後、全部を居間まで運んだ。
手順書より分かりやすかった。
以上。
---
日記を閉じた後、蒼真は今日作った手順書を思い出した。
戦闘中隊が到着するまでの七分間。
その時間をなくすことはできない。
基地を現場の隣へ置くことも、モンスターが出現する場所を先に知ることもできないからだ。
それでも。
七分間にできることはある。
作業を止める。
人を退避させる。
帰る道を残す。
戦闘中隊が到着すれば、敵を任せる。
取り残された人がいれば、迎えに行く。
味方の帰る道がなければ、作る。
一つずつなら。
自分だけにしかできないことではない。
蒼真は、そう思っていた。
誰でも使える手順にできれば。
別の現場でも。
帰れる人を増やせるかもしれない。
その考えが正しいのか。
まだ。
分からない。
寝室へ入ると、美咲はすでに眠っていた。
昴も自分の布団で眠っている。
今夜は蒼真のところへ来ていない。
少し寂しいと思いながら布団へ入ると、胸元へ何かが当たった。
枕の横に、紙のノストスが置かれている。
背中の紐には。
小さな車が一台だけ繋がっていた。
昴は来なかったが。
ノストスが。
代わりに来たらしい。
蒼真は紙の機体を潰さないよう、枕元へ置き直した。
そして。
少し笑ってから。
目を閉じた。
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また、いいね。評価もしていただけたら執筆の励みになりますので、よろしくお願いします。
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よろしくお願いします。




