第二十九話 帰るまでが休息
五月四日。
蒼真が目を覚ますと、右腕が動かなかった。
痺れているわけではない。昴が枕にしていた。
夜中に自分の布団を抜け出したらしく、昴は蒼真の腕へ頭を乗せ、身体を横向きに丸めていた。片手は寝間着の胸元を掴み、片足は蒼真の腹へ置かれている。これでよく眠れるものだと思うが、本人の寝息は穏やかだった。
布団を一枚挟んだ向こうでは、結衣が美咲の掛け布団を半分奪っている。美咲は残された端だけを肩へ掛け、少し窮屈そうに身体を丸めていた。
家でも旅館でも、寝相までは変わらないらしい。
蒼真は昴を起こさないよう、頭の下から腕を抜こうとした。少し動かしただけで胸元を掴む指に力が入り、昴が目を閉じたまま呟いた。
「……いかないで」
「行かないよ」
小さな声で答えると、指の力が少し緩んだ。それでも腕から降りる様子はない。
もう一度眠ろうかと思い、枕元の時計を確認した。午前六時十二分。朝食は七時半からなので、眠り直すには中途半端な時間だった。
蒼真が迷っている間に、昴が薄く目を開けた。
「ぱぱ」
「おはよう」
「どこ、いく?」
「どこにも行かないよ」
「おふろ?」
どうしてそうなるのかは分からなかったが、昴は昨日の大浴場をすっかり気に入ったらしい。眠そうだった目が少しずつ開き、蒼真の腕を枕にしたまま期待するように見上げてくる。
「まだ朝早いよ」
「おっきい、おふろ、あいてる?」
「多分、開いてると思うけど」
「いく」
「お母さんたちは寝てるよ」
「しずかに、いく」
昴は人差し指を口へ当てた。
静かにすれば行ってもよいという話ではなかったのだが、本人はもう行くつもりになっている。蒼真が身体を起こすと、昴もすぐに布団から抜け出した。
その気配に気づいたのか、美咲が目を開けた。
「どこ行くの?」
「昴が朝風呂へ行きたいって」
「二人で?」
「自分も数に入ってるらしい」
美咲は眠そうな顔で昴を見た。
「お父さんの言うこと、ちゃんと聞くのよ」
「きく!」
朝六時とは思えないほど元気な返事だった。
美咲はその返事を信用しなかった。今度は蒼真へ目を向け、昴が昨日、浴場で何をしたのかを一つずつ確認するように言った。
「走らせないでね。露天風呂の縁にも上らせないで。桶を頭に乗せたまま歩かせるのも駄目だから」
「あれは自分がやらせたんじゃないよ」
「分かってる。でも、ちょっと面白かった」
「なら、止めてほしかった」
「写真に撮れなかったのが残念だった」
親としての立場より、母親としての記憶を優先したらしい。
蒼真は着替えを持ち、昴と一緒に部屋を出た。廊下へ出る時、昴は約束どおり大きな声を出さなかった。しかし、静かに早歩きをしている。走ってはいないという本人なりの工夫なのだろう。
止めるべきか少し迷った末、蒼真は昴の手を握った。
*
朝の大浴場には、昨日の夕方ほど人がいなかった。
高い窓から朝日が差し込み、湯気の向こうで白く霞んでいる。広い内湯には数人が浸かっているだけで、洗い場にも空きが多かった。露天風呂へ続く扉の向こうから、冷たい風が時折流れ込んでくる。
浴場へ入った途端、昴の足が速くなった。
蒼真は肩を掴み、その場で止めた。
「走らない」
「はしってない」
「走ろうとしたでしょ」
「まだ、はしってない」
走る前に止めたのだから、走ってはいない。それが昴の主張らしい。
間違ってはいないため、余計に困る。
「走ろうとするのも駄目。床が濡れてるから、転ぶよ」
蒼真が床を指差して説明すると、昴は足元を見た。何かを確かめるように爪先で床へ触れ、それから慎重に歩き始める。理由まで話せば、一応は理解するらしい。
洗い場へ座らせると、昴は自分で身体を洗うと言い張った。石鹼を渡すと目に入れそうなので、蒼真が泡立てたタオルを持たせてみる。昴は腹を何度か擦り、両腕を洗ったところで満足した。
「せなか」
「とどかない」
「じゃあ、お父さんが洗うね」
昴は素直に背中を向けた。身体を洗う間は大人しくしていたのだが、頭を洗おうとした途端、椅子から立ち上がった。
「かみは、いい!」
「良くないよ」
「きのう、あらった!」
「昨日から汗かいたでしょ」
「あせ、ない!」
「水族館であれだけ走ったのに?」
昨日の自分の行動を思い出したのか、昴は一瞬だけ黙った。それでも頭を洗われるのは嫌らしく、逃げようとして足を滑らせかけた。
蒼真は慌てて身体を抱き留めた。
石鹼のついた身体は普段より滑る。腕の中で昴が抵抗するたび、落とさないよう力を入れなければならなかった。
その様子を近くで見ていた年配の男性が、声を立てずに笑った。
「元気だねえ」
「元気すぎます」
「一緒に入れるのは今だけだよ。大きくなったら、父親とは風呂にも入りたがらなくなる」
男性はそう言って、少し離れた湯船にいる中学生くらいの少年へ目を向けた。少年は聞こえているはずなのに、気づかないふりをして顔を背けている。
それでも父親と一緒に朝風呂へ来ているのだから、本当に嫌というわけではないのだろう。
蒼真は腕の中にいる昴を見た。
今は、一人にすればどこへ行くか分からない。風呂へ行くにも、眠るにも、蒼真の身体のどこかへ触れていたがる。
いつか。
自分から離れる時が来る。
それは当然で、そうならなければ困る。
分かっていても、少し寂しいと思った。
「ほら、頭を洗ったらお風呂へ入ろう」
そう言うと、昴はようやく抵抗をやめた。目へ泡が入らないよう慎重に洗い流し、浴槽へ連れていく。
今度は走らなかった。ただ、歩幅が小さいだけでかなり速い。
「それも危ないよ」
「はしってない!」
先ほどの説明は、早歩きにまでは適用されなかったらしい。
湯船へ入ると、昴はようやく落ち着いた。蒼真の膝へ座り、両手で湯を掬っては、指の間から流れ落ちるのを眺めている。
露天風呂から吹き込む風が、火照った顔に心地よかった。
「おうちの、おふろ、ちいさいね」
「ここよりは小さいね」
「おっきくする?」
「家が全部お風呂になるから無理だよ」
昨日も同じことを話したはずだった。
昴は少し考え、両手を広げた。
「じゃあ、ちょっと、おっきくする」
全部が駄目なら、少しだけならよいと思ったらしい。
「それなら考えておくよ」
実際に風呂を広げる予定はなかったが、昴は満足そうに笑った。
仕事なら、一度伝えた指示を守らない人間には、もう少し強く注意する。理由を理解していなければ説明するが、同じ危険を何度も繰り返すことまでは許さない。
昴には何度でも言う。
まだ二歳で、危ないことを覚えている途中だからだ。
一度で理解できないことを、蒼真も分かっている。
そこまで考えたところで、昴が湯船の縁へ両手をかけた。
「上っちゃ駄目だよ」
「まだ、のぼってない」
今日だけで、何度同じ問答をすることになるのだろう。
それでも蒼真は理由を説明し、昴を膝へ戻した。
今は仕事のことより、こちらの方が大事だった。
*
部屋へ戻ると、結衣が布団の上に座っていた。
髪は片側だけ大きく跳ね、まだ半分眠っている。美咲はすでに着替えを終え、鏡の前で髪を整えていた。
「朝からお風呂へ行ったの?」
結衣が欠伸をしながら聞いた。
「おっきい、おふろ!」
昴が両腕を広げる。
「いいなあ。私も行こうかな」
「朝食の後だと混むかもよ」
美咲に言われ、結衣は壁の時計を見た。
朝食まで三十分もない。
入浴のために急いで準備するほどの気力はなかったらしく、結衣はあっさり諦めた。
「じゃあいい」
「諦めるの早いね」
「お腹空いたから」
蒼真は浴衣を着直し、腰の帯を結んだ。昴を追いかけながら急いで着たため、結び目が少し横へずれている。
結衣はそれを見逃さなかった。
「お父さん、帯が曲がってる」
「取れなければ大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。ちょっと立って」
まだ自分の髪も直していないのに、結衣は蒼真の前へ来て帯を解いた。美咲と同じように、蒼真が動くたび「動かないで」と注意しながら結び直していく。
「少し苦しい」
「お父さんが動くからでしょ」
「美咲と同じこと言うね」
「誰の子だと思ってるの」
結衣は帯の位置を確かめ、満足そうに手を離した。
「はい。これでいい」
「ありがとう」
「これくらい自分でできるようになりなよ。平岡には蝶々結びができるか聞いてたくせに」
「これは蝶々結びじゃないよ」
「そういう問題じゃない」
美咲が鏡越しに二人を見て笑っている。
「結衣。お父さんの帯より、自分の髪を直した方がいいと思うよ」
「何で?」
結衣が鏡を見る。
片側だけ大きく跳ねた髪を見て、眠そうだった目が一気に開いた。
「何これ!」
「起きた時からそうだったよ」
「言ってよ!」
「鏡を見れば気づくと思って」
結衣が慌てて洗面所へ向かうと、昴が後を追った。
「ねえね、あたま、へん!」
「今は言わなくていい!」
旅館へ泊まっていても、朝の騒がしさは家と変わらなかった。
*
朝食会場には、焼き魚と味噌汁の匂いが広がっていた。
和食を中心に、卵料理やパン、果物などが並んでいる。宿泊客はそれぞれ盆を持ち、料理の前をゆっくり進んでいた。
昴は自分も盆を持つと言い張ったが、一人で持たせれば途中で傾けるのが目に見えている。蒼真は小さな盆を一つ取り、端を昴に持たせて一緒に料理を選んだ。
「何を食べる?」
「たまご」
「卵焼きね。他は?」
昴は焼き魚を指差した。
「これ」
「魚も食べる?」
「いらない」
「今、これって言ったよね」
「これ、なに?」
「焼き魚」
「じゃあ、いらない」
知らずに指しただけらしい。
旅館へ来たのだから和食を選ぶかと思ったが、昴の皿に乗ったのは卵焼き、ウインナー、パン、ヨーグルトだった。家の朝食とほとんど変わらない。
席へ戻ろうとしたところで、昴が立ち止まった。
「あ」
指差した先に、平岡直哉がいた。
母親の美穂と並んで料理を選んでいる。すでに普段着へ着替えており、直哉の盆には焼き魚や味噌汁が綺麗に並んでいた。
「なお!」
昴が呼ぶ。
直哉が振り向き、自分を指差した。
「なおって、俺?」
「昨日、名前を覚えたんだと思う」
「直哉ですけど」
「二歳だから」
昴はもう一度、嬉しそうに呼んだ。
「なお!」
「……何?」
「ちっさい?」
「お前より大きいよ!」
昨日の会話を覚えていたらしい。昴は直哉の反応を見て満足そうに笑っている。
そこへ料理を取り終えた結衣が来た。直哉の姿を見つけた途端、分かりやすく嫌そうな顔をする。
「またいる」
「同じ旅館なんだからいるだろ」
「分かってるよ」
「分かってるなら言うなよ」
「言いたかっただけ」
言い争いが始まると、美穂と美咲もやって来た。朝食の席は別々だったが、料理を取っている間だけ、二家族が通路の一角へ集まった。
直哉は味噌汁を盆へ乗せた後、少し迷うように蒼真を見た。
「橘さん。昨日のことなんですけど」
「適性試験?」
「そうです」
「蝶々結び?」
その言葉に結衣がすぐ反応した。
「何? 平岡、できなかったの?」
「できるって言っただろ。俺は、本当に試験でやるのか聞きたいだけだよ」
「本当にやるよ」
蒼真が答えても、直哉はまだ疑っていた。
巨大なフレームワーカーを操縦するための試験と、靴紐を結ぶ動作が、どうしても繋がらないのだろう。
蒼真は説明しようとして、直哉の足元に気づいた。
運動靴の紐が、左右の長さまで揃えて綺麗に結ばれている。
「上手に結べてるね」
直哉は反射的に片足を引いた。
結衣もその靴を見る。
「昨日より綺麗じゃない?」
「昨日、俺の靴なんか見てないだろ!」
「部屋で練習したんだ」
「してない!」
直哉の声が思った以上に響き、周囲の客が少しだけこちらを見た。
美穂は困ったように笑いながら、息子の秘密をあっさり明かした。
「部屋へ戻ってから、何度か結び直してたわね」
「母さん!」
「適性試験が気になったんでしょ?」
「あれは練習じゃなくて確認!」
結衣が吹き出す。
「何が違うの?」
「全然違う! 普段からできるけど、昨日はたまたま少し緩かっただけで……」
「でも、これだけ綺麗に結べれば大丈夫だよ」
蒼真が言うと、直哉は言葉を止めた。怒った顔のまま自分の足元を見下ろしている。
「これなら、試験に通りますか」
「蝶々結びのところはね」
「他にもあるんですよね?」
「たくさんあるよ。左右の手で別の作業をしたり、動くものを目で追いながら別の合図へ反応したり」
「そういうのですよ!」
直哉が顔を上げた。
「俺が聞きたかったのは、そういう試験です!」
「蝶々結びも細かな動作を見るための試験だから、同じだよ」
「最初に説明してください!」
「昨日は聞かれなかったから」
「お父さん、そういうところだよ」
結衣は笑っていたが、直哉は納得できない顔をしている。
二人の言い合いが再開しそうになったところで、美穂が直哉の背中を押した。
「後ろが詰まってるから、続きは席へ着いてからにしなさい」
実際、蒼真たちは通路を少し塞いでいた。二家族はそれぞれの席へ戻り、少し離れた場所で朝食を取ることになった。
昴がパンを千切りながら、蒼真へ聞いた。
「ちょうちょ、すばるも、できる?」
「昴にはまだ難しいと思うよ」
「できる!」
「じゃあ、家へ帰ったらやってみようか」
昴は元気よく頷いた。
遠くの席では、結衣が直哉の靴を指差して何かを言っている。直哉もすぐに言い返していた。声までは聞こえないが、話の内容は大体想像できた。
蒼真がその様子を見ていると、美咲が向かいから聞いた。
「何を笑ってるの?」
「やっぱり仲がいいと思って」
「本人たちには言わないでね」
「怒るから?」
「多分、余計に意識するから」
蒼真には、その違いがよく分からなかった。
*
旅館を出る時、平岡親子とはロビーで一緒になった。
美咲と美穂がそれぞれ会計をしている間、結衣と直哉は玄関脇で待っていた。隣に立っているのに、朝食会場であれだけ言い合っていた二人が、今は互いに話そうとしない。
別れが近づいたせいかもしれない。
結衣は靴の爪先で床を軽く擦った後、先に口を開いた。
「今日、どこへ行くの?」
「母さんが神社へ行きたいって。そっちは?」
「海浜公園。お昼を食べたら帰る」
「ふうん」
会話はそこで途切れた。
直哉は玄関の外を見ている。結衣も壁に掛けられた絵へ目を向けたが、特に興味があるようには見えない。
しばらくして、結衣がもう一度聞いた。
「平岡。本当にワーカーになるの?」
「なるよ」
今度の直哉は、迷わず答えた。
「どうして?」
「昨日も言っただろ」
「なりたいって言っただけで、理由は聞いてない」
直哉はすぐには答えなかった。
受付にいる美穂を一度だけ見てから、結衣へ向き直る。
「父さんみたいな人を減らしたいから」
「モンスターを倒して?」
「そうだよ」
「全部?」
結衣の声は、いつもの言い争いより静かだった。
直哉の眉が寄る。
「またその話かよ」
「全部倒したら、被害がなくなるのかなと思って」
「なくなるだろ。モンスターが人を襲うから、父さんだって死んだんだ」
直哉の声に、少しずつ苛立ちが混じっていく。
「結衣のお父さんだって、この前戦ったんだろ。だったら危ないって分かるはずだ」
結衣は少し離れた場所にいる蒼真を見た。
蒼真は昴の靴を履かせながら、二人の会話を聞いていた。聞かないふりをするには近すぎたが、今すぐ口を挟むべきなのかは分からなかった。
「危ないのは分かるよ」
結衣が答える。
「でも、全部が同じなのかは分からない」
「同じだよ」
「本当に?」
「じゃあ、結衣は襲われても同じことが言えるのかよ」
直哉の声が大きくなった。
受付にいた美穂が振り返る。けれど、すぐには止めなかった。
結衣も目を逸らさなかった。
「分からない」
「またそれかよ。結衣はいつもそうだ」
「分からないものは分からないよ。平岡は、分からないのにすぐ決めるじゃん」
「決まってるからだよ!」
「何が!」
周囲の宿泊客が二人を見る。
そこで蒼真は声をかけた。
「二人とも、少し声を落として」
大声を出したつもりはない。それでも二人の言い合いは止まった。
直哉が先に頭を下げる。
「すみません」
「ごめんなさい」
結衣も続いた。
「話すなとは言ってないよ。ただ、ここには他の人もいるから」
蒼真は昴を立たせ、自分も腰を上げた。
直哉は少し迷うように蒼真を見た。
「橘さんは、どう思うんですか」
「何を?」
「モンスターです。全部倒した方がいいと思いますか」
簡単に答えられる質問ではなかった。
蒼真は現場で見たモンスターを思い出した。
作業区域へ侵入し、人へ襲いかかった個体。安西の機体へ組み付き、ノストスへ爪を振るった個体。あの場では止めなければならなかった。迷っていれば、誰かが負傷していたかもしれない。
だからといって、自分がすべてのモンスターを知っているわけではない。
「目の前で人を襲うなら、止めるよ。他に方法がなければ倒す」
蒼真が答えると、直哉はすぐに聞き返した。
「だったら、全部倒した方がいいんじゃないですか」
「会ったことのないものまで、全部同じだとはまだ言えない」
「それじゃ、結衣と同じじゃないですか」
「親子だからね」
「そこ?」
結衣が困ったような声を出した。
直哉も納得していない。しかし、先ほどまでの怒りは少しだけ弱まっていた。
「平岡君が、全部同じだと思う理由は分かるつもりだよ」
「分かるんですか」
その問いには、刺すような強さがあった。
「お父さんをモンスターに殺されたことが?」
蒼真は自分の言葉を振り返った。
分かるつもり。
それは直哉にとって、あまりにも簡単な言葉だったのかもしれない。
「全部は分からない」
「だったら、分かるって言わないでください」
「そうだね。ごめん」
直哉が少し驚いたように蒼真を見る。言い返されると思っていたのかもしれない。
「分かったつもりにはならないよ」
直哉は黙り、自分の足元へ目を落とした。
綺麗に結ばれた靴紐がある。
「俺がワーカーになりたいって言うと、みんな同じことを言うんです」
しばらくして、直哉が小さな声で言った。
「お父さんの仇を討ちたいだけじゃ駄目だって。でも、それで頑張れるなら、いいだろって思う。何で駄目なんですか」
美穂の表情が少し変わった。
彼女も同じことを言ったことがあるのだろう。
昨日の夜、美咲が話していた。
いつか、父親を殺されたこと以外にも、ワーカーになりたい理由ができるといい。
美咲は直哉の気持ちを否定したわけではない。それだけを理由に生き続けることが、苦しいのではないかと心配したのだ。
「駄目だとは思わないよ」
蒼真が答えると、直哉が顔を上げた。
「本当ですか」
「うん。ただ、それだけじゃなくなってもいいと思う」
「どういう意味ですか」
「今はお父さんのことが理由でもいい。これから別の理由が増えてもいいし、ワーカーになりたくなくなってもいい」
「俺は変わりません」
直哉はすぐに言った。
「そうかもしれない。でも、今決めたことに、これからずっと縛られなくてもいいよ」
直哉は納得していなかった。
けれど、今ここで納得させる必要はない。
適性試験を受けられる年齢になるまで、まだ時間がある。その間に考えが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。どちらであっても、自分で選べばいい。
「時間はあるから、ゆっくり考えればいいよ」
「蝶々結び以外も?」
「それも含めて」
直哉が少しだけ顔をしかめた。
結衣は笑いそうになったが、今度は堪えた。
美穂が直哉の隣へ来る。
「ありがとうございました。この子、頑固だから」
「母さん」
「自分でも分かってるでしょ?」
直哉は結衣を見る。
結衣も直哉を見返した。
「知ってる」
「お前も同じだろ」
「私は違う」
「同じだよ」
二人はすぐに、いつもの調子へ戻った。
美穂と美咲が顔を見合わせて笑う。
別れ際、昴が直哉へ手を振った。
「なお、ばいばい!」
「ばいばい」
直哉も手を上げた。
「ちっさいのも元気でな」
「ちっさくない!」
「分かった、分かった」
直哉は少し笑った。
結衣はその横を何も言わずに通り過ぎようとしたが、直哉に呼び止められた。
「結衣」
「何?」
「また学校で」
「学校では喧嘩しないでよ」
「お前が言うな」
「じゃあね」
「おう」
それだけだった。
平岡親子の車が旅館を出ると、結衣は見えなくなるまで後ろ姿を目で追っていた。
「やっぱり仲いいね」
蒼真が言う。
結衣は振り返り、呆れたように息を吐いた。
「お父さん、しつこい」
けれど。
怒ってはいなかった。
*
海浜公園には、広い芝生と小さな砂浜があった。
連休中だけあって家族連れは多いが、昨日の水族館ほど混雑してはいない。芝生では子供たちがボールを追いかけ、その先では穏やかな波が砂浜へ寄せていた。
車を降りた昴は、海を見つけた瞬間に走り出した。
蒼真もすぐ後を追う。
「走らない!」
「うみ!」
「海は逃げないよ!」
「にげるよ!」
波が沖へ引いていくのを見ているらしい。
昴は波を追いかけ、そのまま水へ入ろうとした。蒼真は後ろから服を掴み、どうにか波打ち際で止めた。
「そっちは深くなるから、勝手に行かない」
「だいじょうぶ!」
「大丈夫じゃないよ。まだ水も冷たいから」
昴はその場へしゃがみ込み、手で海水へ触れた。予想以上に冷たかったらしく、すぐに手を引っ込める。
「つめたい」
「言ったでしょ」
「でも、はいる」
自分で確認した意味がなかった。
結局、靴と靴下を脱がせ、蒼真が手を握った状態で足だけ海へ入ることになった。
波が来るたび、昴は嬉しそうに声を上げる。引いていく波を追いかけ、戻ってくれば逃げる。夢中になると、繋いでいる手を振りほどこうとするため、蒼真は一瞬も気を抜けなかった。
少し離れた芝生では、美咲と結衣がシートを広げている。
二人ともこちらを見ているが、助けに来る気配はない。
「見てないで手伝って!」
蒼真が呼ぶと、美咲は笑顔で手を振った。
「ちゃんと見てるよ!」
「そういう意味じゃない!」
「お父さん、頑張って!」
結衣まで楽しそうに応援している。
昨日、水族館で言われた言葉を思い出す。
「自分の休暇は?」
「父親に休暇はないって、昨日教わったでしょ!」
覚えなくていいことばかり、よく覚えている。
それでも。
昴が波から逃げながら笑うと、蒼真もつられて笑った。
身体は疲れている。
休めているとも思えない。
けれど。
仕事の疲れ方とは違っていた。
*
昼食は、公園の近くにある食堂へ入った。
海でたくさん遊んだ昴は、子供用のカレーをほとんど一人で食べた。結衣は海鮮丼、美咲は焼き魚の定食を選び、蒼真も同じ焼き魚を注文した。
料理が届いてから、朝食も焼き魚だったことを思い出した。
「変える?」
美咲が聞く。
「好きだからいいよ」
「本当に魚が好きだね」
「昨日の朝も魚だったよね」
結衣が言う。
「旅館だから」
「今日の朝も魚だった」
「旅館だから」
「今は旅館じゃないよ」
「海の近くだから」
「理由が増えた」
結衣が笑った。
食事を終えた後、昴が美咲と手を洗いに行った。
二人きりになったところで、結衣が水を飲みながら何気ない声で言った。
「平岡、本気なのかな」
「ワーカーになること?」
「うん」
「本気だと思うよ」
「お父さんは、なってほしい?」
「自分が決めることじゃないよ」
「そういう意味じゃなくて」
結衣は言葉を探すように、グラスの中の氷をストローで動かした。
「平岡がワーカーになったら、嫌?」
「嫌ではないよ。でも、心配はすると思う」
「危ないから?」
「うん」
「それでも止めない?」
「結衣は止めたい?」
問い返されるとは思っていなかったのか、結衣は黙った。
少し考えてから、小さく答える。
「分からない」
「そう」
「また、分からないままでいいって言う?」
結衣は少し不満そうだった。
「分からないって、逃げてるみたいじゃない?」
以前よりも。
答えを出せないことに悩むようになっている。
中学生になったからか。
直哉とモンスターについて話すようになったからか。
あるいは、父親が実際にモンスターと戦ったと知ったからなのかもしれない。
「分からないまま考えないなら、逃げていることもあると思う」
蒼真は答えた。
「でも、考えても分からないなら、まだ答えが出ていないだけだよ」
「お父さんも分からないことある?」
「たくさんあるよ」
「仕事でも?」
「仕事だから、分からないでは済まないこともあるけどね」
「そういう時はどうするの?」
「今ある情報で決める」
「間違ったら?」
「どうして間違えたのかを記録して、次に同じ間違いをしないようにする」
「それでも、また間違ったら?」
「もう一度考える」
結衣は、ますます面倒そうな顔になった。
「ずっと終わらないじゃん」
「多分、終わらないよ」
「面倒」
「うん」
「お父さん、よくそんな仕事してるね」
「仕事だから」
いつもの答えだった。
結衣は眉を寄せたが、すぐに少し笑った。
「結局、それ言うんだ」
「他に答えがないから」
「でも、分からないって言ってもいいんだ」
「家ではね」
「学校では?」
「先生に聞いて」
「ずるい」
「専門外だから」
そこへ、美咲と昴が戻ってきた。
昴は手を洗いに行ったはずなのに、胸元まで濡れている。
「どうしたの?」
「手を洗うついでに、顔も洗おうとしたの」
美咲は呆れていたが、昴は満足そうだった。
「すっきりした!」
昴が何を考えたのか、蒼真には分からない。
けれど。
今すぐ分からなくても、誰も困らない。
蒼真はハンカチを取り出し、昴の服についた水を拭いた。
*
午後二時を過ぎた頃、四人は帰路についた。
車が走り始めて十分もしないうちに、昴は眠った。隣に座る結衣も窓へ頭を預け、間もなく目を閉じた。
二人の間には、紙のノストスが置かれている。
昨日と同じ位置だが、昴が眠りながら寄りかかったせいで、片方の腕が少し潰れていた。
「帰ったら直そうかな」
蒼真が言うと、美咲が後部座席を振り返った。
「勝手に直したら怒るかもしれないよ」
「曲がってるのに?」
「本人は気に入ってるかもしれないでしょ。聞いてからにした方がいい」
「そうする」
高速道路へ入ると、反対車線には長い渋滞ができていた。蒼真たちが帰る方向はまだ流れており、予定より早く家へ着けそうだった。
助手席の美咲が、しばらく外を眺めた後で聞いた。
「旅行、楽しかった?」
「楽しかったよ」
「休めた?」
蒼真はすぐには答えなかった。
水族館では昴を追いかけた。イルカの水を浴び、風呂でも走り出す昴を止めた。今朝も朝風呂へ連れていき、海浜公園では波へ向かう昴から一瞬も目を離せなかった。
身体だけなら、普段より疲れている。
「仕事より疲れた」
美咲がゆっくりこちらを向いた。
「蒼真?」
「でも、楽しかったです」
「よろしい」
「答える順番を覚えた」
「次からは最初にそっちを言って」
「順番が大事なの?」
「かなり大事」
「気をつける」
家が近づくにつれ、窓の外には見慣れた建物が増えていく。
復旧工事中の区画。新しく架けられた高架。遠くには、資材を運ぶフレームワーカーが見えた。
仕事中であれば、機体の所属や作業内容が気になったかもしれない。
今日は少し目で追っただけで、そのまま通り過ぎた。
美咲は旅行中に撮った写真を見返している。やがて一枚を選び、蒼真へ端末を向けた。
「これ見て」
信号待ちの間に見る。
イルカショーで水を浴びた直後の写真だった。
髪が顔へ張りつき、服も肩まで濡れている。腕の中に抱かれた昴だけはほとんど濡れておらず、父親を見上げて嬉しそうに笑っていた。
「消して」
「嫌」
「変な顔してる」
「いい写真だよ」
「どこが?」
「ちゃんと、お父さんに見える」
「他の写真でもお父さんでしょ」
「これが一番お父さんらしい」
昴を庇ったのは、隣にいたからだ。
水が来るのが見えたから。
考えるより先に身体が動いた。
四月十四日の現場とは、何もかも違う。
それでも。
同じようなことを考えかけて。
蒼真はやめた。
「結衣にも送るね」
「送らなくていいよ」
「家族の共有領域にも入れておく」
「どうして?」
「記念だから」
美咲は笑いながら写真を保存した。
蒼真には、何がそれほどいいのか分からなかった。
ただ。
消してほしいとは。
もう言わなかった。
*
帰宅したのは、午後四時二十分だった。
一晩空けただけなのに、玄関の扉を開けると家の匂いがした。
昴は眠そうなまま靴を脱ぎ、紙のノストスを抱えて居間へ向かった。
「ただいま」
誰に言ったのかは分からない。
蒼真も玄関へ入りながら、同じように言った。
「ただいま」
結衣は自分の鞄を床へ置き、大きく息を吐いた。
「やっぱり家が落ち着く」
「旅館も良かったでしょ」
美咲が靴を揃えながら言う。
「良かったけど、自分の布団が一番いい」
「今夜は早く寝なさい」
「宿題ある」
「旅行前に終わらせるって言ってなかった?」
「終わらせるつもりだった」
美咲の手が止まった。
「終わってないの?」
「少しだけ」
「どのくらい残ってるの?」
結衣は目を逸らした。
「数学と英語と国語」
「ほとんどじゃない!」
「理科は終わってる!」
「一教科で偉そうにしないの!」
旅館の静かなロビーも、海辺の風も、帰宅した途端に遠くなった。
旅行が終わり、いつもの家へ戻ったのだと感じる。
蒼真が少し笑うと、美咲が振り返った。
「笑ってないで、荷物を片づけて」
「今やろうと思ってた」
「それ、昴の鞄だよ。寝室へ持っていかないでね」
蒼真は手元を見る。
自分の鞄だと思って持っていたが、確かに昴のものだった。
「昴の部屋は?」
「まだないでしょ。居間に置いて」
「分かった」
結衣が笑う。
「お父さん、家に帰ると性能が落ちるね」
「休暇中だから」
「まだ休暇なの?」
「家へ帰るまでが旅行なら、荷物を片づけるまでが旅行だと思う」
「勝手に延ばさないで」
美咲に言われた。
蒼真の休暇は。
荷物を片づけたところで終わるらしい。
*
夜。
日記。
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五月四日。
家族旅行。
二日目。
昴と朝風呂。
走る前に止めた。
走っていないと言われた。
朝食。
平岡君。
蝶々結び。
練習していた。
本人は確認と言った。
旅館の玄関。
結衣と平岡君。
モンスターの話。
平岡君。
ワーカーになる。
父親のような人を減らしたい。
理由。
否定しない。
それだけではなくなってもいい。
変わってもいい。
本人は変わらないと言った。
まだ時間はある。
海浜公園。
昴。
海へ入ろうとする。
何度止めても行く。
結衣。
分からないこと。
逃げているのか。
考えても分からないなら。
まだ答えが出ていない。
帰宅。
旅行。
楽しかった。
仕事より疲れた。
言う順番を間違えた。
次は気をつける。
以上。
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日記を閉じる。
居間では、結衣が宿題をしていた。
残っている分を終わらせるまで寝ないと言っていたが、時刻はすでに午後十時を過ぎている。先ほどから二度、机へ突っ伏していた。
昴は美咲に寝かしつけられた。
蒼真は旅行の荷物を片づけ終え、居間の棚に置かれた紙のノストスを見る。潰れた腕はそのままにしてあった。明日の朝、昴に直していいか聞くつもりだった。
「お父さん」
結衣が呼んだ。
「何?」
「これ、分かる?」
開いた数学の問題集を指している。
蒼真は隣の椅子へ座り、問題を読んだ。分からないほど難しくはなかったが、すぐに答えを教えることはしなかった。
「どこまで分かる?」
「ここまではできた。でも、その次が分からない」
「じゃあ、この式をもう一度見て」
「答えを教えてよ」
「自分で考えた方が覚えるよ」
「平岡には、分からないままでいいって言ったくせに」
「これは答えがある問題だから」
結衣は不満そうな顔をした。
「ずるい。使い分けてる」
「必要だから」
「仕事みたいに言わないで」
「仕事じゃないよ。ほら、ここからもう一度」
蒼真が途中の式を指すと、結衣は欠伸をしながら鉛筆を持った。少しずつ式を書き、途中で一度間違える。消しゴムで消して最初からやり直すと、今度は正しい答えへ辿り着いた。
「できた」
「できたね」
「最初から教えてくれれば、もっと早かったのに」
「自分でできた方がいいでしょ」
「眠い」
「それは宿題を残したからだよ」
「旅行だったから仕方ない」
「旅行へ行く前にも時間はあったよね」
「お父さんまで、お母さんみたいなこと言わないで」
「同じ家にいるからね」
「関係ないし」
結衣はもう一度欠伸をして、次の問題を開いた。
旅行は終わった。
それでも家では、一つの話が終わる前に次の話が始まる。
宿題のこと。
学校のこと。
水族館で撮った写真のこと。
そして時々。
平岡直哉の名前も、家族の会話に出るようになる。
蒼真はそれを、結衣に友達が増えたのだと思っていた。
この時はまだ。
それ以上の変化だとは、考えていなかった。
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